HOME | TOP | 目次

信仰者の現在の安息

NO. 3169

----

----

1909年5月20日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1873年7月6日、主日夜


「信じた私たちは安息にはいるのです」。――ヘブ4:3


 この聖句は、信じた私たちがやがて安息に入るとは云っていない。それも非常に大きな真理ではあるが、ここで教えられている真理ではない。私たちは、「いま」、この現世においてすら、安息に入るのである。主イエス・キリストを信ずる信仰者である者はみな、すでに心の安息を享受している。そして、信仰が彼らの魂を所有している割合に応じ、その割合に応じて、完璧な安息を享受しているのである。そして私は、キリストにある兄弟姉妹たちに切に願う。この聖句を未来に当てはまるものとすることによって自らを貧しくしたりしないように、と。むしろ、神が与えておられる霊的な富裕さを求めて、この聖句を使徒が書いた通りのものとして受け入れ、そうすることで、「信じた私たちは安息にはいる」ことを実現してほしい。

 この言葉が現われている箇所の前後関係から見てとれるように、人々のためのあらゆる真の安息の型と範型は、創造の六日間の後で神がとられた安息であった。主は、かくも驚異的なしかたで事物を造り上げ、その創造のみわざのすべてを完了なさった後で、「第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた」[創2:2]、と記されている。いかに神の安息が破られることなどがありえたのか、私たちには理解しがたいことである。それでも、その第七日目には、それ以前の六日間にまさる深い種類の安息を神は有されたに違いない。というのも、そのとき神は休まれたとはっきり云われているからである。その大いなる神秘の深みに私たちは飛び込もうとはすまい。だが、私たちの知るところ、そのとき主はご自分の休息の恒久的な記念として安息日を制定された。そして、その安息日は、あらゆる人々、特に主の民全員が、恒久的に守るべきものとされた。それは思うに、神がご自分の休息を記念するだけでなく、人々をその休息にあずかせたいという意図を指し示そうとされたからである。

 人間の幸福について神がいだかれた壮大な理想は、人が単に働くことができるだけでなく、休息をもとることにあった。人跡未踏の被造世界のあらゆる部分には、いかに驚嘆すべき安らぎがあることか! 人間のいる田舎のどんな部分にでも入ってみるがいい。そこに見いだされるのは、鋤刃が地面に食い込み、牛や驢馬や馬が労苦している姿であり、そこで出会う男や女は病んでいて、貧しくしており、あれこれの物に欠けている。しかし、そこを離れて森の中に入り、自然の未開地を歩き回って、そこでいかに万物が安らかにしているかを見るがいい。いかに鳥たちは神への賛美を歌う以外にほとんど何もしていないことか。いかに小川そのものすら、その瀬音によって歌っていることか。また、いかに人に触れられていない被造物のすべてが、深く深遠な平穏さと平安さの中で喜んでいるように見えることか。何の《堕落》もなかったとしたら、世界はことごとく安らかなものであったろう。人を悩まし傷つけ、その労苦を増し加えるような茨やあざみはなかったであろう。また、私たちが絶えず清新な水力や蒸気力を求めて、人間の労苦の重荷を軽くしようとするような必要はなかったであろう。倦み疲れた額からの汗や、疲労した頭脳がずきずき痛むようなことは全く知られなかったことであろう。地は、神がご自分の休息を守られたのと全く同じように、自らの《安息》を守っていたことであろう。しかし、罪が世に入り込み、そのほむべき休息の状態から人は堕落してしまった。それでも、神は私たちを、それに類似した休息へと引き戻しつつあり、イエスを信じたすべての者は、その中に導き入れられているのである。彼らにとって安息日は、神の休息を示す天来の記念であり、自らの休息の型であり、彼らがキリストのうちに見いだした霊的な休息を絶えず思い起こさせるものでもある。

 みことばの中には、別の型の休息も示されている。すなわち、イスラエル人が約束の地に入る際の休息である。「もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら」、と使徒は云う。「神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう」[ヘブ4:8]。イスラエル人は、荒野にいる間はずっと、絶え間なくあちこちへ移動しつつあり、天幕に住み、ほとんど何の慰安も享受できなかった。荒野で神が彼らを富ませてくださったあらゆる祝福にもかかわらず、荒野は荒野であったし、モーセは真実こめてそれを「獣のほえる荒地」[申32:10]と呼んだ。彼らはそこに何の休息も有さず、自分たちの旅の目的である乳と蜜の流れる地を、常に待ち望んでいた。彼らが熱望していたのは、彼らが腰を落ち着け、家々を建て、葡萄畑を作り、平穏な休み場に住める土地であった。それゆえ、カナンは、神がご自分の民に地上で与えようとしておられる休息の型なのである。それは、非常に不完全なしかたでしか、天国の型ではない。カナンには戦うべきカナン人がいたからである。彼らは次第次第に追い払われるべきであったし、その一部は彼らの砦から決して追い出せなかった。だが神に感謝すべきことに、天国には聖徒たちを悩ますカナン人は全くいない。カナンは地上における信仰者の状態を真に示す範型であり型である。イエスを信じた私たちはヨルダン川を越えている。主はそれを私たちのために2つに分けてくださった。そして私たちは休息に入っている。確かにカナン人はこの国になおもいるが、主もまたこの国におられる。そして、その恵みによって私たちは、確かに彼らをすべて追い出すことであろう。私たちは、自分が徐々にカナンの安らかな岸へと近づくことを希望すると云うべきではない。私たちはいまカナンの上にいるのである。もし私たちが真にキリストを信じているとしたら、私たちの状態はまさしく、カナンの中で自分たちの相続地を獲得しているイスラエル人たちによって象徴されているものなのである。というのも、イエスはご自分の相続財産を獲得しておられ、神は、「私たちを……キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせて」[エペ2:6]くださったからである。

 I. 私がここまであなたに云おうとしてきたことの要点はこうである。世には今、あらゆる信仰者のものとなっている安息があり、もし彼らがしかるべきしかたで生きているとしたら、彼らはその安息を享受しているはずである。私はまず第一に、《神の休息によって示されている素晴らしい型によってこの安息を説明する》よう努めたい。

 創造の六日の後でとられた神の休息は、信仰者が享受する安息に似ている。というのも、それは、完了した1つのみわざについて語っていたからである。よく知られた創造の物語であなたの記憶を新たにする必要はないであろう。――いかにして暗闇が光と分かたれたか。いかに大空の上にある水が、その下にある水と分離されたか。いかに生き物がうようよと深海で群泳し始めたか。そして、いかに迅速の翼をもって天の鳥たちが空を切っていたことか。あなたに細々と語る必要はないであろう。いかに生え始めた草木がその種類に従って種を生じさせ、木々がその種類に従って実を結び、いかに羊や牛、地を這うもの、また、野の獣、そして人間――神の最高傑作――が創造されたかを。だが、あなたも知るとおり、第六日に太陽が没したとき、神はそのすべてのわざを終えておられた。仕上げるべき何も残っていなかった。神は世界に、その存在の完全な円環をなすために必要な一切の被造物をすでに置かれていた。何物にも欠陥はなく、何物も欠けてはいなかった。創造のわざすべては完了した。それゆえ、神は休まれた。神にはなすべき他のわざがあったが、この特定のみわざからは休み、安息を守られた。

 さて、キリスト者はこのような状態に至ることができるだろうか? しかり。それこそ、キリスト者であるあらゆる人の真の状態である。その人は、自分自身の救いのみわざが完了していることを見てとっている。その人は自分でそれを成し遂げたのだろうか? おゝ、否! たといそうしようと試みたとしても、失敗していたことであろう。また、その一部分でもその人にかかっていたしたら、それは決して果たされなかったことであろう。しかし、ある罪人がイエスを信じた瞬間に、もしその人が正しく教えを受けていたとしたら、その人はカルバリの十字架から、かの嬉しき言葉、「完了した」[ヨハ19:30]、が鳴り響くのを聞いて、知るのである。贖罪が完璧であること、義と認められるために必要な義が完成していること、契約のあらゆる祝福が自分のために確保され、保証されていること、また、罪人をハデスの門からさえも神の御座に引き上げるために必要な一切のことが、大いなる《贖い主》、受肉した神の《ことば》によってすでに作り出され、導き入れられていることを。というのも、種々の世界は神のことばによって形作られ、同じことばによって人々は救われるからである。そのことばによって暗闇は逃げ散り、いのちと光がやって来た。そして、その同じことばによって、私たちの破滅という暗闇は追い散らされ、私たちの救いという光といのちが私たちのもとにやって来ているのである。愛する信仰者たち。覚えておくがいい。あなたは部分的に救われているのではなく、全く救われているのである。あなたがきょう着ている衣は、あなたの身を部分的に覆っているのではなく、頭から爪先まであなたを覆っている。《救い主》があなたに与えておられる洗いは、あなたのしみの一部を洗い落としたのでなはく、あなたは全身きよい[ヨハ13:10]のである。そして、あなたの救いをイエスの御手から受けて、その救いのみわざを眺めるとき、あなたは神が休息されたように休息して良い。また、神が安息日を守られたように、長くほむべき安息日を守って良い。神が休まれたのは、その創造のみわざが完了したからであり、あなたが休んで良いのは、あなたの救いのみわざもまた完了しているからである。

 神が七日目に休まれた別の理由は、単にそのみわざが完了したからだけでなく、完了したすべてのことが良かったからでもある。神の六日間のみわざの後で、こう記されている。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった」[創1:31]。それゆえ、神は休まれたのである。そして、おゝ、イエス・キリストの完了したみわざを眺めるとき、信仰者はいかなる安息を得ることか。また、そのみわざのあらゆる部分を吟味した後で、いかにそのすべてについて、「それは非常に良い」、と云えることか。罪を覆うキリストのみわざを見ること、また、いかにその代償的犠牲が罪を完璧に覆い尽くし、神ご自身でさえ罪を見えなくなるほどであるかに目をとめることは、実に「非常に良い」ことである。キリストが私たちのもろもろの罪を忘却の中に沈没させ、それらをなくしてしまったと悟ること、これもまた「非常に良い」ことである。人を義と認めるキリストの義を眺め、それがいかに完璧なものか、いかに小糸一本も欠けておらず、その立派な織り目のいかなる部分にも欠陥がないことに注目すること、これもまた、「非常に良い」ことである。キリストを私たちの《預言者》、《祭司》、《王》として見ること、主をそのあらゆる関係、また職務において眺めること、これも「非常に良い」ことである。しかり。愛する方々。これこそ Sabbatismos[安息日の休み <ヘブ4:9>]に至る道である。神の民のためにまだ残っている真の休息に至る道である。もし私たちが神のみわざを吟味するなら、――その完全さにおいても、その一切の詳細においても、父なる神がご自身のみわざを眺めて、そのすべてを称賛されたようにそうするなら、――また、もし私たちが自分の識別力によって、いかに強固な岩の上に私たちが永遠の平安を打ち建てることができるかを感じられるとしたら、そのときは、永遠にほめたたえられるべきエホバご自身のように、私たちは休んで良いし、神の安息に入って良い。おゝ、神がその恵みによって、私たちがそうできるようにしてくださればどんなに良いことか!

 しかし、この主題をさらにじっくり考えると、あなたは思い出すことであろう。神の大いなる安息が、単にすでに完了したみわざ――そして、あらゆる点で良かったみわざ――と結びついているだけでなく、神の聖潔とも非常に密接に結びついていることを。というのも、「神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた」[創2:3]からである。そして、神は私たちにこう云っておられる。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」[出20:8]。私は、この上もない畏敬の念をもって、また、《天来の威光》の前で震えおののきながら云うが、真実にこう語れるであろう。もしも神が不浄な者となりえることが考えられたとしたら、神ご自身でさえ真の安息を得ることはできなかったであろう、と。完璧な安らぎを得るには、完璧な聖潔が必要とされる。罪は、神との関連においては考えられないものだが、真の安息との関連においても考えられないものである。こういうわけで、愛する方々。真の安息日を設けるためには、その日を聖なるものとすることがなくてはならない。それは聖なる日とならなければ、安らぎのある日にはなりえない。たとい人々が、安息日を娯楽に費やすことで休息を得られると云おうと何の役にも立たない。それは決してない。私たちの人間性全体にとって真の安息は、聖潔の中にしかない。そして、種々の聖なる勤めだけが私たちの全存在に対して完全な安息を与えることができるのである。このことを常に覚え、聖潔を慕いあえごうではないか。天国と聖潔は双子の姉妹である。神は、あなたを聖くするにつれて、あなたを幸福にしてくださる。そして、あなたを完璧に聖くしてくださったとき、あなたは完璧に幸福になるであろう。いかなる悲しみの波も、いかなる罪の波もない所にはやって来ないであろう。あなたが罪を犯すことと手を切ったとき、悲しみとも手を切るであろう。

   「天には甘き 安息(やすみ)あり、
    天には甘き 安息(やすみ)あり」。――

だが、それは、ほむべきことに一切の罪がそこに欠けているからである。罪は私たちの平安と安らぎを永遠に毀傷せざるをえない。

 II. さて、第二に私が行ないたいのは、《私自身の経験から、また、神の民全般の経験から、この安息を説明する》ことである。「信じた私たちは安息にはいるのです」。

 最初に、私たちは、神に対する一切の脅え、また、過去の罪ゆえの一切の恐怖に関して、安息に入っている。ほんのしばらく前まで、私たちのもろもろの罪は私たちを大いに怯えさせていた。私たちは、神がそれらのゆえに私たちを罰さなくてはならないと知っており、それゆえ、安らげなかった。しかし、そうした罪は、そのときは私たちの心を騒がせたが、すでに赦されており、私たちは御子の死によって神と和解させられている。そして今、信じた私たちは罰に対する何の脅えも、必ず来る御怒りに対する何の恐れもない。というのも、私たちは安息に入っているからである。私は、それが私の状態であると真実に云える。キリストにある私の愛する兄弟姉妹。それはあなたの状態でもないだろうか? もしあなたが本当にイエスを信じているとしたら、そうでなくてはならない。

 次に、私たちは、未来についての一切の恐れに関して安息に入っている。現世で受ける何らかの苦難については、私たちは神がそれを私たちの益となるように覆してくださると知っている。死の苦痛について云えば、主が死の影の谷においても私たちとともにおられること、私たちを支えてくださることを知っている[詩23:4]。また、死の後に起こるだろう何物をも私たちは恐れていない。というのも、キリストがこう仰せになっている者たちを害したり、心かき乱したりできるものが何かありえるだろうか? 「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。……わたしの栄光を、彼らが見るようになるためです」[ヨハ17:24]。私たちはいかなる審きの恐れからも解放されている。というのも、神が義と認められた人々、やがて栄化してくださる人々を、誰が罪に定めようとするだろうか?[ロマ8:33-34] 私たちの過去の罪に関する一切の脅えは、私たちのもとから永遠に消え去っている。過去の罪に関して、私たちの魂は生まれたばかりの子どものように安らいでいる。私たちは、イエスの尊い血によってそれからきよめられている。また、将来について云えば、それに対する脅えを有していないことは、天の御使いたちと同じである。彼らは何物も自分たちを害することはできないと知っている。彼らは神ご自身に選ばれた者だからである。私たちも、イエス・キリストを信ずる者であるとしたら、それと同じである。

 また、今の私たちは、私たちの以前の罪深い行ないの一切からの安息を有している。かつて私たちは、自分自身の種々のよこしまな情動の奴隷であり、下劣な務めを行なうために、サタンにより、種々の肉欲により、あちこちへとせきたてられていた。だが今や神の御子が私たちを自由にしてくださった以上、私たちは本当に自由である[ヨハ8:36]。私たちは、聖潔の道に喜ばしい自由を見いだしている。神のみこころを行なうことは、私たちの絶えざる喜びである。果報な者とは罪の絆を断ち切り、もはや不義のしもべではない私たちである。そして、私たちは、自分を救おうとする一切の奴隷的なわざからも等しく自由にされている。おゝ、私があわれむのは、自分で自分を救おうとわざを行なっている人々である。彼らが教会か会堂に通い、この違反から遠ざけられ、あの立派と見えるものに追い立てられているのは、ただ単にそうすることによって報いを得られるとの望みのためだけでしかない! ハガルの子ら、奴隷の女のイシュマエル的な子どもたち。あなたがたは決して、イサクおよび自由の女の子どもたち全員の生得権たる安息を受け継ぐことはできない。そして、ハガルの子がそうされたように追い出されなくてはならない[ガラ4:30]。しかし、イエスを信ずる人は、自分が救われていることを知っており、自分を救おうと努める何の必要もない。その行ないはなされており、永遠になされている。しかし、そして今、私たちがわざを行なうのは、いのちからであって、いのちのためではない。いま私たちがわざを行なうのは、救われているからであって、救われるためではない。いま私たちは、自分の行なう何らかのことにより、いかなる功績をかちとらなくとも良いことを知っている。むしろ、キリストの無限の功績がすでに私たちのために、神に完全に受け入れられる権利を獲得していることを知っている。そして、いま私たちが行なわなくてはならないのは、すでに完成された、この天来のみわざゆえの、神に対する私たちの感謝を証明することである。サタンに対する罪深い奉仕からも、律法の奴隷的な奉仕からも、ともに安息を得られるとは、何と幸いなことであろう!

 この場にいる多くの信仰者たちは、こう云えるものと思いたい。自分たちは今や、あらゆる野心的で、不満をいだかせる労働からの安息に達している、と。世俗的な人は決して満足しない。常に、今の自分よりも偉大で、賢く、富裕で、高くなりたがっている。しかし、イエス・キリストを真に信じている人は、神がお望みのことを自分に行なってかまわないと感じている。もしも私が小さな者だとしたら、私は神が大いに愛される小さな者たちを数多く有しておられることに感謝する。また、もし神が私を大いなる者としてくださるとしたら、私に相応しい謙遜さをもって、自分の大きさに耐えられるような恵みを与えておられることで神に感謝する。たとい私が貧しくとも、主を信頼する者たちには少なくともパンと水は与えられると約束しておられることで[イザ33:16]、主をほめたたえる。この世の一切の事物に関して、このような状況に至っていること、また、そのすべてを神の思い通りにゆだねていることは、ほむべきことである。

 ある人々は、年がら年中、プリプリ怒っている。彼らは、嵐の天候の中に生まれ、不断に思いをかき回されているあまり、安らげないように見える。つい先日のこと、私の知っているひとりの園丁が、大雨について大いに不平を鳴らしていた。彼の働いていた庭園に、それが相当な害を与えたというのである。そこで、そばに立っていたひとりのクエーカー教徒が云った。「なあ君、その雨のことでつぶやいてはいけない。たといそれがこの庭園には何の益ももたらさなくとも、君の隣人たちの多くの田畑には大いに益をもたらしているのだからね。だから、君は彼らのために喜び、神に感謝すべきなのだ」。そして、その後でこの善良な人は賢明にもこう云い足した。「結局、神でなく君の手に天候が握らされたとしても、君の方がそれをうまく管理できるとは私は思わない」。それこそ、万物を眺める正しいしかたである。万物は、いかなる人にもまして、神によってはるかに良く定められている。キリスト者よ。たといあなたがそれらを指図できたとしても、いま以上にうまく秩序づけることはできないであろう。それで、完璧に満足してこう云うがいい。「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」[ルカ22:42]、と。信仰が成長すればするほど、安息も大きくなる。だが、私たちの信仰が主を忘れ出し、私たちがやきもきし、気に病み始めるとき、私たちの安息はたちまち消え去ってしまう。栄光に富むのは、ほむべき祈りの力によって思い煩いを免除されて生きることである。あらゆる問題を神のもとに持って行き、それを神のもとに置いてくることができることである。私はそうすることが、いかなる意味を有しているか知っている。というのも、時として教会に問題があり、家庭に問題があり、私がいかに最善を尽くしても、その最善が悪いものとなることがあったからである。だが、とうとう私は、それを私の神のもとに持って行き、こう云った。「主よ。私はもはやこの問題については決して思い悩みません。私はこれをあなたのもとに置いて行きます。あなたのお好きなようになさってください」。そして私は、自分がすっぱり手を切るときには常に、その紛糾が解きほぐされることに気づいてきた。もし私たちが全く神に信頼しようとするなら、また、自分自身にも自分の同胞たちにも頼らないことにするなら、いかなる問題であろうと常に脱出の道があるであろう。

 「信じた私たちは安息にはいるのです」。すでに、ついでのこととして示してきたが、私は、キリスト者の安息が、その信ずることに依存しているという、その事実をまさに強調したい。あなたが安息を得るのは、何か事を行なう者としてではなく、信ずる者としてである。信仰告白者としてでも、他の何者としてでもなく、ただ信仰者としてあなたは心の安息を獲得するであろう。キリストにある兄弟姉妹。私は切に願うが、自分の信仰を堅く保ってほしい。多くの事がらがあなたを誘惑し、自分の経験によって生きさせよう、自分の感情によって生きさせよう、自分の種々の恵みや業績によって生きさせようとするであろう。だが、聖書の中で何度も何度も繰り返されているこの一文を思い出すがいい。「義人は信仰によって生きる」[ロマ1:17]。あの、あわれな《行商人》ジャックのようであるがいい。その一つ覚えの云い回しはこうであった。

   「われは罪人 無の無なれども
    イエス・キリスト すべてのすべて」。

この宣言から一吋たりとも先へ進んではならない。――

   「われ罪人の かしらなるとも
    イエスわがために 死にたまいけり」。

それを越えた瞬間に、あなたは一時的にはある種の高揚を覚えるかもしれない。自分は完全だと告白する人々や、この現代において、自分は完璧に聖化されたと公言して、古臭い異端を再興している人々のようにである。あえて云うが、彼らはそのような者になってはない。あなたはしばらくは有頂天の喜びを得るかもしれない。だが、じきにそれは雲散霧消してしまう。十字架の近くにとどまっていることこそ、私のなすべきことである。私は、ひとりの老いた田舎の人から、ずっと昔にこう云われたのを思い出す。「これは間違いのないことだがね、兄弟。もしあんたが、一吋でも地面より高く上がるようなことがあったら、その一吋分だけ背が高くなりすぎとるのだよ」。そして、私はそれが正しいと信じている。キリストの十字架の前に平蜘蛛のように額ずくことこそ、私たちの分際である。私たちが自分自身では無であること、イエス・キリストがすべてであることを悟ることである。

 「信じた私たちは安息にはいるのです」。あれこれの感情を覚えたことのある私たちでも、自分のことを大したものだと考えている私たちでもない。むしろ、自分が無であると知り、ただキリストによりすがっている私たちである。私たちのいかなる者にとっても、無上の安息さであった時期は、母親の胸に抱かれ、自分のいのちを養うものを彼女から飲むだけでしかなかった頃だったに違いないと思う。そして、神のいかなる子どもにとっても無上の安息さである時期とは、ただ幼子のようになって、自分の神の御胸にぶら下がり、自分の必要とするものを、天来の愛といのちという永遠の泉から飲んでいる時なのである。おゝ、常にそのように幸いな幼子となり、私の必要とするすべての力について私の神により頼んでいることができればどんなに良いことか! そのとき私は、このパウロの逆説を口にできよう。「私が弱いときにこそ、私は強い」[IIコリ12:10]。私は愚かだが、神が私の知恵であられる。私は全くの無だが、神は私の《すべてのすべて》であられる。これこそ、信ずることによって安息に入る道である。

 さて、最後に、愛する方々。あなたに指摘させてほしいが、この安息は、力を尽くして労苦することと完璧に両立するものである。11節で、使徒は云っている。「ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め……ようではありませんか」。これは異常な訓令だが、私は彼がこう意味しているのだと思う。力を尽くして、力を尽くさないように努めようではないか、と。私たちの傾向は、何かを行なおうと努めて自分を救おうとすることである。だが、私たちはそうした傾向を押さえつけ、自己から目を離して、キリストを見なくてはならない。あなた自身の種々の労苦から離れ去るように力を尽くすがいい。あらゆる自己信頼からきれいに逃れ去るように力を尽くすがいい。あなたの祈りにおいて、決して自分の祈りに頼らないように力を尽くすがいい。あなたの悔い改めにおいて、決して自分の悔い改めに依存しないよう力を尽くすがいい。また、あなたの信仰において、自分の信仰に頼らないようにし、むしろ、イエスだけにより頼むよう力を尽くすがいい。あなたが自分の悔い改めに依存し、《救い主》を忘れ始めるとき、あなたの悔い改めはなくなってしまう。また、あなたが祈り始め、自分の祈りにより頼んで、主イエスを忘れるとき、あなたの祈りはなくなってしまう。あなたが自分は恵みにおいて成長し始めている、「今や私も大した者だ」、などと感じるとき、そのような見せかけの成長はなくなってしまう。というのも、あなたは単に慢心で高ぶっているだけであり、真に成長しているわけでは全くないからである。力を尽くさないように力を尽くすがいい。あの取税人がいた所に居続け、叫ぶがいい。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」[ルカ18:13]、と。マリヤがいた所に居続け、主の足元に座り、主から学んでいるがいい[ルカ10:39]。自己評価において上に伸びないように力を尽くし、むしろ、謙遜において下に伸びるよう力を尽くし、あなた自身の評価においては、常により小さく小さく小さくなり続け、常にキリストを万物の主とするがいい。

 また、神があなたのためにしてくださったことについて、あなたの感謝を神に示すためにも力を尽くし、人々に対するあなたの愛を示すためにも力を尽くすがいい。私たちが安息にはいるとき、それは私たちがのらくらすることを意味すると考えてはならない。私たちの主イエス・キリストは云われた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです」[ヨハ5:17]。神は休んでおられるが、働いておられる。天国は安息の場所だが、怠惰の場所ではない。そこには、なおもそこでなすべき聖なる奉仕がある。それで、あなたがた、キリスト者である人たち。完璧に救われている人たち。あなたの力を尽くして、他の人々をキリストのため獲得するよう専心するがいい。イエスに対するあなたの愛を示すために、その失われた羊の何頭かをイエスのために見つけようと努めるがいい。奮起するがいい。すでに安息に入っている私の兄弟姉妹たち。完了した救いという、壮大な、古からのカルヴァン主義的教理がものぐさを生み出すものではないことを、人類に対して証明するがいい。私は切に願う。立ち上がって、示すがいい。自由の女の子どもたちが怠け者ではないことを、また、神に対する感謝という動機が、自分で自分を救おうとする利己的な動機よりも気高く、ずっと強力なものであることを。自分で自分を救いたがる者たちは、行って自分のために働くがいい。だが、救われているあなたたちについて云えば、行ってイエスのために働くがいい。そして、あなたの聖なる英雄的行為によって証明するがいい。あなたは主に対する愛に押し迫られて、自分にできる一切のことをもって、他の人々を主に信頼させようとしているのだ、と。さて、あなたがたの中のある人々は、これからこの聖餐卓にやって来ようとしている。願わくはそれがあなたの魂にとって安息の饗宴となるように! これからあなたがたがするように、安息の姿勢をとって腰かけ、キリストの完了したみわざのしるしであるパンを食べ、葡萄酒を飲むことによって、あなたがキリストのうちに真の安息を得るように! そして、おゝ、イエスをこれまで一度も信じたことのない、何人かのあわれな罪人たちが、いまイエスを信じるとしたらどんなに良いことか! というのも、このようにしてその人は自分の魂に安息を見いだすからである。主がそれを授け給わんことを。イエスのゆえに! アーメン。

----

----

信仰者の現在の安息[了]

----

HOME | TOP | 目次