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「きょう」の召し

NO. 3160

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1909年9月2日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1873年5月1日、木曜日夜


「ですから、聖霊が言われるとおりです。『きょう、もし御声を聞くならば、……心をかたくなにしてはならない』」。――ヘブ3:7、8


 聖霊は、「きょう」、と云われる。昨日については、非常に多くのことが語られている。ある人々は、過去の「古き良き時代」ほどのものはないと主張しようとする。また、ある人々は、自分が何年か前に行なったことについて鼻高々としている。彼らの働きがなされたのは昨日である。彼らはとうの昔に実社会の務めから引退しているが、なおも過ぎ去った日に行なったことの追憶にふけるのを常としている。昨日が大いに力説されるのは、哀悼のとき、そして、絶望のときでさえある。昨日! 悲しいかな、種々の機会は去ってしまった。「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。それなのに、私たちは救われない」[エレ8:20]。昨日、私たちは罪の中で生きていた。昨日、キリストを拒絶した。昨日、良心を押し殺した。それゆえ、今ではもうおしまいだ。そう絶望は云う。時は過ぎ去った。あわれみの門は永遠に閉ざされてしまった。死刑執行令状は署名されている。絞首台は処刑のために立てられている。

 さて、注目すべきことに、聖霊は、私たちがそこに慰めを見いだすことも、絶望することもないように、「昨日」、と仰せになってはいない。――御霊は、「きょう」、と云われる。御霊は私たちに過去を指摘するのではなく、――(私たちは、過去を眺めて、それについて悔い改めて泣くか、感謝して神をほめたたえなくてはならないが)――御霊が私たちに指摘するのは、《洪水》時代ではなく、きょうなのである。あなたも気づくように、人類の非常に大きな割合は、「明日」という言葉を喜んで大いに力説する。おゝ、彼らが明日に行なわないことが何かあろうか! 罪は明日には拒絶されるであろう。《救い主》は明日には求められるであろう。信仰の腕で抱きしめられた彼らは、明日にはキリストの平安に慰めを見いだすであろう。明日には祈るであろう。明日には神に仕えるであろう。悲しいかな! 魂の狩人としてのサタンが用いるあらゆる網の中でも、ことによると、他の何よりも多くを捕えているのは、この、先延ばしという大網かもしれない。「そのうちにしよう。――そのうちにしよう」。そして、そこで終わってしまうのである。「行きます。おとうさん」、と云ったが、行かなかった[マタ21:29]。決心し、再決心し、それから死んでしまう。同じことが、教会で話を聞いている何千人もの人々の陰惨な経歴についても云える。そうした人々は、天国に向かう見込みが一千回もあったのに、決してそこに入ることがないのである。

 明日! おゝ、明日という呪われた言葉よ! 人はいかにお前を呪われたものとしてきたことか! 私はお前を賢者の暦には見いださない。お前はただ愚者の日読みにしかいない。明日! そのようなものは夢の国にしかない。というのも、私たちが明日と呼んでいるものがやって来るとき、それはきょうとなり、なおも永遠に、きょう、きょう、きょうだからである。存在するのは、今という時間だけである。かつてあった時間は今はなく、来たるべき時間は、いま存在してはいない。

 きょうは、私たちの有する唯一の時間である。私たちにとって幸いなことに、聖霊はこう云われる。「《きょう、もし御声を聞くならば》」。どこを探しても御霊は、「明日」、とは仰せになっていない。そのしもべたちは、しばしばペリクスのように云う人々によってはねつけられてきた。「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう」[使24:25]。また、いかなる使徒もこう云いはしなかった。「明日、悔い改めなさい。さもなければ、おりを見てそのうちに信じなさい」。この一片の時間について聖霊が行なっておられる不変の証言は、――その時間こそあらゆる時間であると私は先に示したが、――こうである。「きょう、もし御声を聞くならば、……心をかたくなにしてはならない」。

 さて、私は今晩、説教しているのでは全くないように語ろうと思う。むしろ、まず、あなたがた、キリスト者たちに向かって最初に話をし、それから、あなたがた、回心していない人たちに向かって、非常に深刻な話をしたい。願わくは神の御霊がこの言葉を通して語ってくださるように。

 最初に、あなたがた、主を愛しているか、愛していると告白している人たち。――キリスト者である人たち。私はあなたに今晩こう云わなくてはならない。――《聖霊は、「きょう」、と云っておられる》。つまり、義務にとって必須のことは、ただちに取りかかるということだということである。キリストのあらゆる命令には、きょうという日付が記入されている。もしあることが正しいとしたら、それは即座に行なわれるべきである。もしあることが間違っているとしたら、ただちにやめるがいい。あなたが何をなすべきであろうと、それはいま行なうべきである。もう少し後になってからの義務がいくつかあるかもしれないが、現在において義務であるものこそ、今の義務である。キリストの種々の召しには即時性が伴っている。主があなたに行なうよう命じておられることを、ぐずぐずと行なわないでいてはならない。聖霊は、「きょう」、と云われる。そして、私はこのことをあらゆることについて云いたい。あなたは主を愛しているだろうか? 主の御名を一度でも告白したことがあるだろうか? ならば、聖霊は、「きょう」、と云われる。主の十字架をただちに取り上げ、主について行くことをためらってはならない。――それは、あなたのために十字架に釘づけられたお方の十字架なのである。このお方は、その尊い血によってあなたをあなた自身のものではなく、ご自分のものとされたのである。この方を人々の前で告白するがいい。この方は云っておられないだろうか? 「わたしを人の前で知らないと言う者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います!」*[マタ10:33; ルカ12:9] あなたの心で信じたというのであれば、あなたの口で告白するがいい[ロマ10:10]。

 バプテスマを受けることは、信仰者が即刻行なうべき義務である。「あなたがキリストを信じるなら、すぐにそうして良いのです」[使8:37参照]。「きょう」、と聖霊は云われる。すでに神の民に結びついているとしたら、あなたの立場や召しに従って、自分の義務として迫られていることを、何であれ行なうがいい。あなたは、若いキリスト者で、暖かく、熱烈な霊をしており、あなたの年長者たちは、あなたを厚かましいと云い、あなたの熱心に水を注そうとしているだろうか? 彼らに耳を貸してはならない。行って、あなたの心にあることを行なうがいい。私は、ある人の熱心さが、その人を何かしら軽率にさせないとしたら、そうした熱心をまるで評価したいとは思わない。軽率さは罪であるどころか、しばしば最も高い恵みを所有しているしるしである。否。ダビデよ。いかに軽率であっても、川からなめらかな石を取るがいい[Iサム17:40]。自分が王になるまで、あるいは、ソロモンに王冠を譲り渡す寸前の白髪の君主になるまで待っていてはならない。紅顔の若者であるうちに、ためらってはならない。聖霊は、「きょう」、と云われる。あるいは、あなたは中年になってから召されただろうか? あなたの太陽はすでにその一日の半分を費やしてしまった。あなたには、自分の子どもたちの回心を求めるべきであると示されているだろうか? これほど長くないがしろにされてきたあなたの小さい者たちがいま救われるように、すぐさま嘆願するがいい。聖霊は、子どもを持つあなたがた、父たち母たちに向かって云っておられる。――「きょう」、と。あなたの回りには大勢の職工たちがいて、その親方であるあなたには、彼らに善を施そうという気持ちがあるだろうか? それを、きょう行なうことにするがいい。あなたは内心、これこれの財を集めた後なら神に仕えようと考えているだろうか? 何と! 神が二の次になって良いだろうか? 富が第一の地位を占め、エホバが背景に押し込められて良いだろうか? 否。あなたの黄金は第二位にするか、全くなしとするがいい。あなたの神をいま第一にするがいい。聖霊は、「きょう」、と云われる。「しかし、あれこれ火急のことが押し迫っているのです」。もしそれらを義務だと主張できるなら、それを無視せよなどと決して私は命じない。だが、もしそれらが貪欲な、肉欲に関わるものだとしたら、それを脇へやり、今のあなたに――働き盛りで、骨に髄が満ち、目もかすんでいないあなたに――神が請求しておられるものをきょうおささげするがいい。

 あなたは路上に長居していただろうか? そして、晩がやって来て、日はほとんど地平線に触れんばかりになり、夕焼けの光が空に輝いているだろうか? ならば、聖霊はあなたに云っておられる。「おゝ、年老いたキリスト者よ。きょう神に仕えるがいい」。私は老年になってからの先延ばしを理解できない。だが、まことにしばしばそれに出会う。かつて、ひとりの老人が自分の全財産を神の教会にささげようと意図していたが、それを後回しにしたあげく、それは決してなされなかった。別の人は、自分の子どもたちに向かって語るつもりだった。ある特定の日に彼らを集めよう、そして、彼らに、また、彼らの子どもたちに話をしようと思っていた。もはや自分が老人になってしまっていたからである。だが彼は、間もなくそのうちにそうすることにしようと云った。そして、その時は決してやって来なかった。「あなたの手もとにあるなすべきことはみな」、――聖書は何と云っているだろうか? それについて考えていなさい? 否。――「しなさい」[伝9:10]。あなたの最初にして最上の思念を神にささげるがいい。多くの人々は、1つの良いことを何度も何度も考え直しているうちに、悪魔が別の考えを持って来て、そのことが決してなされないでしまう。私は、マグダラのマリヤ、あるいは、[ベタニヤの]マリヤが――そのどちらであれ――あの石膏のつぼ[マタ26:7]を割ることにしたのは非常にほむべきことだと思う。彼女はじっと座ってあれこれ計算したりしていなかった。さもなければ、そのことは行なわれなかったであろう。そして、このことは特に老人に差し迫ったことである。あなたが無分別の罪を犯すことはありそうにもない。あなたは血気盛んではない。それゆえ、自分の熱心の背中に手綱を当てて良い。あなたが情熱ゆえに先走りすることはありそうもない。それゆえ、私は切に願う。今すぐ出かけてほしい。おゝ、私は、キリスト者たちが聖霊の種々の促しに従うのを常としていてほしいと願う。思い出すがいい。御霊が私たちにお与えになる多くの事がらは、私たちが全く受ける価値などないものであるか、受け取っても私たちが実行に移していないものであることを。あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押えなければならない[詩32:9]。おゝ、もっと優しい手段で、ずっと柔らかな神の御手の一触れで導かれるようにするがいい。聖霊は、「きょう」、と云っておられる。いかなるキリスト教的な奉仕が心に浮かんだとしても、キリスト者の兄弟よ。あなたに促させてほしい。夜が過ぎ去る前に、あるいは、明日が暮れる前に、そのすべてを達成しておくがいい、と。やり抜くがいい。愛する兄弟。ただちにやり抜くがいい。主は、義務が最もご自分に受け入れられる時がいつであるか知っておられる。主は、もぎたての果実を愛される。あなたは、旬が過ぎ去るまでそれを蓄えておき、その後で、「これは明日持っていこう」、と云うべきではない。聖霊は、「きょう」、と云われる。《主のためになすべきことが何かあるなら、それはきょう行なうがいい》

 それから、キリスト者に要求される二番目の種類の責務がある。すなわち、何かをやめることである。さて、《聖霊は、「きょう」、と云っておられる》。私は、自分の隣人に何か罪を犯していただろうか? 意地悪な言葉を語っただろうか? 不公平なことを云っただろうか? その友と和解しようではないか。だが、いつだろうか? 「日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません」[エペ4:26]。先日聞いた話だが、雀蜂が何かを刺したとき、日の暮れる前にその雀蜂が死ねば、その刺し傷は癒えるという。そして、たぶん私たちはみな、めいめいが何らかの悪習慣を有しているであろう。自分を正当化できないものを持っているであろう。それが取り除かれるように努めようではないか。というのも、「きょう」、と「聖霊が言われる」からである。打ち勝つべき罪が何かあるだろうか? 罪を殺すべき時として、きょうにまさるものはない。あなたは、今にまさってこのアマレク人を殺すことはないであろう。いま彼を殺すことにすれば、彼は警戒を怠っているであろう。《ならば、それが何であれ、即座にその罪を打ち殺すがいい》。魂という庭の雑草を始末する時として、きょうにまさるものはない。有害な毒で満たされた畑に塩をまく時として、今にまさるものはない。だんだんに罪を取り除くことができるなどと想像してはならない。私の知っているある人々は、強い酒を好むことからだんだんに癒されていった。そうしたこともありえる。だが、キリスト者は、聖く完全に断ち切ることによって、罪深いことをみな即座に捨てる方がずっと容易であることに気づくであろう。というのも、あなたが敵と交渉を続けている限り、その敵はなおもあなたに力を及ぼすだろうからである。そして、幸いなのは、自分の右の手から一本、また一本と指を取り除こうとし始める人ではなく、斧を取り上げては、一度に右の手全部を断ち落とす人である。「もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい」[マタ5:30]。ある人々は、これで十分だと考える。――「もし、右の手があなたをつまずかせるなら、その爪を切りなさい」。そうではない。おゝ、しかり。行なうことについても、やめることについても、聖霊は、「きょう」、と云っておられる。

 しかし、語るべきことがたくさんあるところで長々ととどまってはいられない。思い出すがいい。キリスト者である愛する方々。ある種の義務は、《きょう行なわなければ、決してこの先、行なうことはないであろう》。少し前に、ひとりのキリスト者の男性を訪問したところ、彼は非常に悲しげに見えた。彼は真面目な精神の人で、常に善を施そうと努めていた。それで、私は彼が悲しい顔つきをしていることに驚いたのである。だが、彼は云った。「愛する先生。私は今朝、非常に悲しいことに出会ったのです。このあたりに、ご用聞きをしている男がいるのですが、私は彼に目を留めていて、彼の魂について非常な重荷を感じていました。それで昨日、彼が店に入ってきたら話しかけようと決心していたのです。出会ったどんな人にでも話をするのは私の習慣ですから。さて、私は何と云って弁解できるか分かりませんが、この男がいつものようにご用聞きでやって来たとき、私は忙しくしていて、そうするつもりだったように話しかけることができなかったのです。私は、それを今朝しようと思いました。すると、彼の細君がやって来て、彼が死んだというのです。私は自分を赦すことができません。もう彼のためにしてやれることは何もないのです。私は、彼の血の責任を負い続けるような気分がしています」。

 あなたが今晩一緒に過ごす人は、もしあなたが今夜警告しないとしたら、二度と警告を受けられない人かも分からない。その人は、二度とイエスのもとに来るよう招かれることがないかも分からない。そして、もしあなたが明日、あなたの友人が突然倒れて死んだと聞くとしたら、また、その人が未回心の人であったとしたら、あなたは、自分が語らなかったことについて、何がしかの悔いと呵責を感じるであろう。今、今、である。なぜなら、「でなければ、二度と機会がない」からである。もしそれが、「今、さもなければ、明日」でよければ、遅れることにも何らかの理由があるであろうが、そうではない。それは、でなければ、二度と機会がない。それゆえ、私はあなたに願う。兄弟たち(そして、私は、あなたに対するよりもずっと大きく私自身に向かって語っている)。時が良くても悪くてもしっかりやるがいい[IIテモ4:2]。おゝ、暗闇の中に住んでいて、私たちの甘やかな主イエスを知らない、あのあわれな魂たちをあわれむがいい。「あなたがたは、世界の光です」[マタ5:14]。光を与えることを延期してはならない。彼らを助けることのできない夜が彼らに訪れるといけないからである。

 やはり注意するがいい。《たとい私たちがキリスト教の奉仕を明日行なおうと意図して、それを忠実に、また、首尾良く果たすとしても、やはり私たちは罪を犯す》。何隻かの汽船は、女王陛下の郵便物を運ぶ契約を結んでおり、これこれの時間にリヴァプールを出港し、かなり後になってから紐育に到着しなくてはならない。かりに、そうした船が六時間遅れて出港した場合、たとい可能な限り最上の航海をしたとしても、契約を破ることになるのである。そして、明日なされる行動が、きょう行なわれているべきものであったとしたら、それ自体がどれほど受け入れられるものであったかに関わりなく、それは欠陥あるものとなるであろう。それは季節外れの果実であり、期限切れなのである。もし私がきょう行なうべきことを明日まで行なえなかったとしたら、明日の種々の義務を行なえないであろう。私は木曜日の仕事を金曜日に持ち込むことは到底できない。他の人から助けてもらえないだろうか。それはできるが、私は、私の友人の行なう奉仕を私の《主人》から奪い取ることになる。私には、きょう行なわない限り、永遠の中にあっても決して行なうことのできない働きがある。永遠をことごとく費やしても、失われた時の埋め合わせをすることは決してできない。その時の働きは消え失せてしまい、二度と行なえない。永遠のあわれみは、その罪を拭い去ることができるし、神はほむべきかな、実際に拭い去るであろう。だが、それにも関わらず、事実は残る。それゆえ、聖霊は、「きょう」、と云われるのである。きょうの働きは、きょう行なうべきであり、それゆえ、それを行なおうではないか。

 というのも、愛する方々。神への奉仕に関しては、次のように云われているからである。《義務を先送りすれば、心がかたくなになりがちである》。あなたは、種々の義務をないがしろにすることに慣れ始めている。そして、精神にとって何にもまして有害なのは、罪に慣れることである。罪に馴染むのは、罪深い者となることである。私は、ある義務を繰り延べするとき、その義務をないがしろにすることに馴染んでしまう。いったい何回、ある人は、――(私は、できるものならあなたに謎をかけてみようと思う。おそらく、あなたはそれを思い起こすであろう。)――ある人が、ある時間内になすべき種々の義務を果たさないでいるとき、その一時間のうちにいったい何回罪を犯すだろうか? そこには、最初の一分のうちに犯された、不作為の行為が1つある。その人はそれを即座に行なうべきだったからである。毎分ごとに、あるいは、時計の針がチクタクいうたびに罪が犯されるだろうか? このことについては、あなたに考えてほしいと思う。一時間のあいだ義務をないがしろすることの中に、どれだけ多くの罪がひしめくことになるか、私たちには分からないと思われる。そして、ある人々は種々の義務を一週間ないがしろにしてきたのである。一週間、神に背いてきたのである。あなたは、あなたの子どもがそのようなしかたで罪を犯すのを見たことがあるだろうか? あなたは云った。「ジョン、玄関まで行きなさい!」 その子は、意地っ張りな子で行くことをせず、じっと立ったままだろうか? あなたは、もう一度云う。「ジョン、玄関まで行きなさい!」 それでもその子は行こうとしない。どれだけ長くあなたはその子を立たせておくだろうかと思う。私の知っているある人々なら、五分とその子に手を上げずにいられないであろう。そして、ことによると、その子はそんなに長く立っていない方が良いかもしれない。

 しかし、今、神はその御手をあなたたち、何人かの信仰告白者たちから遠ざけておられる。あなたが、自分でもなすべきであったと分かっていることを、一週間、また、一年ずっと放っておいていてもである。そして、その間ずっと、神のことばはあなたに云っている。「きょう、もし御声を聞くならば、……御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」。しかし、なおもあなたは主を試み続け、ためそうとしている。あたかも、主がそのあわれみの風によって、御手を離しているかのようにである。これ以上、御怒りを引き起こしてはならない。むしろ、行って云うがいい。「私はあまりにも遅くなりすぎました。いま、父よ。私はあなたが命じておられることを行ないます。あなたの恵みによってお助けください。私がこれ以上不従順な子どもでいないように」、と。遅れてはならない。すでにあまりにも長く主の御怒りを引き起こしてきたからである。私はしばしば神がこれほどひどく試みられていることを申し訳なく思ってきた。神があれほど良くしてこられた、その子どもたちが、これほど情けないお返ししかしてないと考えるとそうである。私たちの愛する天の御父を思いやり、こう云おうではないか。「もうこれ以上は神を悲しませまい」、と。

 私があなたに云いたいことがもう1つある。愛するキリスト者たち。私はきょう、この件について非常に力強く云い表わしてきたが、私にはそうする権威があると感じていた。なぜなら、この聖句がそう云い表わしているからである。《聖霊は、「きょう」、と云われる》聖霊である! ここには、深く厳粛なものがまとわりついている。聖霊である! それは、《神格の神聖な位格》であられ、私たちの見いだすところ、このお方に逆らう罪こそ、決して赦されない罪となるのである[マタ12:31]。その罪に少しでも近寄りたくなければ、神の聖霊を悲しませてはならない[エペ4:30]。いかなる罪に関しても、非常に鋭敏であるがいい。何もまして、この罪に関しては鋭敏であるがいい。聖霊がいかにあなたを愛しておられるか思い出すがいい。――いかにあなたを愛しておられることか! イエス・キリストは人々を愛するあまり、彼らの間にやって来て、そこで生きてくださった。そして、聖霊は人々を愛するあまり、彼らのうちにやって来て、そこで生きておられる。どちらの方が、より称賛すべきへりくだりだろうかと思う。――御子の受肉と、聖霊の内住のどちらだろうか? それらは両者ともに天来のあわれみと恵みに満ちている。ならば、聖霊を悲しませてはならない。――御霊はあなたの《慰め主》である。――御霊はあなたの《慰め主》なのである! そして、あなたが悩ませてきたお方は、あなたのうちに宿っていて、これからもあなたとともにおられるのである。人間の心がもてなすことのできる賓客の中でも、これほど神聖なお方はいない。御霊に抵抗してはならない。いま、御霊に屈するがいい。というのも、それこそ御霊が強調しておられる、当の点だからである。聖霊は、「きょう」、と云われる。さて、私は自分自身の中でこう云ってきた。(そして、それを実行する助けを神に祈るものであるが)私はより多くの恵みを求めて真剣に努力しよう。そして、いま自分にできる善は何でも行なうよう努めよう。愛する兄弟たち。それを単なる決心にすることなく、実践しようではないか。というのも、聖霊は、「きょう」、と云っておられるからである。

 さて、これから私は、あなたがた、キリスト者たちから目を離し、未回心の人々に向かって話をしようと思う。そして、祈るものである。語られることが彼らの心の中に入って行くようにと。《あなたがた、未回心の罪人たちに対して、聖霊は、「きょう」、と云っておられる》。私は、ある兄弟に向かって、なぜある特定の機会に出席していなかったのか尋ねた。彼は云った。「招かれたことが一度もないからです」。残念ながら、何人かの罪人たちがキリストのもとに来ないのは、招かれたことがないからではないかと思う。だが、この建物に常々来ている、いかなる罪人についても、それが当てはまらないことを私は知っている。私の信ずるところ、キリスト教の教役者たちは、招きのほか全く何も説教しなくとも良いであろう。いずれにせよ、悪くはないであろう。神の民の中でも、先に進んだ人々に対しては、もっと多くのことを説教すべきだが、それでもある人々は一生の間、人々をキリストのもとに来るよう招き続けており、彼らがそのあらゆる時をそのことに費やしていることは悪くないと私は思う。

 さて、その招きの主眼はここにある。――「私の家で夕食しに来ませんか?」、と誰かが云うとしよう。よろしい。もしその人がそれしか云わないとしたら、私は行かない。だが、もしその人が、「五時半に夕食にしますよ」、と云うとしたら、その人は何時かを私に示しており、私がいつ訪ねれば良いかを告げていることになる。あなたも知る通り、ある人が、「こちらにおいでの際には、お立ち寄りくだされば嬉しく存じます」、と云うとき、あなたは決して訪問などしないであろう。だが、もしある人が、「これこれの時間にあなたにいらしていただければ嬉しいですよ」、と云うとしたら、その人が招待してくれているのだと理解できる。そして、いま、聖霊は、この招きに1つの時間を添えておられる。私は明日招かれているのではない。この5月1日、――この甘やかな五月祭の日に、――聖霊は私にこう云っておられるのである。「キリストのもとに、きょう来なさい」。そして、今晩、御霊は、私のこの唇を通してあなたに云っておられるのである。「きょう、今まさに、来るがいい。求めるがいい。そして、見いだすがいい。イエスの中で、あらゆる善が1つに合わされていることを」、と。「地の果てのすべての者よ。主を仰ぎ見て救われよ」*[イザ45:22]。時は定められており、その時は、きょうと定められているのである。

 なぜ御霊はきょうと定めたのだろうか? よろしい。最初に、そこには御霊のあわれみが伴っているからである。かりに、御霊が、「明日」、と仰せになったとしよう。あなたを苦い胆汁[使8:23]の中に一晩中とどめておくのは、不親切であったろう。あなたは、みじめな世を過ごし、「私は、こんな夜を生き抜けない」、と云っていたことであろう。自分が罪に定められている間は、キリスト者である人々にやって来てもらい、自分の傍らに座って、自分が明日の朝に至れるように、祈りをともにしてくれるよう欲したであろう。しかし、御霊は、あなたが十七歳になるまで待たなくてはならない、と云ってはおられない。あるいは、向こう側にいるあなたに向かって、三十歳になるまで待たなくてはならない、と云ってはおられない。おゝ、否。御霊は、「きょう」、と云われる。それから、御霊が、「きょう」、と云われるのは、知恵によってである。なぜなら、主をただちに求めることは知恵だからである。そうでないとしたら、いのちの糸がぷつりと切れるかもしれないであろう。あなたは、私たちのいのちが、いかに硝子よりもはるかにもろいものであるか、一度も注意したことがないだろうか? 私は、三、四百年前の薄いヴェネチア硝子を見たことがある。だが、それだけ年をとった人を一度も見たことがない。私たちは、はかない存在である。一瞬触れられれば、ちりとなる。それゆえ、聖霊はそれを浅はかにも引き延ばすことなく、「きょう」、と云われるのである。

 聖霊がそうなさるのは、そのあわれみと知恵に加えて、聖潔に対する愛からでもある。御霊は、もし私たちが罪の時を愛することを見逃すとしたら、私たちの罪にあずかることとなるであろう。御霊はそのようなことを決してなさらない。もし私が一週間、罪のうちにとどまることを神から許されるとしたら、神は私の罪にあずかることとなるであろう。しかし、神は、いま泉に逃れ来るよう私たちに命じておられる。愛に満ちて、だがしかし、ある種の厳格さをもって、神は私に、来よ!、と命じておられる。「きょう、もし御声を聞くならば」、あなたの罪を捨て、隠れ場を求めて逃れ来るがいい。

 神が、「きょう」、と云い表わしておられる理由となる、神の他の属性に言及することもできるであろうが、そうはすまい。もしあなたが、ここまで私の述べてきたことに少しでも心動かされているとしたら(そして私は、そうであってほしいと望んでいるが)、こう云ってはならない。「よろしい。私の魂について考えることを決心しよう」、と。私の注目してきた非常に多くの人々は、こう感じていた。「結局、私は善良な人間だ。――私は素晴らしい決心をしてきたではないだろうか」。私が、商売の世界で見てきた、頭の天辺まで借金まみれになっている人々と全く同じである。そうした人々は、金融組合に行くか、取引銀行でちょっとした金を工面するか、あるいは、ことによると、それと大差ないようなことを行なって、全く資金を稼ぐことをせずに、金融手形を切っては、こう云うのである。「よろしい。彼への支払いは終わった!」 一銭も支払いをせず、単に一片の紙切れを渡しただけでそう云うのである。彼らは素晴らしく気楽にそうして行く。なぜなら、これこれの時間に支払うと記された紙切れを渡したからである。だが、彼らは、自分がそうするつもりなど全くないことを百も承知なのである。種々の決心は、人が神に与える金融手形であり、そこからは全く何も出てこない。私は時々、商売には何の「書類」もなければ良いのにと思うし、確かにキリスト教信仰に何の「決心」もないことを望んでいる。悔い改めようという決心は、人を地獄に落とすことがありえるが、信仰は人を救うであろう。キリストを信じようという決心は、単に良心の声をふさぐためだけのものでありえるが、信仰は救うであろう。あなたの種々の決心は、全く何の役にも立たない。――空手形も同然である。そうしたものは、考える価値もない。おゝ、心の実際的な従順がキリストにささげられればどんなに良いことか。聖霊は、「きょう」、と云っておられるからである。

 もうしばしの間、あなたに語らせてほしい。実際、聖霊が、「きょう」、と云われるのは、非常に甘やかなことと思われる。あなたは、もしも私があなたの立場にあり、あなたが私の立場にあったとしたら、私が何をするか分かるだろうか? 私が主を求めていたときのことを思い起こすと、私は、何箇月も暗闇の中にいた後で光を得られるものと希望した。そして、事は私の希望通りになった。さて、もし私がもう一度主を求めなくてはならなくなったとしたら、私は行って、こう云うであろう。「主よ。あなたは、『きょう』、と云っておられます。見てください! 私はあなたをきょう求めます。では、私が『きょう』と云っているのに、あなたが『明日』と仰せになって良いでしょうか? 愛する《救い主》よ。私はあなたをきょう信頼します。きょう、私の良心に平和を告げてください。きょう、血の注ぎかけを適用し、私の霊を安らがせてください」。私があなただとしたら、このように訴えるであろう。というのも、もしある人が大宴会を催して、貧者たちに向かって、「きょう来なさい」、と云うとしたら、その貧者たちは明日、震えながらその席に着き、食べ物を得ようとは期待しないだろうからである。むしろ、彼らは云うであろう。「私たちが招かれたのは、きょうなのだ。きょう食物があるのだ」、と。そのように、罪人よ。もしあなたが主のもとに行き、こう云うとしよう。「私の主、私の《父》よ。あなたは私をきょう招かれました。それゆえ、きょう私は、私に対するあなたの愛を感じています。そして、私はきょうあなたに祈ります。私のもろもろの罪を、東が西から遠いように引き離してください」、と。――その場合、神はご自分のことばをお守りになるであろう。そして、あなたはすみやかな安息を見いだすであろう。

 おゝ、あなたがたの中のある人々は、《神なしに十分長く生きてきた》。あなたがたの中のある人々は、神なしに五十年生きてきた。罪に定められるには十分長い人生である。おゝ、あなたは回心したくないと思っている。あなたの主に全く何も奉仕したくない、あるいは、自分の人生のほんの数か月しか主に与えたくないと思っている。私は切に願う。このことを考えてみてほしい。――あなたは、過ぎ去った長い時に、肉がしたいと思っていることを十分に行ない[Iペテ4:3]、残された時間は僅かしかない。あなたは、自分がいかにすみやかに死ぬか分かっているだろうか? この場に、自分がもう一年生きられると確かに云える人がいるだろうか? 次の除夜礼拝で行く年来る年を見守るとき、あなたはここにいるだろうか? それとも、どこにいるだろうか? 聖霊は、「きょう」、と云っておられる。もしあなたがキリストから離れたままであり続けるとしたら、過ぎ去っていく一時間ごとに、あなたはかたくなになっているのである。神があなたとお会いになる見込みは少なくなりつつある。あまりにも多くの機会が空費されてしまったし、あまりにも多くの訴えが投げ捨てられてしまった。おゝ、話をお聞きの愛する方々。もし神が人をこの演壇に立たせて、「わたしは、誰があなたの使信を拒絶し、最終的に滅びることになるかを教えてあげよう」、と仰せになるようなことがあるとしたら、私はこう云うであろう。「善なる御霊よ。私にそのようなことを告げないでください! その秘密をお隠しください! 私はそれを知りたくありません」。あなたがたの中のある人々の顔をのぞき込んで、こう考えるとしたら、私は心が張り裂けてしまうと思う。「あの人は地獄にいて、苦悶することになるのだ。そして、自分の舌を冷やす水一滴[ルカ16:24]を求めることになるのだ」。私は、そうなると感じることに耐えられないであろう。だがしかし、間違いなしに、あなたがたの中のある人々がそうなると確信している。おゝ、私はこう感じて愕然としている。いかに多くの魂がこのタバナクルにやって来ても(そして、あなたがたの中のある人々は常日頃からこの場にいるが)祝福を受けずにいることか。私は今晩祈るものである。私たちの中のある者らが祝福を受けられるように、と。

 本日の午後、ある事件が起こった。ひとりの老教役者が――それは非常に素晴らしい人だったが――私の牧師室にやって来て、私と握手を交わすと、こう云ったのである。「私は、あなたに見ていただきたいと思ってこの手紙を持ってきました」。よろしい。そのとき私は気を遣わなくてはならない数多くのことがあったが、彼があまりにも熱心に、「あなたは、ぜひともその内容を知りたいと思いますよ」、と云ったため、その手紙を手に取った。私がそれを読む前に、彼が私に説明してくれたところ、彼にはひとりの息子があり、かつてはキリスト教信仰を告白していたが、後に道をそれてしまい、彼の心はほとんど張り裂けそうになったという。結局、息子は米国に渡ることになり、父親は非常に重い心をいだいて見送りに行った。老人は自分の眼鏡を引っ張り出した。その手紙は、彼の息子からのもので、こう書いてあった。「ぼくは、スポルジョン氏の話を聞きに行きました。そして、それがぼくの全生涯に影響を与えたことを、つゆほども疑っていません。その主題聖句は、『彼は……砂漠の地から出る根のように育った』[イザ53:2]でした。今でもその説教はまざまざと思い出すことができます。ぼくはそのとき非常な苦悩を覚えていました。最も長く続いた点の中で氏はこう云ったのです。神はキリストを根のように、すなわち、砂漠の地から出る根のように育つようにされた、と。氏は二十五分間話し続けました」。――(それから、彼は私の様式について1つの意見を述べたが、そのことは読まずにおこう)――「ですが、ぼくを最も驚かせたのは、五、六千人もいる中で、氏がその目をぼくに据えたことです。ぼくが一番遠い桟敷席にいたにもかかわらずです」。――(このバプテスト派の教役者の息子である、この若者の名前はトマス某と云ったが)、――「突如、氏は大音声でこう云ったのです。『そこには、手の施しようのない、向こう見ずのトムがいる。神は彼を救おうと意図しておられる。そして、彼は、老年の父親にとって慰めとなるであろう』、と」。この老紳士は、そこまで来ると自分の眼鏡を再びはずして、こう云った。「そして、本当にそうなったのですよ」。それから手紙はこう続いた。「ぼくは、氏がぼくの名前を云うのかと思いました」。彼は、人々が彼の名前をトムだと考えたらどうしようかと思って震えた。よろしい。この若者について考えたとき私の心は励まされた。そして、私は、今晩もあなたがたの中のある人々に、頂門の一針を与えたいものだと思った。いま私は祈るものである。あなたの心に、それが真っ直ぐに突き立つように、と。

 そして、今、この5月1日、もしあなたが今晩、神と出会うとしたら、もしあなたが今晩祈って、イエスを信ずるとしたら、きょうはあなたの霊的な誕生日となるであろう。あなたは、信仰者たちがバプテスマを受けた夜のこと、また、キリストがあなたとお会いになった夜のことを思い起こすであろう。今では二十三年前になると思うが、ほんの一、二時間しか違わずに、私もまた、ほんの少年ではあったがキリストを告白し、5月の一日にバプテスマを授けられたのである。そして、私はこの説教のしめくくりにこう云いたい。もしキリストが悪い主人だったとしたら、私は彼のもとから逃亡していたことであろう。また、もし彼がその約束を守らなかったとしたら、私はいま彼を信じてはいないであろう。だが、主は良い主人であり、愛する《救い主》であられた。二十四年間について、私はキリストの善良さと愛について真剣に証言することができると思う。あなたも主を知ったなら、主から離れて一分も生きられなくなるであろう。「あゝ」、とあなたは云うであろう。――「主が私などを受け入れてくださるでしょうか?」 あなたは主を受け入れたいと思うだろうか? それが肝心な点である。あなたはキリストに対して何もせがむ必要はない。キリストは罪人たちを愛された。罪人たちのために死なれた。「御子を信じる者は、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つ」*[ヨハ3:16]。

 《聖霊は、「きょう」、と云っておられる》。あなたも、きょう、と云うだろうか? アーメン、アーメン。

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「きょう」の召し[了]


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