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「あなたがたに平安があるように」

NO. 3456

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1915年4月29日、木曜日発行の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1878年10月2日、主日夜


「これらのことを話している間に……『あなたがたに平安があるように』」。――ルカ24:36 <新改訳聖書欄外訳>


 私たちは、ある人が常々いかに行動するかを知ることを好む。そうすれば、それをもとにして、今後その人がどのように行動するかを推測できると思うからである。しかしながら、それは必ずしも正しくない。人は変わるからである。しかし、私たちの《救い主》の場合、主の生涯を学べば、主が行なわれたことから、今後なさるであろうことをごく正確に推察できる。主は決して変わることがないからである。そして、このように思い巡らすことは、現時点の私たちにとって慰められることである。肉体をとって地上におられた時、主は一団のご自身の民を愛された。もし主が変わらないとしたら、主はなおもご自身の民の一団を今も愛してくださる。かつて主はご自身をひとりの者に現わされた。主は今も、ご自身の民がひとりきりでいるとき、慰めに満ちたことばをかけてくださるであろう。ひとり、また、ひとりと、主はご自分を彼らに現わしてくださった。ふたりの者に、恵み深く語りかけられた。キリスト者たちは、自分たちが聖なる事がらについて語り合っている所には、今なおイエスご自身が近づいてくださる[ルカ24:15]と期待して良い。しかし、より頻繁には、主はご自分の民が集まっている所に最も長くとどまり、最も親しくご自分を現わしてくださった。十一使徒とその仲間が集まっていた場所に、《救い主》はやって来られた。一度ならず、二度、三度と来てくださった。ならば今晩、ここには主がおられると期待するようにするがいい。ここには、ペテロやヤコブやヨハネが代表していた人たちがいる。また、ここには、あの善良な女たちの何人かがいる。――マリヤたちや、マルタたちがここにいる。彼女たちは主を待っている。その心は主を切に慕い求めている。主は常と変わらず今も同じであられる。兄弟たち。私たちは主を期待して良い。主は、ご自分がかつてたびたび訪れた所へやって来られるであろう。主は、以前そうされたように、ご自分の民のもとへ来て、彼らを相手にされるであろう。少なくとも二回、私たちの《救い主》は、あの週の初めの日に集まっていた弟子たちのもとにやって来られたと記録に残されている。ここから私は、もう1つの慰められる思想を推測するものである。すなわち、これが週の初めの日であった以上、私たちは別の理由からも、主がここにおられ、今では主の日とされているものに誉れを与えてくださると期待して良い。主は、少なくとも二度――というのも、そう記録されているからだが、――ご自分の弟子たちのもとに来て、彼らの真中に立ち、「あなたがたに平安があるように」、と云われた。この週の初めの日、この主の日の夕刻、私が思うのは――希望するのは、否、予期するのは――、あなたがこの場で主を感じることである。そして私は祈る。主の民のひとりひとりに、あの柔らかなことばが天来の力とともにやって来るようにと。「あなたがたに平安があるように」。

 こうした言葉だけを前置きとして、私たちがまず第一にあなたの注意を引きたいのは、主が何とお告げになったかである。第二に、主がそう告げにお現われになったのはいつか、第三に、そうお告げになった際に、主の現われから何から生じたか、である。

 I. 《私たちの主の恵み深いおことば》

 主は何と云われただろうか? 主は云われた。「あなたがたに平安があるように」。――ほんの四言だが、そこには豊かな意味が満ちている。このことばを四つの観点から眺めて良いだろうか? ます最初に、それは救いと、挨拶と、祝福ではなかっただろうか? このようにして主はご自分を紹介された。「あなたがたに平安があるように」。それは、幸福を祈る主のお心であった。それだけでなく、主の熱烈な祈りであった。主はその好意と、その愛と、その、彼らの最高の益を求める強い願いとの現われとして、平安を彼らに吹きかけられた。平安は、主が分かち与えることのできる最高の賜物である。使徒は云う。「私たちの主イエス・キリストを愛するすべての人の上に、恵みとあわれみと平安とがありますように」*[エペ6:24]。主はすでに彼らに恵みとあわれみを与えておられた。いま主は彼らの最高の祝福、平安を与えておられる。主はこれ以上のことを意味されなかっただろうか? 二番目の観点からすると、これは祝福であった。「あなたがたに平安があるように」。主は、目に見えない世界に行き、そこから戻って来られた。そこで主は彼らに、彼らのためには平安が取っておかれていると告げておられるのである。すでに主は、ご自分の血とともに幕を通り抜けられた。ご自分のいけにえをささげられた。「完了した」[ヨハ19:30]、とすでに云われた。そして今、ご自分の十字架刑の跡をなおも帯びたまま彼らのもとに来て、平安があるのだ――それはなされたのだ――と告げておられるのである。「戦いは終わった。争闘は終結した。わたしの血のいけにえと、栄光ある復活により、あなたがたと神との間には平和が打ち立てられた」。「あなたがたに平安があるように」。これは、主がご覧になり、御父からお聞きになったことの宣言である。ご自分の死の結果を祝福とし、宣言しておられるのである。

 これはまた、命令だったではないだろうか? 命令ということで私が意味しているのは、神があの暗闇に向かって、「光よ。あれ」[創1:3]、と仰せられ、すると光ができた、あのような種類のことばのことである。ここで彼らは悩んでいたが、イエスは、「平安よ。あれ」、と云われた。すると、やがて平安ができた。常にイエスは力のことばをお語りになる。イエスご自身が力の《ことば》であられるからである。主は神の《ことば》であられる。――諸天を建てたことば、宇宙の支柱を堅く据えたことばであられる。そして主がこのようにお語りになるとき、それはただの願いではない。ただの祈りではない。ただの事実の宣言ですらない。それは、願いと祈りが成就し、その事実が適用されることである。「あなたがたに平安があるように」。ほどなくして彼らは、主がこのように権威をもって彼らにお与えになった平安を受けた。

 しかし私は別の観点からこれを眺めて良いではないだろうか? すなわち、罪の赦免としてである。少し考えてみれば、あなたもそれと分かるであろう。ここにいたのは、主を見捨てた者たちであった。ひとりは主を否定していた。彼ら全員の中に、ひとりとして忠実な霊はいなかった。危機の時に忠実であることを示した者はひとりもいなかった。臆病者のように、命あっての物種と自分の主を置き去りにした。彼らは主が苦悶していた間も眠っていた。主が前進した時には後退した。全員が自分の《主人》を見放して、自分のことしか考えなかった。ではいま、主は何と彼らに仰せになるだろうか? 彼らは犯罪人のように立っているだろうか? 主はこれから彼らを告訴なさるだろうか? 彼らは脱走兵のように立っているだろうか? 主は指揮官としてこれから彼らを断罪なさるだろうか? 否。この一言は、「それは赦されているよ。赦されているよ」、と云うかのようである。わたしがあなたがたにかける唯一のことばは、平安、平安、平安である。わたしは、あなたがたの弱さを知っている。あなたがたの痛恨の念を知っている。あなたがたが、わたしにあのような仕打ちをしたことをどれだけ嘆き悲しんでいるか知っている。――もう後悔してはならない。少なくとも、そうした後悔によって抑鬱してはならない。というのも、見よ! わたしが唯一あなたがたに返す報いはこのことだからである。わたしはあなたがたに、わたしの「サレム」、わたしの挨拶を与える。――わたしの好意のことば、わたしの甘やかな愛のことばを与える。わたしは、わたしの遺言を破棄することもできたが、その遺産を無効にしてはいない。わたしは云った。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます」[ヨハ14:27]。わたしは今、死者の中からよみがえった者として、その遺言を確証しよう。あなたがたは、わたしがあなたがたをわたしの愛情のこもった好意から排除しなかったことを見てとるであろう。わたしは、死者の中からよみがえって、こう宣言する。あなたがたの愛情が暖かく、わたしを捨てるくらいならわたしとともに死ぬと決意していた頃にわたしが宣言したことを宣言する。わたしは、そのときあなたがたに与えたのと同じものを与える。「あなたがたに平安があるように」。

 さて、私が今あなたに示した、こうした手短な思想には、いくつかの甘やかな事がらが包み込まれていると思う。この聖句そのものがその中に豊かさを含んでいる。さて、私の兄弟たち。第二に短く語りたいのは、このことである。――

 II. 《イエスはいつその弟子たちの真中に立たれたか》、また、いつこのように、「あなたがたに平安があるように」、と仰せになったか。いつだろうか? ことによると、その時間について考察することによって、私たちはいくらかの慰めを得て、今晩も主が同じことを仰せになるという希望へと至らされるかもしれない。よろしい。いつ主は来られただろうか? よろしい。最初に、主が来られたのは、彼らが全く主に来ていただくにはふさわしくないときであった。私たちはすでに、彼らが主にいかなる仕打ちをしたかを告げた。臆病にも彼らは主を見捨てた。しかし、「私には、《主人》がともにいてくださる資格があります」、などと口にするはおろか考えることさえできる者が、そこには誰ひとりいなかったにもかかわらず、主は来てくださった。おゝ! 私たちは――私たちの中の多くの者らは――同じ苦境にあると思う。過去を振り返れば、私たちは、《救い主》の愛ある訪れに値するなどと感じることはできない。そうした根拠に立っては、一言も訴えを申し上げることなどできない。私たちは、はなはだふさわしくない者である。――非常にふさわしくない者である。――だが、それは主がおいでにならない何の理由にもならない。彼らはふさわしくなかったが、主は彼らの真中に立って、「平安あれ」、と云われた。

 さて次に注意してほしいのは、彼らが非常に不用意だったということである。彼らは主を待ち受けていなかった。その晩、彼らが寄り集まったのは、そうした期待があったからではなかった。確かにそうではなかったと思う。というのも、主がおいでになったとき彼らは恐れ、幽霊を見ていると思ったからである。彼らは、主がおいでになるなどとは金輪際予期していなかった。よろしい。そして、そこの姉妹。あなたはこの場へ何の用意もなしにやって来た。弁解してはならない。だがしかし、あなたの主を見ることをあきらめてはならない。そこの兄弟。あなたは心をかき乱され、悩んだ状態でこの場にやって来た。あなたの魂は、穏やかな折の湖のようではない。溶融した鏡のように上空の星々を映し出す湖のようではない。しかし、イエス・キリストはやって来て、平安のことばにより、まずあなたの心を滑らかにすることによって、そこにご自分を映し出すことがおできになる。しかり、しかり。キリストの現われに対して不用意であるのは良くないことである。だが、いかに私たちが不用意であっても、キリストがおいでにならないことはない。これは一千もの祝福である。私は不相応で、ふさわしくない者ではあっても、主を見ることを期待できる。来てください、《救い主》よ。来てください。私は切に願います。私を通り越さないでください。私は、この十一使徒の場合に、彼らの不用意さがその扉に閂をかけなかったのを見てとらなかったとしたら、あなたがおいでにならないのではないかと恐れたかもしれません。おゝ! 私の不用意さがあなたを遠ざけないようにしてください。

 さらに注意してほしいのは、私たちの主が彼らのもとに来られたのは、彼らが大いに主を必要としていた時であったということである。彼らは、集団としてはばらばらの、意気阻喪した状態に陥っていた。そして彼らは、ひとり残らず、自分の信仰を打ち捨てる寸前であった。三日目が過ぎ去ったが、彼らはまだ主の復活を信じていなかった。彼らにそう証言した者があっても関係ない。彼らは愚かで、心が鈍かった。そして、翌日になったら何をしていたか私には見当もつかない。というのも、きょう心が鈍く不信仰な者は、明日になれば、より悪くなる――そうしたことが可能であればだが――からである。しかし、彼らには主が必要であった。――彼らは主を必要としていた。そこで主は彼らの真中に立たれた。ならば、勇気を出すがいい。私の兄弟。あなたは主を必要としている。あなたは主を期待して良い。姉妹よ。あなたは主を欲している。――おゝ! いかに欲していることか! いかに私は主を欲していることか! 主の愛ゆえの訪れは、いかに私の罪の多くを殺し、いかに私のあらゆる恵みを生かすことであろう! 医師は単に呼びにやられたときに来るだけでなく、自分が欲されていると知るときにはやって来る。この《良き医師》は特にそうされる。多くの場合、私たちが必要を感じたからというよりも、私たちに必要があるからこそ、主はやって来てくださるのである。私たちは往々にして主が来られるまで自分の必要を感じない。そして、その満たしに照らして自分の必要を見てとるのである。よろしい。ならば、ふさわしくなく不用意でありながらも主を必要としている私たちは、主を期待して良い。主は、私たちが叫び求めるなら来てくださる。私たちのまさに真中に主は今晩立って、自らご自分を現わしてくださるであろう。

 さらにそれは、彼らが自分たちのなけなしの霊的光を行使していたときであった。――そのことを思い起こしておこう。彼らは低い状態にあったが、ともに集まっていた。彼らは愛し合っていた。そのことを示していた。怯えきった羊のように、他に何をすれば良いかも分からず、一緒に走っていた。とうとう彼らは互いに寄り添った。そこには、キリストの愛されるものがあった。それは良いことであった。そこには望ましいものがあった。よろしい。私たちも、少なくとも同じように寄り集まってはいる。あなたがこう云ったことを私は承知している。「よろしい。私は、自分がキリストを賛美することにおいて大したことができるかどうか分からない。だが私は、主の民がいる所に行こう。ことによると、たとい自分で賛美することはできなくとも、それにもかかわらず、何か祝福を得られるだろう」。あなたが安息日にはしばしばそうしていることを私は知っている。あなたは土曜日にはこう云う。「きょうが一週間の最後の日だとはありがたい。私は私の兄弟たちがいる所へ行けるのだ。そして、私が祝福を受けに行く間、また、特に祈祷会に行くときにはこう信じるのだ」。

   「そこに住まうは わが親友(とも)親族(みうち)。
    そこで統(す)べるは 《救主》(すくい)のわが神」

よろしい。主イエスは、私たちがその御名において喜んで集っている所に来るのを愛される。そのことが主を連れ来たる助けとなる。それで私にはもう1つの健全な希望があることになる。私たちがともに集まり、自分たちの有する限りのいのちをかき立て、主がお与えになっただけの恵みをともに注ぎ出し、さらにそれを求めるという目的だけのために相集うとき、私たちは主にお目にかかると期待して良いのである。

 それだけではない。主が来られたその折に、そこにいた何人かは自分の知ったことを証ししていた。そのうちのふたりは、自分たちがいかにエマオでパンを裂いたときに主を見たかを告げていた。そして、このふたりが語っている間に、イエスは来られるのである。さて、ここに立っているひとりの証人は、世には生ける《救い主》がおられ、それは本物であると証言することができる。このお方の愛は、聖霊によって私たちの心に注がれている[ロマ5:5]と語ることができる。そして、あなたがその証言を聞いているとき、また、あなたがたの中の多くの人々が自分の魂の中で、この証しに対する自分の「アーメン」を書き記している間に、私は主が私たちの真中に立ち、霊的な言葉によってもう一度、こう云ってくださると希望するものである。「あなたがたに平安があるように」、と。

 とはいえ、もう一言語ろう。私は彼らが低い状態にあったと云った。彼らはみな自分の《主人》の不在を嘆いていた。その集団の中に、イエスがそこにおられないために重苦しい心をかかえ、悲しんでいなかった者はひとりもいなかったと思う。もしあなたがペテロに向かって、「ペテロさん。あなたは主のお目にかかりたいと思いますか?」、と云ったとしたら、彼はこう云ったであろう。「おゝ! 愛しいあのお目をもう一度眺めることができたら! それが私の心をもう一度打ち砕くことになってもかまわない」。また、ヨハネはこう云ったであろう。「おゝ! 私の頭をもう一度あの胸にもたせかけることができたなら! そのような恩顧を許されるとしたらですが」。そして、誰もが、過去の愛しい追憶によってこう云ったであろう。「悲しいかな! 主を失うことで私たちはすべてを失ってしまった。天空から太陽が取り去られた方が、私たちの交わりの輪からキリストが取り去られるよりもましだ」、と。さて、愛する方々。あなたがた、この《救い主》を愛する人たち。あなたは主がおられないことを寂しく思ったことがあるだろうか? また、今こう云っているだろうか? 「あゝ、できれば、どこで主に会えるかを知りたい」*[ヨブ23:3]、と。よろしい。私たちの入り混じった声音は主に届くはずである。そして主は来て、私たちの真中に立たれるであろう。そして、私たちは再び、王がご自分の民とともにうたげの座に着いておられる間[雅1:12]、喜びつつ誉れと礼拝をささげることになるであろう。

 しかし時は矢のように過ぎ去る。それゆえ、私の説教の残りはほんの骨組みだけを示すことにしよう。

 III. 《そこから何が生じたか》

 主の現われ、また、主が平安あれとお語りになったことによって何が生じただろうか? もしあなたが自分の家でこの章を読むなら、このことを見てとるであろう。まず最初に、イエスが来られたとき、主は彼らのあらゆる疑いを追い払われた。――主は彼らに云われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか」[ルカ24:38]。さて、もし主が今晩ここに、この集会の真中に来られるとしたら、それこそ主があなたがた、心悩ませている人たちのために行なわれることであろう。主は、「なぜ取り乱しているのか」、と仰せになるであろう。ことによると、あなたはこう答えるかもしれない。「もしかすると、それなりの理由があるのかもしれません」。だが、主はそれにこうお答えになるであろう。「すべてのことは、ともに働いて、あなたのために益となるのだ」*[ロマ8:28]。「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、大水はあなたを押し流さない」*[イザ43:2]。「あなたがたの思い煩いを、わたしにゆだねなさい」*[Iペテ5:7]。「なぜ取り乱しているのか」。そして、主はやはりあなたにまさにこうお尋ねになるであろう。「どうして心に疑いを起こすのか」。ことによると、あなたはそうした疑いがいかなるものかを、咎ある者として告白しなくてはならないかもしれない。あなたは主が厳しすぎると考えた。主が自分のことなど忘れたのだと考えた。結局、主は真実ではないのだと考えた。自分のことなど愛していないのだと考えた。自分をお見捨てになるのだと考えた。私はあなたに、あなたの疑いのすべてを告げはすまい。それらはよこしまな思いだからである。そして、もし主が今晩ここにおられるとしたら、あなたの頬には赤みが差し、あなたはこう云うであろう。「私は二度とあのような疑いを持つまい。むしろ、これからはこう云おう。『見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望もう』*[ヨブ13:15]、と」。こうした悪い疑いに対する治療薬の中でも、何にもまさるのは、消滅していた《救い主》が信仰の目の前に姿を現わしてくださることである。

 それから私たちの主は、続いてご自分の姿をお現わしになった。そこに臨在していた主は――知っての通り、主がそうしておられたとしても、彼らには主が分からなかったであろう。――今や、ご自分を明らかに示し、彼らにご自分が見えるようになさった。これが主のおことばである。「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています」[ルカ24:39]。それから主は、ご自分の地上との血縁関係、ご自分の真の人性を証明なさる。というのも、主は一切れの焼いた魚と蜂蜜を取って、彼ら全員の前でそれを召し上がったからである。さて、主は今晩もそれと同じことをなさるであろう。たとい主が今晩ここにおいでになるとしても、このうろこがあなたの目に入っていたなら、何の役にも立つまい。だが主はそれを取り去ってくださる。地に縛られた心にかぶさっている一段と固いうろこをも、主は取り去ってくださるであろう。おゝ! 私の兄弟たち。私は思い惑ったことがある。私は証しして云うが、時として私は思い惑ったことがある。そのとき主は私の心から石を取り除き、私自身が突然に柔らかくなるのを感じさせてくださった。私は、時としてそこの卓子に着き、パンと葡萄酒をあなたがたに配りながらも、食卓の下にいる犬になりたい、そして、そこからこぼれ落ちるパン屑1つでも食べたいと切望していたことがある。すると、突如として私は、主が近くにおられることを感じ、言葉に尽くせない喜びに踊ったのである。また私は、しばしば説教をしていながら、自分の霊が凍結した川のように感じられていたときに、主の恵みによって心を溶かされたことがある。これが、あの《花嫁》がこう云ったとき意味していたことではないだろうか? 「私自身が知らないうちに、私は民の高貴な人の車に乗せられていました」[雅6:12]。さて、キリストの臨在こそ、私たちを生かしてくれるものである。ひとりひとり、この祈りをささげるようにするがいい。「あなたのみことばのとおりに私を生かしてください[詩119:25]。《ことば》なるあなたご自身が、私に近づいてください。そうすれば、私はすぐさまあなたを認め、あなたを抱きしめ、今晩あなたにあって喜びます」。

 それから私たちの《救い主》が次になさった行為は、彼らの理解力を活気づけることであった。見ての通り、主は聖書を悟らせるために彼らの心を開かれた[ルカ24:45]。キリストの近くにいることは1つの教育である。イエスの近くに行く者は、コーパスクリスティ*1が真の大学であることに気づくであろう。キリストの体を知っている人は、神学体系を有している。神学の組織的体系を有する人――神のことばに対する真の神学者となる。主を知る者には悟りがある。あなたが何を得るにせよ、悟りを得るがいい。そしてそれは主から得られる。主は知恵だからである。それに、主は真理ではないか! また、主は受肉した知恵ではないだろうか? 神は、大地が存在するようになる前から、主と相談された。何にもまして有益な聖書の学びは、その頁を一枚一枚、私たちのためにめくってくださるキリストとともにそれを学ぶことである。

 それから次のこととして、主は彼らの記憶を新たにしてくださった。ことによると、先にこのことに言及しておくべきだったかもしれない。なぜなら、それが最初に起こったからである。主は彼らに云われた。「わたしが……あなたがたに話したことばはこうです」[ルカ24:44]。今晩、ことによると、もしイエスがこの場におられるとしたら、あなたは、主を見たことのある別の折々のことを思い出すかもしれない。

   「以前(さき)に訪(おとな)う 主をわれ物語(かた)らん、
    われがみそばで 聖山(やま)におりしを」。

しかり。あなたは、イエスがこの場におられるとき、こう云うであろう。「私はあなたを、またあなたの婚約のことばを覚えています。私が主の民とともにいて、主の愛に私の心が赤々と燃えた、別の甘やかな折々を覚えています」。あなたは振り返って見るであろう。あなたがたの中の、キリストにある白髪の兄弟たち。ことによると、あなたは五十年前を思い起こし、イエスが最初にあなたの魂を見つめてくださった時のことを思い出すかもしれない。愛しい記憶よ! 他のすべてが滅び去っても、キリストの面影だけ、私の霊におけるキリストの臨在の名残だけは――これらは、年々私は手渡して行き、永遠に記録するであろう。何にもまして記憶を正しくしてくれるもの、それは直接の、現実の、すなわち、この瞬間におけるキリストの臨在である。

 そしてそれから、愛する方々。これらすべてに加えて、《救い主》がこのように現われてくださったことによって、彼らには自分たちの真の立場が示された。というのも、主は彼らに、彼らがこうしたことを告げるべき、ご自分の証人であると告げられたからである。主を見たとき、彼らは、自分たちが単なる傍観者以上のものであると感じた。彼らは、他の人々に告げるべき者、証しすべき者であった。私は、私たちが今晩このように感じることを期待している。私たちは自分たちの座席から、また、この聖餐卓から立ち上がって出て行き、こう云うべきである。「私は主を見ました。そして、私は自分の家族の中で証人となります。――私の住んでいる路地裏で、町通りで、町中で主の証人となります。私は主を見ました。ならば、主についてこの口を閉ざしていて良いでしょうか? いいえ! 主のご臨在が私の口を開きました。それで私は主の誉れを告げるのです。私は、あなたの大能のわざを携えて行き、あなたの義を、ただあなただけを心に留めましょう[詩71:16]」。

 そして、最後の最後に、そのほむべき臨在は、熱烈な喜びを作り出した。確かにその喜びには、それを不信仰と入り混じらせる驚嘆があり、「彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず」、と記されているが関係ない。彼らは、非常に非常に喜んだ。もしあなたが、その家に入って行く彼らを見ており、そこから出て行く彼らを見たとしたら、同じ人間だとは分からなかったであろう。彼らは以前にまして金持ちになったわけでも、健康になったわけでも、有力な引き立てを得たわけでもなかった。だが彼らは主を見たのであり、それで喜んだのである。それは特にヨハネによって記録されている。「弟子たちは、主を見て喜んだ」[ヨハ20:20]。おゝ! この場には歌があるであろう。あなたの心には音楽があるであろう。あなたは踊るような足取りで軽やかに家に帰るであろう。もしイエス・キリストが本当に来られるならばそうである。では、来てください。愛する《主人》よ。あなたは私たちのために血を流されました。あなたは永遠の愛で私たちを愛されました。私たちの願いは比較的小さなことです。私たちとあなたの関係により、あなたにはそれをかなえる義務がおありです。あなたは、ご自分のからだをいじめはしないでしょう。あなたのおからだの肢体であり、あなたの肉であり、あなたの骨である者たちからご自分をお隠しにはならないでしょう。あなたは人の子らを喜ばれました[箴8:31]。そして、あなたは変わってはおられません。おゝ! もしあなたがご自分を明らかに示したことがあったなら、今晩、私たちにご自分を明らかにお示しください。あなたの臨在のご栄光の下で私たちを溶かしてください。あなたの愛の無比の威光で私たちを融解させてください。そうすれば、私たちはあなたを永久とこしえに礼拝し、ほめたたえるでしょう。

 さて、私は、あなたがたの中の、主を知らない人々に対しては何も語らなかった。だが、この言葉を云って、話を閉じよう。主の価値である。――

   「もし主の価値(あたい)、国々知らば
    全地もなべて 主をば愛さん」

神があなたを祝福してくださるように。アーメン。

 


*1 (訳注)ケンブリッジ大学およびオックスフォード大学の学寮の1つ。前者は 1352 年、後者は 1517 年設立。ラテン語で、キリストのからだ、の意。[本文に戻る]

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「あなたがたに平安があるように」[了]

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