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巡礼たちと戦士たちのための靴

NO. 3143

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1909年5月6日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「足には平和の福音の備えをはきなさい」。――エペ6:15


 キリスト者は、明らかに動いているべきものである。というのも、ここには彼の足のための靴があるからである。彼の頭には兜が供されている。彼は思慮深くあるべきだからである。彼の心臓は胸当てで覆われている。彼は感情の人となるべきだからである。彼の全性質は一枚の盾で防護されている。彼は困難に耐え、警戒すべきだからである。だが、確かに彼は、活動的であるべきである。というのも、彼の手の用いるべき剣が供されており、彼の足の履くべき履き物が供されているからである。キリスト者が門柱のように静止しているべきだとか、石のように活気がなく、枝垂れ柳のように哀愁を秘め、風に揺れる葦[マタ11:7]のように受身的であるべきだとか考えるのは、全くの間違いである。神が私たちの中で働いておられ、その恵みは私たちの救いを確保する偉大な原動力である。だが、神が私たちの中でお働きになるしかたは、私たちを麻酔処理して無意識の服従に至らせたり、私たちを機械的な動きへと設計したりするというものではない。むしろ、神は私たちの中で働いて、私たちのあらゆる活動を覚醒させては、「みこころのままに……志を立てさせ、事を行なわせてくださる」[ピリ2:14]のである。恵みは健康ないのちを分け与え、いのちは活動を喜ぶものである。主は決してご自分の民が時計仕掛けで働く自動装置になることも、冷たく死んだ彫像になることも意図されなかった。むしろ、彼らがいのちを得、またそれを豊かに持つ[ヨハ10:10]こと、そして、そのいのちの力で精力に満ちあふれることを計画された。確かに主は私たちを緑の牧場に伏させてくださるが、それと等しく、私たちを前に進ませていこいの水のほとりに伴われることも確かである[詩23:2]。真の信仰者は活動的な人である。足を有しており、それを用いるのである。

 さて、行進する者は石ころに行き当たる。あるいは、戦士として争闘の真っ只中に突進するとしたら、武器で攻撃される。それゆえ、その人は自分の危険に対処するにふさわしい靴を履く必要がある。活動的で精力的なキリスト者は、他の人々には起こらないような数々の誘惑に出会う。のらくら者たちが危険の中にいるとはめったに云われない。彼らはそれを一段階越えており、すでに打ち負かされているのである。サタンはほとんど彼らを誘惑する必要がない。むしろ、彼らの方が、サタンの食欲をそそる発酵した塊となっている。その中では罪がおびただしく増殖しつつあり、腐り行くからだの回りには、悪徳という禿鷲たちが確実に集まって来る。だが、熱心に精励している信仰者たちは確実に攻撃を受ける。それは、果実の生る木に必ず鳥がやって来るのと変わらない。サタンが我慢できないのは、熱心に神に仕える人間である。その人は、この大敵の領土に損害を加えている。それゆえ、絶え間ない攻撃を受けるに違いない。この暗黒の王は、できるものならその人の人格を傷つけ、神とその人の交わりを壊し、その人の信仰の単純さを損なっては、自分の行なっていることを誇らせるか、自分の成功を絶望させようとする。サタンは、可能であれば、何らかのしかたで働き人たちの踵に噛みつく[創3:15]か、その人を罠にかけるか、全くびっこにしてしまおうとする。こうした一切の危険のゆえに、無限のあわれみは信仰者の足のために福音の靴を供しているのである。最上の種類の靴、万軍の主に仕える戦士たちだけが履ける靴をである。

 このたび私たちはみな、第一に、その靴を吟味することにしよう。続いて、それを履いてみよう

 I. 私たちの第一の義務は、自分たちの《指揮官》によって供されている《その靴を吟味する》ことである。そして、そうする際に、私たちが知って喜ばされるのは、それがほむべき《製造業者》から出たものである、ということである。というのも、信仰者の足に靴を履かせるのは、天来の備えによるからである。足を保護するには、多くの準備と発明が用いられる。だが、この備えには、無限の技能が表わされており、神の傑作である福音に発揮されているのと同じ知恵が表わされている。福音のあらゆる部分は神から出ており、それを平和の福音とするあらゆる影響力は神のものである。それゆえ、私たちは、自分が「平和の福音の備えを」履くことになっていると知って感謝するのである。天来の救いの兜をかぶっている者が、単なる人間の作り出したものを履くのはふわしくないであろう。御霊で始まっていながら、肉によって完成されるのは奇妙であろう[ガラ3:3]。私たちは、あの君主が夢に見た像のように、頭は純金、足は一部が鉄、一部が粘土[ダニ2:32-33]にはならないであろう。嬉しいことに、私たちたちの鎧兜一式を構成する武具は、そのすべての部分が天界の《武具師》のもとから出ている。その製作品には、欠陥が全くない。

 私たちが知って喜ばされるのは、この靴が卓越した材質をしているということである。というのも、それは、「平和の福音の備え」から成っているからである。そして、福音にまさってすぐれた材料がどこにあるだろうか?――平和の福音、そして、その福音から生ずる平和、それがここで意味されていることである。私たちの信じる福音は、永遠の昔から神の目的の中で形作られ、無限の知恵によって設計され、途方もない額の費用で作り出され、ほかならぬイエスの血という代償が払われ、無限の力により――すなわち、聖霊の強大な力により――心に突き入れられたものである。この福音には数々の祝福が満ちており、その1つ1つに一世界をも上回る価格がある。無代価であると同じくらい充実した福音、永遠にして不変の福音、いかに高く評価しても決して足りない福音、いかにほめたたえても決して誇張にならない福音である! まさにこの極上の福音から、そのえり抜きの本質を抽出したもの、それが、その平和である。そして、この平和によってこの履き物は備えられているのであり、それを履いた人は獅子をも毒蛇をも踏みつけることができる。しかり。悪意や中傷や迫害といった燃え盛る炭火をも踏みつけることができる。これ以上の靴を私たちの魂は要求できるだろうか?

 ここでは、いかに比類なき材料がこの巡礼の足を保護することになると言及されていることであろう。それは、福音から生ずる平和、心と生き方の備えであって、それを生じさせるのは、私たちが魂で福音を完全に知り、受け入れ、経験することにほかならない! この平和とは何を意味するのだろうか? それが意味するのは、まず最初に、人生という旅を踏み行くために、この世で最も重要なのは、神との完璧な平和を感じることだということである。ある人が、ひとたび自分のもろもろの罪はキリストの御名ゆえに赦されていると知り、自分は御子の死によって神に和解させられていると知り、自分と神との間には不和の理由が何もないと知るとしたら、その人は何と喜びに満ちた巡礼となることであろう! 主が私たちをご覧になる際の眼差しには無限の、曇りなき情愛が満ちているのだと知るとき、――また、主は私たちをイエス・キリストにあってあらゆる罪の斑点からきよめられた者、そして、「愛する方にあって受け入れられ」[エペ1:6 <英欽定訳>]ている者と見ておられると知るとき、――また、1つの完全な贖罪のおかげで私たちが永遠に神に和解させられていると知るとき、――そのとき私たちが行なう人生の行進は恐れのないものとなる。途上でいかなる急迫事態が起ころうとびくともしない編上靴を履いたもの、しかり、火をも水をも、茨をも薊をも、藪をもおどろをも、恐れなく突き抜けて行くものとなる。神との平和のうちにある人は、人生の苦難にも死の恐怖にも怯えはしない。病も迫害も苦痛も、罪赦されるときに、そのとげを失ってしまっている。そこに人が恐れる必要のあるものが何かあるだろうか? その人には分かっているのである。今後いかなる患難に遭おうとも、そこに神の正義の怒りの痕跡は全くなく、すべてが御父の御手から出ており、自分の永続的な益のために働くことになる、と! ゴリヤテはその足に青銅のすね当てを着けていたが[Iサム17:6]、福音による神との平和の完全な確信を身につけている人は、それよりも良い武装をしているのである。その人は自分の数々の敵を踏みにじり、酒ぶねの中の葡萄のように踏み砕くはずである。彼の靴は鉄と青銅であり、それを履いた彼は地の高い所に立ち、そのくるぶしはよろけない[詩18:36]。アキレスはその踵に致命的な傷を受けたが、いかなる矢も、贖罪の血による和解を足に履いている人の踵を刺し貫くことはできない。多くの戦士が行軍の途中で元気を失い、疲労困憊して隊伍から脱落してきた。だが、いかなる行路にあっても、永遠の神に支えられている人が倦み疲れることはない。彼の力は日ごとに新しくされるからである。

 ここで言及されている平和の福音の備えは、決して信仰による義認という法的な平和しか含んでいないかのように理解されてはならない。もし私たちが良い靴を履いた巡礼の満ち足りた慰めを享受したければ、神との親密で乱されることのない交わりから生じる、並々ならぬ平和を有していなくてはならない。私たちは、単に自分が神に対する天性の敵意から抜け出させられ、神との平和へと至らされ、もはや犯罪人ではなく子どもとされていることを感じられるように祈るばかりでなく、私たちの新しい関係の完全な喜びの中に住めるように祈らなくてはならない。神の子どもにとって甘やかなことは、自分が行動しているあり方に、自分の天の御父が自分と逆行して歩む理由が全くないと感じることである。あなたも、神の子どもである自分が、罪に定められたり、縁もゆかりもない者として放り出されたりしないだろうことは良く分かっている。だが、やはり、子どもであるあなたが、あなたの御父を大いに立腹させることがありえること、また、あなたの行なっていることのため、御父があなたに向かって顔をしかめ、鞭打ちをもってあなたのもとに臨む必要が生じることがありえることも分かっている。そして、あなたは、きわめて勤勉かつ祈り深く、このことを防ごうと努力するべきである。時として、巡礼たちの主は、いたく不機嫌になり、その御顔を彼らから隠してしまわれる。そのとき、それは非常につらい道中となる。人生は主の臨在が取り上げられてしまうとき、「大きな恐ろしい荒野」[申1:19]となる。人は、主を愛せば愛すだけ、自分の魂と天との間の幸せな交わりが一時的に不通になるとき大きな苦しみを味わい、自分が父の恩顧のもとに完全に回復させられていると分かるまで二度と幸せになれない。おゝ、神の子どもよ。あなたは、神との交わりのうちにとどまっていないと、すぐさま道の茨で足を引き裂かれることであろう! アダムは、神との一体感を失ってしまったとき、自分が裸であることに気づいた。あなたもイエスとの交わりを失えば、そのようになるであろう。以前は不死身ででもあるかのように、この世をもその数々の思い煩いをも自分の足の下に踏みつけながら勇往邁進したのに、今のあなたは多くの悲しみで切り裂かれ、激しい悲嘆で血を流し、ひっかき傷を作り、皮膚を裂かれ、数々の試練や損失や十字架や果てもない厄介事でずたずたにされてしまう。もし私たちがイエスの愛の中にとどまり続けるなら、また、あらゆることにおいてイエスを喜び、そのみこころに執拗な注意を払って、注意深く従うなら、私たちの思いは、人のすべての考えにまさる神の平和[ピリ4:7]で守られ、天国に向かう私たちの路は喜ばしいものとなるであろう。それは、実際は、それ自体としては、また他の人々の判断によっても、非常な険路かもしれない。だが、それは私たちにとっては、内側で支配する平和によって非常に平坦なものとされるため、私たちは弱さにあって喜び、苦しみにあって小躍りし、苦悩にあって勝利するであろう。主が私たちのうちにおられ、いかなる害も自分のもとにやって来ることがありえないと分かっているからである。このようにして、私たちは見てとるのである。義認から出る平和、また神の愛を享受することから生じる、より充実した平和こそ、私たちの人生の旅路のための大いなる備えであり、他に比類ないほど卓越した靴であることを。

 それがやはり巡礼の足にとって素晴らしい履き物となるのは、平和の福音が完全に彼の思いを主のみこころに従わせているときである。神の子どもたちの何人かが神との平和を得ていないのは、種々の天来の目的に完全に黙従していないからである。彼らにとって、この巡礼路は悲痛なものとなるに違いない。というのも、何物も彼らを喜ばせることができず、彼らの抑制されていない我意も彼らを苛立たせるものを山ほど作り出すからである。だが、自我を十字架につけてしまい、すべてを神のみこころに明け渡してしまっている心にとっては、いかなる茨の通り道も心地よいものである。あらゆることに関して、「そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした」[マタ11:26]、と云える人は、いかなる道にも天候にも負けない靴を履いているのであり、臆することなく行進して行ける。天来の意志に完全に従っているとき、聖徒たちは傷つくことがなく、無敵である。「その中には、疲れる者もなく、つまずく者もない。……その……くつひもも切れない」[イザ5:27]。

   「たみは下界(このよ)に つゆつかず
    旅路(みち)を示さば ただ行かん。
    歓喜(めぐみ)も悲嘆(うき)も 越え、行進(すす)み、
    主の御名(な)によりて なお勝利(かち)つ」。

確かに、心が完全に神と1つになっているときこそ、キリスト者性格の真の美しさが見られる時である。そのときにこそ、天的な《花婿》は声を上げられるのである。「高貴な人の娘よ。サンダルの中のあなたの足はなんと美しいことよ!」[雅7:1] やはりそのときにこそ、《教会》はその艱難の中で輝かしく、栄光に富むものとなり、こう記されているその主のようになるのである。「その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであ……った」[黙1:15]。主のみこころへの完璧な喜びという靴を履けば、私たちは途上のあらゆる困難と試練を乗り越えることができる。というのも、苦しみに遭うことが神のみこころであることを見てとるとき、それは甘やかになるからである。忍従は良いものだが、完璧な黙従はなお良く、幸いなのは、――本当に果報なのは、――それを感じている人である。これまで作られたいかなる銀の履き物にもまして尊く、いかなる黄金の甲や宝石を散りばめた編上靴にもまして栄光に富んだ姿をしているのは、天来のみこころに沿って形作られ、いと高き主の御思いに完璧に調和している思いである。

 このように平和の福音の備えとは、見ての通り、多くの面で、約束の国へ向かう私たちの旅路にとって最も素晴らしい助けであり、それを足に履いている人は、火打ち石から成る道をも、険阻な岩をも、茨だらけの隘路をも恐れる必要はない。

 しかし、平和の福音にはそれと別の面がある。というのも、それは単に神との平和を私たちにもたらすだけでなく、私たち自身に対する平和を私たちに吹き込むからである。内戦は最悪の戦争であり、人が自分自身と仲違いすることは最悪の争闘である。キリスト者の巡礼における最悪の危険は、その巡礼自身の自我から生じるもので、もし彼が自分自身の内側で気持ちを楽にしていないと、彼の行路が幸せなものになることはありえない。この夕べの賛美歌の祈りは非常に示唆に富んでいる。――

   「この世と、己れと、汝あるとも、
    眠らんとす我れ 安らかならん」。

何にもまして必要なのは、自らのうちに平和を有することである。ある人が、自分の心によって自ら罪に定められるのは、残酷な状況である。その人は、誰のもとに行けば自分を弁護してもらえるのだろうか? 自分自身の良心がその人を起訴し、自分の精神機能がかつての共犯者として自分を公に訴える証人となっているのである。恐ろしいことだが、多くの信仰者たちは、神のことばの規則によって問題とされたくないようなことを常習的に行なっているのではないかと思う。彼らは、多くの聖書箇所に自分たちの目をつぶらない限り、その良心の安らぎを得られなくなるに違いない。兄弟たち。それはみじめな旅になる。それは、裸足で森を突っ切るようなものである。もしあなたが自分の正しさについて自分自身の心を満足させることができなければ、あなたは実に悲しい状況にあることになるし、すみやか事を変えれば変えるほど良い。しかし、かりにある人が、生ける神の前で、こう云うことができるとしよう。「私は、自分が行なおうとしていることが正しいと知っています。そして、その結果がどうなろうと、私の動機は純粋であり、私がそこにとどまり続けることを主は賛成しておられます」。その場合、その人は軽快な足取りで行動に進めるはずである。そうした巡礼は、いかに険しい道に対しても守られており、最後まで喜ばしく自分の道に踏みとどまるであろう。良心の安らぎは、私たちの履くべき良い靴となる。だが、私たちのあり方が正しいかどうか疑念を持つとき、私たちは裸足になってしまう。たといどんなことがあろうと、自分のあり方を神の戒めに沿ったものとして敬虔な心遣いとともに整えるとしたら、私たちは平静さをもって将来に直面することができるはずである。というのも、私たちは、罪によって自分自身を苦難へと陥らせたことで、あるいは、禁じられている事がらにふけることによって自分の喜びを失ったことで、自分自身を非難することがなくなるからである。神への熱心ゆえに信仰者が何らかの苦難に陥るとき、そのとき、その人は神の前で自分の苦情を並べ立ててかまわない。というのも、こう記されてはいないだろうか? 「人の歩みは主によって確かにされる。……彼の歩みはよろけない」[詩37:23、31]。おゝ、あなたの良心が、神に対しても、人に対しても、全く道を外れないようなしかたで歩いて行けるとしたら、どんなに良いことか。そうするとき、誠実さと廉直さがあなたを保つであろうし、あなたの歩みは確かにされるであろう。「主は聖徒たちの足を守られます」[Iサム2:9]。「主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする」[詩91:11-12]。

 人生の迷路を通して旅をしている間には、別の形の平和の福音の備えが私たちにとって重要な役に立つであろう。すなわち、私たちの同胞である人々との平和である。平和の福音によって私たちは、自分の仲間の信仰者たちとの、この上もなく親密な友愛の絆へと至らされる。確かに、悲しいかな、最上の人々の間でさえ、つまずきが起こるのを妨げることは必ずしもできないが関係ない。たとい私たちが自分の兄弟たち全員を気立ての良い者にすることができないとしても、少なくとも、私たちの側は平和な状態であるべきである。そして、もし私たちがこのことをやりおおせたとしたら、決して大きな不和が生じるはずはない。というのも、喧嘩が起こるためには二人の人が常に必要だからである。毎晩このように感じながら寝床に就くのは良いことである。「私の魂の中では、キリストのからだに属するどの肢体とも仲違いをしていない。私はどの人にも幸福を祈っているし、どの人をも心の中で愛している」、と。このことによって、私たちは、今はしばしば論争によって石だらけになり、偏見によって茨が生い茂っている平原を、王のように威風を払いながら旅することができるようになる。神学的な争闘や、教会組織上の口論が全く消えてしまうのは、私たちが平和の福音の真の精神を履く場合であろう。いかなるキリスト者の兄弟をも進んで悪く思おうとしないことは、最も履き心地の良い靴であり、多くのとげから足を守る。それを教会内で履くがいい。いかに聖なる奉仕においても履くがいい。キリスト者である人々とのあらゆる交際において履くがいい。そうすれば、兄弟たちの間におけるあなたの道が大いになだらかなものとなることに気づくであろう。じきにあなたは、彼らの愛と尊敬をかちとるようになり、さもなければ、あなたの行路を邪魔していたはずの、無数のねたみや反対を避けることであろう。

 全人類との平和という、この靴を履いて旅することは良いことである。「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」[ロマ12:18]。そうすることはまず不可能だが、それを目指すがいい。そして、たとい完璧には成功しなくとも、もう一度試してみるがいい。未回心の人々は、あなたのキリスト教信仰を愛さないであろう。彼らは肉的だからである。それは、どうしようもない。だが、あなたは、いかに彼らが肉的であろうと彼らを愛さなくてはならない。そして、次第にあなたは、彼らの心をかちとり、彼らがあなたをも、あなたの主をも愛するようにできるかもしれない。たとい彼らがあなたとは平和に暮らせないとしても、それでもあなたの愛を彼らに与え、彼らと平和に暮らすがいい。簡単には怒らず[Iコリ13:5 <英欽定訳>]、じっと我慢し、赦して、愛し続け、悪に代えて善を返し、いかに恩知らずの者にも恩恵を施すなら、あなたは可能な限り最も快適なしかたで天国へと旅して行くであろう。憎しみやねたみ、迫害は来るかもしれないが、愛に満ちた精神は、それらの刃を大いに鈍らせ、しばしばこの約束を自分のものとする。「主は、人の行ないを喜ぶとき、その人の敵をも、その人と和らがせる」[箴16:7]。かりにあなたがこう感じざるをえないとしよう。「さて、私は旅路のこの部分では、不正に対して復讐することを目当てにして行こう」。そのとき、あなたの旅は快適でも平和でもなくなるであろう。だが、かりにあなたが魂の奥底からこう云えることができるとしよう。「キリストが私のために神との平和を作り出してくださったとき、キリストは私と私の最も辛辣な敵との間にも平和を作り出されたのだ」。そのとき、あなたは英雄のように行進して行くであろう。真摯な博愛主義者のように、女から生まれたすべての者に対する愛を履いてこの世を通って旅をするがいい。そうすれば、あなたの行路は幸いで誉れあるものとなるであろう。願わくは、無代価の恵みから出た、また、聖霊のみわざである愛に満ちた精神が私たちに授けられるように。というのも、それこそ足に翼を生やし、倦み疲れる路をも軽くする神秘的な履き物だからである。

 このように、この福音の靴を説明した上で、私が云いたいのは、私たちの主また《主人》の御足は、このような靴を履いていたということである。主は巡礼者たちの《王》であられた。そして、主にとってその道は、私たちが経験するいかなる道よりもはるかに険しかった。だが、これこそ主の履いていた靴であり、それをお履きになった上で主は、私たちも同じものを履くよう助言しておられる。「わたしは、あなたがたに平安を残します」[ヨハ14:27]、と主は云われる。この世にとどまっている間、常に主は神との交わりの中におられた。主は真実にこう云うことがおできになった。「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです」[ヨハ6:38; 8:29; 16:32]。常に主はご自分の選民の益を求められた。「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」[ヨハ13:1]。その敵たちについて云えば、主は彼らのために祈り、涙を流すことしかなさらなかった。主はご自分の上と、回りと、内側にいるすべての者と和らいでおられた。平和を愛する主の御心、その素晴らしい平穏さこそ、主のご性格の驚嘆すべき点の1つであった。あなたは決して主が思い煩ったり、心乱されたり、落ち着きを失ったりした姿を見ることはない。しかり。それらは私たちの弱さである。なぜなら、私たちは自分の靴を脱ぎ捨てて、不意を付かれるからである。だが、主の足は常に靴を履いており、主は完璧な平和の中にとどまっておられた。それゆえにこそ、主は最も大いなる《巡礼》であり、最も高貴な《働き人》であられたのである。私たちは、私たちの主以上に良い靴を履く必要はない。自分の心に主の平和という靴を履かせよう。そうすれば、自分の旅のための最高の備えをすることになるであろう。

 その靴は、私たちの旅の間中、最後まで保つものだと云い足すこともできよう。私たちは、自分の古靴を履くとき最も心地よく感じる。それが足にぴったり合うからである。だが、古靴は最後には破れてしまう。本日の聖句の語る靴は古いが、常に新しく、イスラエルが荒野で履いていた、次のように云われた靴のようである。「その足のくつもすり切れなかった」[申29:5]。永遠の福音は、私たちに永遠の平和をもたらす。この、天からの良い知らせは、決して新鮮さを失わない。それがもたらす平和が、あのギブオン人の「繕った古いはきもの」[ヨシ9:5]のようになることは決してない。平和の福音の備えを履く者は、若いとき、それによって慰められたし、晩年になっても、なおもそれが元気づけてくれる。その人は、最初に旅立ったとき、それによって順調に旅することができたし、ヨルダン川を渡り、天界の丘を登る最後の足取りをもそれが守ってくれるであろう。

 愛する方々。あなたがたはみなこのように、自分の人生の旅のための靴を履いているだろうか? そのことをよくよく確かめるがいい。

 II. さて私たちの第二の務めに移ることにして、《この靴を履いてみよう》

 ここで私たちを大いに喜ばせることに、これは完璧に足に合うものである。それを履くために押したり引っ張ったりする必要は全くない。魔法よりも不思議な奇蹟によって、この平和の福音の備えはいかなる足にも合う。それが恵みにある幼子の足であろうと、キリスト・イエスにある強い人の足であろうと変わらない。いかなる人も、快適な服装をしていない限り、――特に、それが足に関わる部分であれば、――戦闘に従事して成功することはおろか、順調に旅をすることさえできない。そして、ここで私たちが得ている素晴らしく有利な点は、ひとたびこの靴を履いた足は決してしっくりなじまないことがないということである。生まれながらにメフィボシェテのように両足が共になえている[IIサム9:13]者たちも、この靴が奇蹟を起こすことに気づいてきた。それが彼らを険しい山々の上の鹿[雅2:17]のように躍り上がらせたのである。平和の福音は、私たちのあらゆる弱点を助け、私たちの古い罪のあらゆる傷を癒し、私たちのあらゆる繊細な部分にぴったりと合ってくれる。その弱さが何であれ、福音はそのために必要な物を供してくれる。その苦悩が何であれ、その平和がそこから解放してくれる。他の靴には、きつくて締めつけられる部分があるが、平和の福音の備えを履く者は、霊が締めつけられることが全くない。福音は私たちの思いを安らがせるからである。本当に信じられた本物の福音は、本物の平和を意味する。私たちの心を乱すものは、福音の精神とは異質である。だが、キリストの霊は平和の霊である。そのような靴を履きたくない者がいるだろうか?

 平和の福音の備えが素晴らしい靴である理由は、それを履く者に堅固な足がかりを与えてくれるからである。確かに、この靴こそハバククが次のように歌ったものに違いない。「私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる」[ハバ3:19]。人々が滑りやすい岩山の上か、危険な高台にいて、落ちれば死を免れないというときに大切なのは、足に履いている靴が、その足がかりをしっかりつかんで揺るがないことである。何にもまして人が主にあって堅く立つことを助けてくれるものは、福音の平和である。多くの信仰告白者たちは、あっというまに転覆させられてしまう。教理的な過誤から攻撃されると、手もなく降伏してしまう。誘惑の襲撃を受けると、腰砕けになってしまう。だが、神との完璧な平和を有している人、また、《いと高き方》により頼んでいる人は、決して動かされることがない。主がその人を支えてくださるからである。その靴によって、その人は永遠の真実の中に至らされており、錨につながれているようにびくともしない。贖罪など真実ではないと告げられても、また、血を抜きにした現代思想の新神学を高らかに説教されようとも、その人はそうした無駄な試みをあざける。なぜなら、その人は自分の信じてきたお方を知っており、内側の天的な平和が代償犠牲から流れ出ていることを感じているからである。恵みの諸教理など間違いだ、救いはすべて自由意志と人間の功績によるものなのだ、と告げられても、その人は云うであろう。「否。私は、そんなことを信じるほど愚かではない。私は主権的な恵みの諸教理が真実であると経験から知っている。私は自分が神の選民であると知っている。自分が召されていることを知っている。義と認められていることを知っている。そうしたすべての結果、神との平和を得ているからだ」、と。一吋たりともその人を動かすことはできない。その人の信条は、その人の個人的な意識に織り込まれており、いかなる議論によってもその人をそこから引き離すことはできない。この懐疑主義の時代にあって、人々が何の休み場も有していないように見受けられるとき、あなたが真理に立つことのできる、そして、実際に立っているような靴を履けるのは良いことである。それを履いていれば、薊の冠毛のようにそよ風で吹き払われることはありえない。

 本日の聖句が示している靴の名高さは、同様に、日々の義務という道のりを行進するためのふさわしさから出てもいる。兵士たちは、単に立っている際に自分たちの靴が楽かどうか、足に合うかどうかをじっくり考えたりはしない。彼らは日々行進しなくてはならないからである。私たちも行進しており、私たちの中のある者らに関する限り、それはただの閲兵用の行進ではない。厳しい労苦と、長々と続く努力を伴う、過重な行進である。神との平和を得た魂は、いかに苛酷な移動にも適した状態にある。罪赦され、神と和解させられていると感じていることによって、私たちは、どんな場合に何が起ころうとも適応できる。罪の重荷がなくなっているとき、他の一切の重荷は軽い。私たちがもはや地獄への路を辿っていない以上、私たちは、自分の巡礼のいかに険しい場所によっても悩まされはしない。いかなる領域においても、神との平和を得ている心は、前進するための最も健全な備えであり、試練の下における最も確実な支えである。この靴を履いてみるがいい。私の兄弟たち。そして、それによってあなたが、いかに走ってもたゆまず、歩いても疲れない[イザ40:31]かを見るがいい。地上のどこを探してもこのようなものはない。これは無類のものである。これによって人は御使いのようになる。彼らにとって義務は喜びなのである。

 この福音の靴は、人生という路上で通常出会う、いかなる険しさに対しても効果的な守りとなる。そうした険しさが、私たちの中のほとんどの者にとって、なだらかどころのものではないとしてもである。天国への道がみな、良く刈り込まれ、平坦にされた芝生の上を歩んで行くようなものだと期待する人、あるいは、蒸気圧延機でならされた公道を探そうとするような人は、悲しいほどの考え違いをしていることが分かるであろう。その道は、エン・ゲディ[Iサム24:1]の山羊道のような悪路で、しばしばあまりにも細く、あまりにも高所にあるため、鷲の目でもそれを見分けることはできない。以前の巡礼たちの血が栄光への道には点々と染みになっている。それでも、私たちの足に対するあらゆる危難から、平和の福音の備えは私たちを防護するであろう。内なる恐れからも、外なる戦いからも福音の平和は確実に私たちを解放するであろう。ことによると、私たちは、数々の大きな試練よりも、数々の小さな試練によって悩まされるかもしれない。確かに、そうしたものによって平静を失うことの方が多いに違いない。だが、平和に満ちた心は、小さなとげからも、すさまじい巨岩からも同じように守ってくれる。神の平和が私たちの心と思いを守っているとき、私たちは、日々の苛立たしさにも並外れた艱難にも、同じように朗らかに耐えることができるであろう。

 愛する方々。この靴は、登るためにもすぐれている。あなたは、神のほむべき御霊の先導によって、霊的登山という聖なる技術を実践したことがあるだろうか? あなたは、タボル山に登って、あなたの《主人》とともに変貌したことがあるだろうか? 主とともに一時間、眺望をともにし、主の争闘と主の勝利とを見晴らしたことがあるだろうか? あなたはこれまで、ピスガの栄光に富む高みから、かの良い地とレバノン[申3:5]を眺めて、栄光が啓示されるのを予期していたことがあるだろうか? あなたの霊はこれまで、遠く離れてヘルモン山の上で、ひとり神と神秘的に交わっていたことがあるだろうか? 私は、あなたが、こうした登りのわざがいかなることを意味するか知っているものと思いたい。また、イエス・キリストとの魅惑的で恍惚的な交わりを享受したことがあるものと思いたい。だが、このことだけは確信している。もしあなたの足に神の平和を履いていないとしたら、あなたは決して高みに上ることができない。この聖なる履き物を履いていない限り、登ることはありえない。主イエス・キリストにある自分を喜んでいる者たちだけが、主の山に登り、その聖なる所に立てるのである[詩24:3]。

 神との平和で整えられた心は、登ることだけでなく、走るためにもふさわしい靴を履いている。時期によって私たちは、自分の一切の精力を振り絞り、英雄的な足どりで突進しなくてはならない。というのも、人生という戦役のいくつかの場所では、猛然と事を行ない、あらゆる精神機能を疾風のように邁進させなくてはならないことがあるからである。私たちは、常に最大速度を保っていることはできないが、それにもかかわらず、時折そうすることが必要となる。だが、突進し、疾駆するのに最もふさわしい人とは、魂が平安のうちにとどまっている人である。心悩んでいるとき、私たちの足には水膨れができており、私たちの膝は弱っており、私たちの動きは痛ましいほどのろい。だが、主を喜ぶことは私たちの強さであり[ネヘ8:10 <英欽定訳>]、その力によって私たちはアサエルにも似て、野にいるかもしかのように足が早くなる[IIサム2:18]。この靴を履いてみるがいい。のろのろ進んでいる、私の兄弟たち! あなたは何と云うだろうか?

 最後に、この靴は、戦うためにすぐれている。そして、それは、パウロがこれを武具の中に含めていることから推察される。古の様式では、戦闘は接近して白兵で行なうものであり、そのときに必要だったのは、足を良く防護することであった。実際、襲撃の際にも役立つほど良く防護することであった。というのも、戦士たちはその手で敵を打つばかりでなく、その足で敵を蹴ちらし、多くの敵は痛烈な蹴りによって hors de combat[戦闘不能]にされたからである。キリスト者である人々は、罪とサタンに対する戦いにおいて、その足を用いて戦うことが期待されている。実際、彼らはそのすべての力と精神機能を用いて戦わなくてはならない。かの大いなる約束が私たちには与えられている。「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます」[ロマ16:20]。ひとたびその機会を得たなら、いかに私たちは彼を踏みにじることか! 私たちが平和の福音の備えを自分の足に履く必要があるのは、かの古き竜の頭を踏み砕くため、また、その罠を粉砕するためであり、神が私たちを助けてくださるなら、そうするはずである。私たちの契約の《かしら》は、かの古い蛇を踏みつけにされた。そのように、そのあらゆる肢体は行なうはずである。

 この靴については、ここまでで十分としよう。だが、1つの真剣な問いが私の心に浮かんでいる。あなたがたの中には、永遠へと旅しなくてはならないのに、その旅のために何の靴も履いていないという人がいるではないだろうか? いかにして未回心の人が、その足に何の靴も履かないまま天国に達することを望めるだろうか? いかにしてその人は、人生の数々の苦難、肉の数々の誘惑、死の数々の試練を忍ぶのだろうか? 私は切に願う。まだ回心していない人たち。自分を眺め、その道を眺め、見てとるがいい。あなたが、その旅の最後まで行き着きたければ、イエスのもとに行き、イエスから恵みを獲得して、栄光への巡礼と変えていただく以外にないということを。私は切に願う。ぜひ主のもとに行き、主にあって平和を見いだしてほしい。そのとき、あなたの人生の旅は幸いで安全なものとなり、最後には永遠の喜びとなるはずである。それは、あなたの足が「平和の福音の備え」を履いているからである。

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巡礼たちと戦士たちのための靴[了]


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