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「神の真実のことば」

NO. 3144

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1909年5月13日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1873年2月23日、主日夜


「これは神の真実のことばです」。――黙19:9


 本日の聖句を、より広い意味で用いる前に、神のことばに対して私たちがいだく畏敬の念からして当然、この短い文章は、その直接的な前後関係において解き明かされるべきである。というのも、ここで御使いは、ヨハネに聞こえるところで語られたいくつかの事がらを「神の真実のことば」であると宣言しているからである。注目すれば分かるように、彼は使徒に向かって、自分の聞いてきたことを「書きなさい」、と命じた。それは、あまりにも重大な事がらだったため、ヨハネは単にそれを記憶まかせにしておくべきではなかった。それが覚えておかれる必要は非常に大きかったため、彼がそれを記録し、未来の世代に受け渡せるようにしなくてはならなかった。「書きなさい」、と御使いは云った。それから、書くための理由――なぜこうした真理を恒久的に記録すべきか――をヨハネに示すかのように、こう云い足した。「これは神の真実のことばです」、と。

 この真実のことばとは何だろうか? そのことについて事細かに語るつもりはないが、ごく手短に示すことにしよう。この章で最初に現われているのは、神が淫婦たる教会を審き、罪に定めるという事実である。今日の世界には2つの教会がある。1つは私たちの主イエス・キリストの《教会》であり、主を信じ、霊とまことによって神を礼拝する信仰者たちによって構成されている。彼らの信条は神のことばであり、彼らのいのちと奉仕とのための力は内住の神の御霊である。だがもう1つの教会がある。あなたは、この章の中で、その教会にいかに恥ずべき名前がつけられているかを知っていよう。また、その教会がその名前で呼ばれるに値するものであることも知っていよう。というのも、その教会は真実、その不品行で地を汚してきた[黙19:2]からである。古のユダヤ教時代、偶像礼拝は霊的淫行と呼ばれた。そして、今の世界でも、何百万もの偶像礼拝者たちが、日ごとに偶像だの、襤褸布だの、人骨だのといった、とうの昔に地中に葬り去られていてしかるべき代物の前で拝礼している。ローマ教会は、他の幾多の時代の偶像礼拝のあらゆる遺風を集大成しているように見受けられる。そして、その総仕上げとして、こう云うのである。「司祭」が聖別する前にはただのパンであった物質が、その後では神になるのだ、と。そして、偶像礼拝者が自分の神を食べるのである。――これは、おぞましい限りの冒涜と迷信の一片であり、ダオメーそのものにさえふさわしくない*1。それが淫婦たる教会であり、神が確実にお審きになる教会である。そして、神がそうなさるとき、その審きはすさまじいものとなるであろう。最後の審判の日に起こる凄絶な物事の1つが、この「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母」[黙17:5]の完全な転覆と全くの破滅である。おゝ、人々よ。この女から離れて、その災害を受けないようにするがいい[黙18:4]。というのも、彼女が殺した主の聖徒と殉教者たち全員の血の復讐を主が彼女に加えられるとき、その災害は恐ろしいものとなるからである。さて、これが、「神の真実のことば」の1つである。

 次の真実のことばは、大いなる神の、栄光に富む宇宙的な統治に関わっている。というのも、ヨハネは「大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた」からである。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた」[黙19:6]。神と、様々な名を持つ種々の偶像との間には長い戦いが続いていた。古代の偶像の中にはバアル、アシュタロテ、ダゴンがあった。だが、すべてはエホバの前に額ずかなくてはならなかった。それから、ユピテル、サートゥルヌス、ウェヌス、マルスが神格として異教徒たちから礼拝された。そして今なお、多くの神や、多くの主[Iコリ8:5]が人間知性の大きな部分を支配している。だが、それらはみな倒れ伏す運命にあり、天と地の、目に見えない唯一の《創造主》、全能にして永遠のお方が、やがて全宇宙を、いかなる競敵もなしに統治するであろう。そして、そのとき、ヨハネが、このパトモス島における驚異の啓示の中で聞いたのと同じ大きな叫びが再び聞こえるであろう。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた」。私たちは決して神の御座が危殆に瀕しているなどと想像しないようにしよう。真理も敗北することがありえるなどと夢想しないようにしよう。真理は神の娘であり、神は彼女をその大盾でかばい、その無敵の全能をもって彼女のために戦われる。神の箱のことを気遣って[Iサム4:13]はならない。絶望してはならない。意気阻喪さえしてはならない。主は悪のあらゆる力を圧して勝利を収めるであろう。このこともまた、「神の真実のことば」の1つである。

 次の真実のことばは、このことであった。神の《小羊》イエス・キリスト――そう呼ばれるのは、主がカルバリの上でささげられた贖罪の犠牲のゆえである――は、その一切の苦しみの完全な報いをお受けになるであろう。「小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。……小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ」[黙19:7、9]。イエス・キリストは、その愛する者たちを見つけ出すためこの世に来て、彼らが奴隷とされているのを見いだされた。そこで、彼らの性質をまとった主は、彼らの最近親の者となり、それから、古の律法に従って、彼らを贖い、買い取って、ご自分のものとされた。そして主は、ご自分に信頼するすべて者らをめとられた。主にあるあらゆる信仰者は、目に見えるどの教会の中にいようと、イエス・キリストの1つの《教会》をなしている。それは、主がその尊い血によって人々の間から贖われた《教会》であり、終わりの日に、主はその《教会》をご自分の報いとして得られるのである。現在、キリストはその一切の苦しみについて、乏しい報いしか得ておられない。比較的少数の者しか主を崇拝しておらず、主の民はか弱く、まばらな民である。だが、来たるべき時代に、主イエスはご自分の血で買い取ったすべての者たちをお持ちになる。キリストは、やって来ては、救われたすべての者たちをご自分のものとされる。キリストが失望させられることはない。「彼は衰えず、くじけない」[イザ42:4]。主は、その一切の苦悶ゆえにキリストに報いてくださる。「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する」[イザ53:11]。これもまた、「神の真実のことば」の1つである。

 この真実のことばは、また、このようにも宣言している。終わりの日に、キリストが再びこの地上にやって来るとき、主はご自分の《教会》を地上に見いだされる。主はその《教会》の一部を伴って来て、その《教会》の一部を地上に見いだされ、その《教会》が永久永遠に主の花嫁となるのである。彼女の栄光であるきよさは、本日の聖句の前の節でこう述べられている。「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである」。それでキリストの《教会》は、花嫁らしく光ときよさの衣で着飾られるであろう。彼女は、貞潔な姿にも着飾られ、――遊女たる教会のように紫と緋の衣[黙17:4]を着ることはなく、――「光り輝く、きよい麻布の衣を」着せられる。キリストの《教会》は、きよい《教会》、純粋な《教会》、へりくだった《教会》、そして、しかり、そうしたすべてにもかかわらず、イエス・キリストの目には美しい《教会》となる。彼女は完璧な《教会》となり、その美しさは彼女の義である。では、どこで彼女はその義を手に入れるのだろうか? それは彼女に与えられると云われている。それは、彼女自身が作りあげた義ではない。というのも、彼女の会員ひとりひとりは、パウロがこう書いたときと同じ願いを有しているからである。「私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです」[ピリ3:8-9]。ということは、神の《教会》は、キリストが彼女をその花嫁として迎えるとき、信仰によって彼女のもとにやって来る、転嫁された義を着せられるのである。それは、イエス・キリストがご自分のいのちを費やして作り出された義、決してその上に汚れのついていない義である。というのも、イエス・キリストは私たちにとって、「知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられ」[Iコリ1:30]たからである。おゝ、この栄光に富む事実のゆえに神はほむべきかな。永遠にイエス・キリストは、こうした種類の《教会》をお持ちになるのである。これもまた、「神の真実のことば」の1つである。

 私たちが覚えておくべき実際的な点は、このことである。――私たちは、18章で述べられた売春婦めいた教会から、力の限りを尽くして遠ざかっていようではないか。その章を読み通せば、それが言及している教会を取り違えることはありえないであろう。それは写真のように真に迫る叙述だからである。あなたに可能な限り、その不法の秘密[IIテサ2:7]から遠ざかるがいい。疫病を避けるように、礼典重視主義を遠ざけるがいい。大悪魔そのひとを忌み嫌うように、司祭職を忌み嫌うがいい。あらゆる偶像礼拝に背を向け、神だけを礼拝するがいい。聖書から離れず、人間の発明したあらゆるものを捨てるがいい。教理において、実践において、儀式において、あらゆることにおいて、神のことばの単純な教えをしがみつくがいい。事実、イエス・キリストのきよい《教会》に堅くつかまっているがいい。もしも、どこでその《教会》が見つかるのかとあなたが問うとしたら、私はこう告げるであろう。その一部はここで見いだせるし、そのいくつかの部分は、この国の津々浦々に、また、世界中の大きな部分に散らばっているのが見いだされる、と。キリストを信ずる信仰者たちは主に知られている。というのも、主はご自分に属する者を知っておられる[IIテモ2:19]からである。彼らは他の人々のようではない。内なる霊的光といのちを受けているからである。彼らはもはやこの世のことを気遣ったり、この世の宗教を気遣ったりしない。彼らは、イエス・キリストがその刺し貫かれた御足でしるしをつけてくださった所を歩もうと努める。「彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く」[黙14:4]。これは、キリストの義を愛する《教会》である。自分の大いなる《夫》であり主であるキリストを高く宣べ伝える《教会》である。主の贖罪の犠牲をほめたたえる《教会》である。人間の功績ではなく、主の種々の功績を信ずる《教会》である。人間が自分を救うためにできる何らかのことではなく、主の死に信頼する《教会》である。その《教会》にしがみつくがいい。愛する方々。それに固く結びついているがいい。それとともに数えられるがいい。「光り輝く、きよい麻布の衣」のようなキリストの義を着る特権を与えられた人々の間に自分がいると分かるまで、あなたの目を眠らせてはならない。まぶたをまどろませてはならない。願わくは、その分離がなされる日には、この集会のひとりたりとも、かの獣やにせ預言者とともに放逐されることがないように。むしろ、私たちがみな、この花嫁――真実の、選ばれた、貞節で、きよらかな、イエス・キリストの《教会》――とともにいることが見いだされるように。その《教会》こそ、悪評を受けたり、好評を博したりする[IIコリ6:8]ときも主に従おうと努力し、決して王たちの足元でひれ伏さず、決して彼らの差し出す贈り物を受け取らず、むしろ、神とキリストに対して、一生の間、真実であり続けているのである!

 このように、この箇所の前後関係について語り終えたので、今からしばらく、この言葉が聖書全体を指しているものとして語りたいと思う。私は、このほむべき《書》、この霊感された聖書全体を取り上げて、その内容についてこう云って良いであろう。「これは神の真実のことばです」、と。2つのことを指摘したい。第一に、このことばの一部は、すでに真実であることが経験されてきた。そして、第二に、その残りも真実であると、私たちは完全に確信している

 I. まず第一に、《この書の中にあるいくつかの偉大なことばを、私たちは真実であると経験してきた》。何にもまさるのは、聖書の中に私たちが見いだすことを自分で味わい、手で触れ、ためし、経験することである。

 例えば、この《書》は、罪が悪であり、苦々しいものであると云っている。私たちの中のある者らは、それが真実であると経験してきた。というのも、私たちが神の御霊によって覚醒させられたとき、罪は私たちの疫病、私たちの激痛、私たちの呪いになったからである。そして、確かに神は、私たちの中の、イエス・キリストを信じている者らの罪を赦しておられるとはいえ、今のこの時に至るまで、罪を犯した者が、その結果として損害を受けないことは決してない。私はこの場にいる、神の子どもの誰にでも問いたい。果たしてあなたは、罪によって本当に得をしたことが一度でもあるだろうか、と。愛する方々。罪はあなたにとって損失以外の何かであっただろうか?――とことん悪ではなかっただろうか? あなたは何度も何度もそのために疼痛を感じさせられ、こう云ってはいないだろうか? 「地獄からやって来た、ありとあらゆる悪いものの中でも、罪とくらべものになるものは何もない」、と。しかり。私たちは、神のこのことばが真実であると経験してきた。

 しかし、もっと語って快いことは、神の別の真実のことばである。それが私たちに告げるところ、イエス・キリストの血は、良心に平和を語る。この《書》は私たちに、イエスの血はアベルの血よりもすぐれたことを語ると告げている[ヘブ12:24]。「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」[ロマ5:1]、という。私は、信仰によって義と認められた人々、キリストの尊い血の力を試したことのある人々に、この質問を投げかけてみる。――それはあなたに神との平和を与えてはいないだろうか? 私に証言させてもらえば、私は、《救い主》の血が私のために何をしてくれたか知るまで、決して良心の平和の意味を知らなかった。イエスに信頼することからやって来る平和のような平和はほかにない。それは、私たちの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれる、「人のすべての考えにまさる神の平安」[ピリ4:7]である。否、それだけでなく、イエスの尊い血は、聖霊によって心に塗られるとき、平安を与えるだけでなく、天来の高揚感と神聖な喜びを与える。みことばがこう云う通りである。「私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです」[ロマ5:11]。私はあなたの経験に訴えたい。これは、その通りではないだろうか? あなたは、神のことばが真実のことばであると経験してこなかっただろうか? おゝ、しかり! この場にいる何十人、何百人、そして、何千人もの人々は、この言葉を繰り返し、さらに云い足すことができるであろう。「まことに、私たちはそれが私たち自身の魂において真実であると知っています」、と。

 さらに、神はそのみことばの中で私たちにこう告げておられる。信仰、希望、愛、そして、その他すべてのキリスト教の恵みの中には、きよめる力がある、と。「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です」[Iヨハ5:4]。「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、……自分を清くします」[Iヨハ3:3]。私は、信仰と希望を持っているあなたにこう云いたい。あなたは常に見いだしてこなかっただろうか? そうした恵みを活発に働かせている割合に応じて、罪を打ち負かすことができるということを。ことによると、あなたには何かからみつく罪があるかもしれない。だとすると、あなたがそれを足で踏みつけることができたのは、常にあなたが十字架の根元に立っているときではなかっただろうか? あなたがイエスへの愛に満ちていたとき、あなたは、単に自分の内なる種々の腐敗に対する勝利を最も得るばかりでなく、外から来る種々の誘惑に対しても最も断固たる抵抗ができるではないだろうか? 私はその通りであると知っている。そして、私たちの中のある者らの内側では、神の御霊が数々の大いなる驚異を作り出してこられた。私たちは、かつての自分とは違う者に変えられ、まるで裏返しにされ、全く新しく造られた者となっている。そのため、明日、かつての自分と出会ったとしても、自分だとは分からないほどである。人々が私たちに、福音は救いを得させる神の力[ロマ1:16]ではないと告げるとき、私たちは彼らにこう質問する。一体いかにして私たちは、週日の間の毎日、品行を改めた酔いどれたちや、きよい者とされた不身持ちな女たちや、真人間になった盗人たちや、嫌悪すべき気質だったのに優しく愛すべき者になった人々について聞いているのだろうか? そして、いかにして私たちが、これほどしばしば、夫であり父親である人の回心について聞いているのだろうか? いかにして自宅にいるその妻や子どもたちが、その回心はにせものではありません、このあばら屋をもはや小さな地獄ではなく、地上の天国のようにしてくれました、と証言するのだろうか? 私たちは云うが、このような変化を人々の中に作り出せる教理は不真実な教理であるはずがない。私が懐疑主義に悩まされていたときには、自分で自分をこのように治さなくてはならなかったものである。私は、立って星々をちりばめた天空を見上げ、こう云った。「よろしい。1つのことだけははっきりしていて、疑うことができない。すなわち、神はいるということだ。こうしたすべての驚異的な世界は自然に発生したのではない。誰かが造ったのだ。そして、もう1つはっきりしていることがある。この神がどなたであれ、私はその神を愛しており、きよく聖なる存在であると信じているということだ。そして、私は、この方と同じようになりたい。この方がどちらの側に立っていようと、私はこの方に味方する。私はこの方に誉れと畏敬をささげたいと感じるし、善にして真実なことにおいて、この方に従っていくことを欲している」。そのとき、私は自分に向かってこう云った。「私は、常にこう感じていただろうか?」 そして答えた。「否。そうではなかった。では、善にして真実なことゆえに、私を神に味方させているもの、私に神を愛させているもの、それが虚偽であるはずがない。それは真実に違いない。そして、そうした変化を私の魂の中に作り出したものがイエス・キリストの福音であった以上、その福音は真実なのだ」、と。そして、それで私は再び、私自身の魂がより頼むべき、不動の土台の上に立ち戻ったのである。そして、私が自分自身について云ったことは、主を知っているすべての人々の証しである。神を信ずる彼らの信仰は、彼らを聖くする影響を及ぼしてきた。それで彼らは、彼ら自身の経験の中で、この神のことばが実際に真実であると知っているのである。

 別の「神の真実のことば」はこうである。神は云われた。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」[マタ7:7]。私たちは神に命じられた通りに行なった。そして、そのようにして祈りの効き目を経験してきた。ある人々がするように、祈りに対する答えをあざ笑うのは非常に結構なことだし、白痴でもない限り受け入れられないような、種々の試金石を提案するのも非常に結構である。だが問題を、そのようなしかたで片づけることはできない。ほぼ何千もの正直な人々が、神は自分たちの祈りを本当に聞いてくださると断言している。祈りが聞かれない? もし誰かが私に向かって、「あなたには目も、頭も、腕も、足もありませんよ」、などと云うとしたら、私はそのような人にこう云うはずである。「私は、そうした人体の各部分をすべて持っていますが、あなたが私を見た上でもやはりあなたの主張を繰り返すとしたら、どのようにしてあなたにそれを確信させられるか分かりません。ですが私は、自分がそうしたものを持っていると絶対に確信していますよ」、と。そして、もし誰かが私に向かって、「神があなたの祈りを聞いたのではありません」、と云うとしたら、私は答える。「何と、神は私の祈りに毎日答えてくださるのですよ。私は祈りへの答えをあまりにも絶え間なく受け取るので、もはやこの事実を疑えません。私自身の存在を疑えないのと同じくらいにです」。そして、私はこの件においてひとりぼっちではない。私は神のすべてのしもべたちのうちで一番小さな者であり、多くの人々は、祈りにおいて非常に強力である。彼らは、神によって望みを遂げる。ひそかに神のもとに行き、自分の望むことを願い求めると、それが彼らに与えられるのである。私はそうした人々の名前を挙げることもできるが、そうはすまい。だが、主の民のうち最もひ弱な者らのひとりである私でさえ、私たちが受け取ってきた、多くの祈りへの答えについて告げることができる。多くの人々が、ある特別の状況について祈ってくれるように私に手紙を寄こす。私はなぜ彼らがそうすべきか分からない。私の祈りに、彼ら自身の祈り以上の効果があるはずないからである。だが、その後でしばしば私は手紙を受け取る。そこには、私がこのように他の人々のためにささげた祈りに対して答えが与えられたという喜ばしい感謝が含まれている。そして、こうしたすべての人々は決して馬鹿ではない。彼らの中のある人々は、非常な知性の持ち主であり、自分たちの様々な交友関係の中で指導者と目されている。また彼らの中の他の人々は、いずれにせよ、正直で、慎み深く、裏表のないキリスト者生活を送っている。その彼らがこう信じているのである。自分の祈りをキリストにある別の兄弟の祈りと合わせるなら、主は自分たちの求めをかなえてくださり、絶えずそうしてくださるのだ、と。彼らは自らの幻想や想像に欺かれているのではない。ある人々は云う。「それはただの偶然です。それをあなたは祈りへの答えと呼んでいるのです」。よろしい。偶然と云いたければ偶然と云うがいい。だが、それは、あなたにとってどうであれ、私たちにとってはそのようなものではない。そして、私たちが祈っており、また、偶然であれどうであれ、その答えが来る一方で、私たちが本当にその答えを受け取り、魂に喜びを感じさせられ、自分たちの願いを聞いてくださったことで神をほめたたえている限り、それは大した問題ではない。私たちは何度も何度も、祈りを聞いてくださる神がおられることを経験してきた。それで、祈りに耳を傾け、答えてくださるとの約束は、「神の真実のことば」の1つなのである。

 さらにまた、私たちが御子の教えに従って知るところ、信仰は苦難と試練のときに神の民を支えるものである。この真理を私たちは自ら経験してきたし、他のキリスト者の中で例証されるのを見てきた。その同じ支える力は、死の時にも私たちに対して約束されている。「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない」[イザ43:2]。ダビデは云った。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから」[詩23:4]。さて、人が正直になるときが一度でもあるとしたら、それは死に直面して横たわっているときと考えられるであろう。人々は普通、そうしたときには偽善者を演じることができない。一部には、それでもあえてそうしようとする豪の者もいたが、ほとんどの場合、人はこの世を去るという現実に至るときには、単なる幻想から我に返らされる。キリスト者たちは、まさに死のうとするとき、どのようにするだろうか? 何と、愛する方々。これは夢ではなく堅固な事実について語るものだが、私たちは日々、私たちの群れを訪問する中で、彼らが喜びながら死んでいくことを経験するのである。私たちの愛する姉妹たちのひとりは、あなたがたの中のある人々も知っている通り、先日、故郷に召されたばかりである。激しい痛みが長く続いていた間、通常なら悲惨な状態にさせられるところ、彼女の喜びと平安は、ほとんど口にして語るにはあまりにも清らかなものであった。その家にいた彼女の友人たちの何人かと会ったとき、彼らは私にこう云った。「ねえ先生。私たちは、どんな種類の信仰的な勤めにもまして、ここに座って私たちの友と語り合うことによって、ずっと大きな霊的益を引き出してきましたよ」。その謙遜な婦人の唇からこぼれ落ちる言葉、詩のように感じられた、あえぎながら発される喜ばしい言葉、また、栄光の国への素晴らしい期待が、大きな肉体的な弱さの最中にある彼女には与えられていたのである。そして私たちは、このように私たちの会員の中のひとりについて語る一方で、同じことを何百人もの会員について云えるであろう。というのも、それが臨終の床における彼らの普通の経験だからである。私は、あなたがたの中のもっと多くの人々が、彼らの死ぬのを見、キリスト者が息を引き取る様子を知ることができれば良いのにと思う。神の子どもの死の床から帰ってくるとき、いつも思うのは、私は、私の神の忠実さを証明する、私のそれまでの事実の積み重ねに、また新たに加えたということである。私は、裏づけとなる事実が1つもなくとも聖書を信ずるであろう。だが、聖書の真実さを示す莫大な量の外的証拠が、内的証拠と同様にあるのである。私は、たとい私の神が私の目で見えるもの、私の耳で聞けるものを全く何も与えておられなかったとしても、神を信じるであろう。神ご自身のみことばだけで十分であるべきである。だが、こうしたほむべき声や光景により、また、こうした心浮き立たせるような眺めや聖なる勝利の数々により、福音を信ずるということは単なる信仰の問題ではなく、常識の問題にもなっているのである。真の敬虔さには明らかな力があること、また、信仰には弱い者をも、かの最後の残忍な敵に対して強くする壮大な力が宿っていること、それが目に見えるとき、それを疑うのは不可能と思われる。しかり。私たちはこうした多くの事がらが「神の真実のことば」であることを経験してきた。

 この点を離れる前に、私があらゆる信仰者たちに促したいのは、常に聖書を、全く真実なものとして扱うことである。その一部分を小説本であるかのように思ってはならない。むしろ、すべて現実で真実であるものとみなすがいい。私は、聖書を扱う点で、人々がもっと事務的になってほしいと思う。また、聖書に関して、もっと常識を用いるようになってほしいと思う。私たちは時として、聖書を信じているとしたら行なわないようなしかたで聖書を用いることがある。ある人々は、自分の祈りの卓越さがその長さにあると想像しているように見受けられる。だが、もし彼らがもっと本当に祈りを信じていたとしたら、おそらくそれほど長くはならないであろう。私は、小切手を持って銀行に行くときは常に、それを窓口の事務員に手渡し、彼から現金を受け取り、さっさと自分の仕事に取りかかる。それこそ、私の好む祈り方である。私は主のもとに、その約束の1つを持って行き、こう申し上げる。「主よ。私はあなたの約束を信じます。また、あなたがそれを私に果たしてくださると信じます」。それから、私は立ち去る。私の請願に対する答えをすでに受けていると知りながら、あるいは、それがしかるべき時にやって来るだろうと知りながら立ち去る。ある一定の時間だけ膝まずき、選び抜かれた一連の長い文章をだらだら注ぎ出すというのは、私には、ただ勿体をつけているだけでしかないように思われるし、それによって得るものは何もない。「神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」[ヘブ11:6]。あなたの祈りを、単なる教会的な、あるいは、宗教的なお勤めにしてはならない。あなたの御父としての、また、あなたの《友》としての神のもとへ行くがいい。自分の祈りが聞き届けられることになると完全に確信して行くがいい。何千もの祈りが決して聞かれないのは、それをささげる人々もそれが聞き届けられると期待していないからである。もしもある人が神に祈っても、神が自分に答えてくださると信じていないとしたら、神はその人にお答えにならないであろう。私たちは、動揺することなく、よろめくことなく、神が私たちの声を聞いてくださると信じなくてはならない。そうするとき、神は、私たちの声を聞かなくてはならないのである。私が、「なくてはならない」と云っていることに注意するがいい。しかし、「なくてはならない」と云えるのは《王》だけである! しかり。だが、この王は自分の《ことば》で自分を縛っている。「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」[マコ11:24]。これはキリストご自身のことばである。私の言葉ではない。そして、その意味は明々白々である。キリスト者は信仰によって祈るがいい。そうするとき、その人は神が決してご自身のことばを撤回することなく、ご自分の信じる民全員に対するご自分の約束を守ってくださることを知るであろう。

 II. 私の第二の点は、こうであった。《ある事がらを私たちはまだ真実であると経験してはいないが、それにもかかわらず、それらは真実である》

 さて、やがて真実となるであろうことをあなたに告げさせてほしい。イエス・キリストはこの地上に戻って来られる。橄欖山の頂から天に上って行かれた、その同じイエスは、天に上って行くのが見られたのと同じような有様でやって来るであろう[使1:11]。主は、御使いのかしらが吹き鳴らす喇叭の大きな響きとともに、また、驚くばかりの威容と光輝のうちに、また、おびただしい数の御使いたち、また、贖われた者たちの大群衆を伴ってやって来るであろう。だが、確実に主はやって来られる。それは、きょうではないかもしれない。多くの時代の後でもないかもしれない。だが、人の子は、思いがけない時に来られる[マタ24:44]。主がおいでになるときには、覚えておくがいい。もしあなたが生きているとしたら、あなたは主の審きの座に立たなくてはならないであろう。だが、もしあなたがその時の前に死ぬとしたら、あなたのからだがよみがえり、あなたの魂がそこに戻って来るであろう。そして、あなたは、あなたの肉から[ヨブ19:26]神の御子を見ることになる。私が今晩あなたに宣べ伝えている、まさにその《救い主》が、また、もしあなたが信じるならあなたを救ってくださる、まさにその《救い主》が、そのときやって来ては、その御座にお着きになるのである。そして、もしあなたが主を信ずることなしに生き、死んでいたとしたら、主がやって来られるのは、あなたを審くためであり、あなたにあのすさまじい宣告を下すためである。「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ」[マタ25:41]。やがてキリストはやって来られ、あなたがたはみなよみがえり、キリストによって受け入れられるか、罪に定められることになるであろう。「これは神の真実のことばです」。

 さらに、そのときイエス・キリストを信じているすべての人々のためには、1つの天国があるであろう。キリストは彼らをそこへ連れて行き、ご自分のいる所にご自分と一緒にいさせてくださるであろう。彼らが主の栄光を見るようになるためである[ヨハ17:24]。彼らは、あらゆる喜びと栄光に包まれた主との、この上もなくほむべき交わりに入るであろう。そして、とこしえまでもそうあるであろう。だが、もしあなたがイエスを信じていないとしたら、そのすべてを取り逃がし、イエスのおられる所に決して入らないであろう。あなたに対して扉は閉ざされ、泣いて、呻いて、歯ぎしりするしかない外の暗闇[マタ22:13]が、永遠にあなたの割り当て分とならざるをえない。というのも、イエスを信じないすべての人々には、1つの地獄がある。このことも、やはり神の真実のことばだからである。ラザロのために1つの至福の場所があったのと同じくらい確実に、金持ちのためには確実に1つの災厄の場所があった[ルカ16:22-23]。キリストの羊のために1つの天的な囲いがあるのと同じくらい確かに、山羊のためには1つの地獄がある。「これは神の真実のことばです」。このことばをあなどってはならない。疑ってはならない。まだ回心していない、あなたがたの中のある人々は、ほんの数分で死を迎えるかもしれない。私は、先日の月曜の晩、この場所の祈祷会に来る途中で、ひとりのあわれな人の様子にはっとさせられた。それは、私たちの教会員のひとりで、後ろの方の部屋の暖炉の側に座っていたが、非常に具合が悪そうに見えた。凍てつくような寒さの夜だったが、すぐに私は、死が彼をさらに冷たくしているのだと見てとった。私は、いかに手を尽くして介抱しても、じきに彼は死ぬに違いないと感じた。私たちは辻馬車で彼を家に送り返したが、数時間後に彼は世を去った。彼はひとりの老いた弟子であり、その安息に入っていたのである。だが、私は思った。「このタバナクルでこれほど頻繁に死が起こるとは不思議なことだ」、と。しばしば私がこの場でみことばを説教している間、一片の連絡が私のもとにやって来るのである。「ある人がこの場所で死にかけています」、と。それに加えて、死は私たちの何千人もの教会員の間を絶えず荒し回っている。時として、一週間のうちに三、四人が死ぬこともある。そして、この大人数の会衆の中で、今週何人の人が死ぬことになるかは分からない。おそらく、私たち全員が来週の安息日にも集うことはないであろう。だが確実に私たちは、じきにこの世を離れることになる。私たちは飛び去っていく。そして、どこへ、どこへ、どこへ行くことになるだろうか? 狂信的であると思われたくはないが、私はこの場にいるあらゆる人に、厳粛にこの問いを発するであろう。――あなたは、自分が犬のように死ぬとは信じていない以上、また、自分が別の状態で生きることになると信じている以上、そのための備えをしているだろうか? そして、いずれにせよ、あなたがたの中のほとんどの人々が、イエスに対する信仰こそ、未来の状態のための唯一の備えであると信じている以上、あなたはイエスをすでに信じているだろうか? あなたは祈りによって神を求めているだろうか? イエス・キリストはあなたの主にして《救い主》だろうか? もしあなたが、「いいえ」、と云わざるをえないとしたら、――私はあなたの手をつかむことはできないし(そうするには、あまりにも人が多すぎる)、あなたの服の釦穴をつかんで、しばしの間あなたを引き留めることもできないが、あの古の水夫*2が結婚式の招待客を引き留めたように、喜んであなたを引き留め、あなたにこう云いたいと思う。「あなたは賢明だろうか? 死と審きという日ごとの危険の中で暮らしていながら、それでも備えをしないというのは賢明なことだろうか? 信仰と祈りによって、あなたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとする[IIペテ1:10]、これがあなたの人生の第一の務めであるべきではないだろうか?」、と。もしあなたが賢明な人だとしたら、確かに一言であなたには十分であろう。そして、もしあなたが賢明でないとしたら、願わくは神があなたを賢明にしてくださるように! 神があなたを、まさに今このとき導いてくださり、あなたのもろもろの罪を告白させ、神のあわれみを求めさせてくださるように。そして、私たちの中のあらゆる者が、かの大いなる日にはキリストの中にいることとなるように! そのとき、私たちは永遠に「神の真実のことば」の中で喜ぶであろう。主がそれを許し給わんことを。イエスのゆえに! アーメン。

 


(訳注)

*1 ダオメー。現在のアフリカ西部の国ベニン共和国の旧称。古来より、蛇神、男神、女神などを信仰する様々な土着宗教が盛んだった。[本文に戻る]

*2 古の水夫。サミュエル・コールリッジ著『老水夫行』(1798)の中では、ひとりの水夫が結婚式に向かう途中の客たちに向かって自分の陰惨な物語を語り、彼らの心を奪ってしまう。

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「神の真実のことば」[了]


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