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愛する者の葡萄畑

NO. 3319

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1912年9月12日、木曜日発行の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於マントン、一団の信仰者たちの前にて


「わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた」。――イザ5:1


 私たちは、たちまちここにイエスを認めることができる。イエス以外の誰が、「わが愛する者」の意味でありえようか? ここには、所有の言葉があり、情愛の言葉がある。――彼はわがものであり、わが《愛する者》なのだ、と。彼は愛らしさそのものであり、最も愛に満ちた、愛されるべき存在である。そして、私たちも個人的にこのお方を、私たちの心と精神と思いと力を尽くして愛している。この方は私たちのもの、私たちの《愛する者》、私たちの《愛するお方》であると、いささかの引け目もなしに云うことができる。

 私たちに対する私たちの主の非常に喜ばしい関係には、主に対する私たちの関係を思い起こさせてくれる言葉が伴っている。「わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた」。そして、葡萄畑とは私たちの心、私たちの性質、私たちのいのちでなくて何であろう。私たちは主のものである。そして、私たちが主のものである理由は、他のいずれかの葡萄畑がその所有者に属している理由とも全く変わりはない。主が私たちを葡萄畑にされたのである。私たちから自然と生ずるものといえば、せいぜい茨やおどろでしかなかったにもかかわらず、主は代価をもって私たちを買い取り、私たちに垣根を巡らし、私たちをご自分のために取りわけ、それから私たちに木を植え、私たちを耕された。私たちのうちにあって良い実を結ばせるすべてのものは、主が創造したもの、主が栽培したもの、主が保護されたものである。それで、もし私たちがいささかでも葡萄畑であるとしたら、私たちは主の葡萄畑であるに違いない。私たちは、そのことに喜んで同意する。私はこう祈るものである。私のこの髪の毛一本でさえもキリストに属さないものとはならないように、と。そしてあなたがたもみな、あなたの鼓動1つ、息づかい1つも主のものであるように祈っているはずである。

 この幸いな午後、あなたがたに注意してほしいのは、この葡萄畑が「よく肥えた山腹に」あったと云われていることである。私は、主に対する私自身の立場のすぐれた点の数々について考えてみた。そして、自分のような立場にある者に求められて当然の実を結んでいないことに大きな嘆きとともに恥じ入った。私たちの種々の特権や、利点や、好機を考えるとき、残念ながら私たちの中の多くの者らは、心を大きく探られるのを感じるのではないかと思う。ことによると、そのような者にとって、この聖句は有用かもしれない。そして主が、この聖句についてこれからなされる瞑想を祝福してくださるとしたら、これは私たちの中の誰にとっても有益でないことはないであろう。

 I. こうした言葉の中で私たちが第一に考えたいのは、《主の葡萄畑としての私たちの立場は、非常に好ましいものである》ということである。「わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた」。いかなる者も、私たちほどキリストに仕えるために好適な場所にいることはありえない。私は、神の栄光を現わすために私ほど恵まれた状況に置かれている人のことをまず考えることができない。愛する姉妹たち。私は、キリストに仕えるために、あなたがたの中の何人かがいま占めているような立場ほど恵まれた立場にある婦人を思いつけない。私たちの天の御父は、私たちのために最善のことをおできになる場所、また、私たちが御父のために最善のことをできる場所に私たちを置かれた。無限の知恵が細心の注意を払って土壌と、立地と、葡萄畑内のあらゆる木々を選別した。私たちはみな非常に異なっており、豊かな実を結ぶためには異なる用地が必要である。ある者にふさわしい場所は、別の者にとってはつらすぎるかもしれない。愛する方々。主はあなたを正しい所に置いておられる。あなたの持ち場はそれ自体としては最上ではないかもしれないが、あなたにとっては最上なのである。私たちは、何らかの現在の奉仕のために、可能な限り最上の立場にある。神の摂理は私たちを、私たちの間近な義務のための絶好地に置かれた。「わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた」。

 私たちが生きている時勢について考えてみよう。過ぎ去った年月とくらべてみれば、それは私たちに豊かな実を結ぶよう求めている。昔であれば、私たちはこのように幸いなしかたで自分の部屋に集まることはできなかった。もし私たちがパンを裂いたり、神のことばを読んでいる現場を押さえられたら、私たちは牢獄に引っ立てられ、ことによると、死ぬまで閉じ込められていたかもしれない。私たちの先祖たちは、詩篇の賛美を一言声にあげることすらほとんどしなかった。敵が襲いかかってくるのを警戒したからである。まことに、測り綱は、私たちの好む所に落ちた。まことに、私たちへの、素晴らしいゆずりの地[詩16:6]は、よく肥えた山腹にある。

 私たちが生きている時勢は、過誤が卓絶して猖獗をきわめているという時代でさえない。今も過誤はあまりにもはびこっている。だが大局的に見た場合、私はあえて云うが、真理が今ほど広く強い影響力を行使していた時、福音がこれほど完全なしかたで宣べ伝えられていた時、あるいは、これほど霊的な活動が多くなされていた時はなかった。過誤の黒雲は私たちの上に覆いかぶさっているが、それと同時に、私たちを喜ばせることに、英国の津々浦々でキリストは、一万人もの声によって宣べ伝えており、地のいかに暗い部分においてさえイエスの御名は、家の中のあかりのように輝いている。もし私たちに自分の生きる時勢を選ぶことができたとしたら、いま現在ほど実を結ぶのに好都合な時は選べなかったであろう。この時代は「よく肥えた山腹」なのである。

 このことが真実であることを私たちの中のある者らははっきり知っている。なぜなら、私たちは実を結んできたからである。兄弟姉妹。あなたの心が暖かく、あなたの熱心が燃えていた時、また、あなたが喜んで主に仕えていた時のことを思い返してみるがいい。私も、そうした幸いな記憶の中のあなたがたに加わろう。そのとき、私たちは、いかに俊足の者とも互角に走ることができた。いかに大勇の者とも戦うことができた。いかに強い者ともともに働くことができた。いかに忍耐強い者ともともに苦しむことができた。神の恵みは、私たちの中のある者らの上には、取り違えようのないしかたで臨んでおり、私たちは御霊のあらゆる実を結んできた。ことによると、今日の私たちは、かつてほど実り豊かでないため、深い哀惜とともに過去を振り返るかもしれない。そうだとしたら、私たちの哀惜は幾倍になっても良いが、その1つ1つは希望に満ちた祈りに変えるべきである。思い出すがいい。葡萄の木は変わったかもしれないが、土壌は同じなのである。私たちはなおも実り豊かになるべき同じ動機を有している。かつてのそれ以上の動機を有している。なぜ私たちは、より豊かな実を結ばないのだろうか? 何らかの霊的な根油虫がこの葡萄の木にとりついたのだろうか? それとも、私たちは霜害を受けるか、日に焼けすぎたのだろうか? 何が葡萄の収穫を差し止めているのか! 確かに、もし私たちがかつて実り豊かであったとしたら、今はより実り豊かであるべきである。この良く肥えた山腹は疲弊してはいない。何が悪くて私たちの葡萄の実はこれほど僅かなのか?

 私たちが良く肥えた山腹に植えられているというのは、私たちが、他の何にもまして最も豊かな実を結ぶよう召されているからである。幸いで幸福なのは、キリスト教の教役者職に召されている人である。というのも、この奉仕は他の何にもまさる栄光をキリストにもたらしてきたからである。愛する方々。あなたがたは国々の支配者となるように召されてはいない。発動機関の発明者にも、科学の教師となるようにも、人々を殺す者となるようにも召されていない。むしろ、私たちは魂を獲得する者たちであり、私たちの働きは人々をイエスへと導くことである。私たちの働きは、この世のあらゆる仕事の中でも、人々に対する益と神の栄光とにおいて最も実り豊かなものである。もし私たちが神の御子の福音において、自分の力と能力を尽くして神に仕えていないとしたら、私たちの上には重い責任がのしかかっている。「わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた」。インマヌエルの国の外側にある土壌という土壌の中でも、魂のための聖なる教役者職ほど滋味豊かな土壌はひとかけらもない。私たちの中のある者らは教師であって、若い人々を自分たちの回りに集めてはイエスについて語っている。これもまた、えり抜きの土壌である。多くの教師たちは、幼い者たちの間で見事な葡萄の実を取り入れてきた。それは、魂を獲得するという栄光においては、牧師や伝道師たちにいささかも劣るものではなかった。愛する教師たち。あなたの葡萄の木は非常に良く肥えた山腹に植えられている。しかし、私は説教者や教師たちに限定してはいない。というのも、私たちの中のすべての者らは、主イエス・キリストのために語る機会、また、個人的に話をする機会を有している以上、やはり育つべき豊穣な土壌を有しているからである。もし私たちが魂を獲得することによって神の栄光を現わしていないとしたら、私たちは大いに非難されるべきである。ありとあらゆる形の奉仕の中でも、これは神をたたえることにおいて最も地味が肥えているからである。

 その上、私たちを取り巻いている種々の環境そのものもみな、私たちの立場をこの上もなく実を結ぶのに好都合なものとする傾向にある。この小さな集まりの中には、ひとりとして極貧の友はいない。だが、たとい私たちの間にそのような人がいたとしても、私は同じことを云うはずである。キリストは、その極上の房を貧困の谷間から収穫してこられた。多くの卓越した聖徒たちは、一呎ほどの土地も決して所有したことがなく、その週給に頼って生活し、それすら、ごく僅かなものでしかなかった。しかり。神の恵みによって、その貧困の谷は薔薇のように花開いてきた。しかしながら、ここにいる私たちの中のほとんどの者には、それなりの資産があり、必要なものをすべて持っており、それどころか、貧者に施し、神の御国の進展のためにささげることのできるものまで有している。確かに私たちは、施し物において、病者の世話において、また、あらゆるしかたの甘やかで芳しい種々の影響力において、実り豊かであるべきである。「貧しさも富も私に与えないでください」*[箴30:8]との祈りは、私たちの中のほとんどの者に対してかなえられてきた。では、もし私たちがいま神に誉れを帰していないとしたら、自分の不毛さについていかなる弁解ができるだろうか? 私がいま語りかけているのは、決して痛みや苦痛によって妨げられていない、何人かの著しく健康な人である。また、この二十年もの間ずっと仕事が順調にうまく行ってきた人である。あなたは、あなたの主から多大な恩恵を受けている。あなたの場合、「わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた」。あなたの健康とあなたの富を神にささげるがいい。私の兄弟たち。それがなくなる前にそうするがいい。あなたに対する神のご配慮のすべてが無駄にならないようにするがいい。私たちの中の他の者らは、何箇月も続けて健康でいられることがめったになく、しばしば肉体的に非常に苦しまなくてはならなかった。このことは、私たちを実り豊かにするべきである。というのも、患難という耕地からは多くの産物が得られるからである。《主人》は、何にもまさって豊かなものを流血する葡萄の木々から得てきたではないだろうか? 主の最もずっしりとした房は、鋭く刈り取られ、地面に切り落とされたものから得られなかっただろうか? えり抜きの芳香、美味な果汁、そして、馥郁たる香気は、ほとんどの場合、試練という鋭利な刃をした短刀を用いることによってもたらされる。私たちの中のある者らが、実を結ぶことにおいて最上の者となるのは、他の点では最悪の状態にある時である。このように私は真に云える。私たちの環境がいかなるものであれ――私たちが貧しかろうと富んでいようと、健康であろうと苦しんでいようと――、私たちの個々の状況はみな、それなりの利点を有しており、私たちは「よく肥えた山腹に」植えられているのである。

 さらに私は、私たちの霊的状態を眺めるとき、私について、また、思うにあなたがたについても、「わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた」、と云わなくてはならなかった。というのも、神は私たちのために何をしてくださっただろうか? 問い方を変えれば、――神は私たちのために何をなさらなかっただろうか? 神は、私たちに対してすでに仰せになった以上のいかなることを仰せになれるだろうか? すでに行なわれた以上のいかなることをおできになるだろうか? 神は、まさに神のようなしかたで私たちを取り扱われた。神は私たちを愛して腐敗の中から引き上げられた。私たちを愛して十字架へと至らせ、天国の門にまで至らせてくださった。私たちを生かし、私たちを赦し、私たちを更新してくださった。私たちのうちに宿り、私たちを慰め、私たちを教え、私たちを支え、私たちを保ち、私たちを案内し、私たちを導かれた。そして、確かに私たちを完璧な者としてくださるであろう。もし私たちが実を結ばす、神をほめたたえていないとしたら、私たちにいかなる云い訳がありえるだろうか? どこに私たちの咎ある頭を隠せば良いだろうか? 向こうにある海も、私たちの忘恩について泣くべき塩辛い涙を十分に私たちに与えるだろうか?

 II. ここで、お許しいただければ、もう一歩先へ進み、こう云いたいと思う。主の葡萄畑としての《私たちの立場は、主が最も愛する実を生み出すために好都合である》。私の信ずるところ、私自身の立場は、主が私のうちにおいて最も愛される実を生み出すのに最も好都合であり、あなたの立場も同様である。この実とは何か。

 最初に、それは信仰である。私たちの主は、ご自分の民のうちに信仰を見ることを非常に嬉しく思われる。子どものように、ご自分により頼んですがりつく信頼は、愛に満ちた主の心にとって喜ばしいものである。私たちは、信仰がこの世で最も容易になるはずの立場にある。主がそのみことばにおいて私たちに与えておられる数々の約束を眺めるがいい。私たちはそれらを信じられないだろうか? 御父がその愛する御子という賜物において私たちのために何を行なわれたか眺めるがいい。私たちはその後でも御父を信頼できないだろうか? 私たちの日ごとの経験のすべては、神に対する私たちの信頼を強め続けている。あらゆるあわれみは問うている。「あなたは神を信頼しようとしないのか?」 満たされたあらゆる必要はこう叫んでいる。「あなたは神を信頼できないのか?」 大いなる御父から送られてきたあらゆる悲しみは、私たちの信仰を試み、私たちをみもとへと追いやり、そこで私たちを安らわせる。そして、そのようにして神に対する私たちの信頼を強め、確固たるものとする。種々のあわれみと悲惨は、同じように信仰の成長のために働く。私たちの中のある者らは、大ががりなしかたで神に信頼するように召されてきた。そして、その必要は実を結ぶために大きな助けとなった。困難があればあるほど、私たちの葡萄の木の回りは大きく掘られ、より多くの滋養分がその根にかぶせられる。もし信仰が試練の下で成熟しなければ、いつ成熟するだろうか? 私たちの種々の患難は、信仰の育つ土壌を肥沃にするのである。

 もう1つのえり抜きの実は、である。イエスは愛を喜ばれる。その優しい心は、その愛が返されるのを見て喜ばれる。私は、ありとあらゆる人の中で、最も主を愛する義務があるではないだろうか? 私は、この場にいる兄弟姉妹ひとりひとりに代わって語っている。それがあなたの言葉ではないだろうか? あなたがたはみな、こう云うではないだろうか? 「青空よ。お前の下に私以上にイエスを愛すべき者が生きているだろうか?」 あらゆる姉妹は独白する。「自分の部屋に座っている女たちの中で、私以上に神を愛する理由のある者がいるでしょうか?」 否。私たちは、自分が罪を赦されたことによって、私たちの《救い主》をこの上もなく愛するようになるべきである。他の場合には、罪を妨げられたことによって、私たちの《保ち手》を大いに愛するようになるべきである。神が困窮の時に私たちに送ってくださった助け、困難な折に私たちに与えてくださった導き、交わりの日々に私たちに注ぎ込んでくださった喜び、そして、試練の時期に私たちに吹きかけてくださった平静さ――すべてによって私たちは、神を愛するようになるべきである。私たちの人生街道に沿って見いだされる、神を愛すべき理由は、橄欖に茂る木の葉よりも多い。神は、この現在の私たちの休み場を山々と海が囲んでいるように、私たちの回りをご自分のいつくしみで囲んでくださった。時の続く限りの後方を顧みて、それをもはるかに越えて、そこにあった永遠をのぞき込んでみるがいい。あなたは主の大いなる愛が私たちに据えられていたことを見てとるであろう。時と永遠をことごとく通じて、私たちには、私たちの主をいやでも愛さなくてはならない理由という理由が積み重なっている。今、その正反対の方を振り向き、あなたの前方にあるものを凝視するがいい。すると、未来のすべてにわたって、信仰には、神を愛すべき数々の理由が見えるであろう。それは、これから通り抜けて行くべき道に沿って並ぶ黄金の里程標であり、それらはみな、愛に満ちて神を喜ぶよう求めているのである。

 キリストは、希望という実をも非常に喜ばれる。そして私たちは、それを大いに生み出すことになる境遇に置かれている。老人は前方を見るべきである。地上ではあまり多くを見ることは望めないからである。時は縮まっており、永遠は近い。恵みによる健全な希望は何と尊いものであろう! 私たち、まだ年老いていない者らは、ことのほか希望に満ちているべきである。そして、さらに若い人々、霊的生活を始めたばかりの人々は、最も清新で輝かしい希望にあふれているべきである。もし私の持っているよりも大きな期待を持っている人が誰かいるとしたら、その人を見てみたいと思う。私たちには、期待という期待の中でも最大の期待がある。あなたは、夢を見ていて笑った慈悲子のように感じたことが一度もないだろうか? 基督女からなぜ笑ったのか尋ねられた彼女は、今後明らかにされる事がらを幻に見たのだと云ったのである。

 あなたの好きな御霊の実を何であれ選ぶがいい。私は、私たちがそれを生み出すために好都合な環境に置かれていると主張するであろう。私たちは良く肥えた山腹に植えられている。私たちが生きている山腹は、キリストのための労働に関していかに良く肥えていることか! 私たちひとりひとりは、《主人》のための働きを見いだすことができる。私たちの回りには第一級の機会が転がっている。世のいかなる時代にもまして、神に献身した人が多くのことをできる時代は、現代である。いかに熱烈な熱心をも、引き留めるものは何もない。私たちが生きているこの幸いな時代には、たとい私たちが海なす働きに飛び込んで、私たちは泳ぐことができ、誰も私たちを妨げることはできない。そのとき、私たちの労働は、神の恵みによって、私たちにとっても喜ばしいものとなるであろう。キリストの真のしもべのうち、いかなる者も、その働きにおいて疲れることはあっても、その働きに飽き果てることはない。これは、人が決して飽き飽きすることのない働きなのである。というのも、その人は、自分がその十倍も行なうことができたら良いと願うからである。そして私たちの主は私たちの働きを成功させてくださる。私たちがひとりの魂をイエスのもとに連れて来ると、そのひとりは百人を連れて来る。時として、私たちがイエスのために漁をしているときには、魚がほとんどいないかもしれない。だが、主の御名はほむべきかな。そのほとんどは網に入るのである。そして、私たちは神を賛美し、ほめたたえながら生きなくてはならない。神は私たちの愛の労苦を大きないつくしみで顧みてくださったからである。私はこう云っても正しいと思う。イエスが最も愛される実を結ぶために、私たちの立場はこの上もなく好都合なものである、と。

 III. さて今この日の午後、この場のこの卓子に着いて私たちは、最も芳醇で、最も熟した、最も素晴らしい実を、私たちの愛するお方にささげようとしているが、それを《今しも即座に生み出すためには、ここにおける私たちの立場は好都合なものである》。この聖餐卓において私たちは、真理の中心、また慰謝の源泉のもとにある。いま私たちは至聖所に入り、自分の魂と神とが出会う最も神聖な場所に行こうとしている。

 この卓子から見るとき、この葡萄畑は南向きに傾斜している。というのも、あらゆるものが私たちの《太陽》、キリストの方を向いているからである。このパン、この葡萄酒、そのすべては、私たちの魂をイエス・キリストへと傾ける。そしてキリストは、私たちの心と精神と魂とを全く照らして、私たちが多くの実を結ぶようにしてくださる。私たちは良く肥えた山腹に植えられはていないだろうか?

 私たちのために忍ばれた主の受難について考えるとき、私たちは、私たちの回りに北向きの壁が立てられているのを感じる。繊細な葡萄の実をだいなしにしかねない、あらゆる突風を近寄せないためである。いかなる御怒りも恐れることはない。イエスは私たちの代わりにそれを受けてくださった。見るがいい。この、すべてを満ち足らすキリストの犠牲のしるしを! 主のいかなる怒りも、私たちの憩える霊のもとにやって来ることはない。主はこう仰せになっている。「あなたを怒らず、あなたを責めないとわたしは誓う」[イザ54:9]。ここで、この卓子の上には、言葉に尽くせない主の愛の誓いがあるのであり、これらは、丈高い石壁のように、荒々しい風を閉め出している。確かに、私たちは良く肥えた山腹に植えられている。

 さらに、《この愛するお方ご自身が私たちの間におられる》。この方は、私たちを作男たちの手にゆだねることをせず、ご自身が私たちの世話を引き受けておられる。そして、その方がここにおられることを私たちは確信している。というのも、ここに主の肉があり、ここに主の血があるからである。あなたは外的なしるしを目にしている。願わくは目に見えない現実を感じられるように。というのも私たちは、世的な霊たちが自らを目しいさせている、あの粗雑な身体的な意味においてではなく、主の現実的な臨在を信じているからである。《王》は庭園に入って来られた。私たちの実をもってもてなそうではないか。この葡萄畑のため血の汗を注ぎ出されたお方が今、その葡萄の木々を眺めておられるのである。この瞬間に、彼らはかぐわしい香りを放つべきではないだろうか? 私たちの主の臨在によってこの集会は、よく肥えた山腹となる。主が御足を置かれる所では、すべての良いものが咲き誇る。この卓子の回りで、私たちは他の人々が大いに実を結んだ場所にいる。わが国の文学の中で何にもまして尊い言葉は、聖餐式の際に語られる言葉である。ことによると、あなたはウィリソンが聖餐式の際に語った数々の講話を知っており、賞賛しているかもしれない。ラザフォードの聖餐式礼拝の説教集には神聖な油注ぎで覆われている。ジョージ・ハーバートの数々の詩歌は、この儀式におけるキリストの姿によって、そのほとんどが霊感されたものだと思う。聖ベルナルドゥスの雅歌について考えてみるがいい。それらがいかに献身の念で燃え立っていることか。聖徒と殉教者たちは、この祝福の卓子において養われてきた。この尊い儀式は、私の確信するところ、数々の希望が輝き出し、心が暖かくなり、決意が堅くなり、生き方が実り豊かなものとなり、私たちの魂の果実の房という房が主のために成熟する場所である。

 神はほむべきかな。私たちは、私たち自身がこれまで育てられてきた所にいる。私たちは、この神聖な聖餐式を祝っているとき、私たちの最上の時に恵まれてきた。神が再びそのようにしてくださるように! 穏やかな瞑想と、内なる思いのうちに、私たちは今、私たちの心から愛と、熱心と、希望と、忍耐という甘やかな実を生み出そうではないか。あのエシュコルの葡萄[民13:23]のような大きな房を、みなイエスのために、イエスのためだけに出じさせよう。いま私たちは、瞑想と、感謝と、崇敬と、交わりと、歓喜に身をゆだねよう。そして、私たちの生涯の残りをかけて、私たちの《愛するお方》の栄光を現わし、このお方をほめたえることにしよう。このお方の、私たちは葡萄畑なのである。

   「かくも聖けき 喜びの光景(さま)
    われらが目と魂(たま) 見得しかぎりは
    われらは地上(ここ)に 座して仰がん
    長く果てなき とこしえの日を。

   「われらは夜闇(よる)を たちまち去りて
    全き光の 美岸(きし)へぞ至る。
    かくてわれらは 喜び感じ
    われらが愛の 的をば愛でん。

   「そこにてわれら 至福(さち)を飲み干し
    新たないのち もがん、天木(みき)より。
    されど時おり、給いませ、主よ。
    天つしずくを 下界(した)のわれらに」。

 

愛する者の葡萄畑[了]

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