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キリストの臨在の力

NO. 3146

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1909年5月27日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1873年2月2日、主日夜


「そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。『主です。』」。――ヨハ21:7


 今回は、キリストのために働いている私の兄弟姉妹に対して話をしたいと思う。私たちの主が湖の岸辺でご自分の使徒たちと出会い、あの忘れられない食事を供されたとき、主はペテロにこう云うことを場違いなこととは思われなかった。「わたしの羊を飼いなさい。わたしの小羊を飼いなさい」[ヨハ21:15-17]。こうした実際的な勧告を主は、聖餐を守ることにそぐわないものとは全くみなさなかった。それで私は、この礼拝式の後で聖餐卓のもとに出ることになっているとはいえ、実際的な事がらについて話をしても全く正しいと感じている。それは、キリストの働きと戦いにおける、私の同労者たち、私の戦友たちに対する言葉である。そして私は祈るものである。願わくは神が、私を通して、この場にいる、私たちの主なる《救い主》イエス・キリストを愛するすべての人々に語りかけてくださるように、と。

 知っての通り、ルカとヨハネの福音書には、2つの奇蹟的な大漁のことが記されている。本日の聖句を含む、この章に記されている奇蹟は、いくつかの点で、私たちの主の公生涯初期に行なわれたものと似通っている。

 主は、ご自分の使徒たちを召し出す前に、彼らに非常な大漁を得させる奇蹟を行なわれた。彼らが夜通し働いたが、何1つ捕れずにいたときのことである[ルカ5:5]。そして主は、十字架にかかって死に、墓からよみがえった後で、その奇蹟をほとんど同一のしかたで繰り返された。私たちの《救い主》は、ご自分の弟子たちに、その繰り返しから大きな教訓を学ばせようとしておられたのだと思う。その奇蹟は一幅の絵であった。そして主は、彼らがそれを眺めて、それが伝えるべきであった観念をとらえることを望まれた。おそらく彼らは、一回目にはそのすべてをとらえきれなかったのであろう。それで主は、その絵をもう一度彼らの前に掲げて、かつて彼らに教えようとされた教訓を再度学ぶ機会を得させてくださったのである。

 あなたも注意するであろうように、どちらの場合も、彼らは働いてきたところであった。夜通し働いたが、その働きは無駄であった。夜は、今もそうであるように、漁には最高の時間であった。彼らは、以前しばしば魚を捕った場所で働いた。彼らは老練な漁師で、自らの職業に長じていたからである。それでも、他の折に上首尾を収めたあらゆる手段を用いた後でも、不首尾に終わった。何も捕れなかったからである。また、彼らは倦むことなく働きもした。単に夜働いただけでなく、夜通し働いた。月明かりの中、岸から舟を漕ぎ出したときから、暁の星が新しい日の始まりを予告するときまで働いた。だが、何も捕れなかった。

 これによって教えられるのは、たとい私たちがキリストのために働き、主のために魂をかちとろうとし、最上の時期に、最高の手段で働き、倦むことなくそうし続けたとしても、それでも不首尾に終わることがありえる、ということである。もしも弟子たちのように、《主人》の臨在なしに労しているとしたら、不首尾に終わらざるをえない。いずれの場合も、転回点は《主人》がやって来られた時であった。最初の折、主はペテロの舟を借りて、そこから岸辺の群衆に向かって説教をお語りになった。それからペテロに云われた。「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」[ルカ5:4]。二番目のとき、主は弟子たちにお命じになった。「舟の右側に網をおろしなさい」[ヨハ21:6]。しかし、いずれの場合も、イエスが現われてくださったからこそ、網は一杯に満たされたのであった。そして、その奇蹟的な満たしによって、絶望していた夜の働き手たちは、人間以上のお方が自分たちに語りかけたことを悟り、ひれ伏しては、その方を天来のお方として礼拝したのである。そのように、イエスがご自分の働き人のもとにおいでになるときには常に、それまでいかに不首尾であったとしても、主の臨在を得た彼らは確実に良い首尾を収める。しかり。そして、彼ら自身の期待を越えた首尾を収める。それは、この弟子たちが、夜通し何も捕れなかったのと同じ手によって、百五十三匹の大きな魚を捕ったこと、また、一晩中空っぽだった――ただ彼らの希望をあざけるような、もつれた水草の塊がそこここに引っかかっているだけだった――同じ網から、他の者らをもたらふく満腹させられたであろうほど多くの魚が出てきたことに驚いたのと全く変わらない。使徒たちは、彼らの主がおられなければ何もできなかったし、私たちも何もできない。それで、私たちが覚えておくべき主な点はこうである。私たちに必要なのは、イエス・キリストが私たちの真中に来てくださることである。そして私は、力を尽くしてあなたの心にこの点を突き入れようと努めたいと思う。そして、私はこう祈るものである。願わくは、聖霊なる神が御民の心をかき立てて、魂をかちとることにおいて用いられる者となりたいという大きな切望を彼らに持たせ、かつ、このことを成し遂げられるのは、キリストとの真の交わりを享受する者たちだけであると悟らせてくださるように、と。

 I. 第一に示したいのは、《私たちの立場と、この時の使徒たちの立場との相違点と類似点》である。

 最初に、そこには1つの相違点があり、それは完全に私たちにとって有利に働いている。使徒ペテロとその兄弟たちは、ずっと漁をしていたが不首尾だった。だが、彼らは漁をするよう命ぜられていたわけではなかった。その時、漁をすることは正しかったかもしれず、正しくなかったかもしれない。だが、いずれにせよ、彼らは自分たちの一存でそれを行なった。ペテロは云った。「私は漁に行く」[ヨハ21:3]。それは、完全に彼自身の意志に従ってなされた、彼自身の働きであった。キリストが漁に行くようお命じになったわけではなかった。しかし、キリストにある兄弟姉妹。私たちの場合には、主からの指令がある。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」[マコ16:15]。私たちには、この天来の任務がある。それで、私たちが福音を宣べ伝えるとき、それは素人として、あるいは、自分で自分を遣わした志願者として漁をしているのではなく、《いと高き方》により、その命令に従うために遣わされた者として漁をしているのである。主が誰かに任務を与えるとき、そこには、その人を成功させてくださるという、一種の保証が暗示されている。いずれにせよ、主はご自分のしもべに無駄足を踏ませるお方ではない。むしろ、その権威をお与えになるお方は、何らかの手段によって、確実に、必要な力がそれに伴うようにしてくださる。「知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します」[ルカ7:35]。愛する兄弟姉妹。あなたがた、神に仕えようと努めている人たちは、ひとりひとりのしかるべき領域において、自分が行なうよう遣わされたことを行なっているのである。というのも、イエスは、その弟子たちに云ったように、あなたにも云っておられるからである。「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」[ヨハ20:21]。黙示録のほぼ末尾にある、あの箇所を思い出すがいい。「これを聞く者は、『来てください。』と言いなさい」[黙22:17]。福音をすでに聞いたあなたは、人々に向かって、「来てください」、と云おうと努めてきた。また、そうすることにおいて、自分の任務を逸脱しているのではない。というのも、そうするよう命令されたからである。あらゆる信仰者は、キリスト教の経綸の下にあって、一個の祭司である。この世にある唯一の祭司職は、私たちの主イエス・キリストの祭司職と、キリストを信じるあらゆる信仰者が共有している祭司職である。それで、主を信じたあなたが、行って主のことを他の人々に語るときには、単に正当に自分のものとなっている王的な祭司職を果たしているにすぎない。主は、「私たちを王とし……神のために祭司としてくださった」[黙1:5 <英欽定訳>]からである。それで一番目のこととして、使徒たちは漁をせよとの何の指令も受けずに漁に出かけ、それゆえ、彼らは不首尾に終わった。だが、私たちは彼らにまさる点がある。なぜなら、福音という漁業において網を投げる、神のあらゆる真の子どもは、自分の《主人》からそうするよう任務を与えられているからである。

 さらに、弟子たちの場合には、彼らの《主人》がともにおられなかった。彼らが網を投げては、たぐりよせ、その中に何も見つけなかった夜の間、彼らは孤立していた。だが、私たちの場合そうではない。教会として、私たちはこう云うことができる。この長年にわたり、私たちには《主人》の臨在があった、と。私たちは何度となく、自分たちの集会の中で、主がここにおられると、他の何を確信する際にも劣らぬほど強く確信できた。私たちの心は、信仰によって主を見つめることによって喜ばされ、きよめられ、聖化されてきた。数々の祈祷会において、私たちは全員、舟の上に《主人》をお乗せしたときのペテロのようにひれ伏して、へりくだらされるのを感じてきたと思う。また、回心させられた罪人たちについて私たちが厳粛な喜びを覚えた幾多の折に、主イエスは明らかに私たちの真中におられた。主の約束、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」[マタ28:20]、がこの上もなく栄光に富むしかたで成就されるのを、私たちは経験してきた。そして、それゆえに私たちは《救い主》をほめたたえるものである。私たちは、主が私たちのもとにやって来られるのを待つ必要がなかった。主は長いこと私たちとともにおられ、決して私たちから離れたことがなかったからである。この長年の間、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方[Iコリ2:2]を単純に宣べ伝えるだけで、この祈りの家は、今晩のように一杯にされてきた。人々は、この場で聞かされることが、「十字架につけられた《救い主》」という、あの古けく古き物語のほか何もないことを知っている。だが、天候がいかに荒れようと、それでも群衆は主のみことばを聞きに来るのである。そして、このことを私たちは喜んでいるし、常に喜ぶものである。この点においても私たちは、ガリラヤ湖上のこの漁師たちにまさる立場にある。また、さらに別の点もある。――《主人》が彼らとともにおられなかったために、彼らは何も捕れなかった。だが、私たちについては、何も捕れなかったと云うことはできない。私たちがともに働いてきた年月の間に、どれほど多くの魂が《救い主》を見いだしたと告白してきたか、計算しようと努めることが正しいことかは分からない。だが、兄弟たち。私の信ずるところ、私は神の栄光のため、また、私たちが宣べ伝えてきた単純な福音の誉れのため、こう云ってかまわないであろう。すなわち、この教会に加わった人数だけ取ってみても何千人と云うことができるし、この所か他の所で、私たちの宣べ伝えたみことばの下で《救い主》を見いだした何万人、左様、何十万人もの人々について語るとしても、決して誇張にはならないはずである。私たちはその冠を私たちの《主人》の頭に戴かせる。だが、そうであることに私たちはいかなる喜びを感じることか! かりに主が私たちから離れておられたとしたら、私たちがいかに熱心にみことばを宣べ伝えても無駄であったであろう。というのも、熱心さだけでは魂を回心させられないからである。そこには人々を祝福するイエスの臨在がなくてはならない。そして、それが年々歳々、今日に至るまで私たちとともにあったのである。主の聖なる御名に栄光あれ。

 ということは、こうした点で、私たちの場合は、夜通し働いて、何も捕れなかった使徒たちの場合と相違している。

 しかし、私たちは、他のいくつかの点で、使徒たちと酷似している。一番目のこととして、《主人》の助けがなかったとしたら、私たちには何も捕れなかったはずである。いかなる子どもも、《日曜学校》からやって来て、こう云うことはなかったであろう。「ぼくは《救い主》を愛しています。そして、主に対するぼくの信仰を告白して、ここの教会に入りたいと思います」。また、若い婦人がひとりでも、あの大人数の、ほむべき聖書学級からやって来るためには、必ずやそこで主のために語っている姉妹の唇に、主が正しい言葉を授けてくださらなくてはならなかったはずである。青年がひとりでも、私たちの成人学級で回心するためには、必ずや神の御霊が、その学級を導く人と一緒に出て行かなくてはならなかったはずである。そして、この講壇から少しでもいのちのみことばが語られることがあったとしたら、必ずや、それはまず神によって私たちに与えられ、それから聖霊によって私たちの話を聞いている人々の心に突き入れられなくてはならなかったはずである。私たちは、私たちの主がおいでにならなければ、「何もとれなかった」はずである。

 そして、兄弟たち。今でさえ、私たちの上首尾は、使徒たちの不首尾と驚くほど似通っている。というのも、私たちがこれまで捕ってきたものなど、今なお捕らなくてはならないものとは、ほとんど比べものにならないからである。私たちが回心した何万人について語るときでさえ、彼らは、私たちの回り中にいる、この巨大都市の何百万人と比べれば何だろうか? 神が一箇月の間に私たちを百人、あるいは、百二十人増やしてくださるとき、私たちは喜び、感謝する。だが、そうした人数が大きなものだとはいえ、彼らは、ロンドンだけ考えてみても、そこで滅びつつある無数の数の人々と比べれば何だろうか? なぜ私たちは、ペンテコステの日のように、一日で三千人の回心者を得るべきでないのだろうか? なぜ私たちの諸教会は、この町のあらゆる部分を覆うだけ増加しないのだろうか? なぜ古のキリストの《教会》は(というのも、私たちはそのようなものだからだが)、――古の《公同の、使徒的な、キリストの教会》は、――背景をうろうろしている代わりに、もっと前面に出てこないのだろうか? それは、私たちがまだ、しかるべきほどには、――また、主の栄光を賛美するため望んでいるほどには、――《主人》の力に満たされていないからである。キリストの臨在は、もしその満ち満ちた力を伴って私たちの間に来さえするなら、私たちがこれまで目にしてきたいかなることをも越えた大きなことを私たちのために行ない、私たちは、あの二度の大漁によって驚愕した使徒たちと同じくらい、人数の増加によって驚愕するであろう。キリストがそうお望みになっただけで、魚は浅瀬の中を大挙して網の中になだれ込んできた。そして、主がそうお望みになるだけで、魂は何百万単位で主とその福音へと回心するであろう。主がご自分の弟子たちに、どこに網を下ろすべきか指示されただけで、空っぽだった同じ網が一杯になった。そして、主がご自分に仕える教役者たちにどう説教すべきかを教え、彼らの唇に祭壇から取った燃える炭[イザ6:6]で触れて、ペンテコステの熱狂主義の火を彼らにつけてくださるだけで、彼らはこれまで一度も語ったことがないようなしかたで、また、これまで一度も経験したことがないような力ととともに語るようになるであろう。そのような時代は約束されており、確かにやって来るであろう。私たちは、神の中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのである[IIコリ6:12]。もし今がそうした、集め入れる栄光に富む時代でないとしたら、それは私たちの何らかの罪が《主人》の栄光を私たちから遠ざけているためである。おゝ、主に向かおうではないか。そして、願わくは主が恵み深くも私たちに向いてくださるように!

   「われらを熱く 愛し合わしめ、
    しげく祈りを 告げしめ給え。
    尊ばせ給え、汝がしもべをば、
    避けさせ給え、この世の陥穽(わな)を。
    主よ、復興(いか)しめ給え、
    われらが助け 汝れのみにあり!」

 II. さて、第二に語らなくてはならないのは、《私たちが、私たちの主人の臨在を得るために用いるべき種々の手段》についてである。私たちは、私たちの首尾のすべてが、主から来なくてはならないことを示そうとしてきた。それでは、いかにすれば主の臨在を確保できるだろうか? 私たちは、それをある程度まで有している。いかにして、より完全に得ることができるだろうか?

 よろしい。私たちが常に思い起こしたいのは、主は、まさに来たいとお望みになるところへとやって来られる、ということである。キリストの恵みの御国におけるそのみわざには、絶対的な主権がある。風はその思いのままに吹く[ヨハ3:8]が、神の御霊も、いずこであれ、みこころのままにお働きになる。ひとりの説教者が大きな成功を収め、別の説教者が全く成功せずにいることを、私たちは、必ずしも自分の目に見えるものによって説明できるとは思わない。私たちは神の主権を頼りとして、こう云わなくてはならない。「神がこう望んでおられる。それゆえ、こうなるのだ」。神は、主権がご自分の神聖な大権であることを私たちに知らせようとなさるであろう。神はダビデの鍵を持っておられ、お開きになると誰も閉じる者がなく、お閉じになると誰も開く者はない[黙3:7]。もし神がお望みになれば、雨はすみやかに降って来て田畑を肥やす。だが、もし神がそうお望みになれば、天の露をとどめて、いかに肥沃な教会をもギルボアの山々[IIサム1:21]のように不毛にすることがおできになる。主はその御力を、私たちの意志に従ってではなく、ご自分のみこころに従ってお振るいになる。決してそのことを忘れてはならない。

 それと同時に、主の臨在を確保したければ、いかなる道筋を取るべきだろうか? 答えよう。最初に、私たちは、主のための私たちの働きを行ない続けなくてはならない。もしもキリストから祝福していただきたければ、また、すでにキリストのための働きを行なっているとしたら、着実にそれを行ない続けなくてはならない。主のこの弟子たちは、夜通し漁をしていた。ことによると、もし夜に漁をしていなかったとしたら、キリストは昼間、魚をお与えにならなかったかもしれない。主は、めったに怠け者を祝福なさらない。先に述べた通り、主は主権的に行動される。だが、一般的には、その祝福を、最もご自分のために働いている諸教会にお与えになる。私が常に見いだしてきたところ、熱心な福音の伝道活動と、祈り深く一致した教会は、他の教会が有さないときも、神の祝福を有するものである。働き続けるがいい。《日曜学校》教師たち。働き続けるがいい。小冊子配布者たち。働き続けるがいい。伝道者たち。働き続けるがいい。あなたがた、キリストのために労しているすべての人たち。各人は自分の奉仕を屈せずやり通すがいい。そして、たとい、それがあなたにとって夜であったとしても、また、何も捕れないとしても、あなたの労働を続けるがいい。おそらく、《主人》をあなたのもとに連れ来たる最上の方法は、あなたが夜通し主のために労することであろう。

 しかしながら、時として、私たちは、自分の網を洗ったり、繕ったりする必要が出てくるであろう。ルカによって記された奇蹟においては、この漁師たちが、一晩中労苦した後で、彼らの網を洗っていたことに気づく[ルカ5:2]。また、その折か、それに類する折に、彼らの中の何人かは自分たちの網を繕っていた。いかなる教会もそのようにする必要があり、いかなる教会員、いかなるキリスト教の働き人もそのようにする必要がある。説教者は、他の様式を採用し、もっと勤勉に学び、みことばの知識においてより堪能な者となろうとするのが良いであろう。《日曜学校》教師たちは、自分の学級のための学課をもっと注意深く学び、自分の働きのためにより良い準備をした上で生徒たちのもとに行かなくてはならない。人間を捕る漁師になりたければ、しばしばあなたの網は洗われたり、繕われたりしなくてはならない。また、《主人》の祝福を得る見込みを高めたければ、あなたがたはみな、主への奉仕において善を施すために用いている種々の手段にもっと注意を払うべきである! キリストは、ぞんざいな働きを欲してはおられない。また、どんな種類の奉仕でも主の役に立つのだと考えるような者らを祝福なさる見込みは低い。私の聞いたことがあるひとりの説教者は、自分の頭に最初に浮かんだものは、自分の信徒たちにとって十分に間に合うものと考えていたという。ある折に彼は、自分の説教の後で役員たちのひとりに向かってこうもらした。自分は講壇に立つまでその説教の中身を考えていなかったのだ、と。そこで善良なその長老はこう答えた。「お話を聞きながら、そうだろうと思っていました。もし先生があらかじめ考えてきたとしたとしら、あんなふうな話は絶対にしないだろう、とね」。私たちはみな、自分たちの網を洗い、繕う必要がある。――つまり、みな、可能な限り最上のしかたでキリストの働きを行なう必要がある。そして、それこそ、私たちがキリストの臨在に恵まれる見込みが最も高い方法である。

 その最初の折は、この漁師たちがキリストのことばに耳を傾けた後であった。というのも、彼らは主の求めによって、自分たちの舟を講壇とし、そこに主は座って、岸辺に立っていた人々に教えられたからである。その出来事と、魚が大いに捕れたこととの間に何かつながりがあっただろうか? あったと思う。もし彼らがキリストの求めに応じなかったとしたら、また、その説教に耳を傾けなかったとしたら、主はその魚の大群で彼らを祝福なさらなかったであろう。何はともあれ、働き人は常に、しばらく待って、キリストの足元に座り、教えを受けていた方がずっと良いと分かっている。――自分でみことばを読むか、誰か神に遣わされた教役者によって宣べ伝えられる真理に耳を傾けるかするのである。その使信は、あなたの心の琴線に触れ、それがあなたの全生活に影響を及ぼすであろう。それで、それ以後、あなたは異なった状態となり、《いと高き方》から祝福される見込みがずっと高くなるであろう。

 あなたはこう問うているだろうか? 「キリストをある教会のもとに連れてきて、そこにとどまっていただくためには、何があるだろうか?」 答えよう。一言で云えば、祈りである。自然界にある力のうち、祈りの威力に匹敵するものは1つもない。引力の法則は、惑星をその軌道上に保ち、太陽を、周囲で回転しているあらゆる天体に結びつけているが、かつて、祈りは引力そのものを停止させ、その精力を振るわせないようにしたことがあった。「日よ。ギブオンの上で動くな」、とヨシュアは云った。――彼は、まずこの件について主に語っていた。――「月よ。アヤロンの谷で」[ヨシ10:12]。すると、日と月は静止したのである。私たちの語っていることは、今日の多くの人々にとって、嘲りの的にしかならない。だが、私たちの精神にとっては、神が人々の声を聞いてくださるのを疑う方が馬鹿げていると思われる。人々が神のかたちに造られ、二度造られて、神の子どもたちとされているとき、確かに彼らの信仰に満ちた祈りは、その天におられる御父の心を動かすであろう。あなたは、キリストがその山上の説教の中で弟子たちに何と云われたか覚えていよう。「してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」[マタ7:11]。もちろん、御父はご自分がこれほど大切に愛している者たちの声に耳を傾けてくださる。愛する方々。あなたも知る通り、祈りには力がある。信仰者たちがともに集まり、声を合わせてこう叫ぶとする。「主よ。あなたの働きを復興してください。伝道牧会活動により大きな力を込めさせてください。あなたの民の心を、より愛と熱心に満ちたものとしてください。不敬虔な者たちをお救いください。未回心の者たちの目を醒ましてください」。そのとき、そうなるであろう。それは、私たちにとっては単なる希望の問題ではない。熱心な祈りは教会に、また、世界に祝福をもたらすのである。それは事実の問題である。そうならざるをえない。種々の自然法則は棚上げにされることがありえるが、神ご自身のご性格に属する、真理と忠実さのための法則は棚上げにされることがありえない。祈りに答えないとしたら、神は神でなくなるであろう。神ご自身の約束がそうするよう神を縛っている。おゝ、あなたがた、神を疑う人たち。神を試すがいい! もしあなたがたの中の誰かが祈りの力に疑問をいだいているとしたら、祈りによってすでに何がなされてきたか見てみるがいい。あなたがた、生ける神のしもべたち、また、神の贖いのふたに近づくことのできる人たちについて云えば、あなたは願いさえすれば受けることができる。求めさえすれば見つかる。叩きさえすれば、扉はあなたのために開かれる。キリストにある兄弟姉妹たち。祝福を求めて祈るがいい。それを求めて力強く祈るがいい。そして、その祝福が来るまで、昼も夜も休まないようにするがいい。

 しかしながら、祈りに加えて私たちは、自分の求める祝福を待ち続けなくてはならない。キリストが天に上られてから、その弟子たちはあの屋上の間[使1:13]に行き、ペンテコステの日に聖霊が自分たちに与えられるまで待っていた。彼らは、そこに座って、決して、約束された祝福は来るかもしれないし、来ないかもしれない、などと考えてはいなかった。むしろ、そこで待ち続け、ついにあの「天から、激しい風が吹いてくるような響き」を聞き、「炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった」[使2:2-3]のである。それで、私たちは、主が約束された祝福を期待しながら自分たちの諸集会に集おうではないか。というのも、もし信仰をもって期待するなら、祝福は確かにやって来るからである。「あなたの口を大きくあけよ」、と神は云われる。「わたしが、それを満たそう」[詩81:10]。おゝ、神を信ずるその受容力があればどんなに良いことか。というのも、確実に神は私たちの信仰に不面目をお与えにならないからである。

 それからまた、私たちの期待に加えなくてはならないのは、その祝福を受けるために、私たち自身の心を開くことである。私たちは《救い主》が私たちを祝福することを欲し、《救い主》は云われる。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」[黙3:20]。愛する方々。主はあなたを喜んで祝福しようとしておられる。あなたは主から祝福される用意ができているだろうか? おゝ、あなたがた、主を愛する人たち。あなたの心の扉を大きく開け放ち、おはいりください、と主に願うがいい! 主はその心血をもってあなたを買い取られた。あなたは、あなたの心の最上の愛を主にささげようとしないのだろうか? 主はご自身があなたの《愛する方》、あなたの《夫》、あなたの《すべてのすべて》であられる。では、主を赤の他人のように扱ってはならない。これ以上、主を立たせ続け、叩かせ続けておいてはならない。むしろ、扉を大きく開き、おはいりくださいと云うがいい。愛する兄弟姉妹。主を迎え入れることがあなたの心だろうか? あなたは本当に主を欲しているだろうか? より大きく主を切望しているだろうか? あなたが非常に祈り深く、また、非常に注意深くならない限り、主はあなたのもとにおいでにならないであろう。というのも、主はねたみ深い愛人だからである。そして、主は心にお住まいになるとき、ご自身のみこころに反するものが何か、ご自分の愛する者たちによって行なわれていないか厳格な目で眺められる。ある王が、他人が有するのなら大目に見ても、廷臣から受けることは容赦しないのと全く同じである。残念ながら、私たちは時として聖化を祈り求めても、本当はそれを願っていないことがあるのではないかと思う。また、やはり残念ながら、時として私たちは大いなる祝福を願い求めながら、本当はそれを願っていないことがあるのではないかと思う。あなたは、キリストが私たちのもとに来て、私たちを祝福することがおできになると信じているだろうか? あなたは、主があなたのもとにやって来られるのを期待しているかのような生き方をしているだろうか? そうだとしたら、主がおいでになるとき、あなたは主の臨在の圧倒的な威光によって畏怖させられ、ヨハネとともにこう云うであろう。「主です」、と。《日曜学校》における祝福について聞くとき、私たちは云うであろう。「主です」、と。また、あらゆる教会集会において、イエスを信じるように導かれた人々の物語を聞くとき、私たちは云うであろう。「主です」、と。というのも、他のいかなる者も、これほどほむべき働きを私たちの真中に作り出すことはできなかっただろうからである。

 私は、この主題を何とかしてあなたの前に云い表わせれば良いのにと思う。そうすれば、信仰を有するあらゆる心が、可能な限り最高の程度まで、それによって影響されるはずである。だが、私にはそうできない。それゆえ、これから私たちが聖餐卓のもとに来ようとしているため、この神聖な祝宴を用いて、キリストに仕えているあなたがたを、さらなるご臨在を求める祈りへかき立てるよう努めたい。この場のあなたの前には、あなたに対する主の愛を記念するものがある。主はあなたのためにご自分のからだを裂かれてくださった。では、あなたは主のために多くを行なおうとしないだろうか? あなたは救われており、あなたのもろもろの罪は覆われており、あなたは主の愛する子どもとなっている。ならば、あなたは主のために財を費やし、あなた自身をも使い尽くそう[IIコリ12:15]と思わないだろうか? もし《主人》が来て、今晩ここに私の代わりに立ったとしたら、また、ご自分の刺し貫かれた御手と御足をあなたに示したとしたら、そして、あなたがた、主ご自身の民をひとりひとり呼び出して、このような問いかけをあなたに発されたとしたら、(どういう問いかけかは、今すぐあなたに示すであろう)、果たしてあなたはどう感じるだろうかと思う。あなたは、自分を見つめる主の麗しさに目がくらみながら、また、主の愛に圧倒されながら、この階段を上って来るであろう。そのとき主は、あなたがたひとりひとりにこう仰せになるであろう。「わたしの血で買い取られた者よ。あなたは、わたしのために何を行なっているか? あなたはわたしの羊を養っているだろうか? 私の子羊を飼っているだろうか?」 私は、あなたが赤面するのが見え、あなたがこう答えるのが聞こえるような気がする。「私の愛する《主人》よ。私は、きょうの午後、あなたの子羊たちの何人かと一緒におりました」。「しかし、あなたは本当に彼らを養っただろうか?」 「私は、彼らと幸いな時を過ごしました」。「よろしい。だが、あなたは彼らを養っただろうか?」 「私はそうしようと努力しました。善良な《主人》よ。ですが、こう申し上げるのは恥ずかしながら、そうしてしかるべきほどには養いませんでした」。「しかし、あなたは彼らをわたしの子羊として、また、わたしが彼らを養っただろうように養っただろうか? あなたは彼らを愛しただろうか? 愛情をもって彼らに語りかけただろうか? わたしのことを彼らに告げただろうか? わたしのもとに彼らを連れてこようと努めただろうか? 彼らのために祈っただろうか? あなたが彼らを家に帰したとき、彼らは自分たちの教師が、自分たち全員に《救い主》を知ってほしいと切望していることを感じていただろうか?」 よろしい。《主人》は、肉体をもってこの場に臨在してはおられないし、私はそのような問いかけをあなたに発しはしないであろう。だが、私はあなたがそれを自分で自分に発して、《主人》がそれをあなたに発しているのを聞いてもらいたいと思う。古にこう仰せになったのと同じようにである。「ヨハネの子シモン。あなたは……わたしを愛しますか」[ヨハ21:15]。私は、主がある兄弟を呼び出してこう仰せになっているのが聞こえる気がする。「わたしの尊い血によって贖われた者よ。あなたはわたしのために何をしてきただろうか?」 私は、主がもう一度こう云われるとき、あなたが赤面するのが見える気がする。「あなたはわたしのために何をしてきただろうか?」 とうとうあなたは云うであろう。「私はこの教会の会員です」。「しかし、あなたはわたしのために何をしてきただろうか?」 「私は時々献金箱に何がしかのものを入れました」。「しかし、あなたはわたしのために何をしてきただろうか?」 主はその御手を示し、その脇腹を露わにして仰せになる。「わたしはあなたのため、このように苦しんだのだ。あなたはわたしのために何をしてきただろうか?」 残念ながら、この教会の一部の会員たちは、このような試金石を突きつけられることを好まないのではないかと思う。そして、私自身としては、《主人》にこう申し上げたい。「もう何年かを与えてください。そして、あなたにより良く仕えさせてください。また、もっと多くの恵みをお与えください。そして、あなたが私に割り当ててくださった奉仕においてもっと勤勉になれるようにしてください」。そして、私は切に願う。キリストにある愛する兄弟姉妹。もしもあなたが同じ祈りをささげなくてはならないと感じるとしたら、このように厳粛な決意をするがいい。主の御霊の御助けによって、自分のからだも、魂も、霊も、主のため全く使い尽くそう、と。

 しかし、悲しいかな! あなたがたの中のある人々は、主をまるで愛してはいない。あなたがたの中のある人々にとって、神のキリストは全く赤の他人なのである。おゝ、あなたの心が変えられるとしたらどんなに良いことか! というのも、思い出すがいい。主はすぐにもその栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来られるのである[マコ8:38]。そして、あなたがた、今、福音の宣教において主があなたに対して差し出しておられる、あわれみの銀の王笏に口づけしようとしない人たちは、そのとき、あの正義の鉄の杖の重みを感じるであろう。主が不敬虔な者たちを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする杖[詩2:9]である。それゆえ、悟れ。そして、いま《救い主》を信頼するがいい。願わくは、主があなたをそうさせてくださるように。そして、そのとき、自ら主を信頼した上で、心を尽くし、魂を尽くして、この地上で生きている限り、主に仕え、その後で、行って、あの誰にも数えきれぬほどの大ぜいの群衆[黙7:9]に加わることになるように。彼らは、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから出た人々で、御座と《小羊》の前に立って、永遠に自分たちの救いをその恵みに帰しているのである!

 あなたは、このあわれな男の話を一度も聞いたことがないだろうか? 彼は、精神の深い苦悩を覚えていたある夜、1つの夢を見た。彼は、自分が天国の門の外に立っていることに気づいた。それで、腰を下ろして泣いた。中に入りたいと切望していたからである。するとたちまち、彼は甘やかな音楽を聞き、一団の人々が手に棕櫚の枝を握りながら近づいてくるのを見た。あなたがたはどなたですかと尋ねると、彼らは、自分たちは自分の御座を受け取るに行く途中の、高貴な殉教者の一隊だと云った。それで彼は激しく泣いて云った。「私はあなたがたと一緒に入れません」。嘆きながら座っていると、再び喇叭が鳴るのを聞いた。すると別の一団がこう歌いながらやって来た。「ほふられた小羊は……ふさわしい方です」[黙5:12]。彼は彼らに云った。「あなたがたは、どのような方々ですか?」 彼らは答えた。「私たちは、預言者と使徒たちという立派な仲間たちです」。そこで、彼は再び泣き出した。というのも、こう云ったからである。「私は、あなたがたの中に入れません」。たちまち、別の一団がやって来た。神の恵みへの賛美を歌っていた。彼は云った。「あなたがたは、どのような方々ですか?」 彼らは答えた。「私たちは、みことばの説教者たち、また、教会の執事と長老たちです」。再び彼は云った。「私は、あなたがたの中に入れません」。腰を下ろして泣いていると、程なくして、ずっと大人数の人々がやって来た。途方もなく大勢の軍隊のように行進しては、甘やかに歌いながらやって来た。その最前列には、ひとりの罪深い女[ルカ7:37]がいて、その豊かな声で歌を指揮していた。また、彼女の隣には、最後の最後になって、「主よ。私を思い出してください」*[ルカ23:42]、と祈った盗人がいた。彼らは、まさに歓喜に酔いしれながら進んできた。そこで彼は彼らに尋ねた。「あなたがたは、どのような方々ですか?」 すると彼らはこう答えた。「私たちは、大いなる罪人たちで、大いなるあわれみによって救われた者たちです」。たちまち彼は云った。「私は、あなたがたとなら一緒に行けます」。そして、兄弟姉妹たち。これこそ、あなたや私が属している一団である。そして、私たちが天国に入るとき、私たちに対する彼らの歓迎ぶりは、殉教者や、預言者や、使徒たちに対するものと全く同じくらい心からのものであろう。イエス・キリストは、罪人を救うためにこの世に来られた[Iテモ1:15]。そして、罪人たちが悔い改めるとき、神の御使いたちには喜びがわき起こり[ルカ15:10]、神ご自身の御心にも喜びがこみあげるのである。なぜなら、彼らがご自分の赦し給うあわれみを求めたからである。もしあなたがたの中の誰かが救われないとしたら、それは、神の御心にあわれみが何か欠けているためではない。もしあなたが滅びるとしたら、あなたの前に扉が開かれていないためではない。それでは、入れるうちに入るがいい。

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キリストの臨在の力[了]

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