香ばしい恵み
NO. 3480
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---- 1915年10月7日、木曜日発行の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
「王がうたげの座に着いておられる間、私のナルドはかおりを放ちました」。――雅1:12
この箇所は、いくつかのしかたで読むことができる。字義通りには、キリストが人々の間で食卓に着き、人のならいに従って、彼らとともに食べたり飲んだりしていたとき、愛する霊は、たいへん高価な香油のはいった石膏のつぼ[マタ26:7]を砕いて、王がその食卓に着いておられる間に、そのみ頭に香油を注いだということである。《教会》は三度、このようにその主に油を注いだ。一度はそのみ頭に、また二度、その御足にそうした。それはあたかも《教会》が、主の三重の職務を、また、主が父なる神から確認と力づけのためにお受けになった三重の油注ぎを覚えていたかのようであった。それで《教会》は、その感謝に満ちた愛の油注ぎを主にささげ、自分の石膏のつぼを割り、高価な香油を主のみ頭と御足に注いだのである。愛する方々。私たちは、私たちの前を行く人々の真似をしようではないか。何と! 確かに私たちは、あの涙する悔悟者のように主の御足を私たちの涙で洗い、それを私たちの髪の毛で拭うことはできないが、主の御国の進展のために仕え、主のご人格に誉れを帰すことができさえすれば、あの恵みあふれる女のように、何物をも――麗しい装飾品をも、好きなものを贈られることをも――顧みないことができるであろう。私たちは、喜んで「われらが高慢(ほこり) すべて蔑み」、「われらが栄光(ほまれ) 十字架(き)に釘づけ」ようではないか。あなたは今晩、何かあなたにとって愛しいものを有しているだろうか? それを主に明け渡すがいい。あなたは、石膏のつぼのように高価なものを何か隠していないだろうか? それを《王》にささげるがいい。このお方はそうされるにふさわしく、このお方とその食卓で交わりを有するときには、あなたの賜物を持ち来たるがいい。感謝のいけにえを《王》にささげ、あなたの誓いをいと高き方に果たすがいい[詩50:14]。
しかし、《王》は地上を去られた。天でご自分の食卓に着き、神の国でパンを食しておられる。今は取税人や遊女たちではなく、智天使や熾天使たちに取り巻かれ、嘲る群衆ではなく、崇敬する万軍に取り巻かれて、《王》はその食卓に着き、栄光に富む信仰者たちの一団、天に登録されている長子たちの《教会》[ヘブ12:23]をもてなしておられる。主は戦いをことごとく終えてから安息を得られた。地上でその敵と格闘し、そのすべてに対して勝利を得られて初めて主はいと高き食卓に着かれた。《王の王》よ。そこにあなたは座っておられます。あなたの最後の敵があなたの足台とされる時まで座しておられます。兄弟たち。キリストが天上の食卓に着いておられる間、私たちには何ができるだろうか? この手は主に触ることができない。この目は主を見ることができない。だが、私たちの祈りは、甘美な香水のように、この地上で燃やされるならば、王がその食卓に着いておられる場所へと煙となって立ち上ることができる。そして私たちのナルドは天国そのものにおいてさえ香りを放つであろう。あなたはキリストに達したいだろうか? あなたの祈りにはそれができる。あなたはいま主を崇敬したいだろうか? 今あなたの愛を公に示したいだろうか? 祈りと賛美の入り混じったものによって、朝な夕なのいけにえのように、あなたの香は立ち上って主の前で受け入れられる。
そして、兄弟たち。来たるべきその日には、この《王》がその王国で食卓にお着きになるはずである。見よ、主が来られる! 見よ、主が来られる。《教会》は決してこのことを忘れないようにしよう。初臨は教会の信仰であり、再臨は教会の希望である。初臨は十字架によって土台を据えた。再臨は王冠によって冠石を置くであろう。前者は数々の吐息とともに導き入れられた。後者は、「恵みあれ。これに恵みあれ」[ゼカ4:7]、との歓呼とともに祝われるであろう。そして、この《王》は、全地でその主権を現わし、認められ、その教会とともに、ご自分の食卓にお着きになるであろう。そのとき、そのほむべき《千年期》において、キリスト者たちの数々の恵みはその甘やかに香る芳香を放つであろう。
このようにして私たちは、この聖句を三通りに読んできた。その1つ1つについては、各一冊の書物になるほどの内容があるが、私たちは別の頁に目を向けよう。というのも、私たちはそれを、キリストが今ご自分の民に対してご自身を啓示される霊的臨在との関連において読みたいと思うからである。「王がうたげの座に着いておられる間」、――すなわち、私たちがキリストの臨在を享受している間、――「私のナルドはかおりを放ちました」。そのとき、私たちの種々の恵みは盛んに活動し、私たち自身の魂にとっても好ましく、神の御前でも受け入れられる香料を生じさせるのである。
これから私が辿ろうとしている一連の黙想は、駆け足で見て行かなくてはならない。それが弱々しいものに思えようとも、兄弟たち。私にはどうすることもできない。だがもしあなたがキリストとの交わりを得るとしたら、私は自分の説教の功績など、あるいは、あなたの批判を招く危険などほとんど顧慮していない。私が切望することはただ1つである。「あの方が私に口づけしてくださったらよいのに」[雅1:2]。そうすれば、私の魂は大いに満足し、あなたの魂もそうなるであろう。さて最初に述べたい所見はこうである。――
I. 《信仰者はみな、いかなるときにも恵みを有している》。
この聖句の暗示するところ、《王》が臨在していないとき、このナルドは何の香りも放たないが、それにもかかわらず、そこにはナルドがあるのである。花嫁が自分のナルドについて語っている言葉からすると、彼女はそのナルドを所持しており、ただ、《王》がやって来て食卓に着かれること、そしてそのナルドの存在が知られ、感じられるようになることだけを欲していた。あゝ! よろしい。信仰者よ。あなたの心には恵みがあるのである。あなたが神の子どもだとしたら、自分では見えなくとも、それはあるのである。あなたの種々の疑いがあなたの希望のすべてを覆い隠してしまい、「私は御前から投げ捨てられたのだ」、とあなたが云うときさえ、それらすべてにもかかわらず、恵みがそこにあることはありえる。樫の老木がその最後の葉を唸る冬の突風によって失ったとき、また、その葉脈の中で樹液が凍りつき、天辺の枝まで探しても緑の存在するしるしが全く見られなくとも、そのときでさえなおも、その葉を失った後のその木の中にはその髄[イザ6:13 <英欽定訳>]があるのである。どの信仰者もそれと同じである。その樹液は凍りついているように思われ、そのいのちはほとんど死んでいるようであっても、いったん植えられたなら、それはそこにあるのである。永遠のいのちは、その人が自分では発見できない時もそこにあるのである。あなたは知っているだろうか?――もし知らないとしたら、私はあなたが身をもってこのことを知ることがないよう祈るものだが――キリスト者のナルドを注ぎ出されないようにするものは数多くある。悲しいかな! そこには私たちの罪がある。あゝ! 恥ずべき、残虐な罪よ! 私の《主人》からその栄光を奪うとは! しかし、私たちが罪に陥るとき、もちろん、私たちの種々の恵みは弱くなり、神に対していかなる芳香も生じさせなくなる。あゝ! また、そこには私たちの不信仰がある。それは私たちのあらゆる恵みに重い石を乗せ、乳香を燃やしていた熱を吹き飛ばしてしまう。それで祭壇の煙は全く天へ立ち上らなくなるのである。また、それが私たちの霊の苦々しさである場合も少なくない。というのも、私たちの思いが打ちひしがれているとき、私たちは自分の立琴を柳の木々に掛け[詩137:2]、それは神に向かって甘やかな音楽を何も奏さなくなるからである。そして、何にもまして、もしキリストがおられなくなるとしたら、また、怠慢か何らかの理由のためにキリストと私たちの交わりが差し止められるとしたら、恵みはそこにあっても――おゝ! それは見えなくなってしまう。そこからは全く何の慰めも湧き上がらない。しかし、愛する方々。手始めにこう語りはしたが、むしろ私たちは、先へ進んでこう述べたいと思う。――
II. 《恵みがキリスト者に与えられているのは、このように隠れているためではなく、ナルドのように常に活動しているためである》。
もし私がキリスト者を正しく理解しているとしたら、その人はたやすく見分けがつく。ナルドの入っているつぼは、ふたが開いているとしたら、そこに「ナルド」という言葉を書きつける必要はない。誰でも、そこにそれが入っていることは分かる。あなたの鼻孔がそれを教えるであろう。もしある人が自分のかくしに埃を詰めているとしたら、好きな場所へ行こうと、また、その埃を空中に振りまいていようと、ほとんど誰もそれには気づくまい。だが、その人が自分のかくしに麝香を詰め込み、ある部屋に入ったとしたら、そして、その一粒子でも転がり落ちたとしたら、たちまちそれと見抜かれるであろう。なぜなら、麝香は自ら証しするからである。さて真の恵みは、ナルドや他の香料のように、自ら証しするはずである。知っての通り、私たちの《救い主》はキリスト者たちを光にたとえられた[マタ5:14]。向こうには大勢の人々が立っている。私は、陰になっている人々は見えないが、たったひとりの人の顔だけは私にも良く見える。それは、松明を持っている人である。その炎が彼の顔を照らし出しているので、その顔だちが隅々まではっきり分かる。そのように、いかなる人の見分けがつかなくとも、キリスト者はたちまち如実に明らかになるはずである。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。ことばのなまりではっきりわかる」*[マコ14:67; マタ26:73]。単にキリスト者が目立ってそれと気づかれるべきであるだけでなく、そもそも恵みがキリスト者に与えられたのは、活発に働かされるためである。信仰とは、信じることでないとしたら何だろうか? 愛とは、抱きしめることでないとしたら何だろうか? 忍耐とは、耐え忍ぶことでないとしたら何だろうか? 知識は、真理を明らかに示さないとしたら何のためにあるのだろうか? 《主人》が私たちに与えておられる甘やかな恵みは、それがその香りを放たないとしたら、何だろうか? 残念ながら私たちは、血の汗に覆われたあの御顔を十分に見つめていないのではないかと思う。というのも、もしそうしていたとしたら、確実に《王》は私たちの思いにおいてその食卓に着き、私たちはよりこのお方に似た者となるはずである。よりこのお方を愛するはずである。より情熱的にこのお方のために生きるはずである。そして、このお方の栄光を押し進めるため、財を費やし、また自分自身をさえ使い尽くす[IIコリ12:15]はずである。信仰者たちの種々の恵みは、ナルドのようにその芳香を放つためのものなのである。だがこの点についてはただ指摘するだけとし、次に移ろうと思う。本日の主題全体の要は次の点にある。それについて、詳細に語る暇はないが、――
III. 《キリスト者の種々の恵みが活発に働かされることのできる唯一の道は、その人が主人の臨在を有することである》。
主は《王》と呼ばれている。聞くところ、このヘブル語は非常に強調的な語で、あたかもこう云われているかのようだという。「王が」――《王の王》が、あらゆる《王》の中でも最大のお方が、と。主は私たちにとってそのようなお方に違いない。――私たちの心の絶対《君主》、私たちの魂という領土の主、私たちの評価において比肩しうる者のない《お方》、私たちがいそいそと服従をささげるお方である。私たちは、主を《王》としていだかない限り、主の臨在を得て自分の種々の恵みの元気を回復させることはできないであろう。そして、この《王》がその民と親しくことばを交わされるとき、それは「彼の食卓」<英欽定訳> と云われ、私たちの食卓とは云われていない。特にこのことは聖餐式の卓子に当てはまるであろう。それは、バプテスト派の卓子ではない。私の卓子ではない。主の卓子である。なぜなら、もしその上に何か良いものがあるとしたら、覚えておくがいい。それは主がそれを広げておられるからである。否。その卓子の上には、主ご自身がおられない限り、何もない。神の子どもに対する何らかの食物があるとしたら、それはただ、キリストのからだがその肉であり、キリストの血潮がその葡萄酒であるからにほかならない。私たちにはキリストがおられなくてはならない。これは、主が臨在しておられることにより、主がそれを広げ、それを主催しておられることより、明確に主の食卓でなくてはならない。さもなければ、私たちにはいかなる主の臨在もないのである。見ると、このヘブル語は「円卓」を意味している。それが、それによって私の理解していることを意図しているかどうかは分からないが――ことによると、意図しているかもしれないが――、それは私には、主の弟子たち全員のほむべき平等性を示唆しているように思われる。主の円卓に座るとは、まるで、そこにはひとりもかしらがおらず、むしろ、主も彼ら自身のひとりであるかのようである。主は、そのように親密な交わりを卓子に着いている者らと持っておられる。主の交わりは非常に愛しいものであり、彼ら自身のひとりのように席に着かれる。主は、ご自分の兄弟たちとすべての点で同じようになり、ご自分の円卓に着いておられるのである。
さて、今、私たちは云うが、キリストが主の晩餐という儀式にやって来られるとき、あるいは、他のいずれの儀式にやって来られるときであれ、たちまち私たちの種々の恵みは盛んになり始める。いかにしばしば私たちは、キリストにより近く生きようと決心したことか! だが、私たちが決心し、再び決心してきたにもかかわらず、残念ながらそのすべては、ただの決心倒れに終わったのではないかと思う。もしかすると、私たちは自分の決心について祈ってきたかもしれない。そして、しばらくの間はそのことを非常に熱心に求めてきたかもしれない。だが、私たちの熱心さはじきに尽きてしまった。それは、人間がともした他のどの火とも変わらない。私たちはほとんど進歩しなかった。だが、意気消沈してはならない。主にあって私の愛する方々。私は、あなたに信じられるか否かに関わらず、あなたに告げよう。もしあなたの心が今晩、氷山の中心のように冷たくとも、それでもキリストがあなたのもとにやって来られるなら、あなたの魂は、この上もなく激しい炎を発する、えにしだの熱い炭火[詩120:4]のようになるのである。あなた自身の理解にとって、あなたは墓場の骨々のように死んでいるように思われても、それでもイエスがあなたのもとにやって来られるなら、あなたはただちに燃える炎のような熾天使と同じくらいいのちに満ちることになる。なぜあなたは、自分のもとに主が来ないと思っているのだろうか? あなたは、最初、主がいかにご自分をあなたの魂に現わしてくださったかを覚えていないのだろうか? あなたは、今のあなたと同じくらいよこしまな者であった。あなたは確かに今のおなたと同じくらい滅びていた。あなたには、今のあなたと同じくらい、主に重んじられるべき功績がなかった。今のあなたと同じくらい、主からはるか遠くに離れていた。――否、それよりずっと離れていたとさえ云えよう。しかし、見よ! 主はあなたが主を求めてもいない時に、あなたのもとに来てくださった。その恵みの主権とそのあわれみの甘やかさにおいて、あなたが主を蔑んでいた時に、やって来てくださった。ならば、何ゆえに主は今あなたのもとに来てくださらないはずがあろうか? おゝ! この祈りを囁くがいい。そっと、希望をこめて、この祈りを囁くがいい。「私を引き寄せてください」[雅1:4]。そうすれば、あなたはすぐに急いで行ける力を見いだすであろう。そして、あなたの情熱も力も尽き果てた時には、《王》はすみやかにあなたをご自分の寝室へと入れてくださるであろう。あなたの現在の状態がいかに暗くとも、そこには確実に明け初める日のしるしがいくつかある。私はあなたに願う。兄弟たち。あなたは今晩、キリストとともに、定命の者がいまだかつて享受する特権を得たことのある最も豊かで、最も甘やかな交わりを有する、それも突然に有することになると信じ、期待するがいい。私はあなたの懸念を知っている。――それは忘れるがいい。私はあなたのもろもろの罪を知っている。――それを御足のもとに置くがいい。私はあなたの心のさまよいを知っている。――主をその鞭打ちの柱に縛りつけたのと同じ縄によって、あなたを主の十字架につなぎ留めてくださるよう主に願うがいい。私は、あなたの頭が困惑し、あなたの思いが千々に乱れ、多くの心遣いで気もそぞろになっていることを知っている。――かの茨の冠をかぶり、それをあなたの幾多の動揺すべてに対する解毒剤とするがいい。思うにイエスはいま、戸の穴から御手を差し入れておられる[雅5:4]。あなたの心は、主のために立ち騒いでいないだろうか? 起きて、主を迎え入れるがいい。そして、パンが裂かれ、葡萄酒が回される間に、ここまで来ては、主から受けて食べ、かつ飲むがいい。主によそよそしくしてはならない。「良心により 逡巡(まよう)なかれ」。疑いや恐れにより、主との交わりから尻込みしてはならない。大地の始まりから[箴8:23]あなたを愛してくださった主から。むしろ、あなたの価値なき頭を、主のほむべき御胸にもたせかけ、主と語り合うがいい。あなたに云える言葉がただ、「主よ。まさか私のことではないでしょう」[マタ26:22]、でしかないかもしれない。だが関係ない。何としても主との交わりを求めるがいい。これ以外のあらゆる想念、感情、事実を無視する者としてそうするがいい。そのようにして、願わくは主がご自分を、あなたに、また私に、この世に対してはしないようなしかたで[ヨハ14:22]現わしてくださるように。
もしあなたがた、キリストとの交わりを一度も有したことのない人たちが、私の云っていることはたわごとだと思うとしたら、私は不思議に思わない。しかし、あなたにはこう云わせてほしい。もしあなたが一度でもキリストとの交わりがいかなるものであるかを知っていたとしたら、あなたは自分の目を質に入れ、自分の右腕を差し出し、自分の地所を取るに足らないものとして引き渡しても、この無限の価値ある恩顧と引き替えにするであろう。王侯たちはその冠を売り、貴族たちは自らの尊厳を放棄しようと、五分間なりともキリストとの交わりを持とうとするであろう。何と、時計の時を刻む一瞬の間に私が自分の主また《主人》のうちに有してきた喜びは、種々の肉的な楽しみや、趣味の快楽や、文学の魅惑などに費やす一生涯に詰め込むことのできる喜びをはるかにまさっていたのである。イエスの愛には深みがある。比類なき深みがある。主との交わりの中には、陶然とさせられるほどの甘やかさがある。あなたは食べなくてはならない。さもなければ、その香気を決して知ることはないであろう。おゝ! 主がいつくしみ深い方であることを[Iペテ2:3]味わい知るがいい! 見るがいい。いかに主は罪人たちを喜んで迎え入れようとしておられることか。主に信頼して生きるがいい。主を食べて、強くなるがいい。主と親しく会話を交わし、幸せになるがいい。願わくは、この卓子に着くあなたがたひとりひとりが、これまでの中で最も間近にイエスへと近づくことができるように! 隣り合って流れていた二本の流れが、とうとう1つになるように、願わくはキリストと私たちの魂が1つに溶け合うように。アイシス川がテムズ川に合流するのと全く同じく、ただ1つのいのちだけが流れるようになり、私たちがこの世に生きているいのちが、もはや私たちのものではなく、私たちのからだの中で生きておられるキリストとなっているように[ガラ2:20]。アーメン。
香ばしい恵み[了]
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