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救い主の渇き

NO. 3385

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1913年12月18日、木曜日発行の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、『わたしは渇く。』と言われた」。――ヨハ19:28


 初期のキリスト者たちは、私たちよりも、はるかにいやまさって私たちの《救い主》について考え、語るのを常としていた。ことによると彼らの中のある人々は、しかるべきほどには信仰による義認についてさほど明確に理解していなかったかもしれない。だが彼らは、かの尊い血潮の功績については非常に明確に理解していた。また、たとい彼らが必ずしも恵みの諸教理について明瞭な語り方をしていなかったとしても、彼らは素晴らしく力強く、また、芳しいしかたで、かの「五つの」御傷について――かの釘と槍との刺し跡について――語っていた。私たちのキリスト教信仰が、今よりももう少し、この個人的なキリスト理解へと立ち戻れば良いのにと思えるほどである。むろん、何があっても教義的な教えはなくさないようにしよう。私たちの慰藉である、最も尊い真理の数々ははっきり明言することにしよう。だが、何にもまさるのは、キリストというお方ご自身である。――《道》であり、《真理》であり、《いのち》であるお方である。私たちが、より頻繁に《十字架》の根元で瞑想し、その御傷を眺め、滴り落ちるその尊い雫を数え、その苦しみにおける主との交わりを求めるようになれば有益であろう。こうした初期の聖徒たちのある者らは、ただイエスの御傷についてだけ長い論考を書き記した。彼らの中の多くの者らが、主の受難の小さな一点についてのみ、一日中を黙想して過ごした。私たちはこの点では彼らの真似ができない。そうした暇が私たちにはない。残念ながら、彼らが有していたような心を傾注させる力が私たちにはないのではないかと思う。それにもかかわらず、私たちは、自分にできる限り、この神聖な奥義を探りきわめよう。今のこの時、私たちはカルバリへと向かい、そこに立って聞くことにしよう。私たちの《救い主》が私たちに代わって罪を負っておられる際に発された、「わたしは渇く」、との叫びを。

 この聖句については、ごく手短に扱うこととし、それをまずは、私たちの《救い主》の叫びとしてのみ扱うこととしたい。第二に、それと私たち自身との関係について考察したい。そして第三に、また、悲しみつつ、それと不敬虔な人との関係について考察したい。そこで、まず第一に、――

 I. 《私たちの救い主のこの叫びについて考察しよう》。――「わたしは渇く」。

 これは、主が確かに人であられた明確な証拠ではないだろうか? 初期の《教会》の中には、ある種の異端者たちが立ち現われ、私たちの主のからだは幻影にすぎなかったのだと主張した。神としての主は地上にいたが、《人》としては単にご自分を物理的な感覚に対して示していただけで、現実に血肉として存在してはいなかったのだ、と。しかし、ここで主は渇きを覚えておられる。さて、霊が渇くことはない。霊は食べることも飲むこともない。それは非物質的なものであり、このあわれな肉や血に属する種々の欲求を知らない。それゆえ、私たちは全くこう確信して良い。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」[ヨハ1:14]、と。

 この、「わたしは渇く」との叫びにまして、主に実質的な人性があったことをはっきり示す証拠はありえないであろう。いずれにせよ、ここには、私たちが主に共感できるものがある。あの《聖なる晩餐》から、「わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」[マタ26:29]、と云って立ち上がった瞬間から、――その瞬間から主は、それ以上何の食べ物も飲み物も口にされなかった。だが主が、飲み物の方を必要とされたのも当然であった。あのゲツセマネで過ごした長い夜の間中、主は汗を流されたからである。――それがいかなる汗であったか私たちは知っている。――その汗は血のしずくのように地に落ちた[ルカ22:44]。主のような苦闘を経た後では、疲れを回復させるものが必要になって当然である。それから主はカヤパのもとに追い立てられ、その後ピラトのもとに連行された。また、ご自分の敵たちによる告発に直面し、ぎりぎりと縛り上げられなくてはならなかった。そして、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のようになられた[イザ55:7]。主の体組織にかかっていた重圧は、私たちの中の誰ひとり、耐え忍ぶ羽目になったことが、過去も今後もないようなものであった。そのような重圧を私たちは決して想像できない。だがしかし、パンの一切れすら、また水の一滴すら、そのほむべき、ひび割れた唇を通りはしなかった。これほど長時間、暗闇の諸力との苦闘を経てきた後の主が、「わたしは渇く」、と叫ばれたのも無理はない。主は死の寸前にあられた! また、あなたも、主がいかに独特のしかたで死に至らされたかを思い起こすであろう。刺し貫かれた手と足は、確実に主を発熱させたに違いない。これらの器官は、生命維持に絶対必要な部位から遠く離れてはいるものの、最も繊細で、最も鋭敏な神経が張り巡らされている。そこを通してたちまち苦痛が伝播したため、全身が燃えるように熱くなったはずである。詩篇22篇における私たちの主ご自身のことばが思い浮かばされる。「私の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっついています。あなたは私を死のちりの上に置かれます」[詩22:15]。あなたがたの中に、これよりはるかに軽くはあっても、熱病に苦しんだことのある人々がいるとしたら、思い起こすであろう。いかに自分が土器のかけらのように乾ききり、いかに体組織の水分すべて、また、からだの中の潤いすべてが、夏のひからびた地面のように干上がってしまったかを。そのときのあなたは、まことに渇きを覚えた。だが、あなたの《救い主》には、渇きを覚えるべき二重の理由があった。――長時間の絶食、その後のむごたらしい死の苦痛である。では、愛する方々。主に共感するがいい。そして思い起こすがいい。このすべてがあなたのためであったこと、主の敵であったあなたのためであったこと、世界中にあなたのほか誰もいなかったかのように、あなたのためにそれがなされたことを。確かに主はご自分の選びの民全員のために苦しまれたが、それでも、特にご自分の民ひとりひとりのためにあの釘は打ち込まれたのである。ひとりひとりのために主は渇きを覚えられたのである。ひとりひとりのためにあの酢と苦味を飲まれたのである[マタ27:34 <英欽定訳>; 詩69:21]。ならば、来て、このほむべき唇に口づけするがいい。そして、あなたの《救い主》の前にひれ伏し、畏敬に満ちた賛美をささげるがいい!

 さらに、私の兄弟たち。私たちが堅く確信するところ、私たちの主は、「わたしは渇く」、と仰せになった際に、極度に痛烈な渇きを覚えておられたに違いない。主は決して簡単に弱音を吐くようなお方ではなかった。抑えることができたときには、一言の不満も主の唇から聞かれたことはない。このように主が、その友人や敵たちに向かって、一滴の水にも渇しているとはっきりお告げになるとしたら、主は実に陰鬱な極限状態に追いやられていたに違いない。ある人々の云うところ、この、「わたしは渇く」、との叫びが、事実そうであったように、それよりもはるかに激越で恐ろしい叫び、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」[マタ27:46]の後に発されたからには、それは《救い主》の争闘が1つの節目を越えた証拠であるという。私たちの《救い主》は、その御苦しみの前半すべてにわたって、非常に煩悶する思いと、激甚な内的苦悶にとらわれていた。そのため渇きのことなど考えることができなかった。その渇きがいかに激しいものであったにせよ、御父が正義をもって主から御顔を背けられたとき主が感じたことにくらべれば、取るに足らない苦痛でしかなかった。だが、今や主は、しばし気を取り直し始め、ご自分の個人的な肉体的苦痛と戦うことができるようになっているというのである。そうかもしれない。おそらくその叫びは、戦いの潮の変わり目を示しており、この苦しめる英雄に勝利が来つつあることを示していたのであろう。しかし、あゝ! 兄弟たち。この叫びの中で、その濃密きわまりない暗闇にいかなる微光が閃いていたにせよ、《救い主》の口と唇をひからびさせた渇きがいかなるものであったかを、あなたは決して夢にも知ることはできないであろう。主がその陰鬱さの極限まで覚えられた渇きを、あなたは決して感じることはないであろう。寒気と、飢えと、裸と、渇きとが、あなたに降りかかることはあるかもしれない。だが、主の渇きの中には、あなたが知りうるいかなるものにもまさる悲痛さがあった。ここには、私の言葉などでは到底明らかにできない痛烈さがあった。

 もう1つの思いが私の脳裡に浮かんでいる。――ここで、あなたを誤り導きたいとは思わないが、「わたしは渇く」、と私たちの主が仰せになったことに、私は感謝したい気がする! あゝ! 兄弟たち。時として私たちがいたく苦しんでいるとき、あるいは、何らかの軽い病を得るとき――ことによると、非常な苦痛を覚えはしても、死活に関わるような、命取りのものではない病を得るとき――、私たちは不平を漏らすものである。少なくとも、「わたしは渇く」、と云うものである。さて、私たちがそうすることは間違いだろうか? 私たちは、感情を超克した人のようにふるまうべきだろうか? 火刑柱に縛りつけられた北米土人のように、焼き焦がされながら歌うべきだろうか? 焼き網の上の聖ローレンスのようになるべきだろうか? 禁欲克己はキリスト教の一部だろうか? おゝ、否! むしろイエスは、「わたしは渇く」、と云われた。そして、ここにおいて主は、悲嘆と悲しみに打ちひしがれている、あなたがたの中のすべての人々が、枕頭で見守る人々の耳にそう囁き、「わたしは渇く」、と云うことをお許しになったのである。おそらくあなたはしばしば、そのことを恥ずかしく思ってきたであろう。あなたはこう云ってきた。「さあ、もしも私が何か巨大な苦難を覚えているとしたら、あるいは、もしも私の忍んでいる苦痛が全く致命的なものであったとしたら、私が《愛する方》の御腕によりかかることもできよう。だが、この痛みや、この苦痛については別だ。それが、いかに私のからだを刺し貫き、いかに激しい苦悶を招くものであろうと、それでいのちが取られるわけではないのだ」、と。よろしい。だが、イエスが涙されたのがまさに、あなたをして自分の悲しみと自分の悲嘆のゆえに涙させるためであったのと同じように、主が、「わたしは渇く」、と仰せになっているのは、あなたが、主のなさったように辛抱強く、自分の小さな不満を表現することをお許しになるためなのである。また、あなたが主から嘲られたり、赤の他人のようにさげすまれたりすると考えないようにするため、また、主がすべてにおいてあなたに共感してくださることを分からせるためなのである。

 主は、カエサルが病んでいるからといって、次のように笑って云ったキャシアスのようには仰せにならない。――

「発作がくるたびに、おれはこの目ではっきり見た。あの男、なんとたわいなく震えたことか。そうなのだ、生きながらの神ががたがた体を震わせているのだ。その唇は、軍旗を見失って逃げ散る弱卒よろしく、血の気を失い、一瞥、世界を慴伏せしめるあの眼にも、すっかり光が失われていた。そしておれの耳はあの男が呻くのを聞いたのだ。そうだった、口を開けば全ローマの市民が耳を傾け、かれらにその一語一語を書きとめさせずにはおかぬあの男の舌が、なんというざまだ、悲鳴をあげる、『何か飲むものをくれ、ティティニアス』と、まるで小娘のように」*1

だが、なぜそうであってならないのだろうか? 彼は人間にすぎなかった。病んだ「小娘」でしかなかった。そして、結局、病んだ小娘のうちの何を軽蔑すべきだろうか? イエス・キリストは、「わたしは渇く」、と云われたし、このことにおいて、世界中のあらゆる病んだ小娘、あらゆる病んだ子ども、あらゆる病人に対して、こう云っておられるのである。「今は天国におられても、かつては地上で苦しみをお受けになった《主人》は、苦しむ者たちの涙をさげすむことはなさらず、病の床の上にある者たちをあわれんでくださるのだ」、と。

 イエスは、「わたしは渇く」、と云われる。私たちの主がこうした言葉をお用いになっているからには、私はあなたに、しばしの間、驚嘆とともにそれを黙想するよう求めても良いではないだろうか? 「わたしは渇く」、と云われたこの方はどなただっただろうか? あなたがたは知らないのだろうか? それが、雲を支え、大わだつみの海路を満たしておられるお方であることを。しかり。あらゆるを川をその方路に導き、あらゆる野を慈雨で潤されたお方である。――このお方が、《王の王》が、《主の主》が、その前では地獄も震え、地も狼狽に満たされるお方が、天があがめ、永遠すべてが礼拝するお方が、――そのお方が、「わたしは渇く」と云われた! 何と比類ないへりくだりであることか、――それは、神の無限から、渇ききって死にかけた人の弱さへと下られたのである! また、このことも、やはりあなたに思い起こさせなくてはならない。あなたのために苦しまれたお方は、何の変哲もない定命の人ではなく、あなたのような普通の人ではなく、むしろ、完璧な、永遠にほむべき神であった。すべての主権、力、となえられるすべての名の上に高く置かれているお方[エペ1:21]であった。このお方が、へりくだった身分の卑しさとともに身を屈め、あなたがしてきたように、「わたしは渇く」、と叫ばれたのである!

 もう一言云おう。私たちの主のこの、「わたしは渇く」、という叫びの中には、主がそのときささげつつあった贖罪の痕跡が見てとれると思う。十字架上におけるキリストの激痛は、不敬虔な人間たちのもろもろの罪や悲しみの代償とみなされるべきである。――

   「われらが決して 受けぬため
    主は受け給いぬ 御父の憤怒(いかり)を」。

さて、兄弟たち。地獄で悪人が受ける罰の一部は、あらゆる形の慰めが奪い取られることにある。自分の《創造主》に従うことを拒絶した人よ。――来たるべきその時、《創造主》は人を援助することを拒絶するであろう。神に仕えることを拒絶した人よ。――来たるべきその時、神に造られたものは人に仕えなくなるであろう。《主人》のあの厳粛な言葉を思い出すがいい。主は、あの金持ちには自分の舌を冷やす水一滴すらなかったと云われた[ルカ16:24]。彼は炎の中でたまらないほどの苦しみを受けていたが、しかし、その水は、神に故意に反逆しながら死んだ罪人の近くに来ることを差し止められたのである。おゝ! 私の愛する方々。もし私たちがしかるべき報いを受け取るとしたら、この世における慰めとなるものを何1つ受けられないはずである。大気でさえ私たちに呼吸することを許さず、いのちの支えであるパンも私たちに栄養を供さないはずである。しかり。私たちは被造世界のすべてが私たちに刃向かっていることに気づくであろう。私たちが神に刃向かっているからである。来たるべき時には、《いと高き方》に逆らい立っている者たちには、何の慰めも、何の慰めの希望も残らない。生きてあることを耐えさせることのできるあらゆるものが差し止められ、それを耐えがたくすることのできるあらゆるものが彼らの上に注がれる。というのも、主は悪者の上に網を張り、火と硫黄、燃える風が彼らの杯への分け前となるからである[詩11:6]。ならば、見るがいい。インマヌエルが私たちの代わりとなり、私たちの身代わりに苦しまれたとき、このお方もまた渇きを覚えなくてはならないのである。このお方も、あらゆる慰めを奪われ、最後のぼろきれに至るまではぎ取られて裸にされ、さながら地によっても拒絶され、天によっても受け入れられないかのように、十字架の上に吊り下げられなくてはならないのである。この2つの世界の中間で、このお方は、最も絶望的な貧しさのうちに死なれる。そして、私たちの罪のゆえに、お叫びになるのである。「わたしは渇く」、と! 愛する方々。主の種々の悲惨さを無視するようないかなる者とも仲間づきあいを求めてはならない。というのも、嘘ではない。そうする度合に従って、彼らは贖罪の栄光を減じているからである。たとい罪人にとって神に反逆することが軽いことでしかないとしても、キリストにとってその罪人を贖うことは軽いことではなかった。それはキリストをこの上もなく大きな輝きで覆った。結局において、私たちを、かの底知れぬ所に下っていく道から贖い出し、私たちのための贖いの代価を見いだされたことは、キリストの最も燦然と輝くみわざの1つとなっているからである。より大きな愛によってなされればなされるほど、この救いは大いなるものとなる。罪とその罰とを軽々しく考えてはならない。それは、キリストについて、またキリストがあなたをあなたの咎から贖い出すために苦しまれたことについて、軽々しく考えるようになるといけないからである。「わたしは渇く」、との叫びは、キリストが渇きを覚えられたときに成し遂げられた代償のみわざの一部である。なぜなら、そうでない限り、罪人たちは永遠に渇き続け、天国の楽しみも喜びも平安も一切拒まれることになったに違いないからである。

 私たちの主から発されたこの叫びについて瞑想するとき、もう1つのことに言及させられる。このように云うとしたら、この聖句のこじつけになるだろうか? すなわち、この、「わたしは渇く」、という言葉の下には、ただの飲み物に対する渇き以上のものがある、と。かつて主は、サマリヤの井戸の上に腰かけておられたとき、そこで出会ったあわれな遊女に、「わたしに水を飲ませてください」[ヨハ4:7]、と仰せになり、彼女から飲むものを得た。――それは、世が全く知らない飲み物[ヨハ4:32]であり、彼女が自分の心を主にささげ、主の福音に従順になったときにお受けになったものである。キリストは常に、尊い魂の救いを渇き求めておられる。そして、あの、聞く者すべてを総毛立たせた十字架上の叫びは、群衆をご覧になった際のイエス・キリストの大いなるみ心の吐露であった。主はご自分の神に向かって、「わたしは渇く」、と叫ばれたのである。主は人類を贖うことを渇き求めておられた。私たちの救いを成し遂げることを渇き求めておられた。きょうのこの日も、なおも主は、その天で渇いておられる。今なお、ご自分のもとに来る者たちを受け入れようとしており、今なお、そのようにして来る者を決して捨てまいと決意しており[ヨハ6:37]、今なお彼らがやって来ることを願っておられるからである。おゝ! あわれな魂たち。あなたはキリストを渇き求めていないが、あなたはキリストがいかにあなたを渇き求めておられるか知らないのである。主のみ心には、主に対する何の愛も有していない者たちに対する愛がある。キリストは、あなたを死なせたくないと思っておられる。あなたが地獄に投げ込まれないことを望んでおられる。ならば、このお方の優しいご支配に身をゆだねるがいい。このお方はあなたの魂のために、「わたしは渇く」、と云われたのである。おゝ! 私は願う。私たち、キリストを愛するすべての者が、同胞の人間たちの贖いに対する、この飢え渇きをより多く知るようになることを。願わくは主が、彼らに同情することを私たちに教えてくださるように。主が罪人たちのために泣かれたからには、決して私たちの頬が渇いていることがないように。主は彼らの魂のために苦悶されたし、私たちも自分の苦悶を抑えないであろう。人々が救われようとせず、無知からか、無頓着さのゆえか、決意の上においてか、キリストの福音を軽蔑しているからである。

 この点については、ここまでとしよう。これまでのところは、私たちの主ご自身に関することであった。目を脇にそらさず、仰ぎ見て、「わたしは渇く」、と主が叫ばれるのを聞くがいい。さて、ごく手短にこれから注意したいのは、――

 II. 《この叫びと私たちの関係、また関わり合い》である。

 この項目に関しては、神の民に対して語りかけることにしようと思う。最初に言及したいのはこのことである。――兄弟たち。イエス・キリストが、「わたしは渇く」、と云われたからには、あなたや私は、かつて自分を苛んでいたすさまじい渇きから解放されているのである。私たちは――私たちの中のある者らは――何年も前に聖霊によって目覚めさせられ、自分の危険を悟らされた。それまでは、罪がいかなるものか知らなかった。――それは、何と破滅的な熱病であったことか。私たちはそれを胸に抱きしめていとおしんでいた。だが私たちは、自分の絶望的な立場を悟り始めたとき、いやでも渇きを覚え、あわれみを叫び求めざるをえなかった。私たちの中のある者らにとって、その渇きは非常に激しかった。ほとんど眠ることもできず、その絶望の苦悶の中で、しばしば食事も手をつけずに残すほどであった。私は実際、生きているよりも魂が絞め殺された方がましだ思ったのを覚えている。神の渋面の下で生きていくこと、罪の感覚に目覚めながら、その罪を取り除くことができないでいることは、それほどにつらく思われた。――だが今この瞬間、その渇きはなくなっている。私たちは子とされ、救われ、赦されているからである。あなたは、ありったけの渇きをかかえた、ありのままでキリストのもとに来ては、身を屈め、その水晶の流れの水を飲んだ。そして今は言葉に尽くすことのできない喜びに踊っている[Iペテ1:8]。渇きがなくなったからである。おゝ! それを思い出してはその喜びに両手を叩くがいい。あなたが渇きから救われるために主の渇きが必要とされたことを思ってへりくだるがいい。だが、おゝ! そのみわざがなされたこと、あなたが二度と再びかつてのようには渇くことがないことを思って喜ぶがいい。というのも、キリストはこう云われるからである。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」[ヨハ4:14]。あなたの飽くなき欲求はとどめられている。あなたの内側にあって、「くれろ、くれろ」、と云っている蛭[箴30:15]は、ついに満足させられている。神の愛によって目覚めさせられた良心の渇望は満たされている。今や、おゝ! 喜べや! あなたの悲しみは過ぎ去っている。あなたは川のようにやって来て、あなたの正義は海の波のようである[イザ48:18]。あなたひとりだけで食物を食べてはならない。むしろ、死に給う《救い主》の渇きによって、自分には何の渇きもないと世界中に触れ知らせるがいい。

 そして、その最初の苦い苦悶の渇きを片づけたのと同じように、今は、もう1つの渇きを満たすことを求めるがいい。――キリストをより得ようとする渇きである。おゝ! 主の愛という甘やかな葡萄酒は、非常な渇きを生み出す。いったんそれを味わった者たちは、一層それが欲しくなる。主とより近くを歩みたいという渇き、主をより知りたいという渇き、主により似た者となりたいという渇き、主の御苦しみの奥義をより理解したいという渇き、そして、主のほむべき来臨の期待により満たされたいという渇きである。――

   「そば近く、主よ、近寄せ給え」。

これをあなたの叫びとするがいい。あなたの口を大きくあけよ。神が、それを満たすであろう[詩81:10]。あなたの願望を広げるがいい。神はそのすべてを満足させてくださる。より大きくキリストを切望するがいい。より義に飢え渇くがいい。あなたの願望のすべてはあなたに供されるはずである。それゆえ、それを狭めることによって、自分を貧しくしてはならない。おゝ! あなたが主の御手からより多くを求めるようになればどんなに良いことか。というのも、――

   「いかに広大(おお)くを 汝れ求むとも、
    よくキリストは 豊けく満たさん」

からである。あなたの想像力がその翼を張り伸ばし、この宇宙という狭い境界をはるかに越えて舞い上がり、くたくたになるまで飛び続けても、私たちの主イエス・キリストのうちに体現されている、神の満ち満ちた豊かさには決して達することができないに違いない。

 もう1つ、あなたが別の渇きをも涵養するよう勧めさせてほしい。――私たちの主も覚えられたと記されているような渇き――人の魂の回心を求める渇きである。他の人々の回心に飢え渇いている者たちが二十人もいれば、私たちは大きなわざがなされるのを見るはずである。しかし、おゝ! 私たちはあまりにも冷たく、無感覚で、眠っている。人々が毎日のように滅びつつあっても関係ない。このタバナクルに集まっている大群衆を見るがいい! 私たちは二度と再び集まることがないかもしれない。私たちの中のある者らは、次の安息日の朝を迎えるまでに、おそらく永遠のうちにいるであろう。そして、この世を去っているはずの人々の一部は、ことによると、かの底知れぬ所に落ちてしまっているであろう。だがしかし、私たちは彼らのために何の涙も流していない! おゝ! 神よ。私たちの心を、モーセの鞭よりも強い鞭で打ってください。そして、私たちの目を同情の涙で満たしてください! 考えてみるがいい。あなた自身の子どもが失われるとしたらどうなるか、あなたの親族が滅びるとしたらどうなるかを! おゝ! 奮起して熱のこもった祈りを始めるがいい。切実な願望と、絶えざる努力へと向かい、この瞬間から決して渇くことをやめてはならない。熱い願望をいだくがいい。あなたの主のそれと同じく、あなたを満たし、勤勉に霊のいのちを傾注することにおいて、こう云うも同然の願いをいだくがいい。「わたしは渇く」、と。さて私の最後の言葉は、非常に重苦しいものである。ほとんど、これを口にしなくてすめば良いのにと思うほどである。

 それを語りかける相手は、――

 III. 《不敬虔な人々》である。

 もしも主イエス・キリストが、他人のもろもろの罪をかかえていたにすぎないときにも渇きを覚えられたとしたら、神があなた自身のもろもろの罪ゆえにあなたを罰されるとき、いかなる渇きがあなたにもたらされるだろうか? キリストがあなたに代わって渇きを覚えてくださるか、あなたが永遠かつ永久とこしえに渇きを覚えるかは、2つに1つである。それ以外の選択肢はない。正義は身代わりによって正当なものとされるか、あなたの永遠の破滅においてその栄光を現わされなくてはならない。考えてみるがいい。あなたの甘やかな杯や、なみなみと満たされた鉢のすべてが、あなたから遠ざけられ、一滴の水もあなたの舌を冷やすために与えられないとしたらどうなるかを。あなたの美味な食物や、あなたの華やかな饗宴が永遠に廃止され、――あなたの目を照らすいかなる光も、あなたのからだの感覚を喜ばせるいかなるものもなくなり、あなたの魂が名状もしがたい災厄に苦しまされるとしたらどうなるかを!

 私は、キリストご自身のことばによってさえ、失われた霊たちの苦悶について長々と描き出しはすまい。しかし、このことを思いにとどめておくようあなたに命ずる。もし神の御子であられたキリストが、ご自分のものでもないもろもろの罪のため、これほど激しい渇きを覚えられたとしたら、神の子どもでもなく、神の敵であるあなたは、自分自身のもろもろの罪によって、いかに激甚な苦しみを受けなくてはならないだろうか? そしてあなたは、身代わりであるキリストがあなたに代わって立ってくださらない限り、そのような苦しみを受けなくてはならないのである。キリストは、万人のための身代わりではなく、ただご自分の民だけのための身代わりであられた。するとあなたは私に云うであろう。「キリストは、私の身代わりとなられたのでしょうか?」 それを告げてほしければ、あなたはこの問いに答えなくてはならない。「あなたはイエス・キリストを信頼するだろうか? 今キリストに信頼を置くだろうか?」 もしそうするとしたら、単純に、子どものようにイエスを信ずる信仰によって、あなたには救いがもたらされるであろう。さあ、覚えておくがいい。もしあなたが信ずるならば、あなたのもろもろの罪はすべてキリストの上に置かれるのである。そして、それゆえに、二度とあなたの上に置かれることはありえないのである。もしあなたが信ずるなら、キリストはあなたの身代わりに罰されたのであり、あなたが罰を受けることは決してありえない。キリストがあなたのために罰されたからである。代償――これが私たちの信頼の土台である。主が呪われた者となった以上、私たちが呪われることはありえない。主を信ずるならば、主が苦しまれた一切のことは私たちのためであり、私たちはキリストの審きの座の前で罪を赦されているからである。願わくは主があなたに、きょうのこの夜、《贖い主》を信ずるこの単純な信仰を与えてくださるように。そうすれば、主はあなたのうちに、ご自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て[イザ53:11]、主の大いなるみ心の渇きは満足させられるであろう。主があなたを祝福し給わんことを。アーメン。

 


*1 シェイクスピア、『ジュリアス・シーザー』、第一幕第二場(新潮文庫版、福田恆存訳、1968、p.18)[本文に戻る]

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救い主の渇き[了]

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