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若い信仰者たちの輝かしい前途

NO. 3172

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1909年11月25日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1866年11月11日、主日夜


「しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る」。――マラ4:2


 この大いなる約束は、私たちの主の到来によって成就した。多くの者たちは、アンナやシメオンのように[ルカ2:25、36]その成就を待ち受けていた。自分たちが暗闇の中に住んでいることを嘆き、一筋の星影によってさえほとんど励まされることがなかった。預言の声がやんでいたからである。そのとき突如としてキリストが来られ、そのようにして、《義の太陽》は主を恐れる者たちの上に上った。彼らはほむべき自由の中に出て行き、主にあって喜んだ。また、彼らの光は、後に大きくその輝きを増し、彼らの人生は、彼らが天来の知識と聖潔において成長するにつれてその幸福を増した。アンナやシメオンほど忍耐強く主を待っていた心に、いかなる感情の激動が臨んだに違いないかは、思い描くことが困難である。彼らはこの上もなく勝ち誇り、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄[ルカ2:32]である主が、ついにやって来られたことで、マリヤのように主をあがめた[ルカ1:46]に違いない。

 この約束は、数多くの神の民が臨終の床で味わった経験においても実際的に成就してきた。疾病に苦しんでいた彼らは、死の闇と暗がりとの中に横たわっていた。ことによると、幾多の恐れが入り込んでいたかもしれない。また、肉体的な弱さを足場にして、サタンがその誘惑の重砲を据えつけていたかもしれない。しかし、突然、素晴らしい光が彼らを驚かせた。彼らの死に行く寝床は、栄光の王座となった。彼らは、自分が王服を着せられていることに気づいた。それは、彼らがこの世から出立するときというよりも、戴冠式のようであった。彼らは寝床の上で真っ直ぐに起き直り、他の人々にこう告げることができた。自分は、この、弱さと痛みに満ちたからだから解き放たれる前から、来たるべき栄光の輝きを見ました。魂の中で言葉に尽くすことのできない天来の喜びの前味を経験しました、と。確かにからだは綱で堅く縛られていたが、魂は、鷲の翼に乗っているかのように、神聖な恍惚と聖なる至福のうちに舞い上がっていた。《義の太陽》が彼らの上に上っていたのである。彼らの地上における太陽が没する前から、天的な《太陽》が彼らの天空を神聖な永遠の真昼で明々と照らし出していた。そして、主の御名を恐れるあなたにも、たとい地上から出立する際にはいかなる暗さが取り巻いていようと、《義の太陽》が上り、その翼には癒しがあるのである。また、いつの日か、あなたはこの方があなたの定命のからだの上にすら上ることを見いだすはずである。

   「ちりと黙(もだ)せる 粘土(つち)の寝床(とこ)より
    永遠(とわ)の真昼の 領土(みくに)へと」――

あなたのからだそのものが、翼をもって飛翔して行き、住まうことになるはずである。――

   「永久(とわ)に 主と在り」。

 この聖句の約束は、このように2つの成就を見てきたが、疑いもなくそれは別の成就を待っている。私たちは主イエスがお戻りになることを待ち望んでいる。そして、主がきょう、あるいは、明日やって来られると期待する権利は、ことによると全くないかもしれないが、――というのも、主がおいでになる前に成就されなくてはならないかのように見受けられる数多くの預言があり、そのためには長い時の間が必要だろうからである。――それでも、私たちは主を期待すべきだし、いずれ主人がやって来て自分たちの責任を問うはずだと知っているしもべたちのようにしているべきである。ことによると、まさにキリスト教会が最も倦み疲れてしまったときに、また、その教役者たちの手が弱くなり、だらりと垂れ下がってしまうときに、また、戦士たちが「疲れていたが、追撃を続け」[士8:4]ているときに、また、ゴグとマゴグと敵の大軍が戦いのために召集され[黙20:8]、一切のことが《教会》にも世界にも長大な暗夜の到来を予言しているかに思われるとき、――ことによると、まさにそのときに、キリストが突如として天の雲に乗って[マタ24:30]現われるのかもしれない。ことによると、そうした時に、《義の太陽》がその翼に癒しを乗せて上り、勝利に満ちた聖徒たちが主の輝きをまとって主を出迎え、主の御国にあずかるのかもしれない。そして、次の節が厳粛に告げているように、彼らは悪者どもを踏みつけ、その悪者どもは主の現われの日に彼らの足の下で灰になるのかもしれない。ことによると、それがこの聖句の大いなる成就となるかもしれない。

 しかし、今晩、私が詳しく語りたいと思っているのは、この預言のこうした3つのありうべき成就についてではない。むしろ、私が語りたいのは、まさに今の私たちにずっと身近に関わる事がらについてである。私は、魂に関わるいくつかの問題をこの会衆全体の前に持ち出し、神がそれをある人々の心に押し入れてくださることを望みたいと思う。それは、そうした人々が今晩、キリストの翼の下で癒しを見いだせるようになるためである。

 I. あなたも注目するだろうように、この聖句は、ある特定の種別の人々について語っている。《神の御名を恐れる人々》である。

 この世にいる膨大な数の人々は、神の御名を恐れていない。彼らは、神がいようがいまいが、かまいつけない。たとい神がいなくとも、彼らのふるまいは今とさほど変わりないであろう。神は彼らの考えの中には全く入っていない。彼らは、あたかも自分が自分の創造者であり保持者であるかのように生きており、実質的にあのパロの言葉遣いに口を揃えているのである。「エホバとはいったい何者か。私がその声を聞かなければならないというのは」*[出5:2]。さて、そのような人々のためには、聖書は何の祝福も含んでいない。彼らが聖書をも、聖書を書かれた神をも、ともに拒絶している以上、一体それ以外の何がありえるだろうか?

 しかし、この世にいる一部の人々は、――神に感謝すべきことに、その数は以前のいかなる時代よりも多いかもしれないが、――事実、神を恐れている。ある人々は、この天的な知恵においてあまり進歩していない。そうした人々は、学校の初年生のようである。彼らが神を恐れているというのは、故意に罪を犯そうとしないということでしかない。彼らは、神への恐れにより、増上慢な罪を犯すことができずにいる。そして、それは良いことである。それは、あまりにも良いとげであるため、私はそれが、キリストがお消しにならないというあのくすぶる燈心[マタ12:20]のようだと信じるほどである。また、神が自分をご覧になるだろうからといって、本当に罪を犯すことを恐れている人、また、神が正しいことを望んでおられるからといって正しいことを行ないたいと願っている人は、神の国から遠くはないと思う。たとい、現実に御国の中にはいないとしてもそうである。

 他の人々は、この恐れにおいてもう少し進んでおり、その恐れによって苦悶するようになっている。そうした人々は、自分がすでに罪を犯してきたことを知っており、次のように語っておられる恐ろしい《お方》を思って怯えている。「罰すべき者は必ず罰して報いる」[出34:7]。彼らは、このすさまじい節の雷鳴をすでに聞いている。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる」[ガラ3:10]。それゆえ、彼らは神を恐れるのである。それは、奴隷の思いをもたらす恐れであるが、それすらも、何の恐れもないよりはずっと良い。彼らは神を信じており、震えている。そして、私たちは彼らが震えているのを見て感謝する。というのも、今こそ、ことによると、彼らが自分の内側でこう云い始めるかもしれないからである。「私たちは御父の御顔を求めることにしよう。御父のもとに飛んで行き、こう願うことにしよう。どうかあなたの御子によって、私たちを御怒りからお救いください、と」。

 しかしながら、ある人々におけるこの恐れは、幸いなことに、それよりもさらに進歩している。彼らは、子どものような恐れによって神を恐れるようになっている。彼らの罪は赦されており、彼らは自分の信頼を《救い主》に置いている。彼らは、こうお語りになる御声をすでに聞いている。「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った」[イザ44:22]。そして今、彼らは、愛と完璧に調和できるような恐れによって神を恐れている。彼らが神を恐れるのは、愛に満ちた、優しい心の子どもが、情け深くて、親切で、愛に満ちた父親に背くことを恐れるようにである。神は彼らの思いの中に入っている。否、それ以上に、神は彼らの心の中に入っている。彼らは神を愛している。神なしで生きることには耐えられないであろう。彼らの御父が去ってしまわれるとしたら、孤児になるであろう。神なしでは極貧になるであろう。彼らの富は神のうちに見いだされるからである。

 私が重々承知しているように、この場にいるあなたがたの中のある人々は、神など全くいなくともしごく結構にやって行けるであろう。実際、あなたは、神などまるでいないことが証明されたとしたら、今よりもずっと幸福になるであろう。というのも、神を思うことがあなたには悩みの種だからであり、あなたは可能な限り自分の魂の耳を良心の叫びに対してふさごうと努めているからである。良心があなたに、神はおられるのだ、また、その神はあなたの一切の行動ゆえにあなたを審きに至らせるのだと告げるときにはそうである。よろしい。この聖句の約束はあなたのためのものではない。むしろ、神はおられると悟っている人々、また、神のみことばに敬意をいだいている人々のためのものである。神の前で震えるが、神にあって喜び、イエスの尊い血によって神に近づけられており、神と人との間の《仲保者》、キリスト・イエスによって神と和解させられている人々のためのものである。愛する方々。もしあなたが神を恐れていさえするなら、この聖句を取り上げ、この聖句に立って生きるがいい。それは貴重な蜜蜂の巣箱であり、あなたはそこから甘やかさのきわみを抽出してかまわない。今そこに行こうではないか。そして、それによって養われよう。それはここで、私たちの魂のための食物として天から私たちに与えられているからである。

 II. この聖句が語りかけている人々を突きとめた上で、次に注意したいのは、この聖句によると、《神を恐れる人々の一部は、暗闇の中にいる》ということである。

 彼らは神を恐れているが、何の幸福も有していない。彼らは疑いに満ち、臆病で、もしかすると生まれながらに鈍重で、悲しげな気質をしているであろう。それに加えて、彼らは病んでおり、この聖句が語っているような「癒し」を必要としている。彼らは、好きでそのようなあり方をしているのではない。彼らには、葛藤しなくてはならない悪い気質があるのである。あるいは、嘆き悲しまれるべき罪にからみつかれているのである。

 さて、彼らに与えられている約束に注目するがいい。それは、彼らが尋常ならざるしかたで主イエスの訪れを受けるということである。また、その訪れの結果、彼らが特に必要としている2つのことを受け取るということである。すなわち、光と癒しである。彼らは暗闇の中にいる。それで光と慰めを受けるのである。彼らは魂において病んでいる。それで、キリストから癒しを受けるのである。約束された大いなる祝福は、キリストが彼らの前に現われてくださるということである。だが、見るがいい。いかなる面をもってキリストが現われてくださると云われているかを。主は「義の太陽」と呼ばれている。私たちのほむべき主にとって、これは何という称号であろう! あの濃密きわまりない暗黒の中、カルバリの上で吊り下げられていたお方は、《義の太陽》だったのである。主は時として星にたとえられるが、この比喩は格段に豊かであり、格段に主にふさわしい。キリストは宇宙の中心であられる。「造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」[ヨハ1:3]。「万物は御子にあって成り立っています」[コロ1:17]。太陽は、目に見えない帯であらゆる惑星をそのしかるべき場所に保っており、かつ、太陽系の仕組みを一手につかさどっているが、世界の偉大な中心、また、特にご自分の《教会》の中心であられるキリストもそ、れと同じである。太陽からは、大量の熱と光とが絶えず放散されている。太陽が、何か他の源泉からものを借りているなどとは聞いたこともない。太陽自身が、その途方もない炉によって、光と熱との源泉になっている。その光と熱をもって世界という世界を大いに喜ばせ、その中心として支配している。私たちの《救い主》もそれと同じである。何も借りることなく、満ち満ちた豊かさのすべてをご自分の内側に宿しておられる主は、無限のあわれみと同情とで無尽蔵のご自分の心の中から、無知な者を喜ばせる光の洪水と、悲しむ者を慰める熱の洪水を注ぎ出される。

 私たちはほとんど太陽を直視することに耐えられない。太陽は、それほど卓越した光輝の天体であり、そうした表現を用いてよければ、それほど膨大な量の光を絶えず与え尽くしているのである。そして、おゝ! 主イエスの覆いを取り払った光輝を誰が直視できるだろうか? ことによると、もし私たちが天に今おられる主を見ることができるとしたら、私たちは自分がこれほど偉大な光景に対する備えができていないと感じ、この偉大な《義の太陽》の燃える光輝に耐えられるほど自分たちの目は強くないと感じることであろう。もしあなたが、太陽から発されている光と熱について適切な観念をいだくことができるとしたら、そのときには、微かな概念を形作ることができるかもしれない。――

   「絶えずやまざる あわれみの流路(かわ)」――

が、キリストという神の愛の偉大な中心的天体から発して宇宙にみなぎっていることを。おゝ、幸福なことよ、主の輝きに浴している者たちは! 幸いなことよ、主の光のうちを歩む者たちは! 何にもまして最上にして幸福なことよ、ミルトンの天使のように太陽の中に立ち、キリストが御父の御座に着いておられる所で、キリストの栄光の豊かさそのものの真中に宿っている者は。

 そのときキリストは《義の太陽》なのである。さあ、罪人よ。さ あ、震えている者よ。もしあなたが神を恐れているなら、キリストはあなたにとって1つの太陽となられるであろう。あなたは、そのとき何の知識にも欠けることはないであろう。嘘ではない。というのも、主があなたにすべてのことを教えてくださるからである。もしキリストがあなたの上に上られるとしたら、あなたは自分のもろもろの罪を十分はっきりと見てとるであろう。だが、あなたは神をも見るであろう。それゆえ、あなたは希望を見てとり、赦罪を見てとり、平安を見てとり、天国を見てとるはずである。太陽が露わにしないものがあるだろうか? 太陽が現われるまで、あらゆるものは暗闇の中にある。だが、それが上ると、あらゆるものが明らかにされる。そして、おゝ、あわれな悩める魂よ。キリストがあなたのもとにおいでになるまで、あなたには何も見えず、ほとんど何も分かっていない。だが、主があなたの上に《義の太陽》として上られるとしたら、あなたはあなたが知る必要のある一切のことを知り、喜ばしく慰めに満ちた一切のことを感知して、あなたの心は喜ばされるはずである。

 しかし、この聖句で取られている比喩は二重のものである。時として、東方では、平穏な時期がずっと続いた後は、大気そのものが腐ってしまい、照り輝く砂が燃える熱さを反射することがある。そのとき、ほどなくすると、清新な陸軟風が日の出とともにやって来るというのである。そのようにキリストはここでは1つの太陽として描かれており、その光箭は、巨大な黄金の子鷲の翼のようで、その翼は清新な風のように、あわれな病んだ、今にも死なんばかりの地の住民たちのもとに健康をもたらしている。確かに、キリストがその光のすべての光輝においてやって来るとき、――というのも、主は「世の光」[ヨハ8:12]だからである。――主は、病んだ魂にとっての健康をももたらされる。魂よ。あなたの病が治癒不能だと信じてはならない。サタンがそうだと一千回あなたに告げようとも関係ない。もしキリストがおいでになり、あなたを取り扱ってくださるとしたら、人よ。あなたの疾病が冒涜という致命的な癌だったとしても、主はそれを治すことがおできになる。たといあなたが自分の魂の内側で酩酊という熱病に罹っていようと、キリストはその燃える疾患からあなたを癒すことがおできになる。私が今朝、あえて語ろうとしたのは、今や、不治の魂のための病院など1つもないということであった。なぜなら、キリストはありとあらゆる霊的疾患を癒すことがおできになるからである。

 あなたも感知する通り、この聖句は、主の御名を恐れる者たちがその霊的疾患を治されるとき、それが彼らの行ないによってであるとは語っていない。しかり。むしろ、《義の太陽》であるキリストが彼らの上に上り、その光の中で彼らは自らに欠けていた健康を獲得することになるのである。イエスを得るがいい。あわれな魂よ。そうすれば、それ以外は大してやきもきすることはない。罪人が必要とする一切のものは、《救い主》として任命されたお方のうちにある。お上りください。おゝ、ほむべきイエス・キリストよ。暗闇の上に上る太陽のように。それは、今この場にいる何人かの者たちがそのもろもろの罪を離れて、あなたの救い給う力を喜ぶようになるためです。

 あなたは、また、主を恐れる者たちが光を得る方法が、自分で太陽を上らせることによるものでもないことを感知するであろう。――それは不可能であったろう。むしろ、それは、太陽そのものが彼らの上に上ることによってである。一部の罪人たちは、自力で慰めと光を得るべきだと考えているように見受けられる。だが、そうではない。キリストがそのすべてをあなたにもたらしてくださらなくてはならない。あなたは、何もイエスのもとにもたらすべきではない。むしろ、すべてを受け取るためにイエスの満ち満ちた豊かさのもとに行くべきである。あなたは私の云うことが理解できるだろうか? 人よ。かりにあなたが罪に満ちており、心のかたくなさに満ちており、悪であり、また神の御思いに反するあらゆるものに満ちているとしても、それでも、もしあなたが救われるとしたら、それはキリストがあなたの心の前に現われてくださることによるであろう。――また、その心の目がキリストを見て、あなたの魂がキリストに信頼することによるであろう。そして、もしあなたがそうするなら、あなたは救われるのである。「何と!」、とあなたは云うであろう。「私には何もすることがないのですか?」 あなたが行なうべきことは、あなたが救われるためとしては、イエスを信じること以外、何もない。あなたは、救われた後では多くのことを行なうべきである。じきに私はそのことについてあなたに告げるであろう。だが、あなたの魂を救う働きは、あなたに存してはいない。キリストが《救い主》であり、キリストがそのすべてを行なわれるであろう。あなたがその働きの手助けをすべきではない。

   「悔涙(なみだ)も祈りも、果たしえじ、
    かの血ぞ、なが魂(たま) 贖うは。
    そを流せし主 とく信じ、
    主上(きみ)に汝が不義(とが) 投げ出せや」。

   「御傷は癒せり、主は義なり、
    御言葉(みこと)になどて 付加(つけた)さん、
    天(あま)つ衣裳(きぬ)着よ、主は命ず。
    まされる美服(ころも) ありうべき?」

   「もはや疑(まど)うな、神、云わば、
    残らず御救(わざ)は なされぬと。
    ひとたび地境(はて)に 主の来たり、
    始めしみわざ 完遂(と)げたれば」。

想像してみるがいい。太陽が上ってから蝋燭をともす人々のことを! 「おゝ!」、と彼らは云う。「ですが、私たちはその光につけ足した方が良いでしょう」。しかし、あなたの蝋燭は、日光があるとき何の足しになるだろうか? それは、かえってその光を嘲ることではないだろうか? それらは、昼をつかさどる、かの大きな球体の前ではでしゃばりではないだろうか? そして、罪人よ。あなたの蝋燭をともして、《義の太陽》の光の足しとしようとしてはならない。あなたの何もなさと、あなたの空しさを持ってきて、キリストの完成されたみわざの完璧さの足しにしようとしてはならない。あなたは、あなたを救おうとする主を助けることはできない。だから、そうしようと試みることで主を侮辱してはならない。むしろ、この聖句を取り上げて、あなたの心から祈るがいい。「おゝ、神よ。《義の太陽》が、その翼に癒しを載せて、私の上に上るようにしてください。私はあなたの御名を恐れていると思いますから!」

 私は、この真理があなたの記憶から過ぎ去らないことを希望する。あなたがたの中の誰ひとりとして、たった今、神が私たちに与えておられる祝福を取り逃がしてはいけないと、私は本気で心配を感じている。主を恐れている何百人もの人々が私と意見をともにしてくれると思うが、神は、教会としての私たちのもとに、いま非常に驚異的なしかたで臨在しておられ、これまでもしばしの間そうしてこられた。だが、私が恐れるのは、あなたがたの中のより多くの人々の上に天的な雨が降ってくる前に雲が過ぎ去ってしまうのではないか、ということである。そうはならないだろうと思いたい。むしろ、あなたが自分の魂のうちに祝福を受け取ってほしいと思う。

 III. さて、次に注目しなくてはならないのは、《自分の上に義の太陽が上った人々の場合、それに続いて何が起こるか》ということである。この聖句では彼らにこう約束されている。「あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る」。

 熱心な教会役員たちにとって非常に大きな心配の種となるのは、果たして私たちの若い回心者たちがどうなるだろうかということである。教会員として私たちに加わる多くの人々は、恵みの諸教理についてほとんど知らない。さて、あなたは、ここに私たちの心配を取り除くような、彼らのための祝福があることを感知するであろう。願わくは、あなたがたの中の、近頃回心した人々すべてがその祝福にあずかることができるように!

 その約束とは、彼らが「外に出る」ということである。もちろん、これは彼らが霊的な自由を享受するという意味である。キリストが心の中にやって来られるとき、それ以前にいかなる奴隷状態があったとしても、それはみな、キリストの臨在によって消え失せてしまう。イエスが来るとき、イエスは真の《解放者》となられる。いかなる鎖で縛られた者も、《王》イエスの宮廷にはいない。主が心にお入りになる瞬間に、主は完璧な解放令を宣言される。そして、――

   「囚人(めしうと)踊りて 鎖 捨てん」。

だが、この解放は徐々に実現していくこともあり、真の回心者がこう云っていることもありえる。「私も、そうした約束を楽しみ、外へ出て行っては自由に緑の牧場を歩ければどんなに良いことでしょう」、と。私も、ある信仰者たちがこう歌っていたときのことをよく覚えている。――

   「しかり。われは すえまで 忍びうべし、
    その証しを堅く 受けたれば。
    幸い増せども 安泰(たしか)さ変わらじ。
    栄えを受けし 天つ霊らは」。――

そのとき私は思った。「あゝ! 私は決してこのようには歌えないだろう。これは私にとっては、高すぎる調べだ」。しかし、今の私はそう歌えるし、それは真実な歌でもある。だから、キリストを見てとったばかりのあなたも、そうできるようになるであろう。あなたは、キリストが御民を解き放ってくださった自由の中へ出て行くはずである。

 あなたは、また、キリスト教の儀式の中にも出て行くはずである。ことによると、あなたは云うかもしれない。「私はバプテスマを受けることを恐れるべきです。それは、キリストとともに死んで、葬られて、よみがえったと告白するほどに厳粛なものなのです。私は、自分があえてそのようなことができるとは思いません。また、キリスト教会の前に出て行き、イエスを信じる私の信仰を公に認めることについて云えば、自分にはそうできないのではないかと思います。私の唇は恐れのためにぴったり貼りついてしまうでしょう。そして、《主人》の食卓のもとに行くことにも私は自由を感じるべきではありません。私は、みからだをわきまえないで飲み食いすることで自分にさばきを招くことを恐れるべきです」。あゝ、あわれな震える人よ。私には、あなたがどう感じているかはっきり分かる。だが、《義の太陽》があなたの上に上るとき、あなたはこうしたすべての件において自由を得て、あなたの主の命令への従順へと出て行くであろう。もし、赤の他人があなたの家にやって来ることになるとしたら、その人は門の前に立つか、玄関に立っているであろう。もしその人に少しでも分別があれば、あなたの居間や、応接室や、寝室にずかずかと入って行ったりしないであろう。自分の家にいるのではないからである。だが、あなたの子どもは、あなたの家の中で自由にしている。自分の家の中にいるからである。神の子どももそれと同じである。子どもなら、他人があえて入って行かない所にも入って良いからである。聖霊があなたにとって子としてくださる御霊[ロマ8:15]となっておられるとき、あなたは恐れなくキリスト教の儀式へと出て行くであろう。

 キリスト者の内なる種々の特権についても同じであろう。私はあなたがこう考えていることを知っている。あわれな求道者よ。自分は決して、「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおど」る[Iペテ1:8]ことなどできないだろう、と。もしあなたがキリストの扉の内側に入ることができさえするなら、あるいは、主の食卓の末席に着くことができさえするなら、あなたは十二分に満足だと考えるであろう。あゝ! だが、あなたは、神の子どもたちの最も偉大な者も全く劣らぬ種々の特権を得るはずなのである。神は、ご自分の子どもたちの特権に関する限り、彼らに何の差別も設けられない。神は、私たちをご自分の使用人にはなさらない。むしろ、私たちは――私たちさえもが――肥えた子牛のご馳走を食べ、音楽や踊りを楽しむことになるのである[ルカ15:23-24]。それは私たちが一度も道を外れたことがなかった場合と変わらない。しかり。若いキリスト者よ。あなたは出て来て良い。あなたは、何が自分の前にあるか知らない。そこには良い地があり、そのすべてがあなたのものなのである。自分がいつまでも恵みにおける赤子のままだと想像してはならない。あなたは成長し、そして私の望むところ、キリスト・イエスにある成人となるはずである。しかり。イスラエルの父となるはずである。あなたがいつまでも、冷たい芝土から顔を出したばかりの、小さな緑の苗のようなもののままだと想像してはならない。あなたはいつの日か、穂の中に入った実のようになる[マコ4:28]。しかり。それ以上に、あなたはいつの日か、熟して頭を垂れた黄金の麦のようになり、喜ばしい収穫祭りの叫びがあなたのために叫ばれることになる。あなたはいつまでも弱くもろいままではないし、いつまでも自分のキリスト者としての種々の特権を享受するのを恐れているばかりではない。あなたは、自分の将来の姿を見ることができたとしたら、自分とは見分けがつかないであろう。あなたがこれから歌うことになる歌、あなたがこれから摘むことになるエシュコルの葡萄[民13:23]、あなたがこれから過ごすことになる美しい日々、あなたがこれから墓のこちら側で知ることになる祝宴やご馳走や真の楽しみは、その前味を味わうことができさえすれば、あなたを幸せにして良いものである。しかり。あなたは出て行くことになる。ただキリストをあなたの《救い主》とするがいい。そうすれば、あなたの幸福は果てしないものとなる。《義の太陽》があなたの上に上りさえすれば、あなたの光は決して消えることがない。

 しかし、それがすべてではない。この聖句はこうも云うからである。「あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る」。つまり、この、今はしごく臆病な、当の人々は、やがて天来の光の中を迅速に進んで行くようになるのである。子牛は非常に早く成長する。そして、それが成長するのを助けるために牛舎の中に入れられているときには、そうなってしかるべきである。これが言及しているのは、肥やすために牛舎に入れられた子牛のことである。そうした子牛たちは着実に肥やされ、それを成長させることを目的としている者たちによって丸々と太らされる。それでこの聖句は若いキリスト者に向かって彼は牛舎の子牛のように成長すると告げているのである。神に仕える教役者たちが彼を養い、神のことばは彼の食物を供する穀物庫となり、神の御霊は彼がその食物によって養われることができるようにし、それによって彼を成長させてくださる。キリストご自身が、そのあわれな震える者の日ごとの糧となり、彼の食べ物、彼の飲み物となってくださる。キリストを養いとする者は成長せざるをえない。もし聖徒たちが肥えて、生き生きと成長し、老年になっても実を結ぶとしても、彼らがキリストを養いとしているとしたら、それは何の不思議でもない。あるキリスト者が、「私はだめだ、私はだめだ。なんと私は不幸なことか」[イザ24:16]、と云わなくてはならないときはいつでも、それは適切な食物が供されていないからではありえない。それは、彼がその食物を食べていないからに違いない。というのも、もし私たちがキリスト・イエスを養いとしているとしたら、いかにして私たちは信仰と、知識と、聖さと、あらゆる霊的賜物とにおいて成長せずにいられるだろうか?

 それゆえ、私は、私たちの若い教会員たちについて望みをいだいている。神が彼らを気遣いって進み、彼らがその進歩によって私たちを驚かせてくれるだろうと思っている。私がただ希望するのは、彼らが自分たちに先立って歩んでいるすべて人々を上回るようになることだけである。あゝ、愛する若い方々。決して私たちをあなたの模範としてはならない。真のキリスト者の理想に達さないまま止まってしまってはならない。私たちがキリストに従っている限りは私たちに従うがいい。だが、私たちがしかるべきあり方に至らず止まっているとあなたが見てとるところでは、私たちの最上の者さえ乗り越えて行くがいい。私はあなたが、私たちの中のいかなる者をも越えて、ずっと熱心になり、ずっと祈り深くなり、ずっと良心的になり、ずっと勤勉になることを望んでいる。願わくは、次の世代のキリスト者たちが、現世代の顔色をなからしめることになるように。そして、そのようなことがキリストご自身の来臨と、その教会の栄光の時まで連綿と続いて行くように! あなたは黙示録で、太陽を着た女について書かれた箇所[黙12:1]を思い起こすだろうか? 彼女がいかに輝いていたに違いないことか! しかし、それがキリスト教会なのであり、それが、あなたなりの程度においての、あなたなのである。というのも、あなたは太陽を着ることになるからである。あなたの輝きと聖さのはなはだしさゆえに、人々は知るようになるであろう。あなたの上に《義の太陽》が上ったことを。あなたは、自分自身のうちにはいかなる光もない。だが、キリストからの光を受けるときには、それを反映するように気をつけるがいい。イエス・キリストご自身の光箭の中で輝く者たちがいかに燦然ときらめくべきであろう!

 この聖句の最後の句には、もう1つの訳があることに言及したい。一部の卓越した神学者たちの考えによると、「牛舎」と訳された言葉には、「くびき」という意味もあるという。もしそうだとすると、純粋なキリスト者は、くびきを負った若い雌牛のように成長するということになる。すなわち、彼は、食用牛というだけでなく役牛でもあるのである。彼は成長するが、喜んでくびきを負って、自分の主に仕えようとする。私は、この教会に加えられる人が怠け者で、人の揚げ足をとり、利己的な人間だとしたら、神に感謝はしないであろう。たといそれが私たちの人数の増加にはつながるとしても、そのような私たちの力の減損には不賛成を唱えるであろう。私たちの欲する教会員たちは、喜んで自分を主に献げ尽くす人々、また、キリスト教信仰が現実となっている人々である。多くの人々にとって、信仰はにせものであり、ただの見せかけであり、自分たちの体裁を良くするものでありはするが、彼らの人生を奪い尽くし、彼ら精力を取り上げ、火の戦車に乗っているかのように彼らを奉仕に進ませるものではない。願わくは、あなたがた、回心した人たちが、くびきを負った雌牛として成長するように! 願わくは、あなたが自分の畑の最後まで耕しては、再び戻って来て、耕しては同じことを行ない、《主人》への奉仕において耕し続け、ついにそのくびきがあなたから取り去られる時が来るように! 米国バプテスト宣教同盟の紋章と標語は、私たちのものとなるべきである。その紋章は、鋤と祭壇の間に立つ雄牛であり、その標語は、「いずれにも備えあり」、である。願わくは、私たちが、死によっていけにえとなる備えも、いのちによって神に仕える備えもできているように!

 さて、私はこのことをあなたがた、主を恐れていながら、心にキリストをいだきたいと求めている人たちに対して語らなくてはならない。――主をあなたの内側で輝く《義の太陽》として得ることを求めるがいい。キリストを得た後では、こう願うがいい。あなたが恵みにおいて成長するよう助けられるように。一部の人々のように鈍重で、重ったるくなることがないように。土地ふさぎになることがないように。キリストの軍隊のお荷物にしかならず、主の勇士たちの行進を妨げるようなことがないように。むしろ、鷲よりも迅速で、獅子よりも大胆な、献身した者となり、働きを楽しみとし、損が得となるような者となるように。また、射手の弓から放たれた矢のように、右にも左にもそれることなく、あなたの高い召しの的へと急行するように。考えるのは、ただキリストを得て、キリストの中にある者と認められること[ピリ3:8-9]しかないように。

 願わくは、神が今この祝福を私たちに授けてくださるように! この祈りをそっとささげようではないか。「私たちの上にお上りください。《義の太陽》よ」。それから、この、もう1つの祈りも続けよう。「私たちを出て行かせ、牛舎の子牛のように成長させてください。そして、あなたにお仕えできるようにしてください。おゝ、神よ。また、あなたの祝福をとこしえまでも受けさせてください! アーメン」。

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若い信仰者たちの輝かしい前途[了]

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