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キデロン川を渡る王

NO. 3431

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1914年11月5日、木曜日発行の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1869年6月18日、主日夜


「王はキデロン川を渡り」。――IIサム15:23


 キデロン川は、エルサレムの城壁外にある、取るに足らない、むしろ通常は、これ以上ないほどに汚れた不潔などぶ川であった。たといそれが、ある人々が呼んだように、公然たる町の下水溝でなかったとしても、少なくとも神殿の汚物がそこに流れ込んでいたと信ずべき理由はいくつかある。犠牲動物のほふり場を洗い流したものは、地下の導管を通ってこの川に排出された。聖書の一、二箇所では、家々が清浄にきよめられたとき、その汚物はキデロン川に投げ込まれたと記されている。それゆえ、このどす黒く汚い川を渡るということは、深い悲しみと激しい苦悩の時を象徴的に示しているのである。このときは、王自身がキデロン川を渡った。王の行く道は悲しみの場所を越えた所に横たわっていた。その道は、国王らにとってさえ、悲嘆と恥辱の川に沿っている。こうした思索をしばしの間、巡らしてみよう。

 I. 《このことはダビデ王にとって真実であった》

 ダビデは、最善の王のひとりであった。確かに、彼の後継者たちの長い一覧の中でも、誰にもまして大きな奉仕を自国に施したのは、ダビデである。かつて羊飼いの少年であったダビデである。年若い頃の彼によってこそ、この国はペリシテに隷属することから救われ、後年もしばしば、この頑健な心と勇敢な腕とは、神のイスラエルの敵たちとの戦いの陣頭に立ってきた。彼は愛国王であった。もし彼の国が幸いな国になったとしたら、それは彼の勇武のおかげであった。だがしかし、彼が善王であったにもかかわらず、彼の臣民は彼の権威を認めず、彼に刃向かった。そして、彼らを恐れて、「王はキデロン川を渡」った。私たちが住んでいるのは、忘恩の世界である。世で最も大きな奉仕を行なった人々は、時として世が何の報いも与えないことに気づく。あるいは、渋々としか与えず、後になるとそうした人々が行なった良いことを忘れ果ててしまうことに気づく。なぜなら、大衆感情の流れは時折その人に不利なものとなるからである。「人間に信頼し、肉を自分の腕とする者はのろわれよ」*[エレ17:5]。もしあなたが、同胞の人間たちのために生きているとしたら、たとい自分の内側にどれほど広い度量の願いがあろうと、自分の神のためにも生きるべきであることを忘れている場合、あなたの杯は苦よもぎで満ち、あなたの歯は失望の小石[哀3:16]で砕かれるであろう。

 ダビデはまた、最も優しい父たちのひとりであった。彼は決して自分の子どもたちに対して苛酷ではなかった。私は、彼が最上の父たちのひとりであったとは云わない。というのも、彼の家には懲らしめが大いに欠けていたからである。しかし彼は優しい父親であり、アブシャロムの欲しがるものは何でも与えた。だがしかし、この裏切りの、この恩知らずの、この人でなしの息子こそ、その刺し傷を負わせる当の本人であった。あなたのおかげで命拾いをした者たちが、あなたの命をつけ狙うことになるとしても唖然としてはならない。かつてはあなたの胸に寄り添っていた者たちが、その不親切さで骨髄まであなたを傷つけるとしても愕然としてはならない。あなたは、自分の知っている最も親愛な者の愛すら当てにしてはならない。あなたの神は忠実であられ、《愛するお方》は決して変わることがないが、他のすべての者らは変わることがありえるし、変わるかもしれず、時には現実に変わってしまうことがある。ダビデが渡ったのは暗いキデロン川であった。そのとき、彼の愛児アブシャロムは彼を激しく追撃していた。この偉大な王、この善良な君主、この優しい父親も、こうした憂き目からは免れなかった。

 バテ・シェバの一件における、その人格上の大きな汚点にもかかわらず、ダビデは、最上にして、最も敬神の念に富む人々のひとりであった。私の確信するところ、人は年を取れば取るほど、この人物の詩篇を愛するようになるに違いない。そして、そこには、彼のいかなる生涯が記されていることか! 彼が、現実にそうあった以上に善良な人間でなかったことは私たちにとってあわれみであった。さもなければ、彼は、私たちのようにあわれな被造物にふさわしい詩篇を書くことはできなかったであろう。先日私は、ある窓にこう書かれているのを見たような気がした。それは私が喜んで誉れを帰したい、ある政治家に関する意見だったが、もし彼がもっと悪人だったなら、より良い政治家になるだろうに、というのである。私はそうは思わない。だが、それでもダビデは、もし彼がもっと良い人間だったとしたら、詩篇作者としては三流の者となっていたであろう。というのも、彼の性格の種々の欠点でさえ、それが彼を私たちのあわれな水準に引き下ろす限りにおいては、私たちの心の感情、私たちの霊の種々の情緒に沿って書ける力を彼に与えているからである。しかし、彼、このダビデは、偉大な人物であった。彼は兵士の欠点の持ち主で、兵士の罪に陥ったが、兵士らしい雅量ある精神を有しており、兵士らしい自己犠牲的な心の高貴さを帯びていた。彼は、全く裏表のない人物であった。彼には何の偽りもなかった。彼は欺きを憎んだ。そして自分の神を、心を尽くして愛した。だがしかし、これらすべてにもかかわらず、キデロン川を渡らなくてはならなかった。自分の臣民から憎まれ、自分の愛し子から蔑まれ、王の尊厳を示すあらゆる衣を放り出して、裸足で、頭を荒布で覆い、エルサレムの最上にして最も偉大な王は、荒野に向かって進んでいった。

 このことから、こう推測できよう。いかにすぐれた人々であろうと、はなはだ激しい恥辱や、誹謗中傷や、非難を受けることがないわけではない。王はキデロン川を渡った。そして、彼が渡ったときに何が起こったか、あなたは知っているであろう。忠義の兵たちは、王の頭から誉れが奪われているのを見て泣いた。以前は、戦いの日に、必殺の意気をこめて炯々と敵を射ていた両眼が泣き腫らして赤くなっているのを見て泣いた。しかし、シムイは何をしただろうか? 彼はダビデを呪い、ちりを投げつけ、「上って来い。血まみれの男!」*[IIサム16:7]、と云った。また、アヒトフェルは何をしただろうか? 彼はダビデを見限り、勝ち組に乗り換えた。そして、自分の旧友、すなわちダビデ王その人の死を謀った。かつてはしばしば、この友とともにパンを食べ、神の家へと連れ立って歩いたものだが関係なかった。そして、国中の人々は、ダビデについて何と云っただろうか? こうである。神が彼を見捨てたのだ、だから自分たちも彼を見捨て、彼を攻撃して構わないのだ。昔日のダビデは今のダビデと同じではないからだ。彼の神は彼を捨てて、王冠を彼の息子に与えたのだ、と。あゝ! 私の兄弟たち。私たちは、いずれ自分がいかなる羽目に陥るか見当もつかない。私たちは、今後いかなる悲嘆の深淵を思い知ることになるか、また、いかに深いぬかるみに沈むことになるか見当もつかない。予測はつかない。いかにすぐれた人々も、評判が最悪に落ちるかもしれない。いかに輝かしい星々も夜に呑み込まれるかもしれない。皓々と照り映えている月も密雲によって隠されることがある。また、太陽そのものでさえ、嵐の翼の下に押し隠されることがある。私たちは、自分のキリスト者の兄弟たちが攻撃を受けているのを見るとき、彼らを見捨てて良いだろうか? 彼らに対する世間の不平の叫びに声を合わせて良いだろうか? 私たちが善良でも真実でもない者らであれば、それも良い。だがもし私たちが神が望まれる通りの者らであるとしたら、イタイや、彼の護衛の者たちがこの戦いの日にしたように[IIサム15:22]、神のダビデのために立ち上がるべきである。こう云うべきである。「この人々は《いと高き神》のしもべたちなのだ。あなたがたがどれほど彼らを迫害しようと、どれほど中傷のちりを投げつけようと、どれほど狂信者だ、熱狂主義者だ、平和を乱す者だ、世界を引っくり返す者だ、と呼ぼうと、私たちは彼らと運命をともにしよう。いかなることがあろうと、私たちは彼らの《主人》と彼ら自身に味方し、彼らのキデロン川を越えて彼らとともに進むであろう。いかなる紆余曲折を経ようと、来たるべき日に彼とともに戻って来る方が引き合うことになると信じているのだから」。

 というのも、兄弟たち。ダビデは再びエルサレムへと帰還したからである。主は彼の敵を打ち退け[詩78:66]、潰走させられた。彼は歌声と歓呼の声とともに帰還した。義人もそれと全く同じこととなる。最上の人々もそれと同じことになる。やがて神は、彼らのともしびを輝かせ、審きの時、彼らを責め立てるいかなる舌も永遠に罪に定められる[イザ54:17参照]。正しい側に立つがいい。真実な側に立つがいい。忠実であるがいい。苦しみに甘んじるがいい。非難に甘んじるがいい。中傷に甘んじるがいい。ダビデ王はこの道をあなたに先立って進んだ。そして、やがて来たるべき日には、あなたも彼のように中傷や嘲りのもとから帰り来て、一切のことを経たがゆえに、かえって良い状況となり、神にあって喜び勇むことになるであろう。この方こそ、あなたの救いの神なのである。

 ここまでがダビデについてである。だが、ダビデがキデロン川を渡ったという史実からは、多くの興味深い真理を推察できると思う。ただし、それを引き出す時間さえあればである。むしろ私は、このことを詳細に述べる代わりに、ある思想の道筋を示唆することにする。それで、ここで第二に述べたいのは、――

 II. 《ダビデよりも偉大なひとりの王がキデロン川をお渡りになった》ということである。もしもダビデが渡った際に民がみな泣いたとしたら、シオンのより偉大な王が、いかにその黒い川をお渡りになったかを思い起こして、今晩みなで泣くがいい。

 このお方のような王はおられなかった。――このお方のように栄光に富み、目に麗しいお方はおられなかった。その目は天の太陽であり、その臨在はその栄光であった。しかし、この方はご自分の堕落していた被造物たちの間に降り、彼らの益のほか何もお求めにならなかった。この方は、彼らの死人をよみがえらされた。彼らの病者を癒された。彼らが飢えた時には食物を与え、彼らが倒れそうになっている時には、彼らを元気づけられた。このお方のことばは愛のことばであり、このお方の教えは知恵と恵みに満ちていた。しかし、今や彼らはこのお方の血を求めている。左様。このお方の血を求めている。それで夜の間、彼らはこの方を追跡している。やがてこのお方に襲いかかるであろう。怒号と叫声をあげてこのお方を審きの座に引っ張り出し、死刑に処するであろう。おゝ! 残虐な世よ。その最高の恩人を知らないとは! わが国の詩人のひとりがキリストを「偉大な博愛家」と呼んでいるが、その通りである。ただ、その言葉では、主が真実そうあられたところを云い表わすには到底足りない。主はご自分の民をその心を尽くして愛されたからである。主はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった[ヨハ1:11]。しかり。主の国の者ら、ユダヤ人は、最も激越に主を滅ぼそうとした。

 かの王があの陰鬱な夜にキデロン川を渡った際のように、主も一握りの友たちを連れていた。だが、彼らの友情に何の価値があっただろうか? 彼らは心では真実であったが、弱く、頼りなく、争闘が起こると、みな主を見捨てて逃げてしまった。ペテロよ。あなたはどこにいるのか? 私はあなたを知っている。あなたが、「そんな人は知らない」[マタ26:74]、と云って、悪態や呪いを口走りながら主を否定するのが聞こえる。また、ヨハネよ。あなたはどこにいるのか? そのヨハネこそ、人々から捕まりそうになって、服を捨てて逃げ出したあの青年[マコ14:51]ではなかっただろうか? 彼らの誰かれはどこにいるのか? 「弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった」[マタ26:56]。主がキデロン川をお渡りになったその苦い時、主の杯の苦味をきわめるものとして、主を裏切る口づけがやってきた。主の小さな群れの会計係であったユダの唇から出た口づけである。「友よ!」、と彼は云い、親しげな言葉をその裏切りの舌に上せながら主を裏切った。

 ゲツセマネにおける私たちの主の悲嘆に立ち入ることは、今晩の私たちがなすべき務めではない。あの苦菜の寝床の間にとどまり、立ってキデロンの陰気な流れをのぞき込まなくてはならない気はしているが。しかし、あなたは覚えているであろう。いかに主が死に至るまで私たちのために苦しまれたか、また、いかなる苦悶を代価として主が私たちの贖いを買い取られたかを! 私たちの主に関しては、ダビデも肩を並べることができないことが1つある。――主は現実に死なれた。完全に殺された。主を追っていた敵どもは主に追いついた。彼らは主の手足を刺し貫き、主を高く掲げては、さらし者にして嘲った。そして、そこで主は死なれた。しかし、主の十字架は主の勝利であった。カルバリは一個の戦場であり、その上で主は勝利をおさめられた。そして、ダビデのように、主は再びエルサレムに帰還した。墓からよみがえり、もはや二度と苦しむことはなくなった。そして、ご自分のふるさとである天へと戻りになった。そのとき、喨々たる喇叭の音が鳴り渡り、また、心の喜びのため音楽と旋律を奏でる者たちの声が響いた。――「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる!」[詩24:7]

 ならば見るがいい。愛する兄弟たち。私たちの主のご人格には、1つの預言であり確信であることが示されているのである。すなわち、いかに正しく真実な目的も、また、いかにそうした目的に共鳴し、自ら善良で全き者である人々も、それにもかかわらず、非常に卑しめられ、地のちりほどにも引き下げられ、中傷され、蔑まれ、拒絶されることがある。だがしかし、そうしたすべてにもかかわらず、彼らの勝利が危うくなることはなく、彼らの目的も、彼ら自身も危険にさらされることはないのである。私たちの《王》にすでに起こったことほど峻烈なことは何1つ私たちに起こるはずがない。主に浴びせかけられた中傷よりも激越な中傷は決してありえない。彼らは家長をベルゼブルと呼んだのである。いま彼らは、その家族の者のことを何と呼べるだろうか?[マタ10:25] 彼らは、もう少し軽めの名前を私たちには見つけざるをえない。ならば、勇気づけられるがいい。あなたがた、震えおののいている、か弱いキリスト者の群れたち。キリストゆえの、あなたの苦しみや嘆きの一切の中で勇気づけられるがいい。というのも、主が死者の中からよみがえり、多くの捕虜を引き連れて[エペ4:8]行かれたように、主に従ういかにか弱い者もそうなるからである。さて、そこで私はしめくくりとして、

 III. 《私たちがキデロン川を渡ることに関する、多少の言明》を語ることにしたい。

 あゝ! 私たちはキデロン川を渡ることを好まない。危機的な状況になるとき、いかに私たちは苦しみたくないとあがくことか。特に、不名誉や中傷のまつわる場合そうである! いかに多くの人々が天国を目指す旅に出かけたがったことであろう。だが、彼らにとって、かの恥知り者は手強すぎた。彼らは黒いキデロン川を渡ることに耐えきれず、栄光の主のため無に等しい者とされることに我慢できなかったため、引き返してしまったのである。

 さて私は2つのことを語ろうと思う。最初に、愛する兄弟たち。この世全体における神の御国の大いなる進展についてだが、私たちは、真理に従うとき、多くの猛攻と、多くの辛苦と、多くの敗北に出会うことを予期しなくてはならない。私は、主の御国が断続的な敗北もなしに、立て続けに勝利していくとは思わない。海が満潮を迎えるときには、一波一波前進していく。まず1つの波が前進すると、次にそれが後退する。それから別の波がやって来ては、やはり後退する。時として、上げ潮は非常な高みに達することもあるが、別の波は大きく後退して、以前にまして海水の退いた空間を大きく残すように見えるであろう。キリスト教の進展もそれと同じである。ペンテコステでは1つの大波が雄大なうねりとともに高まったが、それはヘロデ治下の迫害で静止したように見えた。それから他のいくつもの波がやって来て、ついには世界が、ある程度まではキリストの光をその隅々で見るまでとなった。しかし、再び、いわゆる暗黒時代において、しばらくの間の静止があった。そのときに、強大な波が再びやって来た。私たちがルターおよびカルヴァンの名と結びつけて考える波である。それから再び揺り戻しがあるように見受けられ、その後再びホイットフィールドや、ウェスレーや、ジョナサン・エドワーズや、他の人々の時代に、別の信仰復興が起こった。そして、これは歴史の最終章まで同じように続くと私は考える。――発展があり、それから働きの静止がある。偉大な成功があり、それから一時的な敗北がある。今、あなたがたの中に誰か、多くの熱心な働きにもかかわらず、キリストの御名が勝利を得るようには思われない地域に住んでいる人がいるだろうか? 打ちひしがれてはならない。気を滅入らせてはならない。むしろ、より熱心に恵みの御座へ行き、戦いのために新たに気を引き締めるべき恵みを乞い求めるがいい。《王》はキデロン川を渡られた。あなたの村や、あなたの通りにおけるその御国の進展も、またあなたが関わりを持っているあらゆる神の御国の働きも、それと同じ道を辿るであろう。しかし《王》は再び戻って来られたし、あなたのもとへも戻って来られるであろう。あなたが気力と勇気を保ち、堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励んでいる[Iコリ15:58]ならそうである。私は、あなたがたの中のある人々がいかなる心をしているか知っている。あなたは自分が恵みにおいて急成長しているかのように思えていた。あなたは考えた。「私はすぐに恵みの高き頂に達するであろう」。だが今のあなたは、自分の腐敗を発見しつつある。あなたは困惑し、落胆している。自分がかつてほど早く成長していないからである。あなたは以前のように幸せではない。よろしい。あなたはキデロン川を渡っているのかもしれない。だが恐れてはならない。あなたの心の中にやって来て、そこに住んでおられる《王》は、しばし荒野へ追いやられ、あなたの霊の暗い片隅に隠れることはあっても、再び帰還しては、王座に着き、統治し、ご自分の敵を放逐されるのである。持ちこたえるがいい。キリストの十字架と冠を手放さないようにするがいい。というのも、勝利はなおもそれらに伴うからである。ただ忍耐強くあるがいい。神は急いてはおられない。待つがいい。神がご自分の時を迎えられるまで待つがいい。そのとき、あなたの回りにある良い働き、また、あなたの内側にある働きは、結局は成功することになるであろう。今のこの時節に当たっている私たち、また、キリストの冠のために戦う者たち、また、キリストの真理を、それがこれまで卑しいしかたで結びつけられてきた不浄の連合関係から自由にしようとしている者たちは、ことによると、しばらくは自分の旗印のもとに失望が待ち受けていることに気づくかもしれない。だが、たといそうであっても、一瞬たりとも勇気においてひるまないようにしよう。大いなる御国の進展を、究極的かつ普遍的な勝利へと押し進めることにおいて手をゆるめないようにしよう。ことによると、私たちがしばらくの間待つことは良いことかもしれない。というのも私たちは、今はただ1つの目的しか成し遂げられないかもしれないが、少し立ち止まることによって、より大きな計画、また、より高貴な目的へと進発させられることになるであろうからである。1つの教会がアイルランドで自由にされれば、たといそれに長いことかかったにせよ、もう1つが自由になるであろう。そして英国の《教会》には同国に威張り散らす何の権利もないことがを知らされるであろう。自由と信仰的な平等がこの国でもかの国でも宣言されるであろう。そして、それはこの遅れのゆえに、かえって早まるであろう。《王》の御国の進展が、しばらくの間キデロン川を越えることになり、地の大いなる者たちがキリストとその冠に逆らって連合するとしても、やがて勝利はやって来る。そして私たちは、予定された時が来るまで待つこと、とどまっていることができる。というのも、ことによると、待つことによって、この船はより豊富な宝物を満載し、高価な貨物によって喫水線を下げてやって来るかもしれないからである。しかし、その船は帰って来るであろう。確かに、また確実に、その《主人》の名誉にかけて、また、この私たちの領土における神の《教会》を慰めるために帰って来るであろう。真理のためには決して絶望しないようにしよう。たとい地は変わり、山々が海のまなかに移ろうとも[詩46:2]、正しいことを行ない、決して恐れないようにするがいい。もしあなたが正義を行ない、キリストのために立ち上がっているとしたら、決して恐れる必要はない。国々が陶器師の器のように割り砕け、革命に次ぐ革命により、風に吹き飛ばされるもみがらのようになるとしたらどうなるだろうか? 神の聖徒たちは、この戦いが主のものであることを喜ぶであろう。そして、主はあらゆる敵をじきに私たちの手に渡してくださるであろう。もし主がしばらくお待ちになるとしたら、私たちは主が来られるまで待つであろう。というのも、主は確実にご自分とともに勝利をもたらされるからである。

 最後に、今のこの時、大いに苦しんでいるかもしれない、あなたがたの中のある人々に対して、この優しい言葉だけを云わせてほしい。「王はキデロン川を渡り」。愛する兄弟姉妹。私たちもみなキデロン川を渡らなくてはならない。だが、この《君主》の足跡足跡がなおもみな、道沿いに残っている。

   「主に導かる われらの部屋は
    主の通過(こ)しものに 暗さまさらず」。

ならば私たちも勇気をいだき、通り抜けようではないか。あなたは悲しい死別を経験した。しかり。私はあなたの涙が棺の蓋に落ちたのを異とはしない。失われたのは尊いいのちであった。だが、「イエスは涙を流された」[ヨハ11:35]。そして、あなたのその手巾は主の同情が香っている。あなたは巨額の損失を被り、貧困を恐れている。よろしい。それは、大いに恐るべき悪である。だが、狐には穴があり、空の鳥には巣があったが、人の子には枕する所もなかったのである[マタ8:20]。あなたの貧困には、主と仲間になるという金箔が貼られている。主はあなたよりも貧しくあられた。おゝ! だが最近のあなたは、誹謗中傷にさらされている。それが義人すべての運命である。鳥たちは常に、最も成熟し、最も芳醇な果実を最もついばむものである。しかし、彼らはあなたの主をも中傷した。主が酔いどれの大酒飲みだと云った[マタ11:19]。彼らがあなたの頭にかぶせている茨の冠は、かつて主のみ頭にかぶせられたものにすぎず、その茨は、主に対するものほど尖ってはいない。主のみ頭にかぶせられたことによって鈍くなっている。あゝ! だが、あなたは私に云うであろう。これらすべてとともに、あなたの愛した親友があなたの敵に回ったのだ、と。ユダのことを思い出し、これ以上怪しまないようにするがいい。「あゝ!」、とあなたは云うであろう。「ですが、神の《教会》でさえ私のことを悪く思っているのです。私が真理に堅く立っているのにです」。あなたの主が、その母の子どもたちにとって除け者であったこと、また、主の時代の教会が主と真っ向から対立していた敵であったことを思い出すがいい。勇気を出すことである。愛する兄弟たち。天空を目指す同信の巡礼者たち。私たちはこの杯を飲まなくてはならない。私たちの天の御父がそれをお定めになったのである。だが、そのとき御父がそれを混ぜ合わせたのであり、こう私たちに約束しておられるのである。もし私たちがそれを飲むなら、私たちはやがて別の杯を飲むことになる、と。それは、栄光の御国における新しい葡萄酒である。服従するがいい。否、それ以上に、黙従するがいい。否、それ以上に、あなたがあなたの主とともに苦しむに値する者とされたことを喜ぶ[使5:41]がいい。多くの者が道をそれるときも、あなたの《王》にすがりつくがいい。主が生けるみことばを持っておられ、地上の他の誰も持っていないこと[ヨハ6:68]を証しするがいい。そうすれば、かの喇叭が勝利を鳴り響かせ、《王》がご自分の民のもとに戻って来られるとき、あなたは首都ともに戻ってきて象牙の館と祝された者たちの救いへと至るのである。あなたはそこで王冠を戴かされ、そこに永遠に住むのである。

 話をお聞きの愛する方々。あなたはキリストにつくだろうか、キリストの敵につくだろうか? 蔑まれたキリストと、今晩、行をともにするだろうか? 黒雲の下におられるキリストに味方しようとするだろうか? 主とともに裸足でぬかるみを歩こうとするだろうか? それとも、銀の履き物をはけるキリスト教信仰を好んでいるだろうか? ぜひ私の主なる《主人》を信頼してほしい。主の十字架を取り上げるがいい。それは、あなたが行なうありとあらゆることのなかで最上のこととなるであろう。というのも、それはあなたに栄光をもたらすからである。その栄光の中で恥辱は忘れ去られる。

 主があなたがたひとりひとりを祝福してくださるように。また、この僅かな言葉が、恐れおののいている人々の慰めとなるように。キリストのゆえに。

 

キデロン川を渡る王[了]

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