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集中と放散

NO. 3174

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1909年12月9日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった」。――ヨハ12:3


 もしこの物語を注意深く読むならば、二人の姉妹とひとりの兄弟がいることに気づくであろう。彼らはベタニヤで恵まれた一家を構えていた。そして、全員がイエスを真に愛してはいたが、それぞれの者が自分なりのしかたでその愛を示した。それと全く同じように、神の真の子どもたちも、必ずしも同じようなしかたで主イエス・キリストに仕えるよう動かされるのを感じるとは限らない。彼らは、寸分違わないしかたで主への愛を表わすよう動かされるわけではない。

 マルタは給仕をした[ヨハ12:2]。彼女は家事を行なう者であり、手間暇かけて主のために晩餐を用意した。これほどほむべき賓客がいるというのに、食卓一杯にご馳走が供されなかったとしたら、それは悲しむべき不作為となっていたであろう。そして、マルタほどうまくその準備ができた者がいただろうか? 時として人々がマルタについて見くびった話し方をするのを聞くことがある。だが、まことにそれは主のことばの誤解である。主は決して彼女が給仕をしたことをたしなめたのではなく、ある折に彼女が、あまりにももてなしのために気が落ち着かなくなり、その妹を悪く思うほどになったことをたしなめたのである[ルカ10:40]。この場合のマルタは、かつて彼女の主から優しくたしなめられたような過ちには陥らなかった。彼女は物静かに、そして、手際よく自分の分を果たし、そうすることによって、この上もなく立派なしかたでイエスに対する彼女の愛慕を公にした。私たちの教会の中にいる一部の姉妹たちがキリストに仕える道は、家庭の中にある。あるいは、病者や貧者の世話をする中にある。ドルカスのように、そうした人々のために着物を作るか[使9:39]、古の聖なる女たちのように、自分の財産をもって主に仕えるかすることにある[ルカ8:3]。彼女たちは現世的な事がらによって働くが、それでもなお、愛に満ちたその主の好意を得ている。執事としての兄弟たちもまた、食卓に仕えることによって、より良く主に誉れを帰している。聖徒たちの徳を建て上げるにふさわしい賜物が与えられていないときに、そうしようと試みるよりは、ずっとそうである。それぞれの男女は自分の能力と恵みの手段に応じて労さなくてはならない。

 ラザロについて云えば、彼は、「イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた」[ヨハ12:2]。私たちは、そこに座っていることで彼が何もしていなかったと早まって想像するかもしれない。だが、私の兄弟たち。人々は、死人の中からよみがえらされたラザロを見るためにも、相集ってやって来ていたのである[ヨハ12:9]。そして、彼がそこに座って、自分の姿を見せていること、特に飲み食いしていることは、彼が本当に生きていると野次馬たちに確信させるためにできる最上のことであった。私たちのほむべき主ご自身、死者の中からよみがえったときには、ご自分が本当に生きており、現実の肉体を持っていることを弟子たちに確信させるためにそうする必要があることに気づかれた。それゆえ、主は一切れの焼いた魚と蜂蜜を取って、彼ら全員の前でそれを召し上がった[ルカ24:41-43 <英欽定訳>]。主がお食べになるのを見たとき、彼らは主が生きていることを確信した。そのように、ラザロが食卓で食べているのを見たとき、疑い深い人々もこうは云えなくなったのである。「あれは、単に、生きているかのように彼の死体を立てかけられているだけなのだ。あるいは、ただの幻影が人の目を欺いているのだ」、と。飲み食いしているラザロは、イエスのための1つの証しである。私が望むのは、私たちがみな、飲み食いすることによってさえ神の栄光を現わせるようになることである。あるキリスト者たちは、あまり多くのことを行なえないか、あまり多くのことを語れないが、その敬虔な生き方、その我慢強い苦しみの忍び方、その穏やかな聖さがイエスのための良い証しとなっている。私は庭園の百合や薔薇を見てこう考えることがある。「お前たちは働きもせず、紡ぎもしない。説教もせず、歌いもしない。だがしかし、ただ美しくあることによって、また、主がお前たちに与えられた芳香を無意識のうちに振りまくことによって、私の主を賛美しているのだ」、と。ある聖徒たちは、こうしたこと以上のことが何もできなくとも、最も真実に神の栄光を現わしているではないだろうか? それに、この家族の中の誰かは、《主人》のそばに付き添い、食卓の主人役を務める必要があった。では、一家の主人であるラザロのほか誰にそれができただろうか? 他のどの場所でも、ラザロは場違いだったかもしれない。だが、私には、ラザロが食卓に着くことは最もふさわしいことのように思われる。そして、たとい彼が慎み深く上座に着くことを断り、他の人々とともに座席に着いていたとしても、それでも彼はそこにいるべきであった。

 しかし、マリヤは何をすれば良いだろうか? 彼女は食卓にいる必要はない。ラザロがそこにいた。ことによると、彼女は台所では大した役に立たなかったかもしれない。その方面における彼女の能力は微々たるものであった。マリヤは何をすれば良いだろうか? 彼女の心は熱く燃えており、何かしなくてはならないと感じた。しかしながら、彼女は誰にも尋ねなかった。彼女自身の精神は創意に富んでいた。彼女は、賓客には香油を注ぐことが通常の習慣であると知っていた。また、それがまだなされていないことを悟っていた。あるいは、なされていたとしても、彼女の愛が示唆するような、王者に対するにふさわしいしかたではなされていないと悟っていた。ことによると、彼女は非常に見目麗しく、それまでは自分のからだを飾るのを好んでいたかもしれない。その長い髪を非常に大切にし、惜しみなくそれに香水をつけていたかもしれない。彼女に思い浮かんだのは、その髪の毛をイエスにささげよう、そして、これまで自分を美しくするために蓄えていた、芳香を放つ軟膏を主のために使い尽くそうという考えであった。それは非常に高価なものだったが、主のために用いることができるとしたら、一銭たりとも高すぎはしなかった。それは三百グラムもあったが、主のためなら、いささかも多すぎはしなかった。それは非常に甘美だったが、主のためなら、少しも甘美すぎはしなかった。彼女は香油三百グラムを持ち出し、それを、食卓に着いて身を横たえている主の足に塗り、それからその足を彼女の髪の毛で拭った。彼女が愛し、かつ、あがめているお方に、自分の大切な宝物と同じく、自分のからだの美しさも捧げた。彼女はなすべきあることを見いだし、そのあることは、兄妹三人の果たした愛のわざの中でも、決して一番小さなことではなかった。

 この選ばれた家族三人の奉仕によって、この祝宴は完全なものとなった。マルタは晩餐を準備し、ラザロは自分たちの賓客と会話を交わし、マリヤは《主人》の足に香油を塗った。私の兄弟姉妹たち。互いにさばき合わないようにするがいい。それぞれが、自分にできると感じること、また、主があなたに期待しておられることを行なうがいい。そして、他人のわざを、度量の狭い目で見ないようにするがいい。マルタも、ラザロも、マリヤも、互いに文句をつけたりせずに、一緒になってこの奉仕を完全なものとした。家族全員が同じ務めを有してはいないが、各人が、愛に満ちたしかたで、他の者らの務めを補わなくてはならない。私たちの間には、決して対抗意識だのねたみだのが入り込んではならない。

 いま私たちは、他の者らのことは忘れて、マリヤだけを眺めることにする。私たちは、彼女がキリストのために行なった奉仕に打たれる。それは、いささか異様なものであった。気持ちを非常に素直に表わしたものであった。そして、それは彼女の愛が決して平凡な種類のものではないことを証明した。マルタのそばにいた他の女たちは、主に晩餐を作った。ラザロのそばにいた他の客たちは、主とともに食卓に着いていた。だが、他の誰も彼女のようなしかたで主の足に香油を塗りはしなかった。ことによると、何人かはそれに近いことを行なったかもしれなかったが関係ない。マリヤは創意に富んでおり、気持ちを素直に表わす、忍耐強い、熱心で、熱烈な者であった。彼女が行なったのは、火で燃え上がった魂の行ないであった。深い献身と、畏敬に満ちた愛とに満たされた女の行ないであった。古い格言に、「深い川ほど静かに流れる」、という。マリヤの心の内側には、そうした深い川があった。彼女はイエスの足元に座り、そのみことばを聞いていた。彼女は口数は少ないが、多くを思い巡らす婦人であった。彼女はよくよく物を考え、思案を練り、あがめていた。女たちの中の多くの者らは、男たちの中のヨハネに相当しており、ことによると、この時点では彼女は、主の真のご性質を俊敏に識別した点で、あの愛された弟子をさえしのいでいたかもしれない。私には、彼女が主の《神格》を察知し、主がいかなるお方で、何を行なおうとしておられたかを、弟子たちの他の誰よりもよく理解していたという気がする。少なくとも、そうした見解に立つとき、彼女の愛の行為がより良く理解できるのである。彼女が考え出したような敬意を、彼女が主であると察したお方以外の者に対して払うことなど、彼女は夢にも思わなかったであろう。自分の魂の内側で多くの事がらを熟考し、それとともに、主が彼女個人に対して、また、彼女の非常に愛する兄弟ラザロに対して行なってくださったことを考え合わせて、彼女は、特別なかたちの畏敬に満ちた敬意を主に払うべきであると決心した。そして、その決意を実行に移した。深い思念は燃える愛を生じさせ、燃える愛は即座の行動を生じさせたのである。

 愛する方々。キリストの《教会》が必要としているのは、主イエスに対する献身において、他の者たちをはるかに越えた熱心に満ちた、一団の男女である。私たちに必要な宣教師たちは、最果ての地方まで福音を携えて行くためなら死をもいとわない人々である。私たちに必要な教役者たちは、世間の意向など物ともせず、燃える熱情をもって人々の心に焼き入る人々である。私たちの必要とする男女は、自分の持てるすべてを聖別し、英雄的な自己犠牲の行為をあえてする人々である。おゝ、あらゆるキリスト者たちがこのようであればどんなに良いことか。だが、少なくとも、何人かはそうした人々がいる。私たちに必要なのは、《救い主》の下に結集する、愛に満ちた護衛の戦士たちである。勇者中の勇者たち、《不滅の者たち》、《無敵の者たち》、主の軍隊の先陣を務める者たちである。私たちはどこでそうした人々を得られるだろうか? いかにしてそうした人々を生み出せるだろうか? キリストに大いに仕えることになる男女を訓練する聖霊の方法は、彼らを深い思索と静かな黙想に導くことである。その中から彼らは知識と、死活に関わる原理を獲得し、それが真の熱心の燃料となるのである。あなたは、一足飛びに気高い献身へ至ることはできない。説教や夢によって、そこへ押し込まれることはありえない。信仰復興主義によって電撃的にそう至らされることもありえない。それは、聖霊の天来の精力により、あなたの魂を厳しく、峻厳に取り扱うこと、また、あなたの《救い主》と親密で愛しい交わりを有することから生ずるしかない。あなたは主の足元に座らない限り、主の足に油を塗ることはできないであろう。主がその天来の教えをあなたに注ぎ入れてくださらない限り、決して尊い香油を主に注ぎ出すことはできないであろう。

 これは、やや長めの導入部だが、そのすべてをここに残し、しばしの間、この出来事から生ずるように見受けられる、1つの短いたとえ話にあなたの注意をぜひとも傾けていただきたい。

 マリヤは三百グラムの香油を取って、キリストの足にそのすべてを塗った。それは集中である。彼女がそれをみなキリストの足に注ぎ出たとき、家中がその香油のかおりで一杯になった。それは放散である。効果的な放散を確実にするには、完璧に集中させることである。

 I. まず第一に、この《集中》について、二三のことを語ることにしよう。

 愛する方々。あなたは死ぬ前に、家族や親族にとって祝福となるだろうことを何か行ないたいと思っている。その願いは良いことである。だが、ばらまくことから始めてはならない。集中することを開始し、マリヤをあなたの模範とするがいい。彼女は、自分の香油を全部持ち出した。後に何も残さず三百グラムすべてを持ち出した。それと全く同じように、あなたの持てるすべてを《救い主》に捧げるがいい。あらゆる精神機能、力、所有物、能力をそうするがいい。半分の量のナルドでは十分ではなかったであろう。残りの半分がその行為をだいなしにしてしまったであろう。ことによると、それが全量でなかったとしたら、私たちはこの行為について全く何も聞かなかったかもしれない。心の半分をキリストにささげる? そのようなことをガテに告げてはならない。アシュケロンのちまたで囁いてはならない[IIサム1:20]。人生の半分をキリストにささげる? あなたの精神機能の半分を、あなたの力の半分をキリストにささげる? それは、ふさわしくない贈り物である。主はあなたにすべてをお与えになった。そして、あなたのすべてを請求しておられる。おゝ、愛する魂よ。もしあなたが家中を甘やかな香りで一杯にしたければ、あなたの自我すべてを持ち来たり、あなたの心を主の足に注ぎ出すがいい。

 注意すべきは、彼女が、すべてを持ってきたのと同じく、そのすべてをイエスに注ぎ出したということである。彼女はユダの険悪な顔つきを全く恐れなかった。その行為は、ユダのためのものではなかったからである。そのすべてはイエスのためであった。私は、彼女がマルタや、ラザロや、他の誰かについて考えることもしなかったと思う。三百グラムすべてがイエスのためのものであった。最高の生き方とは、イエスのために生きることであり、全くイエスのために生きることである。この人が何と云い、あの人がどう判断するかなどまるで顧慮することなく、むしろ、主がその血で私たちを買い取られた以上、また、私たちが頭の天辺から足の裏まで主のものである以上、それゆえ、私たちの《贖い主》以外にいかなる主人も持たないと感じることである。兄弟姉妹。あなたはそのようなしかたでイエスのために生きているだろうか? 私たちは、第二義的な種々の動機に突き動かされて、多くの行動を行なってはいないだろうか? 私としては、時として、ある行為を行ないたいと思うとき、それは私がこう感じる行為である。「私は、このことが私の同胞たちにとって益となるかどうかなど考えない。私はこれをひたすらイエスのために行なおう。その結果どうなろうと、――魂が救われることになるかどうかなど、私が第一に気遣うことではない。だが、私がこの健全な言葉を語るのは主の誉れのためなのだ。そして、もし神がそれを受け入れてくださり、それがイエスの栄光を現わすとしたら、私の目的は達されるのだ」、と。おゝ、それは、ほむべきことである。人のしもべとしてでも、《教会》のしもべとしてでも、ある一派か党派のしもべとしてでもなく、その尊い血によってあなたを買い取られたお方のしもべとしてあなたが生きているのだと感じることは!

 あなたのすべての精神機能を主ご自身に集中するがいい。また、そのとき人に相談してはならない[ガラ1:16]。マリヤは、この件についていかなる助言も待たなかった。そこにイエスがおられ、そこにそのほむべき御足があり、彼女が油を注ぎかけるよう招いている。彼女は、マルタがどう考えるか、いわんやユダが何と呟くかなどわざわざ尋ねようとはしないであろう。むしろ、彼女の心がすべきことを彼女に告げる。彼女の愛の諸力のすべてが彼女に、「さあ、するのだ」、と云っている。そして彼女はその高価な香水を持ち出して、そのすべてを主に注ぎ出す。この大盤振舞いについての批判が表に出されたとき、彼女は何の弁解もしようとはしないし、そうする必要もない。たとい、一瞬の間、その不平が耳障りな音をきしらせたとしても、彼女の《主人》の愛の眼差しと、あの親切なことばで彼女にとっては全く十分であった。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです」[ヨハ12:7]。彼女の目的はユダを喜ばせることではなかった。それで、たといユダが喜ばなくとも失望などしない。彼女はそれをイエスのために行なったのであり、イエスがお喜びになった以上、自分の求めたものすべてを得たのである。あゝ、兄弟たち。これこそ私たちが行なおうと努めなくてはならないことである。私たちは、必ずしも常に他人の監督の下にとどまり、他の人々が私たちの行動について何と考えるかを尋ねていてはならない。もしある特定の行き方が正しいと分かるとしたら、それを貫き、他人には、自分ならどう選ぶか考えさせ、云わせておくがいい。

 このように、一切のものをイエスに集中させることこそ、主に仕えるに唯一ふさわしいあり方である。私たちが主にすべてをささげるとき、私たちが主にささげているものは、主が受けてしかるべきものの一千分の一にもならない。だが、主に半分しかささげないこと、――十分の一しかささげないこと、私たちがあっさりなくても済ませられるものしかささげないこと、――それは主に対する私たちの愛を示すには情けないしかたである。他の誰が、あなたの奉仕の割り前に値するだろうか? もしあなたが死と地獄から贖い出されているとしたら、他の誰があなたの心の一部分でも請求できるだろうか? その労苦の生涯を送られた主を眺めるがいい。その十字架上の主を眺めるがいい。そして、まだ神の御座の前にいないことを覚えて主を眺めるがいい。主はあなたの愛情を独占しないだろうか? さあ、主はさらなる愛の綱をあなたに回し、犠牲としてあなたを祭壇の角に縛りつけないだろうか?

 私はこの点については、これ以上長話をすまい。満腹はご馳走も同様である。ただすべてをイエスに集中し、集中し、集中し、集中するがいい。

 II. さて、そこから何が生ずることになるかを考察しよう。すなわち、《放散》である。「家は香油のかおりでいっぱいになった」。

 注目すべきは、この家が香油のかおりで一杯になったのは、マリヤがそれを求めたからではなかったということである。彼女が部屋から部屋へと走り回り、床に一滴ずつ垂らして、どの部屋もその香りがするようにしたのではない。彼女は、家が芳香で満たされるかどうかなど気にかけていなかった。ただ自分の主に油を注ぐことだけを欲していた。それで彼女は香油をすべてその御足に注いだのである。その結果としてすべての部屋に香りがするようになったが、それは彼女の主たる目的ではなかった。彼女は、自分が高価な香油を蓄えているなどと誰にも告げなかった。だが、彼らは、彼女がそれを注ぎ出したことによってそのことを知った。ある人が自分は聖くなっていると自慢するときには、常に思い出すがいい。良い香りに宣言は不要であることを。私の出会う、そうした鈴のくっついている唯一の荷車は、ごみ運搬車である。もし宝石類や、金剛石、あるいは、英国銀行の金の延べ棒が町通りを通って運ばれるとしたら、何の鈴も鳴らない。「声大にして毛少なし」という諺は、最近この国で新たに解き明かされつつある。聖潔に関する素晴らしい叫び声は大きく、素晴らしく僅かな聖潔しか叫ばれてはいないが、非常に大きなものが生ける神の御前で泣かれ、嘆き悲しまれるべきである。あらゆる部屋に立って、「ナルド! ナルド! 素晴らしいナルド!」、と叫ぶのは無駄であろう。それをイエスの愛に注ぐがいい。そうすれば、あなたはそれについて何も云う必要はあるまい。というのも、あらゆる部屋がその香りでかぐわしくなるからである。愛する方々。近頃の私たちに必要なのは、自分がいかなる者であるかについて話すのを少なくし、イエスのためにずっと大きく現実に生きることである。願わくは主がその御霊によって私たちの中でそれを作り出してくださるように!

 なぜマリヤのナルドは家中を芳香で満たしたのだろうか? また、いかにして、ある人の生の中に真の恵みがある場合、その人がそれについて大して口にしなくとも、確実にそれが感じとられ、認められることになるのだろうか? 私たちは答える。それが本物だからである、と。本物のキリスト教信仰は常に影響力のあるものである。にせもののキリスト教信仰には、にせものの力しかない。あなたは、「私は誰それに影響を与えるつもりだ」、と云うことによって影響することはできない。それは、ヨシュアの奇蹟的な力[ヨシ10:12-13]もなしに日や月を止めたいと願うようなものである。あなたの内側にあるキリスト教信仰の力は、あなたが他の人々に行使する力にほぼ等しい。造花は、生花とほとんど見分けがつかないほどそっくりに作れるかもしれない。だが、それらは私たちの庭園にあるお気に入りの花々の香りを欠いている。そのように、単なる信仰告白者たちも、真の恵みの芳香を有しておらず、その結果、他の人々に対する魅力的で、甘やかな影響力がないのである。だが、キリスト教信仰が本物で、真実で、心からの、深いものであるとき、――強く、すべてを飲み込むような、キリストへの愛があるとき、――恵みの甘やかな香りは、同胞たちに対する影響力を人に与えることであろう。神のそば近く生きている人がいかにしてこうした影響力を有するようになるのか、あなたに告げることはできないが、その人にそれがあることは分かる。樟脳の木はそのあらゆる部分に樟脳がある。枝にも、皮にも、根にも、花にも樟脳が満ちている。そして、真にイエスのために生きている人は、あらゆる場所、あらゆる場合において、恵み深い影響力に満ちている。願わくはあなたや私がそうなるように!

 いかにして、こうした部屋はその香りで一杯になったのだろうか? 化学者たちが浸透の法則と呼ぶ自然法則がある。2つの全く性質の異なる気体が接触させられると、それらはたちまち互いに混合し始め、完全に入り交じるまで結合し続けるのである。このようにして芳香や香りは大気中に放散する。この世の善や悪もそれと同じである。気づかないうちに、あらゆる人は不道徳な実例と触れることによって悪くなって行く。また、意識的にか無意識的にか、いかなる人も、美徳の生活の存在によってある程度まで良い方向への影響を受ける。浸透の法則は、化学の分野と同じように、道徳的、霊的な事がらにも関係するのである。そして、もしあなたが神とともに歩み、非難されるところのない生き方を保とう、キリストの栄光を現わそうと努力するとしたら、あなたが求めなくともあなたには影響力が備わることであろう。それがどこまで伸び広がるかは神だけがご存知である。それは、あなたがその領域と考えるところをはるかに越えて達することがありえる。まだ生まれていない人々すら教えることになるかもしれない。あなたがどのように生きたか、また、いかにあなたがキリストの栄光を現わしたかを、他の人々から聞くことになる人々をである。

 それに、愛する方々。真の敬神の念は非常に強力な香水であり、非常な精力を有している。自然界には、薔薇油のように、ほんの一滴垂らしただけで部屋中を何日間もかぐわしくするような香水がある。真の聖潔は、非常に力強く、一面に充満する香水であって、もしあなたがそれを有しているなら、それを隠しておくことはできない。それは甘やかな香りとして天国にまでその存在を明らかにするであろう。神のいのちがその中にあり、それは働かざるをえない。善なるあらゆることの中に、神は潜伏しておられる。神の御霊は、あらゆる恵み深い言葉、敬虔な思念、聖なる行為のうちに宿り、御霊は甘やかさそのものであられる。イエスの御名は、注ぎ出された香油のようなものである。イエスの御霊はどのようなものに違いないだろうか? それでも、その御霊はあらゆる真の信仰者のうちに見いだされるはずなのである。

 しめくくりに、愛する方々。私はあなたにこう尋ねたい。これまであなたは、自分の愛をどこまでキリストに集中させてきただろうか? また、そうすることによって、あなたの家の中に住んでいる人々にどこまで影響を及ぼしてきただろうか? 私は、ただあなた自身の家についてだけ尋ねよう。あなたの家はこの香油の香りで一杯になってきただろうか? あなたは確かに祈っている。だが、あなたの祈りは、あなたの家族に祝福を引き下ろすだけ、神に対する力を有してきただろうか? あなたは罪を避けようとしてきた。自分の生き方をきよく、恵みに富んだ、親切で、朗らかで、愛情ある、キリストに似たものにしようと努めてきた。あなたは、自分の家のある者たちが、それによって祝福されてきたと思うだろうか? 私は、「全員が回心しただろうか?」、とは問わない。というのも、マリヤの香油のおかげで家中がより良いものになったとはいえ、ユダは裏切り者のままだったからである。あなたの家のある者らが、あなたの敬神の念ゆえに一層あなたを嫌うようになったとしてさえ不思議ではない。だが、それでも、主はしばしば敬虔さを祝福し、それを回心の手段としてくださる。おゝ、婦人よ。あなたはあなたの敬神の念によってあなたの夫を獲得するであろう。たとい彼が説教は聞こうとしなくとも、あなたの穏やかで、愛に満ちた生き方は聞こえるであろう! おゝ、姉妹よ。あなたはあなたの愛によって、あなたの兄弟を獲得するであろう。彼は敬神の念に富んだ書物は読まないが、あなたの優しい叱責と招きという甘やかな言葉で綴られた手紙は読むであろう。そして、あなたはそう思っていなくとも、心に迫るものを感じるであろう! 父親よ。あなたの男の子たちは、まだあなたが望む通りの者になってはいないが、あなたの敬虔な模範を感じるに違いない。ことによると、あなたが芝土の下に横たわったとき、彼らは、ありし日のあなたがどのようにしていたか思い起こすかもしれない。家中を真のキリスト教信仰の香りで一杯にするがいい。客間も、居間も、寝室も、台所も、聖なる生き方で満たすがいい。もう一度云うが、ただの口先やパリサイ人的な見せかけでではなく、真の聖なる生活と、真に敬虔な交わりによって満たすがいい。そのとき、嘘ではない。あなたはあなたの子どもたちや、あなたのしもべたちにとって、あなたの力の及ぶ最上のことを行なっているのである。彼らを教えるがいい。彼らに警告し、懇願するがいい。だが、なおも、現実に敬虔さの芳香で満たすことがあなた自身の聖なる生き方から生じていなくてはならない。イエスの足に注がれた香油から生じていなくてはならない。

 あゝ、愛する方々。私は願う。私たちがたまたま住んでいる家のみならず、私たちが働いている作業場や、私たちが勤めている商店や、私たちが他の人々と付き合う職場がみな恵みの芳香で満たされるように、と。キリスト者である人々は、自分の同胞たちの道からすっと抜け出て、自らを閉ざして敬神に励むべきではない。それは、兵士が逃げ出すことによって戦闘に勝とうと願うべきでないのと同じでくらいそうである。しかり。あなたの同胞たちと入り混じるがいい。もし何か、信頼されるべき職務が果たされるべきだとしたら、それを下司中の下司にまかせてはならない。喜んで祖国のための公職を果たすがいい。むしろ、そのことを行なって、あらゆる職務に、正直さと誠実さの香りをまき散らし、ごろつきや、いかさま師どもを恥じ入らせるがいい。私は神に願う。あらゆるキリスト《教会》が、時代の一切の悪行に対する生きた抗議となり、あふれかえる腐敗を食い止める殺菌剤となることを。罪の悪臭はひっきりなしに天に向かって立ち上っている。そして、あなたがた、キリスト者である人々がキリストに似た生き方を私的にも公的にも行なうことが必要である。この国を、より健全な香りで満たし、英国が名実ともにキリスト教国となるまでそうすることが必要である。願わくはキリスト者たちの模範が、これから力強いものとなり、あらゆる国々がその力を感じ、戦争がやみ、あらゆる種類の残虐行為に終止符を打たれるように。願わくはイエスの御名の甘やかな香りが、その民を通して明らかに示され、全世界がその芳香で満たされるように。願わくは神が世に神饌と、天の花々の香水と芳香を降り注ぎ、キリストご自身がやって来られる時にそれを甘やかなものとし、ご自分の選ばれた花嫁の婚姻の部屋としてくださるように! 願わくは、あなたの聖潔の芳香が星々にまで届き、あなたの生活が、この霧雲を越えて甘やかなものとなり、あなたの恵みの甘美な香気がイエス・キリストを通して神に受け入れられるものとして立ち上るように。というのも、私たちは、主のために生きるとしたら、常に神への甘やかな香りだからである。

 しかしながら、残念なことに、私が話しかけている人々の中には、その生活が全然甘やかな香りではない人々がいるのではないかと思う。あゝ、用心するがいい! もしあなたが神なく、キリストから離れて生きているとしたら、――もしあなたが何らかの隠れた罪の中に生きているとしたら、――用心するがいい。あなたは、自分の罪の悪臭を隠しおおせると思っているかもしれない。だが、それは不可能である。いかに驚くべきしかたで、悪は自らの秘密を語ることであろう! 多くの秘密の罪の、耐えがたいほどの悪臭は、いやでも人に気づかれずにはいられない。気をつけるがいい。あなたがた、自分の罪を覆い隠そうとしている人たち。気をつけるがいい。私はあなたに願う。というのも、その画策に望みはないからである。深々と掘って、掘って、掘って、掘るがいい。そして、真夜中に罪を闇に葬るがいい。だが、アベルの血のように、それは土地から叫ぶ[創4:10]。「あなたがたの罪の罰があることを思い知りなさい」[民32:23]。もしあなたがいま罪の中に生きており、それでも何食わぬ顔をしているとしたら、覚えておくがいい。たといあなたの偽善がこの世では決して露見しなくとも、最後の大いなる日にはあなたの面前に突きつけられるであろう。キリストを知らない人々にとって、埋められたもろもろの罪の復活は何と恐ろしいものとなることであろう! 彼らは来世で目覚めては、自分たちのもろもろの罪が残忍な狼たちのように、貪欲で、獰猛で、すさまじく、身の回りで咆哮していることに気づくであろう。いかなる1つの罪であれ魂を滅ぼすことができる。だが、一千もの罪に取り囲まれ、それがすさまじい声で吠えたて、あなたを引きずり倒して、ばらばらに引き裂こうとしてやまないとき、それはいかなることに違いないだろうか? 方々。それがあなたの運命となるであろう。あなたがたの中の多くの人々がそうなるに違いない。今あなたが、かの大いなる救いをつかまない限りそうである。イエス・キリストは、こうした狼どもを追い払い、あなたのもろもろの罪の悪臭を止めることがおできになる。もしあなたが主に信頼するとしたら、もしあなたが自分の心を主に明け渡すとしたら、主はあなたを解放してくださる。だが、もしあなたがそうしなければ、あなた自身の頭上にあなたの血の責任は帰されるであろう。

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集中と放散[了]

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