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宇宙の糧食供給

NO. 3149

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1909年6月17日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「あなたがお与えになると、彼らは集め……ます」。――詩104:28


 この文章は、被造世界の糧食供給について述べている。問題は、「数知れぬはうもの、大小の生き物」*[詩104:25]を養うことである。海に群泳するもの、空を満たす鳥たちの大群、そして、陸地に住むおびただしい数の動物たちに物を食べさせることである。そして、この文章でその問題は解決されている。「あなたがお与えになると、彼らは集め……ます」。この働きは途轍もないものだが、いとも容易になされている。《働き手》が無限のお方だからである。もしこの方がその長でなかったとしたら、この任務は決して成し遂げられないであろう。この聖句の大いなる《あなた》であられる神はほむべきかな。あらゆる点からして私たちの最も甘やかな慰藉であるのは、この人格的な神が今なお世界で働いておられるということである。大海原のレビヤタンも、枝の上の雀も、同じようにこのことを喜んでいる。そして、この偉大な御父の子どもたちである私たちは、ひとしお喜んでいる。

 現代の哲学者たちの概念は次のようなものと思われる。すなわち、世界とは、ひとりの全能の幽霊が始動してから、ただ動くままに放置した時計のようなものであり、そのあらゆる歯車は、厳格な法則によって互いに噛み合っているのだ、と。あるいは、ひとりの兄弟が私に指摘したように、彼らは主が宇宙を時計のように巻き上げてから、ご自分の枕の下に入れると、眠り込んでしまったのだと考えているのである。あなたはどう考えるだろうか? 兄弟たち。あなたは、その神を亡くした世界に楽しみを見いだすだろうか? 私にとって、そのような哲学は荒涼たるものである。私の魂が恋い焦がれるのは、ある親密な愛が自らを私に与え、そのお返しに私の愛を受けることだからである。実際、もしも私の《造り主》が私をご自分の子どもとして憐れみ、私の祈りを聞き、私の涙に同情し、私を援助し、私を慰めてくださらないとしたら、私は親をなくした孤児となっているのである。赤ん坊は母親の手だけでなく、その心をも欲する。あなたは、機械仕掛けで育てられる子どもになりたいだろうか? 水車の輪で洗われ、振り子細工で揺り動かされ、導管で食事を与えられ、鋼鉄製の手で服を着せられ、要するに、素晴らしい動作機関であり、何でも行なうことはできても、あなたを愛することだけはできないものによって面倒を見られたいだろうか? あなたは、あなたとともに泣いてくれる目が恋しくなるであろう。あなたに向けられる微笑みや、あなたに口づけし、愛を込めてあなたに語りかけてくれる唇や、あなたをあやし、暖かい胸に抱きしめるときに笑いかける愛しい顔が恋しくなるであろう。しかり。私は、私の母の代わりに蒸気機関を受け入れることも、私の神と引き換えに一連の法則を受け入れることもできない。世にはご自分のすべての被造物の面倒を見てくださる神がおられる。その神が家畜のために草を、また、人に役立つ植物を生えさせられるのである[詩104:14]。世には、私たちが語りかけ、私たちの言葉を聞いてくださる御父がおられる。その高殿から山々に水を注ぎ、地をそのみわざの実によって満ち足らせるお方がおられる[詩104:13]。私たちがいかなる必要を覚える時も大胆に近づくことのできるお方がおられる。エホバが生きておられるからこそ、被造物は養われるのである。神が彼らにその日ごとの糧を与えると、彼らはそれを集める。そのようにして、この働きはなされるのである。

 この聖句の一般原理は、神がご自分の被造物に与え、神の被造物が集める、ということである。その一般原理を私たちは、人間としての私たち自身に適用するであろう。というのも、このことは海の魚、丘々の家畜にとってと同様、私たちについても当てはまるからである。「あなたがお与えになると、彼らは集め……ます」。

 I. 私たちの第一の点はこうである。《神がお与えになるからには、私たちはただ集めるだけで良い》

 物質的な事がらにおいて、神は私たちに、一日また一日と、日ごとの糧を与えてくださる。それで、私たちの務めは単にそれを集めることである。荒野では、マナがイスラエルの宿営の外に降った。彼らがマナを作り出す必要はなく、朝、外に出て行き、日が熱くなる前に集めるだけでよかった[出16:21]。摂理は、神の子どもが必要とする食物を得られると保証している。「彼のパンは与えられ、その水は確保される」[イザ33:16]。この務めにおける私たちの役割は自分の働きに出て行って、それを集めることである[詩104:23]。確かに、場合によっては、必要な食物を集めるには法外な働きをしなくてはならないこともある。だが、それは人間の不正義によって引き起こされるものであって、神の取り計らいによるものではない。また、真のキリスト教信仰が人類のあらゆる階級の上に働きを及ぼしたときには、誰ひとり奴隷のように労苦する必要はなくなるであろう。彼らは単に、健康に良く、我慢できるだけの量の働きしか行なう必要はないであろう。いかなる人も同胞を虐げないとき、神がお与えになるものを集める仕事は決して難儀ではなく、健全な運動となるであろう。働きの汗はそのとき、ほむべき薬となるであろう。

 この観点から、この世における私たちの務めを眺めてみよう。私たちはおのれの仕事に出て行き、夕暮れまでその働きに就くべきである。そして、物惜しみない摂理がこのように、主ご自身の授けてくださるものを集められるようにしてくれるのを期待すべきである。そして、もしこの手段によって神が私たちに衣食を与えてくださるならば、それで満足すべきである[Iテモ6:8]。もし私たちの信仰が、そのすべてに神の御手を見てとることができるなら、地面からマナを拾い、感謝をもってそれを食べるのは甘やかなこととなるであろう。なぜなら、そのマナには、それが出て来た場所の味がするからである。

 霊的なことに関しては、この原理は、誰が見ても確実に真実である。私たちは、恵みの問題について、ただ神が与えてくださるものを集めるだけで良い。生まれながらの人は、天来の恩顧を稼ぎとらなくてはならないと考える。努力や犠牲を払うことで、天の種々の祝福を得なくてはならないと考える。だが、それは重大な間違いである。魂は、ただイエスが無代価で与えてくださるものを受け取るだけで良い。あわれみは賜物であり、救いは賜物であり、契約の祝福はみな賜物である。私たちが代価をかかえて行く必要はなく、空っぽの手で出て行き、前に置かれた物を集めるだけで良い。鳥たちがその食物を集め、丘々の家畜が自分たちのためにふんだんに生えている牧草を食べるのと全く同じである。これは、福音の第一原則の1つである。「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです」[ヤコ1:17]。そして、私たちは信仰によって自分のオメルを手に取り、自分の回り中に降った御使いのパン[詩78:25]をたっぷりと詰めては、天幕に持ち帰り、それを平らげて満腹するべきである。与えるは神の役目、集めるは私たちの役目である。信仰の領域は、露のしみこんだ羊毛[士6:38]か、雨に満ちた沢である。信仰者よ。これがあらゆる霊的な事がらにおける規則である。あなたは勤勉に集め、霊的に高い境地を求めて努力すべきだが、それでも覚えておくがいい。あなたの天の御父は、あなたが願う先に、あなたに必要なものを知っておられる[マタ6:8]。こうした優れた祝福の数々は神の賜物であり、それらを獲得する最も確実な方法は、それを求めて神のもとに行き、信仰によって受け取ることである。あなたは、固く握りしめた手から契約の祝福をもぎ取る必要はない。ただ、主の開かれた手のひらから、主が喜んでお授けになるものを取り上げるだけで良い。あなたが困窮して貧しくしていても神は全く楽しまれない。むしろ、神を喜ばせるのは、その恩顧であなたを満たし、その恵みのあらゆる祝福であなたを豊かに富ませることである。

 もしこうした考え方による静謐で穏やかな精神を身につけることができるとしたら、いかに私たちは幸福になることであろう! そのとき私たちはイェスの足元にマリヤとともに座り、マルタをひとりやきもきさせておくであろう。明日の朝、私たちの中の多くの者らの目がまだ開かないうちに、また、神の最初の光箭が地上に挨拶するや否や、あらゆる種類の鳥が目覚めて、その光を見て歌い出すであろう。しかし、小鳥よ。どこにお前の朝食があるのか? 雛鳥たちで一杯の巣のための、きょうの食物はどこにあるのか? 鳥たちは知らないし、心配もしない。むしろ、彼らが見つけ出す最初の種か、パン屑か、虫を集めては、一日中そうし続けて満足している。しかり。そして、夏が去り、長く暖かな日が過ぎ去って、冷たい冬が始まるとき、鳥たちは裸の枝に止まっては歌う。霜が地面にあっても関係ない。彼らは神が与えてくださることを期待しており、しなくてはならないのはただ集めることだからである。私たちは小鳥たちから大きく学べるであろう。――しかり。籠に入った小鳥たちからさえ学べるであろう。というのも、もし彼らを飼っている者らが種や水をやるのを忘れたら、彼らは死んでしまうではないだろうか。だがしかし、彼らは歌う。彼らには、大した蓄えは全くない。ことによると、次の日一日、彼らを保たせるだけのものもないかもしれない。だが、それで彼らはやきもきすることも、その音楽をやめることもない。そして、私の信ずるところ、彼らの歌はこういう意味だとルターが云ったとき、それは立派な翻訳であった。――

   「弱者(よわき)よ、やめよ、煩(うれ)い嘆くを
    神が明日に 備え給わば」。

 II. 第二に、確かに《私たちは、神が与えてくださるものしか集めることができない》。私たちがいかに熱心になろうと、事には限界がある。いかに勤勉な鳥であっても、主がお与えになる以上のものを集めることはできない。いかにごうつくばりで貪欲な人であってもそうである。「あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」。「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい」[詩127:2、1]。神があなたにお与えになるものを、あなたは集めることができる。だが、もしあなたの強欲が慕い求めるものを積み上げようとし始めても、そこには何の祝福も伴わないであろう。人生で同じ立場に置かれ、同じ仕事を行ない、ほとんど同じ財産を持っている二人の人に、しばしばいかなる違いが見られることか! 見れば、そのひとりは朗らかに働き、王のように幸福で、自分のパンを主にある満足と喜びで甘やかにしている。一方、もうひとりは、ぶつくさ愚痴を云い、不平を鳴らし、自分より金持ちの人々をねたみ、神への恨みに満ちている。何が一方を幸福にし、もう一方をみじめにしているのだろうか? まことに、それはただ、一方は自分に満足を与える神の恵みを有しており、それで満たされているが、もう一方は獣じみた飢えと貪欲を有しているため、自分で自分を苦しめるにまかされているということによる。これは貧者についてばかりでなく、富者についても云える。私たちを幸福にするのは、私たちの財産よりも、ずっと心持ち次第である。神と、信仰と、満足で魂が満たされている人は、まことに豊かな人である。結局において、私たちは、神の与えてくださる以上のものを集めることができないと考えて、安らかで、満ち足りているべきである。このようにして私たちは、自分が神に依存していることを教えられ、自分を信頼することが少なくなり、種々の願望を控え目にし、思い煩いを軽くされられるはずである。

 思い起こすがいい。愛するキリスト者の方々。物質的な事がらと同じく、霊的な事がらについても、それと同じことが当てはまることを。あなたは、主があなたに与えてくださるものしか、集めることはできない。説教する前に、私はあなたがた全員のための食物を探そうと努めていた。そして、私はそのために祈り始めた。なぜなら、私があなたのために集められるのは、私の神である主が私にお与えになるものしかないことを覚えていたからである。もし私がそれより多くのものを持ってくるとしたら、それは私自身のもみがらでしかなく、神の納屋から出た、あおぎ分けられた良質の穀物ではないであろう。私はしばしばこのことについて考える必要がある。というのも、一週間ほぼ毎日のように大群衆を霊的な食物で養わなくてはならないからである。もし主が補給してくださらないとしたら、あわれな教役者はどこでそれを得るべきだろうか? それゆえ、彼は謙遜な信仰と祈りによって自分の神を待ち続け、ふさわしい内容が示唆されるように期待する。愛する方々。あなたもまた、みことばを聞くとき、聖霊があなたに与えてくださるものしか獲得できない。あなたは一千もの説教を聞くかもしれないが、主があなたにお与えにならない限り、あなたの魂を本当に生かし、養うものを何も集めないであろう。主の御霊がみことばを満ち満ちたものとしてくださらなければ、いかなる聞き方をしようと何の価値もない。聖霊がキリストのみこころのことを取り上げ、それを内なる人に啓示してくださらない限り、あなたは単なる言葉で飽き飽きさせられるか、人間的な意見で高慢になるしかないであろう。「あなたがお与えになると、彼らは集め」、それ以上はできない。

 あなたが、不敬虔な人々の間で主イエス・キリストのために働きを始めるときも、それと同じである。あなたは、神があなたにお与えになるだけの数の魂をかちとるであろう。だが、あなた自身の力によっては誰ひとり回心しないであろう。ある町に主が大勢の民を有しておられると信ずべき理由があるとき、それは私たちがそこへ行く際に大きな慰めとなる。私は自分の会衆のために常に私の最善を尽くす。なぜなら、彼らは私の《主人》によって私のもとに送られた、えり抜きの人々であると常に感じられるからである。たといそこに少人数しかいなくとも、主が私を助けてくださらない限り、私が徳を立て上げることはできない。もしそこに大勢の人々がいるとしたら、その分だけ大きな助けを私たちの主は私に供してくださるであろう。私はただ主が与えてくださるものしか集められない。私たちは植えるかもしれない。水も注ぐかもしれない。だが、神が成長させてくださらなければ、何にもならない[Iコリ3:6-7]。私たちが神の前にかぐわしい香りとなるか、誰かにとって、いのちから出ていのちにいたる香り[IIコリ2:15-16]となるかするためには、ほむべき神の全能の御霊がやって来て、私たちとともに働いてくださるしかない。

 これにより私たちは、多くの祈りへと導かれるはずではないだろうか? 人間にも、外的な礼拝形式にも、決して依存してはならない。というのも、いかに成功した説教者といえども自分自身の力では死んだ罪人を生かしたり、堕落した魂を新生させたりできないからである。聖霊が私たちとともにおられない限り、私たちが預言しても無駄である。主の収穫においていかに勤勉な刈り手も、その《主人》によって与えられる以上の束を集めることはできない。ならば、彼がその報いを失うことがないよう、彼のために祈るがいい。彼がその労働のために強くされ、彼の鎌が鋭利になり、彼の腕が力強くされ、彼の収穫が豊富であり、彼が栄光に富む束の荷を納屋に運び込めるように、彼のために祈るがいい。あなたがた自身について云えば、神のためのいかなる奉仕に携わっているときも、自分自身により頼まないように用心するがいい。というのも、あなたは、上から与えられない限り、何も受けることができないからである。あなたの考えが白昼夢以上のものとなり、あなたの努力が無駄な労力とならないためには、主があなたの前を行かれるしかない。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」[ヨハ15:5]、は決して忘れてならない真理である。

 III. 第三に注目すべきは、《私たちは神が与えてくださるものを集めなくてはならない》ということである。さもなければ、神がいかに豊かに与えてくださっても何の益も得られないであろう。

 神は数知れぬはうものを養われるが、それぞれの生き物は自分で食料を集める。巨大なレビヤタンはその大きな糧食を受けるが、その果てしない牧草地を耕し続けて、自分の必要を供する無数の微少物を集めなくてはならない。魚は跳び上がって蝿を捕まえなくてはならず、燕はその食物を求めて空をかけなくてはならず、若い獅子はおのれのえじきを狩らなくてはならない。「あなたがお与えになると、彼らは集め……ます」。神は、その全宇宙の中で、怠惰な存在のためには一隅すらお備えにならなかった。いかなる社会においても、怠け者が成功することはなく、そうなることは望ましいことではない。もしある人が働こうとしなければ、その人は死ぬべきである。生きていても何の役にも立たず、あらゆる人の邪魔になり、実を生らせない木のように土地をふさいでいる[ルカ13:7]からである。神は与えておられる。集めようとしないというのなら、その人は飢えて当然である。

 商売においても同じである。誰もが知るように、その方面では勤勉でなくてはならない。というのも、「勤勉な者の手は人を富ます」[箴10:4]からである。『箴言』は、怠け者に対して何度も非常な痛撃をくらわしている。そして、キリスト教の教役者たちは、しばしば怠惰という大罪を非難してしかるべきである。それは、幾多の罪を生む母親なのである。怠惰は、最も軽蔑すべき悪徳であり、人を襤褸布で覆い、病で満たし、悪魔の云いなりのしもべとする。「今に至るまで働いておられ」[ヨハ5:17]、働かせるために私たちを造られた御父がご覧になる私たちの姿が、時間と力を浪費し、良い行ないを成し遂げずに放り出しているというものであるとしたら恥ずべきことである。怠惰な人よ。神はあなたを養わないであろう。神ご自身の判決はこうである。「働きたくない者は食べるな」[IIテサ3:10]。おそらく神があなたに「供して」くださる場所は救貧院か、悪くすると郡拘置所の中であろう。もしマナが人の近くに降っても、怠惰な男がそれを集める手間暇をかけようとしなければ、彼のオメルが奇蹟によって満たされることはなく、御使いが遣わされて、パンと肉を彼の食卓に持ってくることはないであろう。立つがいい。あなたがた、怠け者たち。そして、主がふんだんに降りまいてくださったものを集めるがいい。

 自然と摂理の法則は、霊的な事がらにおいても通用する。「あなたがお与えになると、彼らは集め……ます」。この世には、1つの霊がうろついている。――神に感謝すべきことに、今はかつてほど強力ではないが、――それは、恵みと予定を大いに強調するもので、その点では、それが云うことを聞くのは私にとって喜びである。だが、そうした真理がそこから引き出す推論によると、人はじっと座っているべきであり、救いにおいて受動的であるべきであり、自分たちのことを丸太棒のようにみなすべきだというのである。人はこの件において、何の意志も持っておらず、自分の聞いている福音に関して決して何の責任を問われないというかのようにである。さて、この種の教理は、実質的にこう教えているのである。神が与えてくださるものは、私たちの口の中に自然に転がり込んで来るのであり、私たちがそれを集める必要は全くない、と。いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい[ヨハ6:27]、という《救い主》の勧告とは正反対である。主権の恵みは、私たちの髪の毛をつかんで私たちを天国に引きずって行ったり、私たちが眠っている間に、私たちの意向と無関係に私たちを救ったりしないであろう。そうした教えは、使徒たちによって否認されていたことであろう。というのも、それは良心に対して麻酔剤のように働き、魂を致命的な嗜眠へと沈み込ませるからである。兄弟たち。確かに予定はあるし、選びと有効な恵みとの教理は真実である。私たちが、それらを否定してはならない。だがしかし、主は人々を責任ある存在として取り扱い、「努力して狭い門からはいりなさい」[ルカ13:24]、また、「永遠のいのちを獲得しなさい」[Iテモ6:12]、と彼らに命じておられる。このような勧告は、明らかに、自由な行為者のためのものであり、私たちの救いに精力的な行動が要されることを示唆している。聖書は、私たちが寝そべって休眠し、単に外側から働きかけられるべきであると云っているようには見受けられない。というのも、こうあるからである。「天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」[マタ11:12]。鳥たちと同様、人間たちにもこのことは当てはまる。「あなたがお与えになると、彼らは集めます」。神はあなたに信仰をお与えになるが、あなたは信じなくてはならない。神はあなたに悔い改めをお与えになるが、あなたは悔い改めなくてはならない。こうした種々の恵みは神のみわざであるが、人間の行為でもある。いかにしばしば私たちは、こうした兄弟たちに思い起こさせる必要があるだろうか? 聖霊が私たちの代わりに信じてはくれないのだ、と。いかにしてそのようなことが可能だろうか? 信仰は代理人によって行使されるべきだろうか? そうしたことはありえない。聖霊が私たちの代わりに悔い改めることもない。そのような考えをいだくのは馬鹿げている。私たちは、自分で個人的に信じて悔い改めなくてはならない。もし誰かが自分自身の行為また行ないとして悔い改めないとしたら、その人の悔い改めや信仰は聖書の中で語られているようなものでも、福音によって要求されているようなものでもない。兄弟たち。私たちは、祈るべきである。悔い改めるべきである。信ずるべきである。あたかも、こうしたすべてが全く私たち自身のものであるかのようにそうすべきである。だが、私たちはそのすべての栄光を神に帰さなくてはならない。なぜなら、ただ神の恵みによってのみ、それらを実行する力も意欲も与えられるからである。人はみことばを聞かなくてはならない。というのも、「信仰は聞くことから始ま」[ロマ10:17]るからである。みことばを信じなくてはならない。というのも、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」*[ヘブ11:6]からである。そして、罪を悔い改めなくてはならない。というのも、もし罪が捨てられていなければ、赦罪は与えられないからである。のがれの町[民35:6]へ逃げなくてはならない。さもないと、血の復讐をする者が彼らを根絶やしにするであろう。いのちがけで山に逃げなくてはならない[創19:17]。さもないと、神から下った火が滅びの町にいる彼らを包んでしまうであろう。「あなたがお与えになると、彼らは集め……ます」。私たちは集めない限り持つことはできない。

 キリストにある兄弟たち。種々の霊的な賜物を期待したければ、それらを集めなくてはならない。例えば、私たちの魂には食物が必要だが、主によってごちそうを食べさせられるのを期待する者は、種々の手段を用いなくてはならない。主のみことばを聞くか読むかし、個人的な静思の時に傾注するといったことを行なわなくてはならない。こうしたことが、私たちに対する恵みの経路なのであり、それらをないがしろにするとしたら、私たちに災いあれ。もしあなたの友人が骨と皮ばかりになるほど痩せこけてしまい、ほとんど立っていられないほど衰弱しているのを見たとしたら、あなたは一体なぜこれほど虚弱になったのかと尋ねるであろう。相手はかつては元気一杯の強壮な人だったからである。あなたは彼に云うであろう。「ねえ君。一体全体どうしたっていうんだい?」 あなたは彼が何か摩訶不思議な病気について話してくれるものと期待する。だが、否。彼の話ははるかに単純である。その告白するところ、彼は食べていないのだという。三度三度の食事をせず、ごくまれに少量の滋養物を摂るだけなのである。あなたは彼の虚弱さ、憔悴ぶりをすっかり理解する。彼は養分を摂らないことによって、体をこわしているのである。さて、キリスト者である人が、自分には疑いと恐れで一杯だと文句を云い、かつて有していたような主にある喜びを全く感じないし、祈りも、イエスのための労苦も全く楽しくないと云うとする。そのとき、もし彼が平日夜の礼拝式を全くないがしろにし、祈祷会に決して来ず、自分の聖書よりも別のものを好んで読み、瞑想する時間が全くないとしたら、それ以上この人の霊的疾患を調べる必要はない。その人は、神が供しておられるものを集めていないのである。マナを宿営の外に放置し、岩からの水を味わいもせずに流れるにまかせているのである。自分の魂が正しい状態にないことに驚いてはならない。キリスト者たちは、ある人々のように一緒に集まることをやめる[ヘブ10:25]としたら、また、主に仕えることを忘れて、そのようにして自分の力を回復しないとしたら、みじめで、弱く、低調な状態に陥り、その魂は疑いや、思い煩いや、心配事といったもので一杯になってしまうであろう。だが、そうしたものは、神により近く歩み、《救い主》との親密な交わりを保っていたとしたら決して知られなかったはずである。

 私たち自身について云えることは、他の人々との関連における私たちの働きについても云える。もし私たちが魂のために祈るなら、神はその魂を私たちにお与えになるが、私たちは彼らを探し求めなくてはならない。主はある人を召して、ご自分の御名で語らせるとき、その人にある程度の成功を与えようと意図しておられる。だが、その人は油断なくそれを集めるようにしなくてはならない。一部の教役者たちは、長いこと福音を語っているが、一度も大した実りを見たことがない。一度もそれを集めようとしたことがないからである。彼らは求道者たちのための会を開いたことも、回心したばかりの人々に対して、自分のもとに来て助言を求めるよう励ましたこともない。神が彼らにお与えになっているものを、彼らは集めたことがないのである。多くの信仰告白者たちは、常に教会が増加することを願っている。この世に対する攻撃的な働きがなされることを見たいと思っている。なぜ彼らはそれに着手しないのだろうか? なぜ天を眺めたまま立ちつくしているのだろうか? 彼らは、手段もなしに魂の回心を見られると期待しているのだろうか? 愛する兄弟たち。下らない考えを私たちの頭に入れても何の役にも立たないであろう。今日に至るまで、神は媒介的な手段を用いてこられたし、再臨が起こるまで、そうし続けるであろう。主が天から下って来られるとき、それは、主がそのとき何をなさるかについて私たちが語り合う十分な時となるであろう。だが主が来られるまでは、主が私たちにお与えになる魂を集め続けようではないか。私たちが、途方もなく必要としているのは、いかにして魂をかちとるかについての諸会議よりは、それを行なおうとする人々である。私は提案する。話は少なくし、働きを多くするが良い、と。祈りはいかに積んでも十分ということはないが、確かに私たちにはもっと多くの努力が必要であるに違いない。主はモーセに云われた。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え」[出14:15]。私たちは、「さめよ。さめよ。主の御腕よ!」*[イザ51:9]、と叫ぶが、主はこうお答えになる。「さめよ。さめよ。力をまとえ。シオン!」[イザ52:1]。主は十分に目覚めておられる。目覚めを必要としているのは私たちの方である。私たちは主の御霊を求めて祈っているし、それは至当なことである。だが、神の御霊は決して遅れていない。私たちは自分で自分を制約[IIコリ6:12]しているのである。主は、もし私たちが主の役に立つにふさわしい器[IIテモ2:21参照]となるとしたら、私たちを用いてくださるであろう。おゝ、私たちが自分を全く神の御霊に明け渡し、そのお望みのままに――さながら雲が風によって吹きやられるように――持ち運ばれるとしたら、どんなに良いことか。そのとき、主は引き寄せ、私たちは急いでやって来る[雅1:4]であろう。主はお与えになり、私たちは集めるはずである。

 IV. この聖句を第四に用いて示されるのは、甘やかな思想である。《私たちは、神がお与えになるものを集めて良い》。私たちには、主がお授けになるものを自由に享受すべき天来の許しがある。

 あわれな罪人よ。あなたは、主がその福音において罪人たちに与えておられるものを何でも自由に集めてかまわない。マナが荒野に降ったとき、人々を遠ざけておくための番兵はひとりも任命されなかった。それを集めようとしてやって来た人々の人格や体験については何の取り調べも行なわれなかった。マナはただそこにあり、誰も拒否されなかった。人々の頭上には、この言葉が響いていた。「ほしい者はだれでも来なさい。そしてマナをただで取りなさい」。涙も資格証明書もそこには全くなかった。むしろ、その特別な意図はイスラエルを養うことにあった。何の分け隔てをする神学者もこう叫んだりしなかった。「あなたは律法の働きを内側に感じて、感覚を有する罪人となるまで来てはならない」。そうした類の言葉は一言も囁かれなかった。そして、主は罪人たちをいのちの水から遠ざけておくための何者も任命してはおられない。むしろ、多くの人々を選んでは、あわれな魂たちに近づいて飲むよう命じさせておられる。そして、聖霊ご自身がその力を振り絞っては、人々をそれへ引き寄せておられる。また、イエスはこう云っておられる。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」[ヨハ6:37]。そして私も、個人としては、いかなる人を阻止する任務も持っていないし、そうしたいとも思わない。神がお与えになるものを、あなたは集めて良い。小鳥たちは、果たして種や虫を楽しんで良いかどうか何の質問も発さない。彼らは食物を見ると、それを大胆に飲み込む。そのように、罪人たち。あなたは、神のあわれみについて種々の困難を持ち出すべきではない。主イエス・キリストを信ずる者は誰でも、救われるし、その誰でもは広大な言葉である。あなたは、こう云う必要はない。「私は自分が選ばれているかどうか分からないのです」。私もあなたに告げることはできないし、他のどんな人もそれはできない。「主はご自分に属する者を知っておられる」[IIテモ2:19]。そして、私たちの中の誰もそれについては何も知らない。ただ、神の御霊が私たちに教えてくださる限りにおいて、自分は主に属している、と分かるだけである。あなたの種々の思念は別の方向に向かうべきである。キリスト・イエスは、罪人を救うために来てくださった[Iテモ1:15]。あなたは罪人だろうか? 「欲する者は誰でも、来なさい」[黙22:17参照]。あなたは欲しているだろうか? ならば、やって来るがいい。もはや屁理屈を云っていてはならない。

 神は、人間が自分の地所の区画を守るようには、ご自分の恵みの緑園を守ってはおられない。人間は、古着だの鴉の死骸だのをぶらさげて鳥たちを近寄せないようにする。主は無代価で、とがめることなくお与えになる[ヤコ1:5]。ある種の説教者たちは、自分自身の病的な経験という死んだ黒鴉を吊しては、あわれな罪人たちがイエスを信じる単純な信仰にやって来るのを追い払おうとしている。だが、主はご自分の園に何の案山子も立てておられない。ただやって来るがいい。あなたがた、最暗黒の罪人たち。そうすれば、主はあなたを受け入れてくださる。いかに異様な、まだら模様の鳥であっても、あわれみが与えるものを自由に集めて良い。信仰の対象として福音の中で宣べ伝えられているものなら何でも、信ずる者は誰でも受け取ることができる。悔い改めに対して約束されているものは何でも、悔い改める者は誰でも受け取ることができる。そして、キリストのもとに行くことに対して約束されていることは何でも、キリストのもとに行く者は受け取って良い。「あなたがお与えになると、彼らは集め……ます」。というのも、神がそれをお与えになるのは集めさせるためだからである。神がマナをお与えになったのは、それを食べさせるためであり、神が天からパンをお送りになったのは、人々にそれが必要だったからであり、彼らを養うおつもりがあったからである。恵みは罪人たちのためのものであったに違いない。それは、それ以外のいかなる者にもふさわしくない。もし私にかたくなな心があるとしたら、神の御霊はそれを和らげることがおできになる。なぜ御霊がそうすべきではないだろうか? ここには、汚れた罪人がいる。また、向こう側には、完全なきよめを行なう、血で満たされた泉がある。なぜその人が身を洗うべきではないだろうか? キリストは、《救い主》以外の何者になるべきだろうか? そして、もしキリストが《救い主》であるとしたら、なぜ私を救うべきでないだろうか? 確かに、私が渇いているとき、また、私の前で水が湧き上がるのを見るとき、私も飲んで良いであろう。罪人よ。ここには、私たちの主イエス・キリストの恵みによって1つの泉が開かれている。そして、あなたはこちらの方にやって来た。それゆえ、私はあなたに示唆するし、神の御霊もやはりそれをあなたに示唆するよう祈るものである。その泉と、渇ける魂との間には、即座に1つの結びつきがあるべきである。神はあなたを招いておられ、あなたの必要はあなたを強いている。願わくは主の御霊があなたを引き寄せてくださるように。というのも、今でさえ、神がお与えになるものをあなたは集めて良いからである!

 V. 最後に考えさせられるのは、《神は常に私たちに集めるべきものをお与えになる》、ということである。

 こう書かれている。「主が備えてくださる」、と[創22:14]。先日、私は、ある共有地を歩いているとき、一羽の死んだ雀を拾い上げた。もう少し行くと、もう一羽を見つけた。そして、私の友人が私に云った。「私も一羽見つけましたよ」。彼は言った。「たいそう悪い季節だったのですな。この鳥たちは飢え死にしたに違いないですよ」。「いいや、いいや」、と私は云った。「あなたが拾い上げているのは、季節によって殺された雀の死骸ではありませんぞ。あの垣根の向こうにいる作男は、何列か若い豆のうねを持っており、彼は銃を構えていますよ」。人々が鳥たちを殺すのである。神は彼らを飢えさせはしない。

 兄弟たち。もしあなたが神の保護によって世話されているとしたら、あなたが欠乏することはない。あなたが自分の羊飼いであるとしたら、おそらく、そのうち非常に不毛な牧草地に迷い込むであろう。だが、もし主があなたの《羊飼い》であられるとしたら、あなたが乏しくなることはない。主はあなたを緑の牧場に伏させてくださる[詩23:1-2]。「若い獅子も乏しくなって飢える」。というのも、彼らは自分で自分の面倒を見ようとするからである。「しかし、主を尋ね求める者は」、しばしば非常に単純な考え方の人々で、ごく容易につけ込まれるとはいえ、「良いものに何一つ欠けることはない」[詩34:10]。というのも、神が彼らの面倒を見てくださるからである。私がしばしば注目してきたように、いかに素晴らしいしかたで、あわれな寡婦たちは、何人の子どもかかえながら身過ぎ世過ぎをしていけることであろう。彼女たちは、その夫に頼っていたときには、しばしば非常に苦しい生活をしていた。そして、夫が死んだときには、どう考えても飢えるしかないように思われた。だが、彼女たちはキリスト者の婦人であり、神を仰ぎ見た。そして神が彼女たちの《夫》となってくださり、神は彼女たちが失った男よりもはるかにすぐれた夫であられた。神が子どもたちを手に取り、彼らの御父となられるとき、彼らが物に事欠くことはない。助けが、思いがけない方面から引き起こされ、彼らには食べ物が与えられる。彼らはほとんどその訳が分からない。もし摂理において私たちが神に対する信仰によって生きることを学んでいるとしたら、私たちは確かに、神が私たちを裏切らないことを確信して良い。「主は正しい者を飢えさせない」[箴10:3]。

 このことは、霊的な事がらについても云える。もしあなたが喜んで集めようとするなら、神は常に与えてくださる。聖書に向かい、そして云うがいい。「主よ。約束をお与えください」。すると、自分の状況にふさわしい約束を見いだすであろう。行って、神が遣わされたそのしもべたちの話を聞くがいい。みことばを喜んで受け入れようという心をもって行くがいい。そのとき、あなたが空しく帰ることはないであろう。主は、あたかもあなたについてことごとく知っているのと同じように、私たちに、あなたの状況に対して語らせてくださるであろう。あなたの最も大きな器を持って来るがいい。すると主はそれを縁まで一杯に満たしてくださるであろう。信仰者がその口を大きく開いて、主がそれを満たしてくださらないことはない。喜んで集めるがいい。するとあなたは、こう確信して全くかまわない。天来の満たしが自分の必要を満ち足らすことをやめることは決してない、と。

 このようにして、1つの非常に単純な聖句から、私たちは私たちの教訓を得てきた。家に帰り、あなたが集めたもので自分を養うがいい。そして、主の御名を忘れずにほめたたえるようにするがいい。

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宇宙の糧食供給[了]

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