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預言的な警告

NO. 3301

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1912年5月9日、木曜日発行の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります」。――マタ24:12


 キリストは弟子たちに向かって、方々に地震や飢饉や疫病が起こると語っておられた。だが、こうしたことは産みの苦しみの初めにすぎなかった。このような事がらによってキリスト者が悩まされるべきではない。たとい地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも[詩46:2]、信仰者は確信を持ち、その心は安んじていられるからである。《主人》がその弟子たちに、あなたがたは師の名のためにすべての人々に憎まれると語ったときでさえ、彼らが打ちのめされる必要はなかった。主は前もって彼らに語っておられたのである。「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」[マタ10:28]。このようにして彼らは、燃えさかる火の試練[Iペテ4:12]に立ち向かうべく気を引き締めさせられた。地震も、疫病も、戦争も、迫害も、キリストを信ずる信仰者の静穏を乱すことはない。だが、本日の聖句で語られている悪――これこそ傷であり、これこそ悲しみである! ここには身震いすべきことがある。「不法がはびこる」――これは疫病よりも悪い。「多くの人たちの愛は冷たくなります」――これは迫害よりも悪い。船の外側にどれほど水があろうと、船の内側に入ってこない限りいかなる害悪も及ぼさないように、外的な迫害が神の《教会》を本当に傷つけることはできない。だが、害毒が《教会》の中にじわじわとしみ込んで来て、神の民の愛が冷たくなるとき、――あゝ、そのとき、この帆船は非常な苦境に陥る。残念ながら私たちはこの現代、はなはだこういう状況に立ち至っているのではないかと思う。願わくは聖霊が、いま私たちの前にある、この警告を発する預言を祝福し、私たちを目覚めさせてくださるように!

 I. 第一に注意してほしいのは、ここで語られている《この嘆くべき心の冷気の原因》である。「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります」。愛が冷たくなるとき、それは深刻なしるしである。そのとき心は影響を受ける。――その冷気に影響される! これは、死の前触れではないだろうか? その原因は何だろうか? 本日の聖句によると、それは不法がはびこることである。

 罪は恵みを滅ぼすために全力を尽くす。罪が増せば増すほど聖さは少なくなり、キリスト者的な恵みのそれぞれが格段に減じてしまう。罪は有毒性の大気に似ており、その中で暮らさざるをえない人は、それによって圧倒されないように大いに祈る必要がある。あなたや私は、この世の中にいる以上、また、そこから完全には出て行けない以上、悪と接触しないわけにはいかない。日々の職業において私たちは、いかに注意を払っていても、こうした伝染症に出会わざるをえない。自分たちの周囲にある悪が、自分たちの聖潔にとって妨げであること、また、自分たちが恵みにおいて成長するために有害であることを感じないではいられない。キリスト者の回りの社会が目に余るほど邪悪で、腐敗した、厭わしいものとなるとき、キリスト者が自分のきよさや、自分の霊的性格の力を保つことは困難である。現在の時、私たちは、私たちの成長を妨げるような雰囲気の中で生活している。だが、キリスト教の初期の時代、主の民は、概して今日の私たちを取り囲んでいる社会にも劣る社会の中で生きなくてはならなかった。もちろん、このことには例外もある。聞くところ、ロンドンの一部の区域は、コリントや、古のローマに存在していたような悪徳にまみれているという。また、残念ながら、私たちがあえて口にしようとも思わないような、はなはだしい悪徳のいくつかがこの町にはあふれかえっているのではないかと思う。私たちのほんの形ばかりの体裁の良さでは、この国に蔓延している放縦や忌まわしいものをほとんど覆い隠すことができない。私はきょう、非嫡出児の数についての、ある詳細な報告を読んだが、この国のすさまじいばかりの邪悪さに全く驚倒させられた。私たちはキリスト教国と自称している。偽りを語るのはよすがいい。この国は日増しに異教国になりつつある。その一部は種々の像の前に拝跪しており、別の一部は、「神はいない」、と喚き散らしており、第三の者らは、口にするも忌まわしい汚れに、ひそかにふけっている。

 それでも、私たちの中のほとんどの者らは、初期のキリスト者たちと同じ程度までには悪徳と接触していない。ローマ帝国の社会は完全に腐敗していた。その厭わしい時代に神が世界の存続を許しておられたのは驚異である。それは、キリスト教の原則を大いに弾圧することに傾いていた。信ずる者たちを取り巻いていた社会で、種々の恥ずべき罪悪が黙許されるようにするためである。眺めてみるがいい。一部の人々があらかた見て見ぬふりをしているこの初代の諸教会を! 今日の諸教会がいかに悪いものであるといっても、初代の諸教会はその半分も善良ではなかった。例えば、コリントにあった教会を取り上げてみるがいい。あなたは今日、酔っ払いが主の晩餐の席に着くのを許すような教会について聞いたことがあるだろうか? 近親相姦をしながら生活している人物を、それと知りながら会員の中にとどめているような教会と、私たちは個人的に遭遇したことがあるだろうか? ないはずだと思いたい。しかし、パウロの時代の一般社会では、はなはだしい悪事があまりにも普通になっていたため、こうした事がらの一部が間違っているということは、キリスト者である人々にすら思い浮かばなかったのである。不法がはびこっており、それは恵みにとって大いに不都合であった。

 さらに、不法は特に愛の成長にとって有害である。不法がはびこったがゆえに、多くの人たちの愛は冷たくなったのである。キリスト《教会》内部の人々は、しばしば《教会》の他の会員たちから裏切られることに気づいた。往々にして、兄弟たちの首は、ユダのような偽善者たちによって死刑執行人に売り渡された。人々は、互いに疑り合い出した。人は主の晩餐で自分の隣に座った者が、明日は自分のことを密告し、あなたの血で染まった金子を手にしていることもありえると思っていた。それゆえ、猜疑心がその霜枯れの息吹とともに入り込んだ。そうなることは自然であった。たといそれが罪を含むものであったとしても、あなたや私は、おそらく同じものに陥っていたことであろう。至る所において、人々はあまりにも厭わしいものとなっており、いかに堕落した者をも憐れみ、いかに無価値な者にも善を施すようにと私たちに教えるキリスト教的な愛は、生き残るために激しい葛藤をせざるをえなかった。敬虔な人々は、不敬虔な者たちをその種々の情欲からかちとろうと努力したが、その結果、自分たちが迫害されることに気づいた。善を施そうと努めれば努めるほど、彼らは憎まれた。そして、このことによって彼らの愛は峻厳な試験にさらされることとなった。

 あなたも、なぜ私たちの《救い主》がこの特定の形において1つの警告を私たちにお与えになったか見てとれるだろうと思う。

 不法は、当然、恵みに反抗するものだが、それは何にもまして愛という恵みにとって有害である。もし罪が教会内に満ちあふれるとしたら、多くの人々の愛が冷たくなるのも、ほとんど不思議はない。教会の中に加入した若い会員たちは、しばらくすると、自分たちが模範として仰いでいた人々が無秩序に歩んでいること、また、軽薄な口のきき方やふるまいをしていることに気づく。こうした青年たちが、熱い愛をいだいていることはできない。彼らはつまずき、愛想を尽かす。長年の間、誠実な生き方を保ってきた、また、恵みによって自分たちの衣がこの世に汚されないようにしてきた古手の聖徒たちは、自分たちの教会に加入してきた人々が全く異なる人種のように思われること、ベリアルの杯と主の杯を合わせ飲むことができること、キリストと悪魔の双方に従うことができることに気づく。この悪を見るとき、こうした敬虔な人々は、聖なる憤慨をもって自分たちの衣を引き寄せ、ずっと清浄だった時代の愛を感ずることを困難に思う。

 おゝ、愛する方々。もし罪の霜が教会内を支配しているとしたら、かよわい花々はみな傷つけられ、何も生き生きと成長しない! 愛は繊細な植物であり、もしそれが罪の指に触れられると、それ結果ははっきり現われる。《愛のパラダイス》にある百合の花は、不浄な煙や埃の中では開花しない。

 信仰を告白する教会内においてさえ不法がはびこっているため、多くの人々の愛は今日冷たくなっている。このことについて、いかなる説教を語れることか!――だが私はそうした類のことを一切すまい。私は他の人々の悪を嘆き悲しむよりは、私自身のうちにある種々の悪を警戒したいと思う。私はあなたがたに、教会内にあるそむきの罪を発見させるよりは、自分の心の中にある悪を警戒させたいと切に願う。というのも、請け合っても良いが、もしあなたが自分の心の中で少しでも罪にほしいままにふるまわせると、あなたの愛は冷たくなるからである。あなたは、キリストに対する愛のうちを歩んでいながら、罪を愛する生き方をすることはできない。もしあなたがきょう、聖くない気質にふけっているとしたら、また、もし貪欲に屈しているとしたら、また、もし何らかのしかたで主にそむく罪を犯しているとしたら、あなたは、昨日キリストに対して感じた愛の暖かさを感じることはないであろう。あなたのいのちは、その美しさとその甘やかさのあらかたを失ってしまっているであろう。神に向かって、それを返してくださいと叫ぶがいい。それが完全に回復させられるまで、満足してはならない。

 II. そこで、《この悪の深刻な性格》について考察しよう。

 「多くの人たちの愛は冷たくなります」。ある人の心の中の愛が冷たくなるということは、非常にすさまじいことである。キリスト者の愛がいかなる方面に関わり合っているか注目してみるがいい。そうすれば、この罪を多様な面から見てとるであろう。

 私たちの愛は、まず、偉大な御父に対する愛である。地上ができる前から私たちを愛してくださった御父、私たちを再び生まれさせ、ご自分の家族に受け入れてくださった御父に対する愛である。もしこのお方に対する私たちの愛が冷たくなるとしたら、それはいかなる損害をもたらさざるをえないことか! ある家庭の中における父親に対する冷たさ、――あなたは、そうしたしかたで苦しめられている家族をどこかに知っているだろうか? 私はそうした家庭の一員であったとしたら、非常にみじめであろう。父親に対する愛の冷たさ? 何と、その家庭はほとんど家族とは云えない! それは、それを1つにまとめあげ、家族として成り立たせている絆を失っているのである。願わくは、いとも良き主が私たちをこの、あらゆる聖なる一致の破滅から救ってくださるように!

 次に、私たちの愛は、「私たちを愛し、私たちのためにご自身をお捨てになった」*[ガラ2:20]イエス・キリストに対する愛である。もしイエスに対する愛が冷たくなるとしたら、その結果は嘆かわしいものとなるであろう。あなたのうちにある何らかの霊的恵みのうち、キリストに対するあなたの愛が衰えつつあるときに、健全な状態でありえるようなものが何かあるだろうか? あなたの心があなたの主に対してよこしまな状態にあるとしたら、あなたがいずれかの点で正しいことがあるだろうか? イエスに対する愛が冷えているとき、何かを熱心に行なえるだろうか? あなたは正しく歌えるだろうか? 正しく祈れるだろうか? 正しく生きられるだろうか? 《葡萄の木》から切断されているとしたら、何らかの実を結べるなどと夢見ないようにするがいい。私たちが心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くしてイエスを愛することは死活に関わる重要なことである。

 キリスト者の愛は、真理をもいだく。神とその天来の御子を愛する人々は、神が自分たちにゆだねてくださった真理を愛する。《教会》は、福音の管財人である。「真理の柱また土台」[Iテモ3:15]である。だが、人々が真理をもてあそび始め、どんな教えも取り立てて他の教えとは変わらず良いものだとか、何事も特に重要なものではないとか考え出すときには、悪が入り込まざるをえない。以前の時代に、私たちの先祖たちは、ある教理のために監獄に行くこと、あるいは、証しのために焼き殺されることなど小さなこととみなした。あのオランダで溺死させられた人々を、あるいは、梯子に縛りつけられて死ぬまで炙られた人々を見るがいい。それはただ彼らが、信仰者だけがバプテスマを授けられるべきだと確信していたためだけであったのである。今日の人々は、バプテスマに関する聖書的な見解をごく取るに足らないことと考えている。私は問いたい。わが国の現代の《広教会派の国教徒たち》は、果たして、人がその小指の第一関節をも失うに値するほどの教理が何かあると考えているかどうかを。1つの真理のために火刑に遭うことなど、こうした自由主義的な神学者たちにとっては、途方もなく馬鹿げたことに違いない。さて、事がここに及んでは、私たちは種々の異端が、またありとあらゆる種類の過誤が奔流のようにわが国の町通りを流れていることに驚くことがあるだろうか? 教会が真理を軽くあしらうことができるとき、その教会に何の値打ちがあるだろうか?

 私たちの愛はまた、私たちの同信のキリスト者たちに対する愛でもある。これは死活に関わる原則である。「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです」[Iヨハ3:14]。しかし、諸教会の会員たちが互いに対して何の愛もいだいていないとき、また、ある信仰告白者が自分の兄弟たちに何が起ころうと全く頓着しないというとき、その教会には、少しでもキリスト教が残っているだろうか? 否。それは、生きているとされているが、実は死んでいるのである[黙3:1]。キリスト教は、心が冷たくなっているときには、なくなっているのである。そのいのちは、それ自体が互いに対する情愛なのである。

 それからさらに、私たちは不敬虔な者や未回心の者を愛するべきである。愛によってこそ、私たちは彼らをキリストのものとしてかちとるべきである。しかし、もし教会が、死に行く人の子らに対して何の愛も有していないとしたら、その教会に何の値打ちがあるだろうか? その宣教的な働きはどこでなされるだろうか? その伝道牧会が何の役に立つだろうか? 子どもたちに対する愛を持たずに行なわれる教会の《日曜学校》について、考えてみるがいい。魂に対する何の愛も持たない人々、彼らが失われようが救われようがどうでもいいという人々が、それをかちとろうとするふりをしていることについて考えて見るがいい。教会は、滅び行く人々に対する熱烈なその愛を失うこと以上に深甚な損失をこうむることがありえるだろうか? だがしかし、もし不法がはびこるとしたら、それが私たちが冒す大きな危険となるであろう。同情心に満ちた愛によって、人の種々の悲惨の面倒を見ることはなくなるであろう。

 愛する方々。私たちが最も愛するときでさえ、主に対する私たちの愛はいかに小さなものであろうか。天にある王の特権を捨てて、恥辱と悲しみという私たちの性質を取られたお方に対してふさわしい愛にくらべれば、それは何とちっぽけなことか! もし私たちが熾天使的な炎で夜も昼も輝き、メトシェラほど長い人生を通じてそうしていたとしたも、私たちの愛でキリストの愛に報いることはできないであろう。もしその愛が、いかに小さなものであれ、さらに冷たくなるとしたら、それは一体いかなるしろものになり果てることであろう? おゝ、《愛するお方》を永久とこしえに仰ぎ見るべき両眼よ。もしお前がいまそのお方のうちに美しさを見ることを やめるとしたら、何がお前をめくらにしたのか? おゝ、かつて十字架につけられた《統治者》の御前で永遠に燃え輝くべき心よ。もしお前がこの方の愛を最も必要とするとき、また、この方から最も多くのものを受け取りつつあるときに、冷ややかになるとしたら、お前のどこが悪くなったのか? 私は、私たちがイエスを僅かしか愛さないなどということに耐えられない。それは私には、ぞっとするほど恐ろしく思われる。イエスのために心をことごとく燃え立たせないということは、呪うべきである! キリストのことは、きわみまで愛そうではないか。より大きな心を私たちに与えてくださるよう、主に求めようではないか。そして、その心を主ご自身のうちにあるのと同じもので燃やしてくださるように願おうではないか。私たちが、情愛に可能な限り、主を愛し尽くすことができるようにするためである。

 あゝ! 愛する方々。さらに考えるがいい。かりに私たちの愛が冷たくなるとしたら、それが全体系をいかに麻痺させるか見てとれないだろうか? もし貯水池が空になったら、水道管から大した水量が出てくることは期待できない。もし心が冷たくなるとしたら、何もかもが冷たくなされるであろう。愛が衰えるとき、いかに冷たい説教を私たちは聞かされることか! すべてが熱のない月光となる。大理石のように磨き立てられ、冷ややかになる。何と冷たい歌声を聞かされることであろう。――管や息で鳴らされる瀟洒な音楽はあるが、おゝ、いかに僅かしか魂の歌がないことか!――聖霊による歌、神に対する旋律を心で奏でるものがいかに僅かしかないことか! そして、いかに貧しい祈りであろう! それを祈りと呼べるだろうか? 何と乏しい献金であろう! 熱いものが冷たくなるとき、その手は財布の中に何も見つけられない。そしてキリストの《教会》は、また、キリストの貧者たちは、また、異教徒たちは滅びて行くであろう。というのも、私たちには自分自身のために金銭を貯め込み、金持ちにならなくてはならないからである。愛が冷たくなるとき、しかるべきしかたでなされ続けるものが何かあるだろうか? 私は、今まで自分がしてきたように、また、私の魂がその奥底の深みまで主に対する情愛でかき立てられたときに行なってきたことを、一生涯、行なって行きたいと思う。私は常に、あたかも私がこの方を見たかのように、また私の指をその釘跡に射し込んだことがあるかのように行動したい。私は、あたかも自分がマリヤとともに主の御足元に座ったことがあるかのように生きたい。左様。今もそこに座っているかのようにして生きたい。私は、あたかもヨハネと同じところから主の御胸にもたせかけていた自分の頭を持ち上げたばかりであるかのようにして、主のために語りたい。主のために働きたい。主のためにささげたい。

 III. 第三に、この害悪の蔓延の《厳粛な危険》である。

 私はこの聖句を正確に翻訳してものを読み上げたいと思う。「不法がはびこるので、大多数の人たちの愛は冷たくなります」。これは、「多くの人たちの愛」というよりも悲しくさせる表現である。それは「大多数の人たちの愛」である。すなわち、《教会》の大部分の人々――その大半の人々――の愛である。これは、すさまじい事態を示唆している。なぜなら、大多数の人たちが冷たくなるときも、彼らは互いに落ち着き払っているからである。ひとりの冷たい兄弟が別の兄弟に云う。「あなたは、いま体温何度ですか」。「氷点下のはるかに下だと思います」。「私もそうです」、と最初の人が云う。「では、私たちはおおむね正常ですな」。もしも大多数が暖かくしているとしたら、冷たい者たちは溶かされるであろう。だが、もし彼らがみな氷点下にあるとしたら、彼らはみじめな固体へと凍りついてしまう。それは、あなたが知る限りにおいて、最も冷静で体裁の整った教会である。彼らにはいかなるいさかいもなく、すべてが非常に快適であり、整然としている。悲しいかな! 彼らは一緒に凍っており、彼らの平安は死の平安なのである。その多くの人々の愛は冷たくなってしまっており、彼らは自分たちの物静かさについて互いに賞賛し合ってやむことがない。

 彼らには、彼らを叱責する者が誰もいない。もし大多数が冷たくなっているとしたら、彼らの間にいる少数の人々は、権威をもって叱責することができる代わりに、逆に叱り飛ばされるであろう。「あれは、とんでもなく狂信的な青二才だ! あの熱狂者ときたら、誰をもそっとしておかないのだ!」 「そのうちに成長して目も覚めるさ」、とある人は云うであろう。「私のような年齢になれば、私と同じくらい分別を身につけるだろうよ」。向こうにいる善良な婦人は、魂の回心について非常な熱望を有しており、一騒動を起こしつつある。ひとりの評判の良い貴婦人が、あの人はあまりに前のめりすぎますわ、と云い放つか、頭がおかしくなっていらっしゃいますわね、と云う。活動的な人々は、大多数の人々の愛が冷やされるとき、やや厄介者とみなされる。少数派は辛い目に遭う。そして、もしもあえて叱責しようとすると、すぐに彼らは抹殺される。これが、その悪を確証する。

 そしてそのとき、この冷たさは、いやまさってその度合を増す傾向にある。彼らは凍りつき続ける。人々がいかに冷たくなりうるかは見当もつかない。私は冷たさのあまり火傷したことがある。あなたもそうした経験があると思う。私は、霊的な温度が貯氷庫並みという場所で説教したことがあるが、いかに熱心に説教しようと、何事も起こりようはなかった。というのも、私の言葉は氷の塊の上に落ちていったからである。諸教会は冷たさの度をさらにさらに増して行き、ついには最後に、氷山をもしかるべき時に割り砕く偉大な神が教会を跡形もなく破壊することになる。

 IV. 多くの教会を深刻に脅かしているこの危険を前にするとき、《私たちの側には深刻な行動が求められている》。その深刻な行動とは何だろうか?

 何と、それはまず最初に、次のことを思い起こすことである。すなわち、もし多くの人々の愛が冷たくなるとしたら、そのとき、私たちの愛も冷たくなりかねない。私たちは何様なので、他の人々が危険にある所で自分たちは安全だなどと考えるべきだろうか? もし私たち同様に善良な他の人々が次第に冷めていくとしたら、私たちもそうならないだろうか? 油断せず、注意していよう。そして、より多くの恵みを求めて神のもとに行こうではないか。

 次に注意したいのは、もし多くの人々の愛が冷たくなるとしたら、私たちがそれについて苦情を云っても大した役に立たず、むしろ、少数の者が寄り集まって、祈らなくてはならない、ということである。教会の真の活力が多数派のうちに存していることはめったになく、通常は少数派のうちに存しているものである。選ばれた者の内側には、もう1つの選ばれた者がいる。あなたは覚えているだろうか? キリストの弟子たちの中には十二弟子がおり、十二弟子の中には三人の側近がおり、その三人の中のひとりが愛されていたことを。そのように、選ばれた者にも、外輪の中にいくつかの内輪があるのである。名目上の教会――(私たちは、彼ら全員が神の民であるかそうでないかは云えない)――の内側では、多くの人々が冷たくなるかもしれない。だが、そこには、いのちと愛のうちにとどまる残りの民がいるはずである。願わくは、私たちがそこに属していられるように! 私たちは、即座にもっと暖かくならなくてはならない。よりキリストの近くで生きなくてはならない。もっと熱狂主義的になくてはならない。おゝ、一団のえり抜きの霊たちがいればどんなに良いことか!――キリストとともに白い衣を着て歩む、それにふさわしい者たちがいればどんなに良いことか! 御霊は云われた。「サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる」[黙3:4]。そのように、いかなる教会にも、怠惰や異端に流れることのない数人の人々はいる。そうした人々は寄り集まって、互いに助け合うがいい。私は、こうした、主がご自分のそば近くにとどめておられる人々について神に感謝する。願わくは彼らの数が日ごとに増し加わるように! 願わくは私たちの中のひとりひとりが御霊に満たされるように! 教役者たちが次々と昔ながらの福音を放棄しつつあるという話を聞くとき、私が自分に何と云い聞かせているか、あなたに分かるだろうか? 私は、この福音をより固く堅持しようと決意するのである。もしも多くの人々がカルヴァン主義的な教理に耐えられないとしたら、私は以前にましてカルヴァン主義的になるであろう。より多くの人々が真理を好まないとしたら、それは、より多く示されなくてはならない。このことを私たちの活動方針としよう。もし人々がより世俗的になるとしたら、私たちはより清教徒的になるであろう。もし信仰を告白するキリスト者たちがキリストの霊を現わさないとしたら、私たちは、私たちの主に、その霊の七つの分を与えてくださるように願うであろう。私たちが真理を保てるようにするためである。かりに、あの攻囲戦の間パリに起こったような飢饉がロンドンに起こることが予想されたとしよう。それを予想できた者は誰しも、百倍もの食料を蓄えておこうとするであろう。しっかり者の主婦ならみな、自分の手に入る限りの一円一銭を残らず費やして、自分の食品庫を食料で満たすであろう。やがて霊的な飢饉が起ころうとしている。それゆえ、真理を買うがいい。それを売り渡してはならない。あなたの主のもとに行き、より大きな食料を供給していただくがいい。互いの所に行ってはならない。それは、「油を少し私たちに分けてください」[マタ25:8]、と云うようなものとなろう。そして、あなたの仲間は賢明にもこう答えるであろう。「いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません」[マタ25:9]。あなたの《主人》のもとへ行き、あなたの内側にある火をあおぎ立てて、より大きな熱を揺するものとしてくださるよう願うがいい。それは、たとい至る所に冷たさが行きわたろうとも、あなたの胸の裡には暖かさがあるようにするためである。主があなたを助けてそうさせてくださるように。愛する方々。イエス・キリストのゆえに! アーメン。

 

預言的な警告[了]

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