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熱心な懇願

NO. 3470

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1915年8月5日、木曜日発行の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「あなたの奇しい恵みをお示しください」。――詩17:7


 もしもある人が女王との、あるいは、誰か他の王族との謁見に臨もうとしているとしたら、大概はこう云うことであろう。「私は、どのように振る舞えば良いだろうか? 何をしたら良いだろうか? どんな口の利き方をすれば良いだろうか?」 さて、大いなる《王の王》、永遠の神の御前に進み入る際に、震えおののく悔悟者はこう云うと思われよう。「私はどうすれば良いだろう? 何によって私は《いと高き神》の前に出れば良いのだろう? どんな言葉を用いれば良いのか、また、どんな形で私の願いを云い表わせば良いのだろうか?」 よろしい。聖書は、こうした質問に対する答えで満ち満ちている。というのも、あなたの手近には、幾百もの適切きわまりない祈りがあるからである。もし誰かが《典礼式文》は良いものだと信じているとしたら、しごく容易に《聖書的な典礼式文》を編むことができよう。また、人の心に浮かびうるいかなる願いのためにも、聖書的な言葉を見いだすことは困難ではあるまい。聖書は、その他の一切の卓越性に加えて、一冊の偉大な、また万能の祈祷書であり、あらゆる種別の、あらゆる状況にある、あらゆる時期の人にふさわしい数々の嘆願を含んでいる。その人の願いや必要が何であっても関係ない。さて、私はこの祈祷書から、この1つの短い請願を取り上げようと思う。神の子どもたちが、私と一緒になってこれを祈るであろうことを私は知っている。また、そうし終える前に、私が期待するのは、これまで一度も祈りなどしたことがないという幾人かの人々が、これをその最初の祈りとすることである。「あなたの奇しい恵みをお示しください」。さて、第一のこととして、私たちはこの祈りをささげるに際して、――

 I. 《神がその奇しい恵みを、私たちの瞑想の中で示してくださるよう願う》ことができよう。

 そこにおいて私たちは、いかに奇しい恵みを期待できるであろう。それは永遠の丘[創49:26]ほどにも古い。――だが、それがいかに古くとも、また、いかに威光に満ちたものに違いなくとも、それを決して見たことのないいくつかの目がある。他の人々も、自分の聖書を読み、福音説教を幼少期から聞いてきたとはいえ、一度も神の奇しい恵みを見てとったことがない。ならば、私たちはしばしの時を瞑想に費やそうではないか。そうすることによって、この祈りを主に聞いていただき、私たちがこのことに思いをひそめる間、その恵みを私たちに示していただこうではないか。

 見ての通り、この聖句[恵み(loving-kindness)]の基語、また、中核となる語は、「愛」[love]である。それがいかに異様なものであったか思い出そう。まさに愛によってこそ、世界が形造られる前から神はご自分の民を選び、彼らをご自分の契約の中に記載してくださった。《全能者》が予知眼により、全人類は自らの罪によって破滅に埋没するとご覧になったとき、その御指はひとり、またひとりと指差された。「そこにわたしはとこしえに住もう。それを、わたしの安息の場所としよう」、と《万軍の主》は仰せになった。「わたしが彼を選んだから」*[詩132:14]。あなたや私を神に選ばせたとは、いかなる愛であったことか! あるいは、このこと以外のいかなる動機によって神が動かされることがありえただろうか? すなわち神は、ご自分のあわれむ者をあわれみ、ご自分のいつくしむ者をいつくしまれる[ロマ9:15]のである。選びの愛がこの泉を掘ったのである。考えてみるがいい。愛する方々。この契約を結び、私たちの贖いをもたらしたこの愛がいかに広大なものであったことか。そのとき《三位一体》の御位格は、互いにこの契約を取り決め、その契約の処置によって、キリストにある契約の神を通してその子孫全員のための数々の約束が確実なものとされることとなったのである。どうかよくよく考えてほしい。その契約がいけにえを要求したときも冷えることがなかったその愛を。御父の愛する御子がその犠牲とならざるをえなかったときも断たれなかったその愛を! 確かにソロモンはこのことを念頭に置いてこう云ったに違いない。「大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません」[雅8:7]。イエスはその父母を離れ、《花嫁》と結び合い、両者は一体[創2:24]となったではないだろうか? 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの《贖い主》として御子を遣わされた。ここに愛があるのである[Iヨハ4:10]。カルバリにおける苦しみの物語をもう一度語る必要があるだろうか? 私たちは、その絵図を一千回も真紅の絵の具で描き出してきた。私たちの絵筆をかの血の汗に浸して、聖徒たちのこの大いなる《身代わり》の苦悶の数々を明らかに示そうとしてきた。見よ。私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父はいかに素晴らしい愛を与えてくださったことか![Iヨハ3:1] 私たちはその愛の結果を知っている。愛こそ、遠くにいた[エペ2:17]あなたを召し、罪の中に死んでいた[エペ2:1]あなたを生かし、自分の腐敗の墓の中からあなたをよみがえらせたものであった。愛こそ、あなたの顔をシオンに向けさせたものであり、愛こそ、その顔をそのままにさせているものではないだろうか? 私たちは、愛が土台石を置き、愛がこの建物を一石一石積み上げ、愛が、「恵みあれ。これに恵みあれ」[ゼカ4:7]と叫びながら冠石を持ち来たるであろうと云って良いではないだろうか? おゝ! この、始まりもなく、決して決してやむこともない、無比の愛の物語を読むとき、私は不思議に思う。なぜ私たちの心がことごとく火と燃やされないのか、なぜ私たちの情熱がほとばしらないのか、また、なぜ私たちの唇が、燃えたぎる溶岩を山腹にみなぎり落とすヴェスヴィオ山の唇のようにならないのか、と。確かに私たちの魂は、これほどの愛のためには、白熱と天的な炎を感じてしかるべきである。主よ。私たちがこうした事がらを熟考する間、「あなたの奇しい恵みをお示しください」。

 しかし、あなたは、この愛が「親切」[kindness]に終わっていることに気づくであろう。ある種の親切は愛あるものではないかもしれない。また、その一方で、ある種の愛は親切ではないかもしれない。私たちの知っているある人々は、貧者に非常に親切にするが、彼らを愛そうなどとは全く考えたこともない。私たちは、黒人たちに親切であろうと思う何千人もの人々に毎日出会うが、彼らは彼らを愛そうなどとは思いもしないであろう。そして、やはり私たちが知るところ、ある種の愛は親切ではない。あるいは、その根底には親切心があるが、その現われにおいてはあまり優しくも、思いやり深くもない。愛は時として冷酷になりうる。あるいは、少なくとも、それは深く切りつけ、鋭い痛みをもたらすことがありうる。人の性質の弱さゆえに、あわれみと同情を施さなくてはならないことを忘れているのである。さて私たちは、私たちに対する主のお取扱いを調べてみるとき、その愛を示す数々の壮大なしるしと同じように、その親切心のきめ細かな特徴をも思い起こすべきである。愛する方々。主が、あの契約の中で私たちのための備えをしたとき私たちに供してくださったのは、単にご自分の民を生かしておくに足るだけのパンと水ではなく、イエスの血というふんだんな葡萄酒であった。主はあなたのために、イエスの義という緋色の亜麻布を、また、天来の約束という心地よい枕を、また、恵み深く甘やかな永遠の平安という柔らかな寝床を供してくださった。主があなたに供してくださったのは、あなたが嵐から身を避け、慎ましい満足をもって自分の魂を慰めるための場所ではなく、数々の喜びのある天国であった。――目が見たことのない、耳が聞いたことのない、そして、人の心に思い浮んだことのない[Iコリ2:9]天国である。この愛の泉からは、親切という流れが噴出し、あふれ流れているのである。主がその恵みによってあなたを召されたとき、いかに優しくそうされたことか! あなたはキリストのもとへ鞭で追いやられたのではない。あるいは、たといそうされたとしても、いかにその鞭の跡はたちまちあなたの背中から消え去ったことか! いかに親切に主はあなたを出迎えてくださったことか! おゝ! 主の十字架の根元にあなたが震えながらやって来たあの日よ! いかに主はあなたをかきいだき、あなたに口づけしてくださったことか! いかに主は叫ばれたことか、「この襤褸を脱がせて、一番良い着物[ルカ15:22]をこの子に着せよ」、と! いかに主はあなたの倦み疲れた足の水ぶくれを癒し、銀の履き物を履かせ、あなたを喜び踊らせてくださったことか! いかに気前良く主は、あなたに王子のような豪勢な衣裳を装わせ、純金の冠をあなたの頭にかぶらせ、この上もないあわれみの思いと、この上もなく優しい恵みの言葉をあなたにかけてくださったことか。そのため、あなたの心は、かつては悲嘆のあまり張り裂けそうだったものが、喜びのためはちきれそうになったことであった! 主よ。私たちが最初にあなたを知った日から今の今に至るまで、いかにあなたが私たちに対して親切であられたかを思うとき、私たちはまことに、自分がいま以上にあなたを愛していないことに驚嘆して当然です。そして祈ります。あなたのあわれみの行ないを考え巡らす間に、あなたがその奇しい恵みをお示しくださるように、と。

 おゝ! しかり。これはまことに「奇しい」! 私たちは、そのことについて一言云わなくてはならない。何にもまして驚異の念をかき立て、絶えざる驚きを感じさせてやまないのは、神の愛である! 人々は私たちに奇蹟などというものはないと告げるだろうか? 何と、あらゆるキリスト者は彼らの申し立てに対する生きた答えである。奇蹟などというものはない! 一個の信仰者が毎日存在していることは、自然法則では説明のつかない一連の奇蹟である。あらゆるキリスト者があなたに告げるであろう。自分の経験は、自分の信仰の始まりから今日まで奇蹟的なものであったし、最後に至るまでそうあり続けるだろう、と。これは何という驚異であろう。兄弟たち。神が、あのようなしろものであった私たちに対してその恵みをお授けになることがありえたとは。私たちは、間違ったことを何1つ行なったことがないという、善良な人々のひとりではなかった。私たちの性向や性格の中には、私たちを好ましく思わせるものが全くなかった。私たちは罪人であった。私たち自身の目からしても、最も毒々しい色合いの罪人であった。そのもろもろの不義は、二度染めの緋色のようであった。だが神は私たちをあわれまれた! 私たちは貧しく、無学で、弱々しく、友もいなかった。だが神は私たちを可哀想に思ってくださった。多くの有力者や貴人を見過ごし、神は、人の秩序からすると取るに足りない者や見下されている者[Iコリ1:28]を召された。それは、彼らが、神に面倒を見られる愛し子となり、神の目に高価で尊い[イザ43:4]者となるためであった。どこから神は私たちを召されただろうか? 私たちの中のある者らの場合、愚か者どもの遊興の中からである。酔いどれ仲間たちの中から、遊女のたまり場の中からである。あるいは、あなたがたの中の別の人々の場合、盗人のねぐらから、嘲る者の座から、あるいは、冒涜する者の椅子からである。そして、たとい犯罪にどっぷり漬かってはいなかったとしても、あなたは、ことによると、自分を義とする思いで高ぶり、そのようにしてサタンの要塞内に堅く握られていたかもしれない。私たちは、自分がいかなる者であったか、また、どこから出てきたかを思うとき、この恵みが実に奇しいものであったに違いないことを見てとる。それから、もし神の召しがなかったとしたら自分がどうなっていたかを思い起こす場合、ここにもやはり驚異がある! 何と、私たちは地獄にいたことであろう。確かに私たちはそうなるべく熟し切っていたはずである。もはや希望が決して達しえない場所へ向かってひた走っていたはずである。そして、さらに神がいかなるものへと私たちを召しておられるかを考えてみるがいい。おゝ! これは何と奇しいことか! 犯罪人が子どもとされ、反逆者が王子とされ、裏切り者が王冠を戴いているのである。かの火焔のためにふわさしい燃えさしのようでった私たちが、棕櫚の枝を振り、冠をかぶり、歌を歌っているのである。私はあなたがこれをどう考えているか分からないが、兄弟たち。信仰者たちに対するこの神の恵みの数々の行為は、どこから見ても、私には奇しい恵みとしか思われない。そして私たちは、次第に目が澄んできて、この祈りをささげたい心になるのである。「あなたの奇しい恵みをお示しください」。こうした偉大な恵みの数々の行為についての瞑想は、感恩の念を促す非常に大きな傾向がある。そして私たちが時々、時間を取り分けて、自分の想念と記憶の中で、この、イスラエルの情け深い神の力強い行為のすべてを思い返して辿ってみるならば、それは有益であろう。しかし、私は第一の点については十分に語った。それで、手短に第二の点について語ることにしよう。確かにダビデはこう云おうとしていたのであろう。――

 II. 「あなたの奇しい恵みを私たちの経験の中でお示しください」

 向こう側には、今晩この場所に来ようなどとは全く思ってもいなかった人がいるかもしれない。その人がここにいるのは、ただこの建物の前を通りかかったとき、非常に大勢の人々を見て、自分も足を踏み入れてみようかという気を起こしたためである。だが、すぐに出て来ようと固く決心してはいた。だが、どういうわけか、ここにその人はいる。その人に云おう。あなたは今までの自分がいかなる者であったか分かっている。私は、あなたのもろもろの罪をこの集会の面前で詳しく述べようとは思わない。だが、思い知っておくがいい。夜の暗闇もそれらを覆い隠してはこなかったし、あなたの同類たちの守る沈黙もそれらを隠してはいなかった。すべての心を探り、思いを調べる主があなたの不義をご存知である。その造作の何1つ主の御目から隠されてはいない。それでも、《万軍の主》は今晩あなたにこう仰せになっている。「悔い改めよ。立ち返れ。なぜ、あなたは死のうとするのか」*[エゼ33:11]。そして、私はこのようにあなたに云うものである。――今夜、この祈りをささげるがいい。そうすれば、神があなたをあわれんでくださり、あなたが滅びずにすまないと誰に分かろう? 今こう祈るがいい。あなたに代わって私が声に出して云おう。「あなたの恵みをお示しください」。あなたがこう云うだろうことは私も承知している。「もし神が私をあわれまれるなどということがあるとしたら、それは非常な驚きだ。もし神が私の心を変えて、私を聖徒にしたりするとしたら、それは実に驚異だ!」 その通りである。罪人よ。だが、だからこそ私はこの祈りをあなたの口に授けているのである。というのも、それはまことにあなたにうってつけのことだからである。「あなたの奇しい恵みをお示しください」。あなたは自分が驚くほどの罪人であることを見てとっていないだろうか? あなたは驚くほどの恩知らずであった。驚くほどあなたは自分の罪をはなはだ重いものとしてきた。驚くほどあなたは母親の涙に反抗してきた。驚くほど父親の忠告を拒み通してきた。驚くほど死を笑い飛ばしてきた。驚くほどに死と契約を結び、地獄と同盟してきた。しかし、あなたと死との契約は破られ、あなたの地獄との同盟は取り消される。大いなる不思議を行なわれるお方が今晩あなたと出会って、こう仰せになるのである。「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、羊の毛のようになる。たとい、紅のように赤くても、雪よりも白くなる」*[イザ1:18]。あの木の上で死んだお方を信ずるがいい。ご自分のからだにおいて、自ら私たちのもろもろの罪を負われたこのお方を。イエス・キリストのうちには、このお方に目を向ける者たちのためのいのちがある。キリストを仰ぎ見るがいい。愚か者。今そうして、生きるがいい。私は願う。この祈りがこの会衆の中の多くの部分で受け取られ、イスラエルの散らされた者らであった何人かの人々が、「あなたの奇しい恵みをお示しください」、と祈るようになるように、と。しかり。私は向こうにいる青年とその過去を知っている。彼は何箇月も自分の魂について煩悶してきた。説教に次ぐ説教が彼の心をかき乱してきた。彼は眠れない。自分の小さな部屋に赴いては、自分の神に叫ぶ。今やほとんど絶望の淵にある。そして悪魔は彼を誘惑して自殺させるか、すべての希望を放棄させる間際にある。「おゝ!」、と彼は云う。「神はぼくのことなど決してあわれまれないだろう。そんな望みは途方もなく大きすぎる。そんな期待は異様でありすぎる」。青年よ。ここには、あなたのための新しい祈りがある。「あなたの奇しい恵みをお示しください」。私は、ある貧しい老女のことを聞いたことがある。彼女は長いこと罪意識に打ちひしがれていたが、《救い主》を見いだしたときにはこう云ったという。もしイエス・キリストが自分をお救いになりさえしたら、自分は決して黙ることはすまい。息の根が絶えるその時まで、私は主を賛美するだろうから、と。私は、私自身そう思っていた時のことを思い出す。もしイエス・キリストが私を救ってくれさえしたら、私はキリストのためにいかなることをも行なおうと思っていた。そして、もし誰かが私に、あなたは可哀想な冷淡な薄のろだと――事実その通りであったが――告げていたとしたら、私はその人を信じなかったであろう。また、いかなるキリスト教信者も、自分がそう云われたとしたら信じないであろう。私たちは、自分がキリストのために何でも行なえるものと思っていた。殉教者たちのように焼き殺されることも、しもべたちのように生きることもできると思っていた。私たちはそのようにしたことはないが、だがしかし、奇しいことに神は私たちをお救いになるのである。青年よ。この祈りを取り上げるがいい。私は、それを家へ持ち帰るがいい、と云おうとしていた。だが私は、あなたとこの祈りとの間に、ほんの半時間も差し込ませたくはない。今、あなたの手をあなたの目に当てるがいい。あるいは、もしそうしたくないというのであれば、あなたの魂の中でこう云うがいい。「おゝ! 神よ。あなたは大いなる不思議を行なわれるお方、《奇蹟》を行なわれるお方です。あなたの奇しい恵みをお示しください」。何と、この祈りは、今晩この場にやって来ている、そこの、キリストにある私の兄弟に全く似つかわしいであろう。彼はキリスト者である。だが、長いこと信仰後退者であった。あわれな人! 彼の兄弟たちは、非常に冷ややかな目で彼を眺めてきた。そして、彼らがそうするのも当然である。というのも、確かに彼は神の御国の進展に泥を塗ったからである。だが、それらすべてにもかかわらず、彼は神の子どもであり、主はなおも彼を愛しておられる。兄弟よ。あなたは大いに抑鬱してきた。主が自分のことなど見捨てたのだと思ってきた。そして今、自分が主のものであるなどありえないと考えんばかりになっている。よろしい。今ここに、あなたにうってつけの祈りがある。「あなたの奇しい恵みをお示しください」。確かに主が、あなたの砕かれた骨をもう一度喜ばせ[詩51:8]、救いの喜びをあなたに返して[詩51:12]くださるとしたら、それは奇しいことであろう! そして、主はそうしてくださるであろう。もしあなたがこの祈りを申し上げさえすればである。そして私は知っている。向こうにいる友よ。あなたは仕事で多大な損失をこうむり、立て続けに試練に遭い、波また波に翻弄されている。――

   「汝れ日々新たな 苦境(つらみ)目にして、
    この眺めのいつ やむやと惑う」。

兄弟よ。神にはあなたを解放することがおできになる。おゝ! このような神を相手にしているとは何たる祝福であろう! あなたの大きな重荷をかかえてみもとに行き、こう云うがいい。「主よ。ここには驚くべきみわざが必要です。あなたの奇しい恵みをお示しください」。しかし、あなたは云うであろう。自分は非常に特異な状況に置かれているのです、と。その通りである。今この聖句の言葉を取り上げるがいい。あなたがた、恵みにおいて老いつつあり、それと同時に肉体的に衰えつつある人たち。あなたはこう云えないだろうか? 「いま主よ。今、あなたのしもべが現世を去る前に、また、この白髪頭が谷の土くれ[ヨブ21:33]とともに横たわる前に、もう一度私にあなたの奇しい恵みをお示しください」。そして私は、この祈りこそ、自分が死ぬときにいだいていたい祈りだと思う。かの冷たい流れが足首を越え、膝にまで達するとき、また、その増水があごにまで至るとき、死に臨んでこう云えることはいかに甘やかなことであろう。「あなたの恵みをお示しください」。これはあなたが死ぬのを助けるであろう。かの敵に、勝利の叫びをもって立ち向えるようにしてくれるであろう。しかり。あなたは、ヨルダンの岸辺に立つとき、そこに神聖な柱をもう1つ立て、それから喜びとともに上っては、天で歌うであろう。「あなたの奇しい恵みをお示しください」。それで、この祈りは初信者の役に立ち、また、同じように自分の走路を終えようとしている人にも適している。私はこれを、アルファの祈りであり、オメガの祈りであると呼べよう。赤子にふさわしく、強い人にもふさわしい。あなたがたひとりひとりは、これを取り上げ、こう云うがいい。「あなたの奇しい恵みをお示しください」。そのようにこの祈りを、まずは瞑想のために、続いて経験のために取り上げた後で、私たちはこれをこのようなものとして取り上げたいと思う。――

 III. 《何らかの顕著な恩恵のために好ましい要求》

 「あなたの奇しい恵みを、今のこの時、私に対する何らかの特別の啓示によってお示しください」。私は、最上のヘブル語翻訳者のひとりがこのことを示していると思う。「あなたの恵みを際立たせてください」。私はどれを引用すべきか分からないが、彼らの何人かはこの箇所をこのようなしかたで扱っていると思われる。「主よ。あなたは非常に数多くの恵みをお持ちです。私はたった今大きな苦難の中にあります。あなたの恵みの1つを引き立たせてください。――際立たせてください。――私が並外れた必要を覚えている時に私に何か並外れた恵みをお与えください。あなたの奇しい恵みをお示しください」。もしあなたが「奇しい」という語に強調を置くなら、そのときあなたはその要点をつかむであろう。確かトラップだと思うが、彼はこう云っている。「神は火事場で見事な働きをなさる」。そして、彼はこの素朴な云い回しに非常に多くの意味をこめている。あなたや私が何も行なえない時、必死の努力を要する状況に至るとき、そのとき私たちは私たちの神を必要とし、そのとき私たちは神にこう申し上げることができる。「今こそ、主よ。あなたのいつものいつくしみにまさるものを 私にお示しください。あなたの奇しい恵みをお示しください。おゝ! 《全能者》に何ができるか、私たちに見せてください! 人間の知恵は働きません。《全能者》が私たちの助けに来てください。主よ。私たちは途方に暮れています。願わくは、この私たちの窮地をあなたの好機としてください。あなたの奇しい恵みをお示しください」。あなたは、私たちが今晩この卓子を囲み主の晩餐にあずかる際に、この祈りを用いる権利を保証されるはずだと思わないだろうか? (私の説教は、その中に説教よりは祈りの方を多く含んでいるように思われる)。主よ。ここには、あたなのからだと、あなたの血との象徴があります。今「あなたの奇しい恵みをお示しください」。おゝ! どうか私たちに、何かえり抜きの吉瑞をお与えください。何か特別のあわれみ、前回私たちがこの聖餐式に集ったときには受けなかったようなあわれみをお与えください。主よ。私たちは非常に倦み疲れています。私たちはこの世で悩まされています。私たちには安らぎが必要です。私たちに何か奇しい平安を、何か神聖な静謐を、何か私たちが以前は知らなかったような甘やかな静穏さお与えください。私たちはここに集まっています。信仰者として私たちはこう云えないでしょうか? 「あなたは1つも祝福を持っておられないのですか? お父さん、それを私に、どうか私に与えてください。お父さん」。私がいつも心配しているのは、教会として、あなたがたの種々の恵みが衰えないか、あなたがたの熱心が冷えないか、あなたがたの祈りが弱々しくならないか、この教会の瑞々しく活発ないのちが枯れ始め、木の葉を落とし始めないかということである。私はこの祈りをあなたがた全員に代わってささげよう。――主よ。私たちに今晩、信仰復興の時期をお与えください。「あなたの奇しい恵みをお示しください」。いま私たちに、天来のご臨在をもって触れ、私たちを生かしてください。あなたの霊のご臨在によって私たちを光で照らし、あなたの御子の囁きによって慰めてください。もしあなたがたの中の誰かが意気阻喪しているとしたら、私は祈る。あなたが今晩、「奇しい恵み」を示されるように。また、主があなたのパン切れをご自分の杯に浸してくださるように。また、あなたが主の御胸にもたれかかり、主の食卓から食べさせていただけるようにと。あなたがた、力衰えている聖徒たち。私は祈る。あなたの《力》なる主がご自身をあなたに現わしてくださるように。また、主が、えり抜きの啓示により、あなたに御恵みを発することにより、あなたをご自分へと引き寄せることにより、あなたを元気づけ、清新にさせてくださるようにと。このようにしてあなたは今晩、この祈りの意味を完全に解き明かされ、確証されたわけである。「あなたの奇しい恵みをお示しください」。愛する兄弟姉妹。あなたがそうかどうか私には分からないが、私の場合、「奇しい恵み」の幻を得ることが時としてある。そうした時には、いかなる疑いもその影を私の魂に落とすことはない。いかなる恐れも私を怯えさせず、いかなる思い煩いも心を散らさない。あなたがたのための私の懸念でさえ黙らされる。私はいかなる人の過失も思い出さない。私自身の数々の苦難を思い起こさない。のしかかる仕事の圧力も、逆境下の危険の数々も考えない。むしろ、すべては最初から最後まで恵みなのである。私の魂は、このことに非常な喜びを覚える。力強い泳ぎ手のように、私たちは主の楽しみという川に浴して泳いでいる。私たちは底へ潜っては、また浮かび上がる。その霊は恍惚感に満たされ、歓喜にあふれる。こうした時期は、それがやって来るときには、私たちに清新な労働を成し遂げさせ、将来の試練を耐え忍ぶ強さを与えてくれる。それらは実に、エリムの泉であり、そこにあるなつやめしの木[出15:27]であり、その陰に私たちは座って、のどを潤せるのである。願わくは今晩が私たちにとって、そうした時期に似たものとなるように。

 しかし、あなたがたは、あなたがたの中の多くの人々は帰宅しようとしている。私は切に願う。その円柱の下をくぐるまえに、ぜひともしばし立ち止まり、「あなたの奇しい恵みをお示しください」、と云っていただきたい。私たちはみな、こう祈ろうではないか。「おゝ、主よ。あなたの奇しい恵みをお示しください。私にそれをお示しください」。

   「われ罪人の かしらなるとも
    イエスわがために 死にたまいけり」。

「『あなたの奇しい恵みをお示しください』。おゝ! 私をお赦しください。私は心からあなたの御子を受け入れます。心からイエスを信じます。このお方が私の魂をお救いになれることを信じます。そして、私の魂は、このお方だけにより頼んでいます。主よ。イエスのゆえに、『あなたの奇しい恵みをお示しください』」、と。アーメン。

 

熱心な懇願[了]

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