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ただ恵みによって

NO. 3479

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1915年10月7日、木曜日発行の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」。――エペ2:8


 この長年月の間、私があなたがたに語ってきた事がらの要約、それがこのことである。これらの言葉に囲まれた円の中に、私の神学はおさまっている。少なくとも、人々の救いについてはそうである。また、やはり私が喜びとともに思い起こすのは、私の家系の中で、私より先にキリストに仕える教役者となっていた者たちも、この教理を宣べ伝え、この教理以外の何物も宣べ伝えていなかったということである。私の父は、今なお自分の主のために個人的な証しをすることができているが、他のいかなる教理をも知らないし、父に先立つ、父の父もそうであった。

 私がこのことを覚えさせられているのは、ある事実によってである。すなわち、私の記憶に刻み込まれている、いささか奇妙な状況が、私自身と私の祖父とをこの聖句に結びつけているのである。それは、今となっては何年も前のことになる。私は、東部諸州の、とある田舎町で説教する予定になっていた。私は、めったに遅刻することはない。時間に正確であることは、大きな罪を妨げる小さな美徳の1つであると感じるからである。しかし、鉄道の遅延や故障については、いかんともしがたい。そういうわけで、私が指定された場所に着いたときには、相当に時間が遅くなっていた。分別のある人々らしく、彼らはその礼拝式をすでに始めていたし、それは説教の直前まで進行していた。私がその会堂に近づくにつれて、誰かが講壇に立って説教しているらしいと気づいた。そして、その説教者とは誰あろう、私の親愛な老祖父だったのである! 祖父は、表玄関の入口から私が部屋に入って、通路を前に進んで来るのを見ると、すぐさまこう云った。「さあ、孫がやって来た! これは、わしより福音を説教する点ではすぐれているかもしれん。だが、これ以上にすぐれた福音を説教することはできん。そうだな、チャールズ?」 私は群衆をかき分けて前に進みながら、答えた。「あなたの方が、ぼくよりもすぐれた説教をできますとも。どうか続けてください」。しかし、祖父はそれには同意しようとしなかった。私は説教を引き取らなくてはならず、私はそうした。同じ主題を、祖父が中断した当の所からである。「さて」、と祖父は云った。「わしは、この言葉について説教しておったのだ。『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです』。わしは、救いの源泉また根源について、ハッキリ述べてきた。そして今から、その水路、つまり信仰によって、ということを示そうとしておるところだ。さあ、お前はそこから話を始めて、先へ進むのだ」。私には、そうした栄えある真理を語ることはお手の物であったため、祖父から渡されたその講話の筋道に、自分の話をつなげていくことには全く何の困難も感じなかった。それで、私は途切れることなしに話を続けた。神のみこころのことにおいて、私と祖父は全く一致していた。それで私たちが同一の講話を共同して説教することは容易だったのである。私は、「信仰によって」という部分を語り継ぎ、それから次の点、「それは、自分自身から出たことではなく」に話を進めた。このことについて私が、人間性の弱さや無能力について説明し、救いが私たち自身から生ずることなど確かにありえないと語っていると、上着の裾が引っ張られ、わが愛する祖父が私に代わって再び講壇に立った。「孫は、わしらの堕落した人間性について語ったが」、とこの善良な老人は告げた。「わしも、その点についてはほとんど心得ておるぞ。愛する方々」。そして、祖父はそのたとえ話を引き取って、次の五分間、私たちの失われた状態について、また、私たちが現在陥っている霊的な死という状態について、厳粛で、心へりくだらされるような描写を行なった。祖父が非常に優美なしかたで云いたいことを云った後で、孫は再び話を続けることが許された。そしてそれは、この親愛な老人を非常に喜ばせるものであった。というのも、時折彼は、優しい調子で、「いいぞ、いいぞ!」、と云っていたからである。一度などは、こう云った。「そいつをもう一度聞かせてやれ、チャールズ」。もちろん私はそれをもう一度聞かせてやった。このように死活に関わる重要な真理に関する証しに自分もあずかるということは、私にとって幸いなことであった。それは今も私の心に深い感銘を残している。この聖句を読み上げながら私は、愛しいあの声をもう一度聞いているかのように思われる。地上では聞かれなくなって久しいあの声が、私に向かってこう云うのを。「《そいつをもう一度聞かせてやれ》」。私は、今は神とともにいる先祖たちの証言に反してはいない。祖父は、もし地上に戻れたとしたら、自分が世を去ったときのままの姿でいる私を見いだすであろう。堅く信仰に立ち、聖徒にひとたび伝えられた教えの規準に忠実である私の姿を。

 私はこの聖句を手短に取り扱い、いくつかの言明を述べようと思う。第一の言明は、明らかにこの聖句に含まれているものである。――

 I. 《救いは現在ここにある》

 使徒は、「あなたがたは……救われたのです」、と云う。「救われるのです」、とも、「救われるかもしれません」、とも云わず、「救われたのです」、と云っている。「あなたがたは、部分的には救われたのです」、とも、「救われつつあるのです」、とも、「救われる希望があります」、とも云わない。むしろ、「あなたがたは、恵みのゆえに……救われたのです」、と云う。この点において私たちは、使徒と同じくらい明確な考え方をしていよう。そして、自分が救われていることが分かるまで、決して安心しないようにしよう。今この瞬間、私たちは救われているか、救われていないかである。それは明確である。私たちはどちらの種別に属しているだろうか? 私が希望するのは、聖霊の証しによって私たちが、こう歌えるほどに自分の安全を確信できるようになることである。「主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた」[イザ12:2]。このことについては細かく語らず、次の点を指摘することにしたい。

 II. 《現在の救いは、恵みのゆえのものでなくてはならない》

 もし私たちが、誰かある人について、あるいは、一団の人々について、「あなたがたは救われています」、と云えるとしたら、私たちはその言葉の前に、「恵みのゆえに」という言葉を置いておかなくてはならない。恵みのゆえに始まり、恵みのゆえに終わるのでない限り、他にいかなる現在の救いもない。私の知る限り、この広大な世界にいる誰かが現在の救いを宣べ伝える、あるいは、それを有していると云うとしたら、例外なく、その人は救いがただ恵みのゆえであると信じているはずだと思う。ローマ教会内の誰ひとりとして、いま救われていると――完全に、また、永遠に救われていると――主張しはしない。そのような告白は異端となるであろう。ごく少数のカトリック教徒は、自分が死ねば天国に入るはずだと希望しているかもしれないが、ほとんどのカトリック教徒の目の前にあるのは、煉獄というみじめな見込みでしかない。私たちが目にするのは、世を去った魂のために絶えず祈りが要請されている場面である。そのようなことは、そうした魂が救われていたとしたら、また、《救い主》とともに栄化されていたとしたら、なかったであろう。魂の永眠のための弥撒があるということは、ローマが差し出している救いの不完全さを示唆している。これは当然のことである。カトリック教会の救いは行ないによるものであり、たとい良い行ないによる救いが可能であったとしても、いかなる者も、自分が自分の救いを確保するに足るだけそうした行ないを成し遂げたと確信することはできないからである。

 私たちの間に住んでいる人々の中でも、私たちの見いだす多くの人たちは、恵みの教理とは全く無縁で、現在の救いなど一度も夢見たことがない。もしかすると彼らは、自分も死ぬときには救われるだろうと当て込んでいるのかもしれない。なかばこう希望しているのである。油断怠りなく聖潔の年月を経た後ならば、自分も、ことによると最後には救われることがあるかもしれない、と。だが、いま救われているということ、また、自分が救われているのを知るということは、全く彼らの手の届くことではなく、彼らはそれを増上慢だと考えるのである。

 現在の救いがありえるとしたら、その根拠はただこのことにしかない。――「あなたがたは、恵みのゆえに……救われたのです」。これは非常に顕著なことだが、行ないによる現在の救いを宣べ伝えるために立つ者はひとりもいない。それは、あまりにも馬鹿げたことであると思う。行ないが完成されなければ、救いは不完全になるであろう。あるいは、救いが完全だとしたら、律法主義者の主要な動機は消え失せてしまうであろう。

 救いは、恵みのゆえのものでなくてはならない。もし人が罪によって失われているとしたら、神の恵みのゆえでなくして、いかにして救われることができるだろうか? もし人が罪を犯しているとしたら、人は罪に定められている。そして、人はいかにして自力でその断罪を覆すことができるだろうか? かりに人が、その生涯の残りの間ずっと律法を守ったとしても、単に自分が常になすべきであったことをなしたにすぎず、役に立たないしもべ[ルカ17:10]のままであろう。過去についてはどうだろうか? いかにしてもろもろの古い罪が拭い去られることがありえるだろうか? いかにして古い破滅が繕われることがありえるだろうか? 聖書によれば、また、常識に従えば、救いはただ神の無代価の恩顧のゆえでしかありえない。

 現在時制の救いは、神の無代価の恩顧のゆえでなくてはならない。人々は行ないによる救いを強硬に主張するかもしれないが、自分の議論を支持するためにこう云う人の話は決して聞こえてこないであろう。「この私自身、自分の行なってきたことによって救われているのです」。それは、ほとんどの人が行こうとはしない、過分の邪悪さとなるであろう。高慢も、これほど野放図な自慢を身にまとうことはできない。しかり。もし私たちが救われるとしたら、それは神の無代価の恩顧のゆえであるに違いない。いかなる者もそれと反対の見解の実例であると告白することはない。

 救いが完全なものとなるには、無代価ゆえにそうなるしかない。聖徒たちは、死に臨むとき、決して自分たちの良い行ないを信ずることによって自分の生涯を終えることはない。いかに聖く用いられる人生を送ってきた人々も、その末期の時には例外なく無代価の恵みに頼りを置くのである。私は、ひとりの敬虔な人物の枕頭に立ったことがある。その人は、自分自身の祈りや、悔い改めや、信心深さに対するいかなる信頼も全く払いのけていた。私は、卓越して聖なる人々が、死に臨んでこの言葉を引用するのを聞いてきた。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」[Iテモ1:15]。事実、人々は天国へ近づけば近づくほど、また、そのために整えられれば整えられるほど、イエス・キリストの功績に対するる信頼を単純なものとし、自分自身に対するいかなる信頼をも激しく忌み嫌うようになる。もしこれが私たちの最後の瞬間、すなわち、この争闘がほとんど終わる時について云えることだとしたら、私たちが戦いたけなわにある時には、はるかにいやましてそう感じるべきである。もし人がこの戦いの現在の時に完全に救われているとしたら、恵みのゆえでなくしていかにそのようなことがありえるだろうか? 人が自分のうちに住む罪について嘆かなくてはならない間、また、無数の短所やそむきの罪を告白しなくてはならない。間、また、罪が自分のすることなすことに混じり合っている間、いかにしてその人は自分が完全に救われているなどと信ずることができるだろうか? それは神の無代価の恩顧ゆえでしかない。

 パウロはこの救いのことを、エペソ人たちに属しているものとしている。「あなたがたは、恵みのゆえに……救われたのです」。エペソ人たちは、珍妙な易断や占いのわざにふけっていた。このようにして彼らは、暗闇の諸力と契約を結んでいた。さて、もし彼らのような者らが救われたとしたら、それはただ恵みのゆえだけでしかないに違いない。私たちについても同じである。私たちの元々の状態や性格によって、このことは確かである。もし少しでも救われているとしたら、私たちはそれを神の無代価の恩顧に負っているに違いない。私は、自分自身の場合にそれが真実であると知っている。また、同じ規則は信仰者の残り全員に通用すると信ずる。これは十分に明白である。それで、私は次の所見に進むことにしたい。

 III. 《恵みのゆえの現在の救いは、信仰によるものでなくてはならない》

 現在の救いは恵みのゆえのものでなくてはならず、恵みゆえの救いは信仰によるものでなくてはならない。あなたが恵みのゆえの救いをつかみたければ、信仰による以外に手段はない。祭壇の上から取られたこの燃え盛る炭火[イザ6:6]を持ち運ぶには、信仰という火ばさみが必要である。私も、もし神がそう望まれたなら、救いが行ないによって得られ、だがしかし恵みのゆえのものであることも可能であったであろうとは思う。というのも、もしアダムが神の律法に完璧に従っていたとしたら、それでも彼は自分のなすべきであったことを行なったにすぎず、その後で神が彼に報いをお与えになった場合、その報い自体は、恵みに従ってのものであったに違いない。《創造主》は被造物に何の義理も負っていないからである。これは、その目的は完璧であっても、非常に困難な行ないの体系であったであろう。だが、私たちの場合、それは全く役に立たないであろう。私たちの場合の救いは、咎と破滅からの解放を意味し、良い行ないという手段によってはつかむことができなかったであろう。私たちは、そのようなものを果たせる状態にないからである。かりに私がこう宣べ伝えなくてはならなかったとしよう。あなたがたは、罪人として、いくつかの特定の行ないを行なわなくてはならない、そうすれば、あなたは救われるのだ、と。また、かりにあなたがそうした行ないを果たすことができたとしよう。そのような救いは、そのとき全く恵みから出たもののようには見えなかったであろう。それは、すぐに当然支払うべきもの[ロマ4:4]のように見受けられたことであろう。そのようなしかたで理解されたなら、それはあなたのもとに、ある程度までなされた行ないに対する報いとしてやって来ていたであろう。そして、その全様相は一変していたことであろう。恵みのゆえの救いは、信仰の手によってのみつかむことができる。特定の律法の行為を行なうことによってそれをつかもうと試みることは、恵みを蒸発させてしまうであろう。「そのようなわけで、それは、信仰によるのです。それは、恵みによるためなのです」*[ロマ4:16]。「もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります」[ロマ11:6]。

 ある人々は、恵みのゆえの救いをつかむために、種々の儀式を用いようとする。それでは役に立たない。あなたは、洗礼と洗礼名を授けられており、堅信礼を受けており、司祭の手から「聖餐」を受けさせられている。あるいは、あなたはバプテスマを受けており、教会に加入し、主の晩餐の席に着いている。それがあなたに救いをもたらすだろうか? あなたに問いたい。「あなたは救いを得ているだろうか?」 あなたは、「はい」、などとは答えられないであろう。たといあなたが一種の救いを申し立てたとしても、あなたの頭の中にあるのは恵みのゆえの救いではないに違いない。

 さらに、あなたは恵みのゆえの救いを、あなたの感情によってはつかむことができない。信仰の手は恵みのゆえの現在の救いをつかめるように作られているが、感情はその目的に適していない。もしあなたが、「私は自分が救われていると感じなくてはなりません。これこれくらいの悲しみと、これこれくらいの喜びを感じなくてはなりません。さもなければ、私は自分が救われているとは認めません」、と云い出すとしたら、あなたはこの方法が役に立たないことに気づくであろう。感情によって信じようと期待するくらいなら、耳で見たり、目で味わったり、鼻で聞いたりするのを期待した方がましであろう。それは間違った器官なのである。信じた後でなら、天的な種々の影響を感ずることによって救いを楽しむことができるであろう。だが、あなた自身の種々の感情で救いをつかもうと夢見ることは、手のひらで日光を運ぼうとするのと同じくらい愚かなこと、あるいは、まつげで天の息吹を運ぼうとするのと同じくらい愚かなことである。そうした事がら全体には、本質的な馬鹿馬鹿しさがある。

 さらに、感情によってもたらされる証拠は、著しく変わりやすい。あなたの感情が穏やかで楽しくしているとき、それはすぐに割り込みを受け、落ち着かず、憂鬱になる。最も変わやすい種々の要素、最もか弱い被造物、最も卑しむべき種々の状況によって、私たちの気分は沈んだり、高まったりしかねない。年季を積んだ人々は、自分たちの現在の情緒を、次第に軽く見るようになる。そうしたものの上に安全に置ける信頼がいかに小さなものでしかないか、つくづく分かってくるからである。信仰は、神が恵み深い赦罪をいかに給わるかに関する神の言明を受け入れ、そのようにして、信ずる人に救いをもたらすのである。だが感情は、情熱的な種々の訴えの下で暖められ、有頂天になって1つの希望に身をまかせるときには、その希望をよく吟味しようなどとはせず、一種の法悦的な高揚の踊りをぐるぐる回り、そうした高揚感を自らの存在のよりどころとするようになっては、全く騒ぎ立ち、静まることのできない荒れ狂う海[イザ57:20]のようになる。だが感情は、そうした激動と猛威から、一気になまぬるさと、意気消沈と、絶望と、ありとあらゆる種類の悪とに落ち込みがちである。感情は、一連の雲の多い、風の吹く現象であり、神の永遠の真理に関連しては信頼することができない。そこで私たちは一歩先へと進もう。――

 IV. 《恵みのゆえの、信仰による救いは、私たち自身から出たことではない》

 救い、信仰、また、恵みによる働きのすべては、私たちから出たものではない。

 最初に、それらは、私たちの以前の功績から出たものではない。それらは、以前の良い努力への報いではない。新生していない、いかなる人も、神がそうした人々にさらなる恵みを与え、永遠のいのちを授けなくてはならないほど立派な生き方をしたことはない。さもなければ、それはもはや恵みでなくて、当然支払うべきもの[ロマ4:4]であったであろう。救いは私たちに与えられたものであって、私たちが働いて得たものではない。私たちの最初の生は常に神からさまよい出ることであり、神へと立ち返っていく私たちの新しい生は、常に値しないあわれみの働きなのである。そのあわれみは、それを大いに必要としていながらも、決してそれに値しなかった者に発揮されたみわざにほかならない。

 それは、さらなる意味においても、私たちから出たことではない。すなわち、それは私たちの元々の、すぐれた性質から出たものではない。救いは上から来ている。決して内側から発達したものではない。永遠のいのちが、死のむき出しのあばら骨から発達することがありえるだろうか。ある人々の告げるところ、キリストを信ずる信仰や、新しい誕生は、単に生来私たちの中に隠されていた良い部分が発展したものにすぎないとすらいう。だが、このことにおいて彼らは、彼らの父と同じように、自分にふさわしい話し方をしている[ヨハ8:44]のである。方々。もし御怒りを受け継ぐべき子らが、自然な発展にまかされるとしたら、その人は、いやまさって、かの場所にふさわしいものなるであろう。悪魔とその使いたちのために用意された[マタ25:41]場所に! 新生していない人を取り上げて、最高の程度まで教育することはできるかもしれない。だが、その人は、罪の中に死んでいる者[エペ2:1]であり続ける。より高い力がやって来て、その人自身からその人を救い出すのでない限り、永遠にそれは変わらないに違いない。恵みは心の中に、全く異質な要素を持ち込む。それは向上させ、永続させるのではない。殺し、また生かす[申32:39]のである。自然の状態と恵みの状態との間には、何の連続性もない。一方は暗闇であり、もう一方は光である。一方は死であり、もう一方はいのちである。恵みは、私たちのもとにやって来るとき、海に落ちた燃えさしのようになる。それが確実に消し去られないとしたら、それには、かの奇跡的な資質がなくてはならない。大水をもくじき、火と光のその支配を、深海においても打ち立てる、あの資質が。

 恵みゆえの、信仰による救いは、私たち自身の力の結果かどうかという意味においても、私たち自身から出たことではない。私たちは救いを、創造や、《摂理》や、復活と同じくらい確実に天来のの行為であるとみなさなくてはならない。救いの過程のあらゆる点において、この言葉はふさわしいものである。――「自分自身から出たことではなく」。それを求める最初の願いから、信仰によってそれを完全に受け取る時に至るまで、それは常に主だけから出ており、私たち自身から出たことではない。信ずるのその人でも、その信ずることは単に、その人の魂の内側に神ご自身によって天来のいのちが植えつけられたことに発する多くの結果の1つにすぎない。

 この恵みのゆえに救われようとする意志そのものすら、私たち自身から出たことではなく、神からの賜物である。そこに、この問題の要がある。人はイエスを信じるべきである。神が、罪のためのなだめの供え物として公にお示しになった[ロマ3:25]お方を受け入れることは、人の義務である。しかし、人はイエスを信じようとしない。自分の《贖い主》を信じる信仰だけは好きになれない。神の御霊が審きについて確信させ、意志を強制しない限り、人は永遠のいのちに至るべくイエスを信ずる心にならない。私は、救われた人誰にでも、自分自身の回心について振り返ってみるよう、また、それがいかにしてもたらされたか説明してみるよう求めたい。あなたはキリストに立ち返り、その御名を信じた。それは、あなた自身の行為であり、行ないであった。しかし、何があなたをそのように立ち返らせただろうか? いかなる神聖な力が、このようにあなたを罪から義へと立ち返らせただろうか? あなたはこの奇異な刷新の原因を、これまで自分の未回心の隣人のうちに見られた、いかなるものにもまさる良いものがあったからだと云うだろうか? 否。あなたは告白するであろう。ある強力なものが自分の意志の発条に
触れ、自分の心の目をはっきり見えるようにさせ、自分を十字架の根元に導いてくれなかったとしたら、自分も今のその隣人と同じような者であったであろう、と。感謝しつつ私たちはこの事実を告白する。そうであるに違いない。恵みのゆえの、信仰による救いは、私たち自身から出たことではなく、私たちの中の誰ひとりとして、自分の回心について、あるいは、この天来の原因からあふれ出ている恵み深い努力のいかなるものについて、何らかの誉れを自分自身に帰そうなどと夢見ることはないであろう。そして最後の最後に、――

 V. 「《あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です》」

 救いは、テオドラと、すなわち、神の賜物と呼ぶことができる。そして、救われた魂はみなドロテアという仇名で呼ばれることができよう。これも同じ云い回しの別の表現である。言葉に言葉を重ねてみるがいい。解き明かしを大いに増し加えてみるがいい。それでも、救いを真の源泉にまで辿ってみれば、それは必ずこの、言葉に表わせないほどの賜物[IIコリ9:15]、無代価で無限の愛の祝福に含まれている。

 救いは、報酬と対立するものとして、神の賜物である。ある人が別の人にその報酬を支払うとき、その人は当たり前のことを行なっているのであって、誰もそのことゆえにその人をほめそやそうなどと夢見はしない。しかし、私たちが救いゆえに神を賛美するのは、それが当然支払うべきもの[ロマ4:4]を与えることではなく、恵みの賜物だからである。いかなる人も当然の報いとして地上で、あるいは、天国で、永遠のいのちに入ることはない。ことわざに云う。「貰い物ほど安上がりなものはない」、と。救いは、きわめて純粋に、きわめて絶対的に神の賜物であるため、これ以上に安上がりな、これ以上に無償のものはありえないのである。神がそれをお与えになるのは、かの壮大な聖句によれば、神がそれを与えることをお選びになるからである。それは多くの人々に、憤激のあまり唇を噛ませてきた聖句である。「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」[ロマ9:15]。あなたがたはみな咎あり、罪に定められている。そして、この《偉大な王》は、あなたがたの中から、ご自分の望む者をお赦しになるのである。これは、その王としての大権である。このお方は、恵みの無限の主権によってお救いになるのである。

 救いは神の賜物である。これは、完璧にそうだと云うことであり、成長という概念とは対立している。救いは内側から自然に生み出されたものではない。異質な領域から持ち来たらされ、心の内側に、天的な手で植えつけられたものである。救いは、ことごとく神からの賜物である。もしあなたがそれを有したいとしたら、それはそこに完全なものとしてある。あなたはそれを完璧な賜物として得たいだろうか? 「いや。私はそれを私自身の作品として生み出そう」。あなたは、これほど希有で高価な作品を創り出すことはできない。それにはイエスでさえご自分のいのちの血を費やさなくてはならなかったのである。ここには、上から全部一つに織った、縫い目なしの[ヨハ19:23]衣がある。それはあなたを覆い、あなたを栄光に富む者とするであろう。あなたはそれを得たいだろうか? 「いや、私はその織機に座り、私が私自身の着物を織り上げよう!」 高慢な馬鹿である、あなたは! あなたは蜘蛛の巣を紡いでいるのである。一場の夢を織っているのである。おゝ! キリストが十字架上で完了したと宣告したものを、あなたが無代価で受け取るならどんなに良いことか。

 それは神の賜物である。すなわち、たちまち過ぎ去る人々の賜物とは逆に、永遠に安泰である。「わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います」[ヨハ14:27]、と私たちの主イエスは仰せになっている。もし私たちの主イエスが、今この瞬間にあなたに救いをお与えになるとしたら、あなたはそれを得て、永遠にそれを得ているであろう。主は決してそれを取り返したりなさらないであろう。そして、もし主がそれをあなたからお取り上げにならないとしたら、誰にそれができようか? もし主が今あなたを信仰によってお救いになるとしたら、あなたは救われている。――決して滅びることなく、何者も主の御手からあなたを奪い去るようなことがない[ヨハ10:28]ほどに救われている。願わくは、私たちの中のあらゆる人にとってそれが真実となるように! アーメン。

 

ただ恵みによって[了]

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