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罪とされたキリスト

NO. 3203

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1910年6月23日、木曜日発行の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」。――IIコリ5:21


 おそらく私は、この箇所からあなたがたに話をしたことが何度かあるであろう。いのち永らえることを許されるなら、私はここからその倍ほども多く説教したいと思う。これが教えている教理は、食卓上の塩のように、決して省かれてはならないものである。あるいは、いのちの糧であるパンのように、あらゆる食事の際にふさわしいものである。

 ここにキリスト教の基盤をなす真理を見てとるがいい。私たちの希望の基たる岩である。これこそ罪人の唯一の望みであり、キリスト者の唯一まことの喜び――大いなる取引、大いなる代償、大いなる、罪人から罪を取り除き罪人の《保証人》の上に置くこと、また、その《保証人》を罪人の代わりに罰し、そむく者が当然受くべき激しい怒りの鉢を、彼の《身代わり》の頭上にぶちまけること、また、この世でいまだかつて執り行なわれたことのある中でも最大の取引、また、地獄がいまだかつて眺めたことのある中でも最も素晴らしい光景、また、天そのものがいまだかつて成し遂げたことのある最も途方もない驚異――私たちの代わりに罪とされたキリストである。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためであった!

 この聖句の一言一句を説明する必要はほとんどないであろう。その意味はごく明らかだからである。しみなき《救い主》が、咎ある罪人たちの代わりに立たれる。神は、そのしみなき《救い主》の上に咎人の罪を置き、このお方が、この聖句の意味深長な言葉遣いによると、となるようにされる。それから神は、この無垢の《救い主》からその義を取り去り、それを、かつては咎を有していた罪人たちの勘定につけ、その罪人たちが義と――最高にして、最も神聖な源泉から出た義――キリスト・イエスにある神の義と――なるようにしてくださる。

 今晩は、この取引のことを考えてほしいと思う。これを崇敬とともに考えるがいい。愛とともに考えるがいい。喜びとともに考えるがいい。

 I. 代償という、この偉大な教理を眺めるとき、あなたがたの中でも、このことに関与している人たち、また、自分の罪がキリストの上に置かれたことを見てとれる人たち。私があなたに願うのは、《このことを敬虔な崇高とともに眺める》ことである。

 へりくだりと畏敬をもって、神の正義を崇敬するがいい。神は、あなたがたの魂を救おうと決心したが、不正を行おうとは思われなかった。たといそれが、あわれみという、ご自分の愛する属性を満たすためであっても関係なかった。神はあなたをご自分のものにしようと決意しておられた。あなたは、それにふさわしくない者であったが、神は世界の基の置かれる前からご自分の愛をあなたにかけておられた。それでも神は、あなたを救うためにご自分の正義を汚そうとはなさらなかった。神はすでにこう云っておられた。「罪を犯した者は、その者が死ぬ」[エゼ18:4]。そして神は、その言葉を撤回しようとは思われなかった。なぜなら、それはあまりにも峻厳な、だが全くもって正しく義なる威嚇だったからである。神は、ご自分の正義を汚そうとするくらいなら、ご自分のひとり子を柱に縛りつけ、鞭で打ち叩き、傷つけられた。罪が罰されずにすまされるくらいなら、その罪をキリストの上に載せ、それを罰された。――おゝ、いかにすさまじく、また、いかに恐ろしいしかたで打ち叩かれたことか! キリストであれば、それを告げることができようが、主があなたにそれを告げたとしても、おそらくあなたは神が罪についてお考えになることのすべては理解できないであろう。というのも、神は罪を憎み、忌み嫌い、罰さずにはおかず、また、確実に罰されるからである。そして、ご自分の御子の上に神は途方もない無限の重みを置かれ、ついには、この死に給う《贖い主》の悲嘆が、私たちの一切の想像や理解を完全に絶するほどにされた。ならば、神の正義を崇敬するがいい。十字架の根元においてでなく、地獄の深みでそうするがいい! おゝ、わが魂よ。もしお前が当然受くべき報いを受けていたとしたら、お前は神の御前から放逐されていたであろう! お前のために泣かれた、あのどんよりとした両眼をのぞき込む代わりに、燃える炎のような目[黙1:14]をした御顔をのぞき込まざるをえなかったであろう。「わたしは、あなたの罪をぬぐい去った」[イザ44:22参照]、と仰せになるのを聞く代わりに、私は主がこう仰せになるのを聞いていたであろう。「のろわれた者ども。離れて行き、永遠の火にはいれ」*[マタ25:41]。あなたは、十字架の上で明らかに示された神の正義に対しても、地獄において明らかに示された正義に対してと同じように敬意を表そうと思わないだろうか? あなたの畏敬の念をより深いものとするがいい。それは奴隷のそれではなく、しもべのそれでさえないであろう。だが、それと同じくらいへりくだったものにするがいい。深くひれ伏し、神の正義をほめたたえるがいい。その峻厳さに驚嘆し、その無限の聖さを崇敬し、熾天使たちと声を合わせるがいい。彼らは確かに十字架の根元においても、御座の前においてと同じく、こう歌っているであろう。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主」[イザ6:3]。

 この正義を賞賛する一方で、神の知恵をも賞賛するがいい。私たちは、被造世界に見られる万物において、神の知恵を崇敬すべきである。医師は、外科用小刀を手にしつつ、人体が形作られ組み合わされている解剖学的な手腕において、神の知恵を崇敬すべきである。旅人は、自然界の数々の驚異を通り抜けて行きつつ、世界の被造物における神の知恵を、その聳え立つ山々や、その未知の深淵によって崇敬すべきである。神の幾多の作品を学ぶ者はみな、この宇宙を1つの神殿とみなすべきである。そこでは、いかに流麗に要点をまとめようとしても、その器具什器すべての美しさと聖さを越えることはない。その神殿の中では、あらゆるものがエホバの栄光について語っているからである。しかし、あゝ! 十字架の根元には、知恵が凝集している。そのあらゆる光箭が、集光水晶体を用いたようにそこに集中している。私たちが眼前にしているのは、神がそこで、私たちには正反対のように思われる属性同士を和解させておられる姿である。私たちがそこに見る神は、「聖であって力強く、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行なう」[出15:11]お方でありながら、しかし、「咎とそむきと罪を赦す」[出34:7]お方であられる。神は、あたかも残虐であるかのように打たれる。正義ではないかのように赦される。全世界を審くお方[創18:25]ではないかのように罪を見過ごしにされる。あの放蕩息子を抱きしめることのできる優しい御父ではないかのように峻厳に罪を罰される。ここにあなたが見るのは、愛と正義が抱きしめ合っている姿である。その光景の素晴らしさは、熾天使たちを見習うようあなたに願いたいほどである。彼らは、今や自分たちがかつてはっきり見たいと願っていた[Iペテ1:12]ことを見てとり、自分たちの顔をその翼でおおっては[イザ6:2]、この知恵に富む唯一の神[ロマ16:27]を崇敬しているのである。

 さらに、愛する方々。このように神の正義と神の知恵とについて考えてきた後でも、やはりあなたの頭を垂れて、畏敬とともに神の恵みについて熟考するがいい。いかなる理由で神はそのひとり子を与え、私たちに代わって血を流させることにされたのだろうか? 私たちは重要さということでは虫けら同然であり、不義という点にかけては蝮も同然であった。神が私たちを救われたとしても、私たちは救われるに値していただろうか? 私たちは極度に忌まわしい反逆者どもであって、神が私たちを永遠の火によって破滅させたとした場合、神の御怒りのすさまじい実例となっていたであろう。だが、地上の反逆者どもが血を流さずにすむように、天の愛し子が血を流されたのである! これを告げるがいい。これを天で告げ、黄金の街路のすべてで、栄光の日々の毎日毎時に告知するがいい。神の恵みは実に、「そのひとり子をお与えになったほど」であった。「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」[ヨハ3:16]。

 そしてここで私は、あなたに崇敬を呼びかけつつ、この説教を閉じたい気がする。私自身、キリスト・イエスにある神の恵みの前で黙してひれ伏したいと思うのである。「御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう!」[Iヨハ3:1] それを、ゲツセマネを汚した血の汗のうちに見るがいい! ガバタ[ヨハ19:13]という名を恐怖に変えた鞭打ちのうちに見るがいい! かのカルバリの「苦痛、呻き、死に行く争い」のうちに見るがいい! ひれ伏す、と私は云っただろうか? 這いつくばらせるがいい、今あなたの霊を! あなたの最も甘やかな音楽を奏で上げるがいい。だが、あなたの魂には、深甚きわまりない卑下を感じさせるがいい。御父のひとり子なるお方のうちに、この神の恵みが何物をも越えて湧出している光景の前でそうするがいい。御父は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされた!

 このようにあなたが、すべてを貫く銀の糸のように、神の正義、神の知恵、神の恵みについて考えてきた後で、私はやはりあなたに、神の主権を崇敬してほしいと思う。これは、いかなる主権であろう。堕落した御使いたちには何の《贖い主》もいなかったが、人間は、取るに取らない人間は、堕落していながら、天のひとり子のうちに、ひとりの《救い主》を見いだすのである! また、このような主権も見るがいい。この尊い血は、私たちの中の一部の者たちにはやって来るが、他の者たちにはやって来ないのである! この世界の何百万もの人々は、そのことについて一度も聞いたことがない。それを聞いたことのある何十万もの人々は、それを拒絶してきた。左様。そしてこの、世界人口のごく小さな部分に当たる、今この建物の中にいる人々にあっても、いかに多くの者たちが、かの尊い血潮が宣べ伝えられるのを耳にし、また、愛に満ちた招きによってそれが提示されていながら、それをみすみす拒絶し、軽蔑するしかないことか! ならば、もしあなたや私がその力を感じており、その血が私たちを罪からきよめるのを見てとることができるとしたら、私たちはその差別し、分け隔てをする恵みを賞賛すべきではないだろうか? その恵みがあればこそ、私たちは異なるものとされているのである。しかし、そうした主権の中でも、私を最も驚愕させる部分は、神が、罪を知らないこのお方を、私たちの代わりに罪とし、私たちの《身代わり》なるキリストによって、救いを定められたということである。おびただしい数の人々が、この救いの計画を罵倒してきた。だが、もし神がそうお決めになったとしたら、あなたや私はそれを喜んで受け入れるべきである。「見よ」、と神は云われる。「わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く」[Iペテ2:6]。神の主権は、いかなる者もキリストの贖罪の犠牲によらずに救われることはない、と決定したのである。もしも誰かがきよくなりたければ、エホバはこう宣言しておられる。その人は、イエスがご自分の血管から満たした泉の中で自分を洗わなくてはならない、と。もし神が罪を取り除き、罪人を受け入れるようなことがあるとしたら、神はこう宣言しておられる。それはただイエス・キリストによってかの木の上でただ一度限り決定的にささげられたあのいけにえに、その罪人が自分の信頼を置くことによってのみなされる、と。この主権を賞賛し、それを崇敬して、それに服すがいい。難癖をつけてはならない。反逆的な意志よ。かしこまるがいい! 「なぜ?」、「どうして! 他に方法はないのか?」、と聞きたがるよこしまな理性よ。黙すがいい! わが心よ。屈するがいい! 「御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている」[詩2:12]。おゝ、荘厳な愛よ! その目的と同じほどに壮烈な手段よ! その意図と同じほどに栄光に富む計画よ! 救おうとのご意図に決して劣らず燦然と光輝いているのは、人間が救われるための方法である。正義はたたえられ、知恵は賞揚され、恵みはまばゆく輝き、神のあらゆる属性の栄光は現わされている。おゝ、死に給う《救い主》と一言口にされただけで、私たちはひれ伏して崇敬しようではないか!

 II. この話題を変えるのではなく、考え方を転換して私たちは、ご自分の民のために罪とされたイエス・キリストを、《愛とともに眺める》よう努めてみよう。

 この箇所にある一言一句は、私たちの愛の助けとなるであろう。「この方」という語は、私たちに主のご人格を思い起こさせるであろう。「神は……この方を、私たちの代わりに罪とされました」<英欽定訳>。――「この方」を!――神の御子、御父と同等にして、等しく永遠である、このお方を!――マリヤの子であり、ベツレヘムで生まれた、しみなき「人の子」を。「神は、この方を、私たちの代わりに罪とされました」*。私は、事細かに述べるつもりはない。ただ、このほむべきご人格をあなたの脳裡に明確に持ち出したいと思う。あの波浪を踏みしめたこの方を、病者を癒したこの方を、群衆に同情し、彼らに食物を与えたこの方を、いつも生きていて私たちのためにとりなしをしておられる[ヘブ7:25]この方を――「神は、この方を、私たちの代わりに罪とされました」*。おゝ、罪人よ。この方を愛すがいい。そして、あなたの心で次のように唱和するがいい。――

   「主の気高さは わが愛とらえぬ」。

私は、あなたに主を、まことの《人格》としてとらえさせたいと切に願う。いま主のことを架空の人物などと考えてはならない。左様。いついかなる折にも、決してそうしないようにするがいい。主をただの歴史的人物とみなしてはならない。歴史の舞台を歩きはしたが、今は去ってしまった者と思ってはならない。主は今あなたのそば近くにおられる。主は今も生きておられる。私たちはしばしばこう歌う。――

   「御座にむかえよ、万物(すべて)の主(あるじ)と」。

よろしい。これは、それと同一の、栄光に富む《お方》なのである。「神は、この方を、私たちの代わりに罪とされました」*。主について考えるがいい。そして、あなたの愛を主に向かって流れ出させるがいい。

 あなたは、さらにあなたの愛をかき立てたいだろうか? 主のご性格について考えるがいい。主は罪を知らないお方であった。主のうちには全く罪がなかった。というのも、主は、私たちの罪深い種々の欲望や、種々の悪しき傾向を何1つお持ちでなかったからである。「すべての点で、私たちと同じように、試みに会われた」が、「罪は犯されませんでした」[ヘブ4:15]。そのことを考え、それから読んでみるがいい。「神は、この方を、私たちの代わりに罪とされました」*。ここに「のためのいけにえ」という語を挿入し、「罪のためのいけにえ」と云うことによって、これを空しくしてはならない。この語は、この聖句の別の部分にある「義」という語と同格のもの――対置していると云ってもかまわないもの――なのである。神が主を罪とされたのは、神が私たちを義とされたのと同様である。すなわち、神は転嫁によって主を罪とし、それと同様に、転嫁によって私たちを義とされた。決して罪人であったことがなく、決して罪人となることがありえなかったお方の上に、私たちの罪は置かれた。主の聖なる魂が、罪とされることからいかに尻込みされたか考えてみるがいい。だがしかし、私は切に願う。預言者イザヤのこの言葉を無にしてはならない。「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」[イザ53:6]。主イエスは私たちのもろもろのそむきの罪を負い、私たちのもろもろの罪をご自分のからだにおいて、かの木の上で担われた。正義の法廷の前で、主の選民の咎は主ご自身の上に絶対的に移し替えられた。そこで主は、個人的には何の罪もなかったが、私たちの代わりに罪とされた。「それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」。主のきよく、無垢のご性質、また完璧なご生涯を思い、その主がご自分のものでもないもろもろの罪を負っておられるのを見るとき主を愛するがいい。そうした罪を贖うためにこそ、主は来られたのである。

 また、あなたの愛がかき立てられるのは、あなたがこの転嫁の困難さについて考えるときではないだろうか? 「神は、この方を、私たちの代わりに罪とされました」*。神のほか何者も罪をキリストの上に載せることはできなかったであろう。いみじくも、ある人から別の人に罪を移し替えることはできないと云われる。人間の世界に関する限り、確かにそれはありえない。だが、人には不可能なことも神には可能である。あなたは、キリストが罪とされるとはいかなることか分かっているだろうか? 分かっていないであろう。だが、そこに何が含まれているか、ある程度まで推測することはできる。というのも、主が罪とされたとき、神は主を、あたかも主がずっと罪人であったかのように扱われたからである。主は決して罪人であったことはなかったし、決して罪人となることはありえなかったが関係ない。神は主を、あたかも一個の罪人を放置するかのように放置し、主がこう叫ぶまでそうされた。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」[マタ27:46] 神は主を、あたかも一個の罪人を打つかのように打ちのめし、主の魂を「悲しみのあまり死ぬほど」[マタ26:38]とされた。罪ゆえにご自分の民から当然受けるべきもの、あるいは、それと同等のものが、文字通りに神の御子イエス・キリストの御手から取り立てられた。主は、私たちの負債ゆえに債務者とされ、それをお支払いになった。あなたは、私たちゆえに債務者とされることがいかなることであったかを推察できるであろう。私たちを債務から解き放つための代価となった苦痛から推察できるであろう。人の保証人となる者は苦しみを受ける[箴11:15]。そしてイエスは、この箴言が真実であることを見いだされた。正義がやって来て罪人を打ちのめそうとしたとき、それは罪人の立場にいた主を見いだし、容赦なく主を打ちのめし、さもなければ、全人類を永遠に地獄の最底辺へと押しつぶし込んだであろう重みを完全に主の上に載せた。そのすべてをお耐えになったことを思って、イエスを愛そうではないか。

 主にあって愛する方々。あなたの立琴には、私が触れたいと思う和弦がもう一本ある。それは、この聖句の語るところ、あなたが今いかなる者となっているかという考えである。あなたは、キリストにあって神の義とされている。神はあなたのうちに何の罪もご覧にならない。信仰者よ。神はあなたの罪を、あるいは、あなたの罪であったものを、キリストの勘定におつけになった。そして、あなたは神の前に無罪となっているのである。さらに、神はあなたを義であると見ておられる。あなたは完璧に義ではない。あなたのうちにおける神の御霊のみわざは、まだ完成していない。だが、神は、素のままのあなたがいかなる者かではなく、キリスト・イエスにおいてあなたがいかなる者であるかをご覧になる。そしてあなたは、「愛する方にあって受け入れられ」[エペ1:6 <英欽定訳>]ているのである。あなたは、神の御前にあって、しみや、しわや、そのようなものの何1つない者[エペ5:27]である。イエスが行なわれたことは、あなたの勘定につけられた。神はご自分の御子をあなたのうちにご覧になり、それで御子を愛するようにあなたを愛してくださる。神はあなたをご自分の御子と結び合わせてくださり、今やあなたは神にあってキリストとともにある者なのである。私は、あなたが努めて自分自身のこの立場、キリストにあって神の義とされている立場を理解しようとしてくれるものと思う。そして、そうするときあなたは確実に、こうしたすべてをあなたのために――値なき、無力な、死につつあり、咎ある定命の者たるあなたのために――行なわれた《救い主》を愛するであろう。おゝ、主イエス・キリストが今あなたがた全員の魂の中に火を送り、あなたがたにご自分を愛させてくださるならどんなに良いことか。というのも、確かに、もしあなたが主のなさったことを、また、主がいかにそれを行ない、そうすることが主にいかなる代償を払わせたか、またそれを行なった主がいかなるお方であられ、主がそれを行なってくださった相手であるあなたがいかなる者であったかについて、少しでも感じとりさえしたら、あなたはこう云うに違いないからである。「おゝ、あなたをしかるべきほどに愛する千もの心があれば、あなたをしかるべき賛美する千もの舌があれば、どんなに良いことか!」、と。

 III. そして今、《代償というこの事実を喜びとともに眺める》ことにしよう。

 そしてここで私が手始めに述べたいのは、信仰者としてあなたの罪がなくなるまで、かつ、信仰者としてキリストの義が現在のあなたの栄光の衣となるまで、あなたの救いはいかなる意味においても、あなた自身によって現実のものとなってはいない、ということである。それは、あなたの心持ちや感情に依存したものではない。あなたのもろもろの罪は、あなたの悔い改めによって取り除かれているのではない。その悔い改めは、あなたにとって、罪の赦しのしるしとなる。だが真のきよめを見いだすべき場所は、悔悟者の目の中ではなく、イエスの御傷の中である。あなたのもろもろの罪は、実質的にかの呪われた木の上で負債を払われたのである。あなたが、きょうのこの日、受け入れられた者として立っているのは、決してあなたが今いかなる者であるかとか、いかなる者となりえるかとか、いかなる者となるはずであるかによっているのではなく、全く、また、完全に、イエス・キリストの血と義とによっている。私が思うに、この真理はいかに大胆に述べても十分ということはありえない。これこそ、宗教改革の教理そのもの――信仰のみによる義認――である。あるいは、むしろ、宗教改革の土台たる教理である。そして私の確信するところ、このことは平明に宣べ伝えられれば宣べ伝えられるほど良い。これは、失われた、また、滅びてしまった世界に対する救いの福音だからである。

 愛する方々。あなたの場合もそれと類似している。あなたは負債を負っており、昔の法に従えば、投獄されなくてはならない。あなたは法廷に引き出されている。あなたは、自分が負債を負っていないと申し立てることはできない。そこに立って、こう云わざるをえない。「こうした告発の1つ1つについて私は認めます。これらの債務を私は負っており、私はそれを支払うべき一銭も所有しておりません」。すると、その法廷にいた、富裕で気前の良い友人が、その借金を支払ってくれる。さて、あなたが晴れて法廷を出て行ける唯一の理由は、あなたの友人によってなされた支払いにある。あなたが法廷から出て来ることができたのは、あなたが決してその借金を負わなかったからではない。しかり。あなたはその借金を負っていた。また、あなたが認めざるをえないように、あなたが法廷から出て来ることができたのは、あなたが無罪を申し立てたからでも、二度と借金などいたしませんと約束したからでもない。そうではない。いくらそうしたことをしても、あなたの役には立たなかったであろう。あなたの債権者はそれでもあなたを牢屋に入れていたことであろう。あなたが法廷から出て来たのは、あなたの人格が衆にすぐれていたためでも、あなたが自分の人格をそのように改造できると希望しているためでもない。あなたが自分の債務から解放される唯一の根拠は、別の人があなたの代わりにそれを支払ってくれたという事実に見いだされる。それは、あなたが行なった、あるいは、これから行なうことになるいかなる行為によっても影響されることはないであろう。あなたは、きょうは気分がすぐれないかもしれない。二十もの病の下で苦しんでいるかもしれない。だが、そうした病があなたを牢獄に入れることはないであろうし、それらがあなたを自由にする助けになることもないであろう。あなたの自由は、その負債が他者によってあなたの代わりに支払われたという事実に依拠している。さて、キリスト者よ。ここにあなたの希望と慰めがかかっている。これが、あなたの救いを堅く鋲締めする金剛石の目釘である。イエスはあなたの代わりに死なれた。そして、私たちがいま用いているような意味において、イエスが死んでくださったと云える者たちは救われており、救われていずにはいられない。永遠の正義が1つの違反についてふたりの者を罰することがありえない限り、また、永遠の正義が同じ負債について二重払いを――最初は血を流す《保証人》から、次に、その《保証人》が死んで救おうとした者たちから――要求できるのでない限り、イエスが死んでくださった者らは晴れて自由の身であるに違いない。これが私たちの宣べ伝えている福音である。おゝ、幸いなことよ、それを受けている者たちは。というのも、このことを知ることは彼らの喜びだからである。彼らは、咎あり滅びていた者たちであったし、今なお罪人ではあるが、それでも、キリストが自分たちのものであると信じたがゆえに、キリストは彼らのもろもろの罪を取り去り、彼らの負債を払ってくださったのである。そして、神ご自身も、キリストによって義と認められた者を決して告発することはおできにならないのである。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」[ロマ8:33-34]。

 さて、キリスト者よ。私はあなたが今晩やって来て、このことを自分のものとすることを望む。何と、人よ。こう考えることはあなたの魂をあなたの内側で喜びに踊らせるはずである。罪は赦されており、義はあなたに転嫁されているのである。キリストはあなたを救っておられる。これは不変の事実である。もしこれが一度でも事実であったとしたら、それは常に事実である。もしそれが一度でも真実だったとしたら、それは常に真実であり、常に同じように真実である。あなたが抑鬱している今も、喜んでいた昨日と同じように真実である。イエスの血潮は、あなたのあわれな心のように変わりはしない。それは市況のようにその価値を上下させたり、あなたの信仰のように変動したりしない。もしあなたが救われているなら、あなたは救われているのである。もしあなたがこの血潮により頼んでいるなら、あなたは昨日と同じくらいきょうも安全であり、あなたは永遠に同じように安全である。覚えておくがいい。このことは、あらゆる聖徒について同じように真実である。これは偉大な聖徒たちについて真実であるが、卑小な聖徒たちについても真実である。彼らはみな、この真紅の天蓋の下に立っており、このほむべき陰によって、天来の正義の光箭から同じように保護されているのである。これは、あなたにとって真実なのである。おゝ、愛する方よ。この真実に応じた生き方をするよう努めるがいい! 「去れ、わが疑いよ。去れ、わが恐れよ。私は殺された《救い主》に信頼しており、私は救われているのだ! 去れ、わが疑念の数々よ。去れ、私の肉的な理屈の数々よ! 私は私のもろもろの罪を憎む。だが私は私の《救い主》を疑うことはできない。私がキリスト者としてしかるべき生き方をしてこなかったことは真実だが、私はそれでも、主の御腕に身をゆだねるのだ」。自分が聖徒のように感じるときに聖徒として神に信頼するというのは、信仰ではない。信仰とは、自分が罪人であると意識しているときも、罪人としてキリストを信頼することである。キリストのもとに来て、自分自身をきよいと思うことは、キリストのもとに来るしかたとしては悲しいことである。むしろ、あなたの一切の汚れとともにやって来ること、これが真に来るということである。

 罪人よ。私はあなたに云う。聖徒よ。私はあなたに云う。私はあなたがた全員にこの1つのことを云って、話を閉じよう。あなたの魂が最も深い暗黒のうちにある時には、血のほか何も求めてはならない。種々の備えや、へりくだりや、悔い改めることにすがりついてはならない。こうしたすべてはそれなりに良いものだが、それらは傷ついた良心に対する香膏にはなりえない。キリストが、そして、十字架につけられたキリストが、あなたに必要なものである。内側を見つめてはならない。外側を見るがいい。私は云うが、あなたが悔い改めるとき、それがあなたをキリストにより頼ませないとしたら、それは卑しい悔い改めである。というのも、悔い改めは片方の目を罪に向けているべきだが、もう片方の目を十字架に向けていなくてはならないからである。悔い改めはあなたの身を卑しめるべきだが、それでも、それがあなたを救うキリストの力をあなたに疑わせるとしたら、それは悔い改めではなく不信仰である。キリストは決して義人を救うために来たのではなく、罪人たちを救うために来たのである。私があなたに望むのは、次のように信ずることによって、神の恵みをほめたたえることである。すなわち、あなたの罪が真正面からあなたを睨みつける時も、あなた自身がそのことを最も痛感し、これほどそれがはなはだしいことはなかったように思われる時も、キリストはあなたにとって、また、あなたのためには同じであられ、あなたの栄光に富む《保証人》、かつ、あなたのほむべき賠償であられるということである。なおも信じ、なおも信頼するがいい。あなたの信頼を手放してはならない。キリストは罪人を、そのかしらさえも救うことがおできになる。そして、あなたの行ないや感情の助けを借りなくとも、あなたをお救いになる。主ご自身の右の御腕が、主に勝利をもたらすのであり、神の憤りの酒ぶねをひとりで踏まれた[イザ63:3]主は、あなたを、ただご自分のいのちとご自分の死との功績によってのみお救いになるであろう。おゝ、《救い主》のうちに休らい、この聖句の真理を知ることのできる恵みがあるように。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです!」

 

罪とされたキリスト[了]

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