神の圧倒的なあわれみ
NO. 3525
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---- 1916年8月17日、木曜日発行の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
「『サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。』と尋ねた。彼女は答えた。『私の女主人サライのところから逃げているところです」。――創16:8
そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を『あなたはエル・ロイ。』と呼んだ。それは、『ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは。』と彼女が言ったからである」。――創16:13ハガルは、アブラハム一家の中で長年暮らしていた。これは決して小さな恩恵ではなかった。世界中のすべてが異教崇拝の中にあった時に、アブラハムの天幕の中だけでは光が明々と輝いていたのである。アブラハムは、自分個人が《いと高き神》の礼拝者であったばかりでなく、自分の全家が自分にならうことを命じた。そこには、神を礼拝するための家庭集会があったと確信して良いであろう。――この族長は、そうした機会を利用して、戒めと模範の双方により、真の神知識をこの礼拝に集うすべての者たちに教えていたであろう。彼のいた場所は、世界の光の中心であり、彼の周囲はことごとく異教主義という分厚い暗黒であった。だが、見たところハガルは、アブラハムとともに暮らしていた年月の間、また、アブラハムが自分の親族や生まれ故郷から出て行き、約束の地で天幕暮らしをするという信仰を明らかに示していたときでさえ、――私の見るところ、彼女自身はいかなる個人的な召しをも神から受けなかったし、彼女自身の魂には一言も、あわれみの御使いからの言葉がかけられなかったようである。まことにこのことにおいて彼女は、敬虔な家庭の中にある非常に数多くの召使いたち、左様、息子たちや娘たちとさえ似通っている。彼らは光に包まれてはいるが、それを見ることがない。神がお語りになる場所にはいるが、個人的に神から語りかけられたことがない。恵みの手段を享受してはいるが、まだ一度もその手段によって恵みを受けたことがない。――イスラエルのただ中にあって、その国に住んではいるものの、自分本人は寄留者であり、外国人なのである。さて、もしこうした者らの何人かがハガルのように呼びかけを受け、天からの声を聞くことができたとしたら、また、彼女のように二重のことを見いだせるとしたら、それは私たちの中の多くの者らにとって、想像しうる限り最大の喜びとなるであろう。その二重のこととは、神が彼女をご覧になっていたということ、また、彼女が神と接触することができる――彼女をご覧になっていたお方を見ることができるということである。
今回、私があなたの注意をまず向けたいと思うのは、1つの非常に興味深い状況である。すなわち、――
I. 《神が、あわれみ深く介入するために選ばれた、異様な時期》である。
しばし、この点を詳しく考えてみよう。神は魂をお救いになる際に、その主権を現わされる。ご自分がどの魂を救いにお選びになるかということと、いかなる媒介的手段を用いて彼らを召し、また、いかなる精神状態にある際の彼らをあわれみ深くご覧になるかということの双方において、主権を現わされる。
さて、ハガルはこの時、――御使いが彼女を呼んだとき、神の訪れを受けそうもない状態にあったと思われる。そもそも彼女は、その瞬間には、不正を受けたと感じて憤慨していた。彼女は、サラから不当な扱いを受けたと感じていたし、まず間違いなくサラの仕打ちは不当であったに違いない。東方の女主人は、自分のしもべたちに対してしばしば暴君となり、ハガルはほとんど奴隷の状態にあった。疑いもなく、ねたみにかられたこの妻は非常に過酷になった。この女に対して、理不尽に過酷な扱いをした。ここで彼女は、泉のほとりに座り、自分の魂の中で苦い思いを噛みしめていた。良い扱いを受けられると期待していた善人たちの家庭内で、彼女は不正な仕打ちを受けたのである。そんな折にアブラハムの神が彼女に呼びかけることは、ありえなさそうに思われた。彼女の心は、神が礼拝されていた家庭に対する憤りで煮えくり返っていたのである。それと同時に、事の顛末を思い返せば思い返すほど、彼女の魂は彼女の内側で苦々しいものとなっていった。私は、彼女が感じていたことの大半は、彼女が自ら招き寄せたものだと思わざるをえない。彼女は召使いでしかなかったのに、女主人のようにふるまおうと欲したのである。彼女は主人を見下げた。主人に対して馬鹿にしきったような口を利いたに違いない。そして今、そのつけが回ってきたのである。彼女は自分自身の高慢のゆえに苦しめられていた。彼女の高慢で、荒々しい気性は、ことによると、それを認めなかったかもしれない。だがしかし、彼女もその良心の中では、自分の災難のあらかたは、やはり自分で自分に引き寄せたものであったと感じていたに違いない。さて、人がこうした感情のもとにあり、心の大きな動揺と悩みを感じ、千々に心を乱しているとき、それは、神の声が魂に語りかけるのを聞くだろうような時とは思われない。
さらに、その瞬間の彼女は、良いものすべてから離れ去りつつあった。彼女はその一家に、選ばれた一家に背を向けてしまった。――そこから離れてしまった。故意に、とは云わないが、ともあれ離れてしまった。彼女はエジプトに下りつつあった。――「何処へでも、この世の外なら何処へでも」*1行くのだ。奴隷でいるのはもうまっぴらと、自分の嫌悪する土地から離れつつあった。自分がどこへ向かいつつあるか彼女にはほとんど分からなかったが、おそらく自分が異教世界の異教徒たちの間へ向かいつつあることは知っていたであろう。彼女に望みうることは、どう転んでも神からの離別であった。彼女は、自分の前に広がっているのが暗黒の闇であると感じずにはいられなかったが、しゃにむにそこへ突き進みつつあった。彼女の高ぶった霊が、《いと高き方》の威光の前に屈もうとも――ひれ伏そうとも――服従しようともしなかったからである。そこに彼女の姿が見えるような気がする。泣きはらした赤い目をし、旅路の空腹に気もくじかれて、しばし腰を下ろしては元気を回復しようとしている。身を屈めて、戻って行ったりするものかと心を決めてはいる。だが、自分の前に広がっている暗黒にぞっと身震いし、先に行くことを恐れている。このような状態において、神は彼女と出会われたのである。どの点から見ても、彼女は寄る辺ない、落伍した女であった。彼女は、自分が庇護を求めることのできる唯一の天幕を離れ去ってきた。荒野に入り込んでしまっていた。――面倒を見てくれる父もなく、母もなく、兄弟も姉妹もいなかった。彼女は、少しでも自分に関心を持ってくれる人々に背を向けてしまっていた。そして今、彼女はひとりきり、ひとりきり、ひとりきりで砂漠の地にいた。あわれみをかける目も、助けを差し出す手もなかった。そのときこそ、こうした独特の試練と罪の混じり合った状況下においてこそ、神は彼女と出会われたのである。
私は、この聖句について調べていたとき、自分の魂の中でこう思っていた。もしかすると、このタバナクルには、これと似た事情の人が足を踏み入れるかもしれない。もしかすると、たとい御使いが語りかけることはなくとも、人の声が今晩、何人かのあわれな魂にとって、契約の使者の声となるかもしれない、と。私は、あなたの名前も顔も知らない。だが、あなたがどう感じているかはよく分かっている。今晩のあなたはいたく怒りを覚え、非常に向かっ腹を立て、憤慨し、憤っているであろう。あなたは、この世を選び取り、善の見せかけをした一切のものを投げ捨てようと決意を固めている。今晩のあなたは、地上で生きる甲斐のある一切のものを失ってしまっているかもしれない。あなたは死を切望している。昏い川面の上で灯火が揺れている場所を、ほとんど探したいような気がしている。あなたの霊が苦々しさで塗りつぶされ、あなたの希望のともしびが消え失せてしまっているからである。おゝ! だが、もしかすると、今晩こそ、神の強大なあわれみがあなたと出会うべく定められた時かもしれない。主があなたの名前を呼ぶ夜かもしれない。そしてあなたは、主があなたをご存知であること、あなたの陥っている状況、事情をご存知であること、また、あなたをご自分のもとに召そうとやって来られたことを感じとることになるかもしれない。また、あなたが召されることになるのは、ひとえに神が、今のあなたの窮地からあなたを救出し、あなたに救いをもたらそうとして引き寄せられたからかもしれない! 私も、この聖句の中の事情と全く同一の事情を有する誰かがここにいるとは思っていないが、人間の人生において時たま起こるように、人生の転回点は、人が非常な悲しみを覚えるとき、非常に窮乏するとき、または、何らかの巨大な過ちのために精神的な苦悩を覚えるときに訪れることがあるのである、あるいは、魂の前に何らかの恐ろしい選択が突きつけられた時に訪れることがあるのである。それはあたかも、その夜、神か悪魔かを、その夜、天国か地獄かを、その夜、永遠の喜びか永遠の悲惨かを選ばなくてはならないかのように思われる時である。あなたの精神の歴史における、こうした異様な折に、あなたは今晩ここにやって来ている。願わくは、この場におられる神があなたに語りかけてくださるように。異様な時期があわれみの時となるように。さて、第二に私たちが眺めたいのは、――
II. 《このあわれみが形をとったあり方、すなわち、この御使いが彼女に発したいくつかの問い》である。
彼女は泉のほとりに座っている。それは砂漠の中にある。それは、路上の小さな肥沃地であったかもしれない。だが、見渡す限り何者の姿もなく、何らかの隊商がその道を通り過ぎる可能性もなかった。彼女がじっと黙って座っていると、1つの声が聞こえた。「ハガルよ」。彼女はぎくりとして、上を見上げた。すると、太陽のような輝きが彼女の上にあった。真昼の太陽よりも明るく、それは輝いていた。彼女には到底耐えがたい光であった。そして、再び声がした。「サライの女奴隷ハガル」。誰が語っているにせよ、それは彼女が誰であるかも、いかなる身分の者であるかも、彼女に関することは何もかも知っていた。「あなたはどこから来て、どこへ行くのか」。彼女は愕然とした。今まさに彼女は、自分がもといた場所のことを考えつつあり、この陰鬱な問いが彼女の脳裡に浮かび上がりつつあったところだったのである。「あなたはどこへ行くのか?」 彼女は、自分には行くべき場所がどこにもないと感じた。行くべき場所を知らないこともまた、それと等しい恐怖を選ぶことでしかなかった。さて、このことに注意するがいい。往々にして、福音の召しが人の子らにやって来るのは、耳によって聞こえる声によってではなく、むしろ、ある人の事情を事細かく正確さに叙述するような伝道活動を通してである。それが、地上におられたときの《救い主》のしかたであった。その女は井戸のかたわらにいた。《救い主》は彼女に向かって語りかけられた。そのことばは、何の効果もないように思われた。そこで主は話題を変えて、こう云われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」。「私には夫はありません」、と女は答えた。もし彼女に赤面することができたとしたら、そのとき赤面していたであろう。――「私には夫はありません」。「私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです」[ヨハ4:17-18]。ここで、衝撃が彼女の心の真中に打ち込まれた。彼女は、語っているお方が人間以上の何者かであることを察知した。そして、福音は、それが完全に宣べ伝えられたときには、罪人を叙述し、描写し、写真に撮っては、それを彼の前に突きつけ、こう云わせるのである。「何と、これは私自身だ。彼は私のことを語っている。――これは、私のことでしかありえない」。そのときにこそ魂は、ハガルが悟ったことを悟る。神が自分をご覧になっていたこと、また、自分が神を仰ぎ見てかまわないことを。
さて、話をお聞きの愛する方々。私はあなたの姿を描き出そうと努めはしない。そうしようと試みたとしても無理であろう。主ご自身だけが、そうした問題で私たちを導かれるのである。だが私は、あなたにこの問いを発してみよう。「あなたはどこから来たのか?」 あなたは、いま陥っているような状況に至る前には、敬虔な両親のもとにいただろうか? あなたはロンドンの罪に沈んでいるが、かつては、母上の膝元で毎晩膝まずき、恵み深い祈りを復唱していた頃もあっただろうか? あゝ! あなたは罪の溜まり場で幾日も、幾晩も過ごしてきた! だが、かつては《日曜学校》の教師であった。――かつては福音を愛していた(少なくとも、そう告白していた)。その福音を今のあなたは見捨てて、忌み嫌っている。「あなたはどこから来たのか?」 今や忘れ去られた、古い印象のもとからである。今や泥を塗ってしまった、古い信仰告白のもとからである。かつては名誉ある者、今は不名誉にまみれた者である。――かつては誇らしげに神のしもべであったが、今は悪魔の祭壇に仕えるしもべである。――今は罪の頭株かもしれないが、かつてのあなたは天国の門の間近にいた。「あなたはどこから来たのか?」 どこから落ちたかを思い出し、悔い改めるがいい[黙2:4]。また、「あなたはどこへ行くのか?」 また1つ別の罪があなたを今晩誘惑する。それをあなたは犯すだろうか? 私は喜んであなたとともに立つであろう。母国が敵軍に侵略されようとしていた際の、古のあのスクテヤ人がそうしたようにするであろう。彼は、侵略軍の首領の前に一本の線を引くと、こう云った。「その線を越えるなら、未来永劫に至るまで戦争だ。だが、そこにとどまるなら、平和があるであろう」。私は今晩あなたの足元に一本の線を引く。永遠の神の御名によって、私はあなたに命ずる。その罪をやめよ、と。もう一度それを犯すなら、もはや何のあわれみの喇叭も、二度とあなたに向かって赦しの使信を吹き鳴らさないかもしれない。「あなたはどこへ行くのか?」 おゝ! 犬のように自分の吐いた物に戻ってはならない。豚のように身を洗って、また泥の中に転がってはならない[IIペテ2:22]。それ以上、先へ進んではならない。というのも、つまるところ「あなたはどこへ行くのか?」 きょう罪を犯す人は、明日にはもっと重い罪を犯し、その翌日にはさらに重い罪を犯すであろう。多くの若者たちは、いわゆるロンドン暮らしの愚かさに乗り出したときには、自分が身を持ち崩すことも、堕落することも、見捨てられた者になることも、全く考えなかった。多くの婦人たちは、かつて罪をもて遊び始めたときには、自分の名前が破廉恥な行為に結びつけられる日が来るなどとは全く考えなかった。自分の主人の現金箱のそばにいる多くの若者は、きようは骨の髄まで正直であり、自分が盗人になる日が来るなどとは夢にも思っていない。だが、彼は、確実に彼をそうしてしまう一歩を踏み出そうとしている。――悪への最初の一歩を。おゝ! 「あなたはどこへ行くのか?」 私の信ずるところ、多くの男女は、もし二十年も時間を戻すことができ、もう一度若くなって、その後本当に歩むはずの人生を読まされたとしたら、こう云うであろう。「私は絶対にそんな生き方はしません。しもべは犬にすぎないのに、どうして、そんなだいそれたことができましょう?[II列8:13]」 彼らは、自分がいま実際に陥っているようなそむきの罪を犯せる人間だと考えられたことに憤然としていたことであろう。「あなたはどこへ行くのか?」 止まれ! 止まれ! あなたがた、悪に向かって行進しつつある人たち。止まれ! 生きておられるお方の御名によって、止まれ! あなたが断罪へと行進して行き、最後の一歩を踏み出して、避けがたい破滅に落ち込むといけない。それが最悪のことだからである。「あなたはどこへ行くのか?」 罪の道は滅びの道である。人は罪を犯しておいて幸せになることはできない。その最後、最後、最後、最後。おゝ! それを考えるがいい! それはきょうでもないし、明日でもない。むしろ、かの臨終の時である。否。その時ばかりではない。最後の審判の喇叭が鳴り響く中、あなたが死者の中から立ち上がる時である。あの数々の書物が開かれる時[黙20:12]、あの、義人と悪人を分離する数々の判決が読み上げられる時、――それは、この問いにかかっている。「あなたはどこへ行くのか?」 おゝ! 赦されないまま審きに向かってはならない。罪に定められるために審きに向かってはならない。その後で投げ込まれる場所では、「彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることが」[マコ9:49]ないのである。神があなたをお救いくださるように。罪人よ。願わくは神があなたに今晩、この2つの問いの力により、それを仲立ちとして語ってくださるように。「あなたはどこから来て、どこへ行くのか?」
さて、ここで心して注意しよう。尋常ならざる時期と、と胸をつく問いかけを眺めてきた後で、いま心して注意したいのは、――
III. 《見いだされたこととその結果》である。
この描写はあまりにも正確であった。「サライの女奴隷ハガル」。この問いかけは、あまりにも当を得たもの、彼女の魂を直撃したものであった。「あなたはどこから来て、どこへ行くのか」。そのため彼女は云った。「これは神だ。神が私に語りかけているのだ」。そして、彼女が心底悟らされたのは、彼女が以前からしばしば聞かされていたが、一度も実感したことがなかったことであった。「神はおられるのだ。神は、空の上にいる、実体のない、私とは無関係の何者かではないのだ。むしろ、ここに神はおられるのだ。ここにいて、私のことをご覧になっているのだ。神が私を相手にしておられるのだ。――遠くにいて眠っているのでも、目しいているのでもない。神は私を見ておられるのだ」。おゝ! 魂がこの確信を感じ始めるとき、それは恵みによることである。「私はひとりきりではない。結局私は寄る辺ない者ではない。神がおられるのだ。そして、この神は私をご覧になり、私に語りかけてくださるほど注意し、気にかけてくださるお方なのだ」。人が救われるには、神が、キリスト・イエスにある神――だが、やはり神――が自分の身近におられることを、ある程度感じなくてはならない。《神性》を意識することは、救いの目印の1つである。さて、ハガルの思いはこのようなものであったに違いない。結局、私のことを見ていたお方がいたのだ。そして、私の過去の人生のすべてに注目していたお方がいたのだ。私にはそのお方が見えなかったが関係ない。この方は、私がしてきたこと、考えてきたこと、云ったことの一切を知っておられる。そして、今や私は悟った。この方が私に語りかけ、自分が私のことを気にかけておられると告げてくれたのだ。私は、アブラハムが私のことを気にかけてくれないと思った。サラは怒っていた。それで私は云った。「誰も私の魂のことなど気にかけてくれないのだ。ならば、出て行ってやる」。いま私には分かる。神が私を見つめていたこと、神が私を気遣っておられたことが。そして、あのとき、私があれほど忌々しく虐げられていたときには、神は介入して私を助けることはなかったが、それでも私は、神が私を気遣っていたことが分かる。というのも、最後になって、私がこの泉のほとりでひとりきりで座っていたときに、とうとう神は私の魂に語りかけてくださったからだ。罪人よ。私は願う。聖霊がまさにこのことをあなたに悟らせてくださるように。すなわち、結局において神はあなたのことを気遣っておられるのである。諸天と地を造られたお方は、あなたのことも考えておられる。あなたは小さく、その広大な被造世界の大半とくらべれば、無以下であるが、それでもあなたの上に神は御目を注いでおられる。あなたのことを気遣っておられる。「よろしい」、と彼女はその魂の中で云った。「神が私のことを気遣っておられる以上、神は私のために干渉してくださるであろう」。彼女の心に慰めの言葉を発して語りかけた御使い――彼女が夢見ていたよりも幸いな将来の運命が彼女にはたくわえられていると彼女に告げた御使い――は、慰めに満ちた言葉を彼女の耳に鳴り響かせながら、彼女を帰らせた。おゝ! 魂よ。私は願う。神が今晩、同じことをあなたのために行なってくださるように。あなたは、「神は私のことなど忘れてしまったのだ」、と云ってきた。だが神は、あなたにまつわる一切のことをご存知である。このことは真実かもしれない。――私はそう希望するが――、あなたの名前はイエスの御手のてのひらに書き記されているのかもしれない。もしもあなたが、今のように反逆的な罪人であるあなたが、世界の基の置かれる前から神の愛しておられた者であるとしたらどうだろうか? あなたが、神に選ばれた民のひとりで、《救い主》が血をもって買い取られた人々のひとりだとしたらどうだろうか? あなたが、天国に確実に座ることとなり、白い衣をまとって、新しい歌を歌う者だとしたらどうだろうか?――あなたが《いと高き方》のお気に入りの者だとしたらどうだろうか? おゝ! あなたがこう云うのが聞こえるような気がする。「もしも、それが本当であるという思いを半分でも持てるとしたら、私は絶望の中に横たわっていたりしないでしょう。私は立ち上がって、自分を奮い立たせ、私の古なじみたちとは訣別するでしょう。昔からの罪の数々とは手を切るでしょう。もしそれが本当だとしたら」、と。おゝ! 魂よ。私は、それが本当であるとあなたに告げることはできない。――それが本当であると希望しはするが――、だが、1つは本当のことをあなたに告げることができる。すなわち、もしあなたが今やって来て、あなたの信頼をイエス・キリストに置くとしたら、また、あなたのもろもろの不義を悔い改めるとしたら、そのときは、これはみな本当になるのである。私があなたの選びを知る唯一の道は、あなたの召しによってである。私があなたの召しを見分けることのできる唯一の道は、あなたの悔い改めと、あなたの信仰によってである。そして、もしあなたが今晩平安を見いだすとしたら、――私はあなたがそうなるよう祈るものだが、――あなたは神に愛されている者なのである。諸天を造られたお方はあなたを愛しておられる。地を造られたお方はあなたをご自身の血によって買い取られ、天国はあなたなしでは完全にならない。数々のよこしまな行ないによって、あなたははるか遠くに離れているが、それでもあなたが子どもであり、やがて天国があなたの帰還に接して音楽を鳴らすことになるとしたらどうであろう。あなたが酩酊の汚れと、あらゆる種類の好色のうちに失われていたのに、これから神の尊い銀の器となり、あなたのために家が掃き清められ、ともしびが点されるとしたらどうであろう。これからあなたが見いだされ、《救い主》の宝物庫に入れられるとしたらどうであろう? おゝ! これが、あわれな望みなき罪人の心にいかなる希望を湧き上がらせることか! あなたの善良さのゆえではなく、主の無限のいつくしみ深さのゆえにこそ、主は、いかにあなたがふさわしくない者であっても、あなたと出会いに来てくださる。というのも、主はあなたをご覧になり、あなたを見ておられるからである。愛のみ思いとともに主はあなたをご覧になっており、今晩ことばを差し挟み、あなたをあなたの名前によって呼んでおられる。
さてハガルは、このことを見いだしたとき、同時にもう1つのことを見いだした。彼女は云った。「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは」。――それは、次のように云わんばかりであった。また、このことを、おそらく彼女は以前には知らなかったのであろう。すなわち、神が彼女のもとに来ることがおできになったのと同じように、彼女も神のもとに行くことができるのである。「神は私の後ろを見ておられたし、今や私は神の後ろ姿を見ることができるのだ」。被造物と《創造主》の間に、大きな隔たりはない。私たちは天に使信を送ることができ、天から祝福を受けることができる。彼女は、その瞬間から、神が現実であり、生きており、はっきり感知できるお方であること、また、神が自分の祈りを聞き、自分の嘆願に答えてくださるお方であること、そして、現実に、文字通り自分に語りかけてくださったことを感じた。おゝ! 私の知る限り、いかなるものにもまして強固な力を人に与え、何にもまして励ましと喜びを与え、何にもまして忍耐強さを与えるものは、神が自分に語りかけてくださった、――神が愛と約束の言葉をもって自分に語りかけてくださった、という信念である。何と、その日から、あわれなハガルはこう云うことになるのである。「私は戻って行こう。戻って行こう。アブラハムの神が私に語りかけてくださったのだ。アブラハムは不親切かもしれないが、私はそれを耐え忍ぼう。アブラハムの神が私に語りかけてくださったのだから。サラは今まで以上にお冠になるかもしれない。――気にすまい。私は、このことについてサラに話せるかどうか分からない。だが、おゝ! 私の魂には途方もない喜びがある。――神が私に語りかけてくださった。そのご愛顧を私に確信させ、私に祝福を授けてくださったのだ」。さて、そこの青年は、自分が耐えがたい仕打ちを受けたと考えている。だが、もしも今晩、彼のもろもろの罪が赦され、主が彼と語らってくださるとしたら、戻って行って、こう云うであろう。「おそらく私は、他の誰とも同じくらい非難されるべきであったのだろう。だが、それがどうであれ、私は救われているのであり、今やどんなものにも耐えることができる」、と。また、そこにいる人は、極度の貧しさによって、服がぼろぼろに破れすぎていて、このタバナクルの中に思い切って入ることすら、ほとんどしたくないほどであった。そして、彼は今にもこう云わんばかりになっている。「私は人生の戦いは放棄することにしよう。もう二度と試すことはすまい」。――おゝ! もし彼にこう云うことができさえしたらどうだろうか、「私は神が今晩、私に語りかけてくださったことを知っている。神は私を《救い主》の足元に導き、私の罪を拭い去ってくださった」、と。――おゝ! 愛する兄弟。あなたは再び武器を取り上げて、もう一度人生の戦いに出て行くであろう。そして、あなたの貧窮は、上手を取れなくなったように思われるであろう。その悲痛さは離れてしまっているであろう。あなたが塗炭の苦しみを経験することはなくなるであろう。神からのことばを受け、あなたが神の子どもであることを知るならば、あなたはこう云えよう。「さあ風よ、吹け。波よ、猛れ。世界のすべての元素よ、荒れ狂え。お前たちすべてを支配しておられる神は、今や私の友なのだ。お前たちは私を決して傷つけることはできない」。よく見ると、主の御声を聞いたとき、また、神が自分をご覧になったこと、自分が神に語りかけることができることを悟ったときのハガルはまさにそれと同じであった。――そのとき、すぐさま彼女は後ろへ引き返した。帰れと云われて彼女は帰って行った。――自分の身を低くした。彼女が個人的にいきりたつ姿は二度と見られない。――その古い血が彼女の息子のうちに見られることになりはするが――彼女が自分の女主人といさかいを起こす姿は見られない。むしろ彼女は、自分の受けた祝福を思い起こしながら、辛抱強く自分の運命を忍んでいる。これこそ、まさに人々が――強情で、片意地で、意固地な人々が――神の恵みを受けた時に起こることである。彼らは自分の肩を曲げてキリストのくびきを負い、おとなしくなり、穏やかになる。神の愛のうちにあって幸いになるため、彼らはこの人生の苦難にも辛抱強くしている。あのあわれな荒れ狂う狂人の物語を思い出すがいい。人々は彼をたびたび鎖で縛ったが、彼はそれを断ち切った。自分の家を離れて、墓場に住んだ。彼はその叫び声やわめき声で夜を気味悪いものとした。人々はその道を通ろうとはしなかった。彼が野獣よりも始末に負えなかったからである。彼は自分のからだを切り刻み、引き裂き、石やおどろで自分を傷つけていた[マコ5:4-5]。――何物も彼をおとなしくさせることはできなかった。しかし、イエスがその悪霊に向かって、「わたしが、おまえに命じる。この人から出て行きなさい」、と仰せになった後で私たちが見いだすのは、彼が着物を着て――これは長い間なかったことである――、正気に返って、イエスの足元に座っている姿である[ルカ8:35]。おゝ! もしも今この場に、誰か荒れ狂う魂がいるとしたら、また、苦難により、無視により、他者からの不正により、自らの個人的な罪により、そうした状態に追いやられている霊がここにあるとしたら、主があなたをご自分の愛する御子イエスに信頼をかけさせてくださる場合、また、あなたの罪がことごとく御子の上に置かれているのを見せてくださる場合、そのときあなたは、この瞬間にさえ、別人となるであろう。あなたの妻は、ほとんどあなたの見分けがつかないであろうし、あなたの子どもたちも同様であろう。あなたは、以前には決してそうではなかった者となるであろう。あなたはあなたの仕事に戻り、あなたの種々の重荷に戻り、あなたの種々の苦難に戻り、そのすべてを忍ぶであろう。天から語りかけ、あなたの魂を救ってくださったお方のために。
さて、こうした事がらの大部分は、おそらくあなたがたの中のほとんどの人々には当てはまらないであろう。あなたも知る通り、私は説教しながらこう考えていた。きっとあなたがたは、私が説教している相手が、この場にいるごく少数の人々だけでしかないと考えるであろう、と。よろしい。私はあなたに私の弁解を告げることにしよう。「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいるとしたら、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を捜し歩かないでしょうか」*[ルカ15:4]。その、いなくなった一匹を私は捜して歩いてきたのである。私の《主人》もまたそうなさったのである。アーメン。
*1 "anywhere, anywhere out of the world"――英国の詩人トマス・フッド Thomas Hood(1789-1845)の詩『嘆息の橋』(The Bridge of Sighs)中の一節。[本文に戻る]
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神の圧倒的なあわれみ[了]
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