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間違いのない助け

NO. 3162

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1909年9月16日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1873年5月20日、主日夜


「王は言った。『主があなたを救われないのなら、どのようにして、私があなたを救うことができようか。打ち場の物をもってか。それとも、酒ぶねの物をもってか』」。――II列6:27


 先ほど、あなたがたの前で読み上げたのは、このサマリヤの包囲攻撃に関連した、ぞっとするほど恐ろしい出来事であった。このあわれな女が王に助けを求めたとき、彼が慄然としたのも無理はない。彼は、この女の状況が、また、自分の回りにいるあらゆる者たちの状況が絶望的なものであると感じて云った。「もしエホバが介入なさらないとしたら、私に何ができようか?」 酒ぶねは乾ききり、打ち場は空っぽだ。この飢饉の恐怖を緩和するものは何も残っていない。「主があなたを救われないのなら、どのようにして、私があなたを救うことができようか?」

 さて、《救われていないあらゆる人の状況は、非常に恐ろしいものである》。その人は、飢饉による即座の死を恐れてはいない。だが、少しでも自分の真の状態を知るほど覚醒させられているとしたら、死よりも悪いもの、また、パンの不足よりも悪いものを恐怖して苦しみあえぐであろう。私の出会ったことのある多くの罪人たちは(また私自身、そう感じたことはあるが)、もし死でそれが終わりとなるとしたら、また、それがすべてだとしたら、喜ぶことであろう。しかし、「恐怖(おそろ)しきもの 死後(よみ)にあり」。――神のことばがあれほど厳粛な口調で語っている、必ず来る御怒りがあり、決して消えることのない火があり、尽きることのないうじがある[マコ9:48]。――それこそ、罪人がひとたび覚醒させられ、自分の状態を知るときに、その良心につきまとうものである。そして、サマリヤにおけるこの物語がいかに慄然とするようなものではあっても、救われないまま生き、そして死んでいくあらゆる人々を待ち受けている、ぞっとするほど恐ろしい運命ほど悪くはない。

 さて、ある人が覚醒させられ、自分の大きな危険を見てとるとき、――足元にすさまじい深淵の広がった断崖の縁に立っていることを悟ったとき、――手当たり次第の人に訴えて、助けを叫び求め始めるとしても何の不思議もない。それで、今晩、私はこう語ることから始めようと思う。その罪人の場合、人間に目を向けても無駄である。正直な人なら誰でも、このような人にこう云うしかないからである。「主があなたを救われないのなら、どのようにして、私があなたを救うことができようか?」 あなたは自分がすさまじい危険の中にあると感じており、救われたいと欲している。私は切に願うが、私たちの中の誰にも、また、あなたの同胞たちの誰にも助けを求めてはならない。この件で私たちは全く無力だからである。神があなたを救わなくてはならない。神があなたにキリストを与えないとしたら、あなたは死ぬしかない。私たちには、あなたのもろもろの罪を赦す力は全くない。あると詐称する者らもいるが、彼らはこの時代にあって、真昼の梟のように場違いに感じているに違いない。彼らはなおも、自分たちが赦罪を与えられると教えているからである。これは不思議な国である。もしも赤い外套を着たあわれな女が、ある畑を通りかかり、六ペンス白銅貨と引き替えに、ひとりの下女にその運勢を告げてやれば、その女は牢屋に入れられるし、それは当然の報いと云うしかない。だが、ひとりの紳士が何千人もの信徒たちの前に立ち上がり、パンと葡萄酒を神の肉と血に変えるふりをしても、お咎めなしなのである。私は、これほどむかつかされるような詐欺のために何か罰が下されたとは一度も聞いたことがない。それは、あのあわれで無知な女がこれまで行なったことのある、いかなるものにもまして、無限に嫌悪すべきことである。私たちのうちに赦罪を与えられる力はない。もしあなたが私たちに対して罪を犯していたのだとしたら、私たちは自分に対するあなたの侮辱を赦してやれるであろう。だが、神に対して犯した罪は、神ご自身によって赦されるしかない。

 「使徒たちの中にとどまっていた、罪を赦す権威は、今もなお《教会》にとどまっているのではないでしょうか?」 私もそう思う。だが、いかなる使徒も、悔悟していない魂の罪を赦す権威を有していたことはない。いかなる使徒も、イエスを信じない者の罪を赦す権威を有していたことはない。ある使徒にできたことはせいぜい、その人が信じて悔い改めるのを見るときに、あなたは赦されたと云ってやることどまりであり、それと同じ権威は今日まで私たちに属している。――神の御名によって、こう宣言する権威である。《御子を信ずる者はさばかれない》[ヨハ3:18]。また、神に自分の罪を告白し、それを捨てる者はあわれみを見いだす、と。――だが、この例外を除き(そして、これは全く何の例外でもないが)、罪を赦すという件に関する一切の権威を持っておられるのは、永遠の神であり、神おひとりである。人間の性質を更新する力は、確かにいかなる人のうちにもない。あなたは、新しく生まれない限り天国には入れない。未回心の人よ。あなたはキリスト・イエスにあって新しく造られた者[IIコリ5:17]にならなくてはならない。だが、天下のいかなる人といえども、あなたの内側に、新しい心と、ゆるがない霊[詩51:10]を作り出せはしない。人間は、まず蝿あたりを創造し、それを夏の空気の中にブンブン飛んで行かせてみなくてはならない。そうした後で初めて、魂を新生させることについて語っても良いであろう。だがそれは途轍もないわざである。――ただ《神性》だけに可能な働きである。神だけが人の魂を創造することも、再創造することもおできになる。ならば、あなたが誰かに助けを求めても無駄である。たとい彼らが自らを司祭だの、司教だの、《神学博士》だのと自称していようと関係ない。あなたの同胞たちには、この件であなたを助けることはできない。あなたは上から新しく生まれなくてはならない。そして、神の御霊がそれを行なうのでなくてはならない。さもなければ、あなたの状況は絶望的である。

 しかし、こう云われるであろう。「あなたがたは罪人たちのために祈れるではないでしょうか?」 しかり。神はほむべきかな。私たちは祈ることができるし、《義人の祈りには大きな力がある》[ヤコ5:16]。先週の間、私は非常に多くの祈りの要請を受けた。そして、その一部は、今この場にいる、あなたがたの中のある人々からのものであった。そうした私の祈りは、実際にあなたがたのために天に上って行き、あなたがたは平安を見いだすこととなった。だが、神の御前であなたに命じるが、私の祈りに、あるいは、誰の祈りにも、迷信的な信頼を置いてはならない。あなたの母上の祈りがあなたに代わって何をできるだろうか? あなたが自分で自分のために祈らない限り、何にもならない。もし使徒パウロがこの場にいて、神に訴えていたとしても、彼の祈りが何の役に立つだろうか? 主があなたを動かして自分の罪を個人的に告白し、個人的にイエスを信じ、個人的にイエスに祈るのでない限り、全くの無である。

 さて、祈りには大きな価値がある。私は小さな子どもの祈りを重んじている。いかにあわれなキリスト者にも、願いによって神を動かす力はある。それを見くびってはいない。だがそれでも、もし主がそうした祈りに答えてあなたを助けることがなく、また、もしそれがあなた自身にとって個人的な事となり、あなたが祈るようにならないとしたら、あなたは他の人々の祈りに迷信的な信頼を置いて、それらを1つの神とするという罪を犯すことになるのである。そして神は、そのようなことをするあなたによって悲しまされるであろう。地上の全聖徒のいかなる祈りをもってしても、魂を1つも救うことはできない。その魂が、自らの前に置かれている望みを捕えるために[ヘブ6:18]、イエス・キリストというお方にある福音へと逃れて来るまではそうである。

 しかし、ことによると、この場にいるある人々はこう云うかもしれない。「もしも私にキリスト教の儀式を与えてくだされば、それで助けてはもらえないのですか? それが私の助けにはならないのですか?」 あゝ、愛する方々。もしあなたが、この場に頻繁にやって来るとしたら、確かにそのような迷妄をいだくことはなくなるであろう。キリスト教のいかなる儀式も、未回心の人々に属してはいない。私は洗礼を受けられないのですか、とあなたは云うであろう。しかり。イエスを信じるようになるまで、あなたとバプテスマは何の関係もない。ことによると、ローマカトリック教の過誤の中で何にもましてキリスト教会に害悪をもたらしてきたのは、未回心の者たちに洗礼を授けるという過誤かもしれない。――イエスを全く信じていない者たちにも、何かをしてやれると考えて洗礼を授けるという過誤である。というのも、もしそれが何の善も施さないとしたら、なぜそれが授けられるのだろうか? そして、そこに何らかの功徳があると信じられる度合に応じて、――それが単なるカトリック制であり、礼典形式主義であり、イエス・キリストに対する真の信仰者たちによって廃棄されるべきである度合に応じて、――私たちはそうした見解によって罪を増し加えているとは思うが、確かに罪を洗い流してはいないに違いない。というのも、それは、心を尽くして主イエス・キリストを信ずる者たち以外の何者にも属していない儀式を、あえて身に受けるという罪を犯すことだからである。「しかし、私たちは《聖餐卓》に着くことはできないのですか?」 否、《否、否!》 そして、たといあえてそうすることを許したとしても、――たとい私たちが、「未回心の人よ。あなたが聖餐卓に着いてもよろしい」、と云ったとしても、――あなたのためになることは全然していないに違いない。逆に、確かに害悪を及ぼすことであろう。あのすさまじい聖句を思い出すがいい。――「ふさわしくなく飲み食いするならば、その飲み食いによって自分を地獄に落とすことになります」[Iコリ11:29 <英欽定訳>]。――これは、「罪に定められることになります」、とすべきである。それがこの箇所で現に用いられている語だからである。もう一方の語は強烈すぎるため、正しい訳を示さないわけにはいかない。しかし私は、「みからだをわきまえないで」飲み食いするようあなたを招いて、自分を罪に定めさせたいとは思わない。何と、私の知っている未回心の人々は、一年中めったに礼拝所に寄りつきもしないくせに、聖金曜日にはやって来て、彼らのいわゆる「秘跡」を受けようとする。――自分たちの受けるその日をキリストの死を記念するものとして選ぶことで、特に《救い主》を侮辱するのである。というのも、主は決して彼らをご自分の食卓にお招きにならなかったからである。――罪の中に生き、キリスト教信仰のすべてを絶えずないがしろにしながら生き、それからキリストにこのような無礼――行って、自分たちに命じられてもおらず、やって来る権利もないこの神聖な祝宴に図々しく押し入ろうとする所行――を働こうというような者たちなどを。

 おゝ、嘘ではない。もしあなたが《バプテスマ》と《主の晩餐》により頼んでいるとしたら、魔女のまじないか、ホッテントット族の呪文により頼んでいるも同然である。礼典の中にある何物も、それ自体として魂を救うことはできない。あなたが救われているとしたら、そのときには、こうした外的な象徴はあなたに真理を思い出させ、あなたの記憶を助け、あなたの精神をかき立てるであろう。だが、救われていない限り、そうではない。それゆえ、あなたがたは神聖を冒涜しているのである! こうした事がらに触れてはならない。それらは子どもたちのためのものでも、あなたのためのものでもない。――救われている者たちのためのものであり、神に和解させられていないあなたがたのためのものではない。それゆえ、こう云えるであろう。あなたがいわゆる秘跡のもとに来るといったことについて私たちに語るとしても、――「私たちには、あなたを救えない。もし主があなたを救わないとしたら、私たちがそこであなたを救うことはできない」、と。

 しかし、ある人はこう云うであろう。「しかし、私たちは神の《教会》に加入してはいけないのですか?」 たとい回心していなくとも、教会に加入するなら、それで助けになるというのである。私の兄弟たち。私はあなたがたの中の誰も、そのような考えの下にいないことを希望する。おゝ、もし私があなたがたの中の誰かを導いて、そのように思い描かせてきたとしたら、私がこの場で労苦してきたことが、いかに無駄骨折りであったことか! 私はあなたに命じる。もしキリストの友となっていないとしたら、その友たちの間に入り込んだり、虚偽の告白によってその友のひとりであるなどと宣言してはならない。それは「有り余るほどの邪悪さ」である。《人が悪魔に仕えていながら、キリストのしもべであるようなふりをすることに全く弁解の余地はない》からである。人は、偽善者でなくとも十分に即座に地獄落ちになりえる。そうする必要が何かあるだろうか? 神の民に結びつくのは、キリストに結び合わされてからにするがいい。だが、それまではそうしてはならない。

 おそらく、あなたがたの中のある人々は、現に信仰告白をしているが、そうすべきではなかったであろう。私たちは、力を尽くして教会をきよいものに保とうと労しているが、私たちに何ができるだろうか? 《主人》の十二人の間にはユダがいたし、この場にはユダたちがいる。その生活に裏表がある人々、毒々しいほど首尾一貫していない人々が、疑いもなくいるはずである。だが彼らは神の民であると告白しているのである。おゝ、愛する信仰告白者よ。私はあなたに警告したい。最も厳粛かつ真剣にあなたに語りたい。滅びる人々全員の中でも、あなたがた、生きているとされているが実は死んでいる者たち[黙3:1]、また、キリストのしもべであると云いながら、実はキリストの十字架の敵[ピリ3:18]である人たちこそ、最も苛酷な目に遭うはずである。自分が告白している通りの者となるがいい。さもなければ、自分の告白を取り下げるがいい。主に向かって叫んではならない。その恵み深い御名を汚すような信仰告白をしてはならない。あなたはそうした後で自分の生活によってその告白を否定している。しかり。教会に受け入れることによって、あなたを助けることはできない。私たちがあなたを助けられることは何もない。そして、あえて云うが、未回心の人よ。もし私たちが地上の聖徒たち全員を1つの教会会議に召還したなら、彼らはみな、即座にあなたのために祈るであろう。(そして、神もご存知の通り、あなたの魂はそうしたすべてに値している。全教会が1つの魂のために労したとして、その1つの魂をかちとったとしたら、それは十分に報いられるからである)。それでも、主があなたをお助けにならないとしたら、主の民が総掛かりでもあなたを助けられない。天にいる御使いたちであれ、上にいる白い衣を着た群衆であれ、下にいる聖徒たちであれ、ある魂のために何かを行ないたければ、まず神ご自身が干渉し、その罪人の罪を拭い去り、その罪人の性質を更新し、その罪人を導いて、自分から個人的に祈らせなくてはならない。さてこれが、その状況である。

 II. ここから第二に至らされるのは、あらゆる未回心の人に呼びかけて、この事実にその注意を払わせることである。すなわち、彼が神の御手の中にあるという事実である。「主があなたを救われないのなら、どのようにして、私があなたを救うことができようか」。あなたは主の御手の中にある。私の兄弟よ。あなたの手を取って熱心に語らせてほしい。あなたの回心を私は切に願っているが、その回心は私に作り出せることではない。神おひとりがそれを行なわなくてはならないからである。

 私があなたに思い起こさせたいのは、あなたを御手の中に握っているお方は、あなたがこれまで怒らせてきたお方だということである。あなたは神を悲しませてきた。ことによると、若い頃から神に無関心だったかもしれない。悪態をつくために、神の御名を用いてきたかもしれない。神の日は、他のどの日にもまして、あなたがこの世の快楽のために選んできた日であった。あなたは神を怒らせてきたし、神は怒っておられる。これは私の言葉ではない。こう書かれている。「神は悪人に対して、日々、怒られる。悔い改めない者には剣をとぎ、弓を張って、ねらいを定め」る[詩7:11-12 <英欽定訳>]。あなたを御手の中に握っておられる神は、あなたがこれまで怒らせてきた神である。一匹の蛾があなたの指で押さえつけられており、あなたがそれを押しつぶすか否かはあなたの胸三寸であるように、あなたは絶対的に神の御手の中にあり、次の瞬間、神はあなたを地獄送りにできるのである。そして、誰が神に、「あなたは何をするのですか」、と云えようか? あるいは、誰が、そうした神は不正であると云うだろうか?

 次に覚えておくべきことは、あなたは、この神に対して何を要求する権利もない、ということである。神はあなたを造られた。そして、被造物としてあなたは、神があなたを正しく取り扱うことを要求するかもしれない。しかしながら、私は、そうした権利を強く要求するよう助言したいとは思わない。というのも、《あなたの状況において、正義とは破滅を意味する》からである。神が正当にあなたに与えるべきものは、ただ怒りしかない。あなたは神の御手から全く何を受けるにも値していない。では、あなたは全く神の手中にあるのである。――怒れる神の御手の中、あなたが何も要求する権利のないお方の御手の中にあるのである。

 そして、今から云うことをぜひ感じてほしい。――おゝ、もしあなたがそれを感じられるとしたら、それだけで自分の座席から飛び上がるであろう。――《その神は今あなたを眺めており、今あなたの近くにおられる》。あなたの肘は、あなたの座席の隣の人に触れているが、その人よりもあなたの身近に神はおられるのである。あなたは、神の中に生き、動き、また存在している[使17:24]。神はこれからあなたの近くにやって来るのではない。ここにおられる。――たった今あなたの精神の中を飛び交った思念をご存知であり、あなたが有する思念を、あなたが自分のものとする前からご存知である。――あなたがあたかもこの世の唯一の存在であるかのように、また、ご自分の注意を一心にあなたに払っているかのように、神はあなたのことを考えておられる。よろしい。さて、そうしたものが神の全知であり、神は実にあなたをご覧になっている。あなたがご自分の唯一の被造物であるかのように、また、あなたの愚行とあなたの過ちに注目すること以外何もすることがないかのように、あなたをご覧になっている。しかし、おゝ、私がこのように語っている間、このように自分が神の御手の中にいるのを感じているあらゆる人に、こう思い起こさせてほしい。結局、あなたは、それ以上に良い御手の中にいることはできないのである。というのも、神は非常にあわれみ深く、情け深いからである。あなたを押しつぶすことは、神にとって何の楽しみでもないであろう。罪人よ。あなたを呪うことは、あなたの神に何の喜びも与えないであろう。「わたしは誓って言う。――神である主の御告げ。――わたしは決してだれが死ぬのも喜ばない。かえって、彼がわたしに立ち返って、生きることを喜ぶ」*[エゼ18:32; 33:11参照]。これが、あなたに対する神の真情の吐露である。あなたは神の御手の中にあり、それはあわれみの御手なのである。

 そして、あなたにこのことを思い起こさせてほしい。人間には決してできなくとも、神にはあなたを救うことがおできになる。まさにこの瞬間にも、《神はあなたのもろもろの罪を赦すことがおできになる》。そして、あなたに必要な新しい性質を供することがおできになる。また、その新しい性質を完璧なものとし、天国に住むのにふさわしくするためのあらゆるものを供することがおできになる。あなたがいかに罪にのめりこんでいようと、神の御力の届かないところまで行ってはいない。神に難しすぎることはない。「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます」[マタ12:31]。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、羊の毛のようになる」*。「たとい、紅のように赤くても、雪のように白くなる」*[イザ1:18]。そして、そのためのすべてが備えられている。神は不正を行なうことができない以上、あなたのような状況にある者の罪を赦したければ、どこかでご自分の律法の正当性を立証することが必要であった。そして神はそれを行なうために、ご自分の御子を与えて血を流させ、カルバリの十字架上で死なせてくださった。イエスが神の律法について何の問題もないようにしてくださった。神の正義は高められ、今や神のあわれみには何の制限もない。そして神は罪人を扱って、彼らの罪をかすみのように、彼らのそむきの罪を雲のように拭い去る[イザ44:22]ことがおできになる。

 もう一度、サマリヤのことを思い起こしてみてほしい。そこにいたひとりのあわれな女を、王は助けることができなかった。だが、神には彼女を助けることがおできになった。彼女が王と出会った日の、まさに翌朝のサマリヤには、食糧が満ちあふれたあまり、上等の小麦粉が馬鹿安く売られていたからである。それは、まるで神が文字通り天の窓を開き、彼らの食べ物を雨と降り注いでくださったかのように思われた。そこには、それほどふんだんに食糧があった。同じように、あわれな、飢えて死にかけている罪人よ。神には、一瞬にしてあなたを天のパンで満たす力がある。途方もなく豊かなあわれみ、途方もない恵みと愛との蓄えをあなたに与えて、まるで天の窓があなたのために開かれたかと思わせるほどにすることがおできになる。しかり。神はあなたに、サマリヤの人々には決して与えなかったものをお与えになるであろう。――あなたにご自分の御子を与えて、あなたの魂の、いつまでもなくならない永遠のパンとしてくださるであろう。そして、あなたは、脂肪と髄に満ち足りるかのように[詩63:5]満ち足りるであろう。《神にはそれがおできになる》。あなたは神の御手の中にあると私は云う。神はあなたを滅びるままにすることもおできになる。だが、むしろ逆に、神は恵み深い神であり、その御子を与え、あなたに代わって死なせてくださった。神は救うことがおできになるのである。

 さて、もし御霊なる神が、この瞬間にみことばを祝福しておられるとしたら、あなたがたの中のある人々はこう云っているであろう。「だとしたら私は、私をあわれんでくださるように、神に願いましょう」。そうするがいい。愛する方々。――そうするがいい。「家に帰るまで待ってそうしましょう」。否。そうしてはならない! その祈りをそっとささげるがいい。そうなるのなら、それを液体の祈りとして、あなたの目から会衆席にぽたりと落とすがいい。神は、そうした涙のための皮袋[詩56:8]を持っておられる。いま神に願うがいい。云うがいい。「主よ。私はあなたの御手の中にあります。私は、自分で自分を救えないことを知っています。私の同胞たちも私を救うことはできません。ですが、あなたにはおできになります。私は、あなたがご自分の愛する御子を与え、無力で、失われた、滅びた罪人たちのために血を流させてくださったと聞きました。おゝ、神よ。私を憐れんでください! もしそうしてくださるなら、私はそのために、生きる限りあなたをほめたたえます。これは取るに足らないことですが、それしか私にはできないのです。私にそのような価値はありません。主よ。あなたが私を永遠に御前から投げ捨てるとしても、あなたが宣告されるとき、あなたはきよく、罪とお定めになるとき、あなたは正しくあられます[詩51:4参照]。しかし、私をお救いください。あなたの甘やかなあわれみゆえに。そして、私を生かし、死なせないでください!」

 おゝ、魂たち。あなたがたの叫びは無駄にはならない。地の果てからでも、そのような祈りは聞かれる。あなたはやがてヨナのように云うであろう。「私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました」[ヨナ2:2]。願わくは、そのように叫ぶ恵みがあなたに与えられるように。

 III. さて、私の最後の点の助けによって、救いの道はさらに詳しく解き明かされるであろう。1つのことがある。――これが最後の点である。――神があなたをお救いになるという希望のすべてにとって致命的なものとなることが、たった1つだけある。サマリヤの町には、それほど安値で売られた小麦粉によっても得をしなかった者がひとりいた。王に苦情を申し立てたあのあわれな女は、行ってその食糧から自分の分け前を得た。サマリヤの最も薄暗い路地裏にいた赤貧の乞食たちも、よってたかって自分たちの飢えを満たした。そして、人々が触れようともしない、汚れた、不潔ならい病人たちでさえ、天幕の中にもぐり込んでは、さんざんに満腹した[II列7:8]。だが、この町のただひとりの人にとっては、その日が祝福と祝宴の日となる代わりに、葬式の日となった。――ひとりの人――そして、そのひとりの人の物語は、先ほど読んだばかりである。彼は貴族であった。それで、必ずしも失われるのは貧者ばかりではないのである。残念ながら、他のいかなる階級にもまして、貴族たちの中の大きな割合の人々は失われているのではないかと思う。彼は貴族であったが、貴族だからという理由で破滅したのではない。むしろ、それは、彼が不信仰な貴族であったからであった。彼は約束をあざけった。そんなことがあるはずないと云った。あざ笑い、からかい、侮辱した。「もしエホバが天に窓を作られるなら、そんなこともあるだろうよ」*[II列7:2参照]。そうでない限り、ありえないというのである。どこを探しても、その日、この不信仰な男以外の誰かが死んだり飢えたりすることが許されたとは書かれていない。そして、この男は町の門で人々に踏みつぶされて死んだ。

 さて、愛する方々。私が今晩ここに来たのはこう云うためである。私たちは、咎があり、神の御怒りに値している者ではあっても、それでも、《神のあわれみは常に、サマリヤの門にあった食糧よりもずっと豊富である》。この場にいるあらゆる魂は、イエスを信じるなら、その分け前にあずかることができる。その分け前にあずかれない唯一の人は、信じようとしない人である。「信じない者は罪に定められ」[マコ16:16]るからである。もしあなたがたが信じなければ、長く立つことはできない[イザ7:9]。信じるとは、イエスに信頼することである。そして、滅びることになる唯一の人々とは、イエスに信頼することを拒む人々である。主イエスにより頼む人々はみな、自分の欠乏を一杯まで満たされるであろう。

 さて、ぜひとも覚えておいてほしい。私は非常に厳粛にこのことを銘記させたいと思う。死んだこの男は、そのあわれみによる糧食をその目で見たのに、決してそれを味わうことなく死んだ。おゝ、私はそれを熟考することに耐えられない。――この場にいるある人々は、幾度も幾度も安息日に、この《救い主》について、また、罪人たちに代わって受けたその御傷や悲嘆や死について聞いてきたはずだが、その贖罪の犠牲にあずかることが決してないのである。――神の御霊について、また、その新生させ、生かす影響力について聞いているが、決して自分では新しく生まれていないのである。――罪の赦しについて聞いてはいるが、赦されないまま死ぬのである。――人を義と認めるキリストの義について、この上もなく栄光に富むその衣について聞いてはいるが、自らの罪という裸のまま滅びるのである。慄然とするほど恐ろしいのは、パンを目の前にしていながら飢えるという状況である。タンタロスが受けた罰は、耐えがたい苦悶を描き出そうとした古の異教徒の詩人たちによって見事に考え出されたものであった。水が唇までやって来るが、飲もうとすると退いていく。パンは彼の口の間近にあり、木の実は彼の頭上の枝に生っていたが、手を上げてつかもうとする瞬間、風がその枝を吹き流し、永久に飢えと渇きに苦しみ続けるのである。

 おゝ、そのような状態で生きるのはぞっとするようなことであろう。「あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない」[II列7:2]。あなたはイエスについて聞くが、信じようとしないため、イエスを自分のものとすることはない。あなたが死ぬとき、あなたの死にゆく耳に《救い主》の御名が囁かれるだろうが、それでも、その《救い主》によってあなたの良心に慰めが来ることは決してない。彼を拒絶したからである。あなたは来世で目覚めて、この方がその御座に着いているのを見るが、それはただ、この方によって罪に定められるためである。あなたは底知れぬ所から目を上げて、聖徒たちを見るが、ただ見るだけで、彼らの至福にあずかることはない。願わくは、これがあなたの未来の運命を予言した描写になることがないように。願わくはあなたが信じない者とならないように。この男を覚えておくがいい。彼は門の番をしていた。そして人々が――あわれな、空腹の、飢えた人々が――パンを得ようとして殺到した。彼らは、奔流のように外へ走り出し、食べるものを手に入れることができた。だが、そこに彼は立っていた。痩せこけ、やつれ衰えたまま立っており、ついには踏みつけられて死んでしまった。さて、信仰復興の中で無感動のまま生きているのは、悲惨さの極致と思われる。――ひとり、またひとりとイエスのもとにやって来たと聞きながら、自分は行こうとしないのである。こうした座席を眺め渡すとき、私は神をほめたたえ、感謝する。あなたがたの中の、これほど多くの人々がイエスに信頼をかけて救われているからである。だが、もしこの指をさし続けていくとしたら、そこここで、それを止めてこう云わなくてはならないであろう。「あゝ、あそこのひとりは、まだ信じていない!」 そして、この教会ではキリストへの殺到が起こってきた。あわれな罪人たちが群れをなしてキリストへと押し寄せてきた。だが、来ない人々がいた。まことに、彼らはこう云って良いであろう。

   「主よ、われ聞けり、祝福(めぐみ)の雨を
    汝れは代価(かた)なく 広く撒(ま)けりと、
    乾ける大地(つち)も 潤い生きぬ
    垂らせ給えや、滴(しずく)を われに!」

「この、われにさえ」。私は、彼らがこの祈りを今晩ささげてほしいと思う。――「この、われにさえ」、と。他の人々が救われているのを見ながら、自分は失われているというのは悲しいことであろう。

 もう1つのことがある。すなわち、――この男が門の管理をしていたことを思い出すがいい。彼は、町の外に最も近い所にいた。だが、王が彼を門の管理に当たらせたのは、不幸な名誉であった。私が常に感謝するのは、会衆席案内係や、会衆の管理に当たる人々が回心しているときである。確かに、もし彼らがその職に就く前に回心していないとしたら、その後で回心することはないであろう。彼らは、他の人々について考え、彼らをどこに詰め込むか考えることで手一杯だからである! それで、彼らはあまり礼拝式を楽しむことができず、もしそのような職務を引き受ける前に福音をつかんでいなかったとしたら、残念ながら、決してつかむことはないのではないかとしばしば思う。だがしかし、確かに《神の家》回りの仕事をしながら、そこに常にいながら、そして役に立つ者でありながら、――門の管理に当たりながら、自分では食物を得ないというのは、すさまじく恐ろしいことと思われる。たぶんあなたは、しばしばノアの大工たちに何が起こったか考えたことがあるであろう。彼らはノアが箱舟を造るのを手伝った。彼は、疑いもなく彼らに賃金を払った。それで彼らは箱舟を建造した。――頑丈で、きちんとした船となった。おそらく間違いなく彼らの中の何人かは、雨が降ってきて洪水がやって来たとき、大水の中に沈みながら、こう云えたはずである。「私はあの箱舟を造るのを手伝ったが、自分では失われてしまうのだ。私はあの船の水漏れを防ぎ、防水塗装の手伝いをした。獣たちがやって来つつあったときには、飼料を箱舟に運び込む手伝いをした。だが今、私自身は失われてしまうのだ」。あなたは、祈りの家の建築に寄付をしたが、全く祈ってはいない。伝道牧会活動を支える助けはしてきたが、この素晴らしい真理には全くあずかっていない。おゝ、あなたは死ぬであろう。――確かにあなたがたの中のある人々は、こう考えながら死ぬであろう。自分は外的には役に立つ者とされていた。だが、自分の魂をイエスにささげたことが一度もなく、イエスに信頼するよう導かれたことが一度もなかった以上、ノアの職人たちと同じように、この件については何の関係もなく、それにあずかることもできずに[使8:21]滅びるのだ、と。

 おゝ、あなたがた全員が日曜の晩ごとに、この場に集っているのを見るとき、私はこう思い起こして自問する。「《この人々は、一体いつまで、いつまで、キリストから離れていようとするのだろうか?》 いつまで神なく、望みもないままでいようというのだろうか? 福音の中で、何か私が云い落としてきた部分があるだろうか? 私の伝道牧会活動の中で、何か彼らがキリストのもとに行くのを妨げている欠陥があるだろうか? 私は私自身の評判を考えて、自分の言葉を磨き上げ、洗練しようとしてきただろうか?」 いま私は主の前で云える。――もし私があなたを祝福することになる見込みのある、別の説教様式を何か知っているとしたら、――それがいかに洗練されたものであろうと、自分に達することができる限り、それを試みようとするであろう。また、それがいかに粗野なものであろうと、私はそれを恥じはしないであろう。たとい、かつて受けた非難と叱責をもう一度この身に招くことになろうと関係ない。――それであなたの魂をかちとれるとしたら、そうである。なぜ、あなたがたは死のうとするのか?[エゼ18:31] 向こう側の青年よ。なぜあなたは、郷里ではしようともしなかったことを、ロンドンでは行なっているのか? そちら側の若い婦人よ。なぜあなたは、真面目な考えをことごとく振り捨て、愚かさの首にかけた手綱を手放し、破滅へと突き進んでいるのか? そちらの白髪の人よ。なぜあなたは神との平和を得ようとしないのか。なぜ先延ばしになどできるのか? あなたが生きている日数は多くない。だのに、失われたままなのである!

 おゝ、あなたがた全員よ。たとい全世界を得ても、自分の魂を損じたら、何の得があるだろうか?[マコ8:36] 日は暮れてしまった。――それが再び昇る前に《救い主》を求めるがいい。それだけしか行なわなくて良い。――あなたの過ちを、大いなる御父の胸に告白して、云うことである。「私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました」[ルカ15:21]。それから、立って仰ぎ見るがいい。イエスが血を流し、死につつある姿を。《そして、あなたの魂をかけて、イエスを信頼するがいい》。神があなたを助け、そうさせ給わんことを。イエスのゆえに。アーメン、アーメン。

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間違いのない助け[了]


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