HOME | TOP | 目次

シオンを建てる神の栄光

NO. 3147

----

----

1909年6月3日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「なぜなら、主はシオンを建て、その栄光のうちに現われ」。――詩102:16


 主ご自身が「シオンを建て」るのでない限り、それが建てられることは決してないであろう。主が最初にそれを計画された。主がご自分の《教会》の《建築家》であられる。主はその土台を掘られた。すなわち、偉大な《礎石》[Iペテ2:6]をお与えになった。主ご自身が、自らの力によって、あらゆる生ける石[Iペテ2:5]を創造し、磨き上げ、それぞれの所に嵌め込まれる。その構造全体を固定し、最初に見取り図を作成したように、その詳細に至るまで完成し、ご自分の知恵と、ご自分の恵みと、ご自分の愛とがほめたたえられ、栄光を現わされるようにされるであろう。シオンの城壁のすべてが建てられ、そのすべての宮殿が完成し、そのすべての幸いな住民が白い衣を着て、歌でその口を満たされるとき、シオンについては、こう云われるであろう。「主がそれをお建てになったのだ。その土台から、その冠石まで」、と。私は、アルプスの間近に建っている一軒の家を見たことを思い出す。その家の正面には、このような言葉が記されていた。「この家は、その住人たちの技量と、富と、精励によって全く建てられた」。ある家の正面にこのように記しておくというのは、あまり穏当なこととは思われなかった。というのも、結局において、その建物は大して素晴らしいものではなかったからである。だが、私たちが神の《教会》という栄光に富む建築物を見るとき、その光彩の決して小さくない部分には、このような銘がふさわしく掲げられているであろう。「この家は、全く無限のエホバの知恵と、惜しみなさと、力とによって建てられた」。

 I. しかし、この聖句は、その、決して忘れられないだろう真理を思い出させてくれる一方で、他の3つか、4つの真理をも私たちに思い起こさせる。そして、本日の講話の第一の点は、<《建て上げられるシオン》>である。

 私たちはみな、こう考えて良いと思うが、シオンを建て上げるために欠かせない1つのことは、<実際的な回心>であろう。罪人たちを闇の中から驚くべき光の中に招く[Iペテ2:9]という、聖霊の力が見られもしない所で、人がいくら、自分は教会を建てているのだ、などと云っても何の役にも立たない。時期によっては回心がほとんど起こらないこともあるかもしれない。だが、もしそうしたことが、例外である代わりに、ある人の伝道牧会活動の通例となってしまうとしたら、神はそうした教役者の内側で働いておられないのではないか――確かに教会を建てるという意味では働いておられないのではないか――と疑うべき重大な理由となるであろう。聖書を見ると、時々、家族の父たちが「建てる者」と呼ばれており、「家を建てる」という言葉は、家族の一員の誕生や育成について絶えず用いられている。さて、キリスト教会という大家族において、私たちの回心者たちは新しく生まれる子どもたちであり、ある家族が神のために建て上げられるには、そうした息子たち娘たちがいなくてはならない。宮殿の建物にふさわしく磨かれた石[詩144:12 <英欽定訳>]のような息子たち娘たちである。私たちは、若き回心者たちがどれほどの祝福を私たちにもたらすかほとんど分かっていない。彼らは老いたキリスト者たちの脈動を活発にし、長年のあいだ真理に歩んできた人々の信仰を強め、確証し、聖徒の交わりの中に、いわば新しい血液を注入する。彼らは、高みから神の使信として私たちのもとにやって来る。彼らは、良いことのしるしである。そして、ことによると私たちは、十字架の勝利など、神の御霊がペンテコステ的な程度で注ぎ出された英雄的時代に限定されているものだと考えていたかもしれないが、それでも、私たちの息子や娘たちが回心し、新生という偉大な奇蹟が今なお行なわれつつあるのを見るとき、私たちは元気づき、勇気を奮い起こして主のわざに励み続けるのである。私たちには回心がなくてはならない。それなしにシオンが建てられることは決してないからである。

 それから、回心に続いて、<信仰の公の告白>がなくてはならない。目に見えない、神の《教会》は回心によって建てられるが、外的な教会は、ただ人々が、いわゆる「教会」という聖なる団体内で1つにまとまる場合にのみ建て上げられる。自分の受けた信仰を公然と認めることは、あらゆるキリスト者の義務である。――否、それは、その人の霊的いのちの本能である。――そして、これを公然と認めることにおいて、その人は、すでに同じ告白をした他の人々の仲間となったことを見いだし、聖なる労働において彼らを助ける。その人は、自分が強いときには、弱い人に力を貸し、自分自身が弱くなるときは、たまたまその時、信仰において強くある人々から力を借りる。もし教会の交わりが崩壊していたとしたら、私たちのキリスト教諸団体はどこにあっただろうか? 明らかに、ひとりのキリスト者が教会の交わりの外にとどまることが正しいとしたら、全員がそうして正しいはずである。それで、もし何の教会もなかったとしたら、何のキリスト教団体もななくなるであろうし、福音そのものがどこにあることになるだろうか? 私は神の教会にあまりにも大きな強調を置きたくはないが、あえてあなたに尋ねたいと思う。教会は、「真理の柱また土台」[Iテモ3:15]と書かれてはいないだろうか? ならば、もし私が私の信仰の告白を、また、目に見える教会との私の個人的な交わりを差し控えるとしたら、その限りにおいて、私は信仰の柱また土台を弱めてしまうのである。私たちには、回心と同じくらい信仰の告白が必要である。

 このように形作られた教会が建て上げられるためには、さらなるものが求められる。<一致なしに建てることはできない>。家は煉瓦の山ではないし、教会は人間たちの単なる寄せ集めではない。家には、その扉や、窓や、土台や、屋根の垂木や、天井がなくてはならない。そのように、教会は組織されていなくてはならない。はっきり異なった職務と、役職者がいなくてはならない。種々の働きの部門がなくてはならず、キリストご自身の任命に従って、しかるべき人々が見いだされ、そうした部門を統括しなくてはならない。

 私たちの《救い主》が高い所に上げられたのは、人々のための賜物を受けて、種々の賜物を人々に分け与えるためであった。そして、そうした賜物とは、最初に使徒、次に牧師、また、教師、伝道者等々であり、「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです」[エペ4:8、11-13]。古代ローマの城壁のいくつかは、非常にすぐれた凝固剤によって固められているため、ある石を別の石から切り離すことがほとんど不可能なほどである。事実、その塊全体が一個の堅い岩のように一体化し、あまりにも緊密に凝固剤に埋め込まれているため、ある石と別の石を区別できないのである。幸いなことよ。このように建て上げられている教会は。そこでは、各人が、自分の健やかな成長を気遣うだけでなく、全員が健やかに成長することを気遣っている。――そこでは、もしもある会員に何か喜びがあれば全会員が喜び、もしからだの一部に悲しみがあれば、からだの残り全体もまた悲しむ。「牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているため、苦しめられている人々を思いや」*[ヘブ13:3]るのである。だがしかし、一部の教会は、ただの宗教団体めいた倶楽部か、人々が一緒に集まるだけの寄り合いでしかないではないだろうか? 彼らの中には、一致の精髄である聖い魂がない。全体として彼らをまとめる何のいのちもない。何と、魂が中になければ、からだはたちまち分離し、腐肉の塊になるであろう。そして、もしキリストの御霊がおられなければ、外的な教会の全組織はばらばらになり始める。何のいのちもない所には、何の真の結合もないからである。

 それだけでなく、教会を建て上げるには、<建徳と、信仰の指導>が必要である。これは痛恨すべきことだと思うが、今はキリスト者である人々が徳を建て上げられたいと願っている時代ではない。今の時代の人々は、自分に都合の良いことを云ってもらう[IIテモ4:3]ことを好み、逸話や心を興奮させられるようなたとえ話を喜んでいる。だが、神の恵みの健全で堅固な諸教理について良い教えを受けることについては、ほとんど関心がない。古の清教徒時代、説教は無思慮な者たちにとっては退屈なものであったに違いない。だが、今日の説教は、思慮深い者らにとって、ずっと退屈なものになっていると思う。当時のキリスト者は、神のみこころのこと[Iコリ2:11]を大いに知りたいと欲していた。そして、説教者が何らかの奥義を自分に解き明かすことができるとしたら、あるいは、自分をより聖く、より賢くしてくれるような、キリスト者生活の実際的な点について説明できるとしたら、相手が全く雄弁家でなくとも、新奇な思弁の領域に全く導かなくとも、十分に満足していた。当時のキリスト者が欲していたのは新しい信仰ではなかった。むしろ、昔からの信仰を受け取った上で、その信仰に堅く根ざし、また、基礎を置くことを願っていた。それゆえ、彼らは日ごとに、生かされることだけでなく、光を受けることを求めた。彼らが望んだのは、種々の情緒がかき立てられることだけでなく、知性に天来の真理が豊かに蓄えられることであった。そして、こうしたことがあらゆる教会で大いになされない限り、教会が建て上げられることはない。確かに、種々の情動に対する訴えをないがしろにする必要はないし、人々の心をとらえ、興奮させることを忘れる必要もない。だが、それとともに、私たちには、天国の堅固なパン麦がなくてはならない。それなしには、神の子どもたちは、この荒野の退屈な道中で弱り果てるであろう。

 しかしながら、まだ教会を建て上げるということについて、すべてを描き尽くしたという気はしない。というのも、私が描写してきたような教会では、キリストがそれを制定した目的を果たさないだろうからである。キリストがご自分の《教会》を制定されたのは、<ご自分の攻撃的な代行機関>として、罪と戦わせ、かつ、かの悪い者[Iヨハ5:19]の支配下にあるこの世界と戦わせるためであった。それは光となるべきである。龕灯提灯の中の蝋燭のように、自らに対する光ではなく、外部にいる者たちに対する光たるべきである。私たちは行ないによって救われはしないが、救いの究極的な結果は常に行ないでなくてはならない。救いの原因は恵みにあるが、救いの効果は行なうことに現われる。神の恵みがある魂を満たせば、確実にその魂は、他の人々が導き入れられるのを見たいと願う。自分の建物に何の借金も負っていない、あのご立派な教会、あの金持ちの教会は、その教役者が可能な限り薄給でありさえすれば満足する。――何の熱狂主義もなく、何の熱心もなく、常に思慮と、保守主義と、正統信仰とについて、同じことをくどくど説いていれば、また、攻撃的になろうなどとは、つゆにも思っていなければ良いのである。――このような教会は、別の土台の上に立てられる必要がある。その木や、草や、わらを取り除き、金や、銀や、宝石の上に建てられる必要がある[Iコリ3-12-15]。さもなければ、それがキリストに誉れを帰すことはない。

 キリスト者であるあらゆる人の徳を建て上げるために必要なのは、その人が何らかの務めを持つことだという気がする。私たちは、教練されることによって、兵士であることを学ぶ。否。古強者は、戦いによって戦うことを教えられる。ほとんどの教役者が知っていると思うが、説教を学ぶ最上の方法の1つは説教することである。そして、キリスト教を学ぶ最上の道の1つは、実際的にキリスト者となることである。ある人が云った。「善を行ないたければ、善良になれ」。そして、私は時としてこう思ってきた。もし私たちが善良になりたければ、善を行なわなくてはならない、と。私たちを善良にするためではないが、私たちを良い健康に保ち、良く訓練するための最高の規律としてである。キリスト教の奉仕によらずに、神に自分をささげられるなどと希望しないようにしよう。また、もし教会がこの世でキリストのために何かできることはないかと探し回らず、手当たり次第何でも行なうことをないとしたら、献身的な教会になれるなどと希望しないようにしよう。

 しかし、私はさらに一歩先へ進まなくてはならない。ある教会が、これまで私の述べてきた一切のものとなった後で、次に行なうべきことは、<他の諸教会の形成について考える>ことである。一帝国の建設は、しばしば植民地化によらなくてはならない。私たちが誇りをこめて「日の沈むことなき」ものと呼ぶ、女王陛下の諸領土は、他国に出ていった英国の息子たち娘たちによって大いに拡張されてきたのであり、キリストの《教会》を増加させる真の過程も、それが幾多の植民地を形成することによらなくてはならない。あえて誰が否定するだろうか。英国およびその他の場所で多くの礼拝所を建てることには、キリストと同じくらい悪魔が関係していることを。これは、他の教派はいざ知らず、私たちの教派内では、ということである。おびただしい数の会堂は、分派や、癇癪や、論争や、ねたみや、その他の有象無象の結果である。――ことによると、真理の何らかの点についての口論や敵対によるものかもしれない。だが、そうした点は、たとい重要であったとしたも、愛と一致との精神ほどは重要でありえない。何度となく建物は神に奉献されてきたが、そこに至らせた最初の考えも、それを完成させた最後の行為も、ただの高慢か、ねたみか、純然たる派閥間の意地の張り合いから出た考えや行為でしかなかった。さて、疑いもなく神はそれを益となるよう転じてこられたとはいえ、これが正当なことであるとは思わない。だが、何人かのキリスト者たちが、ある教会の中で互いに仲間となり、自分たちがいなくなっても十分やって行けるだけ教会が強く成長していることを悟ったときに、こうした人々が一斉に移住して、別の教会を形成し、自分たちの財産をささげて別の建物を建てることは、シオンがわが国の領土内で建て上げられるための、正当で、しかるべき手段であると私には思われる。

 II. <《シオンが建てられることは、この聖句によると、エホバの栄光が現わされることと関係している》>。

 「なぜなら、主はシオンを建て、その栄光のうちに現われ」。あゝ、兄弟姉妹たち! 神の《教会》が建て上げられることによって神に帰される一切の栄光について告げるには、熾天使でなくてはならないであろう。神が地上に1つの《教会》を持とうと計画されたことを最初に御使いたちが知ったとき、天国は歓呼の声で鳴り響いた。その最初の約束[創3:15]の微かな光によって、世には蛇の子孫だけでなく、女の《子孫》もいることになると悟ったとき、彼らはエホバをたたえて賛美し始めた。そして、キリストが与えられ、そのようにして《教会》の土台が現実に据えられたとき、被造世界の栄光は覆い隠され、摂理の光彩さえも、それ以上に超越した恵みの栄光の中で、ほとんど忘れられそうになった。神は、それ以前も驚くべきことをしてこられたが、いかなる時にもまして神聖に思われたのは、ご自分の愛する御子を与えたとき、また、神が愛してやまない御子の聖い生涯と死の激痛のうちに《教会》の土台が据えられたときであった。

 そのように、やはり神は、その《教会》を建てる、一切の事細かな部分において栄光を現わされる。ただ1つの石さえ、それが自然界の暗い穴から切り出され、恵みの道具で磨きをかけられ、所定の場所にはめ込まれた際に、神への清新な誉れと、神の御名への新たな栄光が帰されなかったことはない。神がその栄光を<より>高められることはありえないが、その《教会》を建て上げることによって、より豊かに栄光に富んだ御姿を現わされる。そして、その冠石が持ち出されるときには、――最後の選民が、目に見える全体へと堅く固着させられるときには、――いかなる栄光となることであろう? 主権や力に対して神の豊かな知恵が、《教会》によって示されることになる[エペ3:10]、その絶えることのない旋律、やむことのない代々の歌は、いかなるものとなるだろうか?

 しかしながら、時として、1つの疑念が神の民の精神に起こることがある。神は、その《教会》によって栄光を現わされなかったのではないか、と。そして、この聖句もほとんどそう示唆しているように思われる。神が栄光を現わされないというのではないが、いずれにせよ、神は、ある時点においては別の時点ほど、《教会》の中で栄光を現わされていないのではないか、と。「主がシオンを建てるときには」<英欽定訳> と云うのでは、まるで神が、普段はシオンを建てていないかのようである。少なくとも、同じ程度では建てておられないかのようである。私たちが痛ましい経験から知っているように、《教会》には、べた凪に襲われる時期があり、多くの人々の思いにとって、神の栄光は明らかに示されなくなるのである。そうした結果、シオンの住民たちは柳の木々に自分たちの立琴を掛け[詩137:2]、嘆き暮らした。だがしかし、私たちにもっと信仰があり、もっと背景を解するようにするとしたら、私たちは、私たちの《愛する方》のために、その葡萄畑についての私たちの歌[イザ5:1]を歌えるであろう。たとい林の猪がこれを食い荒らし、その石垣が破られていても[詩80:12-13]である。波は引くが、潮は差してくる。薄暗い日に見えても、刻一刻と昼間になりつつある。神は小刻みにお進みにはならない。私たちは、何哩単位でも測りきれないお方を、一吋きざみで判断してはならない。山々もその御手には小さすぎ、島々も細かいちりのように取り上げるというときに、ひと握りずつ判断してはならない。私たちはこう信じる。間断なく神はその《教会》を建て上げつつあり、その栄光のうちに現われておられる、と。

 ことによると、一、二のことを考えれば、このことがもっと明確になるかもしれない。神はしばしば、その建築師たちのひとりとしての私に対して、栄光のうちに現われてくださる。そして、私はあなたに、それがいかなる点においてかを告げたいと思う。私が求道者たちとの面会のために座っているとき、時として見いだしてきたのは、神が私の最も貧弱な説教のいくつかを祝福して魂を回心させてくださったということである。――私が泣いて悲しめると思っていた説教、並外れて弱々しい説教、ただ真摯に語られたという以外、全く祝福を受ける要素に欠けていた説教によってである。その働きを行なった働き人が、天性的には弱く、その折には虚弱さのため通常以上に抑鬱していたことを見てとるとき、私は手を上げてこう云うことしかできなかった。「今こそ、主よ。あなたはその栄光のうちに現われておられます。あなたはシオンを建て、最も見込み薄な手段によって罪人たちを回心されるからです。そして真理は、見るからにごく弱々しく語られるときも、この上もなく強大な結果をもたらしています。これは、あなたの御名を実に栄光に富むものとします!」

 別のことによって、神がその栄光のうちに現われるのを見させられることがある。人々を育て上げ、教育してきた説教が、実は肉体的ないのちに対する疫病のように、霊的ないのちに対して敵対するものだったという場合である。そうした人々は、若い頃から、キリスト教信仰をその、ごてごてとして象徴主義の見世物のすべてにおいて見てきていた。だがしかし、単純な福音説教を一度聞いただけで、彼らが回心するには十分だったのである。ことによると、聖句をたった1つ読んだだけで、四十年間のもつれが解かれてしまったこともあったかもしれない。神のことばの一箇所に触れただけで、精神に及ぼされた司祭主義の専制が倒れてしまったかもしれない。ルターの場合は、そうした一例である。そして、そうしたすべての場合において、神はその栄光のうちに現われておられる。個々の回心を、特に長年キリストの福音とはまるで逆のものに慣れていた人々が突如回心した場合を眺めるとき、神がその栄光のうちに現われておられることが分かるであろう。

 また、神の《教会》に敵対する、四方八方の活動のことも考えてみるがいい。あのユダヤ人たちは、エルサレムの城壁が高くなって行くのを見て喜んだ。なぜなら、ゲシェムや、トビヤや、サヌバラテ[ネヘ2:19]その他の者どもが自分たちを笑い物にし、あざけったことを思い出したからである。こうした敵たちが笑ったにもかかわらず、城壁は高くなって行き、トビヤがあえて予言したような狐たちがその城壁を崩すこともなかった[ネヘ4:3]。この時代においても、《教会》には敵たちがいないわけではない。そして、彼らは非常に危険な種類の敵たちである。必ずしも常に、敵であると公言しているとは限らない。彼らの中のある者どもは、私たちに疑うことを教える。――自分自身が疑っているからではないと彼らは云う。むしろ、私たちの精神にとって、古臭い教義の桎梏を取り除くことがごく健全なことだからだというのである。彼らは自分自身が不健全なのではない。だが、むしろ、ある兄弟がたまたま不健全になるなら、その人を守るだろう。そうすることによって、自分たちがもっと十分に守りを必要とするときに、自分自身のための守りを供することになるだろう。もし彼らが、自分たちの信じていること、あるいは、自分たちの信じていないことを言明しようとするだけだとしたら、こうした敵たちを扱うことは容易であろう。だが、すべてのことがあまりにもはっきりせず、あまりにも曖昧であるため、私たちは、こうした微細な敵どもを扱わなくてはならないときには、まるでエジプトにいた蝿の災いの下にあるような気分がする。

 しかし、思い起こしたいのは、こうしたすべてにもかかわらず、神はなおもご自分の《教会》を建てておられるということである。過去の十年間、二十年間を振り返って見て、こう云うとしたら私は楽天的に過ぎるだろうか? この時代は、結局において、以前よりもましになっている、と。これは、この世がましになっているといことではない。だが、全体として今は、十年前にくらべると、ずっと多くの福音的な説教がなされており、ずっと熱心に神への嘆願がなされているという意味である。お世辞を云う趣味はないが、私たちはある程度の進歩を遂げたという気がするし、キリスト教会は以前よりも覚醒しているという気がする。確かに、敵たちはずっと騒々しくなっている。そうさせておくがいい。思うに、満月に近づけば近づくほど、犬どもは吠えるのである。収穫が熟せば熟すほど、鳥たちが大挙してやって来ては、穀物を食べようとするのである。それは予期していなくてはならない。だが、神は、その敵どもがその《教会》を取り巻けば取り巻くほど、その栄光のうちに現われておられる。

 こうしたすべての事がらからして、――あわれな器、あわれな素材、そして、おびただしい数の敵からして、――私たちはこう云おうではないか。このような状況下で神がシオンをお建てになるとき、神はその栄光のうちに現われておられる、と。

 十二使徒が最初にローマの偶像礼拝を攻撃したとき、それは何と壮烈なことであったことか。――願わくは、この時代にもそれが繰り返されるのを見られるように!――由緒ある格式は、ローマの偶像礼拝を尊崇すべきものとしていた。その後ろ盾には皇帝であるカエサルと、その全軍団が控えており、あらゆる吉兆がそれを守っていた。それでも、この十二人の人々は、《王の王》以外の何者の庇護も受けず、イエスの足元で学んだもの以外に何の学識ものなく、ダビデの石投げと石ころくらい素朴な武器しか持たずに戦いに出て行ったのである。そして、あなたも知る通り、かの怪物じみた偶像礼拝の身の毛もよだつような頭は、やがてその乱闘から喜び勇んで戻ってきたキリスト教という戦士の手中にあることとなった。それは再び起こることであろう。そして、そのとき、無数の証人たちの歓声の真中で、神はその栄光のうちに現われるであろう。

 III. ごく手短にいま注目したいのは、<《期待される希望》>である。

 もし神がシオンを建てることによって栄光を現わされるとしたら、間違いなくシオンは建てられるであろう。もし神が罪人たちの回心によって、また、回心した人々をまとめあげることによって栄光を現わされるとしたら、こう希望することは自然であると思われる。しかり、確実にこう結論して良いであろう。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる[イザ9:7]、と。

 かりに、あなたが一個の孤立した被造物として創造されたと考えさせてほしい。また、神ご自身の御口から、こうあなたに知らされていたとしよう。数え切れないほどの世界を創造することで神の栄光が現わされることになるのだ、と。では、あなたは、諸天と大地が創造されることになる最初の日を期待して待つことにおいて理不尽になるだろうか? あなたは、その預言に信仰を置きながら、じきに絶対の確信を深めることであろう。神が創造によって栄光を現わされることになる以上、神は創造なさるであろう、と。また、かりに、世界が創造されたのを見たとき、あなたが神のご自身の御口からこう知らされたとしよう。神が人間の出来事を掌握し、一切のことをご自分のみこころのご計画に従ってつかさどることが、神のご栄光のためになるのだ、と。そのときあなたは、神がそうなさると確信するのを感じるであろう。よろしい。あなたはここで明確に、神がその《教会》を建て上げることは、神のご栄光のためになると知らされているのである。ならば、この推論を引き出すがいい。大胆に、否、確信をもって引き出すがいい。そして云うがいい。「これは神のご栄光のためになるのだ。ならば、これは成し遂げられるに違いないし、成し遂げられるはずだ」、と。

 私は、ルターがこう云い云いしていた精神を好んでいる。すなわち、神を自分の喧嘩に引き込めたときには、自分は安全に感じる、と。それがルターだけだったとき、彼にはその帰趨の見当がつかなかった。だが、もしもこれこれのことがなされなければ、彼の神に傷がつき、不名誉が帰され、なされればそのご栄光が現わされると感じたとき、そのとき彼は十分安全に感じたのである。そのように、愛する方々。真理の大いなる十字軍において、神は疑いもなく私たちとともにおられるではないだろうか? 《教会》という船はキリストと、そのすべての幸運をかかえている。では、いかにして難破することがありえようか? 《教会》の誉れは、キリストの誉れと栄光とからみ合わされている。もし教会が過ぎ去るとしたら、もし教会が見捨てられるとしたら、その《指揮官》、その《かしら》、その《夫》はどこにいるだろうか? しかし、その誉れが安全でなくてはならない以上、教会も安全である。シオンは高く上げられ、神はその栄光のうちに現われるであろう。

 IV. 本日の主題全体は、<《1つの問いかけを示唆している》>。

 私は、神に栄光をもたらすこのみわざに、少しでも関係し、あずかっているだろうか? 私はそのことに2つのしかたで関わっていなくてはならないであろう。建てられる者として、また、建てる者としてである。私は、まず前者においてそれと関わっていない限り、後者の立場において、それと全く関わっていないことがありえる。神は、シオンを建て上げることにおいて栄光を現わされる。<私は、建て上げられるべきシオンの一部であることによって、神の栄光に寄与しているだろうか?> 私はある人がこう云うのを聞いたことがある。彼は自分が永遠に破滅するという見込みによって、なかば自分を慰めていた。彼は、かたくなな罪人であったが、何らかの種類の慰めをこう考えることで引き出そうとしていた。すなわち、もし彼が永遠に失われれば、彼はキリストの栄光を現わすことになるというのである。彼が事をそのようなしかたで云い表わしたとき、私は愕然とし、恐怖に捕えられた。ある意味で真理ではあるが、それが嘘っぱちの衣でくるみこまれるようなしかたで彼によって扱われるのを見ることに私は耐えられなかった。私は、別の聖句を引用せざるをえなかった。「わたしは誓って言う。――神である主の御告げ。――わたしはだれが死ぬのも喜ばない」*[エゼ33:11; 18:32]。どこを探しても、神が、誰かが死ぬことから栄光を引き出すなどと語っている箇所はないであろう。ある魂が滅びることが、《永遠の御思い》の何がしかの満足感に資するなどという箇所は見つからないであろう。疑いもなく、そこでは神の正義の栄光が現わされるに違いない。――処刑人の斧を取り巻く、ぞっとするような光彩である。だが、それは神がごく僅かしか語っておられない栄光である。そして、その栄光について本日の聖句は全く何も語っていない。神の真の栄光は、死の山で処刑された人数を喜ぼうとはせず、幸福で幸いにしている家臣たちを喜ぶ王の栄光のようなものである。神が喜ばれるのは、陰惨にも投げ捨てられなくてはならない魂ではなく、全能の恵みが選び、贖い、救った魂である。

 愛する方々。もしあなたの理性が正しい状態にあるとしたら、あなたは、あなたを造られた神の栄光を現わしたいという何らかの願いを有するだろうと思う。「牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている」[イザ1:3]。あなたは知らないだろうか? 悟らないだろうか? もしあなたが家を建てるとしたら、あなたはそこに何らかの慰安があることを期待する。もし畑に種を蒔くとしたら、何らかの穀物をそこで集めることを期待する。では、あなたを造り、あなたの鼻に息を入れ、日々あなたを養っておられる神は、――この神は、それでもあなたから何の誉れも、何の栄光もあなたから得られなくとも良いだろうか? あなたは時の潮にただよう藻屑のように無価値なもので、人間のいのちの真の目的のためには生きていないのだろうか? この問いをあなた自身に発するよう願っても良いだろうか?

 果たしてあなたが、神の《教会》を建て上げることにおいて神の栄光を現わすことに何か関わりがあるかという問いかけは、あなたにとって非常に役に立つものとなりえる。もしあなたが、この件における恩恵に全くあずかっていないことに気づくとしたら、その思念は神によって祝福されて、あなたをはっとさせはしないだろうか? おゝ、人々がはっとするとしたらどんなに良いことか! 彼らは、永遠の御怒りが迫りつつあるときに眠っているのである。おゝ、彼らがその衝撃を感じ、その一撃を防ぐとしたらどんなに良いことか! 眠りの時代には、一驚させる説教者が必要である。いま、あなた自身にとって一驚させる説教者となるがいい。おゝ、人々よ。あなたがたの中のある人々は、そうならないとしたら、それを期待するにも絶望的である。――あなたが神の《教会》に組み入れられても、神は何の栄光も現わされないであろう。というのも、あなたは谷間の石ころのようであり、組み合わされることなく、役に立たないままそこに横たわっており、最後には、《破砕機》が破壊の働きを行なうためにやって来るとき、槌で砕かれることになる。罪人よ。あなたは神の栄光を現わしたいだろうか? あなたは一度も、ユダヤ人からキリストに尋ねられた、この質問を聞いたことがないだろうか? 「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか」。そして、これがキリストの答えであった。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざ(すべての中でも主立ったわざ)です」[ヨハ6:28-29]。もしあなたが神の栄光を現わしたければ、自分をへりくだらせ、膝を屈め、御子に口づけするがいい[詩2:12]。そして、主イエス・キリストから救いを受け取るがいい。そのとき、この土台の上に建てられるとき、あなたは神の栄光を現わすことになるのである。

 この問いかけは、新しい形に変わる。<あなたは、あなた自身がシオンを建てる者となるという点に関して、神の栄光を現わすことに何か関わっているだろうか?> この唇がこのようなことを云うのは恥ずべきことだが、私たちは悲しい真実を語らなくてはならない。一部の者たちは、建てられていると告白してはいるが、建てることはしていない。ある者らは、自分はしもべであると云うが、仕えていない。ある者らは、葡萄畑にいると云うが、働いていない。ある者らは自分は兵士だと云うが、戦っていない! 私の兄弟たち。私が、自分の霊的な相続財産の最も尊い部分の1つとみなしているのは、キリストに仕えることを許されているということである。云わせてもらえば、たとい私たちの主イエスが、この地上で私にお与えになったものが、ただ主に仕える特権のほか何もなかったとしても、私はそのために主を永遠にほめたたえるであろう。《王の王》のしもべとなるのは、決して小さな栄誉ではない。また、キリストに誉れを帰し、魂をかちとることは、非常な喜びの種であり、もしあなたが少しでもそれを味わったことがあるとしたら、それをより多く渇望していないことがほとんど信じられない気がする。あなたはキリストに1つでも魂をかちとったことがあるだろうか? 霊的な感謝を表わす手を一度でも握ったことがあるだろうか? 回心者の目から涙が流れ落ちるのを見、こう云われたことがあるだろうか? 「神の祝福あれ! 私は天国であなたのことを思い出すでしょう。あなたが私をキリストに導いてくれたのですから」。おゝ、私の愛する方々。あなたは単にこれだけでは満足しないであろう。というのも、こうした種類の食物は人々を飢えさせるからである。おゝ、あなたがそのご馳走をしこたま食べることができ、だが、さらに多くを欲するとしたらどんなに良いことか!

 キリストの《教会》は建てられるはずであり、建てられるに違いない。たといあなたや私がじっと座していようと、それは建てられるであろう。これは栄光に富む真理であり、しばしば有害な目的のためねじ曲げられてはいるが関係ない。――《教会》は、私たちを抜きにしても建てられるであろう。だが、おゝ、私たちはそれが建てられのを助けるという満足を受け損なうであろう! しかり。《教会》は成長するであろう。あらゆる石はしかるべき所に嵌め込まれ、尖塔がその予定された高所へと持ち上げられるであろう。だが、あらゆる石は、土台から尖塔に至るまで、あなたに向かってこう云うかに思われるであろう。「あなたは、これと何の関わりも持たなかった! あなたは何の手伝いもしなかった!」 キュロス大王*1が彼の招待客のひとりを連れて、自分の庭園をぐるりと案内したとき、その客はそれを非常に賛嘆し、非常に楽しまされましたと云った。「あゝ」、とキュロスは云った「だが、そなたは余ほどの楽しみをこの庭園で得はしなかったであろう。というのも、余はあらゆる木を手ずから植えたからだ」。キリストがご自分の《教会》にこれほどの楽しみを有される1つの理由は、そのために非常に多くを行なわれたからである。そして、一部の聖徒たちが他の人々にまさって大いに満ち満ちた天国を受けて喜ぶことになるのは、彼らが他の人々よりも多くを天国のために行なったからである。神の恵みによって、彼らはより多くの魂をそこに導くことができた。そして、《教会》を眺めるときには、自己信頼やうぬぼれなしに、すべてを恵みに帰しつつ、自分たちが、主の御手の中にある器として、それを建てあげるために行なえるようにされたことを思い出せるであろう。「主はシオンを建て、その栄光のうちに現われ」なさる。

 


(訳注)

*1 キュロス大王。アケメネス朝ペルシアの創始者(600?-529 B.C.)。スパルタと、リディア、バビロニア、エジプト連合に勝利。エジプトの間に緩衝地としてユダヤ人国家をパレスチナに作った。聖書に出てくるクロス(II歴36:22)のこと。

----

シオンを建てる神の栄光[了]

-

HOME | TOP | 目次