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窓の赤い紐

NO. 3168

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1909年10月28日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「彼女は窓に赤いひもを結んだ」。――ヨシ2:21


 遊女ラハブの回心のように尋常ならざる回心においては、いかに小さな出来事にも注意を払う価値がある。使徒ヤコブは彼女を選んでは、信仰が常に良い行ないを伴うという事実を例証し、こう問うている。「彼女も、使者たちを招き入れ……たため、その行ないによって義と認められたではありませんか」*[ヤコ2:25]。一方、パウロが彼女を引用したのは、信仰による義認の実例としてであり、彼はこう云っている。「信仰によって、遊女ラハブは……不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました」[ヘブ11:31]。この卓越した使徒たちが二人とも、ある重要な教理の例証を彼女のうちに見いだした以上、確かに私たちも同じことを行なって良いであろう。あの斥候たちを亜麻の下に隠した[ヨシ2:6]ことに何らかの意義があったとしたら、この赤い紐を垂らしたことにも意義があったのである。

 ラハブがかくまった二人の斥候は、彼女と取り決めを交わした。彼女が二人を下におろした窓から一本の赤い紐を垂らし、戦いの日が来たときには、彼らがそれで彼女の住んでいる家を見分けることにするというのである。彼女は二人の求めをかなえて、選ばれたしるしを明らかに示していた。この赤い紐に関して、私は4つのことを述べたいと思う。

 I. 第一に、私がここに見てとるのは、《ひとりの従順な信仰者》である。

 彼女は窓に赤い糸を結ぶように告げられ、そうした。そこには、正確な従順があった。それは、ただの糸でも、ただの紐でもなく、赤い紐であった。彼女はそれを青い紐だの、緑の紐だの、白い紐だので取り替えなかった。命じられたのはこの赤い紐であって、他の紐ではなかった。それで彼女は、その特定の紐を取り上げたのである。神への従順は、小さな事がらの中に非常に大きく見てとれるものである。愛は常に小さな事に喜んで注意を払う。そして、そうすることで小さな事を大きなものとする。私は、ひとりの清教徒についてこう聞いたことがある。彼は、あまりにも厳格すぎると非難されたとき、この上もなく素晴らしい答えを返した。「私が仕えているのは、厳格な神なのです」。

 私たちの神、主はねたむ神であり、ご自分の命令を非常に執拗に見守られる。モーセが岩に命じる代わりに岩を打ったことは[民20:11]小さな間違いに見えたが、その違反ゆえに彼は約束された安息に入ることができなくなった。1つの小さな行動には、大きな原則が関わっていることがありえる。そして、私たちは非常に慎重に、注意深く、《主人》のみこころが何であるかを探り出すべきである。また、いかなる理由があろうと決してもたついたり、ためらったりすることなく、主のみこころが分かるや否やそれを行なわなくてはならない。キリスト者生活は細密な従順1つ1つの集成となるべきである。キリストの兵士たちは、その厳格な規律ゆえに名を馳せるべきである。

 私は、几帳面な従順をあなたがた全員に薦めたい。特に、キリストを信じる自分の信仰を最近になって告白した若い人々にはそうである。あなたの父たちのようであってはならない。というのも、いま舞台を去りつつある世代は、その聖書を読むことも、主のみこころを知ろうと心がけることもなかったからである。もし人々が聖書を調べるとしたら、彼らは団結して協力するはずである。だが、世界中で、普及の度合にくらべて最も読まれていない本は、神のことばなのである。それは至る所で配布されているが、注意して丁寧に読まれることは、いずこにおいてもほとんどない。万難を排してもその戒めに従おうという真摯な決意をもって読まれることはほとんどない。あなたはやって来ては私たちの話に耳を傾けるし、私たちは聖書のあちこちから取られたちょっとしたことをあなたに示す。だが、あなたは聖書全体について公平な概念をいだくことがない。どうしてそのようなことがありえようか? 教役者たちが間違いを犯しても、あなたは問いただすこともせず後に従っていく。ある者はこの指導者を選び、別の者はあの指導者を選ぶ。そして種々雑多な意見が、そして分派さえもが生み出されてしまう。それらはあってはならないものであり、もしすべての者が霊感された真理の基準に堅く立っていたとしたら、なかっただろうものである。聖書さえ読まれていたとしたら、また、聖書の内容について祈りがささげられていたとしたら、多くの過誤はたちまち死に絶え、残りの過誤も大きく骨抜きにされてしまうであろう。この霊感された《書》が過去に読まれていたとしたら、多くの過誤は決して生じなかったであろう。ならば、あなたがたは神の《書》を探ってほしい。私は切に願う。そして、いかなるものをそこに見いだそうとも、それに耳を傾けてほしい。いかなる代償を払おうとも、神のことばを守り抜くがいい。

 次に注意すべきは、彼女の従順が、非常に小さなことにおける従順だったということである。彼女は、こう云うこともできた。「私は、自分の窓に一本の紐をゆわえつけることが大切だとは思いません。それがなくても私は同じくらい無事でいられるではないでしょうか? 私はイスラエルの神を信じているのですから。私には信仰がありますし、それをあの斥候たちをかくまう私の行ないによって示しました。まさか赤い紐についての決まりに従わなかったくらいのことで私が滅びるなど、一瞬も考えられないでしょう」。こうした次第で近頃の多くの人々は、救いにとって本質的ではないと自分の考える義務なら省いてもかまわないかどうかを問うのである。さて、それは私が、他の誰のためにも決して答えるつもりのない問いである。なぜなら、そうした問いを私は、自分自身のためにも決して発するつもりはないからである。すでに知られた何らかの義務、あるいは、聖書的な儀式をないがしろにしたからといって、信仰者が滅びることになるかどうかといった問いを生じさせるのは、利己心以外の何物でもないであろう。私たちは、ただ自分を進歩させたり、自分の救いを安泰にしたりすることしか行なわなくて良いのだろうか? 私たちはそれほどはなはだしく利己的なのだろうか? 愛に満ちた子どもがこのようなことを云うだろうか? 「たとい私が父の意志を拒んでも、それでも私は父の子どもでいられるだろうか? それでも父から食物や着物をもらえるだろうか?」 よこしまな子どもしか、このような口はきくまい。

 本当の息子はこう尋ねる。「父は私に何をしてもらいたがっているだろうか? 私は父のためにそれを朗らかに行なおう。父は何を禁じているだろうか? 父が禁じていることは、私にとって憎むべきことなのだから」。本質的、非本質的といった一切の問題を乗り越えて、あらゆることにおいて従うことを学ぶがいい。たといそれが赤い紐を窓にゆわえつけることでしかなくとも、水の中でからだを洗うことであっても、命じられた通りに行なうがいい。何事においても主のみことばに背いてはならない。

 やはり思い出すべきは、この小さな従順の問題、と人によっては呼ばれるものには、1つの重要な象徴的意義があったということである。果たしてこの斥候たちが意図したことかどうか、はっきりとは分からないが、それはおそらく非常にありそうなことだという気がする。すなわち、この赤い糸はラハブにとって、あの、かもいと二本の門柱につけられた血[出12:22]がエジプトのイスラエルにとって意味したものと同じものだったのである。この二人の男は、あの《過越》と、血の注ぎと、その結果として家中のすべての者がいのちを守られた出来事とをよく知っていた。それで、彼らがラハブに与えたしるしは、非常に自然なことして、かの運命の日に神の使いが御民を通り過ぎたとき、神が民のために定められた予表に似ていたのである。それゆえ、拠り糸の色など些細なことと思われるかもしれないが、そこには深い意義があった。そして、それと全く同じように神の種々の命令は、それ自体としては小さなことだが、象徴的には大きなことを教えているのである。これまでキリスト教会に数々の大きな過誤が入り込んできたのは、神の命令の単純な点を変更することによってであった。それゆえ、しるしの中の小さな事がその内容においては大きな事がらを含んでいる以上、私たちが厳格な従順を培うのはふさわしいことである。

 「おゝ!」、とある人は云うであろう。「ですが、残念ながら、私たちは常に間違ったことをするのではないでしょうか」。確かに、それを避けようと努力しない限り、そうなるに違いない。神のことばに細心の注意を払わない限り、私たちは数え切れないほどの間違いに陥るはずである。私たちの完璧なキリストを研究しなければ、数々の過誤は避けられない。道を尋ねない人が確実に迷子になるのと全く同じである。いずれにせよ、自分の識別力を用いること、自分の理解力を訓練することを省いて間違いに突進する必要はない。主に向かって、その聖霊によって教えてくださいと願うがいい。そうすれば、間違ったことを教えられることはないであろう。主の教導に身をゆだね、主が教えてくださることを喜んで行なおうとするがいい。そうすれば、間違った道には行くまい。

 また、この女の従順は、本物の信仰から生じたものでもあった。そして、その信仰を解説していた。というのも、彼女がその赤い紐を窓にゆわえつけたとき、彼女は2つの事実に対するその信頼を表明したからである。すなわち、エリコが破壊されるだろうという事実、また、自分が救いの約束を受け入れたがゆえに救われるだろうという事実である。彼女がこの斥候たちをかくまったのは、彼らの神を信じていたからにほかならなかった。また、そうした後でも、もし彼女の信仰が失せ去ったとしたら、彼女は赤い紐を窓から垂らすという契約の要求に従おうとはしなかったであろう。愛する方々。信仰をもって従うがいい。奴隷の従順にはほとんど価値がない。子どもの従順が尊いのは、それが愛の実だからである。奴隷的な恐れから神の命令が守られるとき、そこには従順の心と肝そのものが欠けている。愛がそこにないからである。だが、神の愛する子どもたちとして、イエスだけに安らい、あなたの御父の約束に安らっているときには、こう感じるがいい。自分は、信じているからには、従わなくてはならない、と。それは、地獄を恐怖するからでも、自分自身の何らかの行ないを通して天国がかちとれると期待するからでもない。むしろ、イエスを信じて自分の魂が救われているからであり、また、それゆえに、主の命じることを行なうのが自分の喜びとなっているからである。

 このように私は、この聖句の第一の点を詳しく語ってきた。すなわち、この赤い紐を垂らすことのうちには、ひとりの従順な信仰者が見分けられる、ということである。

 II. さて第二に、私がここに見てとるのは、《指定された契約》である。

 この男たちは彼女と契約を結んだ。すなわち、彼女がもしも彼らの秘密を守り、窓に赤い紐をゆわえつけるとしたら、彼女のいのち、また、彼女の家族の者のいのちは助かるということである。それで彼女はそのようにその紐をゆわえつけ、あたかもこう云うかのようであった。「私は、あなたがたが私と結んだ契約を自分のものだと主張します」、と。愛する方々。このことについて、しばし語らせてほしい。というのも、私たちは契約の数々の祝福を、いやまして自分のものとすることができなくてはならないからである。私たちは、いかにしてイエスを自分のものとするだろうか? 単純な信仰によってである。信仰は、この偉大ないけにえの頭に触れて、罪をその上に置く手である。それは罪がもはや罪人の上にはないようにするためである。信仰は、いのちの《パン》としてのイエスをつかんでは自分自身のものとする。それは私たちがそれを養いとして、永遠に生きるようになるためである。このように、キリストを自分のものとするという大いなることは、信仰を得ることであり、いやまして多くの信仰を得ることなのである。あなたは覚えているだろうか? 自分が最初に赤い紐を自分の窓にゆわえつけて、「キリストは私のものです」、と云ったときのことを。私は、まさにその時、その正確な場所を覚えている。だが、多くの人々は、その瞬間をも、その折をも告げることができない。また、その紐がしかるべき場所に今なおゆわえつけてられているとしたら、そのことでやきもきする必要もない。それでも、あなたは、「イエスは私のものです」、と云えるようになった時があったことは思い出せるはずである。あなたがキリストを捕まえたのは、キリストがすでにあなたを捕まえておられたからであった。もしそのような時が一度もあなたにやって来たことがなかったとしたら、今こそそれがやって来るように! イエス・キリストはあなたを救うことがおできになるが、キリストはあなたのものとされない限り、決してあなたにとって《救い主》となることはないであろう。覚えておくがいい。聖霊なる神ご自身でさえ、信仰の《創始者》ではあっても、あなたの代わりに信じることはできないということを。あなたが自分で個人的に信じなくてはならない。ある人々は、聖霊の賜物としての悔い改めについて大いに語っており、彼らの証しも、それを誇張しすぎなければ真実であろう。だが、もしもそれによって人々に残される印象が、悔い改めるのは聖霊であって、罪人はそれとほとんど、あるいは、何も関係がないのだというようなものだとしたら、それは真実ではない。明らかに聖霊には悔い改めるべきものが何もなく、悔い改めとは、悔い改めつつある罪人自身の魂の行為なのである。信仰が心の個人的な働きである以上そうである。「人は心に信じて義と認められ……るのです」[ロマ10:10]。もし私たちが自分で悔い改め、信じるのでなければ、キリストは私たちのものではなく、私たちは決してキリストのものではない。また、キリストの生と死から何の恩恵も獲得することはないはずである。赤い紐をあなたの窓にゆわえつけるがいい。というのも、それがあなたに代わってゆわえつけられることはないからである。あなたが、あなた自身の手でそれを行なわなくてはならない。そして、今しも私は切に祈る。あなたがキリストによって大胆にこう云えるように、と。「そうです。イエスは私のものとなります。私はあえて、へりくだった信頼をもって、イエスを私自身のものとします。イエスは困窮しきった罪人たちのために無代価で与えられており、私はそのような罪人なのですから」。

 信仰は、赤い紐を窓にゆわえつける最初の、そして最も大きなしかたであるが、種々の儀式と、恵みの手段とを用いることにおいて、あなたの信仰をさらに働かせ続けるがいい。というのも、それらは信仰がイエスをつかむ助けとなるからである。私がしばしば最も幸いなことであると気づいたのは、自分が聖餐卓に着き、パンを食べ、葡萄酒を飲んでいるうちに、信仰が活発に働き、私が自分に対してこう云うまでとなることであった。「しかり。このパンが私の口に入れられ、私の体組織に入り込み、私の一部となって、誰もそれを取り去ることができないように、そのように私は、受肉した神を信仰によって信じ、私の魂の中に受け入れたのだ。そして、そのようにして主は私のものとなっており、誰も主を私から、あるいは、私を主から引き離すことはできないのだ」、と。その儀式そのものはあなたにキリストを与えないであろう。だが、しばしば、その象徴は、ほむべきことに魂にイエスを悟らせ、イエスを凝視させては、イエスを摂取させるのである。主の血をまさに象徴する葡萄酒をそのように一飲みすることにおいて、いかにしばしば私の魂はこう云ってきたことであろう。「私は、《贖い主》の血塗られたいけにえに全くより頼む。主の代償的な苦痛、悲嘆、そして功績のほかに、神の前で私が信頼するものはなく、私はそれらを、罪赦されるための私の唯一の頼みとして受け入れる。そして、それらを私の自我そのものの中に受ける。それは、私がこの杯から飲み、それによって、葡萄の果汁が私の血管の中を流れるようになるのとまさに同じようにである」、と。このように、愛する方々。イエス・キリストを自分のものとすることを続け、聖餐式のたびごとに、新たに赤い紐を窓にゆわえつけるがいい。

 あなたの生き方全体を、キリストがあなたのものであるとの信仰に一致した行動の流れとするがいい。残念ながら、多くの信仰者は、あたかもイエス・キリストが全く自分に属しておらず、契約の祝福が全く自分のものではないかのように生活しているのではないかと思う。もし私たちが本当にすべてのものは自分のものだと信じているとしたら、また、もし私たちが赤い紐を窓にゆわえつけて、すべてのものをキリストにあって自分のものとしているとしたら、商売上の損失をこうむったときの私たちがこれほど意気消沈すべきだとあなたは思うだろうか? もし私たちの信仰が、恵みの契約は自分のものだと主張することによってキリストを堅くつかみ、赤い紐をしっかりと揺るぎなくゆわえつけたとしたら、誘惑の時期に私たちがこれほどたちまち狼狽させられ、自分が救われているかどうかを疑わされるべきだとあなたは思うだろうか? 愛する方々。あなたがたの中のある人々は、まだキリストの一部しか自分のものとしていない。あなたは、自分が罪赦されたことは信じているが、自分が義と認められていることはほとんど知らない。あなたは義と認められ、主の義で覆われているが、イエスがあなたに与えてくださる聖化をまだつかんでいない。あなたはある程度の恵みは有しているが、まだキリストがあなたを全く――霊も魂もからだも――聖化することがおできになることは信じていない。私たちが発育不良になり、成長が止まり、痩せて、無気力になっているのは、聖なる確信をもって、自分のすべてを満ち足らす主のうちに蓄えられている無限の宝をつかむことができていないからである。主は私たちのものであり、すべてのものは主にあって私たちのものである。「あなたがたの信仰のとおりになれ」[マタ9:29]こそ、キリストがつかさどっておられる大きな家の規則である。この女は、自分がこの男たちと結んだ契約を自分のものとした。そして、自分がそうしたことを示して、窓に赤い紐をゆわえつけた。この契約は彼女と結ばれたもので、彼女はそれをそのようなものとして知っていたし、信じていた。おゝ、キリストにある兄弟よ。生きた信仰によって、神の約束をつかみ、それをあなた自身のものと主張するがいい。

 ここでやはり云わせてほしいが、私たちは、それに応じた安らぎを明らかに示すことによって、このことを行なおうではないか。ラハブがその紐を自分の窓にゆわえつけた後で、他の何かをしたとは書かれていない。ただ、彼女の父、母、兄弟を自分の家の屋根の下に集めただけである。彼女は、包囲攻撃に対してその家を防備する準備を行なわなかった。彼女がその城壁のその部分を防護するための特別の護衛をつけてくれるよう王に訴えたというようなことは何1つ示されていない。私は、彼女がかけらでも恐れを感じたり、一瞬でも恐怖したりしたとは信じない。赤い紐が窓にあったので、彼女は安泰に感じていた。彼女はその約束を自分のものとしており、それが破られることはないと信じていた。キリストの完成したみわざのうちに安らいで平穏に住まい、偽ることのできない神の不変の約束の中で安心していることは高貴な特権である。なぜあなたがたは苛立つのか、また、なぜ自問自答しながら一千もの不安をかかえて歩き回るのか。救いのわざはかの呪われた木の上で完成したし、キリストは栄光のうちに上って、その完全したみわざを御父の御顔の前にすでに携え出られたのである。なぜあなたがたは嘆き悲しみ、自分の安全を疑うのか。主は私たちをともによみがえらせ、ともに天の所に座らせてくださっているのである[エペ2:6]。信じた私たちは安息に入るのである[ヘブ4:3]。神の平安は私たちのものである。だから、私たちは、安らいでいることによって示そうではないか。自分が赤い紐を自分の窓にゆわえつけていることを。キリストの完成されたみわざを自分のものとして主張していることを。また、それゆえにこれからは、神がご自分のみわざから休まれたように、私たち自身のわざから休もうではないか。

 III. 第三に、私がここに見てとるのは、《1つの公の宣言》である。

 ラハブが赤い紐をゆわえつけたのは、その家のどこか秘密の部分にではなく、窓にであった。それは、彼女の公の信仰の宣言であった。私も、それによって何を彼女が意味していたかを誰もが理解したとは云わない。その秘密を彼女と共有していた者たちだけがそれを理解していたし、それで十分であった。彼女が赤い合図を垂らしたのは自分の窓であり、そこは、それを見る必要のある者たちから見ることのできる場所であった。それは、彼女がこれ見よがしに、自分に注意を引きつけたかったということではない。だが、彼女は公の合図をしなくてはならず、それを行なったのである。さて、あなたがたの中のある人々は私の主イエスを信じている。だがしかし、決して主の民に加わったことがない。あなたは主にあって安らいでいるが、誰かにそれを知られることを大いに恐れている。イエスを恥じてはならない! 驚きなのはイエスがあなたをお恥じにならないことである。もし主がご自分の上にあなたの性質を取って、あなたのために死ぬことをお恥じにならなかったとしたら、あなたは決して主の御名を認めることで赤面する必要はない。前に出て来るがいい。あなたがた、震えている人たち。あなたの窓に赤い紐をゆわえつけ、云うがいい。「私たちは主のものです。そして、それを告白します」、と。

 しかしながら、窓にゆわえつけるのは赤い紐とするがいい。すなわち、主の尊い血を信じる真の信仰の公言とし、血による贖罪を信ずる確信の宣言とするがいい。というのも、ある人々は一種の信仰を告白してはいるが、それはキリストの代償を信じる信仰ではないからである。贖罪という昔ながらの教理を信じることは、近頃では流行っていない。現代「文化」はそれを抹消してしまっている。あるいは、真の贖罪が跡形もなくなるほど改変してしまっている。多くの人々は、あまりにも進歩的であるため、昔ながらの福音を公然と認めることができない。だが、私たちについて云うと、私たちは永遠の赤い紐を自分の窓にゆわえつけ、聖徒にひとたび伝えられた信仰[ユダ3]を守り続ける。私たちの信仰の宣言はこうである。私たちは真の、文字通りの、キリストの代償を信じる。キリストが死なれたのは、「正しい方が悪い人々の身代わりとなった」ということであり、「それは……私たちを神のみもとに導くため」[Iペテ3:18]であった。いちいち名を挙げる値打ちすらない一千もの新奇な福音のただ中で、私たちは、あの預言者イザヤの語った古代の福音を固守する。「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」[イザ53:4]。愛する信仰者たち。もしイエス・キリストの犠牲という教理が、また、その代償贖罪が本当にあなたの希望だとしたら、それを公然と認めるがいい。大胆に公言するがいい。そして、こうした悪い時代には、その点について何も取り違えられないようにするがいい。あなたの窓に赤い紐をゆわえつけ、もし誰か他の人がそれを見ることになるとしたら、あなたの兄弟たちがそれに注目して励まされるようにするがいい。たとい他の誰もそれを喜ばないとしても、あなたの神はあなたに微笑みかけてくださるであろうし、あなたは神にとって甘やかな香りとなるであろう。私の知る限り、いかなる人も、エジプトの国におけるあの真夜中に、かもいと門柱の上に塗られていた血を見た者はなかった。外に立ってそれを眺めていた者は全くいなかったからである。だが、神はそれをご覧になった。そして、こう書かれている。「わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう」[出12:13]。神が、ご自分の愛する御子を信じる私たちの単純な確信をご覧になり、私たちが、何の人間的な理屈や意見も混ぜ合わせずに、神のみことばのうちにより頼んでいるのを悟られるとき、そのときには、愛する方々。神は私たちを《愛する方》において受け入れてくださり、私たちの家は、他の家々が倒壊するときも立っているはずである。

 いかなるキリスト者も、尊い血を信じる自分の信仰を多くのしかたで目に見えるものとすべきである。それは、私たちの日常会話において明白であるべきである。もし私たちがイエスの血のうちに安らいでいるとしたら、私たちは、思慮深い人々と十五分も話していた場合、自分が本当にイエスの弟子であることを相手に悟らせることができなくてはならない。私の聞いたことのあるある人は、あまりにも愉快で有益な人であったため、雨宿りのために五分ほども拱道の下でその人と一緒に立っていると、何かしらを学ばずにはいられないと云われた。キリスト者であるあらゆる人は、それよりも高いあり方において、このような種類の人であるべきである。だから、人がキリスト者とそれなりの時間一緒に過ごしていると、相手が神の人であることが悟られずにはいられないほどであるべきである。もちろん、キリストの《教会》において、その人は、一度は赤い紐を自分の扉から垂らすべきであり、その人と一緒に礼拝している人々は、その人が自分の神である主のものとなることをきっぱり決断したことを見てとるべきである。だが、同じことは自分の商売上でも行なうべきである。あなたの店に来るお得意たちは、よく見受けられる取引上のごまかしが嫌悪されていることをすぐに見てとるべきである。赤い紐がこの扉の上にかかっているのである。家の中で召使いたちを監督している女主人も、夫としての、また、父親としての主人も、他の人々にまさって善良であることが知られるべきである。世には、「奇妙な連中」と呼ばれる、一種の人々の団体がある。私が願うのは、私たちがみな次のような点で奇妙な連中となることである。すなわち、私たちが、自分自身のものではなく、代価を払って買い取られた[Iコリ6:19-20]者として、血のしるしにより取り分けられているということである。願わくは、主によって私たちがそのような者とならんことを!

 IV. 最後の点はこうである。ここには、《一軒の奉献された家》があった。――その窓に赤い紐のついた家である。

 本日の午後、この場にやって来る間、また、裏通りの1つを歩いているときに、私が目にして面白いと思ったのは、多くの家々に保険がかけられていることであった。注意すると、様々に異なる《保険会社》の目印がつけられていた。ある家には、太陽が、その輝かしい顔で私たちを見下ろしているしるしがあり、まるでこう云っているかのようであった。「ここには何の損害もないのだよ」、と。地球や、星々や、不死鳥など、すべてが安全のしるしとして貼られていた。さて、エリコの中で、保険がかけられていた家は一軒しかなかった。そして、その家は、その保険の象徴また目印として、窓に赤い紐がゆわえつけられていたのである。家々が神の恵みによって保険がかけられ、主に奉献されているとき、それは何というあわれみであろう。――家そのものと、それにもまさって、そうした家々に住む人々がそうされているときは、そうである。いかにすれば、ある家を奉献できるだろうか? 先日、クロムウェルの時代について読んでいたが、当時は、朝のある時刻にチープサイド通りを歩いていると、道沿いのあらゆる家々の日よけが下ろされており、家族の歌う賛美歌が聞こえたという。「というのも」、とひとりの神学者は云う。「その当時は、おろされた日よけが、窓につけられた赤い紐だったからである」。人々はそこを通り過ぎるとき、その家には神のために立てられた祭壇があると分かった。残念ながら、わが国の町々や都市部の多くの通りには、一日のいかなる時刻に行き来しようと、家庭礼拝が行なわれている兆しがただの1つも発見できないのではないかと思う。この習慣は、神の民であると告白している多くの人々の間でさえ、すたれてしまっている。そして、それを再び取り戻すまで、私たちが敬虔さにおいて何らかの進歩をすることは見込めない。

 私の信ずるところ、家庭と教会が協力して働くとき、事は正しいあり方をしている。だが、キリスト教信仰が教会のものとされ、家庭のものではないとされるとき、また、父親の代わりに司祭に目が向けられるとき、また、男たちが自分の家における祭司であることをやめるとき、そのときには、生きた敬虔さの活力そのものが断ち切られてしまっているのである。たとい私が平日のあらゆる礼拝をやめ、キリスト教国のあらゆる礼拝所を日曜から日曜の間は閉じなくてはならないとしても、その方が、神を礼拝している、敬神の念に富む家族の朝夕の集まりを失うよりはましだと思う。スコットランドは、その諸処の家庭礼拝にいかに多くを負っていることか! 『コッターの土曜の晩』*1をあなたに思い起こさせる必要はないであろう。同国の栄光のきわみは、人々が自分の家々で神を礼拝しているということである。「そこには、形式的なものがたくさんありますよ」、とある人は叫ぶであろう。よろしい。いかに良い事がらであっても、そこここで堕落しなかったものが何かあるだろうか? しかし、私は数多の機会に、かの《北国》における朝夕の心からの家庭礼拝を目にしてきたのである。果たして、あなたがたの中のどのくらいの家庭が、マシュー・ヘンリーの三番目の基準に達しているだろうか? 彼は云う。「祈る人々は、良いことを行なっている」。あなたもそこまでは至っていると思いたい。「聖書を読み、祈る人々は、もっと良いことを行なっている。聖書を読み、祈り、賛美歌を歌う人々は、最高に良いことを行なっている」。私もそう思う。これは、三つ撚りになった赤い紐であり、私はあらゆる家庭がそうした赤い糸を垂らしては、それによってこう意味していてほしいと願う。「この家は《王》イエスに属しています。悪魔がここにやって来ても骨折り損です。強い人が武装して自分の持ち物を安全に守っているからです」、と。

 美しかったのは、ラハブの家の中にいたすべての者が救われたということである。「家に入って、お母さん」、と彼女は云った。私たちの中の誰が、自分の母親が失われてしまうという思いに耐えられるだろうか? そのようなことを思えば、私たちの心は引き裂かれてしまう。私の母が失われる? おゝ、否。そのようなことがあってはならない! また、あなたの父上が失われる? おゝ、あなたには回心していない父上がいるだろうか? 私は切に懇願する。不眠不休で、父上の前に平和の道を置くようにし、吐息と涙をもって神の御前で父上のために訴えるがいい。それから彼女は云った。「家に入って、お兄さん、お姉さん」。私はラハブが自分の家族を愛していたことを嬉しく思う。もしあなたに、まだ赤い紐の下に入っていない兄弟たち姉妹たちがいるとしたら、彼らを導き入れてくださるよう神に祈るがいい。あなたの家族全員が《いと高き方》に奉献され、ひとり残らず、このほむべき、血の赤のしるしの下に住めるように祈るがいい。そのしるしの下に隠れる者はみな間違いなしにいのちを守られるのである。

 この点の次に注意したいのは、家庭礼拝以外にも、家の中で赤い紐のようになるべきものはあるということである。例えば、あらゆるキリスト者の家では、その交際する人々の選び方において、赤い紐が吊されているべきである。キリスト者は、注意深くその友人たちや交際相手を選ぶべきである。その人は、こう云うべきである。「偽りを語る者は、私の目の前に堅く立つことができません」[詩101:7]。酔いどれや、悪態をつく者や、みだらな言葉遣いをする者たちは、いかなる立場にあろうと、私たちの扉の内側を訪ねさせてはならない。私たちは彼らを容赦しない。もし私たちが一家の主人だとしたら、自分の子どもたちの友人たちが、永遠においても子どもたちと一緒にいるだろうような者となるように努める。一部の親たちが自分の子どもたちを紹介する青年や娘たちは、たまたま、彼らの云うところの「非常に体裁の良い」家柄の出だが、世俗的で不敬虔である。こういうわけで、彼らは子どもたちを滅ぼすのに大いにあずかっているのである。そうあるべきではない。赤い紐を扉の上に垂らしておくがいい。そして、もし彼らがその赤い紐を愛していないとしたら、キリスト教信仰に関わる会話によって、じきにその場所は彼らには熱すぎるところとなるであろう。もしあなたがイエスについて大いに語るとしたら、軽薄な者どもは、自分が出て行くように云われたのだと考えるであろう。

 キリスト者である人の家は、その読書の上にも赤い紐があるべきである。私が非常な悲しみを覚えるのは、キリスト者である人の家に、少女たちが普通に読む物として、あの恐るべき、屑も同然の黄色いしろものが置かれているときである。それは鉄道の書籍売店を汚染しているものであり、その大部分は純然たる不敬虔なものであって、良くてせいぜい忌まわしいたわごとでしかなく、そうしたものを読むのは全く時間の浪費である。世には読まれてしかるべき健全で興味深い本が何千もあるというのに、キリスト者である人々が、愚にもつかないものを読んで時間を費やすのは残念なことと思われる。驢馬どもには、その薊を食べさせるがいい。私は決してそれを恨みには思わない。そして、そのように、世俗の子らがそうした本を読むべきではないとは云うまい。彼らにはそれが似合いであり、読んでいてかまわない。私は決して、ありとあらゆる種類の残飯のごたまぜをかかえて、自分の豚に餌をやりに行く農夫に向かって不平を云ったことはない。ただ彼が、それをたらいに入れて私への夕食として差し出したなら話は違うが。私は豚がその食べ物を得ることには満足であった。そして、世にあるおびただしい数の小説や、非常に多くの文学は、不敬虔な人々に与えまいとしても無駄である。それが彼らの性質にかなっているからである。だが、私たちに関して云えば、そうしたものを決して有さないようにしよう。御使いのかしらガブリエルが豚の餌入れから食事をするのを見る方が、キリストとの共同相続人[ロマ8:17]である者が、半分は猥褻で、半分は馬鹿げたものであるような書物に楽しみを見いだしているのを見るよりも、まだましだと私は考える。あなたの図書扉の上にも、他の至る所と同じように赤い紐を垂らしておくがいい。

 あらゆる娯楽についても同じようにするがいい。ある種の娯楽は、それ自体で絶対に悪いとは云えないが、悪に至らせるものである。それは断崖の縁まで行くものであり、多くの人々はそこに達するだけで、確実に墜落してしまう。それに、そうした娯楽にふけるキリスト者は、あまりにもこの世の子らと似た者となり、誰にもその見分けがつかなくなるであろう。さて、赤い紐を高くゆわえつけるがいい。私は、いかなる絵画を自宅にかけておくかについてさえ、そうしたい。しばしば私を悲しませるのは、特に貧しい人々の家の中で、壁にローマカトリック教の絵がかけられている場合である。それらは、どちらかというと小綺麗で、非常に廉価である。カトリックの出版業者たちは、非常に小賢しいしかたで、《処女》の画像を、また彼女が昇天したという偽りの物語を飾り立てる。また、ありとあらゆる聖人たち、聖女たちの伝説がそうである。そして、けばけばしい色を塗られ、はなはだしい低価格で売られた、そうした下劣なものが、何千もの家の中に持ち込まれている。一度見て身の毛もよだつ思いをしたことに、父なる神をひとりの老人に描いた絵がある。口にするも忌まわしい考え方である。だが、その絵は英国の幾多の農家にかけられているのである。だが、主は私たちがご自分のいかなる像を造ることをも、ご自分をいかなるかたちで表わすことも行なってはならないと宣言しておられ、そうしようとすることは冒涜なのである。もしあなたが悪い絵画を有しているとしたら、それがいかにすぐれた芸術作品であろうと、焼き捨てるがいい。そして、もしあなたが悪い本を持っているとしたら、それがいかに価値あるものだとしても、それを売って誰か他の人に読ませるのではなく、破り捨てるがいい。

 キリスト者は赤い紐を垂らして、自分の家の中で自分が容赦しているいかなるものによっても、誰ひとり思いやからだが堕落させられないようにするがいい。私は厳酷すぎるように見えるかもしれない。だが、もし私の《主人》が天からお語りになるとしたら、主はそれを私の側の罪とは叱責なさらないであろう。というのも、むしろ主は、私たちが邪悪な事がらについて、いやまさってずっと厳格になり、断固たる者となる必要があると仰せになるだろうからである。

 よろしい。あなたは好きなように行なうがいい。あなたにはあなたの自由がある。だが、「私と私の家とは、主に仕える」[ヨシ24:15]。そして、血の赤の紐が私の窓についているようにする。私の父親の父親は、いかにしてかは覚えていないが、私が子どもだったとき、私は彼が私の父と私とのために祈るのをよく聞いたものだった。私の父の回心が、祖父の積んだ祈りへの答えであったことは私もよく覚えている。そして、私の父は、いかに彼が贖いのふたの前で私たちのために格闘したか、いかにして私に忘れられようか。そして、私の息子の家において、来たるべき年月に、私の神のための祭壇がなくなるなどということは決してあってはならない! 主への祭壇もなしにいるくらいなら、自分のための天幕がない方がましである。私たちは、どこにあろうと赤い紐を垂らさなくてはならない。そうしない限り祝福は期待できない。もちろん、私がいま語りかけているのは、父親や家長でない人々ではない。もし彼らが召使いだとしたら、その家の中で何が行なわれていようと、どうにもできない。もし彼らが力を持たない下役だとしたら、物事を自分の望む通りにはできない。だが、私がいま語りかけているのは、主を恐れ、そうすることができる人々である。愛する方々。ぜひともあなたの家を神に対して奉献するがいい。屋根裏部屋から地下室までである。地下室の中にさえ、イエス・キリストがご覧になったら恥ずかしいようなものが何1つないようにするがいい。あなたの家の回りではあらゆることを整えて、あなたの主がおいでになるとしたら、自分の扉を開いてこう云えるようにしておくがいい。「来て、迎(い)れられてください。《主人》よ。ここには、あなたのしもべが隠したいと願うものは何1つありません」。

 イエスを信じるがいい。おゝ、あなたがた、まだイエスを知らない人たち。そして、あなたがた、イエスを知っている人たちは、自分の知っていることを実行するがいい。そして、主があなたを祝福し給わんことを! アーメン、アーメン。

 


(訳注)

*1 『コッターの土曜の晩』。スコットランドの詩人ロバート・バーンズ(1759-96)の最もよく知られた詩の1つ。[本文に戻る]

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窓の赤い紐[了]


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