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患難の使命

NO. 3164

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1909年9月30日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1873年5月8日、木曜日夜


「ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。たぶん、主は私の悩みをご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう」。――IIサム16:11、12 <英欽定訳>


 ダビデの人格の明るい面は、概して、彼が活動的に何かに携わっているときか、大いに苦しんでいるときに見られた。彼は行動のための人であった。走って行ってゴリヤテに立ち向かい[Iサム17:48]、この巨人の首を手に提げて戻ってきたとき、あるいは、神の軍を率いてペリシテとの戦いに行くとき、そうした時こそ、ダビデの真骨頂であった。彼は決して人の顔を恐れない人物であった。彼は勇敢で、剛胆で、神に対する信頼に満ちていた。

 それと同じくらい彼が傑出していたのは、その苦難の時であった。彼は、サウルを意のままにできるときでさえ、この王に向かって手を上げようとしなかった。サウルの上着のすそを切り取ったとしても、心を痛めた[Iサム24:4-5]。自分の敵たちを前にして、彼らを殺すことができるときも、並外れた大度によって、自分の手を抑え、彼らに触れようとしなかった。復讐心は彼の霊の中になかった。彼は優しさと思いやりに満ちていた。こうした種類の人々にとって、何か行なうべきことがあるのは、あるいは、何らかのことで苦しまなくてはならないのは良いことである。そして、ことによると、それを理由として、人々は非常に忙しくしているか、非常に忠実でない限り、罪深くなることを免れないのかもしれない。一部の人々の霊は、あまりにも熱烈で、あまりにも熱く燃えているために、激しすぎるほど激しく神のみこころを行なうか、耐え忍ぶのでない限り、明るさと朗らかさを欠いてしまう。ダビデが閑暇を得たとき、過ちに陥らなかったことはめったにない。彼の大きな罪、嘆かわしい罪は、そのようにして犯された。それは、王たちが出陣する頃であったが、ダビデは、ヨアブをアモン人との戦いに出し、自分は家にとどまっていた。ある夕暮れ時、「ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いてい……た」[IIサム11:2]、と書かれている。彼はすでに快楽を楽しむ気分になっていた。そして、そのときに誘惑がやって来て、堕落したのである。彼の第二の大きな罪悪も、ほぼ似たような経緯を辿った。彼は自分のすべての敵を制圧していた。アブシャロムの反乱は力強い手で鎮圧された。内外ともに全く平穏であった。そのとき、サタンが彼を動かして民の人口を数えさせた[I歴21:1]。彼は思ったのである。「私は偉大な国の王だ。そこで私に何人の臣下がいるか知りたいと思う。何人の軍勢を有しているか知りたいと思う。ヨアブよ。行って人口調査を行ない、私に報告せよ。私がいかに偉大であるか理解できるように」。

 そして、そのとき神は、ご自分のしもべを遣わして、彼の心の高ぶりゆえに彼を懲らしめると警告し、3つの懲らしめから選択させた。そのうちの1つが民に下らなくてはならないというのである[I歴21:9-10]。ダビデは一振りの剣のようであり、壁にかけられているとすぐに錆びてしまうが、《主人》の戦いを戦うために動かされると、驚くばかりに鋭い切れ味になり、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通すのである。ならば、私たちは安逸と惰眠を恐れようではないか。というのも、

   「謀(あ)しき凪(なぎ)をぞ われ恐る
    頭上(うえ)を嵐の 猛(たけ)るより」、

とあるからである。何もすることがないことを恐れよう。また、たとい活発に行なえることがなくとも、苦しむべきことがあることに感謝しよう。というのも、好き放題にまかされると、私たちの中の最上の者も腐食するからである。そして、もし私が語りかけている人々の中に、最近、勤めを辞めて安逸を楽しんでいる人がいるとしたら、私はその人に促したい。キリストのために何らかの奉仕を行ない、自分の精神機能を携わらせる方が賢明である、と。キリスト者にとっても、他の人々にとっても、このことは真実だからである。

   「サタンは常に 見いだせり、
    怠(なま)くる手のなす 悪事(まがごと)を」。

 今晩の聖句は、その苦難の時期におけるダビデの姿を示している。そして、ここにおける彼は非常に賞賛に値し、ここにおける彼のふるまいは非常に立派なものであるため、私は彼を万人のための模範として捧げ持つものである。このやりとりの中には、私たちがみな真似るべき四つのことがある。第一に、ダビデの心の中に恨みの念がなかったこと。第二に、彼が全く天来のみこころに服していたこと。第三に、彼が神にのみ期待していたこと。そして第四に、彼が明るい面に目を向け、なおも希望をいだいていたことである。

 I. まず第一に、《この点でダビデを賞賛し、努めて彼の真似をするがいい》。私たちは、たった今この物語を読み上げたばかりである。さて、ダビデに対するシムイの攻撃は非常に卑劣なものであった。ダビデは長年のあいだ王であったが、この王がその王座に着き、権力を握っている間は、シムイが何を語ったとも全く記されていない。この男は国の片隅にこそこそ潜んでおり、疑いもなく、しばしば歯ぎしりしていたであろうが、強大な王をののしろうとしないだけの分別はあった。しかし、ダビデが王宮から逃亡しつつあり、彼の息子が彼を追い、彼の血を激しく欲している今、この卑怯者は自分の隠れ場所から出て来ては、この王を非難し始めるのである。以前はあえてダビデに文句を云おうとしなかった者たちが、今や面と向かって彼を口汚く罵り、悪口を云うのである。卑劣な攻撃は非常に耐えがたいものである。こちらの立場につけこんで、だまし討ちするような者には、荒々しい言葉遣いで性急に答えたくなりがちである。人が弱り目にあるときに攻撃してくるような者は、卑劣漢しかいない。この場にいる誰かも、やはり同じような目に遭っているかもしれない。何年か前なら到底受けなかったような仕打ちを、いま受けて苦しんでいるかもしれない。そうした仕打ちは、卑劣漢から出たことにより、いやが上にも痛切なものとなる。

 これは、きわめて卑劣であったばかりか、きわめて残忍なものであった。私たちは災難に遭っている人を憐む。一個の王がその王位を失ったとき、また、一個の父親が実の子から反逆されたとき、人は云うであろう。「これまで彼にいかなる過ちがあったにせよ、今はそれを口に出して良い時ではない」、と。あわれな心が血を流しており、人がすでに極度の悲惨さに苦しんでいるとき、その人が負わなくてはならない、身をすりつぶすような重圧に誰がほんの一押しでも加えたいと思うだろうか? 同情の念と自然な人情とは、こう云うように思われる。「静かにせよ! 叱! 別の折なら、――彼が返り咲いたときなら、――必要に応じて彼の過ちを叱責しよう。だが、今はそうすまい。今はふさわしくない」、と。シムイというこの犬が、苦しみの中にあるダビデに襲いかからなくてはならない以上、確実にサタン自身が彼をそう仕向けて、ダビデの数々の悲惨さにきわみまで追い打ちをかけさせたに違いない。だがしかし、ダビデは一言もシムイに荒々しい口をきかなかった。否。彼はシムイをかばうことすらして、いかに卑劣なものであろうと、その残忍な攻撃に耐え、何の癇癪も起こさず、むしろ、平穏に、平静に、謙虚に、自分の手の中にあったいのちを助けてやった。

 さらに、思い出すべきは、この攻撃が特に偽りに満ちたものだったことである。彼はダビデを血まみれの男と呼び、サウルの家を滅ぼしたといって非難した。これほどの虚偽はありえなかった。というのも、サウルが二度もダビデの手中にあったとき、――ある折は洞窟の中で、別の折は彼が山の斜面で眠っていたときに、――ダビデは主に油注がれた者に手を下さなかった[Iサム26:9]。サウルとヨナタンがギルボアで殺されたとき、ダビデは真摯に嘆き悲しみ、哀愁に満ちた哀歌を作った。――高き所で倒れたサウルを悲しんで歌うため、人々に教えるよう彼が命じた歌である[IIサム1:17-18]。そして後に、あるアマレク人がサウルの王冠を持ってやって来たとき、褒美をもらえると思っていた彼を、ダビデはその場で殺した。悪人どもがイシュ・ボシェテの首を持って来たとき[IIサム4:8]、ダビデが満足すると思っていた彼らを、彼は両名とも殺人のかどで打ち殺した。さらにダビデは、メフィボシェテを探し出し、彼が両足ともなえており、立つことができなかったにもかかわらず、自分の食卓で食事をさせ、彼に誉れを与えた[IIサム9:7]。それで、血まみれの男どころか、逆にダビデはサウルから狩り立てられ、その一家の指導者からいのちをつけ狙われていたにもかかわらず、決して悪をもって悪に報いたことがなかった。

 自分が行ないもしなかったことのために非難されるのは非常に辛いことである。なぜかは分からないが、ある非難が虚偽であるとき、そこには、それなりの刺が何本か突き立つのである。私の聞いたことのあるひとりの婦人は、いささかの不正直さについて咎められた。その教役者が彼女に云った。「それが真実でないとしたら、そのことで嘆く必要はありませんよ」。「ええ、先生」、と彼女は云った。「それが真実でないとしたら、そのことで嘆くべきではありませんわ。ですが、そこに問題の点があるのです。それは真実なのです」。そして、まさにその通りである。分別のある人間なら、真実な咎め立てについてのみ感情を動かすべきであり、自分の良心によってそうした咎め立てが正当とされないと知っているとき、その切っ先は取り除かれるはずであろう。しかし、事はそうは運ばない。私たちは物事をうまく判断できない。全く身に覚えのないことについて非があるとされると、それは非常にむごいものと感じられる。また、自分の生き方がある方向にのみ向かっているにもかかわらず、それとは全く逆の行動をしたといって責められるとき、そこには非常に刺すような痛みがある。シムイが口にしたことの中でも、彼がダビデに向かって云った、「お前は血まみれの男だ。サウルの家を滅ぼしたのだ」、という言葉ほど、ダビデを骨髄まで傷つけたものはありえなかったと思う。だが、ダビデは彼に手出しをしようとはしなかった。彼は云った。「ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい」。大度によって彼は、シムイがかすり傷1つ負わずに逃げていくことを許した。石や汚物を投げつけられていたが関係ない。

 あることが口にされる云い方は、時として、そのこと自体よりも心を傷つけることがある。というのも、シムイは単にダビデを咎め立てしただけでなく、それをこの上もなく苦々しいしかたで云い表わし、「出て行け、出て行け」、と侮蔑するように云ったからである。それから彼はダビデに石やちりを投げつけた。今やダビデのことを何とも思っていないかのように、また、自分の足の下のちりとでも考えているかのようにである。そして、彼はダビデをあらゆるもののかす[Iコリ4:13]と呼んだ。私たちの中で侮蔑に耐えられる者はほとんどいない。苦々しい当てこすりはしばしば心をひどく傷つけるが、あからさまな咎め立ての場合、いかに不当なものであってもそうはならないと思う。ちょっとした嘲りの一片に、悪意が込められている場合、しばしば人は傷つけられるものである。不親切な言葉を語られたことによって、いかに多くの人々が、傷ついた心をかかえたまま一生過ごすことになるか分かるものではない。それは、ふざけ半分だったかもしれないが、真剣に受け取られると、魂にむごたらしい傷を残すのである。だが、ダビデはこの男の嘘八百によっても、その口調によっても憤りを発することがなく、真の王のようにして――彼は真正な王者だったが――こう云った。「ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。それは耐えがたいことだが、それでも私はそれを耐えるであろう」。

 さて、このことも覚えておくがいい。ダビデはこうしたすべてに、いとも容易に片をつけることができたはずであった。即座にシムイを始末することも彼にはできた。「あの首をはねさせてください」[IIサム16:9]、とアビシャイは云ったし、それでこの議論に片はついたことであろう。時として私たちは、どうしようもないことについては非常に忍耐強い。「治らないことは、我慢するしかない」。また、「真っ直ぐ座っておれない者は、身を屈めているしかない」。これらは健全な教えである。防ぐことができなければ、赦すのが良い。どんな馬鹿でも、本当の馬鹿でない限り、そう認めるであろう。しかし、ダビデは、この下郎の頭をはねることができたし、それも、即刻そうできたのに、「ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい」、と云ったのである。これは、見事な模範である。たとい自分で復讐することができるとしても、《そうしてはならない》。手を開くのと同じくらい容易にそうできるとしても、握ったままにしておくがいい。たとい一言辛辣な言葉を発すれば議論を片づけられるとしても、その辛辣な言葉を語らずにいられる恵みを願い求めるがいい。

 やはり思案すべきは、ダビデは、この男を始末するように他の人々から促された、ということである。時として私たちは、安易に助言に従うことがある。特に、その助言の中に自分にとって好ましいものがあるときそうである。そして、私たちの中で、そうした助言を好まない者がいるだろうか? 告白するが、この章を読みながら、もし私がアビシャイの立場にいたとしたら、私は、まずこの男の首をはねてから、その後で許しを求めていたのではないかと思う。残念ながら、それは極悪で、よこしまなことではないかと思う。だが、私がいのちをかけ、そのためなら死をも辞さないほど愛する王が――ダビデのようにほむべき王が――このような犬によって嘲られているとき、――「あいつの首をはねろ!」、と云わないような護衛がいただろうか? また、こうした荒くれた時代に、それでもこのような下郎には過ぎた処分だと思わない者がいただろうか? それでもダビデは云った。「否。私たちは無用な助言には従わない。真剣な友人たちの熱心によって、先走ることがあってはならない」。もし彼らが早すぎるとしたら、私たちは遅すぎなくてはならない。あらゆる報復の問題において、もし他の人々が前進しようとしたがるとしたら、私たちは後ずさりして、こう云わなくてはならない。「キリストは、七度を七十倍するまで赦せと私たちに云われました」、と。そして、そのように私たちは行なうであろう。思い出すがいい。これが古い経綸の下にあり、律法がこう云っていたことを。「目には目。歯には歯」[出21:24]、等々。それゆえ、ダビデには、自ら復讐したとしても、ずっと弁解の余地があったであろう。しかし彼は、一個の預言者であるかのように、来たるべき時代の光をつかんでおり、キリストがそこにおられたなら容赦されだろうように、この男を容赦した。このことにおいて、彼は私たち全員によって真似されるべきである。すべてを1つにまとめると、愛する方々。もしあなたのもとにやって来る苦難が、第二原因としてやって来るとしても、第二原因を眺めて、それと争ってはならない。また、「相手が誰それならば、かまうものか」、と云ってはならない。それゆえにこそ神は、誰それを遣わしてあなたを懲らしめておられるのである。というのも、ある父親が子どもに痛棒をくらわせようとするときには、自分の最も重い鞭を手に取るからである。神もそれと同じである。神はあなたに痛棒をくらわせ、最も叫ばせるような手段をお取りになったのである。第二原因について苛立つことは常に愚かである。もしあなたが杖で犬を脅すなら、犬はその杖に噛みつくであろう。だが、もし彼が分別のある犬だったとしたら、あなたに噛みつくであろう。ただ分別がないために杖に噛みつくのである。それで、もし私たちが第二原因に反抗するとしたら間違いである。苦情を云うべき相手が誰かいるとしたら、それは、その手段を用いておられる神であろう。そして、私たちは神に苦情を云うことができず、たといできたとしても神に苦情を云いたいとは思わないであろう以上、最善の道はダビデと同じように云うことである。「ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。主が彼に命じられたのだから」。

 さて、私たちは今晩こう云っていないだろうか? 「もし神が別の試練を送られたのだとしたら、耐えることもできるでしょうに」、と。よろしい。あなたの現在の試練を受け入れるがいい。そして、おゝ! もしあなたが誰それに悩まされているとしたら、彼を赦してやるがいい。この件には彼よりも高い御手が関わっているのである。あなたが刈り込まれているのは、粗雑な刀によってである。だが、その刀を用いたのは園丁なのである。そして、あなたの神はこの患難をあなたの益のために用いておられるのである。その患難よりも、神の目的と意図を眺めるがいい。

 ダビデがシムイをかばっている姿には、非常に美しいものがあった。彼がいかに云い表わしているか注意するがいい。「よろしい。そこには、わが子アブシャロムがいる。――あれは私のいのちを求めている。この男がそうしても不思議はない。私の身内では全くないのだから! この男から愛など期待できないであろう。それに、また」、と彼は云った。「これはベニヤミン人だ。さて、神はこの私ダビデを、ベニヤミン人であったサウルの代わりにされた。むろん、この男は、王冠を失った氏族に同情するはずだ」。ダビデはその秘密をはっきり指摘した。「この男は、私のために苦しんできたのだ。それゆえ、怒っているのだ。私に心を寄せていないのだ。私はこの男から優しい扱いなど期待できないであろう。そして私は、この男を傷つける意図はなくとも、知らないうちに、この男が属している家から何らかの権威を奪い取ってしまったのだ。それゆえ、私はこの男のむごい仕打ちにどうにか目をつぶることができる。それに、いずれにせよ、私は、神がこの男を手段として用いておられることを示して、この男を値なしに赦すことにしよう」。さて、私は非常に単純に、また、単純なふるまいについて話をしている。だが、私は悲しみとともに自覚している。おびただしい数のキリスト者である人々が、他人に思い知らせてやることについての説教を聞きたがっていることを。子どもは、幼児の祈りである、「天にましますわれらの父よ」、と云うことを学ぶが早いか、こう云うように教わる。「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦し給え」、と。だがしかし、私の見いだす一部の人々は、何年もキリスト者でありながら、――少なくとも、本人はそう云っていながら、――ごく取るに足らない些細なことでつむじを曲げると、気を取り直すまでに長い時間がかかる。ことによると、それは、ほとんど注目する必要もないことかもしれない。だがしかし、そうした人々はそれについて毎日毎日苛立ちを感じ続けるのである。おゝ、男らしくなろう。キリスト者らしくなろう。そして、赦せるようになろう! 「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです」[ヤコ3:2]。「つまずきが起こることは避けられないが、つまずきをもたらす者は忌まわしいものです」[マタ18:7]。私が思うに、つまずきを見過ごしにしようとしない者も忌まわしいものである。ある人は云うであろう。「この場にいる何人かの人は腹を立てていると思いますよ」。確かに私は、特定の誰かについて何も知っているわけではない。だが、この帽子がぴったりだというなら、それをかぶるがいい。願わくは私たちが、自分が赦されたいと希望するのと同じくらい赦す者となることを学ぶように。

 II. さて、第二のことはこうである。――《ダビデは天来のみこころに完全に服していた》。「主が彼に命じられたというだけで、私には十分です」。あるいは、10節にあるように、「彼にのろわせなさい。彼がのろうのは、主が彼に、『ダビデをのろえ。』と言われたからだ」<英欽定訳>。ダビデは、自分の敵のよこしまな行為を痛切に感じていた。だが、それが自分のさらなる懲らしめのために送られていたことを感じていた。それゆえ、進んでそれを受け入れた。「私はこのような告発に値していない。これは非常に卑しいことだ。だが、もしシムイが私についてすべてを知っていたとしたら、それと同じくらい悪いことで私を咎め立てしていたことであろう。それは全く正しいことであったろう」。私たちが無作法な人々によって毒づかれるとき、また、そうした人々が私たちを中傷するとき、私たちは自分の心に向かってこう云って良い。「よろしい。よろしい。もし彼らが私たちの裏も表も知っていさえしたら、また、私たちの心を見通せさえしたら、彼らは、これよりもひどい悪口を私たちに向かって云えたかもしれない。だから、私たちはこのことを甘んじて我慢していよう」、と。というのもダビデは、シムイのあずかり知らぬことながら、はなはだしい罪を犯したことがあったからである。それは、シムイのふるまいを少しもましなものにするわけではないが、ダビデはこう感じた。「私は、主の御手からこのことを受けるに値している。あるいは、この特定の折でなくとも、何か他のものを受けるに値している」、と。それで、これが主であると感じて彼は、自らに云った。「私はこのことの意味が見てとれないが、確かにそこには愛があるのだ。神は、愛によらずに、ご自分の子どもたちに何か行なったことがあるだろうか? 私にはこのことが必要だとは見てとれないが、確かにそこには知恵があるのだ。主は正しいこと以外に何かご自分の子どもたちに行なったことがあるだろうか? 私はこのことからいかなる益が生ずるか見てとれない。だが、神がご自分の子どもたちを無益な試練に遭わせることがあっただろうか?」 いかなる懲らしめについても、そこには天来の必然と必要があるではないだろうか? それは主である。――それでダビデにとっては十分である。兄弟姉妹たち。あなたにとって、それは十分だろうか? 主がそれをなされた。私の御父がそれをなされたと知っているときに、私が口答えして良いだろうか? 神は私の子どもを取り去っただろうか? よろしい。主の御名はほむべきかな。主が私の幼子をそれほど愛してくださったとは! 神は私の黄金を取り去っただろうか? よろしい。神は単にそれを私に貸し与えておられたのであり、借りたものは、笑って貸し主に返すべきである。主が貸してくださったものは、主にお返しするがいい。主はお与えになる。主の御名をほめたたえよ。主は与えたものを取られる。それゆえ、なおも主を賛美せよ。私には、ダビデは、いわば過ぎ去った日々に犯した過ちに感じ入って、神の前に平伏し、こう申し上げているように思われる。「私の御父よ。あなたのお望みのままに私を懲らしめてください。もしそれが私の益のために必要であれば、あなたの御手からこの患難も、他の一千もの患難もお受けします。そうなさってください。そうなさってください! あなたの子どもは涙するかもしれませんが、不平は申しません。あなたの子どもは苦しむでしょうが、あなたに文句は云いません。あなたが喜んで行なわれるとき、それを忍ぶのは私の喜びです。あなたの喜びと私の喜びはこれ以後、永遠に1つの喜びとなるでしょう。もし主がこのことをなさったのであれば、そうなりますように」。

 この場にいるあらゆる悩める兄弟姉妹には、こう勧めたい。神からの恵みを叫び求めるがいい。あらゆる試練の中にも神の御手を見てとることのできる恵みを、また、神の御手を見てとった上で、ただちにそれに服従する、否、単に服従するだけでなく、それに黙従し、そのことを喜ぶことのできる恵みを。「その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように」[Iサム3:18]。普通は、ここに達するとき、苦難には終止符が打たれると思う。というのも、主は、私たちが主の望まれることを喜んでしていただこうとしているのをご覧になるとき、その御手を引き戻し、こう仰せになるからである。「わたしの子どもを懲らしめる必要はない。この子はわたしに服従している。わたしの懲らしめによってもたらされただろうものは、すでにもたらされている。それゆえ、この子を懲らしめはすまい」。知っての通り、ダビデは、暗闇の中へ追い込まれた後、そこに長くはとどまらなかった。「よろしい」、と主は云われた。「もしわが子が、ともしびなしに取り残されても泣かないとしたら、自分のともしびを持たせてやろう。今やわたしは、この子を試し、この子を試験した以上、この子を光の中でわたしの前に出させてやろう」。

 私たちが主を蹴りつけ、主に対してじたばたしても、それが何になるだろうか? 私たちが主に反抗することで、一体どんな益が生ずるだろうか? 悟りのない雄牛や騾馬は、くつわや手綱の馬具で押えなければならない[詩32:9]。反抗し、不承知を表わすことで、いかなる慰めがもたらされるだろうか? また、わがままで、好き勝手にしたがることによって、――こうしたことから、鞭打ち以外の何を受けるだろうか? おゝ! 最も幸福で、最もほむべき状態とは、主の御手の中で、無抵抗に横たわることである。そして、主のみこころ以外にいかなる意志も認めず、自己の滅却を感じることである。その場合、自己は滅ぼされるのではなく、神の中に吸収され、私たちは内なる人において神のみこころを喜び、常にこう云うのである。「父よ。みこころをなさせ給え」、と。これは厳しい教訓である。――説教する方が実践するよりもはるかに容易であり、学びとった後で考えを巡らす方が、実行に移すよりも格段にたやすい教訓である。私はしばしば、かつて語り合うのを常としていた古い友人ウィル・リチャードソンのことを思い出す。彼はこう云うのだった。「冬の間、わしは刈り入れや収穫ができればええのにと思い、鎌や草刈り鎌に《やる気》を吹き込みさえすれば、一日中、何と素晴らしく働けるものかと夢見るもんだわ。それは冬の間のこった。だが、夏になると、半日も働かないうちに、この老骨にはこれ以上働けんと感じ、到底わしは野良仕事になど向いとらんわいと思うんだわ」。さて、私たち自身の力もそれと同じである。もし私たちが神の力を頼みとしたなら、私たちは自分が弱いときにこそ強い[IIコリ12:10]はずである。だが、自分が強くなりつつあると夢見るとき、私たちは格段にずっと弱くなり、往々にして自分が考えていたのとは正反対の自己評価をすることになるであろう。

 III. 《ダビデは別の点でも手本にされるべきである。すなわち、彼が神にのみ期待していたことである》。この聖句を注意するがいい。――「主は私の悩みをご覧にな……るだろう」。そこには、この男の首を今にもはねようとしているアビシャイがいたが、ダビデは云った。「主は私の悩みをご覧にな……るだろう」。彼は思ったのである。自分がこのように大きな苦難の中にあるとき、神は確かに自分を憐れんでくださるだろう、と。おゝ、あなたがた、試練に遭っている人たち。これを限りに人々から目を離し、あなたの神を眺めるがいい。「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ」[詩62:5]。ある場所に行くには2つの道がある。1つは回り道、もう1つは真っ直ぐ行く道である。さて、真っ直ぐな路こそ、最短の近道である。そして、助けを得るにも2つの路がある。1つはあなたの友人全員のところを回って失望させられてから、最後に神のもとに行くことである。もう1つは最初に神のもとに行くことである。それこそ、最短の近道である。神は、後であなたの友人たちにあなたを助けさせることがおできになる。神とその義とをまず第一に求めるがいい。そうすれば、それに加えて、友人たちの助けは与えられるであろう[マタ6:33]。真っ直ぐ前進することこそ、最上の走り方である。あらゆる苦難の中から、最も確実な解放は神の右の御手から出る。それゆえ、あらゆる苦難からの、最も容易な脱出路は、祈りによって神に近づくことである。行くがいい。あなたのこの友人やあの友人のもとにではなく、あなたの物語を神の御前に注ぎ出すがいい。詩人がこのことをどう云い表わしているか思い出すがいい。――

   「かく無益(あだ)に継ぐ 呼吸(いき)の半ばも
    願事(ねがい)によりて 天へ上りせば、
    われらが朗歌(うた)も いや頻繁(しげ)からん、
    聞けや、わがため 主のなせしわざ」。

人間の友人たちは私たちを裏切る! 肉の腕の最も強い腱も千切れ、最も真実な心も時として揺らぐであろう。そして私たちは、友人たちを最も必要としているとき、彼らが私たちを裏切ることに気づく。しかし、私たちの神は永遠にして全能であられる。この方に信頼して無駄だった者がいただろうか? こう云える人がどこにいるだろうか? 私は神を仰ぎ見て、神に希望したが、自分の希望を恥と思っている、と。

 ダビデが神だけを仰ぎ見ていた美しさは、このことの中で全く平静で、穏やかに生じた。彼は自分に云った。「神は私をこの外に出してくださるであろう」。それゆえ、彼はシムイに向かって怒らなかった。その首がはねられることも、そうした種類の何事も望まなかった。「神がそうしてくださる」。おゝ、生にも死にも動じない人、凪の海にも嵐の海にも動じない人、それは自分の神に頼って生きている人である。もしある人がそうした心持ちを保っているとしたら、何がその人の心を乱せるだろうか? 山々が海の真中に移ろうとも、地が変わろうとも[詩46:2]、それでも、なおもその人は魂を忍耐強く保ち、なおも平静にしているであろう。というのも、そうした人について、私はこう云えるからである。「その人のたましいは、しあわせの中に住み、その子孫は地を受け継ごう」[詩25:13]。その人は破壊と飢饉とをあざ笑う[ヨブ5:22]。神は、こうした人について、御使いたちに命じて、すべての道で、その人を守るようにされる[詩91:11]。というのも、こうした人こそ、《いと高き方》の隠れ場に住む人であり、《全能者》の陰に宿る[詩91:1]からである。主はこの人についてこう仰せになる。「彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう[詩91:14]。彼はわたしに、そして、わたしだけに信頼することによって、それを証明してきた。それゆえ、わたしは決して彼を裏切らず、決して彼を長く苦しませまい」。「いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから」[イザ26:4]。あなたの信頼という信頼を寄せ集め、それを1つの信頼とし、その一切を主の上に据えるがいい。あちらだの、こちらだのによりかかってはならない。あなたは、ひねこびた姿となり、あなたがよりかかっている杖は槍と化し、あなたを刺し貫くであろう。全く神によりかかるがいい。そうすれば、神が至る所におられる以上、あなたは神によりかかる際に真っ直ぐ立っていられる。あなたが《千歳の岩》の上に自らを保っていること、それが、あなたの道の廉直さとなるであろう。願わくは私たちがこの教訓を学ぶことができるように。これは高度な教訓である。神の御霊がそれを私たちに教えてくださるように。

 IV. さて、四つの教訓のうち最後はこのことである。――《ダビデは明るい面を眺めることを学んだ》。苦難の明るい面とは何だろうか? 愛する方々。あなたの苦難の明るい面とは何だろうか? よろしい。私はあなたが何を明るい面と呼ぼうとするか分からないが、ダビデは自分の苦難の明るい面が暗黒の面だと考えていた。そして、信仰によって歩むあらゆる人はそれがその通りであることを知っていると思う。この聖句を読めば、すぐにそれが見てとれる。「主は私の悩みをご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう」。彼は、こう云っているも同然である。「私の悩みはこれほどまでに非常に苦々しいが、神は私を憐れんでくださるであろう」。それで、暗黒の面は明るい面なのである。「この男は人々を呪っている。それによって神は心を動かされ、私の味方に立ち、私を守ってくださるであろう」。それで、やはり暗黒の面は明るい面なのである。

 ひとりの水夫がおり、潮が全く引いてしまっている。その水夫は云うであろう。「今こそ潮の変わり目だ」、と。夜回りをしている者らは、夜闇が最も濃くなるときに喜ぶ。なぜなら、それ以上暗くならないことを知っており、じきに日光がやって来ると知っているからである。夜の最も暗い部分は、昼間に先立つ。私たちには、天気に関する古い格言がある。「日脚が延びれば、寒さが強まる」。確かにそうである。だが、じきにそれには終わりが来る。寒気はじきに降伏する。真冬に至ったなら感謝するがいい。なぜなら、それ以上深みには行けないからである。そのことを喜ぼう。さて、もし私たちの悲しみの最暗黒の部分に苦々しさがあるとしたら、他の部分には明るさがあるに違いないし、実際、もし私たちが、自分が苦情を云ってかまわないものを見つけ出そうとする半分くらいでも自分の心を励ますものについて詮索したがるとしたら、私たちはすぐに、最低最悪の状態の中にも、感謝すべき理由をいくつも見いだすはずである。私たちは、自分の問題の中に自分を苦しめるものをくまなく探し、自分の悲しみをぜひとも増し加えたいと思い、自分の種々の苦悩を強めることに勤勉である。まるで私たちの災厄が富であり、私たちの悲しみを蓄えておく価値があるかのようである。しかし、もしそうした私たちの好奇心と詮索心とを別の経路に向け直すとしたら、私たちは見いだし始めるはずである。暗い鉱山の中には金剛石があり、ごつごつした牡蛎の貝殻の中には真珠があり、嵐の額を飾る虹があり、呪いという衣に身を包んだ祝福が私たちのもとにやって来るということを。私たちはじきに喜びの種を得るはずである。それゆえ、私たちの愛する方々に勧めたいのは、黒雲を縁取っている銀色の線を見いだそうとする、ほむべき習慣である。――黒い表面から明るい微光へと目を移すことである。そうするとき、《いと高き方》にあって喜ぶ理由が得られるであろう。

 しめくくりに、――ダビデは栄光に富む人物であった。もし彼が神に期待する代わりに、自分の同胞たちしか信頼しておらず、常に不平を云いながら、また、嘆き悲しみながら、また、あらゆる物事の暗い面を探しながら暮らしていたとしたら、よろしい。彼は非常にけちな詩篇作者となっていたであろう。事実、貧弱な詩篇のほか、何か1つでも詩篇を書けたかどうか疑問である。彼は、あわれな王となっていたであろう。――単なる小人で、決して聖徒として輝くことはなかったであろう。さて、愛する兄弟姉妹。もしあなたが神の前で輝きたい、また、主が《教会》の歴史の中で星々のようにしてくださる、華々しい聖徒たちの中にいたいと思うのであれば、人々に対する忍耐と、神に対する忍耐を求めて祈るがいい。暗闇の中でさえも光を見いだすことのできる明るい目を求めて祈るがいい。常に神に全くよりかかり、神の上にとどまっていられるよう祈るがいい。そのようにしてあなたは神の栄光を現わすであろう。また、他の人々を神に導く手段となるであろう。不信に満ちた説教者たちは魂をかちとることがない。悲嘆し、不平をかこつ《日曜学校》教師たちは、子どもたちをキリストに導かないであろう。「主を喜ぶことは、私たちの力であるから」*[ネヘ8:10 <新改訳聖書欄外訳>]である。私たちは、自分の魂を保たせる忍耐によって、主の満ち満ちた祝福が与えられる。主は、そうした学び舎で私たちを教えてくださる。――私たちは非常に愚かである。主はその恵みで私たちを強めてくださる。――私たちは非常に弱い。そして、願わくは地上にいる私たちすべてが、平静に、また幸福に、私たちの《救い主》が送られた復活の生活を送ることができるように。

 さて、今晩もしもこの場で話を聞いている方々の中に、反抗的で、主を愛していない人が誰かいるとしたら、そうした人々に私は思い起こさせたいと思う。そうした数々の疾患には1つの治療薬があるのであり、イエス・キリストに対する信仰こそ、その治療薬である。主を信じる者は、裂かれた脇腹から流れ出る川を見いだすはずである。それは、罪を二重(ふたえ)に治すであろう。願わくは、あなたがたひとりひとりが、その治療薬を得られるように。イエスのゆえに。アーメン。

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患難の使命[了]


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