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キリスト者の兜

NO. 3167

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1909年10月21日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1866年


「救いの望みをかぶととしてかぶって」。――Iテサ5:8


 兜というこの一言で、おそらく《この場にいるキリスト者全員は、自分が兵士であると》云い聞かされている気がするかもしれない。

 もしあなたが兵士でないとしたら、武具はいらないであろう。だが、兵士である以上、あなたは頭から足まで堅牢な鎧で覆われる必要がある。この場にいるあらゆるキリスト者は、理論上は、自分がキリスト者の兵士であることを知っているはずだと思う。自分が十字架の軍旗の下で入隊していること、勝利を得るまで暗闇の諸力と戦うべきであることを知っているはずである。しかし、私たちはみな、この件における自分の記憶を新たにされる必要がある。というのも、軍人生活は、――いずれにせよ戦時中には、――あまり快適な職業ではなく、肉は絶えずそれをやめようと試みるからである。「ここには永久(とわ)の 都はなけり」は、私たち全員が知っている真理である。だがしかし、私たちの中のほとんどの者が地上を自分に居心地の良いものとしようとしている様子は、あたかもこれが私たちの永久の住まいであるかのようである。私たちは全員が兵士である。――私たちはそれを知っている。だがそれでも、あまりにも多くのキリスト者たちのふるまいは、まるで世の友であることと神の友であることとが両立できるかのようである。さて、キリスト者よ。これを限りにきっぱりと、自分が兵士であることを思い起こすがいい。若者よ。あなたは自分がバプテスマを受けて、教会に加入するや否や、争闘がみな終結したと夢見たのだろうか? あゝ、それは単に始まりにすぎなかったのである。カエサルのように、あなたはルビコン川を渡り、あなたの不倶戴天の敵に宣戦布告した。あなたは、そのとき自分の剣を抜いた。それを鞘には収めなかった。あなたが教会に加入する際にふさわしい雰囲気は祝賀のそれではない。あたかも勝利が得られたかのような浮ついたものではなく、準備の雰囲気であるべきである。というのも、今や喇叭が鳴り響き、戦いが始まろうとしているからである。あなたは四六時中、兵士である。キリスト者よ。あなたは、食卓に着く時さえ兵士として着き、世に出て行く時には特に兵士として出て行くべきである。決して武具を脱いではならない。さもないと、いつか油断している瞬間に重傷を負うかもしれない。むしろ、自分の武具を常に身に着けておき、用心しているがいい。どこにいようと、あなたは常に敵たちのただ中にあるからである。そして、あなたを取り巻いている人々が友人たちである場合さえ、人間の目には見えない悪の霊たちが、あなたの立ち止まるのを見張っているのである。また、あなたは自分の剣を鞘に納めてはならない。あなたが格闘すべき相手は、主権、力、天にいるもろもろの悪霊[エペ6:12]であり、それらをあなたは常に用心しなくてはならないからである。あなたは兵士である。人よ。それを覚えておくがいい。

 また、あなたは兵営や母国の中にいる兵士ではない。むしろ、あなたは敵国にいる兵士である。あなたの場所は、陣地の中か、激戦地のただ中である。あなたがた、病気の人たちは陣地の中の兵士のようである。あなたは、いわば、守備につきながら、来たるべき時を忍耐強く希望し、静かに待っている。しかし、それ以外のあなたがた、外に出て行って活動し、人生の関心事に携わっている人たちは、長い列を作って争闘へと進んでいる兵士たちのようである。戦闘の前面へと突撃している騎兵たちのようである。多かれ少なかれ、あなたの環境に応じて、あなたがたは全員、敵と向かい合っており、人生のあらゆる時期においてそうである。

 こう問わせてほしいが、あなたが今いる所は、情け容赦なく攻撃する敵の本国内ではないだろうか? もしあなたが倒れたら、それは死である。世は決してキリスト者を赦さない。完璧な憎しみでキリスト者を憎み、害を加えようとする。あなたが半分でも過失を犯すのを世が見るや、たちまちそれを針小棒大に喧伝するであろう。他の人々であれば全く目につかないことも、キリスト者によって行なわれたとなると、それは注目の的とされ、云いふらされ、あることないこと告げられるであろう。世は、あなたが生まれながらに自分の敵対者であることを知っている。サタンはあなたの中に、自分の宿敵、主イエスの代理者を感知する。では、あなたは確信して良いが、ひとたびあなたを滅ぼす機会を得たなら、彼は決して容赦しないであろう。この敵を気にかけるるがいい。気にかけるがいい。彼は、悪意に満ちた敵だからである。

 また、あなたが戦っている相手は、これまで決して休戦したことがないあなたは妥協して和平交渉に赴くかもしれないが、悪の諸力は決してそうしない。あなたは、そうしたければ白旗を外に吊すかもしれない。敵も、しばらくは、あなたを褒めたたえるかのように見えるかもしれない。だが、あなたは決して自分の敵を褒めたたえてはならない。彼は、あなたを最も愛しているかのように見えるとき、あなたを憎んでいるのである。「ギリシヤ人を恐れよ、たとい贈り物を携えていようと」、と古の伝説は云った。そして、キリスト者は、この世がその巧言を最もたくましくするときには、最も世を恐れなくてはならない。ならば、警戒を固めるがいい。あなたがた、十字架の兵士たち。あなたが最も恐れていないとき、へつらっている敵があなたの背後にやって来て、友人のふりをしながら、あなたを刺すであろう。あなたの《主人》は口づけで裏切られた。そして、祈りのために心を整え[Iペテ4:7]ていない限り、あなたも同じ運命を辿るであろう。

 あなたが相手にしている敵は、決していかなる和平をもあなたと結ぶことがありえず、あなたも決して彼と和平を結ぶことができない。もしあなたが罪と仲良くなるなら、罪はあなたを征服してしまっているのである。そして、あなたが戦いをやめて、自分の首を永遠の奴隷身分へと差し出すのでない限り、そこに一瞬たりとも平和があることなど不可能である。おゝ、キリスト者よ。あなたがいかに用心深くしているべきか見るがいい。あなたの武具をまとっていることがいかに必要なことか! それを正しい種類のものとし、それを常に磨いておき、それを絶えず着用していることがいかに必要なことか! あなたは兵士である。戦闘中の兵士、敵国にある兵士、冷酷で悪意ある敵を有する兵士である。この敵は休戦をも交渉をも知らず、何の容赦もせず、あなたが死ぬまであなたと戦い続けるのである。天国こそ、あなたの剣が鞘に収められる国である。そこでは、あなたは軍旗を高く掲げて良いが、地上では私たちは敵と格闘し、死の急流を渡るまでそうしなくてはならない。かの川の縁の瀬戸際まで、この争闘は遂行されなくてはならない。一歩一歩、一吋また一吋、カナンの幸いな岸辺へと続く土地は勝ち取られなくてはならない。ほんの一足さえも争闘と争いなしには踏み出すことができない。だが、ひとたびかの地に達すれば、あなたは自分の兜を脇へ置き、自分の王冠を戴いてかまわない。自分の剣を片づけて、自分の棕櫚の枝を手にしてかまわない。あなたの指はもはや戦いを学ぶ必要はなく、むしろ、あなたの心は天空の幸いな歌い手たちの音楽を学んで良いであろう。では、これが第一に考えるべきことである。――あなたは兵士である。

 II. しかし、第二に考えるべきことは、《兵士である以上、あなたの頭に注意せよ》、ということである。

 兵士たち。あなたの頭に注意するがいい。頭部の負傷は容易ならぬことである。頭が死活に関わる部分である以上、そこは確実に防護しておく必要がある。心臓は胸当てで守る必要があるが、頭も全く同じくらい防護される必要がある。というのも、いかに人が忠実であったとしても、弾丸がその脳を貫通したとしたら、兵士としてはほとんど何の役にも立たなくなるからである。そのからだは、ばったと平原に倒れるであろう。頭には気を遣わなくてはならない。キリスト者である非常に多くの人々は、その頭のことでは全く何も悩まない。どこかのえせ信心家が彼らの心を暖めると、それで十分だと考える。だが、おゝ、暖かい心に、よく気を遣われている頭が伴っているとしたらどんなに良いことか。あなたは知っているだろうか? 熱した頭と熱した心とが一緒になると、非常に多大な害を及ぼすが、熱い心と冷静な頭脳があれば、莫大な奉仕を《主人》のために行なえるということを。頭に正しい教理をいだき、それから魂を火と燃え立たせれば、すぐにあなたは世界をかちとるであろう。頭と心がどちらとも正しくある人の前に立ちはだかることはできない。だが、頭をないがしろにすることは、多くのキリスト者たちにとって重大な誤りとなっている。彼らは、用いられるかどうかという点ではほとんど無能であった。なぜなら、自分の頭に気を遣っていなかったからである。彼らは天国には至ったが、あまり多くの勝利は途上で収めなかった。なぜなら、彼らの頭脳に異常があるからである。彼らは決して種々の教理を明確に理解できなかった。自分たちのうちにある希望[Iペテ3:14]について弁明することができなかった。事実、彼らは、自分の頭を覆うべきだった兜によく注意していなかったのである。

 この聖句が私たちの頭のことを告げているというのは、それが一個の兜について語っているからである。兜は頭以外のいかなる部分の役にも立たない。戦いの日に頭を守るべき理由は多々あるが、そのいくつかを挙げてみよう。頭は、サタンや自我や名声から出た数々の誘惑に、ことのほか陥りやすい。知っての通り、頭がふらふらし始めたら、高い尖鋒の上に立っていることは容易ではない。そして、もし神がある人を取り上げて、良く用いられる高い尖鋒の上に置かれるとしたら、その人は、自分の頭に気を遣うべき必要がある。もしある兄弟が相当の量の富を所有しているとしたら、その富には大きな危険がある。豊かな黄金のみならず、豊かな恵みもそこにないとしたら、そうである。もしある人が良い評判を得ているとしたら、その人が勢力を及ぼせる範囲は非常に大きなものとなるかもしれない。だが、もし誰もがその人を褒めるとしたら、その人は自分の頭を確実に防護する必要があるであろう。というのも、小さな称賛は、たとい愚か者たちから出たものであっても、愚か者にとっては大きすぎるからである。るつぼが銀のためにあるように、他人の称賛によって人は試される[箴27:21]。もしある人が褒め言葉に耐えられれば、その人は何にでも耐えられる。キリスト者が忍ばなくてはならない最も苛酷な試練は、おそらく、自分の親切な、だが、軽率な友人たちから出るものであろう。彼らは、彼に向かって、あなたは何と立派な人なんだと告げることによって、できるものなら彼を高ぶらせようとするからである。たといあなたの友人たちがそうしようとしなくとも、おそらくあなたは、自分の内側にそうしてくれようとする友人がいるであろう。そして、たといあなたがそれを忘れたりするようなことがあっても、悪魔がそうするであろう。「今朝の説教は何と素晴らしかったことでしょう、バニヤン先生」、とジョン・バニヤンが説教した所でひとりの友人が云った。「遅すぎましたな」、とバニヤンは云った。「そのことなら、講壇を降りる前に、もう悪魔が云ってくれましたよ」。しかり。そして、彼は確かにそうするであろう。こういうわけで、頭には兜をかぶる必要があるのである。それは、あなたが成功を収めたとき、また、人生が順調に進んでいるとき、また、友人たちから褒めそやされるとき、それに酔ってしまわないためである。おゝ、あなたの頭が少しばかり称賛で熱くなっているときに、頑丈で冷静な兜をかぶることができるとしたらどんなに良いことか。それは、あなたが、それでも堅く立ち、虚栄心によって引き降ろされないためである。おゝ、虚栄心、虚栄心、虚栄心。いかに多くの者たちをお前は殺してきたことか! 今にも偉大さに至る寸前と見られた、いかに多くの人々が、このつまずきの石につまずいてきたことか! あたかも天国に入らんばかりに見えていた人々が、ほんのちょっとした栄誉や、きらめき輝く賄賂や、黄金の恩恵によって、脇にそらされ、失敗してきた。あなたの頭に気を遣うがいい。兄弟たち。

 そして、頭は懐疑主義からの種々の攻撃にさらされがちではないだろうか? 頭の悪い人々が様々な疑いに悩まされることはあまりないが、頭が良い人々はおそらくこう感じたことがあったであろう。自分たちが頭を使う決心をしていようといまいと、頭の方が勝手にものを考える、と。私たちの善良な父親たちは、非常にありがたいことに、危険な書物は読むなと私たちに告げてくれている。まことに非常にありがたいことである。だが、それにも全くかかわらず、私たちはそれらを読んでしまう。そして、私たちが時として若い人々に、あれこれの異端的な論文を読まないように告げても、また、彼らが私たちの助言を受けてくれるように願っても、それでも、どういうわけか彼らはそうしたものをつかみとり、それについて思案を巡らしてしまうのである。兄弟たち。まことに私の信ずるところ、今のように何もかもがしごく自由になってしまっている時代、また、討議討論がちまたにあふれている時代には、私たちの若い人々が、本来放っておいた方が良いような数多のものを眺めるだろうこと、また、彼らの頭がそれによって危険にさらされることは覚悟していなくてはならない。というのも、懐疑主義の数々の弾丸が彼らの頭を打ち抜く恐れがあるからである。よろしい。ならばどうすべきか? キリスト者たちをその弾丸の通り道から連れ出すことができない以上、私たちは彼らに、それから身を守るための兜を与えるべきである。救いの望みを有している人、――自分が本当に救われているという素晴らしい希望、自分がついには喜びをもってキリストの御顔を見ることになるはずだという希望を有する人、――その人は、そうしたすべてを聞いても、一瞬たりともそれらによってたじろがされることがない。突然の衝撃を受け、あるいは、負傷すらしたかもしれない兵士が、しばらくすると正気づき、再び争闘に加われるだけしっかりとしたものを感じるようになるのと同じである。そして、そのキリスト者はこう云うことができる。――

   「余人(ひと)の作りし わざみなが
    狡猾(さか)く信仰 襲うとも
    我れ虚言(そらごと)と そを呼びて
    心に福音 結びつけん」。

よく云われる真実なことだが、ほとんどの人は、貯蓄銀行に小金がたまると、それほど徹底した民主主義者ではなくなるという。よろしい。私が思うに、人は自分の国にちょっとした利害関係を得ると、その僅かな度合に応じて、保守的になり始める見込みが非常に高い。そのように、人がキリスト教の恩恵にあずかり、自分がイエス・キリストにある救いを得ていると感じようになるや否や、その人は非常に、非常に、昔ながらの真理について保守的になる。そのとき、その人は聖書を手放すことができない。なぜなら、それは、その人にとって富が唸る広大な土地だからである。その人はキリストを手放すことができない。キリストはその人の《救い主》であり、その人の救いだからである。その人は、たった1つの約束さえ手放せない。その約束はその人自身の魂にとってあまりにも愛しいものだからである。ならば、救いの兜は、懐疑主義の時代に頭を守るであろう。

 やはり頭を非常に大きな危険に陥れるのは、個人的な不信仰という攻撃である。私たちの中の誰が、自分がキリストにある恩恵にあずかっているかどうかを疑わなかった者がいるだろうか? そうした悩みから免れているあなたは幸いである。しかし、時期によっては、私たちの中のある者らは、自分の権利証書をためつすがめつし、時にはそれが純正なものではないのではないかと不安になることがある。ある時には、私たちは、できるものなら全世界と交換しても、自分がキリストのものであることを知りたいと思う。というのも、時として私たちは、こうすることができなくなるからである。

   「その称号(な)を さやかに読めり
    天空(そら)の邸宅(やかた)に」。

よろしい。愛する方々。これは私たちの頭にとって非常に危険なことだが、正しく、健全な、神から与えられた救いの望みを得ている人、聖霊なる神から1つの兜を受け取っている人は、――その兜については、おいおい説明していくが――こうした疑いや恐れがやって来るとき、多少の間は悩まされても、その火薬の臭いを知っており、不安になることはない。サタンがいかに告発を重ねようと、あるいは、自分の古い数々の腐敗がいかに群がり立とうと、あるいは、肉と世がいかに脅かそうと、その人は平静なままで動かされることがない。なぜなら、救いの望みを兜としてかぶっているからである。

 また、これらが頭のさらされている危険のすべてというわけではない。ある人々は、この世からの脅かしによって攻撃される。この世は、両手に渾身の力を込めてその大段平を、多くのキリスト者の頭に打ち下ろす。「もしお前が今みたいな狂信者でいると、キリストのために何もかも失うことになるぞ。お前は貧しくなり、子どもたちのおまんまは食い上げになるぞ。お前が馬鹿をすると、お前の女房はやもめになるより悲惨になるぞ」。「あゝ」、とキリスト者は云う。「だが、私には救いの望みがあるのだ」。そして、その打撃は、いざやって来るときには、頭を唐竹割りにするのではなく、単に兜にぶつかるだけで、この世の剣は刃先が鈍らされてしまう。「貧しくなるくらい何ともないことです」、とギル博士は、その寄付者たちの脅かしに対して云った。彼らは、もし博士がこれこれの教理を説教するなら、自分たちは座席を返上する、もう出席しない、と云ったが関係なかった。そのようにキリスト者も云う。「貧しくなるくらい何ともない。蔑まれることくらい何ともない。私は天国に、ずっとすぐれた、ずっと長持ちのする財産があるのだ」。それで、このほむべき兜を用いることによって、その人はこの世の脅かしで滅ぼされることがない。

 私たちが、私たちの若い人々にもこの兜をかぶってほしいと思うのは、この時代の数々の過誤のためである。時代の過誤は数多い。私たちは、単に懐疑主義だけでなく、迷信にも対処しなくてはならない。人は一方に誘惑されるか、もう一方に誘惑される。こちらか、あちらを云い立てることになる。「そら、ここにある」とか、「そこにある」とか云われると、神の民でない多くの者たちが迷わされるであろう。「できれば選民をも惑わそうとし……ます」[マタ24:24]。だが、選民は惑わされない。その頭がそうした過誤に対して無防備ではなく、救いの望みをかぶっており、世のいかなる「何々主義者」をも「何々主義」をも恐れないからである。その人は自分が救われていると知っている。ひとたびキリストを自分自身で個人的に知り、キリストがあなたを愛して、あなたのためにご自分をお捨てになったことを知るならば、自分がキリストによって赦され、義と認められていることを喜ぶがいい。この世はあなたを馬鹿で強情だとみなすであろう。だが、あなたは堅く立って、その一切の憎まれ口や嘲笑に耐えることができる。イエス・キリストを隠れ場としている者は安全である。この国をいかなる過誤が席巻していようと関係ない。

 人の話では、神の《教会》は大いなる危険に陥っており、《教皇制》がこの国に全く蔓延するだろうという。そうなるだろうと私も信じる。だが、それが神の《教会》に蔓延すること、――それは信じない。そうしたことを信じるほど馬鹿ではない。神の《教会》は決して危険に陥ることがありえない。神のいのちをうちに宿している人はみな、明日にでも真理のために死ぬ準備ができている。メアリー女王治下の、私たちの先祖たちと同じである。もしも時代がそう要求するなら、燃える薪束のそばに立つ人々は確実に見つかる。また、もし真理を守るためには苦しみを受けなくてはならないとしたら、それが死に至るとしても、わが国の監獄はじきに天的な思いをした居住者たちであふれることであろう。危険はある。大きな危険はある。今ほど《教皇制》が国に蔓延する危険が大きかった時期は、現代においては一度もなかった。しかし、自分の兜をかぶっている人には何の危険もない。しかり。弓矢が雹のように雨嵐と降り注ぎ、敵が一切の政治的権力を握り、その古式ゆかしさゆえに一切の信望を手に入れようとも、それでも真の心をしたキリスト者たちの密集隊形は、いかに猛攻を浴びても立ち続け、敵の全軍を突き抜けて栄光と勝利への道を切り開くであろう。なぜなら、彼らの頭は救いの望みという天的な兜で守られているからである。では、兵士たち。あなたの頭に気を遣うがいい。この点については、ここまでとしよう。

 III. 神はあなたの頭を覆うものを供しておられる。それゆえ、今、《神があなたの頭を守らせようとされる、この兜のことを考察しよう》

 「救いの望み」! それは、今朝、私が語った望みではない。というのも、それは救いが可能であるという望みだったからである。この兜を形作っているのは、自分がすでにキリスト・イエスのうちある以上、永遠のいのちに至るはずであるという現実の望みである。これは、個人的な望みであり、個人的な確信に基礎を起き、聖霊によって私たちのうちに作り出されている。

 まず、この兜についての説明を始めよう。その与え主は誰だろうか? 私たちの友人である兵士に、どこでその連隊服を手に入れたのか聞いてみるがいい。すると彼は、政府の店でだと答えるであろう。彼は、その連隊服を女王陛下から受けているのであって、それこそ私たちが自分の兜を手に入れなくてはならない場所である。もしあなたがたの中の誰かが自分で望みのかぶとをこしらえるとしたら、それは戦闘の日にはあなたにとって何の役にも立たないであろう。真の望みの兜は、天的な兵器庫からやって来なくてはならない。あなたは、《天来の》倉庫のもとに行かなくてはならない。というのも、神に救いは属しており、救いの望みは神の無代価の恵みによってあなたに与えられなくてはならないからである。救いの望みを金で買うことはできない。私たちの大いなる《王》はご自分の武具を売ることをせず、入隊した者全員に無代価で与えてくださる。彼らは一シリングを得て、信仰を受け取る。彼らはキリストを信頼して、兵籍に入れられる。それから、武具がただで与えられる。頭から足まで彼らは恵みによって飾られる。

 あなたは尋ねるだろうか? 誰がその兜の造り手なのか? 武器はしばしばその造り手に応じて尊ばれる。名工は、自分の作った品々を云い値で売る。古の武具師は、古代の兜には大いに手をかけた。その非常に有用な防具によって人のいのちが左右されかねなかったからである。そのように、この兜には聖霊なる神の御名が刻印されている。救いの望みは、私たちの魂における聖霊なる神のみわざである。御霊こそ、私たちをイエスのもとに導き、イエスを必要としていることを私たちに示し、イエスを信じる信仰を私たちに与えてくださるお方である。また、同じ御霊こそ、私たちが最後まで耐え抜いて、永遠のいのちに入ることになると希望させてくださるお方である。天性という作業場で作られているもので満足していてはならない。自分で売り買いしている者たちのもとに行ってはならない。むしろ、無代価で与えて叱ることのないほむべき御霊のもとに行くがいい。

 あるいは、さらにあなたはこう問うだろうか? いかなる金属でこの兜はできているのか? それが望みでできているとは告げられている。だが、それが健全な望みであることは、非常に重要な点である。卑しい望みや、無価値な金属でできた兜を持たないよう用心するがいい。古い時代に人々がかぶるのを常としていた、ある種の兜は、見かけは非常に良かったが、茶色の包装紙でできた帽子も同然にしか役に立たなかった。そして、そうした兜をかぶって兵士が戦いに行けば、剣が彼の頭蓋を叩き割った。良い兜を得るがいい。正しい金属でできた兜を得るがいい。キリスト者の望みはこのことから成っている。――その人は、キリストが罪人を救うために世に来られたと信じている。その人はキリストが自分を救ってくださると信頼している。そして、キリストがおいでになるときには、自分もキリストとともに王となること、喇叭が鳴るときにはキリストとともによみがえること、そして、天国において自分が御父の右側に安全な住まいを持つことになることを希望している。この望みは、特定の真実な言明の数々から適切に、また、ふさわしく引き出された推論をもとにしている。すなわち、キリストが罪人たちのために死なれたことは真実である。主がご自分に信頼するすべての者を救うために死なれたことは真実である。私が主を信頼していることは真実である。それゆえ、私が救われていることは真実である。そして、救われている以上、主の約束されたすべてを私が相続することは無論のことである、と。ある人々は望みを有しているが、それをどこから得ているか知らない。また、その望みをいだける理由も知らない。ある人々が死んだとき、こうしたことが聞かれる。「望むらくは、彼が天国に行ったことを望むよ」。よろしい。私もその人が天国に行っていれば良いとは思う。だが、一部の人々については、あえてその人が天国に行ったと望むことはできない。望みには理由がなくてはならないからである。錨は、錨爪がついていない限り何の役にも立たない。それは、しっかりと引っかかることができなくてはならない。いずれにせよ、現代式の留め具を有していなくてはならない。――水底にくっついて離れないでいられる、何らかの重りがなくてはならない。望みにも、その錨爪がなくてはならない。その理由、その重りがなくてはならない。たとい私がこれこれのことを望むよと云うとしても、そう望む理由を有していなければ、そのように望むのは愚かである。もしあなたが、自分の隣に座っている人からぽんと一千ポンドもらえることを望んでいると云うとしたら、それは最も馬鹿げた望みである。そうしたければ望んでも良いが、その望みについて何の根拠があるだろうか? しかし、もし誰かがあなたに一千ポンドの借金を負っていて、あなたにその人の借用書があるとしたら、そのときは、それが支払われると望むと云っても差し支えない。あなたには、それを予期すべき正当な権利があるからである。そうしたものがキリスト者の望みである。神は信じる者たちを救うと約束しておられる。主よ。私はあなたを信じます。あなたは私を救うと約束しておられます、それで私はあなたがそうされると望んでいるのです。あなたがそうされると知っているのです。キリスト者の望みは空想ではない。たわいもない願望ではない。それは決して、ヨナのとうごまのように、一夜で生じ、一夜で枯れるもの[ヨナ4:10]ではない。キリスト者の望みは、棍棒で打たれようと、鋭利な剣で切りつけられようと持ちこたえる。それは、頑丈な金属でできている。ジョン・バニヤンは、ある特定の剣のことを「正真正銘のエルサレム刀」と云ったが、私はこれを正真正銘のエルサレム兜と呼びたい。そして、それをかぶっている者は恐れる必要がない。

 この兜を形作っている金属について示したので、ここでその兜の強度を説明させてほしい。それは、非常に強固であって、ありとあらゆる種類の攻撃の下でも、それをかぶっている者は傷つくことがない。その人は打撃を受けてよろめきはするであろうが、傷を受けることはありえない。ダビデが何と云ったか思い起こすがいい。かつては、世の悩みという悩みがダビデに襲いかかり、彼に打ちかかり始め、多くのすさまじい打撃を加えた。彼らは確かに彼を滅ぼしたはずだと思った。ダビデも血を流しつつあり、傷だらけだった。彼自身、半ば自分が死ぬのだと考え、気を失いかけていたと自ら告げている。ただし、彼には信仰という名の気付け薬があった。彼は云う。「私は衰え果てていたことでしょう」、「……信じられなかったなら」[詩27:13 <英欽定訳>]、と。しかし、彼が失神して死ぬだろうと彼らが思ったまさにそのとき、突然、ゴリヤテをほふった古のこの英雄はその敵どもを自分の面前で蹴ちらして、こう叫んだ。「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め」。そして、彼は、いかにも彼らしく自分の回りを右に左に激しく打ちまくった。「私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を」[詩42:11]。「神を待ち望め」。キリスト者よ。おゝ、このほむべき言葉、《望み》よ! あなたは、ニュージーランド人が希望のことを何と呼ぶか知っているであろう。彼らは、自分たちの言語でそれを「泳ぐ思い」と呼ぶ。なぜなら、それが常に泳ぐからである。それを溺れさせることはできない。それは常にその頭を波の上にもたげる。キリスト者の望みを溺れさせたと思ったとき、それは塩水を滴らせながら上って来ては、再び叫ぶのである。「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる」、と。望みは、夜に歌う夜鳴鳥である。信仰は天に向かって舞い上がる雲雀だが、希望は暗闇の中にある谷間を励ます夜鳴鳥なのである。おゝ、キリスト者よ。あなたにこれほど強固な兜があることを感謝するがいい。それはあらゆる襲撃に耐え、その乱闘の最中でもあなたが傷つかないようにすることができる!

 この救いの望みは、脱げることのない兜である。知っての通り、兜をかぶるとき最も重要なことは、それが戦いに入ったときに真っ先に叩き落とされたりしないということである。だからこそ、わが国の警察官は、以前とは違った服装をしているのである。なぜなら、彼らの帽子は以前は真っ先に叩き落とされるものだったからである。ある人々の兜もそれと同じであろう。彼らにあるものが、平々凡々な望みでしかないとしたらそうである。だが、キリスト者のかぶっている兜は、いかにしても脱げ落ちない。かつて、ひとりの勇敢な、イエス・キリストの兵士がいた。たまたま、この兵士は婦人であった。そして、ある婦人たちは、これまでキリストが有してきた中でも最上の兵士である。彼女たちは、主の真の女戦士である。この善良な婦人は、ひとりの懐疑主義者によって大いに攻撃されていた。そして、彼の難解な問題のいくつかによってきわめて困惑させられたとき、彼女は向き直って彼に云った。「私はあなたに答えることはできません。ですが、あなたも私には答えられませんよ。なぜって、私の内側には、あなたには理解できないものが1つあるのですから。それによって私は、自分がキリストについて知っていることは全世界とも取り替えられないと感じさせられているのです」。分かるであろう。彼は、彼女に兜を脱がせることはできなかった。そして、悪魔そのひとでさえ、ひとたびキリスト者がその兜をかぶって留め金でしっかり留めるとき、それを脱がせることはできない。この世は、キリスト者に何らの望みを与えることも、キリスト者の望みを取り去ることもできない。キリスト者の望みは神から来る。そして、神は決してそれを引き下げることをなさらない。神の賜物と召命とは変わることがない[ロマ11:29]からである。ひとたびこの兜をかぶるなら、神は決してそれを取り除かれない。むしろ、私たちは望み続け、常に望み、とうとう最後には御顔を見ることになるのである。

 私は、司令官たちが時としてそうするように、この連隊の真中を行き巡り、あなたがたを視察したいと思う。この兜は、古めかしい種類の武具である。そして、古の時代、副官その他の士官たちが連隊を巡回して視察するときには、単に部下たちがきちんと兜をかぶっているかを見るだけでなく、その兜に油を塗られているかどうかを見るものだった。というのも、当時の人々は、その兜に油を塗って輝かせ、様々な結合部や、留め金その他の部分を正常な状態に保っていたからである。いかなる錆も兜の上に生じていてはならなかった。そして、その兵士たちが行進して行くときには、その真鍮色をした兜と白い羽飾りによって、彼らは日差しの中でこの上もなくきらめいて輝いたという。知っての通り、ダビデは「盾に油を塗る」*ことについて語っている[IIサム1:21]。彼が語っているのは、油を塗らなくてはならなかった真鍮製の盾のことである。さて、神がご自分の民の望みに油を塗るとき、また、彼らに喜びの油を与えてくださるとき、彼らの望みは輝き始め、《救い主》の御顔の光の中できらめく。そのとき、ずらりと並んだ彼らは何と見事な兵士たちとなることか! サタンは彼らの剣の光に震える。彼は、彼らの兜を眺めることに耐えられない。しかし、あなたがたの中のある人々は、自分の望みを明るく保っていない。その輝きを保っていない。それは使用されていないために錆を生じ、まもなくそれをかぶっていることが不快になるであろう。また、あなたは戦いに倦むようになるであろう。おゝ、聖霊よ。私たちの心に新鮮な油を塗ってください。そして、あなたの聖徒たちが今晩、旗を掲げた軍勢のように恐ろしい[雅6:4]ものとして出て行くようにしてください。

 見落としてならないことだが、兜は通常、誉れのある所と考えられていた。人は自分の羽飾りをその兜につけた。しばしば自分の前立をつけた。そして、戦いの真っ直中にあるとき、指揮官の羽飾りは煙と埃の真中でも見え、部下たちはそれを見るとき、その場所へ押し寄せた。さて、キリスト者の望みは、彼の誉れであり、彼の栄光である。私は自分の望みのことを恥じてはならない。それを美と威光のゆえに身につけなくてはならない。そして、正しく、良い望みを有している人は、他の人々に対して指導者となるであろう。他の人々はそれを見て、勇気も新たに戦うであろう。そして、彼が敵たちの中に一筋の血路を切り開くときも、彼らは彼に従って行くであろう。それと全く同じように、彼も彼の主であり《主人》である方に従っている。この方は、すでに打ち勝っては、御父の御座の上に着いておられるのである。私が望むのは、この場にいる多くのキリスト者たちがその兜を輝かせていること、また、より多くの者たちがそのような兜を得て、自分を守り、自分の信仰告白を光輝あるものとしたいと願うようになることである。

 IV. 《だが、ここにいる何人かの人々は何の兜も有していない》。その理由は明らかである。彼らはキリストの兵士ではないのである。

 もちろん、主イエスが誰かに武具を供してくださるとしたら、それはご自分の軍隊に入っている者たちに対してだけである。しかし、サタンもあなたに1つの兜を与えることはできる。彼の兜は非常に強力なものである。御霊の剣はそれを突き破ることができるが、それ以外の何もそうすることはできない。彼が与えることのできる、そして、すでにあなたがたの中のある人々には与えてきたものは、あなたの頭蓋をすっぽり覆う兜――分厚い、無関心という兜である。それで、何が説教されても、あなたは無頓着なのである。「どうなろうとかまうものか」、とあなたは云う。それがあなたの兜である。

 それから、彼がその兜の前面につけるものは、いわゆる鉄面皮で、厚かましい額である。「どうなろうとかまうものか」。それがあなたの叫びである。それから彼は、その兜があなたの両目の前面に来るように気を遣い、ものが見えないようにする。しかり。地獄そのものが面前にあっても、あなたには見えない。「どうなろうとかまうものか」。それから、彼はその兜の締め付け方も知っており、それがあなたの口にくつわを噛ませ、あなたを祈らせないようにする。あなたは、その兜越しに悪態はつけるが、祈ることはできない。なおもあなたは、あいも変わらず叫び続けのである。「どうなろうとかまうものか」、と。

 あゝ、私の何らかの剣があなたの頭に達する見込みはあまり高くない! あれこれの議論ではあなたを動かせないであろう。それは、あまりうまく議論できるような問題ではないからである。――「どうなろうとかまうものか」。あなたがそう口にするのはしごく結構なことだが、おゝ、私は切に聖霊なる神に祈る。そのぞっとするような兜にもかかわらず、御霊があなたの頭に達してくださるようにと。さもないと、神はあなたのような輩をどう扱うべきか心得ておられるからである。あなたが死に臨むとき、あなたは別の歌を歌うであろう! あなたがその病の床に横たわり、永遠という薄気味悪い日が視界に入るとき、あなたは今そうしているほど陽気に、「どうなろうとかまうものか」、とは云えなくなる。そして、かの喇叭が天地を貫いて鳴り響き、あなたのからだがあなたの墓から起き上がるとき、また、大いなる《審き主》がその御座に着いているのをあなたが見るとき、そのときには、あなたは、「どうなろうとかまうものか」、とは云えないであろう。あなたの頭は、そのときには、神の御怒りという情け容赦ない嵐に対してむき出しになるであろう。むき出しの頭をしたまま、あなたは、自分に下ることになる永遠の暴風にさらされなくてはならない。そして、かの大いなる御使いがあなたを、あなたの仲間たちと一緒に縛り上げて焼くことになるとき、あなたは、そのときには自分が、「どうなろうとかまうものか」、とは云えないのを感じるであろう。神の御前から追放され、一切の望みが絶たれるとき、あなたは土砂降りのようなすさまじい運命に叩き込まれるからである!

 おゝ、ぜひその兜を脱いでもらいたい! 願わくは、神があなたに今晩、その留め金を外し、二度とそれをかぶることのない恵みを与えてくださるように! どうなるかを、かまうがいい。愛する方々。あなたは愚か者ではないではないだろうか。「どうなろうとかまうものか」、と云うのは愚か者だけである。確かに、あなたは自分の魂をかまうべきである。確かに地獄は逃れるべきものである。確かに天国はかちとるべきものである。確かに私たちの《救い主》が死なれたあの十字架は考えてみるべきものである。確かにあなたのあわれな魂は、かまってもらうべきものである! 私は切に願う。ぜひ考えてほしい。そして、主を信頼するよう自分を仕向けてほしい。そして、そのときにはあなたは、「どうなろうとかまうものか」という悪しき武具の留め金をことごとく外して、主の十字架の前に額ずき、主の御手に口づけするであろう。また、主はあなたに救いの望みという黄金の兜をかぶらせてくださるであろう。そして、あなたは、王ご自身の兵士たちのひとりとして立ち上がり、王の戦闘を戦い、永遠の勝利という不滅の花冠をかちとるであろう。願わくは、私たちの中のあらゆる者がそうならんことを!

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キリスト者の兜[了]


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