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四つの使信を伴った声

NO. 3171

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1909年11月18日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1873年7月31日、木曜日夜


「主は仰せられた。『外に出て、山の上で主の前に立て。』すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。すると、声が聞こえてこう言った。『エリヤよ。ここで何をしているのか。』」。――I列19:11-13


 この洞穴の中でエリヤが見聞きしたことの中には、私が今晩引き出したいと思っていることをはるかに越えた、大きな教えがあるであろう。実際、私は、ホレブの山の山腹でこの預言者に語られた、この非常に素晴らしい実際的な説教を余すところなくきわめようなどと試みはすまい。むしろ、このかすかな細い声の中から、四つの使信を聞きとりたいと思う。

 I. まず第一に、《そこには、エリヤ自身に対する1つの使信があった》

 明らかに彼は、ひとたび天来の御力が壮大に披瀝されるならば、イスラエルの全国民が偶像礼拝から立ち返るだろうという考えをいだいていた。いったんバアルが神ではないこと、エホバだけが神であられることを議論の余地なく証明できさえすれば、人々は確信し、生けるまことの神との、彼らの古の契約へと忠実に立ち返るに違いないと思っていた。だが、そうではなかった。主の火は天から降り、エリヤのいけにえを焼き尽くし、祭壇の石そのものを燃やし尽くし、みぞの水をなめ尽くしたが、また、民は、「主こそ神です。主こそ神です」[I列18:39]、と叫んだが、そうしたすべてにもかかわらず、彼らはバアルを捨てず、木立の中や高い丘の上に立てた他の神々をも捨てなかった。なおも太陽神は礼拝され、太陽を作られた神は忘れられていた。

 エリヤは、こう考えていたようにも思われる。この民をエホバに対する忠誠へと引き戻すには、恐ろしい峻厳さを明らかに示すことが必要である、と。こういうわけで、彼はバアルの預言者とアシェラの預言者たちを捕え、キション川で殺しては、ひとりも逃さなかった[I列18:40]。神の正義の処刑人となることは、彼にとって厳しい働きであったに違いない。だが、彼は聖なる熱心をもってそれを行なった。自分が殺しているのは、主の敵である者たちでしかなく、この偶像礼拝の祭司たちに加える一打ち一打ちはエホバの誉れと栄光のためのものだと感じながらそう行なった。だが、そうした厳しい峻厳さは、エリヤが期待したようには成功せず、その結果の1つとしてイゼベルが使いを寄こし、彼を殺すと脅迫したのである。もしかすると、エリヤは、神からの一層峻厳な裁きが民に下ることを願ったかもしれない。だが、神がこれ以上いかなる災難で彼らを苦しめようとされたか、私には分からない。というのも、三年間の干魃によって、すでに陰惨な災いが降りかかっていたからである。だが、それでも彼らはその偶像礼拝から追い払われなかった。ことによると、エリヤは、彼らの間に火と剣が送り込まれ、彼らをその偶像から追いやり、エホバ礼拝へ立ち戻らせることを願っていたかもしれない。

 しかし、神はここでエリヤに、そうしたことがご自分の働き方ではないと教えておられる。神は、お望みになれば、風も、地震も、火もお用いになるが、こうしたものがその最も効果的な手段ではない。神がその最も強大なみわざを行なわれるのは、これらによってではなく、全く異なるしかた、かすかな細い声によってであった。このようにして主は、実質的にこうエリヤに云われたのである。「この反逆の民には、もっと優しい方法が試されなくてはならない。わたしの栄光が彼らの間で高められるのは、あなたがまだ用いたことのない他の手段、あるいは、わたしのしもべであるあなたによってわたしが用いてきたものとは違う手段によってであろう。わたしは彼らに、わたしが自然界の恐ろしい力の主であり《主人》であることを見せてきた。わたしは彼らに、わたしが望むだけ彼らを殺すことのできる偉大な神であることを確信させてきた。だが、わたしはそれによって彼らの心をかちとることがなかった。別の手段を用いなくてはならない。かすかな細い声が試されなくてはならない」。

 ことによると、あなたも注意したことがあるかもしれないが、エリヤの後期の伝道活動は、――確かにそれはなおも火の働きであり続け、彼の声はなおも後にバプテスマのヨハネがそうすることになったように、「荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ」[イザ40:3]、と荒野で叫ぶ声であったとはいえ、――全体としては、ずっと優しく穏やかなものとなった。彼は、民の間における自分の働きを永続させるために、預言者の学校を設立することに専心していたように思われる。というのも、預言者のともがらと呼ばれた若者たちは、明らかに彼を自分たちの主人、また、かしらと認めていたからである。それは、エリヤが天に連れ上られてから彼らがエリシャをそう認めたのと変わらない。預言の教えというかすかな細い声が試されるべきであった。数々の審きは明らかに失敗した。というのも、民のかたくなな心は柔らかくされも、征服されもしなかったからである。人々は恐れさせられた。だが、回心することはなかった。一時は恐怖して自分たちのもろもろの罪から離れたが、たちまちそれらに舞い戻った。豚が身を洗っても、すぐさま泥の中に転がる[IIペテ2:22]のと同じである。サタンは、ほんのしばらくの間は彼らの中から追い出されたが、他の悪霊どもを連れて戻ってきて[マタ12:45]、いやまさってがっちりと彼らを占有することになった。今は別の方法が試されるべきであった。より優しく、柔らかく、静かな方法、それが、ずっと効果的なものとなった。それこそ、このかすかな細い声を通してエリヤに伝えられた、神の使信だったと思う。

 II. 第二に、もし私がこの声を正しく理解しているとしたら、《そこには、神に仕えるすべての教役者に対する1つの使信があった》

 私たちの中の、みことばを宣べ伝える者たち、あるいは、何らかのしかたでみことばを教えようと努めている者たち全員に対して、神はこう云っているように思われる。「力を大きく明らかに示すことや、途方もなく圧倒的な威力を誇示することにより頼んではならない。むしろ、神の御霊から滴り落ちる露という、かすかで柔らかい影響力に、また、福音の優しい雨により頼むがいい。みことばを人々の息子たち、娘たちに宣べ伝えるがいい」。説教者である私たちすべてを襲う1つの誘惑は、何か大きなことをしたいという思いである。私たちはこう夢想するのである。もしも私たちが、あのジョナサン・エドワーズの有名な説教のようなものを説教できたとしたら、――そのとき彼は、怒れる神の御手にある罪人について語り、人々は、自分たちの腰かけている座席そのものがぐらぐら揺れたように感じ、何人かなど恐怖のあまり立ち上がって柱をつかんだというが、――私たちは夢想するのである。もしも自分がそのような様式で説教できさえしたら、生きている甲斐があったというものだ、と。あるいは、こう思うのである。もし私たちがホイットフィールドの雄弁を有しており、彼がしたように、行ってケニングトン広場に立ち、一度に二万人もの人々に向かって説教できたとしたら、そのとき私たちは、自分の最高の大望にふさわしい何かを成し遂げたことになるはずだ、と。あるいは、私たちはいくつか有名な説教を有していて、それを非常に大したものだと考えているかもしれない。もしかすると、水晶宮の花火の大団円のような、洗練された大演説を有しているかもしれない。あるいは、その講話の全体を通じて非常な雄弁術が披瀝されているかもしれない。あるいは、たとい賢明にもそうした類のことをことごとく省いているとしても、私たちはその説教を、その大鎚の力そのものによって、自分の聴衆の判断を確信させるものとしよう、あるいは、彼らの理解力に押し入るものとしようと試みたかもしれない。そして、そのように説教すれば、私たちの会衆が回心するのが見られるものと希望してきたかもしれない。

 さて、もし私たちが伝道牧会活動を長くしてきたとしたら、また、もし主が私たちに真の霊的理解を与えておられるとしたら、私たちは、こうした一切の希望や期待がいかに空しいものであるかを発見してきたに違いない。そうした説教を行なっている間、そこには大風が吹くかもしれない。だが、その風の中に主はおられない。そこには大きな地震があるかもしれず、人々は揺さぶられ、恐怖のあまり震えるかもしれない。だが、主は地震の中にはおられない。私たちの講壇は、来たるべき審きの火によって赤々と照り輝くかもしれない。だが、主は火の中にはおられない。確かに私たちは主を恐れることを宣べ伝えるべきである。だが、パウロのように、私たちは主を恐れることを知っているので、「人々を説得しようとする」[IIコリ5:11]べきである。説得力こそ、まさに真理の恐ろしい側面ゆえに、私たちの説教の支配的な特徴たるべきである。私たちは、神のことばの中に見いだされる脅かしを包み隠すべきではない。というのも、あの優しく、愛に満ちた《救い主》が、必ず来る御怒りについて、決して尽きることのないうじについて、また、決して消えることのない火について[マコ6:48]、非常に恐ろしいことばを発されたからである。それと同時に、私たちが何よりも頼るべきは、そうした説教様式であってはならない。私たちが祝福を期待するよりどころは、警告と恐怖に満ちた言葉を積み重ねることであったり、差し迫る審きの災厄や脅威を描き出そうとする数々の表現であったりしてはならない。というのも、結局において、私たちは、自分の聴衆を怖がらせ続けて、もはや怖がれないようにしてしまうことがありえるからである。恐怖のあまり泣かせ続けて、もはや泣けないようにしてしまうことがありえるからである。むしろ、そうする代わりに人々は、かつてはあれほど大いに心を乱したことを、馬鹿にするようにさえなるかもしれない。

 しかし、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方[Iコリ2:2]の説教は決してその力を失わない。何度となく、あの――

   「古けく古き 物語、
    イエスとその愛の物語」

を告げようとも、それは決してただの繰り言にはならない。もしも私たちが、暖かな心と愛に満ちた霊によって、なおも私たちの話を聞く人々に向かってこう叫ぶことができるとしたらそうである。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」[ヨハ1:29]。私たちの会衆には何の興奮もないかもしれない。私たちの説教によって何の大騒動ぎも起こらないかもしれない。だが、主はその中におられるであろう。主は常にそのような説教の中におられたし、これからも常におられるであろう。《救い主》を説教するということは、確かに、やがて罪人たちが救われるということを意味する。だが、罪人たちが救われない場合でさえ、私たちが忠実に、愛に満ちて、また、真剣に福音を彼らに宣べ伝えるならば、私たちは、救われる人々の中にあっても滅びる人々の中にあっても、神の前にかぐわしいキリストの香り[IIコリ2:15]なのである。それで、私たちは、ひたすら前進し、前進し、前進し、前進していくことに満足しよう。イエス・キリストを宣べ伝えつつ、神の御霊が私たちの上にとどまっておられることを祈りつつ、いかに神の御子が私たちを愛し私たちのためにご自身をお捨てになったか[ガラ2:20]を何度も何度も何度も告げながら、神がみことばを祝福してくださるよう祈ってほしいと信仰を持つ人々に願い求めながら、私たち自身の生き方を、さらに私たちの宣べ伝えるお方の生き方に似たものとすることを求めながら、また、あらゆる正当な手段によって、少なくとも私たちの話を聞く何人かの人々を救うことにおいて神から祝福される器になろうと努めるようにしよう。そして、もしも私たちが神に対する信仰、また、私たちが伝えるように遣わされたこの使信に対する信仰を有しているとしたら、そうした伝道活動において成功を収めることであろう。というのも、主は今なお、かすかな細い声による伝道活動の中におられるからである。この世には多くの種類の伝道活動があるが、イエスにある真理[エペ4:21]の伝道活動の中のほか、どこに神はおられるだろうか? 世には学識の伝道活動があり、雄弁の伝道活動があり、哲学の伝道活動があり、肉を華やかに見せびらかす伝道活動がある。だが、たいていの場合、魂はそうしたものによっては救われなかった。真に魂をかちとる伝道活動とは、かすかな細い声の伝道活動である。イエスの贖いの恵みと死に給う愛を宣言する伝道活動である。そして、こうした伝道活動が行なわれるところでは、求める魂が神の御声を認め、それに注意を払うであろう。それで、このかすかな細い声の中には、みことばに仕える、あらゆる説教者に対する1つの使信があったのである。

 III. このかすかな細い声の中には、《神の教会全体に対する1つの使信》もあったと思う。

 主は、風の中にも、火の中にも、地震の中にもおられなかった。むしろ、かすかな細い声の中におられた。この事実から私たちが学びたいと思うのは、決して何らかの国に大きな審きが下ったり、何らかの異常な天来の力がこの世に広まったりするのを見たいと願い、それによって神の国が来るだろうなどとは考えないことである。私たちは時に、神の御国の進展が自分たちの考えるほど速く進展していないと考えて、不満をいだくことがある。海外宣教は、私たちが見たいと思っているほどの成功を収めておらず、国内宣教も私たちがそうあってしかるべきだと考えるほど生き生きと成長していない。それから私たちは、ロンドンで虎列剌が流行していた頃のことを思い起こし、あの当時の人々はもっと素直な霊をしており、もっと福音を進んで聞こうとしていたように見受けられたことを思い出しては、そうした訪れが何か再びやって来て、この罪深い町と国の無感覚な住民たちを覚醒させれば良いのにと、願わんばかりになる。だが、そのような願いをいだいてはならない。というのも、結局において、そのようなしかたでもたらされる善は、本物であるよりはずっと見かけでしかないことの方が多く、見かけが柔らかくなった後で、しばしば真理に対して心をかたくなにすることが起こるからである。私たちは時々、地の国々を眺め、それらが偶像礼拝にうつつを抜かし、はなはだしい過誤に溺れているのを見ては、戦争でも勃発すれば、あるいは、疫病とか、何か他の形の神の鞭が下ったなら、そのときはみことばの宣教に対して新たな扉が開かれるのではないか、それが宣べ伝えられるとき、人々がもっと進んで耳を傾けるようになるのではないか、と思うことがある。疑いもなく、過去に何度かそうしたことは起こってきた。だが、私たちは、心の中においてさえ、そうした災難や懲らしめが起こってほしいなどとは願わないようにしよう。むしろ、なおも私たちの信頼を、初代のキリスト教会が置いていたところに――福音の宣教を通じて働かれる神の御霊の上に――置くことにしよう。真剣で忠実な人々、また、福音の力を自らの心と生き方において証明していた人々によって福音が宣べ伝えられるときに働かれる神の御霊の上にである。

 このかすかな細い声の中にある、主の民へのさらなる教訓はこのことである。神がエリヤに仰せになったことによると、明らかにこの預言者が全く知らなかった1つのみわざが、イスラエルの中では進行しつつあった。七千人の人々の膝は、これまで決して太陽神の礼拝で屈められたことがなく、彼らの唇は決して種々の偶像に口づけしたことがなかった。このことは、疑問の余地なく今日においても真実である。何千人もの人々は、私たちが全く知らなくとも、これほどの心の悲しみを私たちに引き起こしつつある偶像礼拝にあずかることをしていない。いかに呪わしいことであろう、様々な種類の偶像礼拝が、この国で、また、他の国々で今日これほどはびこっていることは! おゝ、エリヤの神よ。すみやかに、こうしたすべてに終止符を打ち給え。われらは、切に乞い求めます! だが、そうした邪悪な偶像礼拝がイスラエルにはびこりつつあった間ずっと、真の神礼拝は七千人の忠実な魂の中で保たれ続けていたのである。エリヤは、自分のほかに誰かひとりでもいるとは知らなかったが関係ない。いかにして彼らはエホバのものとなるよう、かちとられたのだろうか? 確かにカルメル山頂におけるエリヤの印象的な示威行動によってではない。もしかすると、あの三年間の干魃によって回心させられたのでさえないかもしれない。ならば、何ゆえに彼らは、自分たちの同国人の大半とこれほど異なる者となっていたのだろうか? 彼らの心に及ぼされた、神の御霊の隠れた動きである。ことによると、炉端における母親たちの愛に満ちた教えや、敬虔な男女が自分とともにいる人々に対して及ぼす、また、エホバ礼拝者たちが世の人々に対して及ぼす、恵みに満ちた影響力によってであったかもしれない。彼らは、そうした人々の中に、自分が有していないものを見てとり、それを賞賛するあまり、いかにすれば自分もそのように麗しい人格を獲得できるのかを探り求めたのであろう。――こうしたすべてのことが助けとなって、この七千人の偶像礼拝者たちは、エホバの味方につくことになったのである。このかすかな細い声は、エリヤに行なえなかったことをイスラエルのためにずっと行なってきていたのである。

 兄弟たち。似たような過程が今も進みつつある。そして、私はそれに関するあなたの記憶を新たにさせたいと思う。時として、現代における組織化されたキリスト教を丹念に吟味するとき、私たちはそこにいかなる進展も見いだすことができないことがある。これは非常に遺憾なことであり、大きな悲しみの種である。目に見える進展が何もないのである。だが、そうしたすべてにもかかわらず、私たちは希望しようではないか。地下において1つの働きがなされていることを。神の恵みの隠れたわざが、私たちを取り巻く人々の心と生き方の中で進みつつあることを。私たちが全くそのしるしを見てとらなくとも関係ない。あなたがた、自分のパンにパン種を入れる人たちは知っているであろう。夜の間、何の物音も聞こえなくとも、そのパン種が静かにではあっても効果的な作用を及ぼしていることを。わが国には、そしてその他の多くの国々には、今なお開かれた聖書がある。そして、そう云える限り、プロテスタント信仰が死滅するとか、真理の灯が吹き消されるとか恐れる必要はない。また、この国にも他の国々にも、開かれた聖書以上のものがある。そこには、祈りをささげる多くの人々がいる。休むことも、やむこともなく神に願い立て、神の大目的と御国が地上で生き生きと成長するのを見るまでそうし続ける人々である。あなたはそうした人々のことを知らず、そうした人々はこの世の有力者たちの間にはいないかもしれない。だが、日夜神に向かって、その真理が保たれ、伝播されるようにと叫んでいる多くの人々がいるのである。罪について涙している目があるのである。《贖い主》の御国の到来を切望するあまり、張り裂けそうになっている心があるのである。ある人々は、その名前が決して取り沙汰されることなく、地上の最も貧しい人々の中にいるであろうが、それにもかかわらず、その声をもって柔らかくイエスのために語り、その生き方によっても力強くイエスのために語っている。家内における召使いとして、作業場における賃金労働者として、忍耐強く非常な苦痛と窮乏を忍ぶ、貧しい寝たきりの患者として、そうしているのである。なぜなら、イエスがご自分のためにそれに耐える恵みを彼らに与えておられるからである。

 私はこのようなかすかな細い声たちの力を信じており、こう祈るものである。神の《教会》が決して、特定の大雄弁家や傑出した教役者たちに依存するべきだなどという考えをいだかないように、と。残念ながら、大西洋の向こうにいる、私たちの友人たちの多くは、この件においてきわめて深刻な間違いに陥っているのではないかと思う。というのも、彼らの中の偉大な説教者たちの誰かが不在にすると、彼らの礼拝所は、あたかも神が田舎に出かけたか、海辺に行ったかのように閉鎖されるからである。それは、何某先生や何某博士が田舎や海辺に出かけたからだという。愛する方々。私は切に願う。あなたは決して、私たちの誰にも信頼を置きすぎることなく、神がお望みになれば他の人々によっても同じくらい働くことがおできにならないかのように考えないでほしい。あるいは、私たちが最も入念に準備された説教をもってあなたの所にやって来るか、目覚ましい雄弁で常にあなたの耳を魅了するかしなくてはならないと想像したりしないでほしい。私について云えば、心から素直に出てくるもの以外、いかなる弁舌や雄弁も忌み嫌うものである。イエス・キリストの《教会》は、洗練をきわめた種々の説教や、有名な雄弁家たちの弁論によってはなはだしい害をこうむってきた。だが、兄弟たち。私たちは常に、自分の心が自分を押し出して用いさせる言葉遣いで話をしよう。私たちの魂そのものが、私たちの唇からあふれ流れるようにしよう。さながら、滾々と湧き出る泉から水流が迸るようにである。というのも、これこそ、私たちが罪人たちに対してそのもろもろの罪を捨て、生ける神に立ち返るよう訴えることのできる最上の種類の雄弁だからである。私たちは、パウロのように[IIコリ10:10]、弱々しいとみなされ、話しぶりがなっていないと云われることに喜んで甘んじよう。というのも、神はそのとき、他のいかなる方法によっても行なわないようなしかたで、私たちを祝福してくださることがありえるからである。

 私が強調したい点はこのことである。神の下にあって《教会》が頼みとすべきは、鐘の響きのように遠く広く鳴り渡る声であってはならない。耳を喜ばせる甘美な音楽を奏でる舌であってもならない。むしろ、福音そのものにより頼まなくてはならない。単純に述べられる福音、《日曜学校》で教えられる福音、家庭の祭壇で説明される福音、聖なる男女によって生きられ、また、愛される福音により頼まなくてはならない。それこそ、神のみわざを効果的に行ない、栄光に富む神の恵みの計画を成し遂げるであろうものである。そして私は、あなたがた、このようにあなたの《救い主》に仕えようとしている人たち全員に願いたい。たとい、かすかな細い声のようにしか見えなくとも、あなたの奉仕の上に主の祝福があることを信じてほしい。あなたがた、私の愛する姉妹たちは、説教を語ることはできないかもしれない。だが、それよりもはるかにまさることを行なうことができよう。あなたが自分の子どもたちに語りかける愛に満ちた言葉、あなたの回りに身を寄せる子どもたちにあなたが教えてやる有益な賛美歌、その子たちを寝床に就かせるときにあなたが口にする夕べの祈り、そして、あなた自身の聖なる模範は、みな神がその子たちに語りかけるであろう、かすかな細い声となるのである。また、あなたがた、子どもたちの世話をしている女中たち。また、あなたがた、通学制学校で教えている人たち。また、あなたがた、どこにおいてであれ、あなたの同胞たちと接触を持たされている人たち。あなたは、自分の言葉と行動によって、神のために最も重要な使信を携えて行けるのである。たとい、あなたが、人間の判断によれば、ほとんど何の力もないと思われる、かすかな細い声のようでしかないとしても関係ない。私が願うのは、キリストの《教会》全体がこのことを悟ることである。《教会》の最も偉大な勝利の数々は、普通、人間的な見地からすれば、その任に堪えないと思われる人々によって成し遂げられてきたのであり、《教会》は今なお、神の御名によって、平凡な手段を用いること、また、自分の平凡な働きを、平凡なしかたで果たすことに献身している、平凡な人々によって、この上もなく壮大な結果が自らのもとにやって来るのを見ることができると期待して良い。そうした働き手たちが、《天来の御霊》の影響力の下にある場合はそうである。御霊からこそ、いかなる真の力もやって来るに違いないからである。

 IV. さて本日の講話のしめくくりにあたり、この聖句を四番目のしかたで用いたいと思う。私の信ずるところ、このかすかな細い声の中には、《罪人たちに対する1つの使信》があった。

 さて、ここに霊感された洋筆によって素描されている光景の中には、あなたが考察して良い多くの事がらがある。この預言者は、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕くのを見た。足の下の地面が揺れ動くのを感じ、地震の強大な力によって、谷間が山頂へと持ち上がり、山頂が深い峡谷へと沈むのを見た。また、山腹の森全体が火によって燃え上がるのを見た。だが、神は、こうした恐ろしい光景のいずれにおいても、彼にご自分を現わされなかった。ただ、このかすかな細い声がやって来たときこそ、神が彼にお語りになったときであった。そして、一部の求める魂が経験する多くの恐怖についても、それは同じである。人間の性質はそこにあり、悪魔はしばしばそこにいる。だが、救いに至るという意味では、ごくまれにしか神はそこにおられない。それで、あなたがたの中の誰も、そうした恐怖を感じる必要はない。神がその民をそうしたものよりもなだらかな路によってご自分のもとに至らせてくださるとき、それは大きなあわれみである。ある人々が、そうした険しい路によって神に至らされることは承知している。そして、たといそうだとしても、そうした人々は、自分が自分の罪の中で滅びるまま放置されるよりは、何としても神に至らされていることに感謝して良い。だが、もし神が、他の人々に対するその大きな優しさによって、そっとご自分のもとに導くとしたら、なぜそうした人々はそれを残念がるべきだろうか? そうした人々は完璧に満足すべきではないだろうか? また、他の多くの人々が受けたような辛い経験を忍ぶことなく救われたことで、二重の感謝さえささげるべきではないだろうか? 愛する方々。他の人々の経験を自分も受けたいと渇望してはならない。さもないと、それによってあなたは神を怒らせ、神が激しい憤りであなたを懲らしめることになるかもしれない。あなたは、神があなたに行なうよう命じておられること、すなわち、その愛する御子イエス・キリストを信頼することを拒み、こうしたぞっとするような感情を神があなたに覚えさせることを欲しているのである。だが、そうした感情を覚えるとしたら、一刻も速くそれらをなくしたがるであろう。

 さらにあなたにこう云わせてほしい。たといあなたがたの中の誰かが、こうしたすさまじい恐怖を覚えているとしても、決していかなる信頼もそうしたものに置かないようにしてほしい。もしも、自分がほとんど絶望に追いやられているからには、救われているのだ、などとあなたが思い込むとしたら、致命的な間違いを犯すことになるであろう。天国の希望にとって、自分が失われていることを悟っているからには救われているのだと考えることほど不安定な土台はない。これは非常に馬鹿げた考えであろう。ある人が、自分は具合が悪く感じるからには健康であると結論したり、別の人が、自分は貧乏だと感じるからには金持ちなのだと夢見たりすればそうである。ある種の呵責の念は非常に悔い改めに近いが、それは神の恵みの実ではない。ある種の罪悪感は、神の御霊のみわざによってではなく、その人自身の良心によって生ずる。――目覚めさせられはしたが、なおも聖霊なる神によって光を受けていない良心から生ずる。不信仰のままとどまっている人の、目覚めさせられた良心ほど恐ろしいものはほとんどない。だが、ある人々は、すさまじい経験をした上で、これほどの脅威と恐怖の時期をくぐり抜けたからには、自分は救われているのだなどと思い込むことさえしてきた。もしあなたがたの中の誰かが、このような苦しみを受けているとしたら、その経験に何の信頼も置かないようにするがいい。

 神が中におられる、このかすかな細い声が本当にあなたのもとにやって来るとき、それがどのようにやって来るか分かるだろうか? おそらく、それがエリヤのもとにやって来たのと同じしかたによってであろう。それは、あなたに個人的に語りかけるであろう。それで、あなたは、それまで安息日ごとに聞いてきた幾多の真理が個人的にあなたに影響を及ぼすのを感じ始めるであろう。このかすかな細い声がこの預言者に向かって、「エリヤよ。ここで何をしているのか」、と云ったように、真理はあなたに問いかけ始めるであろう。そして、そのときあなたはあらゆる説教が他の人々にではなく、自分に語られたかのように聞こえるであろう。聖書を読むとき、自分のために記されているかのように読み、それがあなたに何と云っているかを見いだすであろう。そして、そこに記されている真理を通して、神はあなたの魂にお語りになるであろう。

 しかし、最初、そのかすかな細い声はあなたの慰めにならないであろう。それがエリヤを慰めなかったのと同じである。それは、あなたの人格とふるまいについて、心探るような数々の問いかけを発するであろう。それによって、あなたは自分の過去の人生を眺めさせられ、悲しまされるであろう。それによってあなたは、自分の現在の生き方を眺めさせられ、それがいかに罪深いものかを見てとって赤面させられるであろう。また、やはりそれによってあなたは、いかに長年にわたって自分自身と虚栄のために人生を浪費し、神のために生きてこなかったかを思い出させられるであろう。このかすかな細い声によって、あなたは悟らされるであろう。自分がいかに神から離れているか、また、いかなる変化が自分の中に作り出されなければ、自分が神の子どもたちの間に置かれることがありえないかを。それによって、やはりあなたは自分の未来の人生を垣間見させられ、自分の前に横たわっている見込みに震えおののかされるであろう。それによってあなたは思い起こされるであろう。もしあなたが回心しないままであれば、あなたはますます悪い状況へ移り、罪に罪を重ね、心がいやましてかたくなになり、ついには最終的に悔悟できない状態に引き渡されるということを。

 この厳しい使信の後で、あなたにとってほむべきことに、このかすかな細い声は、ある程度の希望をあなたに与えるであろう。あなたがいま感じていることには何も驚愕すべきものがないかもしれない。あなたが感じてきたのは、決して脅えさせられるような気分の悪さではない。決して眠っている間にあなたに臨んだ不可思議な夢ではない。決して異様な摂理を経験することではない。だが、どういうわけか、あなたは、どこにいようと居心地の悪いものを感じるのである。霊が乱れ、安らげないのである。おゝ、罪人を自分のもろもろの罪から追いやる、これは何とほむべき不安であろう! 罪深い魂に、この世をうんざりさせ、キリストに飢え渇かせる、これは何と甘やかな苦味であろう! 私は願う。主がこの不安とこの飢え渇きをあなたがたの中の多くの人々に与えてくださるように、と。私の知っているある人々は、こうした経験をあまりにも厳しく感じたために、作業場でも安らぐことができなくなった。確かに自分の仕事を行ないはしたが、多くの吐息を合間に挟みながらであった。食事さえも、かつて有していた風味を失ってしまったかと思われた。夜に眠ると、その眠りは不安に満ちたものとなり、目を醒ますと、その悲しみがなおもとどまっていた。そうした人々は、自分が神と正しい関係に立たない限り、自分で自分が堪えられなくなるのを感じた。それこそ、神が中におられる場合の、このかすかな細い声の効果である。

 この声は、そのうちに、おそらくあなたがたの中のある人々に語りかける調子を変えるであろう。というのも、それはあなたに、贖いの恵みと死に給う愛について話し、罪人の《救い主》について語るようになるからである。あなたのための《救い主》である。それで、あなたは、1つのほむべき、優しい、説得力ある影響力が、自分に働きかけてイエスについて聞かせようとすること、みことばに注意を払わせようとすること、そして、イエスをあなた自身の個人的な《救い主》として信じたいと願わせようとすることを意識するようになるであろう。そして、その声は、あなたが少しでも罪に戻りたいという気分になって罪を振り返ろうとし始めるとき、あなたを阻止しさえするであろう。また、あなたの内側に、より多くの聖なる憧れをかき立て続け、ついにはあなたが本当にイエスを仰ぎ見て生きるように導くであろう。そして、あなたがイエスを仰ぎ見たとき、あなたは全生涯にわたって、その声を聞き続けることになるであろう。他の人々に聞こえないときでさえ、あなたには聞こえるであろう。もしあなたが自分の手を不義に突き出そうと試みるなら、ぎょっとしてそれを引き戻すであろう。その声が発する警告のためである。しばしば、他の人々がこの世についてだけ忙しくしているとき、あなたの精神は天へと舞い上がっているであろう。なぜなら、この声が地上に嫌気を差させ、あなたを上へと、また、上にあるあなたの御父の家へと引き離そうとせがんでいるだろうからである。

 このかすかな細い声は、しばしばあなたがなすべきことを告げるであろう。「あなたはうしろから『これが道だ。これに歩め。』と言うことばを聞く」*[イザ30:21]。たといあなたが、たまたまみことばの牧会伝道活動に耳を傾けることができない所にいたり、それによって益を受けられなかったりしても、この声があなたに語りかけるであろう。あなたが聖書を読むとき、この声は、他のいかなる声もあなたの魂に及ぼさないほどの力強さとともに、あなたに語りかけるであろう。というのも、結局において、これはイエスの御声だからである。これは、永遠の愛の声である。カルバリの上で、「完了した」[ヨハ19:30]、と仰せになった御声である。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」[マタ11:28]、と仰せになった御声、天でこう訴えている御声である。「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。わたしの栄光を、彼らが見るようになるためです」*[ヨハ17:24]。

 それゆえ、愛する方々。他のいかなる声にも耳を傾けてはならない。このほむべき《書》に記されたもの以外に、他のいかなる啓示を持つことも期待してはならない。あなたには、単にモーセと預言者があるだけではない。イエスと使徒たちもある。だから、彼らに聞くがいい。このかすかな細い声が真理を明らかに示すようにし、他のいかなる使信も求めてはならない。これこそ聖霊の照明によって、あなたのすべてを満ち足らす導き手である。ならば、他のいかなる導きも求めてはならない。もしあなたがそれによって救われているとしたら、私はあなたに命ずる。その一点一画にさえも従うがいい。神の定めを決して改変することなく、その戒めを何1つ忘れてはならない。むしろ、《小羊》が行く所には、どこにでもついて行くがいい[黙14:4]。その刺し貫かれた御足の跡が見える所であればどこであれ、あなた自身の足を踏み下ろすがいい。主が行なったように行なうがいい。主があられたようにあるがいい。そうすれば、じきにあなたは、主がおられる所にいるようになるであろう。願わくは、あなたが顔覆いなしに御顔を拝するときまで、主のほむべき御霊と、主のかすかな細い声とが、あなたとともにあるように。主の愛しい御名のゆえに! アーメン。

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四つの使信を伴った声[了]


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