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主のみかげに

NO. 3267

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1911年9月14日、木曜日発行の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於マントン、聖餐式礼拝にて
1880年前半


「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る」。――詩91:1


 本日の短い講話については、告白しなくてはならないことがある。これは、あの、人が流れの中に落としてしまった斧[II列6:5]と同じく、借り物なのである。だが、その梗概のもとを作った人は、決して私に文句を云わないであろう。というのも、地上の教会にとって大きな損失であることに、彼女は天上で歌うために、この下界の聖歌隊を去ってしまったからである。わが国の現代詩人の中でも最上の、そして最も敬愛すべき人であったハヴァーガル女史[1836-79]は、その語調が最も円熟し、その作風が最も崇高な域に達したまさにそのとき、天国の音楽を一段とふくらませるため急に取り去られてしまった。彼女の最後の詩集は、『主のみかげに』という題名で出版されている。そして、なぜその名前にされたかは序文で明らかにされている。彼女はこう云う。「私はこの題名を『主のみかげに』としたいと思いました。それによって、4つの絵図が見てとれるように思われます。乾ききった平野にある岩の陰。一本の木の陰。さらに近寄れば、みつばさの陰。最も近く、また最も親密に云えば、御手の陰。確かにその御手は、刺し貫かれた御手であり、しばしば私たちを痛く圧迫するかもしれませんが、それでも常に囲み、支え、陰で覆ってくれる手なのです」。

 この「主のみかげ」こそ、本日の魅力的な主題である。そして私たちは、ハヴァーガル女史が遺してくれた聖書的な見取り図を、それに二言三言つけ足すことによって引き伸ばしたいと思う。本日の聖句はこうである。「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る」。

 神のみかげは、聖徒が時たま出かけて行く場所ではなく、彼が常に宿っている場所である。ここで私たちは、単に私たちの慰藉を見いだすだけでなく、私たちの住みかを、単に愛すべき通い先だけでなく、1つの家を見いだす。私たちは決して神のみかげから外に出るべきではない。そこを訪れる者に対してではなく、住まう者に対してこそ、主はご自分の守りを約束しておられる。「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る」。そして、その陰が、夜の恐怖からも幽霊のような病からも、また、戦の矢からも疫病からも、また、死からも滅びからも、彼を保つのである。全能性によって保護される主の選民は常に安全である。というのも、彼らは聖所に宿っており、贖いのふたのすぐそばにいるからである。そこでは、古には血が降り注がれ、聖所の上に常にあった夜の火の柱、昼の雲の柱が彼らをも覆う。こう書かれていないだろうか? 「主は、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまう」*[詩27:5]。これにまさる安全を願えるだろうか? 神の民として私たちは常に《いと高き方》の守りの下にある。私たちがどこへ行こうと、いかなる苦しみを受けようと、いかなる困難、誘惑、試練、困惑に遭おうと、私たちは常に「全能者の陰に宿る」。神との交わりを保つすべての者の上には、この上もなく優しい守護者の配慮が差し伸ばされている。天におられる彼らの御父ご自身が、彼らと彼らの敵との間に入ってくださる。だが聖徒たちの経験からすると、確かに彼らはみな、このみかげの下にありはするが、その守りをいかなるしかたで享受するかについては異なっている。それで、これから私たちが注意を向けたいと思う4つの絵図には価値があるのである。

 I. ハヴァーガル女史が言及している第一の絵図から始めよう。すなわち、倦み疲れた旅人の覆いとなる《岩》である。

 「かわききった地にある大きな岩の陰」(イザ32:2)。さて、私の受け取るところ、これこそ私たちが、私たちの主のみかげを知り始める所である。私たちにとって主は、最初は苦しみの日における逃げ場であられた。道は難儀で、暑さは耐えがたかった。私たちの唇はひび割れ、私たちの魂は衰え果てていた。私たちは避け所を求めたが、1つも見つからなかった。というのも、私たちは罪と断罪の荒野にいたからである。では、誰が私たちに解放を、あるいは、希望すらさえ、もたらすことができただろうか? この苦しみのときに私たちが主に向かって叫ぶと[詩107:6]、主は私たちを助けて《千歳の岩》へと至らせてくださった。古に私たちのために裂かれた岩である。私たちは、私たちの仲裁に入る《仲保者》が、私たちと、正義という苛烈な炎熱との間に割って入るのを見た。そして、このほむべき仕切りを歓呼して迎えた。主イエスは私たちにとって罪の覆いとなり、そのようにして御怒りに対する隠れ蓑となられた。私たちの良心を打擲していた、神のご不興を覚える感覚は、罪そのものが取り除かれるとともに取り除かれた。その罪がイエスの上に置かれるのを私たちは見たのである。主は、私たちの地位と場所において、その罰のすべてを忍ばれた。

 岩陰は尋常ならざるほどひやりと涼しいものだが、そのように主イエスは卓越したしかたで私たちにとって快適であられた。岩陰は、他のいかなる物陰にもまして濃密で、完全で、涼しい。そして、イエスが与える平安もそれと同じく、人のすべての考えにまさっており[ピリ4:7]、何にもまさるものである。偶然に日差しが差し込むようなことはない。また、森の群葉のように炎暑が貫くようなことはありえない。イエスは完全な避け所であられ、幸いなのは、「主のみかげに」いる人々である。そうした者たちは、そこにとどまるようにするがいい。また、匹夫の勇を振るって、サタンの告発に自分で答えたり、挑戦したりしようなどは決してしないよう用心するがいい。

 罪と同様に、あらゆる種類の悲しみについても同じことが云える。主は私たちの避け所の岩[詩94:22]である。いかなる太陽も私たちを打つことはない[詩121:6]。私たちは決してキリストの外に出ることがないからである。聖徒たちはどこに逃げて行くべきかを知っており、自分たちの特権を用いる。

   「よし苦難(くるしみ)の 燃ゆる日輪(ひ)のごと
    民のこうべを 重く打つとも
    岩なるキリスト 逃れ場として
    われは見いだす、甘き日陰を」。

 しかしながら、この大いなるみかげには、畏怖すべきものが伴っている。岩はしばしばあまりにも高く、恐ろしく、その巨躯の前で私たちは震える。ごく小さなものが途方もなく大きなものの背後に隠れているという観念はよく表現されている。だがそこには、魅力的な交わり、あるいは、優しさという思想が全くない。たといそうでも、最初私たちは主イエス・キリストを、当然受けてしかるべき刑罰という焼き尽くす炎熱からの逃げ場としてみなし、それ以上のことはほとんど分からない。これが、この四重の絵図のたった一面でしかないことを思い起こすのは何にもまして快いことである。私の魂にとって、云い尽くしがたく愛しいものは、救われた罪人として私が主のうちに立ったときに覚えた、私のほむべき主の深く涼やかな岩陰である。だが、それを越えたことがある。

 II. 私たちの第二の絵図である《木》の姿は、雅歌2:3に見いだされる。

 「私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木の中のりんごの木のようです。私はその陰にすわりたいと切に望みました。その実は私の口に甘いのです」。

 ここにあるのは、苦難からの逃げ場というよりは、喜びの時の特別な安息である。花嫁は楽しげに森の中を散策し、多くの木々を目にしては、小鳥たちの歌声を喜んでいる。一本の木に彼女は特に魅了される。黄金のその実をつけた柑橘に彼女は嘆賞させられ、非常な喜びをもってその陰に座る。彼女の愛する者は、彼女にとってそのような存在なのである。一切の良いものの中で最高のものであり、麗しさのきわみであり、喜びの中の喜びであり、彼女の楽しみの光である。イエスは信ずる魂にとってそのようなお方であられる。

 キリストの甘やかな影響力は、私たちに幸いな安息を与え、私たちはそれを生かして用いるべきである。「私はその陰に座りました」<英欽定訳>。これが、マリヤの選んだ良い方[ルカ10:42]であり、気が落ち着かなかったためにマルタがあやうく取り逃すところだったものであった。これは、昔ながらの良い道であり、私たちが歩むべき道である。私たちが魂に安息を見いだす道である。

 教皇主義者や、教皇主義的な人々は、儀式一辺倒であるか、わざ一辺倒であるか、呻いたり感じたりすること一辺倒であるかの宗教を有しているが、決して満足の行く終わりに至ったことがない。彼らの宗教は律法の宗教と呼べるであろう。それは何事も全うしなかった[ヘブ7:19]。だが、福音の下には完了した何かがあり、その何かが私たちの救いの要諦なのである。それゆえ、そこには私たちのための安息があり、私たちは歌うべきである。「私は座りました」、と。

 愛する方々。キリストは、私たちのひとりひとりにとって、座すべき場所だろうか? 私が意味しているのは、怠惰やうぬぼれによる安息ではない。神が私たちをそうしたものから解放してくださるように。だが、キリストを意識的に把握することの中には安息がある。私たちのすべてのすべてなる主とともにある満ち足りた安息である。どうか神が私たちに、より大きくこのことを知らせてくださるように。この木陰は、永続的な慰安を生み出すためのものでもある。というのも、花嫁は単にその下に来ただけでなく、そこにとどまるべきものとして腰を下ろしたからである。継続する休息と、喜びとは、主の完成したみわざによって私たちのために買い取られている。その木陰で彼女は食べ物を見いだした。いかなる必要物のためであろうと、そこを離れる必要はない。というのも、陰をなしているその木は、実をもならせたからである。また、彼女にそうする必要はなかった。その休息から起き上がり、だがなおも横になったまま、美味な果実を満喫した。あなたがた、主イエスを知っている人たちは、これが何を意味するかも分かっているであろう。

 この花嫁は決して彼女の主を越えた所に行くことを望まなかった。《愛する方》の陰に座っている人生にまさる人生を知らなかった。彼女は杉の木を通り越し、樫の木を通り越し、その他すべての見目かたちの良い木々を通り越した。だが、この林檎の木は彼女をとらえた。そして、そこに座った。「多くの者は云っています。『だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか』[詩4:6]、と。しかし、私たちにとっては、おゝ、主よ。私たちの心は定まっています。あなたの上で休らっています。私たちはこれ以上先には行きません。というのも、あなたは私たちの住まい[詩90:1]だからです。私たちはあなたとともにあってくつろいでおり、あなたのみかげの下に座しています」。一部のキリスト者たちは、畏敬を身につけるために、子どもらしい愛を犠牲にしている。彼らは膝まずく。だが、腰を下ろすことはできない。私たちの天来の《友》また《愛する者》は、それをお望みにならないであろう。このお方は私たちが堅苦しくしていることを望まず、大胆にみもとに来ることを望まれるであろう。

   「さらば御許で 素朴(かざらず)あらん、
    怖じず、構えず、冷淡(ひえ)おらず、
    などてわれらが、ベツレヘムは
    古(かつて)のシナイの ごとくあるべき」。

主の神聖な御名を日常の言葉のように用いよう。誰もが使う言葉としよう。そして主のもとに、愛しい、あるいはなじみの友人のもとに行くように駆けて行こう。主のみかげで、私たちは自分がくつろぐのを感じるべきである。するとそのとき、主は親しく私たちに接してくださり、私たちの魂のための食物となり、安息している間の私たちに霊的な養いを与えてくださるであろう。この花嫁は、木に手を伸ばしてその実をもいだとは云っていない。地面に座って強い喜びを感じつつある彼女に、その座っている所にその果実がやって来たのである。素晴らしいことに、いかにキリストはご自分の下に座している魂のもとにやって来られることであろう。もし私たちがキリストとともにくつろぐことができさえしたら、主は甘やかに私たちと語り合ってくださる。主はこう云われなかっただろうか? 「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」[詩37:4]。

 この神聖なみかげの、この第二のかたちにおいて、畏怖の感覚は、キリストにある安楽な楽しみの感覚へと席を譲っている。あなたは、この実り豊かな木のありがたい木陰の下に座る者として、そのような感覚にあずかったことがあるだろうか? あなたは単に安泰さを有しているだけでなく、キリストにある楽しみを経験しているだろうか? こう歌ってきただろうか? 

   「われは座りぬ、主のかげに、
    座りて受けぬ、大いなる歓喜(さち)を。
    主の実は甘し、わが舌に、
    げに麗しきかな、わがまなこに」。

これは必要な経験であると同じく喜ばしい経験である。多くのことのために必要である。主を喜ぶことは私たちの力だからである[ネヘ8:10 <新改訳聖書欄外訳参照>]。また、私たちが主に喜びを見いだすときにこそ、私たちは祈りにおける力を確信するのである。ここで信仰は発達し、希望は明るさを増し、その一方で愛はその甘やかな香料のあらゆる芳香を際立たせる。おゝ! この林檎の木に達し、万人の中で最も美しいお方を見いだすがいい。天国の光をあなたの心の楽しみとするがいい。そして、そうするときに、心の安楽で満たされ、完全な満足を覚えるがいい。

 III. この1つの主題の第三の眺めは、――《みつばさの陰》である。――尊い言葉である。思うに、その最高の実例は――それが何度か現われるためだが――、かのほむべき詩篇63篇7節である。 「あなたは私の助けでした。御翼の陰で、私は喜び歌います」。

 これは抑鬱するときの私たちの頼りとして、私たちの主を示していないだろうか? 私たちがいま前にしている詩篇において、ダビデは恵みの手段のもとから、水のない、砂漠の衰え果てた地[詩63:1]へと追放されていた。さらに悪いことに、彼は、ある程度まで、意識的な神の喜びから離れていた。彼は云う。「私はあなたを切に求めます。……私のたましいは、あなたに渇き」[詩63:1]。彼が歌っているのは、現在の神との交わりというよりは、種々の記憶である。私たちもまたこうした状態に陥り、今の慰めを見いだせなくなることがあった。私たちはせいぜい、「あなたは私の助けでした」[詩63:7]、という思いしか述べることができなかった。そして、そこまでは云えることを喜んだ。こうした時に、神の御顔を仰ぎ見ることは差し控えられていたが、私たちの信仰は、神のみつばさの陰で喜ぶことを私たちに教えていた。光はそこにはなかった。私たちは全く暗がりにいた。だが、それは暖かな暗がりであった。私たちは、自分の近くにおられた神が、今なお自分の近くにおられることを感じた。そして、それゆえ、心を鎮められた。私たちの神は変わることがありえない、それゆえ、神が私たちの助けであられた以上、神はなおも私たちの助けであられるに違いない。影を私たちの上に投げかけなさるときにも、私たちの助けであられるに違いない。というのも、それは神ご自身の永遠の翼の影に違いないからである。この比喩は、もちろん、親鳥の翼の陰にその雛鳥たちがかかえられることから引き出されている。そして、この絵図はことのほか心に触れる、慰めに満ちたものである。雛鳥は、まだ自立することができず、それで母鳥の下に縮こまり、そこで幸いになり、安全になる。一瞬でもめんどりを脅かすと、この小さなひよこたちが一箇所に群がり、その囀りが一種の歌になる。それから彼らは自分の頭をめんどりの羽根の下に突っ込み、その暖かな住まいの中で何にもまして幸いにしているように思われる。私たちが非常に病み、いたく抑鬱されているとき、また、やつれている子どもたちの世話により、困窮した家庭の苦難により、サタンの数々の誘惑により心を悩ませているとき、これはいかに慰めに満ちたことであろう。私たちは、私たちの神のもとに――めんどりのもとに駆け寄る小さなひよこのように――走って行き、その御胸の近く、その御翼の下に隠れるのである。おゝ、試練にあっている人たち。あなたの主の愛に満ちた心へとぎゅっと近づき、そのみつばさの下に全く身を隠すがいい。ここでは恐れが消え去り、愛に満ちた信頼の思いにあって全くの安息が高められる。雛鳥たちはその母鳥の愛のもとで安全であり、私たちもまた、主の愛に満ちたいつくしみのうちにあってこの上もなく安泰であり、幸いなのである。

 IV. このみかげの最後のかたちは、《御手》の陰であり、これは私には、奉仕における力と立場を指し示しているように思われる。イザヤ書49:2に目を向けてほしい。――

 「主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私を隠し、私をとぎすました矢として、矢筒の中に私を隠した」。

 これは、疑いもなく《救い主》についての言及である。この箇所は次のように続くからである。「そして、私に仰せられた。『あなたはわたしのしもべ、イスラエル。わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現わす。』 しかし、私は言った。『私はむだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした。それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、私の報酬は、私の神とともにある。』 今、主は仰せられる。――主はヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるために、私が母の胎内にいる時、私をご自分のしもべとして造られた。私は主に尊ばれ、私の神は私の力となられた。――主は仰せられる。『ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする』」。私たちの主イエス・キリストは、エホバの御手の中に隠されていた。また、神がご自分の敵たちを転覆し、ご自分の民に勝利をもたらすために用いられる、とぎすました矢のようにされていた。それでも、これはキリストについて宣言されている限り、キリストのしもべたち全員に当てはまることである。キリストがそうあられるので、私たちはもまたこの世にあってそのような者なのである。そして、このことを全く確実にすることとして、同じ表現が51章16節でも用いられている。そこでは、ご自分の民について神がこう仰せになっている。「わたしは……わたしの手の陰にあなたをかばい」。これは教役者のための卓越した聖句ではないだろうか? あなたがたの中で、イエスのために言葉を語ろうとするあらゆる人は、神の「手の陰」にいて、神の永遠の目的を成し遂げることを切望すべきである。神のしもべたちのいかなる者も、その主がおられなければ、戦士の手から離された武器で、何も行なう力のないものでなくて何であろう? 私たちは、主がその敵どもを射られる、主の矢のようになるべきである。そして、主の力の御手はあまりにも大きく、主の道具としての私たちはあまりにも小さいため、主は私たちをご自分の御手のくぼみに隠して、私たちを射放つときまで見えないようにされるのである。働き人として私たちは神の御手の中に隠されきっているべきである。あるいは、もう1つの比喩を引用すれば、神は「矢筒の中に私を隠した」。私たちは、神がお用いになるまで見えない者たるべきである。たとい主が私たちを用いられても、私たちがなぜか人々に知られないままでいることもあるであろう。だが、私たちが人目を引くことを目指してはならず、むしろ逆に、たといあの大使徒たちのように用いられても、真実にこう云い足さなくてはならない。「私は取るに足りない者で」[IIコリ12:11]、と。私たちの願いは、キリストの栄光が現わされることであり、自己が隠されることである。悲しいかな! 自分が何をしようと自己を顕示するというあり方があり、私たちはみなあまりにもそこへ陥りがちな者である。あなたは、貧者を訪問しても、お偉い旦那様が、あるいは、お偉い奥方様があわれなベッツィーをわざわざお訪ねくださったのだ、と感じさせるようなしかたでそうすることがありえる。だが、同じことを別のしかたで行なうこともできる。試練に遭っている神の子どもが、キリストにあって愛する兄弟、あるいは親愛な姉妹が、母鳥に対する同じ感情を表わし、自分の心に語りかけてくれたのだ、と感じるようなしかたである。ある種の説教においては、偉大な神学者があからさまに、その広大な学識や才識をひけらかしている。だが、別の種類の説教もある。そこでは、イエス・キリストの忠実なしもべが、自分の主に頼りながら、自分の《主人》の御名において語り、豊かな油注ぎを後に残していくのである。神の御手の内側には、受け入れられる場所、また安全な場所がある。そして、奉仕にとって、それは力の場所であるとともに隠される場所である。神だけが、ご自分の御手の中にある者たちを通してお働きになるのであり、私たちは、その中に隠れていればいるほど、より確実に神が、やがて私たちをお用いになるであろう。願わくは主が、そのみことば通りのことを私たちに行なってくださるように。「わたしは、わたしのことばをあなたの口に置き、わたしの手の陰にあなたをかばい」[イザ51:16]。この場合、私たちは先に述べた一切の情緒が合わさっているのを感じる。主がご自分の御手でわざわざ私たちを取り上げてくださることに対する畏怖。主がかしこくも私たちを用いてくださる安息と歓喜。私たちがいま弱い者から強い者にされるという信頼。そして、これに加えて、私たちの存在の大いなる目的が成就されるに違いないという絶対的な確信がある。というのも、《全能者》の御手によって前に進まされるものがその的をはずすことはありえないからである。

 これらは単なる表面的な思想にすぎない。この主題は、一連の講話を行なうに値するものである。私の愛する方々。あなたにとって最上なのは、こうした示唆を、みかげにとどまる個人的な経験によって、より詳しく自分のものとしていくことである。願わくは聖霊なる神が、あなたをそのようなあり方へと導き、そこにあなたを保ってくださるように。イエスのゆえに。

 

主のみかげに[了]

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