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罪の本性

NO. 3374

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1913年10月2日、木曜日発行の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「極度に罪深いもの」。――ロマ7:13


 この言葉の前後関係の詳細については、今晩の私たちに許されている時間の関係上、立ち入ることができない。それは概ね次のようなものである。パウロは、律法が人を聖くすることはできないと示した。そして、それは、彼自身も気づいたことだと述べるのである。律法が彼の心に入ってきたとき、それは彼のうちで、その戒めと逆のことを行ないたいという願望をかき立てた。彼は、ある種の行ないが禁じられているのを見いだすまで、それを実行したいなどとは考えもしなかったのに、それを見いだすや、即座にそれを行ないたいという願望を感じたのである。これに対して、1つの深刻な反論が持ち上がった。それでは律法が罪を幇助し、教唆しているということにならないだろうか。そうではない、と使徒は答える。自分に罪を犯させたのは律法ではない。律法は良いものだからである。むしろそれは、自分の心の中の罪深さである。それが、良いものをこのように悪の機会と変えることができるのである。彼はさらに、モーセによって与えられた際の律法の意図そのものは、罪がいかに罪深いものであるかを明らかにすることにあったと示している。律法が送られた目的は、人々を聖くすることにではなく、人々に自分たちがいかに不浄なものであるかを見てとらせることにあった。律法は、この病の治療薬ではなく、ましてや、その病の創造者でもない。むしろ、それは、人間のからだの中にひそんでいる、この病を暴露するものなのである。

 さて、私があなたの注意を引きたいと思うのは、パウロがここで罪を「極度に罪深いもの」と呼んでいるということである。なぜ彼は、「極度にどす黒いもの」とか、「極度に恐ろしいもの」とか、「極度に致死的なもの」と呼ばなかったのだろうか? 何と、それは、この世に罪ほど極悪なものはないためである。彼は、罪の呼び名として、自分に見つけられる限り最悪の言葉を用いたいと欲した。それで罪をそれ自身の名で呼んで、それを反復したのである。「罪」は「極度に罪深いもの」だ、と。というのも、たとい罪をどす黒いものと呼んでも、黒や白にはいかなる道徳的卓越性も醜さもないからである。黒は白と同じくらい良いものであり、白は黒と同じくらい良いものである。たとい罪を「致死的」なものと呼んでも、死そのものの中には、罪とくらべればいかなる悪もない。植物にとって死ぬことは、恐ろしいことではない。むしろ、自然の秩序の一部とも云えよう。そのようにして、新しい世代の植生が次々と発生しては、しかるべき時に、後に続く別の世代のための地底土となるのである。それで人が罪を「致死的」と呼ぶとしても、それはごく僅かなことしか云っていない。もしただ一言を欲するとしたら、その本源に至らなくてはならない。罪は、それ自身の名によって呼ばれなくてはならない。罪を描写したければ、それを「罪深いもの」と呼ばなくてはならない。罪は「極度に罪深いもの」である。

 本日の聖句は、1つの幅広い議論と、1つの特別の適用を示唆している。そこで私たちは、罪がそれ自体で「極度に罪深いもの」であることを努めて示そうと思う。だがしかし、そこには、ことのほか「極度に罪深いもの」と云える、いくつかのしるしもあるのである。

 I. 《罪はそれ自体で「極度に罪深いもの」である》。それは神に対する反逆であって、「極度に罪深い」。なぜなら、それは神の数々の正しい権利と大権を侵害するからである。私たちの目に見えない、また、私たちの想念でさえ包み込むことのできない、かの大いなる不可視の《霊》は、天と、地と、存在するすべてのものをお造りになった。そして、ご自分の造ったものにご自分の望む目的を果たさせ、ご自分に栄光を帰させることは、このお方の権利であった。星々はそうしている。彼らはその永遠の軌道上でガタガタ揺れたりしない。物質世界はこのことを行なっている。このお方がお語りになると、それがなされる。日も、月も、天の星座も、しかり、地上の諸力も、海でうねる大波や風の叫声でさえも、ことごとくこのお方の命に服している。彼らがそうするのは正しい。陶器師は、粘土で自分の望むものを作って良いではないだろうか? 手斧を用いる者は、自分の心のままに、自分の欲するものを形作って良いではないだろうか? あなたや私は、この被造世界の中でも恵まれたものである。――無生物の塊ではなく、感覚のみを有する、知性を持たない虫けらでもない。思考と、情緒と、情愛に恵まれ、高次の霊的存在――左様、不滅の存在――に恵まれている私たち、その私たちは、特に自分をお造りになったお方に服従しなくてはならない。あなたの良心に尋ねてみるがいい。あなたは、神があなたをご自分のものとする権利をお持ちだと感じないだろうか? 自らに尋ねてみるがいい。もしあなたが何かを作るか、保存するかしておき、それを自分のものと呼び、それがあなたのものである場合、あなたはそれがあなたの目的をかなえ、あなたの云うことに聞き従うものと期待しないだろうか? 何ゆえにあなたは、あなたを造られたお方を忘れてしまったのだろうか? 何ゆえにあなたは、あなたの諸力と、種々の精神機能を、このお方のご栄光以外のもののために費やしてきたのだろうか? あゝ! そのみこころ1つに私たちの存在がかかっているお方の王権が無視されるとしたら、あるいは、厚かましくも違反されるとしたら、それは「極度に罪深い」ことである。だが、私たちが罪に取り込まれていることに鑑みれば、私たちはこのお方の勅令を踏みにじり、その支配権を無視しているのである。

 このような神に対する、この反逆は何と極度に罪深いものであろう! 神の種々の属性を思い巡らし、神の威光をよくよく考えてみるがいい。というのも、神は単に無限に力強く、賢く、すべてを満ち足らわせ、栄光に富んでいるばかりでなく、無上に善なるお方だからである。神は、最大限にいつくしみ深い、善なるお方であられる。そのご性格において比類なき神であられる。異教徒たちがあらゆる悪徳を帰しているユピテル神のようではない。あるいはヒンドスタンの、血に飢えた神ジャガナートのようではない。私たちの礼拝する神は、きよく聖なるお方である。聖であって力強く、たたえられつつ恐れられるエホバである[出15:11]。さて、こうしたことも考えられよう。たとい神が何か広大無辺の存在で、私たちの奉仕を受ける当然の権利を有していたとしても、その性格が――(大いなる神よ、このような仮定を赦し給え!)――憐憫もなく峻厳で、仁慈もなく厳酷で、寛容もなく無情なものであった場合、大胆不敵な霊たちがこの圧制者に対して反旗を翻すべき口実は、ある程度はあったであろう、と。しかし、私たちの父なる神、大《牧者》なる《王》、このお方に対して、私たちが一瞬でも反逆するとき、また、そのみこころに逆らって小指一本でも上げるとき、誰がそうした云い訳を立てられるだろうか? 神に仕えることは天国であった。御使いたちはそう告げるであろう。みこころを行なうことは至福であった。かの完璧な霊たちはみなそう告げ知らせている。あゝ! 罪は実に卑しいものである。この上もなく優しい君主の支配権に対する反逆、この上もなく愛情深い親の権利に対する反乱、無比の慈悲に対する謀叛である! おゝ! 罪よ。恥を知るがいい! お前はまさに「極度に罪深いもの」にほかならない。

 また、罪の極度の罪深さをはなはだ重くするのは、次のことである。それは、一点たりとも正しからざるもののない律法に従わない! 十戒の板は、正義の本質的原理に基づかない命令を何1つ含んでいない。もしも公平の原則を侵すような法が英国で布告されたとしたら、その法を破ることは至高の義務かもしれない。だが、わが国の法が正義にかなう正しいものであるとき、そうした制定法を破ることは、《国家》の自然権に対する違反であるばかりでなく、理性と道義心に対する違反でもある。神の律法は、単に天来の権威を有するのみならず、このような長所もある。それはことごとく、私たちのあり方に関わる一切のことに調和し、適合したものなのである。確かマサチューセッツ州ではなかったかと思うが、彼らは、制定法を作ろうとした際に、まず次のような決議を可決したという。すなわち、より良い法が作られる時まで、彼らは神の法によって支配される、と。だが、より良い法を作る機会など得られようか? 誰か、神の律法の一句でも抹消して改善することができるだろうか? 一文でも追加して改良できるだろうか? 否! 律法は聖なるものであり、正しく、また良いものである[ロマ7:12]。ふさわしく理解されるとき、それは自然と悪を禁じ、単純に善を――善だけを――推奨する。おゝ、罪よ! お前は実に極度に罪深いものだ。お前は、それそのものが正しく、正義で、高潔で、真実なものに対して、あえて反逆しようとするのだから。

 さらに、兄弟たち。――これは私たちの中のある者らをぎょっとさせるかもしれないが――罪が「極度に罪深いもの」であるのは、それが私たち自身の利益に反し、私たち自身の幸福に逆らうからである。利己主義は私たち全員の中にある強大な原理である。私たちにとって良いもの、また、個人的に有利となるものは、強固な愛着をもって遇されるべきであり、私たちが賢明であれば強い意気込みをもって追求されるであろう。さて、神があることを禁じられるときはいつでも、それが危険なものとなると確信して良い。神の命令は、凍結期の公園の池によく立っている「危険」という立て看板のようなものであって、断固たる禁令というよりは、はるかに優しい警告という趣がある。神は単に私たちに対してこう告げておられるにすぎない。これこれのことには危難が伴っているのだ、あるいは、それは破滅に至ることになるのだ、と。神がお許しになっていること、命じておられることは、ただちにそうならなくとも、長い目で見たとき、私たちの最上の利益を、この上もなく増進させることになるであろう。神は、私たちに律法を与えるとき、いわば、私たちの福祉と繁栄を顧慮しておられるのである。人が、自分の《造り主》に対して罪を犯すために、向こう見ずにも自分を軽んじることになるとしたら、それはまことに悪辣なものと思われないだろうか? 神はあなたに、「あなたの手を火の中に差し入れてはならない」、と云っておられる。自然は、「それをしてはならない」、と云う。だがしかし、神が、「不品行あるいは姦淫を犯してはならない。偽りを云ってはならない。盗んではならない」、と仰せになるとき、また、「祈りによってわたしに近づき、わたしを愛せよ」、と仰せになるとき、こうした命令は、それそのものが、あなたの手を火の中に差し入れてはならないという訓令や、飢え渇きを覚えるときには衛生的なものを食べたり飲んだりせよという勧告と同じくらい自然に賢明なものなのである。だが、私たちはそうした命令をはねつける。毒杯から飲んではならないと云いつけられても、それを飲もうとする子どもと同じである。手を切るといけないから、鋭利な刃物に触ってはいけないと云われながら、怪我をする子どもと同じである。父親の知恵を信じず、自分自身の判断をうかうかと信じるのである。その杯は甘そうに見えるから、無害に違いない。刃物はぴかぴか輝いているから、妥当な遊び道具に違いない、と。人よ、知るがいい。あなたは罪を犯すとき大怪我をするのである。狂人以外の誰がそうするだろうか? もしあなたが正しく行なうことを怠るとしたら、あなたは栄養になるものを食べることを怠り、見苦しくない服を着ることを怠っているのである。痴愚者以外の誰がそのような愚行をあえてするだろうか? それでも罪は、私たちをそうした痴愚者や狂人に変えてしまうのである。それゆえ、罪は「極度に罪深いもの」なのである。

 罪は、もし私たちが正しく考えるなら、宇宙の全秩序を滅茶苦茶にするものである。あなたの家庭の中で、父親としてのあなたは、家長の決定に家族全員がきちんと従わない限り、何事も円滑に進まないと感じるであろう。もしあなたの子どもが、こう云うとしたらどうであろう。「父さん。ぼくは決めましたよ。この家庭の中であなたの意志がどうあろうと、ぼくはそれに逆らおうと。また、ぼくの意志は何であれ、それを守り抜き、できるものなら常にそれを実行すると」。これは何という家庭となることか! いかに支離滅裂なものとなることか! いかなる一家となることか! あなたは云うではないだろうか。これは何たる生き地獄か!と。明日、テムズ川から一艘の船が出帆する。指揮を執る船長は賢明で、善良で、海のことをよく知っている。だがネートゥ川に着きもしないうちに、ひとりの水夫が彼に向かってこう告げるのである。あっしは従いませんぜ、帆を畳むことも、船上で云いつけられたどんなことをするのも願い下げでさあ、と。「こいつに足枷をはめろ!」 誰もがそれを正しいと云うであろう。あるいは、ひとりの乗客が談話室から出て来て、船長にこう通告するとしよう。私はあんたの権威を認めませんぞ、この航海の間中、あらん限り手を尽くしてあんたの邪魔をしてやりますからな、と。向こう端に端艇があるなら、こいつを放り込んで陸に上げろ。泥だらけの所に上陸させてもかまわん。だが、とにかくそいつを叩き出せ。誰もがそれが当然だと感じる。正当な中心的権威が取り除けられることを許すくらいなら、あるいは、誰もが自分の目に正しいと思うことをする決意を許すくらいなら、船底に穴を開けて沈没させるか、船側に穴をぼこぼこ開けた方がましだからである。その船に乗り組んでいるあらゆる人の幸福は、秩序が保たれることにかかっている。もし誰かがこのことを行ない、別の者があのことを行なうという、そのような船にいるくらいなら、虎がうようよいる檻の中に閉じ込められた方がほとんどましであろう。さて、この世を眺めてみるがいい。これは規模の大きな船が浮かんでいるようなものである。ではその船長として、この世をお造りになったお方以外の誰がふさわしいか云ってみるがいい。このお方の強大な御手だけが、その畏怖すべき舵柄を掴むことができるのである。誰がこの巨船を《摂理》という波浪を越えて操縦できるだろうか?――このお方しかいないではないだろうか? そして、私は何様だというので、――また、話をお聞きの方々。あなたは何様だというので、――このように云うのだろうか? 「私はこの《海軍司令長官》を無視してやろう。私はこの《船長》のことなど忘れよう。私は彼に謀反を起こそう」。何と、もしみながあなたのするようにしたとしたら、この船全体はどうなるだろうか? 全世界はどうなるだろうか? 秩序は紊乱し、混乱と悲しみと困惑と惨事が確実に続くであろう。

 もしも、まだ罪が極度に罪深いものである証拠がほしければ、それがすでに世界で何をしてきたか見てみるがいい。あなたの目を上げて、かの麗しい園を眺めわたすがいい。あらゆる美しい生き物が、鳥や獣が、また、枯れることなき麗しさのあらゆる花々が、また、五感を楽しませるあらゆるものが、陽光の下に見いだされる。そこに、2つの完璧な存在がいる。ひとりの男とひとりの女で、人類の先祖である。そこに罪が入り込む。花々はただちに枯れ、それまでなかった野性が獣をとらえ、地面は茨やおどろを生じさせ、人は放逐されては、顔に汗して日々の糧を稼ぐことになる。誰がエデンを枯らしたのだろうか? 呪わるべき罪よ、お前がしたのだ! お前がそのすべてを行なったのだ! そこを見るがいい。――だが、その光景にあなたは耐えられるだろうか?――立ち上る煙、舞い上がる埃の山、喨々たる喇叭の響き、そして、それよりも恐ろしい大砲の鈍い咆哮。聞けよ、あの金切り声と悲鳴とを。彼らは逃げている。追われている。戦闘が終わった。その戦場の上を歩いてみよ。滅茶苦茶に損壊した人体が累々としている。切り刻まれ、ちぎり取られ、砲弾でもて遊ばれ、銃弾で頭蓋を粉々にされ、べっとりと血糊をまつわりつかせている。おゝ! 世には悪鬼以外の何者も平然と見ていられない光景というものがある。誰がこれらすべてを行なったのか? 何から戦争や戦争の噂が出て来るのか。それは、あなた自身の欲望や、あなたのもろもろの罪からではないか。おゝ! 罪よ。お前は殺戮を引き起こす! 罪よ。お前が、「破壊よ。あれ」、と叫ぶと、たちまち戦争の犬たちが解き放たれる! お前さえやって来なければ、こうしたことは何1つなかったのだ。しかし、この壮観は私たちの幻視の中で増殖していく。全世界を歩き回るだけで、あなたは至る所に、多かれ少なかれ小さな塚が点々と散らばっていることに気づく。そして、もしあなたが町通りを吹き飛ばされていく塵を分析し、一瓦単位で尋問するなら、おそらくそれはあなたに告げるであろう。自分は、かつてはある人のからだの一部だったが、その人は何世代も前に苦痛に満ちた死を迎え、腐ってから母なる大地の中に還っていったのです、と。おゝ! 世界は死の傷跡で醜くされている。今日のこの地上は、1つの大きなアケルダマ[使1:19]――血の地所――広大な墓場でなくて何であろう? 死は、世界をとことんまで虫で食らってきた。その表面のすべては人類の遺骸を帯びている。誰がこうした人々全員を殺したのだろうか? 誰が彼ら全員を殺したのか? まさに罪でなくて誰であろう? 罪は、熟すると死を生むのである[ヤコ1:15]。

 私には、これから私の後について来てほしいとあなたに求めることなど到底できない気がする。たといあなたについて来ることができたとしても、たといあなたの無謀な想像の翼が混乱と無秩序に満ちた国へ羽ばたいていこうなどと考えるにせよ、私はこの、定命の者の国と不死の者たちの領域とを分かつ流れを越えて、あえて先達を務めたいとは思わない。かの死の影の谷を横切った所に、あなたがたは悲惨な魂たちの陰惨な領土を眺めることができる。そこで彼らを食らううじは絶えることがなく、彼らを焼く火は消えることがない[マコ9:48]。もしあなたに、かの、底の知れない物凄い穴――神から罪と定められた霊たちが永久とこしえに投げ込まれ、あらゆる希望と回復の光を閉ざされる所――をのぞき込む勇気があるとしたら。しかし、あなたは、その場所から恐怖に駆られて後ずさりする私と全く同じように身震いするであろう。そこでは神の御怒りが炉のように燃えており、悪を行なう高慢な者は刈り株のようになり、神を忘れたあらゆる国々は永遠に焼かれることになる。誰がその火をつけたのだろうか? それを燃やした者はどこにいるのだろうか? 罪である。罪がそのすべてを行なったのである。罪のためでなくてそこにい人間はひとりもいない。いまだかつて呼吸したことのある人間のうち、いかなる者であれ、そこに投げ捨てられているとしたら、それは最も重い罪ゆえの、最も正しく罰としてである。罪は実に「極度に罪深いもの」なのである。

 今でさえ私は頂点に達していないし、そうした描写をあえて行なってはいないに違いない。最悪の段階は死でも地獄でもない。むしろ、カルバリの木の上で、私たちを愛し、私たちを祝福するため地上に来られた主ご自身が、罪の極度の罪深さを証明されたのである。それは、罪が主をその木に釘づけにし、主の御脇を刺し貫いた時、また、罪人たちが主を拒絶してさんざんに嘲りとせせら笑いを浴びせかけ、こう叫んだ時であった。「この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません」[ルカ19:14]。イエスの悶え苦しみにおいて、その恥辱とつばを吐きかけられることにおいて、また、主が耐え忍ばれた苦悩と苦悶において、罪の極度の罪深さは極太の文字で記されており、半分めくらの者でさえそれを読めるほどである。おゝ! 罪よ。キリストの殺害者よ。お前は「極度に罪深い」。すでに時間はなくなりつつある。さもなければ私は、次のことについて詳しく述べ立てるつもりであった。すなわち、

 II. 《いかなる通常のそむきの罪をも越えて極度に罪深い、いくつかの特定の罪》である。

 私が意味しているのは、《福音》に逆らうもろもろの罪である。ここでは、ただそれを列挙するだけにしよう。この場にいる、自分に正直なあらゆる人が、自分に咎がないかどうかを探り、見てとれるようにするためである。神によって遣わされた、愛に満ちた使者たちを拒絶すること。それは、敬虔な両親、熱心な牧師たち、情愛のこもった教師たちのことである。また、彼らがもたらしてくれる親切な使信と、彼らが私たちのことを思って感じる熱い懸念を拒絶すること。それは「極度に罪深い」ことである。ただあわれみと、赦しと、子とされることと、地獄からの贖いと、天国に高く上げられることについてのみ私たちに語りかける、愛に満ちた《福音》に抵抗すること――それは「極度に罪深い」ことである。死に給う《救い主》に抵抗すること、地上に来られた唯一の動機が愛でしかなかったはずのお方に抵抗すること、その御傷がご自分の愛を宣べ伝える口となり、その死が厳粛な愛の証しとななっているお方を蔑み、ないがしろにし、無視すること、これは「極度に罪深い」ことである。このお方を愛するとの告白を行なった後で、この方に対して罪を犯すこと、このお方の食卓に着いた後で、行って、不敬虔な者たちとともに罪を犯すこと、このお方の御名でバプテスマを授かりながら、不正で、不正直で、不義の者であること、これは「極度に罪深い」ことである。このお方の教会とともに数えられながら、それでもこの世の者であること、このお方に従うと告白しながら、それでもこのお方の敵となること、これは「極度に罪深い」ことである。光と知識に逆らって罪を犯すこと、悪いと分かっていながら罪を犯すこと、良心に背いて罪を犯すこと、良心を片隅に押しやること、自分の分別に背くこと、聖霊に逆らい、その勧告や警告や疑いや促しに逆らって罪を犯すこと、これは「極度に罪深い」ことである。罰を受けた後も罪を犯し続けること、罪が多くの痛みや困難という代償を負わせるときも罪を犯し続けること、あたかも障害物競走に出走しているかのように門柱も柵も門も垣根も溝も跳び越えて、地獄へ向かってひた走ること、これは「極度に罪深い」ことである。

 あなたがたの中のある人々は今晩、このように極度に罪深い人々である。おゝ! いかに私は、あなたがたの中のある人々に懇願してきたことか。私はイエスのもとに来るよう、あなたに叫んできた。あなたがたの中のある人々に対して何度も何度も警告してきた。もし私が審きの法廷で答弁するように求められるとしたら、私は、あなたがたの中の多くの人々の断罪に対して、「アーメン」、と云わざるをえない。あなたが、ずっと良く物を知っていたはずであると告白せざるをえない。――あなたがたの中のある人々が、飲酒はいかに誤っているかを知っているときに飲酒に走っていたこと、あなたがたの中のある人々が平然と悪態をついていたこと、あなたがたの中のある人々が盗人であること、あなたがたの中のある人々が傲然と罪を犯していることを告白せざるをえない。だが、私はなぜあなたがこの幕屋に何度も何度も何度もやって来るのか、ほとんど見当もつかない。あなたは私の声を聞くのを愛しているが、それでも自分のもろもろの罪にしがみついている。確実にあなたを地獄に落とすことになるだろう罪に。私にはあなたの血について責任を免れさせてほしい。私はあなたに向かって奥歯に物の挟まったような物云いをするつもりはない。あなたがたの全員が聖徒ではないと分かっている時に、そうであるかのような話をしたりはしない。あなたがたの中の多くの人々が今なお両の翼を広げて、悲しいかな! かの穴へと急降下しつつあるときに、あなたがたがみな天国に行くかのような話し方はしない。おゝ! 願わくは神が引き留めてくださるように。さもなければ、あなたが罪を犯す際に受けていた明るさと光によって、あなたの罪はより暗いもの、あからさまなものとなるであろう。そして、あなたが聞いている数々の警告は、あなたの断罪を、それがやって来るときには、いやが上にも圧倒的なものとするであろう。

 しかし、なぜそれがやって来る必要があるだろうか? あなたは、なぜ死のうとするのだろうか? なぜ罪に心血を注ぐのか? なぜ悪を愛するのか? 私は、少しでも窓が開いていると、書斎の瓦斯灯の中にあわれな羽虫たちが飛び込んで来るのをしばしば見る。いかに彼らは、炎に向かって突進してはぽとりと落ちることか。だが、少しでも力を回復すると、再び彼らは自らの破滅に向かって飛び立つのである。あなたは、そうした者だろうか? 知性も知識も持たない、ただの昆虫なのだろうか? おゝ! そうではない。さもなければ、あなたには弁解の余地があったであろう。私の《救い主》のもとに来るがいい。あわれな魂たち! このお方はなおも喜んであなたを受け入れようとしておられる。一言の祈りだけで良い。その祈りをそっと囁くがいい。砕かれた心を、このお方は蔑まれない[詩51:17]。一目このお方を仰ぎ見るだけで良い。あなたのために嘆願しておられるイエスの姿を微かに見てとるだけで良い。聖霊よ、彼らにその一目を与えさせ給え。おゝ! あなたの不可抗の御力によって、彼らをしいて今、仰ぎ見て生かさせ給え。おゝ! そうなるはずである。神はほむべきかな。そうなるはずである。あなたは今晩仰ぎ見て、神は栄光をお受けになるはずである。そして、確かにあなたは「極度に罪深いもの」ではあっても、かの尊い血によって完全に赦されることになる。そして私は希望している。イエスがもたらしてくださる大いなる赦しのゆえに、あたが極度に感謝に満ちた者となることを。主があなたを祝福してくださるように。その御名のゆえに。アーメン。

 

罪の本性[了]

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