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主の晩餐、簡素なれども崇高!

NO. 3151

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1909年7月1日、木曜日発行の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1866年、主日夜


「『これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。』ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです」。――Iコリ11:25、26


 ここで私が主の晩餐の目的に関して人々が陥ってきた過誤や考え違いの数々を列挙しようとするとしたら、それは時間の浪費でもあり、キリストと私たちとの交わりをだいなしにしかねないであろう。キリスト教界の一部の団体は――その数を増やしつつあるように思われるが――、聖餐卓を1つの祭壇に変じさせ、記念物でしかないパンと葡萄酒を、いけにえに似たものに転化させている。私はただこう云いたい。願わくは私たちが決して彼らの仲間に加わらず、決して彼らの徒党に連ならないように[創49:6]、と。というのも、彼らの食卓は偶像礼拝の食卓であり、彼らの祭壇は悪霊にささげたいけいえにほとんど劣らないからである。そのようなささげ物は、神に受け入れられるものではありえない。というのも、それらを行なっている者たちは、真理の素朴さから全く脇へそれて、反キリストの秘教めいたでっちあげに走っているからである。

 パンを裂いて食べること、また、葡萄酒を注いで飲むことからなる、この、主の晩餐の簡素な祝宴には、あからさまに見てとれる2つの目的がある。これは、キリストを記念するためのものである。また、これは、キリストを信じる私たちの信仰と、キリストの死とを他の人々に対して示す、あるいは、現わすためのものである。これが、その2つの目的である。「わたしを覚えて、これを行ないなさい」。そして、「このようにして主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです」*。

 I. では第一に、《私たちは、私たちの主の晩餐を、主の記念とみなす》。そして、そのようなものとして、これは簡素で、また、非常に意義深いものである

 これはいかに平明にキリストの受肉を述べていることか。私たちはパンを受ける。私たちの養いとなり、私たちの肉体に吸収されるそのパンは、《救い主》の受肉の象徴である。主は、ご自分の栄光を私たち人間の土くれで覆われた。同じこのパンが裂かれるということは、苦悶によって引き裂かれ破られた《救い主》のからだの象徴となる。そこには、釘付けが、鞭打ちが、十字架が、みなパンを裂くという単純な行為によって示されている。そして、葡萄酒が注ぎ出されるとき、そこでは何も神秘化されてはいない。むしろ、1つの神秘が明かされている。それは、私たち、すなわち、ご自分の受肉した民と1つの血族となるため、血をお持ちになったお方の血を表わしている。このお方は、「人としての性質をもって現われ」、「死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた」[ピリ2:8]。それで、葡萄酒がその房から圧搾され、杯に注ぎ出されるのと全く同じように、主の血は主から、天来の御怒りという酒ぶねで圧搾され、注ぎ出された。それは主が人々の罪のための贖罪を行なうためであった。子どもが聖餐卓のそばに立って、父親に、「この儀式はどういう意味ですか」[出12:26]、と尋ねるならば、たちまちこう答えを返されるであろう。「わが子よ。私たちがこのパンを裂くのは、イエス・キリストのからだがいかに苦しんだかを示すためなのだ。また、この葡萄酒を注ぎ出すのはイエス・キリストがご自分の心血を人々のもろもろの罪のため注ぎ出された印としてなのだ」、と。人々が、自分たちの発明したあれほど多くの事がらをつけ足して、この非常に簡素な、また、それゆえ、非常に崇高な儀式を覆い隠して見えなくさせているのは驚異である。兄弟たち。この2つの表象のもとに近づき、ここで私たちの罪のために裂かれたキリストのからだを見分け、私たちの贖いのため流された主の血潮を見てとろうではないか。

 しかしながら、この象徴は意味豊かなものである。なぜなら、それは単にキリストの苦しみを示すだけでなく、その苦しみの結果をも示しているからである。それは手段のみならず成果をも描き出している。すなわち、私がこのパンを受け、それを食べるとき、また、この杯を受け、そこから飲むとき、私は――自分の記憶に、また、私たちの回りにいる人々の記憶に――単にキリストが苦しまれたという事実のみならず、主が私のために苦しまれ、私がその恩恵にあずかった事実を思い出させるのである。まことに、愛する方々。この真理はあまりにも単純であるため、こうやって語りながらも私は、あなたがたの中のある人々が、「この人はなぜ私たちにもっと新しいことを語らないのだろうか?」、と云っているような気が半ばするほどである。だが、あなたに云わせてほしい。これは常に新しい真理なのであり、キリスト者の心がこれ以上に忘れやすい真理はないのである。おゝ、私が常に、主が私を愛されたこと、私のためにご自分をお捨てになったことを感じていられればどんなに良いことか! 私は主がそうされたことを知っている。そのことに疑いをいだいていたのは相当昔のことになる。だが、私は必ずしも常にそのことを覚えているわけではない。世間に出て行くとき、いかに私たちは《救い主》の愛を記憶から去らせてしまいがちなことか! 夫婦愛は、影のように私たちについて来る。愛しいわが子の愛は、私たちがその中で生きている大気のように私たちを取り巻いているかに思われる。だが、イエス・キリストは目にみえる形で地上におられない。それゆえ、主を思い起こすには精神の霊性が必要なのである。そして、私たちは肉的であり、あまりにもしばしば恵みにおいて幼児である。それで私たちは主の苦しみを忘れてしまい、なおも悪いことに、自分がそのお苦しみの恩恵にあずかっていることを忘れてしまう。おゝ、私が自分の目玉に十字架を塗りつけておけるとしたらどんなに良いことか。そうすれば、いかなるものをも私の《救い主》の受難を通して見ることができるであろうに! おゝ、イエスよ。あなたご自身を私の手に押された証印のようにし、また、私の腕に押された印形のようにしてください。私にそのしるしを、私の魂の目にはっきり見える所に永遠に帯びさせてください! 幸いなことよ、「私には、そんな記念物はほとんど必要ありません」、と云えるキリスト者は。しかし、私はそのような者ではない。そして、残念ながら、私の兄弟たち。私たちの中のほとんどの者らは、このパンと葡萄酒によって、イエスの死を思い出させられる必要があるのではないかと思う。また、これらを食べて飲むことによって、イエスの死が私たちのためのものであったことを思い出させられる必要があるのではないかと思う。

 私は今晩、いかなる雄弁を含んだ言葉をも語りたいとは思わない。――いかなる雄弁術の披露もしたくはない。私はごく平易な語り方によって、あなたがたの中のキリスト者ではない人々が、無味乾燥で退屈な説教だったな、と云うようなものにしたいと思う。私は、あなたがたから何と云われようと、どう思われようと構わないただ、この場にいる信仰者ひとりひとりの心に触れて、その人にこの思想について考えさせ、それを覚えさせることができさえすれば良い。――「栄光の主は私を愛して、私のためにご自分をおささげになったのだ。今は栄光を戴いているあのみ頭は、かつては茨の冠を戴いていたのだ。――そして、その茨の冠は私のためのものだったのだ。天の全体があがめ、天で最も高い御座に着いておられるお方は、かつては、極度の苦悶とともに十字架にかかっておられたのだ。私のために――私のために」、と。私は承知している。あなたは、主があまりにも多くの人々のために死なれたので、あなたを贖うという特別な目的などそこにはなかったのではないかと考えがちであろう。だが、次のように非常に美しい言葉がある。キリストの愛が無限であるからには、たといあなたがその無限のものをあなたの好むいかなる数で分割しようと(その約数が何であろうと構わない。十であっても二千万であっても良い)、その商は無限となる。そのように、たといイエス・キリストの愛を――無限のものではあるが――私たちの間で分割することがありえたとしても、私たちひとりひとりは無限の愛を受けることになるのである。私たちの算数はそう教えている。だが、おゝ! もし私たちが経験によって、私たちひとりひとりに対するイエスの愛という、この無限の深みを、この素晴らしい深淵を知っていさえしたら、私たちの魂は慰められ、言葉に尽くすことのできない喜びに踊る[Iペテ1:8]ことであろう。こういうわけで、このしるしは意味深いものである。

 しかし、次のこととして、私たちが今晩祝おうとしている記念の式は、合同の式である。父親が死に、子どもたちが葬儀にともに集まり、ともに父親の墓まで歩いて行くとき、そこには痛ましいが、喜ばしいものがある。家庭内の多くの不満は、家族の各人がその父親を記念する式に参列したとき癒されてきた。特に貧しい人の墓は、私にとって大きな魅力をたたえている。そこに息子たちや娘たちがやって来ては、小銭を出し合って墓を買い、棺を買う。しばしば富者の墓の上では、誰が彼の富にあずかるかという下らない口喧嘩が繰り広げられるが、この場合には、そうした口論が一切ない。その人は一文無しで死に、ジョンが、メアリーが、トマスが、みなやって来る。そして彼らはみな、この族長の墓を供するために誰が一番力を尽くせるかを見てとる。そして、もしそこに墓石があるとしたら、それは誰かひとりが支払いをするのではなく、彼らが全員がその金銭を出すことになり、父の記念碑の費用は彼ら全員で分担されるであろう。そうした考えをいかに私は嬉しく思うことか! そのように、この儀式において、「私たちは、多数であっても、一つのパンで」[Iコリ10:17 <英欽定訳>]あり、私たちは多数であっても、1つの杯である。兄弟たち。私はあなたがたなしには何もできない。私が主の死を記念したくとも、自分の私室に入って一片のパンと杯を取り、ひとりきりでこの儀式を祝うことはできない。私はあなたがたとともにいなくてはならない。あなたがたがいなくては何もできない。そして、あなたも、いかに霊的な心をした人であれ、もしも独房に閉じこもり、修道僧や他を圧してすぐれた人を気取ろうとしても、この儀式を守ることはできない。あなたは他の信仰者たちと交わりを持たなくてはならない。聖徒たちと相伴って下って来なくてはならない。というのも、《私たちの救い主》が私たちにお与えになったこの記念式は、合同しなくては、私たち全員が一緒にならなくては、祝えないものだからである。あなたがた、キリスト者たちは相集ってこのパンを裂き、この杯を飲まなくてはならない。「あなたがたはこれを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい」<英欽定訳>。《主人》は私たちが数多くの党派に非常に分裂しがちであることを予見されたのだろうか? 私たちが個人主義的になるあまり、互いの重荷を負い合うのを忘れるほどになりがちであることを知っておられたのだろうか? それで主は、バプテスマは個人的な、ただひとりによる信仰の告白とする一方で、この聖餐式は和合した、合同の記念式とすることによって、私たちがいやでも一緒に集わざるをえないようにされたのだろうか?――私たちが、甘やかな強制によって、心を1つにして同じ場所に集まらない限り、主の死を記念することができないようになさったのだろうか?

 これは合同の記念式である。あなたはそのことについて考えてきた。よろしい。さて、私たちは心をともに結び合わせるようにしよう。今晩、私たちの間には何かいさかいがあるだろうか? 愛する方々。私は、あなたがたの中の誰とも、いかなるいさかいをしているとも意識していない。もし意識しているとしたら、私はそれを振り捨てる恵みを求めるであろう。また、もしあなたが今晩、これからこの卓子で聖餐にともにあずかろうとしている兄弟の誰かといさかいをしているという意識があるなら、どうか今、ここに来る前にそれを一切水に流してほしい。思い出すがいい。あなたは、いま腹を立てている当のその友人と合同して食べ、かつ飲まなくてはならないのである。それゆえ、そのいさかいの仲直りをしてから相集うがいい。神はあなたの多くの咎を赦してくださった。では、かりにあなたの兄弟があなたを怒らせているとしても、その小さなことについて彼を赦して良いはずである。では、愛する方々。ともに来るがいい。ともにこの祝宴を守ろうではないか。

 それと同時に、私はこのことをあなたに思い出させることを忘れるわけにはいかない。和合した記念式である一方で、これは最も明確に個人的なものである。たとい私たちが全員ともに集まるとしても、各人がこのパンを自分の口に入れ、各人が自分でこの葡萄酒を飲まない限り、いかなる主の晩餐もありえない。これは、1つの合同の行為としてはなされえないのである。このパンは回されることになり、それをこの場にいる各人がそれぞれ明確に受け取らなくてはならない。それで、私たちは群衆の中で自分を埋没させないようにしよう。私たちは、非常な大海の中の一粒の水滴だが、それでも自分が水滴であることを忘れてはならない。そして、海水のいかなる一滴も、塩分を含んでいないものがないように、私たちの間のいかなる者も、イエスとの真の交わりという塩気のある影響力を抜きにしていないようにしよう。愛する方々。私はあなたに代わって聖餐を受けることはできない、あなたが私に代わって聖餐を受けることはできない。もしあなたがたが全員幸いなら、私は嬉しく思うが、私もまた《救い主》を見てとることができない限り、それは私にとってほとんど益にならないであろう。そして、同じことがあなたがた各人に当てはまるであろう。それゆえ、あなたに願わさせてほしい。いま主イエス・キリストを――あなたに対するその愛を、あなたに代わるその死を、あなたのためのそのよみがえりを――個人的に覚えることができるように神に叫び求めるがいい。「主は私を愛し私のためにご自身をお捨てになった」*[ガラ2:20]。この思いが、今の今、あなたの精神の中で最も重要なものとなるようにするがいい。

 だがそれをも越えて、私はあなたにこう思い起こさせないわけにはいかない。キリストを記念する式として、これは非常に厳粛なものでありつつも、ことのほか幸いなものである。キリストは、ご自身の死を記念するものとして、あることを制定された。それは何か? 祝宴である。葬儀ではない。主のずたずたに切り裂かれたからだの上で悲歌を歌い合う集会ではない。墓場に行って泣くことではない。それも記念式にはなりえたであろうが、私たちにはさらに良いものがある。幸いなものがある。非常に意義深いことに、最後の晩餐の後で、彼らは賛美の歌を歌ったのである[マタ26:30]。歌をそのときに? おゝ、しかり。歌である! 喜びは祝宴となる。また、私たちがイエスの苦痛を想起するときには喜びが伴うべきである。私たちが主の晩餐の卓子に着くとき占める位置は、やはりまた、キリストが私たちに幸いであることを望まれたことを示唆している。主は私たちが膝まずくことを定められただろうか? 否。そうしたことは毛ほどもうかがわれない。主は私たちが立っているように意図されただろうか? そうしたことは一言も云われていない。主の晩餐はもともとどのようにして受けられただろうか? 客たちは卓子を囲んで横になり、頭を互いにそれぞれの胸にもたせかけていた。それが、東方の国々で祝宴に集う人々が普通に取っていた楽な姿勢であった。寝そべることがうまくない私たちにとって最も適正な姿勢は、考えうる限り最も楽な姿勢で腰かけることである。それは自分で選ぶがいい。他の人々が畏敬について何と云おうと決して気にすることはない。イエスに親しく接することこそ、最高の畏敬である。あなたのからだを聖餐卓の所で、考えられる限りあなたが最も楽にしていられる姿勢にしておくがいい。そうすればあなたは、キリストの理想に達している。これはあなたが完璧に安楽にしていて良い祝宴である。よく聞くがいい。これは過越の祭りとは対照的である。そこでは人々は立っていて、腰に帯を締め、帽子をかぶり、杖を手に持ち、大急ぎで荒野へ出て行かなくてはならない人々といった様子をしていた[出12:11]。さて、私たちはすでに荒野を越えて来たのである。私たち信じた者は安息に入っているのである。私たちの過越は食されてしまったのである。私たちは、死の御使いを恐れない。彼は私たちを通り過ぎて行った。私たちはエジプトを出ており、カナンに入っている。確かにカナン人は土地にまだいるが、彼らを追い出しつつある。私たちはいま大慌てで、大急ぎで、恐れと混乱とともに過越の祭りを祝っているのではない。これは安息と喜びと平安の伴う主の晩餐である。というのも、「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持って」いるからである[ロマ5:1]。これは幸いな記念式である。今晩、あるいは、いついかなる折にも、この卓子に集うあらゆる者の顔には喜びがふさわしい。

 よろしい。さて兄弟たち。もしキリストを記念することが主の晩餐の目的であるとしたら、あなたは主を思い起こさない限り、他のいかなる目的のためにもここに集うことはないであろう。それで私はあなたに願いたい。他の一切の考えを捨ててほしい。あなたは教理上の困難をかかえているだろうか? 明日までそれは置いておくがいい。あなたには病気の子どもがいるだろうか? 仕事が順調に行っていないだろうか? よろしい。この神聖な時を侵しても、それであなたの思い煩いから解放されるわけではあるまい。こうした重荷は、あなたのことを心配してくださるお方に投げかけるがいい。あなたが関わらなくてはならない唯一のこと、それは十字架につけられたイエス・キリスト――あなたのために十字架につけられ、あなたによって受け取られたキリストである。いま他の星々は消滅させ、ただ1つの星――ベツレヘムの《星》――だけを天空で輝かせるがいい。今はイエスへの愛を除く一切の愛に別れを告げるがいい。イエスとの交わり以外の一切の交わりに別れを告げるがいい。主にこう願うがいい。あなたの心を矢のように手に取り、それを主の弓につがえ、キリストが天におられる所めがけて射放ってくださるようにと。「天にあるものに、あなたの情愛を定めなさい」[コロ3:2 <英欽定訳>]。多くの人々はこれを誤って引用し、「あなたの諸愛を定めなさい」、という。パウロは決してそうは云っていない! 「あなたの情愛を定めなさい」。――あなたの種々の愛情を一束にし、それを唯一の情愛にして、それからそれを天にあるものに定めよ。あなたの心の全体が《救い主》の御胸に横たわるようにするがいい。私は《主人》に祈る。私たちがひとりたりとも後じさりすることがないようにと。そしてあなた、心配子でさえも、また、あなた、薄信者も。また、あなた、足なえ者も、願わくはあなたがあなたのしゅもく杖を忘れ、願わくはあなたが今、強者と弱者の双方にとって《すべてのすべて》であられるお方のことだけを思い起こすように。

   「強きも、もろきも、弱き者らも
    いまはイエスのうちにあらん」。――

そして、この場に座り、主のことを思い起こす時に、そう知るがいい。

 II. この聖餐の第二の目的は、《キリストが来られるまで、その死を示すこと》である。

 「主が来られるまで」。私はこのことについて、ただ、主はやがて来られる、としか云えない。そして、キリスト者にとってはそれで十分であるべきだと思う。私をいたく悲しませたことに、先週、私のもとに二、三通の小冊子が届いた。その表紙によると、それは私によって書かれたものとなっていたが、それは主の再臨が1866年に起こると預言していた。さて私は、ベツレヘム癲狂院に入るようなことでもない限り、この舌によっても、洋筆によっても、決してこのようなたわごとの肩を持つことはない。主は1866年に来られるかもしれないし、私は主とお会いすれば喜ぶであろう。だが、私は主がそうはされないと思う。なぜそう信ずるかという1つの理由は、以前にもあなたに告げたことがあると思うが、こうした二銭、半銭の預言者たちが口を揃えて、主はそうなさると云っているからである。もし彼らが主はそうなさらないと云ったなら、私は主がそうなさるだろうと考え始めるべきだが、彼らがみな異口同音に、主は1866年か1867年に来られると叫び立てている限り、私は主がそうした時にはおいでにならないだろうと考えたい気持ちを深める。私には、キリストの来臨前に成就されなくてはならない非常に多くの預言があるように思われるが、それは今後十二箇月の間には成就されないであろう。そして、愛する方々。私はむしろ、人の子がいつ来るか、その日、その時を知らない人の立場につくことを好む。主の現われを常に待ち望みつつ、だが、そうした日付や数字には決して干渉しないことを好む。そうした日付や数字をいじくることは、他にすることのない若い婦人たちが、小説を読む代わりに愛好する娯楽としてしかるべきもののように思われる。あるいは、健全な教理に関する知識の蓄えが枯渇した神学者たちが、さながら過ぎにし昔にノーウッドの放浪民たちが骨牌をさばいていたかのように、聖句をさばくことによって世間のつかのまの人気を博そうとし、実際に少しは博すことのある娯楽としてしかるべきもののように思われる。こうした預言者たちには、馬鹿者たちから引き出した儲けを存分に預金させておくがいい。そして、あなたについて云えば、キリストの来臨がきょうであろうと、明日であろうと、ただ待ち受けるがいい。そして、何の限界も、何の日時も定めないでいるがいい。ただ「きょう。」と言われている間に[ヘブ3:13]働くがいい。そのように働くことによって、いざ主が来られたとき、忠実なしもべとして、主とともに婚宴へ行く用意ができているところを見いだされるようにするがいい。では、「主が来られるまで」、主の晩餐は主の死を明らかに示すべきである。

 それを私たちがいかにして明らかに示すべきかに注意しよう。

 私たちはそれを自分自身に対して示す。主の晩餐は、誰ひとり見ている者がいない所でも祝うことができる。できる所であれば、それは公のものであるべきである。だが、もし眺めている人がひとりもいなければ、それは別のしかたで行なわれて良い。ヴェニスや、ミラノや、パリその他といった、ローマカトリック教がはびこっている都市では、私たちは五、六人が私たちの旅館の一室に集まり、そこで真の主の晩餐を開いた。誰も見ている人はいなかったが関係ない。そして、おそらく、もし私たちが主の晩餐にあずかったいくつかの町で、私たちを見ている人がいたとしても、私たちは法に従っていたであろう。これはキリストの死を私たち自身に明らかに示すことである。私たちは裂かれたパンを見、注ぎ出された葡萄酒を見、自らここに、表象において、十字架につけられたキリストを見ている。そして、私たちは、食べ、かつ飲むときに、私たちの目の前に、カルバリの上でささげられたいけにえの恩恵に自分があずかっていることを見ているのである。

 しかし、次に、私たちはそれを神に対して示す。私たちは、実質的に、すべてを見ておられるエホバの前でこう云っているのである。「大いなる神よ。私たちはこのパンを、あなたの尊厳ある御前で、私たちがあなたの愛する御子を信ずる印として裂きます。また、私たちはここで、心を探りきわめるあなたの御前で、この葡萄酒を飲み、今一度あなたに向かって厳粛に申し上げます。『私たちは、イェスの血によって買い取られ、その中で洗いきよめられた、あなたのものです』、と」。これは、キリストの死を神に対して示すことである。

 さらに、これはそれを私たちの同胞のキリスト者たちに示すことである。私たちは、自分たちとともに座っている人々に対してこう云うのである。「さあ、兄弟姉妹。ともに集いましょう。私たちはあなたと、あなたは私たちと一緒になりましょう。私たちはあなたに向かって、『私たちはあなたを愛しています』、と云い、あなたも私たちに同じことを云うのです。ともに私たちは手を握り合い、私たちの主イエス・キリストと私たちとの交わりを新たにすることを通して、私たちのキリスト者同士の交わりを新たにするるのです。このようにして私たちが主の死を明らかに示すとき、私たちは、いわば、互いに教え合い、互いに戒め合い、互いに慰め合うのです」。

 しかし、キリストの死を私たち自身に対して、また、私たちの神に対して、また、私たちの同胞のキリスト者たちに対して明らかに示すことに加えて、私たちはそれを世に対しても示している。私たちは実質的に世に対してこう云っているのである。「ここで私が示しているのは、あなたがたが十字架につけたお方を私たちは信じているということです。宿営の外に出て行かれたお方[ヘブ13:11-13]、ナザレの人、さげすまれ、人々からのけ者にされたお方[イザ53:3]、この方が私たちの《主人》です。あなたがたは、あなたがたの哲学者たちに頼るかもしれません。私たちはこの方に頼ります。あなたがたは、あなたがた自身の功績や、犠牲や、業績に頼るかもしれません。ですが、私たちについて云えば、この方の肉とこの方の血が私たちの頼りなのです。私たちがこのパンを食べ、この杯から飲むときに、キリスト・イエスはあなたがたに対して、私たちの《すべてのすべて》であるお方として明らかに示されるのです。――私たちの霊的いのちを支えるパン、また、私たちに喜びと聖なる興奮と楽しみを与える葡萄酒として」。

 そしてそれから、このことを世に対して云うことに加えて、私たちはそれを罪人たちに対しても云う。彼らは、たまたまその場にいるかもしれない。そして、彼らにとってこのことは祝福となるかもしれない。いかにしばしば、この建物の中で、神はパンを裂くことによって魂の回心という祝福をもたらしてくださったことか! あなたがたの中のある人々は、この桟敷席から見下ろしていたことがあった。あなたは、あえて神の民とともに下っていこうとはしなかったが、立ち去ることも好まなかった。それで、あなたは座ったまま、見つめていた。そして、あなたは垂涎を覚えた。パンと葡萄酒をではなく、キリストを渇望した。あなたはキリストを欲した。そして次第にあなたは、冷たい冬の時期の駒鳥のようになった。最初あなたは、いわば、教会の窓枠を非常に優しくコツコツと叩いた。そして、あなたは不安だったため、もう一度後ずさりした。だが、世界中は寒気に包まれており、他のどこにも、あなたのためにはパンくず1つなかった。そのとき、あなたは1つの恵み深い約束という開かれた窓を見た。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」[ヨハ6:37]。そこで、絶対的な必要に迫られて、あなたはイエスのみもとにやって来た。イエス・キリストの家族の輪の中にやって来た。そして、あなたはご馳走を食べ、今晩のあなたは喜んでいる。

 よろしい。愛する方々。この卓子にともに集うに当たり、私たちは、まだキリストのもとに導かれていない、見ている者たちの中にいる人々のことを思い起こそう。私たちは彼らについて考えるであろう。また、この祈りを囁くであろう。「主よ、彼らをお救いください! 私たちがキリストを明らかに示している間、彼らを助けてキリストを見させてください。願わくは彼らがこう云うようになりますように。『しかり。彼のからだは罪人たちのために裂かれたのだ。彼の血は罪人たちのために注ぎ出されたのだ。ならば、私は彼に信頼しよう』、と」。そして、もし彼らが主を信ずるとしたら、彼らは救われるのである。

 よろしい。さて、願わくは私たちがこの2つの目当てを果たすことができるように。キリストを覚えることと、その死を示すことである。私たちは主の御霊によらない限りそうすることはできない。頭を垂れて、その御霊を乞い求めようではないか。求めようではないか。キリストの苦しみの外的な表象を私たちが受けるている一方で、私たちが霊とまことをもってキリストを礼拝するようになることを。

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主の晩餐、簡素なれども崇高![了]

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