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実際的な一講話

NO. 3313

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1912年8月1日、木曜日発行の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1883年9月9日、主日夜


「一か月はレバノンに、二か月は家にいるようにした」。――I列5:14


 イスラエルの神、主の宮を建てることになった時、イスラエル人たちがその建設のために応分の働きを分担するのは当然のことであった。それゆえ、課税がなされ、特定の人数の者たちがレバノンで働くために徴用された。しかしながら、恵み深い神に仕える働きであれば、それが喜ばしい働きとなるのも、もっとも至極のことであった。それは奴隷たちの束縛ではなく、子たちの喜びなのである。ソロモンは、いかなるイスラエル人にも、山々や石切場で何箇月も骨折り仕事をし、自分の畑を荒れ果てるままにするよう要求しはしなかった。むしろ、こう取り決めた。役務につく者たちは、一箇月はレバノンで宮のために働き、二箇月は家にいて自分の用事を果たすことにするのである。私たちの神は奴隷監督ではない。聖なる奉仕が強制労働へとなり果てるべきではない。自己犠牲は、真のキリスト教信仰の魂ではあるが、信仰を隷属にするようなことを他人に要求してはならない。ソロモンは、一般庶民が自分の家族や相続地のもとから完全に引き離されれば、エホバご自身のための働きにすら嫌気が差してくるだろうことが分かっていた。それゆえ、その知恵によって彼は、「一か月はレバノンに、二か月は家にいるように」、と告げたのである。

 私はこの聖句から2つの教訓を引き出したいと思う。すなわち、第一に、あなたや私は、主なる私たちの神に奉仕をささげるべきである。そして、その霊的な宮を建て上げる助けを行なうべきである。だが第二に、私たちは外で働く一方で、自分の家庭と自分の魂とを、二倍の注意を払って見張らなくてはならない。マルタはマリヤにもならなくてはならない。私たちは奉仕しなくてはならないが、奉仕の多さのため気が落ち着かなくなって[ルカ10:40]はならない。マルタとともに働かなくてはならないが、マリヤとともに《主人》の足元に座らなくてはならない。一箇月はレバノンに、二箇月は家にいるようにしなくてはならない。

 I. まず第一に、《私たちは、私たちの王のための奉仕を行なうべきである》。――私たちの神の生ける宮のための奉仕を。

 私たちは、こう云うだけで十分ではない。「私は主イエス・キリストを信じています。ですから、私は救われています」。それで万事が終わりではない。さもなければ、キリスト教信仰は大きな利己主義の塊であったろう。私たちの魂が、私たち自身のあばら骨の中で何もせずにいることは許されない。わが身の安泰のことしか考えず、他の人々を顧みないことは、イエスとその真の弟子たちとは正反対の精神を露呈することである。しかり。兄弟たち。御父がその御子を世に遣わしたように、御子も私たちを世に遣わされた[ヨハ20:21]。それは、私たちが自分の同胞たちにとって祝福となるためである。私たちの一生の仕事は、かの唯一の土台の上に築き上げられるべき生ける石たちを整え、御霊によって神の御住まいとしていただくことである。私たちは、私たちの神の家のために、材木を切る者、石を四角にする者たるべきである。

 あなたの主イエス・キリストに対する責務を心に銘記しておくがいい。「あなたがたは、もはや自分自身のものではない……。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」[Iコリ6:19-20]。それゆえ、誰ひとり自分のために生きている者はいない[ロマ14:7]。あなた自身の救いは、あなたにとってこの上もなく重要なことである。だが、その本質的な一部分は、利己主義からの救いなのである。もしあなたが自分の利益になることだけで終始するなら、あなたは自己のしもべであって、主イエスのしもべではない。私たちは、自分のすべてをほむべき主イエス・キリストに負っており、これ以後、主の仕事は私たちの仕事なのである。そして、主の仕事とは、失われた人を捜して救うことでなくて何であろう[ルカ19:10]。今や私たちは、「富んでおられたのに、私たちのために貧しくなられ」*[IIコリ8:9]たお方のしもべとして一生を送るのである。その私たちが、レバノンで過ごす一箇月を嫌がって良いだろうか? 否。むしろ、いま私たちは、一年十二箇月のすべてが宮の奉仕にささげられるようにしたいとは思わないだろうか? 主が私たちを召して祭司とされた以上、私たちは常に主の家に住まうのである。

 また、私たちの他者に対する責務も思い出すがいい。いかにして私たちは回心しただろうか? いずれかのキリスト者男女の媒介的な働きを通してではなかっただろうか? 直接的にであれ間接的にであれ、それはいかなる場合にも変わらないはずである。というのも、はるか昔に栄光のもとへ旅立った人々は、福音の知識について負債を負っている人々を私たちのもとに残しておいてくれたからである。そしてその人たちが、その福音の知識を私たちに手渡したのである。私たちの中のほとんどの者は、直接的な働きによって祝福された。信仰の良書が私たちの行く道にそっと置かれていた。親切な一言が優しく語られた。熱心な説教が私たちに向かってなされた。聖なる模範が私たちの前に示された。こうした事がらによって、私たちはキリストに引き寄せられたのである。他の人々の涙と祈りによって、《救い主》の足元に連れて来られたのである。ある人たちはその回心を自分の両親に負っており、別の人たちは《日曜学校》の教師たちに、他の人たちはみことばの説教者たちに負っている。私たちの大多数がイエスに導かれたのは、何らかの媒介的な働きによってであった。ならば、あなたの負債を払うがいい。あなたもまた、主のしもべたちへの返礼として、別の人をイエスのもとに導くべきである。ある気前の良い人が、貧者に惜しみなく施しをするのを常としていたという。だが、彼はそれをこのようなしかたで行なっていた。相手のひとりひとりにこう云ったのである。「私はこの金銭を単にあなたにお貸しするのですよ。いずれこれは私に返してください。あなたにできるときに、これと同じくらいのものを別の貧しい人に与えることによって、そうしてください」。これが主イエス・キリストの方法である。主は私たちに、ご自分の福音の知識を授けてくださった。だが、それには条件があり、それは私たちが他の人々にそれを伝えるということなのである。兄弟たち。私たちは負債を負っている。もし私たちが霊の家として建て上げられているとしたら、喜んで私たちの一箇月をレバノンでささげようではないか。他の石もこの天的な宮の中に築き入れられるようにしようではないか。

 それに、あらゆるキリスト者の中にある1つのいのちは、私たちを聖なる奉仕へと何にもまして促すものである。私の兄弟。もしあなたが新しく生まれているとしたら、怠けていることはできない。というのも、神のいのちは決して不活発ではないからである。イエスはこう仰せにならなかっただろうか? 「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです」[ヨハ5:17]。もしあなたが聖い奉仕において勤勉でないとしたら、じきに疑いや恐れに苦しめられることになるであろう。というのも、そうした病は霊的な怠惰につきものだからである。風通しの良いレバノンはあなたの魂の健康に良い地である。怠けていれば病気を招くようなものである。だが神に仕えることは健康と楽しみである。それは、力強い泳ぎ手にとっての水泳のようなものであり、彼は波を切って進むことを楽しみとする。それはアンデスの禿鷲にとっての飛翔のようなものであり、それは喜ばしげに両翼を太陽に向かって差し伸ばす。鷹に向かって、大気の中に舞い上がるのはご苦労ですね、と告げてみるがいい。鷹はその喜ばしい飛翔によって答えるであろう。「飛ぶのが苦労ですって? 私が造られたのは、稲妻をも縫って矢のように飛んで行くため、嵐のただ中でも居心地良くしているためなのですよ。私の目は太陽すら睨みつけることができます」。おゝ、兄弟たち。キリストに仕えることは奴隷になることではない。厳しい努力を伴うときでさえ、その労苦はそれ自体の清新さをもたらしてくれる。キリストのために多くを行なえば行なうほど、私たちは、新生した者の内側に植えつけられた種々の聖い本能を満たすことになる。斧をかつぎ、一箇月をレバノンで過ごそうではないか。霊の宮のために木材を伐採することは首相にとってさえふさわしい働きであり、石を整えることは御使いたちにとってさえ栄誉ある職務である。

 この働きは、私たち自身にとって最も有益である。何もしていないキリスト者の人々は、厄介者となるのが常である。彼らは暇に飽かしては、自分の最善を尽くしている人々のあら探しをするからである。多くの人は何をどうすれば最善であるかを正確に見てとることができるが、自分では何事も行なわない。彼らは、働き手がどこで失敗したかを見抜く。その奉仕の中に現われている独特の癖や風変わりな点を逐一かぎつける。教役者は、批判者たちの編み出した独特のしかたで語るなら、はるかに上手に説教できるであろう。だが、なぜこうした輩は自分でそうしようとしないのか? いやいや、われわれはそうしたことには繊細すぎますよ。われわれの高邁な職業は、われわれの兄弟たちの欠陥を批評することなのですよ。私は、こうした連中にうんざりしている。彼らの主も、彼らには飽き飽きしているのではないだろうか?

 主のため働くには祈りが欠かせない。そして、これは私たちにとって大きな祝福である。もし人が救霊のわざに完全に身をささげているとしたら、その人は大いに祈っているに違いない。というのも、天からの助けがなければ全く途方に暮れることになるからである。もしその人が意気阻喪した悔悟者を慰めようとするなら、たちまち挫折するであろう! いかに即座にその人は、かの《慰め主》なる聖霊に叫び、その働きを効果的に行なってくださいと願うことになることか! キリスト者である人が有するあらゆる恵みは、天的な奉仕に用いられることによって向上させられる。福音の実際的な価値は、もしあなたが堕落した者や、無知な者や、不信心な者らの間で労するならば、たちまちあなたの心を打つであろう。福音がいかに尊いものかを知りたければ、意気消沈のあまり暗くなっていた目が福音によってパッと明るくなるのを見るしかないではないだろうか? イエスの御名という喜ばしい響きがいかに心を魅了するかを知りたければ、新しく生まれた信仰の微笑みを見るしかないではないだろうか? 思うに、私たちの来たるべき記憶を私たちの永遠の幸福に資するものにさせたければ、罪人たちを《救い主》のもとに連れてくるよう熱心に労するしかない。立ち上がって熱心になり、イエスのための宝石と、私たち自身のための幸いな回想を獲得しよう。自分の言葉によって救われた人々が栄光の中にいるのを見ることは、私たちの天国をより大きなものとするではないだろうか? こう云ったとき、ラザフォードは間違っていたのだろうか? 「おゝ、アンワスの人々が天国にいるのを見ることは、私にとって七倍の天国となることでしょう!」 私は、いま話をお聞きの方々について真実こう云える。それぞれの人の天国は私にとってもう1つの天国となる、と。この喜びのために、私たちひとりひとりは喜んで自分の一箇月をレバノンで送ろう。ぶらぶらと時を過ごし始めた者たちは奮起するがいい。みことばを自分のために聞いていながら、それを決して他の人々に対して公に示さないというのは、私たちの中の誰にとってもふさわしくないことである。

 II. ここで続いてあなたに思い起こさせなくてはならないのは、たとい私たちが主の家のための活動的な奉仕として自分の一箇月をレバノンで過ごすとしても、《家で過ごす二箇月には特に注意を払わなくてはならない》ということである。

 自分自身の家庭には特別な注意を払わなくてはならない。キリスト者である人にとって第一の義務は、自分自身の心の内側であり、第二は、自分自身の家の内側である。子どもたちを教える? しかり。何としてもそうするがいい。だが、あなた自身の子どもたちから始めるがいい。罪人たちを回心させる? しかり。だが、まずあなたの回りにいる罪人たちをかちとるために労するがいい。キリスト教信仰は家庭内で始まらなくてはならない。使徒たちはエルサレムから始めるべきであった。エルサレムが彼らの家だったからである。もし私たちが自分の家族の者を大事にしなければ、私たちは異邦人や取税人にも劣ることになる。残念ながら、信仰を告白するキリスト者の多くには、エリの運命が宣告されることになるのではないかと思う。エリは、息子たちが自ら呪いを招くようなことをしているのを知りながら、彼らを戒めなかった[Iサム3:13]。息子たちに向かって、「そういうことをしてはいけないよ」、と優しい言葉はかけたが、足をしっかり踏みしめて、はっきり彼らにこう告げることはしなかった。「私の家の中でそのようなことは許さない。私の目の黒いうちは、お前たちに神の聖所を汚させないし、何の否やも云わせない」。彼の甘やかしの結末はこの息子たちの滅びであり、あなたもこの老人がいかに悲しいしかたで一生を終えたか、また、いかなる呪いが彼の家族の後々の世代にふりかかったかを知っているであろう。願わくは、私たちの中の誰にもそうしたことが起こらないように! もし誰かが私に向かって、あなたはエリのような人を誰か知っているのですか、と尋ねるとしたら、残念ながら私は何人かを指差せるのではないかと思う。この場にそうした人がいるのが見えるとは云わない。――私はそうしたしかたで眺めようとは思わない。だが、ひとりひとり、こう問うがいい。「主よ。まさか私のことではないでしょう?」[マタ26:22]、と。

 しかと確信しておくがいい。私たちがいかにキリスト教信仰について語っていようと、私たちの公の労苦がいかなるものであろうと、もし私たち自身の家庭が野放しになっているとしたら、それらは大した意味をなさないであろう。敬虔な人々の子どもたちがベリアルの子らとなるとき、それはイスラエルにおいてそら恐ろしいことである。そうした場合は現実に起こるものであり、一部の人は私にこう云う。「こう書いてありますよね。『若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない』[箴22:6]、と。では、誰それさんの息子さんが、あれほど大っぴらに反抗していることについて、どう説明なさいますか?」 私は答える。その幕を持ち上げることが少しでもできるとき、私が常に例外なく見いだすところ、その子どもたちが回心していない理由は家庭の治め方が誤っているか、親たちのふるまいに裏表があるためである。「何か原因があるではないでしょうか?」、と私たちは一般に云って良いのではないかと私は思う。私も、「常に」、と云おうとは思わない。異常な事がらは起こるものだからである。だがしかし、もし神がご自分の民に御前を正しく歩む恵みを与え、彼らが自分の子どもたちのために祈り、彼らを教え、彼らの前に敬虔な模範を示しているとしたら、普通、その子どもたちは、自分の父親の足跡にならうものである。

 ならば、用心して、あなたの二箇月を家で過ごすようにするがいい。神にささげる公の奉仕といういけにえが、あなたの家庭における種々の義務の血に汚れていないようにするがいい。自分の家におけるあなたの心遣いを減らしてはならない。家庭内での敬神の念をないがしろにするとき、あなたの公の奉仕は受け入れられないものとなるからである。あなたが外部の人々に向かって話をするときに、「あんた自身の子どもたちのざまを見ろよ」、と云われるようなことは決してあってはならない。自分の子たちのためには常に祈っていなくてはならない。そして、私たちはそれ以上のことを行なわなくてはならない。――罪について彼らを矯正し、聖書を彼らに教え、彼らとともに個人的に祈り、彼らについて私たちが涙するまでとならなくてはならない。家庭礼拝を、敬虔で、興味深いしかたで守らなくてはならない。また、家庭内の幼い者たちが私たちとともに聖所に来て、自分たちの耳にすることを大切にしまっておくよう訓練されなくてはならない。私も、彼らの心を更新できるのは神の御霊だけであることは承知している。だが御霊は種々の手段を祝福することにやぶさかではあられない。

 もし主が私たちを助けて自分の子どもたちについて熱心にならせてくださるとしたら、いかにほむべき報いが私たちを待っていることであろう! 「私の子どもたちが真理に歩んでいることほど、私にとって大きな喜びはありません」*[IIIヨハ4]。これは、子を持つあらゆるキリスト者が自分の子たちについて云えることである。おゝ、息子たち娘たち全員がキリストにある姿を眺める喜びよ!――彼らが私たちと同じくらい《贖い主》の御国のために熱心であると聞かされ、知らされる喜びよ! すべての誉れは神の主権の恵みに帰されなくてはならない。だが、その慰めは私たちのものである。私は確信するが、私の母が私に向かって嘆願したとき、彼女は大人数の会衆に向かって話をする以上に良いことを行なっていたのである。それと同じくらい私が確信するところ、私の父がやはり私とともに膝まずづき、私のために神に嘆願し、私に向かって自分のために祈るよう熱望したとき、父は説教するよりも良い一日の仕事を行なっていたのである。説教においても父は大きな祝福を受けていたが関係ない。あなたの息子がいかなる者になるか誰に分かろう? 神があなたの娘をどれほどお用いになるか誰に分かろう? 確かに、もしバズビー博士が教室に入るときに脱帽するのを常としていたとしたら、また、その理由が、その男の子たちがいかなる者になるか分からず、もしや偉大な政治家や裁判官になるかもしれないからであったとしたら、あなたも自分の子どもたちの前で脱帽して良いであろう。というのも、神が彼らをどのような者になさるかあなたには分からないからである。あなたの家庭のあり方によく気を配ることのできる恵みを祈り求めるがいい。子どもたちがキリストの御国の進展にいかなる不名誉ももたらさないためである。家で過ごすその二箇月をよく用いるがいい。

 最後に、考え方の筋道を変更して、別の点に達してみよう。私たち自身の家よりも、さらに身近な家がある。そして、それは私たち自身の胸の内側の状態である。もし私たちが公の神への奉仕に一定の気を配るとしたら、内側における恵みの働きには二倍の注意を払わなくてはならない。私たちは、自分自身の心の涵養を怠ってはならない。自分自身の恵みにおける成長を見張らなくてはならない。自分自身のキリストとの交わり、自分自身の信仰、自分自身の希望、自分自身の愛を見張らなくてはならない。というのも、そうしなければ大きな危険に陥るからである。残念ながら、多くのキリスト者たちは、あちらこちらへと飛び回りながら、自分自身の霊的いのちは衰弱しつつあるのではないかと思う。彼らのあげる成果は乏しい。彼らの霊的金銭が穴だらけの袋に入っているからである。いくら懸命に働いても、魚がとれない。決して網を繕わないからである。私たちは、自分の個人的な祈りを怠るなら、「賞を受けられるように走」[Iコリ9:24]ることはない。ある場合、そうした怠慢は命取りになるであろう。私が意味しているのは、本当に神の子どもとなっている人の場合ではないが、本当の神の子どもであると私たちが受け取っている人の場合のことである。彼らは他人の葡萄畑を見張っているが、自分自身の葡萄畑を見張ってはいない。悔い改めを他人には促しているが、自分自身は悔い改めていない。信仰を教えてはいるが、自分自身は信じていない。彼らは、他の人々にまさる行ないをしようとせかせか努力する自分の熱心さにとりまぎれて、自分の内側における聖霊のみわざを忘れているのである。もしあなたが自分の魂をないがしろにし、キリスト者の種々の義務を果たしていることによって今後も万事問題ないだろうと希望しているとしたら、それははなはだ大きな間違いである。もしあなたが輝こうと努めても、あなたのともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていなければ、あなたのともしびは消えてしまい、あなたは暗闇の中で死ぬであろう。もしあなたが、自分の知りもしないことを他人に告げようと努め、自分が一度も信頼をかけたことのない《救い主》について彼らに話をしようと努めるとしたら、あなたの人生は恐ろしい失敗となるであろう。あなたが説教し、教えることが、あなた自身を罪に定めるであろう。それ以外のいかなる結果になりえようか? 用心するがいい。もしあなたがレバノンに上るとしたら、その斧はまず最初にあなた自身のもろもろの罪の根元に置くようにするがいい。

 かりにその信仰告白者が本当に真のキリスト者だとしても、それでももしその人が、常に活動的なばかりで決して黙想することがないとしたら、また、もしその人が働くことに多大な時間を費やし、祈りや聖書を読むことに全く時間を費やさないとしたら、それはその人を非常に弱め、その人の働きを損なうことになるであろう。弱々しい手も良い道具を振り回すことはできるかもしれない。だが、大した仕事は行なえない。もしあなたが肉体的に虚弱で、病気がちな質の人だとしたら、自分の仕事をうまく行なうことができないであろう。あわれな肺病病みの人を鉄道敷設現場の強壮な人夫が行なうような働きにつけるのは愚かなことである。その人は疲労困憊し、いくら苦労してもほとんど何もできない。キリストとの交わりを抜きに、キリストのための働きをそそくさと行なっても何にもならない。神の力によってなされたことではないからである。おゝ、私の兄弟たち。聖霊によってまず私たちのうちに作り出されたものでないとしたら、何事も私たちから出てくることはない! キリスト者の働き人が自分自身、神の作品であることは不可欠である。もし私たちが人を癒そうとするなら、自分自身が健康でなくてはならない。私たちがイエスとの交わりから離脱するとしたら、無数の悪に至るであろう。そして、より多くを行なおうとすればすれほど、そうした悪は明らかになっていくであろう。私たちは自分の行ないを誇るようになり、他人に難癖をつける鼻持ちならない人間になるであろう。自分に信頼を置くようになるであろう。そして、より多くのことを試みれば試みるほど、自分に信頼するようになるであろう。さもなければ、神が自分の働きを祝福してくださらないからといって、呟きがちになり、不満な人間になっていくであろう。そして、主が自分のささげ物を顧みなかったときのカインのように感じるであろう。暗い世を照らし、自分の主の栄光を現わしたいと願うのであれば、神が光の中におられるように、あなたも光の中を歩まなくてはならない[Iヨハ1:7]。

 最後に、愛する方々。このことを語らせてほしい。祈りのためには家に二箇月いなくてはならない。贖いの蓋のもとに行く習慣をやめてはならない。祈りをしばしば行なうがいい。そして――もっと良いことだが――常に祈りの心でいるがいい。願わくは聖霊があなたを導き、あらゆる義務に恵みのきよい流れでバプテスマを授け、同じことを日曜学校におけるあらゆる教えにおいて、あなたが行なうあらゆる説教について、あなたが配布するあらゆる小冊子について行なうがいい! 働き全体について祈るがいい。レバノンにおける一箇月に備えるため、家で二箇月を費やし、祝福を神に嘆願するがいい。

 聖書を大いに読むがいい。私たちは、聖書をしかるべきほどの半分も読んではいない。清教徒たちがいかに聖書を隅から隅まで調べていたか見るがいい。いかに彼らが聖書のあらゆる巻に親しんでいたことか! フィリップ・ヘンリーの家庭では、いかにほむべき家庭礼拝が持たれていたに違いないことか。なぜなら、それによってマシュー・ヘンリーがあの有名な注解書を書くことになったからである! おゝ、私たちがもっと聖書を調べ、もっと聖書に立った説教を行なえるとしたらどんなに良いことか! 聖書について語ることはそれなりに良いことである。だが、聖書を調べることの方がまさっている。みことばの糧で自分が養われるがいい。さもなければ、あなたの教えは薄っぺらで、気の抜けたものとなるであろう。

 自己吟味についてもそれと同じである。――これは、はなはだないがしろにされている。これを怠らないようにしよう。いかに僅かな人々しか、就寝前に一日の行動について振り返ってみることをしていないことか。だが、この習慣をよみがえらせることは、いかに有益であろう!

 悔い改めも同じである。その目に金剛石をはめた、この甘やかな恵み――誤ってなされたすべてのことに対する、聖い悲しみの甘やかな涙――、これは脇へ押しやられていないだろうか? そうであってはならない。

 また、信仰もそうである。《救い主》に絶えず信頼することを、私たちはより不断に実行すべきではないだろうか? おゝ、信仰を実践し、愛を成長させるために静思の時を設けるとしたらどんなに良いことか!

 神との交わりについては、おゝ、私たちが常にその中で生きていられればと思う! しかし、私たちには十分な時間がない。私たちは十分な時間をとって私たちの神に近づくことをしない。私たちは、仕事が急迫しているからといって、自分の食事をやにわにかっこむ者たちのようである。もし人が正規の食事を取ることなく、半端時間に軽食を取ることばかり続けるとしたら、じきに健康を害してしまうであろう。人には正式の食事を取り、それを咀嚼し、消化するための時間が必要である。同じことが、天的な食物という私たちのご馳走についても必要である。そして私は、この目的に達するためにこそ、ソロモンの規則を促したいと思う。――すなわち、一箇月はレバノンに、二箇月は家にいるようにすることである。賢い人々には一言云えば足りる。それゆえ、これ以上は云うまい。

 

実際的な一講話[了]

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