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サタン、自我、罪と救い主

NO. 3306

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1912年6月13日、木曜日発行の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1866年4月19日、木曜夜


「それで、『おまえの名は何か。』とお尋ねになると、『私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから。』と言った」。――マコ5:9


 この聖句は私たちに、サタンに関すること、自我に関すること、そして、罪と《救い主》に関することを示唆していると思う。

 I. 何の前置きもなしに、すぐさまこの聖句の中に、《サタンに関すること》を見てとることとしよう。

 汚れた霊は、その主人サタンのように、非常に偽りを云いがちなものではあるが、ここ、キリストの御前においては、疑いもなく真実を語っていたに違いない。彼は、「私の名はレギオンです」、と云った。それで、「レギオン」という名によって最初に示唆される思想は、このことである。すなわち、この世には、私たちが警戒しなくてはならない悪霊がたくさんいるということである。「あなたがたの敵である悪魔」[Iペテ5:8]と呼ばれている、大いなる悪の首魁は1つである。だが、彼の支配下には数多くの悪霊たちがいて、彼自身のように、神と善に対する憎悪に満ちている。そして、人間たちの間におけるキリストの御国に、できる限り大きな害悪をもたらすことに熱中している。私たちは、こうした悪の霊がどれほどの数いるか分からないが、彼らが非常に数多いと信ずべき理由はある。それで、彼らに打ち勝つのは決してたやすいことではないであろう。また、これほど多くの悪霊が常に人々を邪道に導こうとしているのであれば、世にこれほど多くの悪があるのも不思議はない。

 この「レギオン」と関連した次の思想は、組織という思想である。というのも、ローマ軍の軍団[legion]は単に兵隊たちの大集団というだけでなく、数千人の者らが徹底的に組織化されていた集団だったからである。彼らはローマ皇帝に忠誠の誓いを立てており、彼らの上に権威ある者として立てられていた百人隊長その他の士官たちに絶対服従していた。この膨大な悪霊どもの大群も、それと同じであると信ずべき理由がある。彼らは規律のない烏合の衆ではない。悪魔とその使いたちがミカエルと彼の使いたち[黙12:7]と戦った時と同じくらい、組織化され、統制が取れている。疑いもなく彼らは、示し合わせたり気脈を通じたりすることができ、何らかの共通の目的を達成するために手を組んで働くことができる。サタンは空中の権威を持つ支配者[エペ2:2]と呼ばれており、支配者という名は、彼の意のままに出入りし、彼の命ずることを行なう手下たちがいることを暗示している。この悪魔的な《レギオン》に対する戦いに、最も従事することの多い私たちは、自分の務めが容易ならざるものであることを知っており、パウロとともにこう云うことができる。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」[エペ6:12]。この非常に恐ろしい争闘において勝利者となりたければ、私たちの側には、私たちに対抗して立ちうるあらゆる者にもまして強大な《お方》がいなくてはならない。

 しかし、「レギオン」という名は、単に戦闘のために徹底的に組織化された多くの者という観念を示唆するだけでなく、一致という観念をも伝える。この汚れた霊は、「私の名はレギオンです」、と云った。まるで、そのレギオンが彼自身であり、彼がそのレギオンであったかのように。歩兵大隊がひとりの人であるかのように動かされうるとしたら、それは軍事教練の粋である。ローマ軍の重装歩兵密集隊形があれほど度重なる勝利をおさめたのは、それを構成していた者たちが緊密に凝集し、一糸乱れぬ一体となっていたからである。そして、それこそ、暗闇の諸力の特徴の1つであると思われる。キリスト者たちがしばしばいさかいを起こしているのに、悪霊たちがそうしているとは一度も聞かないというのは、げんなりさせられることである。神の《教会》は分裂しているが、闇の王国は一枚岩に見える。いかなる内部抗争が悪霊どもの間にあろうとも、ここにはそうしたものが毛ほども窺えない。彼らはみな、完全な調和をもって行動しているらしく思われる。憎悪の方が愛よりも、異なる者らを糾合するには強力な原理なのかどうかは、あえて云うまい。だが、確かにこの、神とその真理を憎む者どもは、悪霊どもがうじゃうじゃ集まっているというよりは、ひとりの悪鬼であるかのように固く結合しているように見える。その一方で、主イエス・キリストを愛する者たちは、主のほむべきご支配の下にあっても、ひとりの人のように固く結合してはいない。ここに、かの悪い者の力は存している。彼の軍勢は、レギオンと呼ばれるほどに統一されており、絶対的な団結をもって前進している。愛する方々。この大軍勢が1つの目的のために一丸となっていること、その目的があなたの破滅であること、また、膨大な数のいなごのように自分たちの訪れるすべての場所を荒廃させようと決意していることを考えるとき、あなたは悟らなくてはならない。あなたは決して、このおびただしい数の、組織化され、一致した悪の集団を、あなたひとりの力で打ち負かすことはできない、と。

 「レギオン」という名がやはり示唆するのは、兵士たちの大集団が戦争のために整列させられている姿である。平和的な務めに携わっている者らの集まりではなく、司令官の下命によって戦闘へと進撃していく武装した軍隊である。古代ローマの軍団兵は重い装甲で守られ、短く鋭利な剣を携行しては、それですさまじい猛威を振るった。彼らが戦いに赴くとき、それは大竜巻が刈り株を吹き飛ばすか、猛火が森林を燃え上がらせて灰燼に帰させるときのようであった。彼らは力強い者らで、若い頃から戦争のために訓練され、鍛錬されていた。そして、サタンとその手下たちは、この六千年の間、人間たちに危害を加え、滅ぼす手管に通暁してきた。彼らはその破壊的な武器の使用法に熟達している。自分の矢筒の中のいかなる矢が、私の兄弟。あなたの鎧の継ぎ目に突き立つかを知っている。また、いかなる火矢が、私の姉妹。あなたにとって最も効果的かを知っている。きょう詩篇18篇を朗読したとき、私は特にダビデが5節で語っていることに注意した。「よみの綱は私を取り囲み」。あたかも何らかの地獄的な諸力が彼を縄でぐるぐる巻きにしたかのようである。そして、それが彼をますます固く引き寄せて、この詩篇作者を二度と脱出できない捕らわれの身としようと欲していたのだ、と。それから彼はこう付言している。「死のわなは私に立ち向かった」。あたかも彼の敵たちが――それが人間であれ悪霊であれ――致命的な陥穽を仕掛けており、それで彼を罠に掛けようと欲していたかのようであった。これこそ、悪霊たちがあなたに対して常に行なっていることである。愛する方々。そして、もしも賢明に身を処したければ、ダビデが行なったと告げていることを行なうべきである。「私は苦しみの中に主を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた」[詩18:6]。そうするとき、あなたも、じきにダビデとともにこう云えるであろう。「主は私の強い敵と、私を憎む者とから私を救い出された。彼らは私より強かったから」[18:17]。

 さらに、「レギオン」という名は、歴史的に興味深いものである。時間がないため私は、ローマ軍団中でも最も目覚ましい部隊のいくつかが行なった功業について物語ることができない。彼らの記録は、その後継者たちによって英雄的な偉勲としていとおしまれてきた。それは、英国の名連隊の武勲が今日のわが国で記憶されているのと全く変わらない。この悪霊どもの軍団が、そのよこしまな主人の意志を今なお行なっていることを考えるとき、あなたは見てとるであろう。彼らの過去の歴史には、彼らが誇りとすることのできるいくつかの事がらがあることを。その栄光は、やがて恥辱と変わるが関係ない。わが国の兵士たちの軍旗は、多くの激戦地で獲得された数々の勝利を告げる。そして、ダイアボラス*1の暗黒旗の最初の銘はこの一言、「エデン」である。もしサタンに何らかの喜びを覚えることが可能であるとしたら、自分がかの楽園で得た勝利について考えることは、彼の舌の上で転がす非常に甘美な一口であるに違いない。それによって全人類は、その代表者アダムにおいて、あれほど屈辱的な転覆を喫したのである。確かに、それ以後の彼が勝利よりも敗北を嘗めてきたことは事実であり、現時点に至るまでの彼は、楽園で予告された、その頭が最終的に踏み砕かれることの、少なくとも多くの前味を味わってきたに違いないが、それでも彼はなおも、はるか彼方に自ら反逆し去った、かの偉大な《王》に従う者たちに対抗して、自分の呪われた諸軍団を率いるという、その望みなき務めに励んでいる。サタンのこの不屈の決意は、キリスト者が見習うべきものである。私が彼をあなたの賞賛のために掲げ上げる唯一の点はそのことである。――自分の大目的が絶望的なものであっても、彼はなおもそれを強力に押し進めている。一万回も挫折させられてきたにもかかわらず、なおも騒々しく争おうと待ちかまえている。おゝ、彼がその汚れた厚かましさを有している半分でも多くの聖なる勇気を私たちが持っているとしたらどんなに良いことか。私たちが彼の半分ほども大胆不敵な胆力を持てるとしたらどんなに良いことか! 私たちの《主人》の御国のようにほむべき目当てを有している私たちである。おゝ、それにふさわしい勇敢さを有していられたとしたらどんなに良いことか!

 それで、キリスト者よ。私はあなたに命ずる。もう一度あなたの大いなる敵に目を向けるがいい。あなたの携わっている争闘がいかにのっぴきならないものか悟るためである。あなたはしばしばサタンを恐れてきたが、彼は決してあなたのことなど恐れはしない。たといあなたが戦いの日に背中を見せるとしても、彼が自分の背中を見せることはありそうもない。あなたがこの一生涯の戦いにおいて圧倒的な勝利者[ロマ8:37]となることは確定していようと、決してただぬくぬくとしているだけの兵士となってはならない。もしあなたが名ばかりのキリスト者でしかなく、キリスト者の性質を有していないとしたら、敗北が待ち受けていることは間違いない。この軍役を始める前に、その代価を計算するがいい。あなたの一万人の戦力[ルカ14:31]で、敵軍の十万人に打ち勝つことができるかどうか考えてみるがいい。そして、自分自身の不十分さを悟るとき、かの《強い者》[ルカ11:22]に強さを叫び求め、あなたの全能の《同盟者》により頼むがいい。そして、このお方の力によって、こう確信して喜びながら、この聖なる戦いに出征するがいい。「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます」[ロマ16:20]。

 II. さて、この主題のその部分から目を転じて、次にここで、《自我に関すること》を見いだそう。

 私の信ずるところ、この会衆の中のある人々は、ある程度まで救われたいと願っていると思う。だが、そうした人々は決してそこまで達することができないと絶望している。普通、この場の座席に座っている人々の中には、自分の永遠の安全について危惧していながらも、自分は決して救われることができないと恐れている人々がいるものである。――自分のもろもろの罪は多すぎる、自分の弱さははなはだしすぎる、自分の種々の誘惑は強すぎる、自分の置かれている様々な環境は不都合なものすぎる、と。彼らは、他の罪人たちは救われても、自分には何の望みもないのだと決め込んでいる。このあわれな悪霊憑きの状況が、いかに彼らと似通っているか見てみよう。ある人の意見によると、キリストの問いに対するこうした答えは、第一に、キリストに抵抗する理屈を求めようとする、高ぶった心の反対であり、第二に、自分の悲惨な状況を自覚した上での悲痛な訴えであるという。いずれにせよ、これはこの場にいるある人々にとって教えに富むものであろう。

 最初に、この答えには、大きな高慢があった。「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから」。そして、自分の罪のはなはだしさゆえに、救われることに絶望している罪人たちの中にも、大きな高慢がある。人々が自分のもろもろの罪と縁を切るまいと決意しているとき、彼らは普通、次の2つの理屈の一方を用いるものである。「私たちの罪ははなはだしすぎますから、私たちが天国に行けないことは分かりきっています。それなら、罪を犯し続けても同じでしょう」。あるいは、「私たちはいつでも好きなときに罪から離れることができます。悔い改めなどごく簡単なことですから、いつでも取り組むことができます。だから私たちは、自分にできる限りそれを引き延ばすつもりです」。この2つは全く正反対の極端であるが、その一方からもう一方への転換は非常に素早くなされうる。もしある人々が自分の罪にしがみつきたい云い訳を欲しているとしたら、その人は常に何らかの云い訳を見いだすことができる。救われまいと決意している魂には、いかなる偽りも満足が行くものとなる。かりに、愛する方々。あなたが何らかの致命的な病にかかっているとしよう。そこで、ひとりの著名な医者が治療を申し出たが、あなたは彼の薬を受け取りたくないとする。あなたの愚かな心は、それを受け取らない理由を2つ示唆するであろう。最初の理由はこうである。「私の症状は、絶望的すぎて、どんな薬を飲んでも何にもなりません」。また、もう1つはこうであろう。「その薬は強力すぎるので、あと一年くらい経って、私の具合が今よりやや悪化してから飲んでも、私を治せることでしょう」。こうした理屈のいずれも、その薬をすぐに飲まないまともな理由にはならないし、もし人がそれを受け取ることを拒否したために死んだとしたら、felo-de-se[自殺]という宣告を受ける理由が完璧にあるであろう。おびただしい数の魂が失われる理由は、彼らが、キリストには自分を救うことができないと信じていることにある。あるいは逆に、おそらく、それと同じくらいの数の人々が失われつつあるのは、救われるのはごく容易なことであるため、自分の好きなときにこの件の片を付けられると考えているからである。私は切に乞い願う。愛する方々。どちらの理屈によっても、キリストを拒絶してはならない。なぜあなたは理屈を云って自分を永遠の滅びに陥らせて良いだろうか? サタンの側に立って自分自身の滅びを招くよりも、ましな頭の使い方があるではないだろうか? むしろ、あなたのもろもろの罪は、それが一軍団のように、あるいは、それ以上に多くとも、赦されるに多すぎることはないという、神のみことばの証言を思うがいい。イエスの尊い血には、あなたを雪よりも白くする効力があること、また、イエスがあなたをさえ「救うに力強い者」[イザ63:1]であられることを信ずるがいい。というのも、「キリストは……ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです」[ヘブ7:25]。

 「レギオン」という名がやはり私たちに示唆するのは、自らの罪について悲しむ自意識の悲哀の叫びである。確かに、この会衆の中のある人々はこう云っているに違いない。「悲しいかな。私たちのもろもろの罪は数多く、それらは私たちを最も憐れむべき苦境に陥れてしまった! 私たちは単に手がしなびているだけでなく、足がちんばで、目がめくらで、耳がつんぼで、何よりも悪いことに心が道端の石のように死んでいるのだ。足の裏から頭の天辺まで、私たちに健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷しかない[イザ1:6]」。愛する方々。もしあなたが、こうした悲しみに満ちた悲嘆を真心から口にしているとしたら、私はそう聞いて嬉しく思う。そして、あなたが知っているにせよいないにせよ、そうした事態は、実は神があなたをお救いになる可能性が高い理由なのである。神のことばの中に私たちが見いだす議論のいくつかを、あなたに思い起こさせてほしい。私が今あなたに言及した詩篇18篇にはひとりの人物がいる。ダビデは主についてこう云っている。「主は私の強い敵と、私を憎む者とから私を救い出された。彼らは私より強かったから」[詩18:17]。彼は自分に群がる仇敵に対処することができず、それで自分を救い出してくださるよう主に信頼した。すると主はそうされた。《救い主》の墓所をふさいでいた石についても同様の議論がある。女たちは、「『墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。』とみなで話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、その石がすでにころがしてあった。なぜなら」。――なぜなら、何だろうか?――「なぜなら、それは大きな石だったからである」[マコ16:3-4 <英欽定訳>]。もしそれが大きな石でなかったとしたら、彼女たちが自分で転がすことができたであろう。だが、それが彼女たちが動かすには重すぎたものであったために、御使いは彼女たちに代わってそれを転がしたのである。ダビデは、こうした種類の議論の名手であった。詩篇25:11で彼はこう祈っている。「主よ。御名のために、私の咎をお赦しください。それは大きな咎なのですから」<英欽定訳>。こうした類の訴えを行なうのは奇妙に思われるが、これこそ神を説き伏せるものなのである。もし私が、大罪人ではないからお赦しくださいと訴えるとしたら、私は律法的であり肉的である。だが、もし私が、これほどまでに大罪人なのですからお赦しくださいと訴えるなら、私は福音的な動機によって動かされており、そこには、自分の必要を告白する者に対して天来の恵みが明らかに現わされる余地があるのである。これは、医者に向かって叫んでいるあわれな病人のようである。「おゝ、先生。私の手当をしてください。私の病状は絶望的なのですから!」 あなたは自分の必要を用いなくてはならない。その必要の大きさを用いて、主と論じ合わなくてはならない。この場にいる、私の知っている一部の人々は、あなたと同じように自分の罪を感じることができるとしたら、ほとんど自分の目をえぐり出しても良いと考えている。そうした人たちは、十字架につけられたキリストの罪についてもっと悩みたいと思っている。もっと絶望したいと思っている。よろしい。こうした人々は愚かである。そして、あなたも愚かである。彼らはもっと絶望したいと願っている点で愚かであり、あなたはこれほど絶望しなければ良かったのにと望んでいる点で愚かである。あなたがたはみな、自分自身に目を向けることをやめ、ありのままのあなたでイエスのもとに行くべきである。そして、主が自分を救ってくださると信じるべきである。

 III. さて私は最後の点に至る。《私たちのもろもろの罪と私たちの救い主に関すること》である。

 私たちのもろもろの罪はサタンに似ている。それらは彼の子であり、その父親に瓜二つである。私たちのもろもろの罪は、まさしくレギオンと呼ばれて良い。おゝ、それらがいかに数多いことか! それを数えることはできない。海の砂よりも、空の星々よりも多い。だが、それらがいかにおびただしくとも、それらについては1つであるとも云える。私たちの罪にはすさまじい一致があるからである。ある罪が別の罪を邪魔することは、ごくまれにしかない。たまにそうなることもあるが、ずっと往々にして1つの罪は別の罪を誘発するものである。聞いた話だが、ある人々は、もしも高慢でなかったとしたら下品であったろうという。だが、私は、非常に高慢であり、かつ非常に下品でもある人々に会ったことがある。私の知っている一部の人々は、非常に怒りっぽいが、特定の場所では短気を起こさないようにしているという。さもないと敗北者となる恐れがあるからである。ただ、こう云い足されていた。彼らは、別の方面で思いきり耽溺し、そのようにして、自分の利己的な自己抑制の埋め合わせをしていた、と。このような場合を除けば、ある1つの罪が別の罪の妨げになるとは思わない。むしろ逆に、1つの罪は頻繁に別のいくつもの罪に至らせる。もしあなたが玄関から1つの悪霊を追い出せば、彼はしばしば裏口から入り込み、自分より悪い十もの悪霊を引き連れて来る。あなたも体験してきたに違いない。ある悪徳を取り除くことが、いかに容易に別の悪徳へと至ることかを。あなたは、自分の心を尽くして怠惰が取り除かれるように祈り、その後で、いかに自分が忙しくしているかに高ぶった思いを感じたことはないだろうか? また、自分の高慢を取り除くと、その後であなたは、自分が即座に意気消沈することに気づく。そして、意気消沈と戦い、それを克服した後では増上慢が前面に押し出される。こうしたことは、あなたが死ぬ日まで続くであろう。だが、私はあなたが次のことも見いだすものと思う。あなたのもろもろの罪は数多く、また、それらがあなたを滅ぼそうとして連携して働くしかたには恐ろしい一致があるが、あなたの体験はダビデのそれに似ており、あなたはこう云えるようになるであろう。「彼らは私より強かったが、主は私を救い出された」、と。

 ここから私の最後の点になる。すなわち、主イエス・キリストは、1つの罪を追い出すことができるのと全く同じくらい容易に、もろもろの罪というレギオンをも追い出すことがおできになる。もし私が一生の間に1つしか罪を犯さなかったとしても、私には、その1つの罪をご自分のいけにえによって取り除く、全能の《救い主》が必要であったろう。また、たとい私が全世界のあらゆる罪人たちがこれまでに犯した一切の罪を犯すことができたとしても、いま自分が有しているお方以上に偉大な《救い主》を必要とはしなかったはずである。たとい私が悪に向かう性向、克服すべき必要のある悪徳、あるいは、弱めなくてはならない悪しき傾向をたった1つしか有していなかったとしても、その務めを成し遂げるためには、永遠にほむべき御霊の全能の力が必要とされるはずである。また、たとい私の心が汚れた鳥の一杯入った鳥かごであったとしても、同じ聖霊はそれらすべてを追い払うことがおできになる。主が戦場にお入りになるとき、私たちはわざわざ敵の数を勘定する必要はない。というのも、主は万軍の主であり、ご自分に敵対して集まる者どもすべてにまして力強くあられ、イエス・キリストがこのあわれな悪霊憑きから悪霊どもの軍団を追い出したのと全く同じくらい容易に、あらゆる悪の軍勢を転覆させることがおできになるからである。

 ことによると、あなたがたの中のある人々は、今このとき、自分の内なる腐敗のゆえに非常な悩みの中にあるかもしれない。あなたは最近、これまでの一生の間で一度もなかったほどに、そうした腐敗の姿を見せつけられたかもしれない。よろしい。愛する方々。このことでへりくだるのは良いが、私は切に願う。だからといって、あなたが主イエス・キリストの名誉を汚すことにならないように、と。決して忘れてならないのは、《王の王》が今なお、暗闇のいかなる諸力にもまさる至高のお方として支配しておられる、ということである。サタンは荒れ狂い、そのすさまじい憤りによって怒号するかもしれない。だが、彼の口にはくつわが噛まされており、その顎には手綱がつけられている。それで彼は、主の思うがままに制御され、抑制されているのである。吠え猛る波浪を支配し、風の翼にお乗りになるお方は、悪の全軍勢をご自分のみこころに役立たせることがおできになる。悪魔が神の子どもたちを攻撃するのを許されるときでさえ、ヨブの場合そうであったように、そこには常に越えることのできない限度がある[ヨブ1:12; 2:6]。私が思うに、このあわれな族長は、――灰の上に座し、足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で打たれていながらも、隠忍して、「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか」[ヨブ2:10]、と妻に向かって語っている彼は、――かの底知れぬ所で悪鬼どもを従えているサタンをはるかに越えて高貴に見える。ヨブは、彼のもとに急を知らせる使いが駆け込んで来るたびに、サタンをあざ笑うことができたであろう。その知らせによれば、彼の牛とろばはシェバ人に奪われ、彼の羊は雷で焼き尽くされ、彼の駱駝はカルデヤ人に奪われ、最後に最悪のこととして、荒野の方から吹いて来た大風が、彼の子どもたちが飲み食いしていた家の四隅を打ったため彼らは死んでしまったという。だが、私は彼が、高邁な隠忍をもってこう云ったとき実質的には、サタンをそのように笑ったのだと思う。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」[ヨブ1:21]。彼がさらに激しく試みられても、なおもこの、神を信ずる、その壮大な信仰の宣言を口にできたとき、それはこの族長の、いかに栄光に富む勝利であったことか! 「神が私を殺しても、私は神を待ち望もう」*[ヨブ13:15]。

 しかし、人なるキリスト・イエスがご自分と私たちの大敵に対しておさめられた勝利は、いかにはるかに大きな栄光に富むものであったことであろう! 「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」[ヨハ19:19]が十字架に釘づけられたとき、サタンは戦いに勝ったものと考えた。かの古い蛇はイエスを噛み殺し、愚かにも、これでイエスが一巻の終わりだと想像した。私には、死につつある《救い主》のすさまじい苦悶を見て、この大敵がほくそんでいる姿が見えるような気がする。主が一見すると神からも人からも捨てられて吊り下げられているのを見て、こう野次っている姿が見えるような気がする。「あゝ!」、と彼は云う。「女の子孫よ。俺様は事実お前に噛みついてやったぞ。人間どもをお前にたてつかせ、お前を殺させてやったぞ。俺様はお前を悩ませ、苦しめてやったぞ。お前をあざけり、嘲弄してやったぞ。そして、お前は一言も云い返せないのだ。今やお前の息は、まもなくお前のからだから出て行くしかないのだ」。だが、悪魔がなおもそのうぬぼれきった自慢や野次を浴びせかけつつあったとき、息を引き取りつつあった《救い主》は、大声で、「完了した」[ヨハ19:30]、と叫ばれた。そして、その瞬間に、主の魂はこの敵にひらりとまたがり、完全にして永遠の大敗北を彼に喫させられた。「ガリラヤ人よ、汝は勝てり!」、との叫びを、いまわの際のユリアヌスは発したというが、サタンも同じことを云えたであろう。というのも、私たちに不利な債務証書をイエスがご自分の十字架に釘づけたとき、主は「すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられ」[コロ2:15]たからである。これが、コロサイ書2:15の欄外にある読み方である。それゆえ、ウォッツ博士とともに、――

   「救主(きみ)の奇しき 死をわれ歌わん。
    主は勝ちませり、屈するときに。
    『完了せり!』と いまわに囁き、
    地獄(よみ)のかどをば 揺るがし給う。

   「十字架かたく 土台(もとい)を据えて
    栄光(さかえ)とほまれ 堅く立てたり、
    死人(しびと)の領土(くに)を 主が通り過ぎ、
    冠に達し 給いしときに」。

しかり。イエスは、その敗北の時と見えたまさにそのとき、勝利された。では主をほめたたえるがいい。あなたがた、御座の前の輝く霊たち。また、主にならうがいい。あなたがた、今なおこの下界にいる聖徒たち。というのも、――

   「主はその勝利(かち)を 確実(かたく)ならしめ
    汝がためにただ 一度勝つとも
    かほど確かに 御名愛す者
    主にありてまた 勝ちをば得ん」――

からである。あなたの敵どもがレギオンとさえ名づけられていても関係ない。神があなたを祝福し給わんことを。イエスのゆえに! アーメン。

 


*1 ダイアボラス。ジョン・バニヤンの寓話『聖戦』の中で、人霊市を征服した反逆軍の総大将の名前。むろん悪魔を表わしている。[本文に戻る]

 

サタン、自我、罪と救い主[了]

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