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教役者たちおよび試練に遭っている他の信仰者たちへの説教

NO. 3273

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1911年10月26日、木曜日発行の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1881年夏


「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」。――Iペテ5:7


 この不景気の時期は、多くの家庭や心に思い煩いをもたらしつつある。特に、村々の牧師やその群れに対してそうである。彼らの困難は重く、残念ながら、彼らの心労は軽くないのではないかと思う。こうした厳しい時代に切迫されずにいる人は、ほとんどいない。いかに裕福な者も、この落潮を見つめて、問わざるをえない。――いつまでこうしたことが続くのだろうか、と。本日の主題は、私たち全員にとって時宜にかなったものとなるであろう。

 いかなる説教にとっても、非常に良い前置きとなるのは、前後関係である。私たちが前にしている箇所を眺めてみよう。直前の節にはこうある。「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです」。もし私たちが真にへりくだっているなら、私たちは自分の思い煩いを神に投げかけ、そうすることによって、大きな喜びを得るはずである。私たちは神の御手に服従することに遅く、それでしばしば私たちの思い煩いは、天におられる御父のみこころに対する腹立ちまぎれの反逆となる。私たちは自分勝手にふるまおうと決意しており、それで、われとわが指を切るのである。私はほんの昨日、ある荷車を見たが、そこには持ち主の商人の号が「よろず屋」と記されていた。私たちは、そうした務めを希望しないだろうか? 世には《よろずを給う》お方がおられ、そのお方の手の下でへりくだるならば、私たちは自分たちの問題をその御手にゆだねるはずである。おゝ、私たちに、今以上の謙遜さがあればどんなに良いことか。そのとき私たちは、今以上の静穏さを得るからである。高慢は心配を生み、真の謙遜は忍耐を生み出す。本日の聖句の後に続く節はこうである。――「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」。あなたの思い煩いを神にゆだねるがいい。なぜなら、あなたがこの大敵と戦うためには、あなたの思考力のすべてを必要とするからである。彼はあなたを思い煩いで食い尽くしたいと願っている。あなたの思い煩いの一切を神にゆだねるがいい。不安になると、身を慎むことも、目を覚ましていることもできない。サタンは、肉的な思い煩いの上に乗って、魂に入り込むのである。

 もし彼が、物質的な思い煩いによって私たちの思いを信仰の平安からそらすことができれば、彼は私たちの上手に立つことになる。

 この前置きは、より詳しく語ることもできたが、私は時間を厳しく切り詰めてそれを圧縮した。同じように私の講話全体をも厳格に濃縮しなくてはならない。私たちは第一にこの聖句を説き明かし、次にそれを補強するであろう。

 I. 第一に、《この聖句を説き明かす》ことにしたい。「あなたがたの心配を、いっさい神に投げかけなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」<英欽定訳>。

 注目すべきことに、ギリシヤ語ではこの2つの「心配」という言葉が異なっている。それで改訂訳にはこう記されている。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神に投げかけなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」。あなたが神にゆだねるべき心配は、あなたを消耗させつつある。そして、あなたがそれを神にゆだねるべき理由は、全く別の意味で「神があなたがたのことを心配してくださる」からである。神に言及するために用いられている言葉は、貧者の面倒を見ることに当てはめられており、別の箇所では、羊飼いの用心深さに当てはめられている。私たちの思い煩いと、神の心配は2つの全く別物である。神の心配は、優しく、余す所のないものではあるが、神の思いを一切煩わせるものではない。というのも、神の偉大なみ思いはそのことを十分に克服できるからである。だが、私たちの心配は私たちの内側でたぎり立ち、私たちの狭苦しい魂を破滅させかねないように思われる。あなたは自分の心配――これは、愚かなことである――を主にゆだねるべきである。というのも、主は賢さに裏打ちされた心配を働かせてくださるからである。私たちにとって心配は疲弊させられることだが、神はすべてを満ち足らわせるお方であられる。私たちが心配することは罪深いが、私たちに関する神の心配は聖い。心配は私たちを奉仕から引き離すが、天来のみ思いは、あることを覚えておきながら、別のことを忘れるということはない。

 私たちが自分の心配を神にゆだねるべきだという場合、1つの区別を設けるべきである。というのも、ある心配については、決して神にゆだねることなどできないからである。そうしようとするのは冒涜であろう。金持ちになりたがる思い煩い、それを私たちは神に告げることができるだろうか? 有名になりたがる思い煩い、贅沢に暮らし、侮辱に復讐し、人に威張りたがる思い煩い、私はそのような思い煩いを私に代わって《いと高き方》に負ってもらうよう頼めるだろうか? もしあなたがたの中の誰かがそのような心配に悩んでいるとしたら、私はそれをかなぐり捨てるように命じる。というのも、それはヘラクレスの毒塗り上衣のようなもので、それを破り捨てない限り、あなたの魂そのものに焼きついてしまうであろう。貪欲や、怒り、高慢、野心、わがままといった一切の心配は四方に投げ散らさなくてはならない。そうした心配を神にゆだねようなどと夢見るのは犯罪であろう。そうした事がらから救い出してくださるよう願う以外に、それらについて祈ってはならない。あなたの種々の願望は、1つの狭い輪の内側にとどめておくがいい。そうすれば、あなたの思い煩いは一挙に減るはずである。

 「投げかけなさい」、と使徒は云っている <英欽定訳>。彼は、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神の上に置いておきなさい」、とは云っていない。むしろ、はるかに精力的な言葉を用いている。あなたはその荷物を主に投げかけなくてはならない。この行為には努力が必要とされる。私たちの思い煩いの一切を私たちの主に投げかけることは決して子どもの遊びではない。六人の小さな子どもをかかえ、靴という靴がすり切れ、米櫃は空っぽ、財布はぺしゃんこ、なけなしの給料を職工長が削減する話をしている時にはそうである。ここには、信仰にふさわしい働きがある。あなたは自分の魂のすべてをもって持ち上げない限り、その重荷を取り払い、その思い煩いを主に投げかけることはできないであろう。しかしながら、そうした努力の倍増し以上に疲弊させられるのは、あなたの荷物をあなた自身でかかえて行くことである。おゝ、決して来もしない助けを待ち受け、まるで空しいものでしかない人間的な助けにより頼むことの何という重荷であろう。おゝ、心を砕き散らすような思い煩いをかかえながら、それでも立って説教しなくてはならないことの何と大儀なことか! 私たちはみな、両肩に世界を担っているアトラス像を持っている。だが、彼がその姿勢のまま説教することなど、ほとんど思い描くことができない。1つの途方もない努力を行ない、それを成し遂げることの方が、永久に続く重荷の下で呻いているよりもましであろう。もしその狐が私たちの五臓に食い入っているとしたら、それを私たちの胸から掴み出して、すぐさま殺そうではないか。

 次に注意したいのは、「神に」という言葉である。むろん、自分の悲嘆を他の人々に告げてその同情を得ることは構わない。私たちは、互いの重荷を負い合うよう命じられているからである[ガラ6:2]。あなたが友人たちの助けを求めて、あなたの謙遜さを発揮することに問題があるわけではない。だが、人に願い事をすることは、神に仕えることの二の次とするがいい。一部の人々は、非常な懇願によって、同信のキリスト者たちから、人間的な助けの占めるべき部分を十二分に獲得してきた。だが、それよりも高貴なのは、あなたの願い事を神に知っていただく[ピリ4:6]ことである。そして、神にだけ願い事をする人々は、なぜか他の人々が欠乏する所でも、不思議なしかたで支えられるのである。それは何と快い物語であろう。私たちは、主のいつくしみ深さを詳しく述べることができ、いかに「この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた」[詩34:6]かを告げることができる。私の目には、静かで忍耐強い信仰者たちの姿が留まってきた。自分の十字架をじっと黙ってかかえながら、独立独歩で主に仕えている人々である。いかに彼らが自分たちの試練を耐え忍んできたか私には分からない。云えるのはただ、「彼らは目に見えない方を見るようにして、忍び通した」*[ヘブ11:27]ということだけである。だが、彼らの緊急の要は知られ、漏れ出て、いかにしてか彼らには分からなかったが、彼らは助けられた。それも、彼らが、人に向かって訴えかけていた場合に予想されたよりも、ずっと良い形で助けられた。私は、同信の信仰者たちへのいかなる訴えをも罪に定めてはいない。多くの人々は喜んで助けようとしており、必要が何かを知らないままではそうすることができない。だが、いかなる人をも、大いなる神のお働きと御座の所に着けてはならない。神だけが、ご自分の民の《世話をしてくださるお方》であり《重荷を負ってくださるお方》であられる。残念ながら、時として、神の御国の進展のために非常なことを行なっている偉大な人から、あるいは、会堂に五、六席も座席を有している素晴らしい貴婦人から疎んじられたくないばかりに、私たちは主を悲しませ、私たちの真の《助け手》を失ってしまいかねないのではないかと思う。ならば、人頼りをやめ、あなたの思い煩いを一切神にゆだねるがいい。神だけにゆだねるがいい。

 いくつかの行動方針は、あなたの思い煩いを一切神にゆだねることとは全く正反対であり、その1つは無頓着である。ストア主義にいかなる美徳があろうと、それは神の真の子どもとは無縁である。「私は構わない」は、無神論者にとっては適切な表現かもしれないが、キリスト者にはふさわしくない。それは格好良く聞こえるかもしれず、この傲然とした言葉を口にする人は自分のことを何か偉人のように思っているかもしれないが、だが、それらすべてにもかかわらず、それは悪しき話しぶりである。残念ながら、一部の兄弟たちの「構わない」は非常に罪深いものではないかと思う。というのも、彼らは借金を作っては、構わない。自分たちの約束や誓約を破っては、構わない。兄弟たち。こうした人たちは構うべきである。あらゆる人は自分の生活上の種々の義務について構わなくてはならない。自分の家族の要求について構わなくてはならない。自分自身の家庭を構わないあらゆる人は、異教徒よりも悪い[Iテモ5:8]。神に思い煩いをゆだねることは、無謀なことや無分別なこととはまるで正反対である。

 思い煩いを神にゆだねるとは、重荷から解放されるために「間違ったこと」を行なうことではない。だが、これはあまりにもしばしば試みられることである。圧力の下にあって、一部の人々は非常に弁解できないことを行なう。私たちは、他人を断罪することに遅くあるべきである。私たち自身もこの先、同じようなしかたで誘惑され、同じように過ちを犯すかもしれない。それでも、信仰はあらゆる戦闘に勝つことができるはずである。金銭上の損失を避けるために真理を妥協させる人は、壊れた水ためを自分たちのために掘っている[エレ2:13]のである。自分が返せないと分かっている時に借金をする人、また、自分の収入を増やすために無謀な投機を行なう人、また、一銭でも儲けるために少しでも不敬虔なことを行なう人は、自分の思い煩いを神にゆだねているのではない。不従順な1つの行為は、神の助けを拒絶すること、私たちが自分で自分を助けられるということである。だが、いかなる危険を冒しても正しいことを行なう人は、自分の思い煩いを主にゆだねている。行為は私たちのものだが、その結果は神のものである。私たちは神を喜ばせることに心を煩わせるべきであって、その他の思い煩いは安心して一切神にゆだねて良い。

 ならば、いかにして私たちは自分の思い煩いを神にゆだねるべきだろうか? 2つのことがなされる必要がある。神に投げかけるべきなのは重荷であり、その移し替えを行なうには祈りの手と信仰の手が求められる。祈りは神に、それがいかなる思い煩いであるかを告げて、助けを神に乞い求め、一方の信仰は、神がそのことを行なうことができるし、行なってくださるはずだと信ずる。祈りは困難と悲嘆の手紙を主の前で広げ、その家計のすべてを打ち明ける。それから信仰はこう叫ぶ。「私は、神が心配してくださることを、また、私のことを心配してくださることを信じます。神が私を私の苦悩から引き出してくださること、また、ご自身の栄光を押し進めるためにそうしてくださることを信じます」、と。

 このようにあなたが自分の思い煩いをその真の立場に持ち上げ、それを神に投げかけたときには、それをもう一度つまみ上げないように用心するがいい。何度となく私は神のもとに行き、信仰による祈りによって自分の思い煩いを取り除いたことがある。だが、告白するも恥ずかしいことながら、少しすると、私は自分が捨てたと思った当の心配事を自分が再び背負い込んでいることに気づくのだった。いったん割り砕かれた枷に私たちの足を突っ込むのは賢いことだろうか? 私の兄弟たち。さらにすぐれた道がある。私が試して実証済みの道である。私は時として種々の困難のため困惑してきた。それらについて最善を尽くしたが、完全に失敗した。そこで、自分の困惑をかかえて神の御座のもとに行き、主の御手に問題全体を置いて、厳粛に決意した。前記の件については、何が起ころうと、もはや二度と自分を悩ませまい、と。私は、その件においては、それ以上の行為を全く何も行なえなかった。それで私はその問題全体とは全く関係を切り、それを神にお任せした。そうした思い煩いの一部を私は二度と見なかった。それらは、朝日の中の白霜のように溶け去り、それらに代わって私は祝福が地面の上に横たわっているのを見いだした。他の困難は事実としては残っていたが、実質的にはなくなった。というのも、私はそのくびきに同意しており、それは二度と私の肩を擦りむかなかったからである。兄弟たち。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせ[マタ8:22]、私たちはイエスについて行こう。これからは、現世の心配事についてはこの世の子らにやきもきさせ、苛々させるにまかせよう。私たちについて云えば、天国で生活しよう。そして、無頓着な生き方を避けるように頓着しよう。子どものように神に信頼することによって、種々の心配事を終わらせることだけを心配しよう。

 II. これが、受け入れていただきたい小さな解き明かしの言葉である。そこで今、《この聖句を補強する》ことに進みたい。私はあなたにいくつかの理由を挙げて、それから、なぜあなたが思い煩いを一切神にゆだねるべきであるかを示そうと思う。

 最初に、永遠にほむべき《お方》があなたにそうすることを命じておられる。私たちにそれ以外の理由は必要ない。この戒めは、あの福音の命令に似ている。「主イエス・キリストを信じなさい」[使16:31 <英欽定訳>]。これは、ほむべき特権であり、かつ、1つの命令でもある。私たちに偶像礼拝をやめるように命じるお方は、思い煩いもやめるよう命じておられる。安息日を守れという律法の方が、主にあって安らげという律法よりも神聖であるわけではない。私たちが《主人》とも主とも呼んでいるお方は、思い煩う考え方をしないよう私たちに命じておられる。その命令には律法のあらゆる権威が伴っている。思い煩っている兄弟。自分に向かってこう云うがいい。「私は、私の重荷を主の上に振り落としていいのだ。主が私にそうするよう命じておられるのだから」、と。もしあなたが神に信頼しなければ、あなたは明確に罪を犯しているのである。あなたは愛せよと命じられているのと同じくらい、信頼せよとも命じられている。

 次に、あなたが思い煩いを一切神にゆだねなくてはならないのは、そうした後でさえ考えるべきことが十分にあるからである。あなたが自分の心配を主にゆだねたならば、それゆえに主は、種々の神聖な心配をあなたに負わせるであろう。主があなたの痛く困難なくびきを割り砕いたとき、あなたは主の負いやすいくびき[マタ11:30]を負わなくてはならない。そこには、より良く主を愛し、主に仕えるための心配がある。主のみことばを理解するための心配がある。それを主の民に宣べ伝えるための心配がある。主との交わりを経験するための心配がある。聖霊を悩ませないように歩むべき心配がある。こうした神聖な心配事は、常にあなたとともにあるであろうし、あなたが恵みにおいて成長するに従って増し加わるであろう。ある意味で私たちは、こうした心配さえ神にゆだねて、聖霊の助けを待ち望んで良い。というのも、神こそ、みこころのままに私たちのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださる[ピリ2:13]お方だからである。それでも、私たちが心を配り、熱心にならない限り、神は私たちに働きを及ぼされない。それで、これは、なぜあなたが、より低い目当てや計画によって思いを氾濫させられてはならないかという1つの理由となる。あなたの霊には、守るべき別の葡萄畑があり、利益を生むため差し出すべき別の元手があり、喜ばせるべき別の《主人》がある。それで、その思いを、より卑しい目的に明け渡している余裕はないのである。教役者たちは羊飼いであり、羊のために大いに心配しなくてはならない。「雇い人は……逃げて行きます。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです」[ヨハ10:12-13]。だが、あなたには、すべての教会への心遣い[IIコリ11:28]が日々のしかかっており、肉的な心配で心をふさがれないことが特に必要なのである。

 そして次に、あなたが自分の思い煩いの一切を神にゆだねなくてはならないのは、あなたが神の仕事を行なうべきだからである。商人が、別の本業を有している人間を雇うのは危険なことである。なぜなら、遅かれ早かれ主人の仕事が割を食うか、その人の関心事が立ち消えになるからである。「兵役についていながら」、とパウロは云う。「日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです」[IIテモ2:4]。教職者が務めに出るときには、パウロがしたようにするのでない限り、すなわち、教会に負担をかけまいとする[IIテサ3:8]のでない限り、そこには確実に利害の衝突が起こる。パウロのようにするときには、二重の誉れに達する。パウロはどこに行くときも、自分の針と糸を携えていた。というのも、当時は誰もが自分の天幕を持っており、彼はいかなる時にもすぐに働き出すことができたからである。小さな家族用の天幕であれ、大きな集会用の天幕であれかまわなかった。彼は、説教を終えたときには、天幕修繕にかかり、そのようにして自分の生計を立て、自由に福音を宣べ伝えることができた。パウロは自分の説教を隠れ蓑にして商売に精を出していたのではなく、自分の手仕事を自分の牧会伝道職の荷馬としていた。それで、こう云えたのである。「この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました」[使20:34]。これは、ある教役者が自分の責任を捨てて、何か別の職業によってより多くの収入を得ることとは大違いである。私たちが他の務めに携わることは少なければ少ないほど良い。というのも、私たちの心配の一切は教会によって必要とされているからである。

 エリザベス女王は、ロンドン市中のひとりの著名な商人に、王室御用のため大陸に行くよう命じた。「ですが陛下」、と彼は云った。「手前の不在中、手前の商いは誰が面倒を見るというのです?」 女王はこう答えた。「そなたが外国へ行ってわらわの務めを引き受けてくれるなら、わらわがそなたの務めのことは引き受けましょう」。このような女王がそれを切り盛りするとしたら、彼の商売が損害をこうむることはないだろうと云わねばなるまい。それと全く同じように、主も私たちに対して云っておられる。「あなたはわたしの働きに気を遣うがいい。そうすれば、わたしがあなたと、あなたの妻子の面倒はみよう」。主はそうすると固く誓っておられる。私たちのパンは与えられ、私たちの水は確保される[イザ33:16]。あなたがたの中の多くの人々の証言は、この点で私を支持するであろう。私は代々の説教者の家系に連なる者である。そして、確かにその何人かは窮乏を耐え忍ばなくてはならなかったが、それでも、そのひとりたりとも見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見られたことはない[詩37:25]。主は私たちに心を配ってくださったし、私たちは何も不足することがなかった。

 あなたは、単にこうした理由のためにそうするべきではなく、そのようにできることが非常な特権であるがゆえにも、自分の思い煩いを神にゆだねるべきである。かりに私が何らかの訴訟沙汰に陥ったとした場合、いずれかの卓越した法務官が、私への愛ゆえに一切合切を引き受けましょうと申し出てくれたとしたら、いかに私は喜ぶことであろう! 私はもはや悩まないであろう。この件について私を煩わす者たち全員にこう云うであろう。「あなたがたは私の弁護士の所に行かなくてはなりません。私はその件について何も知らないのです」、と。同じことをあなたの狡猾な敵、悪魔に対して行なうがいい。彼は常にあなたが思い煩い、やきもきするのを見て喜ぶのである。彼に向かって云うがいい。「サタンよ。主がおまえをとがめている。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめている」[ゼカ3:2]、と。この年古りた毒蛇がその牙をへし折られる、これは何というやすりであろう! 選ばれている! 《選ばれている!》 そして、もし選ばれているとしたら、私たちは思い煩っていて良いだろうか?

 もう一言、云わせてほしい。あなたがた、教役者たちが、自分の思い煩いを一切神にゆだねるべきなのは、それがあなたの話を聞いている人々にとって非常に良い模範となるからである。私たちの信徒たちは、私たちのふるまいから多くを学ぶ。そして、もし私たちが苛立っているのを見るとしたら、確実に彼らも同じようにするであろう。あなたは信仰を説教しているではないだろうか。では、あなたが不信仰の罪に問われることになるとしたら、いかに悲しいことであろう! もし私たちが思い煩うとしたら、私たち自身の言葉が私たちを罪に定めるであろう。かつて私が度を越して抑鬱していたとき、私の立派な妻がこう云ったことがある。「ここにある一冊の本を、あなたに読んでさしあげたいですわ」。妻がそれを読み聞かせてくれたことによって、私は励ましを受けた。だが、私はその一言一言によって叱責されるのを感じた。私は、彼女がこう云ったとき、半ばそれを予想していた。「これは、あなたのご本ですのよ。思い出しまして」。彼女は、医者にその医者本人の薬を与えていたのである。私の兄弟たち。あなたの語ってきたいかに多くのことが、もしあなたが神に信頼していないとしたら、あなたを罪に定めることか! 結局のところ、それは単に口先だけだったのだろうか? あなたはそれを語ったとき本気だったのだろうか? それは今も真実なのだろうか? それとも、あなたは単に自分が個人的には信用してもいない、建前上の教義を復唱しているだけだったのだろうか? 神の摂理は神話なのだろうか、それとも、生きた、輝かしい現実なのだろうか? 「ここにござる妙薬は」、とひとりのにせ医者が市場で云った。「咳、風邪、肺の病をきれいに直すでありましょう[この時、この男はひどく咳き込んだ]。その効き目と云えば、ほとんど死人をも生き返らせるほどであります[ここで彼は再び咳き込んだ]。病人のままでいる必要は誰もありませんぞ。――この丸薬を一箱買いさえすればよろしい」[ここで、このやぶ医者は、自分自身の咳で口がきけなくなった]。あゝ! 笑うがいい、笑うがいい。兄弟たち。ただ、あなたが信仰を称揚する一方で疑っている際には、誰もあなたを笑わないことだけには気づくがいい。私たちは、神を信ずる信仰が癒しの薬であることを自ら示さなくてはならない。さもなければ、人々は私たちを信じないであろう。キリストご自身を詐欺師のように見せかけたくなければ、私たちがキリストによって癒されていることを実際的に証明しなくてはならない。あなたの信徒たちに、キリストを信じることによって何が起こるかをあなたのあり方によって見せてやるがいい。キリストを信頼し、自分の思い煩いを一切主にゆだねた者たちには、いかなる朗らかさ、いかなる希望の明るさ、いかなる霊の軽やかさがやって来るかを見せてやるがいい。

 しかし、理由の中の理由は、この聖句に含まれている。「神があなたがたのことを心配してくださるからです」。結局において、私たちを心配することなど、神にとっていかに小さなことに違いないことか。神は宇宙の兵站部に糧食を供給し、千の丘の家畜らや野に群がるもの[詩50:10-11]を養っておられる。かの鳥たちの大群、かの昆虫たちの膨大な群れよ! これらすべてに気を配っている神は、いかなる神でなくてはならないことか! そうしたすべての物らの要求にくらべれば、私たちの小さな必需品などたちどころに供給されるであろう。私たちに必要なものはごく僅かであり、その僅かは、私たちの神、主の食卓から落ちるほんのパンくず[マタ15:27]でしかない。確かに、もし神が、「わたしがあなたがたのことを心配しよう」、と仰せになっているとしたら、私たちが考える必要のあることは、ただこう歌うことでしかない。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません」[詩23:1]。これほど小さな事がらに、ふたりもかかずらう必要はない。そして確かに、そのふたりのうちの一方が、知恵と力において無限のお方であられる場合にはそうである。たとい私たちが賢者であっても、主は私たちの助けを必要とされないであろう。主は地を作り上げ、山々を積み上げ、大空を張り延ばされたとき[ヨブ37:18]、誰と相談して悟りを得られたのか。誰が主に教えたのか[イザ40:14]。それゆえ、私たちは立って動かずにいて、主の救いを見ようではないか[II歴20:17]。主は私たちのことを考え、私たちのために計画し、私たちのために手筈を整え、私たちのために苦心して物事を正しくしてくださる。――これらは、主の心配を説明する乏しい言葉である。というのも、主はそれ以上のことを行なっておられるからである。主は私たちを愛しておられる。あの偉大で、無窮の、強大な心が私たちを愛しているのである。これは天国の歌にふさわしい事がらにほかならない! 神がその愛を私たちの上にかけておられるがゆえに、私たちは確かに私たちの思い煩いを神にゆだねることができる。神は私たちにキリストをお与えになった。では、私たちに糧をお与えにならないだろうか? 見るがいい。神は私たちを召して、ご自分の子どもたちとしてくださった。では神は、子らを飢えさせるだろうか? 神が私たちのために天国に何を備えておられるか見るがいい。では神は、この現世の種々の重荷を私たちが耐えられるようにしてくださるではないだろうか? 私たちは神の優しさ、気前の良さを疑うとき、神の栄誉を汚しているのである。私たちは神のみことばにより頼む平静な信仰によって、神をほめたたえることがひたすらできるのである。

 さあ、愛する兄弟たち。これが《主人》からあなたがたに与えられた私の言葉である。私はこの小さな黄金の一粒を十分に打ち延ばせれば良かったと思う。それによってあなたが、あなたの生活に金箔を着せることができるためである。だがそのことは、あなたがた自身で行なっていただきたい。さて、あなたがたの思い煩いを持ち去るか、頭を垂れて静かに祈り、それらを一切投げ捨ててもらえるだろうか? 聖霊よ。慰め主よ。私たちの心を軽くし給え。私たちは切に願いたてまつる!

 

教役者たちおよび試練に遭っている他の信仰者たちへの説教[了]

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