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神の御救いとして見られるキリスト

NO. 3177

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1909年12月23日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「私の目があなたの御救いを見たからです」。――ルカ2:30


 このシメオンの歌は、何千回となく、無頓着で考えなしの人々によって歌われてきた。だが、確かにこれは、信仰を有する唇以外からは決して発されるべきでない歌の1つである。これをただの典礼式文の一部とし、破廉恥な生き方をしている人々が、「私の目があなたの御救いを見た」、と歌うのは、神の御前で実におぞましい罪であるに違いない。このような言葉を、その意味について考えることもせずに、あえて用いようとしてきたすべての人々は、神の御前で自分の罪を告白し、これまで軽薄きわまりなく発してきたこの言葉を、神が真実なものとしてくださるよう願うがいい。そして、死んで目を閉ざす前に、自分も神の御救いを見られるように願うがいい。

 I. 私は、まず第一に、《この聖句をシメオンの唇からこぼれたものとして取り上げ》、彼の導きに従おうと思う。

 シメオンの主立った考えから始めよう。彼は宮にやって来た。そこに小さな赤子を見た。そして、その新生児のうちに、約束された《救い主》イエスを認めた。そして、その《救い主》を腕に抱きかかえながら、彼は、「私の目は見た」、と云った。――何をだろうか? 「あなたの御救いを見た」。神の御救い――その救いの作り手だけでなくは、その救いそのものを見た。ここから推察するに、私たちは、イエスを見てとるときは常に、神の御救いを見てとるのである。私たちの目が霊的に神のキリストに出会うときには常に、そこに神の御救いを見てとるのである。ベツレヘムの飼い葉桶の中においてであれ、カルバリの十字架上においてであれ、彼方の栄光の御座――そこから主が生ける者と死んだ者とを審かれる御座――の上においてであれ、主を見てとるいかなる場所においても、私たちは神の御救いを見てとるのである。

 では、しばしの間、私たちの《救い主》の生涯に、あなたの思いを馳せさせてほしい。代々を越えたはるか昔、まだこの世界も太陽も月も創造されていなかったとき、――神だけが住んでおられたとき、――そのとき、神の予知の中では、人間が罪を犯すだろうことは明白であった。――選ばれた人々、神に愛された人々も同じ破滅に陥ることは明白であった。それから、壮大な論戦がやって来た。その壮大な疑問は、ただ天の至高の知性によってしか解くことができなかった。「いかにして、罪人たちは神と和解させられることができようか?」 そして、1つの契約が締結された。ダビデが「蔓具(よろず)備りて鞏固なる」と歌った古の契約[IIサム23:5 <文語訳>]である。ほむべき《神格》の第二位格であるイエスは、その御父と契約を結ばれた。それは、時が満ちるに及んで、主が罪人の立場に立ち、その罪人の負債をお支払いになるということ、御父が主にお与えになる人々のかしらとなって、第二の、そして彼らに回復を給うアダムとなられるという契約であった。第一の、そして堕落することになるアダムを通して、彼らは、他の者らとともに滅びることになったが関係ない。それから、その契約に署名がなされ、双方がその壮大な取引の契約を結んで、その約定を批准したとき、私の目は、その広大な永遠をのぞき込む際に、また、聖なる好奇心をもってその会議室を見通したいと願う際に、イエス・キリストというお方のうちに神の御救いを認めるのである。

 信仰によっては、ここまでしか見ることができなかった時代が続いた。世界が創造され、人間が堕落した後でさえそうであった。だか、時が満ちたとき、ある日、ご自分の民を救う契約をかつて結ばれたイエス・キリストが、そのみわざを実行するためにやって来られた。おゝ、その日の壮麗さよ! その日、御使いたちは急いでやって来ては、その赤子がベツレヘムで生まれたと歌った! あゝ、シメオンよ! あなたがそこに見ているのはただの赤子ではない。――ひとりの女の胸にしがみついている幼子ではない。――それは受肉した《ことば》、ロゴスなのである。造られたもので、この方によらずにできたものは1つもない[ヨハ1:3]お方なのである。仰せられると、そのようになる[詩33:9]お方が、そこに横たわっているのである。「光よ。あれ」、と仰せになると光ができた[創1:3]お方、――雲々の釣り合いを取り、宇宙の軸受を固定されたお方、そのお方が、子どものからだをとってそこにおられたのである。マリヤの《子》は、神の子でもあられる。そして、愛する方々。あなたが受肉した神を眺めるとき、また、この驚異的な神秘、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」を見てとるとき、また、このお方によって選ばれた者たちがこのお方の栄光――「恵みとまことに満ちておられ」、「父のみもとから来られたひとり子としての栄光」[ヨハ1:14]――を見るときは常に、――そのとき、あなたが人の肉体に包まれた神を見てとるときには常に、――あなたは神の御救いを見ているのである。

 あなたの愛の目によって、この赤子が成人する時までついて行くがいい。三十年の間、ご自分の父親と称されていた人物に従いつつ、ヨセフの大工仕事場で、手斧と鎚を扱っておられるこの方を見るがいい。「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし……」[ピリ2:8]。その、最もほむべき三年間の伝道活動におけるこの方を見るがいい。この歳月の中に、いかなるみわざがひしめいていたことか! 神の家を思う熱心が、いかにこのお方を食い尽くしたことか![ヨハ2:17] 荒野で神の羊を飼っておられた時、また、その真夜中の祈りにおいて、山の縁で彼らの番をしておられた時、いかに夜露がこのお方に降りかかったことか。しばしばこのお方の汗は、日中の奉仕において流れ出た。しもべたちの《しもべ》として、このお方がご自分のすべての兄弟たちのために供した奉仕である。このお方のように骨折って労苦した者らのうち、この方ほど熱烈に行ない、この方ほど完璧に行ない、この方ほど喜んで行ない、この方ほどご自分の全精神機能を、一切を飲み込むようなそのみわざへと完全に服させてそうした者はひとりもいなかった。聖徒たちの義を眺めるがいい。このキリストのみわざが、聖徒たちを着飾る衣を作っているのである。主の能動的な従順は、神の聖なる律法に対する私たちの違反を補償するものを神にささげる。能動的に従順であられたキリストのうちに、あなたは神の御救いを見ているのである。

 しかし、あゝ! あなたの目に涙をあふれさせるがいい。主の能動的な従順から、受動的な従順へと目で追って行くにつれて、そうするがいい。私は、たった今、ある節の途中でとどまった。「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし……」。先へ進むと、こう記されている。「死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです」[ピリ2:8]。このお方は、向こうの園の中で、橄欖に囲まれておられる。その吐息が、その深い呻きが聞こえるだろうか? その血の汗粒が地面にぽたぽた落ちていることに気づいているだろうか? このお方は懇願している。「できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」[マタ26:39]。だが、それはできることではない。あなたは、かの悪漢の口づけも頬から乾かぬうちに、この方がせき立てられていくのが見えるだろうか?――裏切りの手によってカヤパのもとにせき立てられ、――ピラトとヘロデのもとにせき立てられ、次から次へと、至る所で嘲られ、あざ笑われているのが見えるだろうか? このお方、そのかんばせは日が上るときの朝のように明るく、その顔立ちはレバノンのよう、杉のように麗しい[雅5:15]お方、このお方を彼らは鼻であしらい、嘲弄しているのである。御使いが静まり返った畏怖とともにのぞき込む、このお方の御顔に、彼らはその呪わしいつばきを吐きかける。彼らはこのお方を殴りつけ、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」[マタ27:29]、と叫ぶ。この方が王であることをからかっては茨で冠を作り、この方が祭司であることをからかってはその目に目隠しをし、「言い当ててみろ。今たたいたのはだれか」[ルカ22:64]、と云っている。思い出すがいい。このような恥辱を加えられているお方が、神の御救いであることを。この方は、地上で最も卑しい下郎よりも低くされている。それは、私たちを天の最も輝かしい熾天使よりも高く上げるためであった。このお方がおられた天の卓越した高みから、この恥辱のどん底まで下ってこられたのは、私たちの恥辱すべての中から、私たちを天上の卓越した高みへと引き上げるためであった。

 それから、ついに最高潮に達する。この忍耐強い受苦者はその手を鉄に引き渡し、その足を釘に引き渡す。彼らは、この方を引き上げる。悪漢のようにして、この方は死ななくてはならない。宿営の外で[ヘブ13:11]苦しまなくてはならない。私たちの代わりに罪とされた[IIコリ5:21]この方は、人々の中にいることはできない。そむいた人たちとともに数えられ[イザ53:12]なくてはならない。この方の背後にある、名状しがたい肉体的な苦痛による死よ! しかし、心に留めておくがいい。最悪なのはこのことであった。――神は、善人たちがその死の際に援助を期待して待つ神は、この方を助けることを拒まれた。有徳の人々を決して見捨てたことのないエホバは、この方を――万人の中で最も有徳なこの方を――お捨てになった。私たちの城であり、やぐらであり、私たちの城壁であり、危難のときの守りであられる神は、いわば、この方から御顔を隠された。そして、あの、あらゆる叫びにまさって悲惨な叫び、地獄に断罪されている者どもの一切の悲鳴と同じほど悲嘆のこもった叫びが上がった。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」[マタ27:46]。そこにこの方はおられた。見捨てられておられた。だが、この方は神の御救いであった。というのも、この方については、――

   「われらが決して 受けぬため
    御父の憤怒(いかり)を 受け給いぬ」――

と云えたからである。この方が、天から放逐されることを忍んでくださったからである。それは私たちが、卑しい者ではありながらも、天来の御胸に抱かれ、天来の情愛によって愛されるためであった。

 これがすべてではない。十字架上で征服されたこの方は、三日目によみがえり、その勝利を請求された。この方を見るがいい! 死者の中からよみがえられる際のこの方は、神の御救いである。おまえのとげはどこにあるのか。死よ? おまえの勝利はどこにあるのか。傲慢な墓よ?「Iコリ15:55」 エホバなるイエスは私たちを死から救われた。この方は墓所からよみがえられた。昇天するこの方を見るがいい! その栄光であなたの目をくらまされすぎてはならない。この方は、壮麗な行列を率いて天の門へと乗りつけられた。あなたの耳には、今もかの歌がこだましている。「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる」[詩24:7]。そこにお入りになる方が私たちを救い、人々のための賜物を受け取りに行かれたのである[詩68:18 <英欽定訳>]。この方がそこに入られたのは、この方の民全員がそこに入ったということである。というのも、この方は彼らの《代表者》であり、彼らに代わって天国をわが物にされたからである。私たちに代わってそこにおられる以上、私たちは救われている。この方が御座に着いておられるということは、神の御救いが存在しているということである。

 もし時間さえ許せば、この物語を続けて、あなたに指摘したいと思う。この方が今なお、ほふられたと見える小羊[黙5:6]として、その決してやむことのない懇願により、常にかなえられるとりなしをささげておられることを。私たちはこのお方が再びやって来られる日を待ち望むよう、あなたの信仰に命じたいと思う。そのとき、この方は、罪のいけにえを携えてではなく、救いのために来られる[ヘブ9:28]。そしてあなたや私は、この方を見て、神の御救いを見るであろう。私たちのからだは完璧なものとなり、もはや弱ることも苦しむこともなくなり、この方の栄光のからだ[ピリ3:21]と同じようになる。私たちの前に旅立った兄弟たち、今この瞬間も、紫色のヒースの中に黙せるその墓の中で、あるいは、混み合った共同墓地の中で、あるいは、冷えた地下納骨所の中で眠っている人々、彼らもこの方の再臨の声を聞くであろう。そのとき、伝令の喇叭の音は世界に告げるであろう。主がやって来られたことを知れ、と。そして、彼らは――

   「ちりと黙(もだ)せる 粘土(つち)の寝床(とこ)より
    永遠(とわ)の真昼の 領土(みくに)へと」――

その凱旋の道を飛んで行くであろう。というのも、イエス・キリストは彼らにとっても、私たちにとってと同じく、神の御救いであられるからである。それが、シメオンの考えであったと思う。私たちは、彼の金塊を多少とも叩いて形作り、あなたにこう示したにすぎない。イエスがおられるところに、神の御救いがあることを。

 II. さて今、第二のこととして、《私たち自身の自叙伝の何頁かを取り上げる》ことにしよう。

 この聖句は云う。「私の目はあなたの御救いを見た」*、と。シメオンにこの言葉を独占させておいてはならない。私はこの言葉を自分のものとして請求する。「私の目はあなたの御救いを見た」。兄弟姉妹たち。あなたがたの中の多くの人々は、霊的な意味で、世を去る間際のこの長老と同じ言葉遣いを用いることができるであろう。あなたもまた、「私の目はあなたの御救いを見た」、と云えるであろう。あなたも、私が自分の人生の書の頁をめくってみる間に、あなたの人生の書をめくるではないだろうか?

 よろしい。最初の方の何頁かを読む必要はあるまい。私たちが罪の状態にあった頃の頁である。涙をこぼして、それらを拭い去るがいい。血に染まった、イエスの愛しい御手よ、そのあらゆる頁を隅々まで拭ききよめ、それを永遠に抹消し給え! しかし、この最初の明るい頁は何だろうか? それは、私たちが生き始めた頁である。私たちの霊的誕生を記録している頁である。そして、その頁の真中あたりには、こう書かれていることに気づくと思う。「きょう、私の目はあなたの御救いを見た」、と。その日のことを私はよく覚えている。私はあちらを眺め、こちらを眺めていた。これが私の疑問だった。――私は神の怒りを招いてしまった。いかにして神は私を赦せるだろうか? 神はあわれみ深いお方であると私に告げても全く無駄であった。それに対する答えを私は有していた。「神は正義であられる」。「罪など些細なことだ」、と云っても何にもならなかった。そのようなことを信ずるほど馬鹿ではなかった。罪は私にとって重かった。では神にとっていかなるものに違いないことか。私が答えを欲していた質問はこうであった。――いかにして神は、正義の中にとどまりながら私のもろもろの不義を見のがすことがおできになるだろうか? そのとき私は、あたかも一瞬のうちに、この甘やかな物語を学んだのである。それは、これまで私が様々なかたちで一千回も喜んで告げてきた物語である。すなわち、イエスが来て、こう云われたというのである。「わたしが罪人の《保証人》となりましょう。わたしが彼の呪いと破滅の立場に立ち、彼に代わって苦痛の罰を忍びましょう。彼に代わってわたしは死をさえ忍びましょう」。私は学んだ。もし私がイエスを仰ぎ見るなら、――ただ仰ぎ見るなら、それですべてである、と。そして、もし私が単純にイエスを信頼するなら、私は救われるというのである。私は仰ぎ見た。そして、幸いな日よ。私の目は神の御救いを見た。かの代償というほむべき教理、かの単純な命令、「信じて生きよ」、それこそ、私の魂がのぞき込んで、神の御救いを見てとった鏡であった。

 しかし、もし私が正しく記憶しているとしたら、もう少し経ってから、――私の場合、それは、自分の罪が赦されたのを見てとってから一週間と経たないうちだったが、――私は別の困難のうちにあるのを感じた。私は、自分がしたいと思うことをできないことに気づいた。私は、今や二度と決して罪を犯さないつもりでいたのに、現実には罪を犯した。聖くなろうとしたのに、自分のなりたい者にはならなかった。私は呻き、叫んだ。「この私の悪の心からの救いはどこにあるのですか? この性質の腐敗からの救いは?」 そして、今もよく覚えているが、私が《救い主》について聞いたのと同じ場所に出かけて行ったところ、その教役者はこう宣言したのである。もし誰かが、自分の中に悪しき性質を感じるとしたら、救われてはいないのだ、と。「あゝ!」、と私は考えた。「そんな馬鹿なことがあるものか」。それは私に納得の行かないことであった。というのも、私は自分がキリストを仰ぎ見たときに救われたと知っていたのに、パウロがこう云ったときにいた状況にあるのを見いだしていたからである。「私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです」[ロマ7:18]。そのときの私は、自分に向かってこう云うかのようであった。「わが意志はいとも移ろい、我れいかに立たん? わが力いとも弱くて、いかに罪に抗うべき?」

 あゝ! そして私はよく覚えている。私が、以前よりもずっと力のこもった意味において、こう云えた日のことを。「私の目はあなたの御救いを見た」。というのも、みことばを探っていたとき、私は、キリストを信じた者に永遠のいのちがあることを悟ったからである。そして、永遠のいのちとは、ほんのしばらくの間しか保たないようないのちではない。それは、文字通りのもの――永遠のいのち――である。それから私がみことばの中で悟ったのは、この永遠のいのちに抗して、罪と死との古いからだが戦うこと、だが、新しいいのちは生きた朽ちることのない種であり、それは「生ける、いつまでも変わることのない」[Iペテ1:23]ものだということであった。そして私は使徒のこの言葉を発見した。「神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」[Iコリ15:57]。それは壮大な発見であった。私は、神から与えられたいのちが、神が死ぬことがありえないのと同じくらい死ぬことがありえないことを悟った。そのいのちが神ご自身からの光箭であること、神が私を天来のご性質にあずからせておられること、それは私が世にある欲のもたらす滅びを免れ[IIペテ1:4]ているためであること、《いと高き方》の御霊が信仰者に与えられており、彼の中に住んでおられること、永遠に彼とともにおられること、また、この働きをお始めになったお方は、それを実行し続け、私たちの主なる《救い主》イエス・キリストの現われの日までに完成してくださる[ピリ1:6]ことを悟った。

 その真理を学んだとき、私は、それまで一度も神の御救いを見たことがなかったかのように感じた。私は最初のときは、それをごく僅かしか見てとっていなかった。確かに、そのときも喜びに躍り上がりはしたが、この第二の発見をしたとき、私は見たのである。私を罪の咎から贖われたお方は、それと同じくらい確実に私を罪の力からも贖い出してくださることを。私を岩の上に立たせたお方は、私をそこに保ってくださる。私を天国への路に置いたお方は、そのすべてのしもべたちについてこう述べておられた。「わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える」[エレ32:40]。それは恵みに満ちた発見であった! あなたがたの中のある人々が有していると告白している二束三文の救い――ほんの一日二日か、せいぜい何週間かしか保たず、その後では、なくなってしまうような救い、――きょうキリストのうちにあるかと思うと明日は離れ去っているような救いとは全く違う! キリストは彼らの罪を赦しておられるが、しかし彼らは、キリストが彼らに救いを与えておられないと考えているのである! しかし、「神の賜物と召命とは変わることが」ない[ロマ11:29]と知ること、また、神が、「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」[マコ16:16]、と云っておられるのを知ること、「義人は自分の道を保ち、手のきよい人は力を増し加える」[ヨブ17:9]こと、また、キリストのこのみことば、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」[ヨハ10:28]、が堅く立つこと、これは神の御救いをより広い光に照らして見ることである。私は祈る。話をお聞きの、すでにキリストを見てとっている方々ひとりひとりが、さらにキリストについて見てとり続け、ついには、この《愛するお方》にあって自分が完全に安泰であることを悟るように、と。

 しかし、それより先に、(そして、私の場合これはずっと後になってからであったが)、私を咎から救ってくださったキリストが、私を罪の力からも救うと誓っておられるのを発見した後で、私は新たにキリストが神の御救いであられることに気づいた。私は、半分は思索により、半分は書かれたみことばの明確な証言により発見したのである。キリストを信ずるあらゆる魂がキリストを信じているのは、神が彼にキリストを信じさせておられるからだ、と。また、その魂に関しては、その魂が信仰者になるという神によって定められた目的があり、その目的は永遠の昔から定められていたこと、また、一度作られたその目的は決して変わることがありえないことを。それは、動かされることがありえない青銅の山[ゼカ6:1]のようであった。私は云うが、キリストにある信仰者の救いは、そうした人々自身の意志にではなく、神のみこころに依存していたのである。また、その人を救った決心は、その人自身の決心ではなかったのである。こう書かれている通りである。「事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです」[ロマ9:16]。何と、私は今も覚えているが、それは私にとって、一番最初の発見と同じくらい素晴らしい発見であった。私は、それ以前はいのちの水に踝まで浸かっていたが、今や胸のところまで浸かっていた。では、私にこう云う以外のことができただろうか?――

   「かくあるわれは、恵みの記念碑(かたみ)、
    血にて救わる 罪人なるぞ。
    愛の流れを われは辿りて、
    その源にます 神に至りぬ。
    その御胸(みむね)にぞ われは見ゆ
    我れへの愛の 永久(とわ)の思いを」。

ここにおいて、「私の目は神の御救いを見た」。――その源、その秘密の源泉、その永遠、その不変性、その神聖さを見た。私は祈るものである。重荷を負っている、あらゆる神の子どもたちが、やはりこのことを見てとるように。そうするとき、その人は真実に心の喜びゆえに歌うことであろう。

 愛する兄弟たち。私たちは、たとい全員がここまで達したとしても、必ずしもその先まで進んではいないであろう。だが、もう1つの真理を見るように導かれているとき、それは非常にほむべきことである。すなわち、生かされた、あらゆる信仰者は、イエス・キリストと1つなのである。「私たちはキリストのからだの部分だからです」[エペ5:30]。天におられるキリストは、その救われた者たちひとりひとりのうちにおいて、この地上にいる同じキリストである。彼らはみな、キリストの部分なのである。キリストと彼らの間には、生きた結びつきが存在している。それでキリストがいかなることを行なわれようとも、彼らもそうしているのである。彼らはかつてキリストと1つであった。あの墓の中にあって1つであった。キリストがよみがえられたとき1つであった。キリストがその数々の敵に勝利を収められたとき1つであった。そして、キリストがこのようにある今日も、1つなのである。――

   「今や天にて 主は御座に着き、
    熾天使(セラフ)歌えり、地獄(よみ)の敗北(まく)るを」。

あらゆる信仰者は、指がからだと1つであるようにキリストと1つである。もし私が自分の指を失ったとしたら、自分のからだについては完璧な人にならない。それで、もしキリストがそのからだの最も卑しい部分をさえ失ったとしたら、失われたのはキリストの一部分なのであり、キリストは完璧なキリストにはならないであろう。私たちは、分離不可能な、生きた結合によってイエスと1つなのである。そして、もしあなたの魂がこのことを理解するなら、あなたは手を打ち鳴らして御父に申し上げるであろう。「私はまことにあなたの御救いを見ました。というのも、今や私は自分が天にいると見てとっているからです」。神は、「私たちを……キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」[エペ2:4-6]。私たちは、私たちの《代表者》にして契約の《かしら》なるキリスト・イエスにおいて、救われ、栄化されているのである。

 それでも私は、まだ、この主題を云い尽くしてはいない。そして、ただ祈るものである。あなたや私が、さらにさらに、神の御救いの高みと深みを知り続けていくように、と。たった今、私は、説教を始める前にはこう考えていた。もしもあなたや私が、かの悲惨な世界を見下ろすことが一度でも許されたとしたら、――もし未来の何らかの状態において、一度でも、神から追い出された罪人たちが自らのもろもろの罪の正当な報いに苦しんでいる、暗黒と絶望の国をのぞき込むようなことがあるとしたら、――もし私たちの目が一度でも彼らの苦悶を見てとり、私たちの耳が一度でも彼らの絶望の叫びを聞きとるとしたら、私たちは、他の事がらとともに、こう云うはずだ、と。「わが神。私はこれまで一度も知りませんでした。あなたの御救いがいかに大きなものであるかを。というのも、あなたのあわれみがなければ、私もあそこにいたはずだからです。地獄について何らかのことを見るまで、私はいかに大きなものをあなたに負っているか分かりませんでした。私は、その高みと深みとにおいて、私の目があなたの御救いを見たとは云えませんでした」。

 そして、兄弟たち。(それを、より良い、より快い光に照らして云い表わせば)――

   「御座のみまえに われ立ちて、
    わがものならぬ ころも着るとき」、――

また、私が主を見るとき、――そして、私は主を見るはずである。ヨブとともに、「この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない」[ヨブ19:27]、と私は云えるからである。――また、あなたや私が自分の冠を主の足元に投げ出すとき、また、あの白い衣を着た群衆とともに声を上げて永遠のハレルヤを叫ぶとき、そのとき私たちは云うであろう。「わが神、わが父よ。『私の目はあなたの御救いを見ました』」、と。

 III. 時間が尽きてきたため、先へ進み、本日の主題の第三の部分にしばし時間をかけなくてはならない。それは、このことである。《この場にいるある人々は、これまで一度も神の御救いを見たことがない》

 福音は彼らに対して隠されている。そして、もしそれが隠されているとしたら、それが隠されているのは、私たちが、それを隠すような難解な言葉を用いてきたためではない。「私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて……いるのです」[IIコリ4:3-4]。目をくらまされている罪人たち。あなたは神の御救いを見たいと願っているだろうか? 「あゝ!」、とあなたは云うであろう。「私が自分の心を見誤っていないとしたら、そう願っています」。何と、ならば、あなたはそれが見えないのだろうか? これは平明きわまりないことだというのに。あゝ! 分かった。あなたの目は密封されているのである。

 あなたの目に鱗のようにへばりついているのが見える最初の封印は、(そして、それをあなたに代わって取り去ることができれば、と思うが)、このことである。あなたは、自分が何か救いを必要としていることさえ信じていない。自分に救われる必要があると信じていない人は、もちろん、決して神の御救いを見ることはないであろう。心中あなたはこう云っているのである。「自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」[黙3:17]。だが、私の愛するあわれな方々。あなたに対する神の意見を確信するがいい。そちらの方が、あなたの意見よりもずっと真実に近い。あなたは裸で、盲目で、貧しくて、みじめな者である。あなたは失われ、滅びており、こう書かれている通り、さばかれている。「信じない者は……すでにさばかれている」[ヨハ3:18]。その鱗は取れただろうか?

 さて、私には別の鱗が見える。(それも取り去ることができればと思うが)、それはこうである。あなたは自分が盲目であると分かっているが、こう云っている。「私は自分で自分を救おうと試みなくてはならない」。これは、非常に分厚い鱗である。これがあなたの目に貼りついている限り、決してあなたにものは見えない。あなたは、シメオンがこれをいかに云い表わしたか注意しただろうか? 「私の目が私自身の救いを見たからです」、ではなく、「私の目があなたの御救いを見たからです」、である。すなわち、神の御救い、主の御救いである。あわれな人よ。あなたに告げさせてほしい。もしあなたが救われるようなことがあるとしたら、あなたの救いは、最初に神の救いでなくてはならず、途中も神の救いでなくてはならず、しめくくりも神の救いでなくてはならない。あなたの役に立つ救いが何か1つあるとしたら、それは徹頭徹尾、神による救いでなくてはならないであろう。たとい天性の指が人間の裸を覆う衣を素早く紡ぎ上げることができるとしても、それは何の役にも立たないであろう。天性が紡ぐ一切のものが神によって解きほぐされない限り、魂がキリストの義をまとわされることはありえない。人よ。あなたが行なうことではなく、キリストが行なわれることこそ、あなたを救うに違いないものである。あなたの涙ではなく、キリストの血潮である。あなたの種々の感情でも、あなたにある何物でも、あなたから出た何物でもない。あなたには、それを聞く耳がある。最初から最後まで、「救いは主のものです」[ヨナ2:9]。

 もしその鱗があなたの目からはがれ落ちたなら、私はあなたがこう云うだろうと知っている。「今や私は、自分の目の見えなさが分かるほどには、ものが見え始めました。自分の閉じ込められている暗闇を察するほどには光を得ています。私には分かります。私を救えるのは神だけだということが。神が救ってくださらなくてはなりません。ですが、神は私をお救いになるでしょうか。私などをお救いになるでしょうか?」 人よ。あなたの指を貸してほしい。それが見えるだろうか? 否、あなたには見えない。だが、そこにイェスの衣のすそがある。それをあなたの指でつかむがいい。そうすれば、あなたはたちまち視力を回復するであろう。つまり、こういうことである。イエスは、あなたのような者を救うために死なれたのである。イエスに信頼するがいい。そうすれば、あなたは救われる。完全に、また、ただちに救われる。ある医者が、何がしかの魂の悩みを覚えて、自分の患者であった、ひとりの敬虔な人に尋ねた。「信仰とは何か、私に説明できますか?」 「できますとも」、と彼の敬虔な患者は云った。「もし神が先生にそうさせてくださるとしたら、すぐさま私は、先生にそれを見てとらせることができますよ。それは、このようなものです。私は非常に病んでいます。自分で自分を助けることができません。そうしようともしません。私は先生に信頼してます。自分を先生の世話にゆだねます。送ってくださるどんな薬でも飲みます。お命じになることをします。それが信仰です。先生はご自分をそのようにキリストの御手に引き渡さなくてはなりません」。まさにその通りである。愛する方々。あなたが自分自身を全く完全にキリストの御手にゆだねるとき、そのときあなたの目は神の御救いを見ているのである。

 これ以上の時間はない。あれば良いのにと思う。しかし、神の御救いを見たことのあるあらゆる人に、この最後の言葉を告げたいと思う。ことによると、あなたがたの中には貧乏をしている人がいるかもしれない。よろしい。今晩はこう云いながら家に帰るがいい。「私は貧乏です。ですが、私の目はあなたの御救いを見ました」。あなたがたの中には、もしかすると苦しんでいる人がいるかもしれない。ならば、云うがいい。「私は具合が悪いのを感じます。ですが決して気にはしません。私の目はあなたの御救いを見たのですから」。さらに、ことによると、何らかの警告か予告が、あなたがたの中の別の人に、自分が間もなく死へと召されるだろうと考えさせているかもしれない。肺病があなたの体をむしばんでいる。だが、気に病んではならない。苛立ってはならない。あなたの目は神の御救いを見たのである。屋根裏部屋や、どぶ溝の中で死のうと、神の御救いを見ている方が、この上もなく豪壮なしかたで墓までかついで行かれつつ、神についても《救い主》についても全く無知な魂のままであるより、いかにはるかにまさっていることであろう。おゝ、あなたがた、大きな試練と苦難を受けている人たち。くじけてはならない。くじけてはならない。あなたの悲しみは、さほど長くは続かない! あなたや私が天国に行き着くときには、――そうなると私は信頼しているが、――もし私たちがキリストの贖罪により頼んでいるとしたらそうなると私は知っているが、――その途中の苦難は、単に私たちの語り草となり、互いにこう云い交わすものとしかならないであろう。「主はいかに恵み深くも、その摂理において私たちを支えてくださったことでしょう。また、いかに素晴らしいしかたで私たちにあらゆる試練をくぐり抜けさせてくださったことでしょう! 私の貧乏においてさえ、私の目は神の御救いを見ました。私の病気においてさえ、また、私の死においてさえ、私は、いやが上にもくっきりとそれを見るほかありませんでした。私を取り巻いていた雲と暗闇のために!」 愛する方々。神があなたを祝福し給わんことを! 私は熱心に祈るものである。あなたがたがみな、神の御救いを見るようにと。願わくは神がこの祈りを聞き給わんことを。キリストのゆえに! アーメン。

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神の御救いとして見られるキリスト[了]

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