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その主によって獄中で元気づけられるパウロ

NO. 3153

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1909年7月15日、木曜日発行の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「論争がますます激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと心配し、兵隊に、下に降りて行って、パウロを彼らの中から力ずくで引き出し、兵営に連れて来るように命じた。その夜、主がパウロのそばに立って、『勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。』と言われた。夜が明けると、ユダヤ人たちは徒党を組み、パウロを殺してしまうまでは飲み食いしないと誓い合った。この陰謀に加わった者は、四十人以上であった」。――使23:10-13


 パウロに対する主の真夜中の囁きから、私たちは甘やかな励ましを引き出すことができる。主のみわざに携わっており、その中で苦しむよう召されている主の子どもたちには、ここに特別な慰藉の言葉があるのである。

 パウロは大騒動に巻き込まれ、激怒する群衆から、この千人隊長によって危うい所で救い出された。さもないと、パウロが引き裂かれてしまうと彼は見てとったからである。パウロは、私たち普通の人間と同じく木石ではなく、それゆえ、落胆する傾向もあった。最初は彼も平静を保っていた。だがそれでも、その日の激しい興奮は疑いもなく彼の精神に影響を及ぼしていたし、ひとり独房で横たわり、自分を取り巻いていた幾多の危険について考えたときには、明確に元気づけられる必要があった。そして、それを彼は受けた。いかに勇敢な人も、戦闘後には精神が沈み込むことがあるであろう。ことによると、この使徒もそうであったかもしれない。

 I. この箇所で私たちが注意したいのは、地下牢の中にいたパウロのもとにやって来た最上の元気づけである。これは、まず、《彼の主人の臨在》からなっていた。「主がパウロのそばに立って」。

 たとい他のすべてが彼を見捨てたとしても、イエスさえともにおられたなら十分であった。たとい他のあらゆる者が彼を蔑んだとしても、イエスの微笑みさえあれば十分な引き立てであった。たとい良い働きの進展が危殆に瀕しているように思われても、彼の《主人》の臨在において勝利は確実であった。十字架で彼の代理に立たれた主は、今は獄中で彼のそばに立たれた。かつては天から彼に語りかけられた主、ご自分の血で彼を洗われた主、ご自分のしもべとなるよう彼を任命された主、労役の際にも試練の際にも彼をしばしば支えてくださった主が、今は彼をその寂しい独房に訪ねて来られた。それは地下牢ではあったが、主がそこにおられた。暗くはあったが、主の栄光がそこを天そのものの光輝で照らしておられた。主とともに刑務所に入っている方が、主のおられない天国にいるよりもましである。天上にいくら立琴があっても、イエスがおられなければ天の所にはならない。だが、イエスがそこにおられれば、がたつく枷も、冷えきった石造りの独房の敷石も、悲しみを吹き込むことはできないであろう。

 「主がパウロのそばに立って」。このことは、勤勉に神に仕えている人々ひとりひとりについて云われるはずである。愛する方々。もしあなたが主イエス・キリストのための働き人であるとしたら、嘘ではない。主はあなたをお見捨てにならないであろう。もし、あなたが労苦する過程で、悲しみと抑鬱の中に引き込まれることがあるとしたら、あなたはそのとき、主があなたのそばに立っておられることが、甘やかな真実であることに気づくはずである。あなたは、あなたのために尽力してくれている友人を一度でも捨てたことがあるだろうか? あるとしたら、自分を恥じるべきである。だが私には、あなたが憤然としてこう云うのが聞こえる。「いいえ。私は、誠実な友人にはいつだって誠実に接してきましたとも」。それゆえ、あなたの主があなたをむごい目に遭わせるなどと疑ってはならない。主は誠実で真実なお方だからである。あなたの以前の助け手たちはみなあなたを見捨てるかもしれない。サドカイ人、パリサイ人、それに律法学者たちがみな断固としてあなたに反対するかもしれない。だが、主があなたの右手におられるとしたら、あなたが動かされることはない。元気を出すがいい。意気消沈した兄弟。――

   「神そばにいまさば 励めよ
       憂き魂(たま)!
    御守りあるなり、よし怒濤(あらなみ)は
       囲むれど」。

 II. パウロに対する第二の慰めは、次のような考えであった。すなわち、《主が自分のそばに立たれたということは、主は自分がどこにいるかをご存知であり、自分がいかなる状況にあるかを知っておられるという証拠である》

 主は、パウロが一般の刑務所に閉じ込められたからといって、パウロの姿を見失いはしなかった。獄中のジョン・バニヤンに面会しに来たクエーカー教徒のことが思い出される。彼は云った。「友よ。主が私をあなたのもとに遣わされたのです。それで私は、あなたを尋ね求めて英国中の監獄の半分を回ってきたのですよ」。「いいや、確かに」、とジョンは云った。「それはありえないことですな。もし主があなたを私に遣わしたとしたら、あなたはすぐさまここに来たことでしょう。主は私がここにいることを何年もご存知なのですから」。神がお持ちの宝石は、ただの一個たりとも放り出されて忘れられはしない。「あなたはご覧になる神」[創16:13 <英欽定訳>]。これは主に喜びを見いだしている者にとって大きな慰藉である。種々雑多な患難という監獄に主のしもべたちは閉じ込められている。ある者は苦痛という監獄の中に伏し、事故あるいは病によって足か手を鎖に繋がれているかもしれない。あるいは、ことによると、貧困という狭い独房に閉じ込められているかもしれない。死別という暗黒の部屋に、あるいは、精神的抑鬱という地下牢に閉じ込められているかもしれない。だが、主はご自分のしもべがどの監房に閉じ込められているかご存知であり、その人を見捨ててやつれ果てさせはしない。「死人のように……心から忘れられ」[詩31:12]るようにはなさらない。

 主は扉や錠にもかかわらずパウロのそばに立たれた。中に入る許可を看守から得ることも、差し錠や閂をがたつかせることもなく、そこに主は、ご自分のつつましいしもべの《同伴者》としておられた。主はご自分の選びの民を訪れることがおできになる。伝染の恐れや、熱にうかされた脳を興奮させる恐れから、他の誰ひとりそうすることが許されないときも関係ない。たとい私たちが何か独特の立場に陥り、地上の友人が誰ひとり知らないような経験をくぐり抜けつつあり、誰ひとり私たちのように苦しめられたことがない場合であっても、それでも主イエスは私たちの特別な試練の中に入ってきて、私たちの独特の嘆きに同情することがおできになる。イエスは私たちの隣に立つことがおできになる。というのも、主は私たちのあらゆる苦しみを苦しまれたからである。

 それだけでなく、私たちの種々の状況の中でも、私たち自身が知らない部分をイエスは知っており、そうしたことでも私たちのそばに立っておられる。というのも、パウロは、自分がいかなる危険にさらされていたか気づいていなかったからである。彼は、あるユダヤ人たちが四十人も徒党を組んで彼を殺そうとしていたことを知らなかった。だが、彼の盾であり、彼の受ける非常に大きい報いであるお方[創15:1]は、この冷酷な誓いを耳にして、この血に飢えた者どもの裏をかく手筈を整えられた。愛する方々。主は、あなたの試練があなたのもとにやって来る前からその一切をご存知である。主はその優しい先見の明により、それらに先手を打たれる。サタンが弓を引けるようになる前に、人を見張るこのお方[ヨブ7:20]は、ご自分の愛する者をその矢の届かないところに置いてくださる。その武器が炉の中で鍛えられ、鉄床の上で形作られる前から、主はいかにして私たちに堅牢な鎧を供すべきかを知っておられる。その鎧は剣の刃をはね返し、槍の穂先を打ち砕くのである。それゆえ、聖なる大胆さをもって歌おうではないか。「主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださる」[詩27:5]。私たちはいかに安全であろう。というのも、エホバがこう云っておられるからである。「あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める」[イザ54:17]。それゆえ、喜びをもって、救いのこの2つの井戸から水を汲もうではないか。主は私たちとともにおられる。また、主は私たちを完全に知っておられる。この2つの思想を1つに合わせるとき、私たちは主が私たちの魂の内奥にこう仰せになるのを聞くであろう。――

   「われ、主は汝れが そばにあり、
    やよ恐るるな!
    われは助けて 強むなり、
    狼狽(うろた)うな!

    しかり、われは汝を 支うなり、
    わが右の手で。
    汝れは召されて 選ばれぬ、
    わが前に立てんと。

    ならば進めよ、恐れなく、
    昼中(ひなか)の子らよ!
    みことばつゆも
    過ぎ去らざれば」。

 III. 主イエスがパウロのもとに来られたとき、主は彼が勇気を持つべき第三の理由をお与えになった。主は云われた。「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかしした」。《この確証の中には、彼の働きがその主人に受け入れられているという、非常な慰めがあった》

 私たちは、自分の行なった何事かのうちに大きな慰めを探し求めようなどとはしない。私たちのあわれな働きは不完全きわまりないものだからである。だがしかし、主は時としてそのしもべたちに、彼ら自身の殺した獅子の死体にある蜜[士14:8]を与えてくださることがある。彼らの魂の中に、自分は主の御前を誠実に歩んでいるのだという甘やかな感覚を注ぎ込んでくださるのである。かの大いなる報いの日の前から、主は耳に、「よくやった。良い忠実なしもべだ」[マタ25:23]、と囁いてくださる。あるいは、すべての人の前で公然と、「この女は、自分にできることをしたのです」[マコ14:8]、と云ってくださる。ここには最上の元気づけがある。というのも、もし主が受け入れてくださるなら、たとい人々が非難しようと取るに足らないことだからである。主はパウロに、「あなたは、エルサレムでわたしのことをあかしした」、と云われた。使徒は確かにそうしていたが、彼はその事実によって自分を慰藉するには謙遜すぎた。それで彼の主は、その勇敢な行為をお認めになることによって、彼にそうする許しを与えられたのである。

 ことによると、愛する方々。あなたも、自分がイエスのために証ししてきたこと、また、あなたの人生が全くの無駄骨ではなかったことを思い起こさせられるかもしれない。あなたの良心は、あなたの数々の奉仕よりも、あなたの数々の欠点の方にあなたを馴染ませてきたであろう。また、あなたは自分のキリスト者人生を振り返るとき、歌声を上げるよりも溜息をつくであろう。だが、あなたの愛に満ちた主は、あなたの一切の失敗を覆い、ご自分の恵みによってあなたが証しすることのできたことについて、あなたを褒めてくださる。主がこう云われるのを聞くことは、あなたにとって甘やかなことに違いない。「わたしは、あなたの行ないを知っている。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである」*[黙3:8]。

 もしあなたがいま生き生きと活動しているとしたら、愛する方々。あなたの主に対して忠実であるがいい。というのも、そのようにすることであなたは、来たるべき年月に元気のもととなる記憶を貯えることになるからである。有益に費やされた人生を振り返ることは、年季を積んだ信仰者には、ひとかけらも律法的な自慢の種にはならない。むしろ、それは正当にも大きな聖なる喜びを引き起こすであろう。パウロは、自分の努力したことが無駄ではなく、苦労したことも無駄でなかったことを誇ることができた[ピリ2:16]。私たちも、同じことができるとしたら幸いである。たとい私たちが自分の良心を怠慢ゆえに懲らしめることが正しいとしても、自分の心に責められないことは、感謝に満ちて喜べる正当な理由になるに違いない。そのときには大胆に神の御前に出ることができるからである[Iヨハ3:21]。もし私たちの誰かが貧窮するとしたら、こう云えることは慰めとなるであろう。「私は、裕福だったときには自分の富を惜しみなく私の主のために用いたのだ」。もし私たちが病気になるとしたら、健康だったときの自分がその体力をイエスのため用いたことを思い出すのは満足させられることであろう。そのように思い返すことは、日陰で光を与え、真夜中に音楽を奏でる。その喜びが生ずるのは、私たち自身の黙想からではなく、次のように告げる聖霊の証しからである。すなわち、神は正しい方であって、私たちの行ないを忘れず、私たちがこれまで示した愛をお忘れにならないのである[ヘブ6:10]。

 IV. この言葉には、パウロのための第四の慰めが残されていた。「あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない」。主は、《将来にも奉仕し、用いられる見込み》から私たちに慰めを得させてくださるであろう。私たちはまだお払い箱にされてはいない。主のお気に入りでなくなった器として捨てられたわけではない。これこそ、使徒に対する私たちの主のことばにあった慰めの要点である。勇気を出すがいい。パウロよ。お前には、なすべきことがまだある。彼らはエルサレムでお前を殺すことはできない。というのも、お前はローマでも証ししなくてはならないからだ。

 気をしっかり持つがいい。おゝ、倦み疲れつつ働いている兄弟。あなたの一日の働きはまだ終わっておらず、あなたの太陽は、ヨシュアのように[ヨシ10:13]アマレク人との争闘をあなたが完了するまで、まだ沈むことができないからである。あの古い格言は真実である。「人はその務めをなし終えるまでは不死身である」。もしかすると、あなたの働きの半分はまだ始まってもいないであろう。それゆえ、あなたは病から起き上がるであろう。抑鬱を越えて舞い上がるであろう。また、これまでよりも多くのことを主のために行なうであろう。テアテラにある教会の御使いに対して云われたように、あなたにもこれからこう云われることになるであろう。「わたしは、あなたの行ないを知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている」*[黙2:19]。ウィクリフは死ぬことがありえなかった。悪意に満ちた修道僧たちがいかにそうした方向を祈念していようと関係なかった。「否」、とこの改革者は云った。「私は死なない。むしろ生きて、托鉢修道士たちのあらゆる悪行を宣言してやるのだ」。暴露すべきごろつきどもの姿によって、彼の明滅していたいのちはかき立てられ、その炎は元気を回復させられた。病気がメランヒトンを死なせなかったのは、彼にはまだ、ルターの傍らにあってなすべき卓越した奉仕が残っていたからである。私は常々、この偉大な宗教改革者が自分の助手をいのちへと引き戻したしかたに感嘆してきた。ルターは、この大きな働きがメランヒトンを必要としており、彼が回復しなくてはならないと確信させたのである。「彼は熱烈に祈った。『私たちはあなたに乞い願います。おゝ、私たちの神なる主よ。私たちは、私たちの一切の重荷をあなたに投げかけます。そして、あなたが私たちの声を聞いてくださるまで叫びます。あなたが祈りを聞いてくださることに関して、聖書の中で見いだせる一切の約束を申し立てます。将来のあらゆる時期において、私たちがあなたご自身の約束に全き信頼を保ち続けるためには、あなたは私たちの祈りを聞き入れなくてはなりません』。それから彼はメランヒトンの手を握ると云った。『勇気を出すんだ、フィーリプ。《君を死なせはしないぞ》』」。彼は祈りによって友を墓の口から取り戻し、自分がまだ真理のために証しをすべきだという真実の予言によって慰められていたメランヒトンを送り出した。確かに、この世で何にもまして人を病から回復させ、何にもましていのちを持続させる保証となるものは、自分の務めがまだ完了しておらず、自分の競走が終わっていないという確信である。

 敬虔なホイットフィールドは、ある危険な病に襲われたとき、日々死を目前にするような状況を経た後で、再び立ち上がっては、その熾天使的な活動を再開した。この出来事に関連して、こう云われている。その回復からまもなくして、ひとりの貧しい黒人女がぜひ彼と面会したいと云った。それが許されると、彼女は地面に座り、熱心に彼の顔を見つめながら、感極まった声でこう云ったという。「旦那様。あなたは天国の門の前まで行かれましたが、イエス・キリストはこう云われたです。『下へ降りなさい。おまえはまだここに来てはいけない。まず云って、もう少し多くのあわれな黒人たちを召してきなさい』」。そして、もう少し多くのあわれな黒人たちをイエスにかちとるためであれば、地上に長く留まることを誰が望まないだろうか? 天国の至福でさえ、そのような得のためなら、喜んで先延ばしにできるであろう。

 さあ、ならば、いま病気で苦しみ、意気阻喪している人たち。絶望しながら横になっていても何にもならない。用いられる人生が、まだあなたには取っておかれているのである。エリヤよ。立ち上がるがいい。もはや死なせてほしいと云ってはならない。というのも、神にはそのしもべに云いつけるべき用向きがまだあるからである。おゝ、ダビデよ。獅子も熊もあなたを殺すことはできない。というのも、あなたはこれからひとりの巨人と戦い、その首を切り落とすべきだからである! おゝ、ダニエルよ。バビロンの酔いどれ王の憤りを恐れてはならない。というのも、あなたはこれから飢えた獅子たちの憤りをも乗り切るべきだからである! 勇気を出すがいい。おゝ、あなたがた、疑り深い霊たち。あなたはまだ徒歩の人たちとしか走ったことがない。これからあなたは、騎馬の人[エレ12:5]と競走し、彼らを悠々と打ち負かすことになるのである。それゆえ、弱った手を真っ直ぐにするがいい![ヘブ12:12] 「あなたは必ずカイザルの前に立ちます」[使27:24]。神の聖定は、まだあなたが見たこともないほど大きく、試練に満ちた奉仕をあなたのために定めている。将来があなたを待っており、地の上の、また、地の下のいかなる力も、あなたからそれを奪うことはできない。それゆえ、勇気を出すがいい。!

その主によって獄中で元気づけられるパウロ[了]

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