HOME | TOP | 目次

救い主の沈黙

NO. 3268

----

----

1911年9月21日、木曜日発行の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1864年10月9日、主日夜


「しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった」。――マタ15:23


 医者の日誌が読めたとしたら、さぞや興趣が尽きないに違いないと思う人は多いであろう。一年の間に、いかに種々雑多な症例が、医師の診断を仰ぐことにならざるをえないことか! そして、その中の何例かは、実際、非常に不可思議な症例に違いない。その治療法の詳細も、人がもしそれを理解できるとしたら、また、その医師がその難解なラテン語の術語を翻訳してくれさえしたら、この上もなく興味深いものに違いない。

 しかし、そうしたものを読む必要はない。というのも、あなたはこのマタイの福音書の中に、医者という医者の中でも最大の名医であるイエス・キリストの日誌を有しているからである。主はあらゆるわずらいを癒し、これ以上はないほど独特で奇抜な種類の症例に遭遇された。私たちの恵み深い《主人》は常に病院を見回っておられた。というのも、全世界は主にとって病院であり、主がどこへ行こうと、この地上における主の至高の務めは、手で触れるか、目でご覧になるか、言葉をおかけになるかして、魂とからだに癒しを授けることだったからである。主の治療は無料であり、これは賞賛されるべきことであった。だが、主はその患者たちのもとへ遠い道のりを出かけ行くことすらなさった。医者が自分の門前に群れをなす人々をただで診療するのは寛大なことである。だが、私たちの《主人》は――この愛する医者は――、その余す所なき巡回区のいや果てまで旅をしては、そこに住んでいるあらゆる人々とお会いになり、祝福された。ある者たちは、その辺縁と境目からほんの少しはずれたところに住んでいた。主が特別に遣わされた対象の人々をやや越えた所に住んでいた。そして、主がツロとシドンの境界に達したとき、スロ・フェニキヤの女がやって来て、ユダヤ人のためにとっておかれた癒しにあずかった。これは私たちの中のある者らにとって大きな慰めである。私たちがいかに病んでいようと、イエス・キリストの偉大な職務は癒すことなのである。痛み傷ついている、寄る辺ない者たちをつかんで、彼らに健康を回復させることは、主の誉れである。そして、もし虚弱さのために私たちが主のみもとに行けなければ、主は喜んで私たちのもとに来てくださる。また、たとい私たちが悔悟していないために来ようとしないとしても、主はその愛の強さによって、呼ばれもしないのにやって来てくださるのである。おゝ、イエス・キリストよ。《主人》よ。無力な魂も、望んでいる魂も癒すことがおできになり、その衰えざる御力によって清新な治癒を働かせることのできるお方よ。この大群衆のもとに来てください。かつてベテスダの回廊[ヨハ5:2]の回りに集まった、いかなる群衆よりもおびただしい数のこの者らのもとに来てください。そして、あなたの癒しの臨在を今晩私たちのもとにとどめてください!

 さて、私たちが前にしている場合を詳細に眺めてみよう。この話は私たちの中のほとんどの者にとって、きわめて馴染み深いものである。病で苦しんでいた娘を持つ、ひとりのあわれな女がいた。そこで、娘を癒してほしいとキリストに願いにやって来た。ほんの数語の哀れを誘う言葉によって、彼女は自分の切実な願いを云い表わした。私たちの主は、通常であれば常にたちまちお答えになった。主の恵み深い心は、同情心で満ち満ちていたし、切望する魂を喜ばせたいと望んでいた。だが、この折には、「彼女に一言もお答えにならなかった」。主はご自分の説教や他の働きはお続けになったが、この死の物狂いの取り乱した女のことは、あからさまに無視された。「イエスは彼女に一言もお答えにならなかった」。このことが、今晩の私たちの主題である。

 私たちはまず第一に、《救い主》の沈黙について一言語りたいと思う。続いて、第二のこととして注意したいのは、主は沈黙していたが不親切ではあられなかった、ということである。それからしめくくりに第三のこととして、答えは遅くなったが、この立派な女は落胆させられも、拒絶されもしなかっ。それでは、まず私たちは、――

 I. 《救い主の沈黙》について考えてみよう。普通、私たちの主は、あのたとえ話の父親のように立ち返って来る罪人を待ち受けておられた。だが今の主はよそよそしく、突き放した様子に思われ、哀訴されても黙っておられた。普段なら、泣いている者たちに同情して泣く涙が常に宿っていた主の御目は、今は奇妙にも乾いており、主の魂はこの母親の切々たる訴えにも動かされていないように見受けられた。普通は頼む必要などなかった。主は苦悩に目をとめると、あの《良きサマリヤ人》のように憐れみの情に動かされ、急いで助けに来られた。しかし、ここで主は涙の求めを受け、執拗な愁訴によって請願されているにもかかわらず、「彼女に一言もお答えにならなかった」。

 このことは、この女が明確な必要を感じていたことを思い起こすと、いやまして尋常ならざることである。彼女の願いには、何の曖昧さも、ぼんやりしたものもない。彼女は、その心の切望をこの上もなく明確に云い表わした。彼女は自分が何を求めているか分かっていた。そして、それを強く求めた。だがしかし――しかし、彼女はすぐには何の答えも得られなかった。これは、あなたがたの中の多くの人々にとっても同じではないだろうか? あなたは《救い主》を欲しており、何箇月もそのお方に叫び求めてきた。その小部屋は、その数々の祈りや涙について証言できるであろう。そして、何の答えもやって来なかったために、あなたはこう云ってきた。「これは、私が自分の必要を十分感じていないためなのだ」。しかし、それは決して真の理由ではなかったであろう。悔い改めは必要だが、その名で呼ばれている多くのものは本物ではない。良心の恐怖は悔い改めではない。それが悔い改めを導くものとなることはあるが、悔い改めそのものではない。また、あなたは、決して恐慌に満たされることがなくとも、罪を遺憾に思い、罪を憎み、罪を根こそぎにしたいと思うのであれば、あなたの悔い改めは純粋なものである。問われているのは量ではなく質なのである。というのも、深い悔い改めでさえ、救いに絶対不可欠ではないからである。

   「主、汝れに要求(もと)む 資格(もの)みなは
    汝が主の必要(もとめ) 感ずことのみ」。

たといあなたの悔い改めが本物で、あなたが覚えている必要が深くとも、それでもあなたは待って、待って、なおも待つのでなければ、主の平安があなたの魂にあふれないこともありえる。

 それに加えて、このあわれな女は、どこに助けを求めに行くべきか分かっていた。彼女は正しい扉を見つめていた。彼女は、「あわれんでください、あわれんでください」と求めた。これが彼女の唯一の訴えであった。そして、もし私たちがそれ以外の訴えをもって神のみもとに行くとしたら、私たちは自分がどなたを求めているか、また、どなたに語りかけているのか分かっていないのである。この女は、自分の無価値さに感じ入り、深くへりくだっていたが、それすらも、《救い主》の憐憫を、神のあわれみを受けるべき根拠の1つとしてしまった。私の知っている一部の人々は、自分が、「あなたの罪は赦されました」[ルカ5:20]、との声を聞いたことがないからといって、自分たちはまだ正しくキリストのもとに行けていないのだと恐れている。否! この女は正しいしかたでやって来ていた。だがしかし、とりあえずは一言も与えられずに放っておかれている。もし私たちが少しでもキリストのもとに行くなら、私たちは完全に正しいしかたでやって来ているのである。私はしばしばこう云ってきた。「真にやって来るならば、それが間違っていることはありえない」、と。「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」[ヨハ6:44]。それで、もし神が引き寄せるとしたら、間違ったしかたでお引き寄せになるはずがない。キリストのあわれみを求め、そのいけにえの死の功績により頼むとき、あなたはやって来ているのであり、あわれみの扉のところへ正しくやって来ているのである。だがしかし、あなたはしばしの間、あなたの慰めとなる言葉を受けないことがありえる。

 さらにまた、この女には、私たちの主のご性格についてある程度まで明確な観念があった。彼女は主を、「主よ」、と呼んでいる。彼女の最初の訴えは、「あわれんでください」、である。第二の訴えは、「私をお助けください」、である。しかし、そのどちらにおいても、主にこそ彼女は訴えていた。彼女には、主の《神性》と、主の全能についてある程度まで直観していた。それは、主の弟子たちの一部をさえ越えたものであった。このことに驚く必要はない。必要を深く感じることによって、しばしば私たちにはキリストのすべてを満ち足らす力が啓示されるのである。だがしかし、こうしたすべての洞察があったにもかかわらず、「イエスは彼女に一言もお答えにならなかった」。そのように、あなたも《主人》を知っており、その十字架の根元に座して、かの尊い血潮が流れるのを見ているかもしれない。あなたの目は主の傷ついた御顔を何度となく眺め、あなたの信仰は主が高く上げられているのを見つめており、主の《神性》のみいつについても、主の人性による同情についても何の疑いもいだいていないかもしれない。だがしかし、たとい救われていても、あなたには何の救いの喜びもないことがありえる。疑いもなくあなたは決して死を見ないであろうが、それでも、いのちの高揚を全く感じることがないのである。

 またこの女には、謙遜ではあったが、断固たる信仰があった。私たちの主はそれを賞賛し、高く評価された。「ああ、あなたの信仰はりっぱです」[マタ15:28]、と云われたからである。彼女には、自分の願いがかなえられる前から信仰があった。そして私たちも、救いの信仰を有していながら、何の甘やかな確信もいだいていないことがありえる。私の信ずるところ、おびただしい数の人々はキリストに信頼を置いていながら、預言者イザヤによって、こう述べられているような状態にある。「暗やみの中を歩き、光を持たない者」[イザ50:10]と。多くの人々は、信じており、永遠のいのちを有していながら、その実りである平安と喜びにまだ入っていない。彼らにはその権利証書はある。救われてはいる。だが、その証書を明瞭に読めていない。天国は彼らのものだが、彼らの視力が不完全であるため、「天空(そら)の邸宅(やかた)」はなおもはるか彼方の国にあるのである。キリストはその心においてあなたの声を聞いておられるかもしれないが、あなたの耳には答えを返しておられない。あなたの祈りを天の記録簿に保管しておられるが、何らかの理由で、しばらくの間あなたが慰めも光もなく苦闘するのを許されることがありえる。

 だがさらにまた、これらすべてにもかかわらず、彼女はキリストが祝福しようと意図しておられた魂を有していた。主のお心の中には、彼女の娘を癒すかどうかについて、全く何の疑念もなかった。主は彼女に、彼女の求めたものを与えようとすでに定めておられた。――決して一瞬たりともそれを拒絶しようとは意図しておられなかった。それは常に彼女のためにいと高きところに貯えられていた。主は、きっぱりと、彼女が平安のうちに帰って行くようにしようと望まれていた。そしてそのように、数々の大儀な夜があなたのために指定されているかもしれず、激しく泣くこと、涙することがあるかもしれないが、前進し続けるがいい。というのも、もし神があなたに純粋な信仰を与えておられるとしたら、神はあなたに永遠の救いを与えざるをえないからである。そうならないのは、神がご自分の約束を破るときだけだが、それは神が決しておできにならないことである。神はイエス・キリストによってご自分のもとにやって来る者たちを救わなくてはならない。あなたの務めは神の命令とともにあり、それに従って主イエス・キリストを信じたならば、その後では、たといあなたが暗闇の中で泣くとしても、あなたの涙はあなたを霊的に強めるものとなるであろう。

 これは、ほとんど五年間も私に続いたことであった。もしもある魂が苦悶とともに祈ったことが一度でもあったとしたら、私は自分がそうしたことを知っている。私は安らぐことができなかった。神は私の心に、ご自分の御子を求める願いを入れておられた。それで私は、御父から「お前はわたしのものだ」と囁かれるのを聞くまで決して満足することができなかった。何滴かのあわれみは降ってきたが、翌日にはそれらはみな干上がってしまった。時として、私は1つの約束をつかんだが、それは私の手の中で溶け去ってしまうように思われた。ほんの子どもでしかなかったが、私は神のみことばの頁をめくり、私の場合に当てはまる何かを求めた。だが、神の定められた日が来るまでは何もやって来なかった。そのとき初めて暗闇は消え去り、光がやって来て、私はイエスと、イエスだけが与えることのできる光とにあって喜んだ。永遠のいのちに定められている人々[使13:48]の多くは、ジョン・バニヤンのように、いまだに何日間も、あるいは、まさに何年間も、疑いと困惑と苦難の中に引き留められている。「イエスは彼女に一言もお答えにならなかった」。第二のこととして、私たちが見てとるのは、――

 II. 《救い主は沈黙していたが、不親切ではあられなかった》ということである。主が彼女に一言もお与えにならなかったことには歴とした理由があった。1つの理由はこのことである。信仰を試験することは主の楽しみである。偉大な国王たちは、自分を喜ばせるために、偉大な功業を自分たちの前で行なわせるのが常であった。そして、信仰の強大な力を試すために、主なる神はそれを奇妙な使いにすらお出しになる。神は、信仰がご自分の御力により頼むときに発揮することのできる大胆不敵さを見ることを喜ばれる。神は、信仰がほんの小僧っ子でしかない時にこう仰せになった。「行って、あの巨人の頭を切り落としてこい!」 すると信仰はそれを行なった。神は云われた。「行って、あの町を征服し、それを破壊せよ。また、崩壊した城壁を越えて喜んで突撃せよ」。すると信仰はそれを行なった。また、神は云われた。「行って、私のために、燃える火の炉に入れ」。すると信仰はそれを行ない、全く無傷で出て来た。「行って獅子の穴に入れ」、と王は云われた。すると信仰は行って、獅子の口をふさいだ。そして私たちの主は、このあわれな女に信仰が受肉しているのを見いだして、それを試験におかけになったのである。彼女の信仰は、今や《王》ご自身と組み打ちしなくてはならない。驚いてはならない! イエスは云われた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」。すると彼女は答えた。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」。そのように《王》は信仰を試験した後で、冠をその頭の上に置いてやりながら、こう答えておられる。「ああ、あなたの信仰はりっぱです!」 いまイエスを求めていながら、まだ見いだしていない、あなたがたの中のある人々もそれと同じである。主はあなたの信仰を知っているが、慰めを遅らせておられる。それは信仰が何を行なうものかを人々に見せるためである。そして、それがなされると、主は黒雲を散らし、あなたの魂を喜びで満たされるであろう。私は、《救い主》がこのことをなさったのが、ご自分の楽しみのためではなく、彼女の益のためであったことを全く疑っていない。人が、若い時に[哀3:27]その信仰のくびきを負うのは良いことである。スパルタ人が征服者の国となったのは、ひとえに彼らが幼少期から辛苦の学び舎で訓練を受けていたからである。彼らが痛い思いをし、格闘し、時として飢えの苦しみを感じなくてはならなかったのは、戦闘の日にいかに強力な敵からも退却しないようになるためであった。そのように私たちは、はなはだしい誘惑に何度も直面しなくては天国に到達できないであろう。そして主は私たちを鍛錬しておられる。花屋が植木を温室から外気の中に出してそれを強くしてやるように、主は私たちをご自分の愛に満ちた御顔という光とぬくもりの中から移して、私たちを強くしてくださる。やがて霜が降りる時にも、それで私たちがしなびないようにするためである。

 また、《救い主》は、そばで見ている者たちにも注意しておられたかもしれない。この日、この女が立派な信仰を披瀝しているのを見ている私たちに対して、確かに主は恵み深い目的を有しておられたに違いない。確かに主がこのように行なわれたのは、過去の多くの時代において、また、この時代において、そして、来たるべき多くの時代において、悩める魂たちのための慰めと教えの泉を供させるためであったに違いない。そうでないと誰に分かろう? この女が一時の間、気を揉まされたのは、あわれな婦人よ、あなたのためなのである。あわれな絶望した魂をかかえた青年よ、あなたのためなのである。「どれ」、と主は仰せになっているように思われる。「この1つの場合においては、すぐには慰めを得ないすべての人々のための模範を示しておくことにしよう。彼らに、自分たちの信仰がやがて勝利をおさめることを見てとらせるためだ。もし彼らがそれでも信じ続け、わたしが来るまで訴え続けるとしたら、その答えは平安であろう」。イエスは、その沈黙においてさえ、不親切ではあられない。さて私たちが敬虔に学ぶべき最後の点はこのことである。

 III. 《答えは遅くなったが、この女は落胆させられも、拒絶されもしなかった》。彼女は、一言も受けられない時も、一部の信仰を告白する悔悟者たちとは違い、立ち去って、むくれたりすることはせず、より大きな大胆さをかき集めた。彼女は主により近づいたように思われる。というのも、25節には、「しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して」、と記されているからである。あたかも人垣の外側に立っていた彼女が、今や群衆をかき分けてより近くに来たかのようである。――だが、不遜なしかたではない。――彼女は来て、ひれ伏した。ここで、彼女は私たち全員に1つの教訓を読み上げている。たとい私たちが自分の訴えに何の答えも得られなかったとしても、あきらめてはならない。むしろ、キリストに、いやまして近づくがいい。主と真剣にやりとりをしようと、より厳粛な決意をあなたの魂で固めるがいい。一部の人々は、一連の語句を決まったしかたで云い始め、「アーメン」で云い終えるだけで満足しきっている。だが私は、《主人》と確かなやりとりをし終えるまで、祈り終えて立ち上がるのを好まない。空気に向かっては五十もの言葉が発されるが、私たちの魂の目的をかなえるのは、《主人》に通じたただの一言である。言葉をつかみ、思考によってあなたの指を釘の跡に差し込み、あなたの手を主の御脇に差し入れ、主が本当にそこにおられることを悟るがいい。そうすれば、これが真の慰めを獲得するあなたの道となるはずである。また、それですべてではない。彼女がこのように近くに来たとき、彼女はより真剣に叫んだ。弟子たちは、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです」、と云った。しかし、彼女の叫びは、悲しげな哀感を帯びた言葉によって主に達した。彼女は泣いた。まさに死なんとしているわが子の上で呻く母親のような叫びをもって叫んだ。そこにはこのような言葉があったように思われた。「私はこの祝福を受けずにはおきません。それを私にください。さもないと、私は死んでしまいます。主よ。ダビデの子よ。私はただ口先だけで語るような者ではありません。私の心があなたに叫んでいます。私は、ひとりの女の引き裂かれた心をお聞かせしましょう。あなたが、その女に慰めの言葉をかけてくださらない限りは」。あゝ! 冷たい祈りは決して天国の門を開かないであろう。あなたは行って、叩いて、叩いて、叩いて、さらに叩くのでなければ、天界の表玄関を開け放つことはできない。あなたは、その黄金の叩き金具を用いて、ものうげに叩くのではなく、ぜがひでも中に入らなくてはならない者のようにやかましく打ちつけなくてはならない。冷たい町通りに永遠の嵐がすでに降りつつあり、もし閉め出されるとしたら、「泣き悲しんで歯ぎしりする」[マタ13:42 <英欽定訳>]ことになろう。思い出すがいい。《救い主》ご自身がいかに力強くこのことを、あの執拗な友人のたとえ話で勧告したことか。彼は、長旅をして来た自分の友のためにパンを必要としていた。それで、隣人からパンを手に入れるまでは決して懇請することをやめなかった。相手を真夜中に叩き起こしてそれを獲得することになるとしても関係なかった。素朴な比喩ではあるが、その意味と教訓は著しいものがある。あなたは叩いて、叩いて、叩かなくてはならない。そして、一撃一撃を倍増しにし、天国を急襲して奪い取らなくてはならない。――というのも、主が宣言されたように、「天の御国は激しく攻められて」[マタ11:12]いるからである。では、激しく攻める者のひとりとなり、それを「奪い取る」がいい。待たされるのが長くなればなるほど、真剣に祈らなくてはならない。そうすれば、あなたの祈りはその後でかなえられるであろう。
 しかし、私が特に注意しておきたいのは、彼女が長く祈れば祈るほど、その祈りは短くなったということである。あなたは、普通は祈りの価値をこのような規則で計って良い。――長いほど悪く、短いほど良い、と。彼女はこう云って始めた。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです」。これは良い祈りであるが、次はもっと短くなっている。「主よ。私をお助けください」。まさに、こうした祈りこそ勝利を得るものである。《いと高き方》の前に出るとき、私たちは、自分の言葉を短くすることを覚えているとしたら良いことであろう。私たちは、神の御前で一心不乱に、また厳粛に真剣になるとき、普通は考えの方が言葉よりも多くなり、激しさの度合の方が文章の長さにまさるようになる。ある人は云うかもしれない。「私は祈ることなど全然できません」。だが、もし神があなたにご自分のあわれみを求める願いを与えておられるとしたら、あなたは確かに祈れるであろう。「主よ。私をお助けください」。これは、長すぎて記憶できなかったり、暇取りすぎたりするということはない。「主よ。私をお助けください」。あなたは、朝仕事に行く前にこう祈ることができる。夜、いかに遅く帰宅してもこう祈ることができる。ある人は主の祈りを唱える。だが、もしあなたが回心していないとしたら、そうしないように願いたい。いかにしてあなたは、救われておらず、神の家族に属してもいないのに、「我らの父よ」などと祈れるだろうか? 死からいのちに移ってもいないのに、何の権利があってあなたは神を「父」と呼べるだろうか。子とする霊があなたのものとなるときには、その言葉を使うがいい。だが、それまでそうしてはならない。この祈りの方が、あなたにとっては無限にすぐれている。「主よ。私をお助けください」。これは、無力さ以外にいかなる告白もしていない。それはこう告白している。「私にはどうにもできません。私は最も無価値で、最も乏しい者です。主よ。私を助けて悔い改めさせてください。私の心を私に代わって砕いてください。私を助けて信じさせてください。罪から離れさせ、あなたに仕えさせ、イエス・キリストご自身のようにならせてください」。私は、これ以上に短く、これ以上に内容豊かな祈りを提案することができない。しかしながら、この祈りではなく、彼女の信仰こそ、主の心をつかみ、主の祝福を起こさせたものであった。彼女は主をつかんで離そうとはしなかった。そして、主ご自身の御口からさえ、「否」を受け取ろうとはしなかった。彼女は主が真実でなくてはならないと知っていた。さて、罪人よ。キリストはこう云っておられる。「わたしを信じる者はさばかれない」*[ヨハ3:18]。もしあなたがキリストを信じるなら、あなたは審かれない。そして、あなたの幾度もの祈りに対する遅れは、あなたが審かれていると云っているかのように思われるかもしれないが、それは見かけだけで、主はご自分の約束をお守りになるに違いないし、必ずお守りになると信じるがいい。主はご自分に頼るあらゆる罪人を救うと約束しておられる。あなたの良心にさえも、あなたを恐れで満たさせてはならない。願わくはあなたが神にこう云うようになるように。「私はイエス・キリストが私のために死んでくださったと信じることにします。私は自分を主にゆだねることにします。私は黒い者です。――私は主が私を洗ってくださると信じます。私は汚れたよこしまな者です。ですが、私は主が私を新しく創造してくださると信じることにします。私には何もありません。ですが、私はキリストを私のすべてのすべてとして受け取ります。ここで、今晩、私は主を、ありのままの私で信頼します。私は主が私を、主のおられる所に連れて行き、主とともに永遠に住まわせてくださると信頼します」。

 もし神があなたにこのことを行なえるようにしてくださるとしたら、あなたの永遠のいのちは確実である。嘘ではない。神があなたを助けてくださり、このように祈らせ、信じさせてくださるように。まもなく、あなたは行って、「あなたの信仰のとおりになる」*[マタ9:29]はずである。主があなたをその祝福とともに帰らせてくださるように。イエス・キリストのゆえに。アーメン。

救い主の沈黙[了]

HOME | TOP | 目次