山々を越えて
NO. 3307
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---- 1912年6月20日、木曜日発行の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。私の愛する方よ。そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに、あなたは帰って来て、険しい山々の上のかもしかや、若い鹿のようになってください」。――雅2:16、17
もしかしたら、常に最上の状態にあるという聖徒たちもいるのかもしれない。御父の御顔の光を決して失うことがないほど幸せにしているという人々である。だが私にとって、そうした人々がいるかどうかは定かでない。私が最も親しく接してきた信仰者たちは、多種多様な経験をしてきたからである。また、私の知っている一部の人々は、自分の定常変わらざる完璧さを自慢していたが、あまり当てにならない人々であった。私は、自分たちの魂の《太陽》を隠すような雲が全くない、そうした霊的な領域に達することができればどんなに良いかと思う。だが私には確信をもって語ることができない。そうした幸いな土地を横断したことがないからである。私の人生には毎年、夏だけでなく冬があり、毎日、夜はやって来る。これまでの私は、ぴかぴかの晴天も、土砂降りの雨も見てきたし、暖かなそよ風も、吹きすさぶ烈風も感じてきた。私の兄弟たちの多くを代弁して私はこう告白する。テレビンの木や樫の木のように、私たちの中には髄がありはするが、私たちは葉を落とし[イザ6:13 <英欽定訳>]、私たちの中の樹液はあらゆる時期に同じ活力をもって流れはしない、と。私たちは浮きもすれば沈みもする。山もあれば谷もある。私たちは常に喜んではいない。時には幾多の試練のため重苦しさを感じる。悲しいかな! こう告白するのは嘆かわしいことながら、《愛する方》との私たちの交わりは、必ずしも常に躍り上がるような喜びではなく、時にはこの方を探し求めて、こう叫ばざるをえないことがあるのである。「ああ、できれば、どこであの方に会えるかを知りたい!」*[ヨブ23:3]
これが、ある程度まで、花嫁がこう叫んだときの状態であると私には思われる。「私の愛する方よ。そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに、あなたは帰って来て……ください」。
I. この言葉によって私たちが第一に教えられるのは、《交わりは断たれることがある》ということである。
この花嫁は、彼女の《花婿》との交流を失ってしまっていた。彼との意識的な交わりがなくなっていた。彼女が自分の主を愛しており、主を求めてため息をついていたとしても関係ない。その孤独の中で、彼女は悲嘆に暮れていた。だが、彼女は決して彼を愛するのをやめたわけではなかった。というのも彼女は、彼を私の愛する方と呼び、その点については何の疑いも感じていないかのように語っているからである。主イエスに対する愛は全く真実なものであるかもしれないし、ことによるとそれは、私たちが暗闇の中に座り込んでいるときも、光の中を歩むときと同じくらい強固なものかもしれない。しかり。彼女は、彼が自分を愛してくれているという彼女の確信を失ってはいなかった。また、二人が互いに権利を持ち合っているという確信も失っていなかった。というのも、彼女はこう云っているからである。「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの」。だが彼女はこう云い足している。「私の愛する方よ。帰って来てください」*。私たちの恵みの状態は、必ずしも私たちの喜びの状態と一致してはいない。私たちは信仰と愛に富んではいても、自分自身を低く評価するあまり、非常に抑鬱することがある。この聖なる雅歌から明らかなように、花嫁は愛し愛されており、また、自分の主に信頼を置き、自分が主を所有していることを完全に確信していながらも、現在のところ彼女と主との間に山々があることがありえる。しかり。私たちは天来のいのちにおいて非常に進歩していてさえ、暫定的に、意識的な交わりから追放されていることがありえる。成人にも、赤子と同じように夜は来るし、強者も、病者や弱者と同じように太陽がまったく隠されることに気づく。それゆえ、私の兄弟よ。あなたの上に雲がかかっているからといって、自分を罪に定めてはならない。自分の確信を投げ捨ててはならない。むしろ、暗がりの中でも信仰を燃え立たせるがいい。そして、あなたの愛にこう決意させるがいい。いかなる障壁が私と私の主とを隔てていようと、自分は主のみもとに行く、と。
イエスが、天国の真の相続人のもとにおられないときには、悲しみが生ずるものである。私たちの状態が健全であればあるほど、主の不在はすみやかに感知されるであろう。この悲しみは、この聖句では暗闇と述べられている。それは、「夜が明け……るまでに」<英欽定訳> という表現の中で暗示されている。キリストが現われるまで、私たちにとって昼の光が射すことはない。私たちは真夜中の暗闇の中に住まう。約束という星々、経験という月も、私たちの主が太陽のように上り、夜を終わらせてくださるまで、何の恵みの光ももたらさない。私たちは、キリストを有さない限り、暗闇に包まれずにはいられないのである。私たちは盲人のように壁を手探りし、落胆してさまよう。
花嫁は影についても語っている。「そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに」。影は太陽が姿を消すことによって幾倍にも増し、それは臆病な者を悩ませがちである。私たちは、イエスがそばにおられるときには、現実の敵たちをも恐れはしない。だが主を見失うと、ただの陰影にもおののく。この歌はいかに甘やかなことか。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです!」[詩23:4] しかし、真夜中が到来し、イエスがともにおられないと、私たちは話しぶりを一変させる。そのとき、私たちは夜を恐怖で満たす。妖怪や、悪鬼や、化け物や、幻想以外のどこにも存在したことのない種々の物事が私たちの回りに群がりがちである。そして私たちは、恐れる理由もない所で恐れる。
花嫁の最悪の悩みは、自分の《愛する方》の背中が自分に向けられていたことであった。それで彼女は、「帰って来てください」、と叫ぶのである。彼の顔が彼女に向いているとき、彼女は彼の愛という陽光の下でぬくぬくとしていられる。だが、もし彼の御顔の光が引き留められると、彼女はいたく悩まされる。むろん私たちの主は、その御顔をご自分の民からそむけることはあっても、その心を彼らからそむけなさることはない。主は、あの小舟が暴風によって揺さぶられていたとき、眠って目を閉じておられたが[マタ8:24]、主の心はその間ずっと目覚めていた。それでも、いかなる程度においても主を悲しませたことは、非常な痛みである。自分が主の優しいお心を傷つけたと思うと、私たちは骨髄まで切り裂かれる。主はねたむお方だが、決してゆえもなくそうはなさらない。もし主がしばらくの間その背を私たちにお向けになるとしたら、疑いもなくそこには十二分な理由があるに違いない。主が私たちと反対の方へ歩かれるとしたら、私たちの方がまず主と反対の方へ歩いていったのである。あゝ、これは悲しいわざである! 主の臨在は、この世を天界の生活の前置きとする。だが、主の不在は私たちをやつれさせ、気を失わせる。また、私たちの追放の地にはいかなる慰めも残っていない。聖書も種々の儀式も、個人的な静思の時も公の礼拝も、みな日時計のようなものである。――太陽が輝いているときには、この上もなくすぐれたものだが、暗闇の中ではほとんど役に立たない。おゝ、主イエスよ。何物もあなたを失った埋め合わせにはなりません。あなたの愛する者のもとへ再び近づいてください。あなたがおられなければ、私たちの夜は終わることがないのですから。
「見よ! われ悔いて、胸なやませり、
われ、など汝れを 離せしか!
この悪しき情愛(さが) いずこに落ちん、
わが救主(きみ)をして 去らしめたれば」。キリストとの交わりが断たれているとき、真の心すべてには、それを再び取り戻したいとの強い願いが起こる。キリストとの交わりの喜びを知っている人は、それを失うときには、それが回復されるまで決して満足しないであろう。あなたは《インマヌエルの君》を歓待したことが一度でもあるだろうか? この方はどこかへ去って行かれただろうか? あなたの居室は、この方が戻って来られるまで、わびしいものとなるであろう。「私にキリストを下さい。でなければ、私は死んでしまいます」[創30:1参照]。これが、イエスとの親愛な交わりを失ってしまった、あらゆる霊の叫びである。これほど天的な歓喜と別れるとしたら、私たちは非常な苦痛を感じないわけにはいかない。これは私たちにとって、「たぶんそのうちに主は戻って来られるだろう、そうなると良いが」、というような問題ではない。むしろ、そうならなくては、私たちは失神して死んでしまうのである。私たちは主を抜きにしては生きられない。そして、これは元気づけられるしるしである。というのも、主を抜きにして生きられない魂が、主を抜きにして生きるようにはさせられないからである。主は、ご自分の来臨が生死に関わる際にはすみやかに来てくださる。もしあなたがキリストを有さなくてはならないとしたら、あなたはキリストを有することになる。これが、事の次第である。私たちはこの泉から飲まない限り、渇き死んでしまう。イエスを糧としなければ、私たちの霊は餓死するであろう。
II. さて私たちは一歩先に進んでこう云おうと思う。キリストとの交わりが断たれているとき、《その刷新の途上には数々の大きな困難がある》。
斜面を下る方が、同じ高さにもう一度上るよりもたやすい。神によって喜ぶ思いを失うことは、その失われた宝石を見つけ出すことよりも、はるかに容易である。花嫁は、自分と自分の《愛する方》とを隔てている「山々」について語っている。彼女が意味しているのは、その困難が大きいということである。彼女の行く手を閉ざしていたのは小さな丘々ではなく、山々であった。
数々の罪の記憶という山々、信仰後退というアルプス、忘却と、忘恩と、世俗性と、祈りの冷たさと、軽薄、高慢、不信仰といった険しい山脈。あゝ、私はこの悲しい経験の暗い地形すべてをあなたに教えることはできない! 巨大な壁また壁が、レバノンの絶壁のようにこの花嫁の前には聳え立っていた。いかにすれば彼女はその《愛する方》のもとに行けただろうか?
隔てとなっていた困難は数多かった。大きいばかりではなかった。彼女は「山」ではなく、「山々」について語る。アルプスの上にアルプスが、壁を越えて壁があった。彼女は、これほどの短時日の間に、これほど多くの雲が彼女と彼との間をふさぐなどということがありえたことに悩んでいる。この方について、つい今しがた彼女はこう歌ったばかりだったのである。「あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださる」[雅2:6]。悲しいかな、私たちはこうした険しい山々を悲しいほど急速に増し加えてしまう。私たちの主はねたむ方であり、私たちは主がその御顔をお隠しになる理由をあまりにも多く作ってしまう。実行したときにはあれほど些細なことと思われた1つの過ちが、その結果に照らして見ると、大きく膨れ上がり、ついには高々と聳えて、《愛する方》の御顔を隠してしまうまでとなる。それから私たちの太陽は沈んでしまい、恐れが囁きかける。「あの方の光が戻って来るなどということはあるだろうか? 夜が明けるなどということが二度とあるだろうか? 陰が逃げ散るなどということはあるだろうか?」 天的な陽光を悲しませて遠ざけることはたやすいが、あゝ、天空を晴れ上がらせ、雲1つない輝きを取り戻すことの何と困難なことか!
ことによると、この花嫁にとって、すべての中でも最悪の思いは、隔てとなっている障壁が永久のものとなるかもしれないという恐れであった。それは高かったが、崩れるかもしれなかった。その壁は数多かったが、倒壊するかもしれなかった。だが、悲しいかな、それらは山々であった。そして、それは代々にわたって堅く立ち続けるのである! 彼女は、こう叫んだ詩篇作者のように感じた。「私の罪は、いつも私の目の前にあります」[詩51:3]。私たちの主がおられない苦痛は、私たちに、望みなく主から閉め出されているという恐れがあるとき、耐えがたいものとなる。一夜なら、人は朝を希望して耐えられる。だが、その夜が決して明けないとしたらどうだろうか? そして、あなたや私は、もしもキリストのもとからさまよい出ており、不動の山々の連なりが主との間にあると感じているとしたら、気分が悪くなるであろう。私たちは祈ろうとするが、献身の言葉は私たちの唇の上で死に絶える。聖餐台で主に近づこうと試みるが、自分をヨハネよりはユダのように感じてしまう。そのような時、私たちは、もう一目《花婿》の顔を見ることができさえしたら、また、今より幸いだった日々のように主が私たちを喜びとしておられると知ることができさえしたら、目をえぐられても良いと感じてきた。それでも、そこには畏怖すべき山々が、黒く、威嚇するような姿を見せて、通行不能にしている。そして、私たちのいのちなる《いのち》は、遠い彼方の国に離れていて、深く悲しんでおられるのである。
それで花嫁は、この結論に達したと思われる。自分の途上にある数々の困難は、自力では越えることができない、と。彼女は、自分がその山々を越えて自分の《愛する方》のもとに行こうと考えさえしていない。むしろ、こう叫んでいる。「そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに、あなたは帰って来て、険しい山々の上のかもしかや、若い鹿のようになってください」。彼女はその山々に登ろうと試みはしないであろう。自分にできないことは分かっている。その山々がもっと低ければ、彼女も試してみたかもしれない。だが、その頂は天に達している。もしそれがもっと突兀としても険阻でもなかったとしたら、彼女も越えてみる気を起こしたかもしれない。だが、この山々はきわめて峻険であり、その長く突出した岩の上にはいかなる足も立てない。おゝ、自分に愛想を尽かすことのあわれみよ!
私は、魂がこのように追いつめられ、それゆえ、いやでも神だけを仰ぎ見させられることになるのを見ると嬉しく思う。被造物が終える所こそ、《創造主》がお始めになる所である。罪人が終える所で、《救い主》はお始めになる。もしその山々に登ることができたとしたら、私たちはそれを登らなくてはならない。だが、もしそれが全く通行不能だとしたら、魂はかの預言者とともにこう叫ぶ。「ああ、あなたが天を裂いて降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。火が柴に燃えつき、火が水を沸き立たせるように、あなたの御名はあなたの敵に知られ、国々は御前で震えるでしょう。私たちが予想もしなかった恐ろしい事をあなたが行なわれるとき、あなたが降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう」[イザ64:1-3]。私たちの魂はちんばであって、キリストのもとに動いて行くことができない。だが、見よ! 私たちは、自分の強い願望をキリストに向け、私たちの希望だけをキリストに据える。主は私たちを愛のうちに思い出し、古のしもべに対してしたように、私たちのもとに飛んで来てくださらないだろうか? そのとき、主はケルブに乗って飛び、風の翼に乗って飛びかけられたのである[詩18:10]。
III. ここに立ち上るのは、《この状況にとって完全に申し分のない、この聖句の祈り》である。「私の愛する方よ。そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに、あなたは帰って来て、険しい山々の上のかもしかや、若い鹿のようになってください」。
イエスは、私たちがイエスのもとに行くことができないとき、私たちのもとに来ることがおできになる。かもしかや若い鹿、あるいは、読み方によっては、ガゼルや大巻角山羊は、山々の突出した岩々の間に住み、驚くばかりの軽快さで奈落の間を飛び跳ねる。俊敏さと、足元の確かさにかけて彼らに比肩しうるものはない。聖なる詩人はこう云った。「彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる」[詩18:33]。これがほのめかしているのは、山々の山腹に、何のゆるぎもなく立つにふさわしい生き物の足である。私たちのほむべき主は、詩篇22篇の題名では、「暁の雌鹿」と呼ばれている。そして、花嫁はこの黄金の雅歌においてこう歌うのである。「私の《愛する方》は、かもしかや若い鹿のようです。ご覧なさい。彼は山々の上を跳びはね、丘々を飛び越えてやって来ます」。
ここで私があなたに思い起こさせたいのは、この祈りは、私たちがささげて全くかまわないものだということである。なぜなら、これこそ、私たちがキリストのもとに行くことが論外であるとき、キリストが私たちのもとに来られるしかただからである。「どうしてですか?」、とあなたは云うであろう。答えよう。昔、主はそうされたのである。というのも、私たちは覚えているからである。主が「その大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをも愛してくださった」*[エペ2:4-5]ことを。主が、人間のかたちをとって最初にこの世に来られたのは、神が人のもとに行かない限り、人が決して神のもとに来られなかったからではなかっただろうか? 私たちの最初の親たちの側には何の涙も、祈りも、神を求める懇願も聞こえないが、罪を犯された側の主は自分から約束を与えてくださった。女の《子孫》がへびの頭を踏み砕くであろう、と[創3:15]。私たちの主がこの世に来られたのは、教えられたのでも、求められたのでも、思いを及ぼされたのでもなかった。主は全くご自分の自由意志によって、贖うことを喜びとして来られた。
「憐れみの目もて 恵みの《君》は
われらが悲惨(いたみ) みそなわしけり。
主は見て、――驚くばかりの愛ぞ!――
われらに駆けて、救出(たすけ)たまわん」。主の受肉は、主がその御霊によって私たちのもとに来られるしかたの予型である。主は私たちが投げ捨てられ、汚染され、恥ずべき者となり、滅びつつあるのをご覧になった。そして、そのそばを通りかかったとき、主の情け深い唇は、「生きよ!」、と仰せになった[エゼ16:6]。私たちにおいて、あの古の言葉は成就したのである。「わたしは……わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた」[イザ65:1]。私たちは、あまりにも聖潔を毛嫌いし、あまりにも罪の奴隷となっているため、もし神がまず私たちの方に向かって来てくださらなかったとしたら、神に立ち返ることなどなかったに違いない。あなたはどう考えるだろうか? 神は、私たちが敵であったときに来られたではないだろうか? では、今や私たちが友となっているときには、私たちのもとに来てくださるではないだろうか? 私たちが死んだ罪人であったとき、神は私たちのもとに来られた。ならば、今や私たちが涙する聖徒となっているとき、私たちの声を聞いてくださるではないだろうか! もしキリストが地上に来られたのが、このようなしかただったとしたら、また、私たちひとりひとりのもとに来られたことがこのような形であったとしたら、私たちはこう希望して良いであろう。今、主は私たちのもとに、それと同じようなやり方で来てくださるであろう。青草を清新にする露が、人の子らに期待をかけず、人に望みをおかないように[ミカ5:7]。
それだけでなく、この後の日に、主は自らやって来られる。罪と、過誤と、偶像礼拝と、迷信と、圧制との山々が、主の御国の道の上で立ちはだかっている。だが、主は確かにやって来ては、それを打倒し、覆し、ついにすべてを治めることになる。私は云うが、主は後の日にやって来られるであろう。そうするために丘々を跳びはねることになるとしてもそうされるであろう。そして、そのことのために私は、私たちが楽々とこう結論して良いものと確信するのである。すなわち、主は、主がおられないことをこれほど痛切に嘆き悲しんでいる私たちのもとに近づいてくださる、と。ならば、私たちはしばし頭を垂れて、沈黙のうちに、この上もなくすぐれた《威光》のお方に、この聖句の嘆願をおささげしようではないか。「私の愛する方よ。……あなたは帰って来て、険しい山々の上のかもしかや、若い鹿のようになってください」。
本日の聖句が私たちに与えてくれる甘やかな確信、それは、私たちの主が、私たちにとっては全く越えがたいこうした数々の困難を、ものともされないということである。まさにかもしかや、若い鹿が山々の小道を知り、ごつごつした岩間でも足の踏み場を知っており、山峡においても断崖においても、これっぽっちも恐れを持っていないように、私たちの主は、私たちの罪と悲しみとの高みや深み、早瀬や洞窟をご存知である。主は私たちのそむきの罪のすべてをかかえ、私たちの咎の途方もない重圧を自覚された。主は、私たちの性質の数々の弱さを熟知しておられる。主は荒野における誘惑を知り、園における胸張り裂けるような思いを知り、十字架上でひとり見捨てられる経験を知られた。主は痛みと弱さを全く熟知しておられる。というのも、「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」[マタ8:17]からである。主は意気阻喪することを熟知しておられる。というのも、主は「悲しみの人で病を知っていた」[イザ53:3]からである。主は、死をすら熟知しておられる。というのも、主は息を引き取られ[ルカ23:46]、墓所を通って復活へと至ったからである。おゝ、口をぱっくり開いた深淵と、渋面せる災厄の絶壁よ。私たちの《愛する方》は、かもしかや、鹿のように、お前の陰影を通り抜けて来られた! おゝ、私の主よ。あなたは、私をあなたから隔てているすべてのことをご存知です。また、あなたは、私が、この隔ての山々を登ってあなたに到達するには、到底虚弱すぎることをもご存知です。それゆえ、私はあなたに祈ります。この山々を越えて、慕いまつる私の霊に会いに来てください! あなたは、大きく口を開いた深淵も、滑りやすい絶壁も1つ残らずご存知ですが、その1つたりともあなたをとどめることはできません。私のもとへ、あなたのしもべのもとへ、あなたの愛する者のもとへと急いで来てください。そして、私たちをもう一度あなたの臨在で生かしてください。
また、キリストにとって、山々を越えて私たちの救出にやって来ることも容易である。ガゼルにとって、山々を横切ることは容易である。それは、そうするために造られている。そのように、これはイエスにとって容易である。というのも、この目的のために古の昔から主は任命されたからである。すなわち、主が、最悪の状態にある人間のもとにやって来て、しかも、御父の愛を携えて来られるためである。何が私たちをキリストから引き離しているだろうか? 罪意識だろうか? あなたは一度赦されているし、イエスは全き赦しの感覚をこの上もなく生き生きと回復させることがおできになる。しかし、あなたは云うであろう。「悲しいかな! 私は再び罪を犯しました。まるきり新たな咎が私を恐怖に陥れています」。主はそれを瞬時に取り除くことがおできになる。というのも、そうする目的のために指定された泉が開かれており、それは、まだ満ちているからである。かの親愛な、贖いの愛の唇にとって、子どもの数々の違反を捨て去ることはたやすい。主はすでにその犯罪人の数々の不義のための赦免状をかちとっておられるからである。もし主がその心血を注いで私たちの赦免状を私たちの《審き主》からかちとっておられるとしたら、主はしごく簡単に私たちの御父の赦しを私たちにもたらすことがおできになる。おゝ、しかり。キリストにとって再びこう云うことは実に容易なのである。「あなたの罪は赦された!」[マタ9:2]
「ですが、私は非常にふさわしくない者、聖餐式にあずかることはできない者だと感じます」。あらゆる肉体的なわずらいを直した[マタ4:23]お方は、一言であなたの霊的疾患を癒すことがおできになる。あの、くるぶしが強くなり[使3:7]、歩いたり、はねたりした男のことを思い出すがいい。また、熱病にかかっていた女がたちまち癒され、起きて、自分の主をもてなしたことを思い出すがいい[マタ8:14-15]。「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」[IIコリ12:9]。「ですが、私の受けている患難、苦難、悲しみは途方もないもので、私は深淵に沈んでしまい、喜ばしい交わりへと登ることができないのです」。しかり。だが、イエスはあらゆる重荷を軽くし、あらゆるくびきを負いやすくすることがおできになる。あなたの種々の苦難は、あなたが天国へ向かう道行きを妨げるものとなる代わりに、助けとされることができる。私は、こうした重量級の重荷のすべてについて知っている。そして、あなたがそれらを持ち上げられないことを悟っている。だが、熟練した技師であれば、綱と滑車をうまく組み合わせて、重量級の重荷で他の重荷を持ち上げさせることができる。主イエスは、恵みによって作動する機構制御に熟達しておられ、1つの患難の重みによって、私たちの霊的な生気のなさという重みを取り上げる技術を有しておられる。それは私たちが、石臼のように私たちを沈めそうに思えたものによって、上っていくためであった。他の何が妨げるだろうか? 私はこう確信している。たといそれが全く不可能なことであったとしても、主イエスには、それを取り除くことがおできになるであろう。というのも、人にはできないことが、神にはできるからである[ルカ18:27]。
しかし、ある人は反対するはずである。「私は、あまりにもキリストにふさわしくない者です。卓越した聖徒たちや、愛された弟子たちならば、大いに甘やかされるのも理解できます。しかし、私は虫けらです。人間ではありません[詩22:6]。そのように、へりくだっていただく価値などさらさらない者です」。あなたはそう云うのか? あなたは知らないのだろうか? キリストの価値は、あなたの無価値さを覆い、神によってキリストは、私たちにとって知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられたのである[Iコリ1:30]。キリストにおいて、御父は単に、あなたが自分自身について考えるようなしかたでだけ、あなたのことをお考えになるのではない。あなたは、御父の子どもと呼ばれるにふさわしくはないが、御父は実際にあなたをそう呼び、あなたをご自分の宝石の間にあるみなしてくださる。聞くがいい。そうすれば、あなたは御父がこう云われるのを聞くであろう。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする」[イザ43:4、3]。ならばこのようにして、イエスがあなたのもとに来て、あなたと断たれた交わりをもう一度打ち立てようと決意されるとき、イエスに飛び越えることができないものは何も残っていない。
しめくくりとして、私たちの主はこのことすべてをただちに行なうことがおできになる。死者が一瞬のうちに朽ちないものによみがえる[Iコリ15:52]のと同じように、たちまち、私たちの死んだ愛情は喜びあふれるものへと高まることができるのである。主はこの山に向かってこう命ずることがおできになる。「動いて、海にはいれ」[マタ21:21]。すると、その通りになる。この晩餐の卓子の上に置かれた神聖な象徴において、イエスはすでに私たちの間におられる。信仰は叫ぶ。「主は来られた!」 バプテスマのヨハネのように、信仰は一心に主を見つめて、こう叫ぶ。「見よ、神の小羊!」[ヨハ1:36] この卓子に着いて、イエスはご自分のからだと血という糧で私たちを養ってくださる。主の物質的な臨在を私たちは有していないが、主の真の霊的な臨在を私たちは感知する。私たちは、誰も、「あなたはどなたですか」、とあえて尋ねなかった[ヨハ21:12]あの弟子たちのようである。主であることを知っているからである。主は来ておられる。主は、この窓を見つめておられる。――私は、このパンと葡萄酒を意味している。この教えに満ちた、親愛の情を感じさせる儀式という格子ごしにご自分を表わしておられる。語っておられる。仰せになっている。「冬は過ぎ去り、大雨も通り過ぎて行った」[雅2:11]。そして、それはその通りである。私たちは、そうであることを感じている。天的な高潮が私たちの凍りついた心を暖めている。花嫁のように、私たちは驚異に満ちて叫ぶ。「私自身が知らないうちに、私は民の高貴な人の車に乗せられていました」[雅6:12]。さて、幸いな交わりのうちに、私たちは《愛する方》を見てとり、その御声を聞く。私たちの心は燃える。私たちの愛情は燃え立つ。私たちは幸いになり、平穏になり、喜びで満ちあふれる。《王》は私たちを酒宴の席に伴われた。私たちの上に翻るこの方の旗じるしは愛である[雅2:4]。ここにいることは素晴らしいことである!
愛する方々。私たちはいま出発しなくてはならない。1つの御声が語っている。「立ちなさい。さあ、ここから行くのです」[ヨハ14:31]。おゝ、私たちの心の主よ。私たちと伴ってください! あなたがおられなければ、家は家になりません。あなたがおられなければ、人生は人生になりません。天国そのものでさえ、あなたが欠けていれば天国にならないでしょう。私たちとともにとどまってください。この世は暗くなり、時のたそがれが迫りつつあります。私たちとともにとどまってください。夕暮れに向かいつつあるからです。私たちの年は増して行き、私たちは露が冷たく、寒々しく下りる夜に近づいています。大いなる未来が私たちの周囲をぐるりと取り巻いています。最後の時代の光輝が降りて来つつあります。そして、私たちがそれを厳粛な、恐れかしこまった期待のうちに待っている間、私たちの心は耐えずその内側で叫んでいます。「そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに、あなたは帰って来てください!」*
山々を越えて[了]
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