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さらにさらに

NO. 3459

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1915年5月20日、木曜日発行の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます」。――ヤコ4:6


 いかにヤコブ書が実際的な手紙ではあっても、この使徒は神の恵みを賞揚することをおろそかにしてはいない。さもなければ、彼はきわめて非実際的になったであろう。キリスト教信仰を告白する人々の中には、自分は教理は愛するが、義務の方は大嫌いだと云わんばかりの人々がいる。彼らは信仰にはしがみつきながら、行ないからは後ずさりする。告知される原則は受け入れるが、命じられる戒めは拒否する。この点で彼らは間違っている。だが私たちが、同じくらい、また、ことによると、それよりもはなはだ深刻な過ちを犯すことになるのは、それとは正反対の方向に偏った考え方をする場合である。私たちは、何かと云えば自分たちのなすべき大きな事がらを解き明かし、強く主張していながら、自分たちのためになされた、はるかに大きな事がらには言及しないでいることはなかっただろうか? 数多くの果実のことは推賞しながら、それらが生え出てきた大本である根のことを無視してはいなかっただろうか? 人間のわざを声高らかに是認しながら、神の恵みをほめたたえることをしないということはなかっただろうか? 幸いにも私たちは、その双方を教えられてきた。聖徒であることと仕えることを。契約の約束と同時に被造物としての責務を。天来の力によって強められることと、信仰者の中で種々の能力がすでに働いていることとを。そのようにして私たちは、いかに恵みの原理が敬虔の実践と合同し、協力し合っているかを、苦もなく見分けることができるのである。生まれながらの敵する[ヤコ4:4]霊に対する私たちの争闘において、恵みは「さらに豊かな恵み」の形を取って、私たちに授けられる。私たちが打ち勝って、勝利を得るためである。

 私たちが第一に行ないたいのは、本日の聖句のいくつかの言葉をその自然な前後関係によって考察することである。第二に、そうした言葉の一般的な教えについて思い巡らしたい。それから第三に、そうした言葉を特別の適用に結びつけ、私たちひとりひとりがそれを自分自身に当てはめるようにしたいと思う。

 I. 《本日の聖句とその自然な前後関係》

 この件を正面から眺めるとき、あなたは大きな対比があることに気づくであろう。単に何かが比較がなされているというだけでなく、2つの力強い動機が対立させられているのである。1つは強力な本能であり、もう1つは惜しみなく与えられた贈り物である。「私たちのうちに住む霊は、ねたむほどに渇望する。しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます」[ヤコ4:5-6 <英欽定訳>]。私たちの側にあるのは、1つの「霊」――荒れ狂う1つの情動である。神の側にあるのは、甘やかな優しさ――さらに豊かな恵みの供給である。私たちはやきもきし、ぶつくさ呟き、気をもみ、不平を鳴らす。神は、与え渋ったり、出し惜しんだり、差し控えたりするどころか(それが、至当な報復であったであろうが)、私たちを援助し、ご自分の物惜しみのなさをいや増し加えて大きくしてくださる。あたかも、私たちの片意地さが悪化していくのを、ご自分の譲歩を拡大することによって埋め合わせようというかのようにである。私たちのうちにある霊は神に不平を云う。まるで神が私たちよりも他の人々により多くのものを与えたことをねたんでいるかのようにである。それでも、神のうちにある霊は、こう云って与え続けられる。「わたしが気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのか。わたしは自分のものを自分の思うようにしてよいではないか」*[マタ20:15]。私たちのうちにある霊は、自分が所有しているものを過小評価する。なぜなら、いくつかの面において、それは誰か他の人が所有しているものほどには尊くないかもしれないからである。だが神は、私たちがご自分のことをこれほど不当に判断したからといって、ご自分が与えたものを私たちから取り上げる代わりに、さらに豊かにお与えになるだけなのである。「神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます」。人は、「私たちのうちに住む霊が、ねたむほどに渇望する」がゆえに、神は私たちに逆らい立ち、天のかめ[ヨブ38:37]を差し止め、私たちの上にもはや露が下りないようにし、ご自分の愛の恩恵をみな差し控えられるはずだと考えたかもしれない。しかし、否。この聖句は、「神は私たちに逆らい立たれる。私たちはある方向に走り、神は別の方向に走っておられる」、とは云っていない。神の思いは私たちの思いとは異なり、神の道と私たちの道は違う[イザ55:9]。また、私たちの道は神の道とは違い、私たちの思いは神の思いとは異なる。私たちは神へと高まることはなく、神は私たちの程度まで身を落としたり、そのご性格を卑しめることはなさらない。厳密な報復律法が実行されるとしたら、当然に私たちが受けてしかるべき仕返しを私たちに与えるようなことはなさらない。見てとるがいい。いかに私たちが弱く、いかに神が強いことか。いかに私たちが高ぶり、いかに神が謙遜であられることか。いかに私たちは過ちを犯し、いかに神は無謬であられることか。いかに私たちは変わりやすく、いかに神は不変であられることか。いかに私たちが怒りを招き、いかに神が赦しに満ちておられることか。見てとるがいい。いかに私たちのうちには悪しかなく、いかに神のうちには善しかないことか。だが私たちの悪は、神のいつくしみを引き寄せるばかりで、なおも神は祝福してくださるのである。おゝ! 何と滋味豊かな対照であろう!

 私たちはここで、自分がいかなる方面から自らの罪との戦いの武器を引き出すべきか、1つの示唆を得るではないだろうか? 「私たちのうちに住む霊は、ねたむほどに渇望する」。あなたがたはこれに対して何と云うだろうか? それゆえに座り込み、これが自分の性質の明確な本能なのだから勘弁してもらおうと考えるだろうか? あなたは、ねたみが天性の性癖であり、多くの人々の有する渇仰する情動であると云うのか。また、それゆえ、道徳的罪悪というよりも、精神的傾向であるとみなされるべきだと云うのか。人の良心における過誤というよりも、体質的な弱点である、あるいは、悪くてせいぜい、苦悩を与えるような誘惑であり、神に対する嫌悪すべきそむきの罪などとみなすべきではないと云うだろうか? あゝ! 否。私の兄弟たち。聖書のどこを探そうと、少しでも何らかの罪の肩を持ったり、ごくかすかにでもそれを大目に見たりするような言葉は一言も書かれていない。免償状はローマからはやって来るかもしれないが、決してシオンからはやって来ない。私の知っているある人々は、癇癪を爆発させた後で、平然とこう認めることで自己正当化をはかろうとする。「私は、いつだって短気な質でしてね」。これは、罪をはなはだ痛烈に重くすることでなくて何だろうか? あなたは、自分の罪が長年のものであること、しばしば繰り返されてきたことを認めているにすぎない。実際あなたは、自分のいやまさる咎を告白しているのである。そして、そこには、それを悔やむ何の後悔も、それを捨てようとする何の罪の確信の力もない。ねたみもそれと同じである。「私たちのうちに住む霊は、ねたむほどに渇望する」。それだけ私たちの霊は悪いものであり、それだけ私たちには大きな咎がある。これは、単に私たちの環境が明らかにする弱さというだけでなく、被造物の動物的な卑しい傾向という先天的特性である。おゝ! 天性は何と汚れ果てたものに違いないことか。悪徳が、クシュ人にとっての黒い肌や、豹にとっての斑点[エレ13:23]と同じくらい自然なものとなっているのである! あなたがいかに訴えても無駄である。恥をいや高くすることはできても、罪を軽くすることはできない。あれこれと言を左右にする理由は全くない。あるのは、むしろ戦闘準備命令である。「神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます」。これは、次のように云っているも同然である。「冷ややかに座り込み、あなたのうちにあって、ねたむほどに渇望している霊と裏取引していてはならない。むしろ、立てよ! 抵抗し、阻止し、反抗せよ。あなたがそれを消し去るまで!」 ここには、この激烈な対決においてあなたに手ほどきする助言がある。かの悪の霊には、きよく敬神の念に富む霊で立ち向かわなくてはならない。この戦いの武器は肉の物ではない[IIコリ10:4]。恵みの武器庫内にのみ見いだされる。「神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます」。あなたは、自分のもろもろの罪を非難することでそれらに打ち勝つことはできない。あなた自身の心の土壌には決して生えなかった種々の美徳に対する賞賛をいだくことで、そうした罪の悪行を挫折させることはできない。また、いかに決心しても道徳律法を守ることはできない。将来キリスト教的な種々の奉仕を行なうことによって、あなたの過去の人生の邪悪さを償うことも不可能である。こうした目論見や、こうした努力の数々は、イシュマエルの民族には似つかわしいものであろう。彼らは奴隷の境遇にあるからである。だが、私たちは自由の女の子ら[ガラ4:31]であり、天国を得たいという希望や、地獄に送られることに対する恐怖に動かされて聖潔へと向かわされはしない。私たちは、それとは異なる契約の下にある。彼らはシナイと関係しており、それは人を震えさせる。私たちは律法の下にはなく、恵みの下にあり、他の議論が私たちを説得する。自分の罪と戦うための武器を欲するとき、私たちは天来の愛に目を向け、こう云う。「見るがいい。いかに神は私たちを愛してくださったことか。私たちが神に対して愛のない仕打ちをできるだろうか?」 あるいは、私たちはカルバリへ行き、それが私たちの《愛する方》にとっていかに苦いものであったかを見てとる。私たちは、主の心臓を刺し貫いた槍を手に取り、それが私たちの罪の心臓を刺し貫けないかどうか見てみる。また、主をかの木に釘づけた釘を手に取り、聖霊が私たちの肉を、様々の情欲や欲望とともに[ガラ5:24]十字架につけてくださるように祈る。私たちの戦いは、モーセの武器庫から出た武器によって行なわれはしない。ダビデの盾と槍の方がずっと私たちの手に馴染む。私たちは、私たちを危険から守り、私たちに力を帯びさせてくださる生ける神を信ずる信仰によって、獅子を引き倒し、わらべのように熊を引き裂き、ペリシテ人を征服する。その右の御手の助けにより、私たちは敵を打ち破ることを期待する。私たちは、律法的な奴隷状態に逆戻りするつもりはない。私たちには、「さらに豊かな恵み」がある。そして、恵みとともに、常にやって来るのは、喜び、平安、安全である。罪をほしいままにふるまわせるものだとしばしば論じられてきた当の教理こそ、実は、罪を転覆させ、征服するための道を示しているのである。こういうわけで、この聖句は、私たちが自分の神聖な戦いの盾や円盾を見いだせる場所を示唆している。「神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます」。それからまた、この聖句は、このように1つの対比や1つの示唆を与えているだけでなく、私たちに1つの励ましを与えているように思われる。私たちの霊的な戦いを続けていくための励ましである。「神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます」。あなたは最初から、ねたみやその他の罪と戦闘するための恵みを持っていた。今あなたは警告されている。あなたの霊の戦いがこれほど長引いているからである。神は、この戦闘を継続するための「さらに豊かな恵みを与えてくださいます」。あなたの魂の中に、突き上がろうなどとする情動が1つでもある限りは、それに対応する恵みがあなたの魂の中にあるであろう。あなたは、自分が罪に対して願えるだけの成果を挙げていないために悩んでいるだろうか? それは、ほむべき悩みであり、私はそれを緩和したくはない。だが、その一方で、不信仰へと陥らないようにしよう。このことを知るがいい。すなわち、いやまして多くの誘惑があるかもしれないが、神はさらに多くの恵みを与えてくださり、寄る年波はいやまさる弱さをもたらし、その結果、より多くの誘惑をもたらすかもしれないが、神は常にあなたに、さらに多くの恵みを与えてくださる。この闘争が続く限り、この助けも続く。あなたは、荒野にいる全期間中、マナを受けるであろう。それは、あなたがヨルダン川を渡り、それを必要としなくなるその時まで、やむことなく降り続けるであろう。ならば、戦い続けるがいい。「この罪には打ち勝てない」、などと云おうとは決して考えてはならない。神の助けによって、あなたは打ち勝つに決まっている。というのも、いかなる罪もあなたとともに天国に入ることはできないからである。あなたはそれに打ち勝たなくてはならない。あなたはそれに打ち勝つに違いない。あなたは、いかなるきよさの敵とも和合して座り込んでいることは許されない。いかなる罪とも決して講和を結ぶべきではない。まず第一に、主イエスが私たちと平和を有されたとき、主はありとあらゆる方面の、あらゆる大きさの罪に対して宣戦を布告されたのであり、忠義なキリスト者は決して和平を夢見ず、ただ罪に対する不断の戦闘だけを企図し、不断に恵みが授けられることを期待する。

 そして、それから、この件において私たちには勝利が予測されていると私には思われる。というのも、もし神がさらに豊かな恵みを与えてくださるとしたら、それはこのように思われるからである。すなわち、神が恵みの力を増加するとの約束を与えられた以上、究極的に罪は度重なる襲撃に屈さざるをえない。恵みは罪よりも多くなるであろう。罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれた[ロマ5:20]。どのキリスト者の経験も、それがしめくくられるときには、そうした絶頂に達することであろう。おゝ、罪よ。冷酷で、憎悪に満ちた敵よ! お前は私たちを捕虜にしようとし、できるものなら私たちを殺そうとしている。だが、お前が勝つことはない。罪は入り込もうとするが、恵みは扉を閉ざす。罪は勝利を得ようとするが、恵みは罪より強く、それに抵抗し、それを許さない。罪は時として私たちを打ち倒し、その足を私たちの首根に置く。だが恵みは救出にやって来て、信仰が私たちにこう云わせる。「わが敵よ。私のことを喜ぶな。というのも、私は倒れても、再び立ち上がるからだ」。罪はノアの洪水のようにやって来るが、恵みは箱舟のように山々の頂の上を乗り越える。罪はセナケリブのように雲霞のごとき軍団を繰り出してこの国を呑み込もうとするが、恵みは主の御使いのように、セナケリブの陣営を巡り歩いては、罪を打ち殺す。おゝ、栄光に富む恵みよ。お前は確実に勝利を得る! 「神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます」。それゆえ、確かにここには究極的な勝利の予言がある。「私たちのうちに住む霊は、ねたむほどに渇望する」。だが、私たちには勝利がある。そして、エホバにこそ、それは帰せられる。神こそさらに豊かな恵みを与えてくださるお方だからである。こうしたことが、その前後関係を見るとき、この聖句から引き出すべき教えであると思われる。さて、これをその前後関係から抜き取ってみよう。そして――

 全力をあげて、ここに入るがいい。主の導きを求めるがいい。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる[箴3:6]。もし神が私たちの中の誰かに向かって、鉄石の城壁を突き抜けよとお命じになるしたら、私たちは真っ直ぐにそれに突き入るべきである。そうすれば、道は開けるであろう。神は青銅の門を放り裂き、鉄の閂を真二つに断ち切られる。私たちのすべきは従うことである。――理屈を云ったり、理由を尋ねるべきではない。私たちのすべきはあえて行ない、必要なら主のために死ぬことである。立ち止まったり、後戻りすべきではない。神が行けと命ずるときには、道を開いてくださるであろう。葦の海を通ってイスラエルは進んだ。「前進」こそ合言葉であり、すると、流れはせきのように、まっすぐ立つ[出15:8]。摂理があなたを召して、人間の巡礼が踏みしめた中でも最も異様な道を通るよう命ずるとしても、同じことになるであろう。あなたを召すお方は、あなたを保ち、服従の道においてあなたに勝利を得させてくださる。というのも、「神は、さらに豊かな恵みを与えて」くださるからである。これから私たちが、さらに努めたいのは――

 III. 《この原則を私たち自身に適用する》ことである。

 私は、この場にいる兄弟姉妹のひとりひとりに、この言葉を受け取り、それが自分に何と告げているかを見てとるよう促したい。「神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます」。あなたは霊的貧困に苦しんでいるだろうか? それはあなたのせいである。というのも、神はさらに豊かな恵みを与えてくださるからである。もしあなたがそれを得ていないとしたら、それは、それを持つべきでないためではなく、あなたがそれを得ようとしなかったからである。――あなたは、それを求めなかった。――それを所有し、その実を明らかに示せるような道を歩んでこなかった。もし誰かが――私たちの御父に雇われているしもべの中で――空腹であるとしたら、それは私たちの御父の食料置場ががらんどうなためではない。というのも、御父は食べて余りあるほどの糧を供しておられるからである。それで、もし私たちの御父の子どもたちの中で、その腹を満たせない者がいるとしたら、それは十分に食料がないためでも、御父の食卓の上にあふれるほどのものがないためでもなく、その人自身が、何らかの形の豚用いなご豆を追い求めることを選んでいるからである。私たちは喜ぶことも、勝利することもできる。だのに貧しくなり、恵みが乏しくなり、魂をやせ細らせる行路を取っているのである。それは私たちの選択である。――主の選択ではない。この聖句は、私たちが神に責めを負わせることを決して許さない。「わたしはイスラエルにとって、荒野であったのか」[エレ2:31]。あなたは、このことを考えた方が良い。あなたには僅かしか愛がない。わたしはあなたに僅かしか愛する理由を与えなかったのか。あなたの熱心は非常に低調である。わたしがあなたに与えた目標は、あなたが自分の熱烈さをゆるめて当然なほど情けないものであったか。あゝ! 否。「神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます」。神は常にお与えになる。あなたがた、飢えた人たち。そこで震えながら立っており、ふらふらで今にも死にそうな人たち。――それは、雄牛や太った家畜[マタ22:4]がほふられておらず、何も整っていないからではない。あなたがた、自らを衰えさせ、自らを飢えさせている人たちは、神の中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのである[IIコリ6:12]。願わくは神が私たちにこの教訓を教えてくださるように! 願わくは私たちがいま神のもとに、口を大きく開いて赴き、神によってそれを満たしていただくことができるように。願わくは私たちの欲求が強くなり、私たちの信仰が力強い熱狂主義となり、私たちの信仰通りのことが[マタ9:29]私たちになるように。

 霊的成長は、もし私たちがそれを少しでも有しているとしたら、決して私たちが自画自賛すべきこととなってはならない。むしろ、私たちはすべての栄光を神に帰さなくてはならない。というのも、もしあなたがこの聖句を別の観点から眺めるなら、私たちが多くの恵みを持てば持つほど、多くを与えられるからである。もし私たちが持たなければ、それは私たち自身のせいである。だが、もし私たちが持っているとしたら、それは私たちが稼ぎとったものではなく、神がお授けになったものである。もしあなたが他の人以上に持っているとしたら、あなたはそのことで自分自身に感謝する理由は全くない。もしあなたが、「私は、自分が私の兄弟以上に恵みを持っていることで、私をほめたたえる」、と云えるとしたら、あなたはすでに、自分が裸で、貧しくて、惨めな者であることを示しているのである。あなたが自分のことを富んでいる、豊かになった、と考えていても関係ない[黙3:17]。すべての恵みは私たちを感謝へと導く。恵みは決して私たちに自分を持ち上げさせて、「私は良くやったのでこれを獲得したのだ」、などと云わせない。恵みは、船に積まれた貨物のように、流れの中でその船を深く沈ませるものである。最も恵みを有する人は、最も謙遜な人である。あなたは、自分が恵みにおいて高く上っているかどうかを、へりくだりにおいてどれだけ沈んでいるかで測ることができる。

 おゝ! 愛する方々。神のいつくしみ深さについて瞑想することにおいて、私たちはいかなる満足、いかなる安全を感じることであろう。まことに神はいつくしみ深い。これは、神の気前の良さの時たまの現われではない。《教会》における神のご支配の普遍的な秩序である。「神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます」。ここには、何の時も示されていない。聖書の中には何の時間割も見いだせない。「一日のこれこれの時間には、神はさらに豊かな恵みをお与えになる」とか、「一年のこれこれの時期には、神はさらに豊かな恵みをお与えになる」とかいうものは何もなく、それは日々、一年を通して、いかに長大な周期を循環しようとも、あわれみの経綸が存続する間は変わらない。必要を訴える天の世継ぎがいる限り、私たちの天におられる御父はそれを満たしてくださる。神は、さらに豊かな恵みを与えてくださる。神の恵みが時間に関する限り「無制限」であるとは、私たちにとって何という祝福であろう。

 私たちがそれを得るしかたについても、いかなる限界もない。神が「さらに豊かな恵みを与えて」くださるとき、あなたは、特定の指定された祭司を通して申し入れたり、規定された儀式を用いたり、ある特定の姿勢を取ったりする必要はない。しかり。しかり。儀式的なものは何もなく、すべてが実質的である。この満たしは、他のあらゆる約束と同じように、《仲保者》なるイエス・キリストによってもたらされる。あなたが行って主に求めさえすれば、主は他の誰も与えることのできないものを与えてくださる。――さらに豊かな恵みを与えてくださる。おゝ! 私たちを力強く贖いの蓋へと至らせる祈りの苦しみがあれば、また、私たちを空っぽにし神が私たちを満たせるだけの広がりを作り出す魂の謙遜さがあれば、どんなに良いことか! おゝ! 神が大いなることをなされると信じ、それをなしてくださると期待する信仰のいのちがあればどんなに良いことか! そのときになれば、いかに私たちひとりひとりは、こう云わざるをえないことであろう。「神は、私にさらに豊かな恵みを与えてくださる。神の御名はほむべきかな! 神は私を高みから高みへと進ませ、私が受け取ることのできる分量を広げ、なおも私を満たしてくださる。さらに多くを受けるべき、より大きな力があることを私に感じさせ、受け取る力が拡大するときには、減ずることのない満ち満ちた豊かさがあると感じさせてくださる」。この瞑想をあなたの心の中で音楽に変えるがいい。その豊かな旋律であなたの思いを魅惑させるがいい。これ以後は、私たちの歌がこうなるように。「神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます」。

 あなたがたの中には、さらに豊かな恵みを求めている人がいるだろうか? もし神があなたに求める恵みを与えておられるとしたら、確かにさらに豊かな恵み――見いだす恵みを与えてくださるであろう。あなたがたの中には、罪のために嘆いている人がいるだろうか? それは神の恵みである。神はあなたにさらに豊かな恵み、キリストによってあなたの一切の罪が赦されて喜ぶ恵みを与えてくださるであろう。あなたは祈り始めているだろうか? それは、あなたに授けられた神の恵みに従ってのことである。だが、神はあなたにさらに豊かな恵み、あなたの嘆願の熟した果実となるような答えを受けるまで祈り続ける恵みを与えてくださるであろう。小さな恵みについて神に感謝するがいい。――そうするよう心がけるがいい。もしあなたに星明かりしかなくとも、それゆえに神に感謝するがいい。そうすれば、神はあなたに月の光を与えてくださるであろう。あるいは、もしあなたに月の光しかないとしたら、それゆえに神に感謝するがいい。そうすれば、神はあなたに日の光を与えてくださるであろう。それから、もしあなたに日の光があるなら、熱烈に神に感謝するがいい。そうすれば、神はじきにあなたに七つの日の光のようなもの[イザ30:26]を与えてくださるであろう。感謝するがいい。小さな恵みも、あなたが当然受けてしかるべきものをはるかにまさっているからである。主が微量でもそれに加えてくださるときには感謝するがいい。おゝ! あなたがたがみな、キリストを信ずるよう導かれればどんなに良いことか。御父はキリスト・イエスを私たちに与えてくださった。そして、キリストには満ち満ちた豊かさが宿っている[コロ2:9]。御父は、これ以上のものをあなたに与えることができない。この1つの贈り物に、他のあらゆる贈り物が集約されているからである。あなたには、イエス以上のものを望めない。イエスがおられれば、あなたは、あなたの必要にとって最適な恵みを、神のすぐれて豊かなご栄光に従って、さらにさらに受けることに気づくはずである。そのようにして、あなたは神を永久とこしえに、さらにさらにほめたたえることであろう。アーメン。

 

さらにさらに[了]

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