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女たちの権利――たとえ話

NO. 3141

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1909年4月22日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「そこでモーセは、彼女たちの訴えを、主の前に出した」。――民27:5


 聖霊の御助けによって、私は、この事件――荒野でイスラエルが四十年間放浪したことを物語る歴史において、ある種の挿話をなしている出来事――を2つの目的のために用いたいと思う。第一に、その一般的な教えを指し示させてほしい。そして第二に、ある特定の種別の人々に対する訴えの根拠とみなさせてほしい。

 I. 第一に、《その一般的な教え》を指し示したいと思う。

 私があなたの注意を引き、また、見習うべき模範としてはっきり示したいのは、この五人の若い女――ツェロフハデの娘たち――が、約束の相続地について有していた信仰である。あなたも間違いなく覚えているように、イスラエル人たちはまだ荒野にいた。まだ約束の地を見たことはなかった。だが、神はすでに彼らがそれを所有するという契約を結んでおられた。彼らを乳と蜜の流れる地に導き入れ、そこに植えつけよう。また、永遠の塩の契約[民18:19]によって、その地は彼らに、また、彼らの子孫たちに属することになる、と宣言しておられた。さて、この女たちは、この相続地を信じた。彼女たちはエサウのようではなかった。彼は、自分の長子の権利であったを軽んじたあまり、一椀の煮物と引き替えにそれを弟ヤコブに売り払ったのである。だが彼女たちは、それを本当に持つ価値のあるものと信じていた。その相続地を一度も目にしたことがなかったが、この上もなく実質あるものであるとみなしており、そのように考えていたために、いざその土地が分割されるとき、自分たちが無視されることを恐れた。そして、それを一度も見たことがなかったが、それでも、それがどこかにあると確信し、イスラエル人がしかるべき時にそれを持つことになるだろうと確信していたため、彼女たちは、自分たちに男の兄弟がいないことを理由にその区分において忘れられ、そのようにして自分たちの権利を失うのではないかと恐れた。彼女たちは、その目では一度も見たことのない相続地のことを心配していた。そして、その点で私は彼女たちを、この現在の集会が見習うべき模範として掲げ上げるのである。カナンの地よりもはるかにまさった相続地がある。おゝ、私たちがみなそれを信じ、それを得たいと切望していたならどんなに良いことか! しかしながら、それは定命の目が見たことのない相続地であり、その音は定命の耳が聞いたことのないものである。通りが黄金でできている都がある。だが、私たちの中の誰もそこを踏みしめたことはない。その国に旅をして行った者のうち、ひとりとしてその数々の栄光を私たちに告げに戻ってきた者はいない。そこでは音楽が決してやむことなく、何の不協和音もそこには混じり込まない。それは崇高である。だが、その天的な聖歌隊のいかなる隊員も、私たちのために、その天界の楽譜を書いてくれたことはない。また、このようにしてくれたこともない。――

   「われらに教えよ、妙なる十四行詩(うた)を、
    天(あま)つ炎舌(した)にて 唱(とな)わる詩歌(うた)を」。

それは、目に見える問題ではない。私たちひとりひとりにとって、それは信仰の問題でなくてはならない。信仰によって私たちは、別の、より良い国があると知る。信仰によって私たちは、肉体を離れた自分の魂がキリストとともにいるため上って行くこと、また、じきに私たちのからだもよみがえって私たちの霊と結び合わされ、からだも魂もともに、私たちの恵み深い《贖い主》の御前で、永遠に栄化されることを理解している。しかしながら、私たちは一度もこの国を見たことがない。だが、私たちの中のある者らは、それを見たことがあるかのようにそれを堅く信じており、まるで私たちのこの耳がその喜びの歌を耳にし、私たちのこの足がその黄金の街路を踏みしめたことがあるかのように確信し、全く納得しているのである。

 この五人の女たちの信仰には、このような特徴もあった。彼女たちは、その相続地が、非常な困難に直面することによってしかかちとれないものであることを知っていた。この国から戻ってきた斥候たちは、そこに住んでいる者らが巨人であると云っていた。彼らは云った。「私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう」[民13:33]。イスラエルの陣営にいた多くの男たちは、こう云ったに違いないと思う。「よろしい。私は自分の分け前など安値で売り払ってしまいたいものだ。土地はそこにあるが、私たちは決してそれをかちとれないからだ。彼らの町々の城壁は高く天にそびえているし[申1:28]、彼らは鉄の戦車[ヨシ17:16]を持っている。私たちは決してあの国をかちとれないだろう」。しかし、この女たちは、自分たちには戦えなくとも神は戦うことがおできになると信じていた。また、自分では針よりすさまじい武器に指を触れたことが決してなかったが、こう信じていた。彼女たちがミリヤムとともにタンバリンの喜ばしい響きに合わせて踊りながら出てきたときに[出15:20]勝利をもたらしたのと同じ、あの右の御腕は、再び勝利を得て、神の民を導き入れ、カナン人を追い払うだろう。たとい城壁で囲まれた町々と鉄の戦車があろうと関係ない、と。

 そのように、この女たちには強い信仰があった。願わくは、あなたや私が――愛する方々。あなたがた全員が――同じものを持てるように。だが、私には分かっている。あなたがたの中のある人々は、そこに乳と蜜の流れる地があると信じてはいるが、自分が決してそこに達さないのではないかと半ば恐れている。あなたは、自分自身の弱さゆえに多くの疑いに悩まされている。実際、そうした弱さは、単にあなたに疑いをもたらすだけでなく、あなたを全く絶望させてしかるべきである。もしも、その良き地の獲得があなた自身がそのために戦うこと、また、かちとることにかかっているとしたらそうである。だが、「神の下さる賜物は……永遠のいのち」[ロマ6:23]であり、神ご自身がそれを私たちに与えてくださる以上、また、イエスが私たちのために場所を備えに高い所に上られ、それからまた来て、私たちをご自分のもとに迎え、ご自分のいる所に私たちをもおらせると約束してくださった以上[ヨハ14:2-3]、私は願うものである。私たちの一切の疑いや恐れが消え失せ、私たちが心中こう云うように、と。「私たちは十分にかの地へ上って行き、攻撃することができる。というのも、主が、すなわち、万軍の主が、私たちとともにおられるからだ。アドナイ・ニシ[出17:15]が私たちの旗だ。『主は私たちの正義』[エレ23:6]が私たちの助け手だ。私たちは確かに神の愛される人々の場所に入り、天に登録されている長子たちの教会[ヘブ12:23]に加わることができるのだ」。

 私がこの女たちの信仰をあなたに推奨したいのは、その地を信じ、それをかちとれると信じた上で、彼女たちが、それを良い地ではないと悪く云いふらした者たちによって引き返させられなかったからである。その地を探ってきた十二人のうち十人はこう云った。「それは、その住民を食い尽くす地だ」*[民13:32]。彼らは戻って来ると、悪い噂をまき散らした。しかし、こうした偽りによって誰が誤らされたとしても、この五人の女は誤らされなかった。他の人々は云った。「何と、その地は疫病とくまばちで一杯なのだ。また、そこにいま住んでいる者たちは死にかけているのだ」。神が彼らを死なせつつあり、彼らの代わりにイスラエル人を導き入れようとしておられること[出23:28]を忘れていたのである。それで彼らは云った。「誰が、そんな地の割り当て分など欲しがるだろう? 私たちには、エジプトの韮や、大蒜や、玉葱[民11:5]を与えてくれ。そして、もう一度ラメススで持っていたような肉鍋[出16:3]のそばに座らせてくれ。だが、このカナンに進んで行くことなど、決してするものか」。しかし、この五人の女は、もしもその過程に苦難があれば自分たちも確実にそれにあずかることになると知りながら、また、もしパンが不足すれば自分たちこそ最もその窮迫を感じることになるだろうと知りながら、また、もしそれが病の地であったとしたら、自分が看護婦とならなくてはならなくなると知りながら、それでも、その地の中に自分たちの分け前を得ることを切望した。というのも、その悪い噂を信じなかったからである。彼女たちは云った。「いいえ。神は仰せになりました。それは良い地であり、山と谷の地であり[申11:11]、小川や川の流れる地であり、橄欖油と蜜の地、その山々からは鉄や青銅を掘り出すことのできる地[申8:8-9]である、と。それで私たちはあの斥候たちの云うことを信じません。それは良い地です。私たちは行って、私たちの分け前を請求しましょう」。それで、私はこの点における彼女たちの信仰を推奨するのである。

 私は、あなたがたの中のある人々が時折、あざ笑う懐疑主義者たちと遭遇することを知っている。彼らはあなたに云うであろう。「天国なんて場所はないさ。われわれは一度もそれを見たことがないもの。そんなものを信じている馬鹿がまだいるのか? あんたは、自分が垣根やどぶ川を越えて、あたふた巡礼の旅をしている目当ての国について何も知らないというのか? あんたは、あの古ぼけた《書》を信頼し、神のことばを受け取り、神のみことば以外の何も受け取らずに、それを信じるというのか?」 おゝ、望むらくは私たちの中の多くの者らが――私たちの中の全員が、この幸いな立場にいることができ――こう云えるように! 「いかにも」、と。下がれ、《無神論者》君。私たちを止めてはならない。というのも、私たちは、これが無駄骨折りではないと確信しているからである。下がれ、《皮肉な懐疑主義者》殿。そうしたければ笑うがいい。いま笑っているあなたは、そのうち急にしょげ返るであろう。そして、その時には私たちがあなたを笑い返すであろう。いずれにせよ、たとい天国が全くないとしても、私たちはあなたと同じくらい結構な生き方をしよう。だがもし地獄があるとしたら、おゝ、あなたはどこにいることになるだろうか? また、何があなたの分け前となるだろうか? それで、私たちは私たち自身の道を確信をもって、何も疑わず、確かに進んで行くのである。私たち自身の存在を信じているのと同じくらい堅くこう信じながら、――

   「さばきの主なる イェス来たらん、
    御民を高く のぼらせて
    永久(とわ)の家へと 入らすため」。――

また、一時間でも主とともにいることは、途上で受けるいかなる苦難にも値すると信じながら。一万回も死を忍べるとしたら、それでも、これをかちとるためとあらばその甲斐はあるのである。そして、さらに、神の恵みによって、私たちはそれをかちとるのである。

   「われらは仰ぐ、主の御顔
    われらはあがむ、主の御名を
    奇しきを歌わん、御恵みの、
    これより永久(とわ)に、とこしえに」。

それで私は、このツェロフハデの娘たちを、その信仰ゆえにあなたが称賛し、見習うようにと掲げ上げるのである。

 しかし、別の点がある。この地に関して確実に感じている私たちが、次に彼女たちを推奨したいのは、その中に割り当て分を所有したいという彼女たちの切望についてである。なぜ彼女たちはこれほどそれについて考えたのだろうか? 先日、私はある人が、ある特定の若い人々についてこう語るのを聞いた。「私は、若い女たちが宗教的になるのを見たくありません。若い娘なら楽しみと陽気さで満ちているべきです。こんな深遠な思想で頭を満たすべきではありません」。さて、私が云わなくてはならないのは、こうした種類の哲学がイスラエルの陣営でも公認されていたし、そこにいた非常に多くの若い女たちがこう云っていたということである。「おゝ、その良い地については、そこに着いたときに、いくらでも考える暇があるわよ! 私たちは私たちの鏡を磨いていましょう。私たちの服の手入れをしましょう。その時が来たときに、タンバリンを指で鳴らせるようにしていましょう。でも、あのヒビ人やヘテ人の間の割り当て分をもっそり述べたりしても、何になるでしょう? 私たちは、そんなことで頭を悩ましたりしないわ」。しかし、この五人の女の信仰には非常な力があり、それによって彼女たちは、その相続地の分け前について深い懸念を感じるようになっていた。彼女たちは、ただ現在のためだけに生きるような薄馬鹿たちではなかった。自分たちの赤ん坊時代を脱していた。単にその日のために生きるだけでは満足していなかった。彼女たちは、しかるべき時が来れば諸部族がヨルダン川を渡り、約束の地に入ることになると知っていたのである。それで、いわば良き主婦のように、自分たちの割り当て分ががどこになるかについて考え始め、その登録名簿が読み上げられるときに自分たちが忘れられるとしたらどうなるか思い巡らし始めた。そのとき何の割り当て分もティルツァになく、何の割り当て分もミルカになく、この五人姉妹の誰にも何の場所もないとしたら、自分たちはその国の真中で乞食か追い散らされた者のようになるだろうと考え始めた。他のすべての者らが自分たちの土地の区画を持っているのに、自分たちの一家だけは何もないかもしれないと考えて、その気遣いを募らせた。おゝ、愛する方々。あなたや私は、自分の召されたことと選ばれたこととを確かなものとする[IIペテ1:10]ことを、いかに気遣うべきであろうか。また、いかにこのハンティンドン公爵夫人の質問は、私たちの心に深く突き入れられるべきだろうか?――

   「されど、耐えんや、かの刺す思いに――
    いかにせむ、もし 汝が召さるとき
    わが名の全く 省かれるれば?」

かりに、私が天空に何の割り当て分も持っていないとしたら! おゝ、お前たち、貴橄欖[黙21:20]やありとあらゆる種類の宝石類でできた土台石たち。お前たち、真珠の門たち。お前たち、碧玉で作られた城壁たち。私は決してお前を所有してはならないのか? おゝ、御使いの軍勢たち。血で買い取られた者たちの大群衆たち。私は決してあなたがたの真中で棕櫚を振り、冠を戴いてはならないのか? 私を迎えることばは、あの戦慄の一言でなくてはならないのか? 「のろわれた者ども。離れて、永遠の火にはいれ」*[マタ25:41]。聖徒の相続分[コロ1:12]には、私のための何の場所も、何の余地もないのか? 私は切に願う。こうした問いに否と答えられるようになるまで、決して満足してはならない。こう云えなくてはならない。「否。私はイエスのふところに1つの場所がある。私はイエスの血で洗われている。それゆえ、私は、ふさわしい時が来たならば、イエスとともにいることになるのだ。イエスの栄光に包まれ、イエスがおられる所にいることになるのだ」、と。おゝ、私はあなたがた、このことについてはっきりしていない人々に願いたい。この女たちと同じくらい気遣うがいい! このことをあなたの心に押しつけるがいい。このことに顔面蒼白にさえなるがいい。空しい軽薄な快活さや陽気さを有するよりはそうするがいい。そうしたものは、あなたをかの底知れぬ所へと誘い込むであろう。おゝ、永遠のために確実な備えをしておくがいい! 他の何を軽くあしらおうとも、最後の大嵐の中であなたを堅くつなぎとめておく錨を自分のものとするよう努めるがいい。キリストと婚約するよう努めるがいい。あなたが確実に千歳の《岩》の上に土台を置いているようにするがいい。それ以外に、永遠のため安全に建てられる場所はないのである。

 この女たちは、約束の地における自分自身の地所について、思慮のある懸念にとらわれていた。また、その地が契約によって自分たちの先祖たちに与えられていたことを思い起こしたとき、その割り当て分を得たいと願うことにおいて正しかった。彼女たちが、契約の祝福となるに足るほど良いものの一部を得たいと願うのは当然であったであろう。その地は、天来の権威によって何度も何度も約束されていた。彼女たちは、神ご自身の口が約束していたものの分け前を得たいと願って当然であったろう。この地に彼らを導き入れるためにこそ、神はエジプトの初子を打ち、血の注ぎによってご自分の民を救われたのである。彼女たちは、自分たちを導き入れるためにこれほど大きな代価が払われた地を得たいと願って当然であったろう。それに、それは麗しい地であった。あらゆる地の中で最も気高い地であり、地のあらゆる領土の中で比べようのない領土であった。その産物は最も豊穣であった。エシュコルの葡萄、何がそれと肩を並べられたろうか? その柘榴、その橄欖、その河川、乳と蜜の流れるその地、それ以外の全世界の中でこのようなものは他になかった。この女たちが、「私たちにも、そこに割り当て分を与えてください」、と云ったのも当然であったろう!

 そして、話をお聞きの愛する方々。私たちがあなたに告げなくてはならない天国は、世界が存在する前から契約の中で語られていたほど良い地なのである。それは、一万回も神の民に約束されてきた。イエス・キリストがその尊い血を流されたのは、その門を開き、私たちを導き入れることができるようにするためであった。また、それは、もしあなたが一目見たなら、もしあなたがそれをいかなるものか知りさえしたら、地上にとどまることによってやつれ果てるだろうほどの地なのである。というのも、そのちりそのものでさえ黄金であり、その最も卑しい喜びさえ地上の恍惚感よりも豊かであり、天の国の最も貧しい者でさえこの世の王国の最も強大な王侯である者よりも偉大だからである。おゝ、あなたの口がパラダイスの饗宴を渇望するようにさせられていればどんなに良いことか! おゝ、あなたがたがイエスのおられる所にいたいと焦がれ求めるならばどんなに良いことか。そのときは、確かにあなたは、自分がそこに割り当て分を有しているかどうかを知ろうとして躍起になるであろう。

 私がこの女たちを模範として掲げ上げるのは、彼女たちが目に見えない相続地を信じていたからであり、その中にある自分たちの割り当て分をぜひとも得たいと願ったからである。

 しかし、それからさらに私が推奨しなくてはならないのは、彼女たちがこの務めに取りかかったやり方のためである。彼女たちが、自分たちには何の割り当て分もないのではないか心配だと、天幕から天幕へと不平を云って歩いたとは書かれていない。多くの疑う人々はそうする。彼らは自分たちのもろもろの疑いや恐れを他の人々に告げては、まるで先へ進まない。しかし、この五人の女は真っ直ぐにモーセのもとに行った。彼が彼女たちの長であり、彼女たちの仲保者であった。それで、こう云われている。「モーセは、彼女たちの訴えを、主の前に出した」。見ての通り、この女たちは、自分の欲したものを力ずくで得ようとはしなかった。彼女たちはこうは云わなかった。「あの地に着いたら、私たちの土地の分け前を勝手に分捕りましょう」。彼女たちは、何かを申し立ててそれを手に入れられるような功績が自分たちにあるとは考えなかった。むしろ、真っ直ぐにモーセのもとに行き、モーセは彼女たちの訴えを取り上げて、主の前に置いた。罪人よ。あなたは天国にある割り当て分を欲しているだろうか? 真っ直ぐイエスのもとに行くがいい。そうすれば、イエスがあなたの訴えを取り上げて、それを主の前に置いてくださる。そうした訴えは、自分ひとりで立とうとするときには非常にみじめなものである。だが、イエスは非常に甘やかなしかたで、ご自分をあなたと混ぜ合わせ、あなた自身をご自分と混ぜ合わせると、ご自分の訴訟とあなたの訴訟とを1つの訴訟にしてくださる。すると、御父はイエスに首尾良くお答えになり、あなたにも首尾良くお答えになるであろう。おゝ、この場にいる誰かが、以前一度もそうしたことがないとしたら、この祈りを小声でささげるならばどんなに良いことか。「《救い主》よ。私が天空に1つの割り当て分を得られるようにしていただけないでしょうか? 尊い《救い主》よ。私のあわれな心を取り上げ、あなたの尊い血で洗い、あなたの聖霊によって変えてください。また、完璧な聖徒たちのいる所に住む備えのできたものと私を変えてください! おゝ、私に代わって私の訴訟を取り上げてください。ほむべき《弁護者》よ。そして、あなたの御父の御顔の前で、それを申し立ててください!」 それこそ、救いの務めを効果的に果たすしかたである。それをあなたの手から、モーセのような《預言者》[申18:15]の手に明け渡すがいい。そうすれば、あなたは確かにうまく行くであろう。

 さて、この女たちの成功に注目するがいい。主は彼女たちの訴えを受け入れられた。というのも、モーセにこう仰せられたからである。「ツェロフハデの娘たちの言い分は正しい」[民27:7]。しかり。そして、あなたが神に叫び求めるとき、また、その愛する御子があなたの祈りを神に持って行ってくださるとき、神は仰せになるであろう。「この罪人の云い分は正しい」、と。あなたの胸を叩き、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」[ルカ18:13]、と叫ぶがいい。神は仰せになるであろう。「この魂の云い分は正しい」、と。若い婦人よ。今この五人の姉妹たちを見習うがいい。願わくは聖霊なる神があなたに彼女たちを見習わせ、へりくだって、《仲保者》イエス・キリストを通してあなたの訴えをささげさせてくださるように。そうすれば、神は仰せになるであろう。「あゝ、彼女の云い分は正しい。わたしは彼女の言葉を聞いた。彼女を受け入れた」、と。それから神は、この姉妹たちがその割り当て分を男たちと全く同じように受けるべきであると云われた。彼女たちが、息子たちが相続するのと全く同じように、その土地の分け前を受けるべきであると云われた。そして、それと同じように神は、求める罪人ひとりひとりに向かって仰せになるであろう。あなたがいかに不利な点の下で労苦していようと、また、あなたの要求に対していかなる障壁があるように思われても、あなたは子らの間で相続地を得るであろう。神の選ばれた民の間で、それに関係を持ち、あずかることであろう。キリストがあなたの訴えをその御父の前に出された。そして、あわれな罪人よ。それは、あなたの望み通りに与えられ、あなたは主の民のうちで割り当て地を所有するであろう。

 私は、この件をもっと直接的にあなたに突き入れる力を持っていたらと思う。今この場にいる、私たちの中の多くの者らは救われている。私の会衆のいかに多くの割合がキリストのもとに来ているかを思い出すのは大きな満足である。だが、あゝ、ここにいる多くの多くの人々は、――よろしい。そうした人々は何者だろうか? 彼らは、自分が何か相続地を所有しているかを知らない。天空にある館の所有権をはっきり読めない。そして、なお悪いことに、そのことを気にかけてもいない。もしそうした人々がそのことについて悩んでいるとしたら望みも持てるが、否。彼らはわが道を行き、柔順者のように《落胆の沼》から抜け出ると、踵を返して基督者たちに云うのである。「君たちはその結構な国を自分たちだけで持つがよい。私は少しも構うものか」、と。彼らは現在の快楽をあまりにも好んでおり、かの大敵のずる賢い囁きによってあまりにも容易にそそのかされ、自らの種々の情動によってあまりにも即座に打ち負かされてしまうため、キリスト者になるのは辛すぎると思う。キリストを愛することは、彼らにとって難しすぎるのである。あゝ! 願わくは神があなたと出会い、もっと賢くしてくださるように! あわれな魂たち。あなたは滅びるであろう。あなたがたの中のある人々は、この世の泡ぶくや安物の装飾品を眺めている間に滅びるであろう! あなたは滅びてしまう。この地上の種々の喜びを口中に含んだまま地獄に下って行くであろう。そして、そうした喜びは、地獄の激痛があなたをつかむときには、口を甘やかにはしないであろう! あなたの人生は短い。あなたの蝋燭は根元で揺らめいている。あなたは、すべての人の行く道を行かなくてはならない。来る週も来る週も、どこかで誰かが死なない週は決してない。これだけの大人数とあれば、確かに、その全員がこの場に再び集まることなどほとんど不可能である。ことによると、きょうが終わる前に、私たちの中のある者は幕の向こう側へ行き、大いなる秘密を学び、不可視の世界に入っているかもしれない。それは誰の割り当て分となるだろうか? もしそれがあなたのものだとしたら、あなたは喜びの諸世界に上るだろうか、それとも、――

   「悪鬼は汝れを 地獄(よみ)に沈むや、
    つゆ望みなき地に」。

願わくは神が、まずそれを私たちに気がかりな事がらとしてくださり、それから私たちがイエスのもとに来て、かの尊い血の注ぎを受けさせてくださるように。そして、そのようにして主が私たちにこう確信させてくださるように。私たちが主によって救われており、聖なるものとされた人々[使20:32; 26:18]とともに、あずかる者とされていることを!

 II. 第二に、私はこの事件全体を《ある特定の種別の人々に対する訴えの根拠》として用いようと思う。

 あなたは、こう強く感じないだろうか、ここには私たちの未回心の姉妹たちのための特別な教訓がある、と。ここに五人の娘たちがいる。若い女たちだと思う。確かに、結婚前の婦人たちではあるに違いない。そして、この五人は、神が御民に約束しておられた場所に割り当て分を得たいと求めることにおいて一致していた。この場に、そのような行動をしたことのない若い婦人たちが誰かいるだろうか? 残念ながら、いるのではないかと思う! 神をほむべきことに、多くの婦人たちは、私たちの間に来て、厳粛な感銘を受け、その若い日々をイエスにささげている。だが、ある婦人たちは、――この場にいるかもしれないある婦人たちは、――それと違う考え方をしている。この邪悪な《首都》の種々の誘惑、この危険な町の種々の快楽によって彼女たちは正道からそらされ、神のことばに正しく耳を傾けることが妨げられる。よろしい。だが、私の姉妹よ。あなたはここにいる。では、私はあなたの兄弟として、あなたにこう問いかけても良いだろうか? あなたは天空にある割り当て分を欲しているだろうか? あなたは栄光を得たいとは全く願っていないのだろうか? 永遠の冠に対する何のあこがれも有していないのだろうか? ほんの数時間の陽気さと引き替えにキリストを売り渡せるのだろうか? 下らない歌だの、愚にもつかない仲間たちのためにキリストを手放そうというのだろうか? あなたを義の道から引き離そうとする者らは、あなたの友人ではない。もしも彼らがあなたをキリストのもとから誘い出そうとするなら、彼らを愛しいと考えてはならない。忌み嫌うがいい。むしろ、あなたは確かに死ぬに違いなく、果てしない災厄か、無窮の至福の中で永遠に生きることが確実である以上、自分の魂のことを配慮するがいい。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」[マタ6:33]。そうすれば、それに加えて、他の必要なものはすべて与えられる。若い婦人よ。あなたは母上の庇護を離れ、田舎から出てきたばかりである。あなたが恵みの手段から故意に離れ始める見込みはきわめて高い。だが、そうしないようあなたに命じる。逆に、このことによって母上の神に結びつけられるがいい。そして、願わくはあなたがこう感じるように。これまで自分は神の家をないがしろにし、神の日の神聖を汚してきたが、これからは、このツェロフハデの娘たちのように、約束の地に割り当て分を得ようと求めることにしよう、と。

 この主題には別の方向にも向かう。そこには1つの声、それも大きな声が、敬虔な両親を持った人々に向かって発されていないだろうか? 私はこの女たちが、自分たちの父親はコラとともに死んだのではなく、荒野の罪ゆえに他の人々に降りかかった通常の死に方をしたのだと云っていることを好ましく思う。だが、彼女たちがこう云っていることも好ましいことである。「男の子がなかったからといって、なぜ私たちの父の名がその氏族の間から削られるのでしょうか」[民27:4]。このような両親に対する敬意、このような家族の誉れを保ちたいという願いを見るのは良いことである。私は考えていた。この場にいる何人かの人々、敬虔な両親から生まれた人々は、自分が神の恵みに不名誉をもたらすなら悲しいことだと感じるだろうか、と。あなたの父上は、長年の間キリスト者であったが、彼の後を継ぐ者が誰もいないということはないだろうか? おゝ、青年よ。あなたには、彼の後を襲おうという何の大望もないだろうか? 彼の名を神の《教会》の中で不朽のものとしようという何の願いもないだろうか? よろしい。もしも息子たちにそのような大望がないとしたら、あるいは、もしも息子たちがひとりもいなければ、娘たちが互いに云い交わすがいい。「私たちの父上は決してその信仰告白に不名誉を加えませんでした。主に反抗して1つに組んだ者らの仲間になって死んだりしませんでした。むしろ、主に忠実に仕えていました。それで私たちは父上の名がイスラエルから拭い去られないようにしましょう。私たちは神の民に加わりましょう。そうすれば、この家族を代表する者がなおもそこにいることになるでしょう」。しかし、おゝ、いかに私は願っていることか。兄弟姉妹たちがともに来ることを。そして、全家族を見るとしたら、いかに喜ばしいことであろう! その家族にはたった五人の少女たちしかいなかったが、彼女たちはみなその相続財産を得た。おゝ、父親よ。もしあなたの子どもたちもそうなったとしたら、あなたは幸いにならないだろうか? 母親よ。もしもあなたが子どもたち全員が導き入れられるのを見ることができたとしたら、喜んでこう云うではないだろうか? 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです」[ルカ2:29-30]。そして、どうしてそうならないことがあろうか? 私の兄弟たち。どうしてそうならないことがあろうか? 私たちは、そうなるまで休みなく神に願い求めよう。彼らがみな救われるまで神に懇願し続けよう。そして、若い人たち。どうしてそうならないことがあろうか? 主のあわれみはせばめられてはいない。アブラハム、イサク、ヤコブの神、また、あなたの父上の神は、あなたの神にもなると私たちは信頼している。おゝ、あなたが自分の両親の足跡を、彼らがキリストに従った限りにおいて、辿ろうとするとしたらどんなに良いことか! このツェロフハデの娘たちは、私には説教者になっているように思われる。そして、私はここに立って、彼女たちに代わって語っているのであり、この五人全員があなたにこう云っているのである。「私たちは、私たちの相続地をひとりの仲保者を通して求めることで獲得しました。若い女たち、兄弟姉妹たち。あなたもそれを獲得するために、ひとりの《救い主》を通してそれを求めるべきです」、と。

 そして、この聖句は別の種別の人々にも語りかけていないだろうか?――孤児たちである。この善良な少女たちはその両親を失っていた。さもなければ、こうした問題は起こってこなかっであろう。父も母も世を去っていた。それゆえ、彼女たちが自分でモーセのもとに行かなくてはならなかった。両親が彼女たちに代わってモーセのもとに来ることができなかったとき、彼女たちは自分で来た。あなたがたの中のある人々は、しばし天空に思いを馳せるがいい。ことによると、あなたは今朝、非常に異なる立場にあったかもしれない。だが、しばらく天空のことを考えてみるがいい。否。私が意味しているのは隕石のことではない。星々のことでも、彼方の明るい月のことでもない。むしろ、私はあなたに、向こうにいるあなたの母上のことを考えてほしい。あなたは覚えているだろうか? 母上があなたに最後の口づけをし、あなたに別れを告げて、こう云ったときのことを。「ついて来てね。子どもたちや。お空にいる母さんの後について来てね」。そこにいる父上のことを考えてみるがいい。その声は、疑いもなく永遠のハレルヤを膨れ上がらせるのを助けているに違いない。父上は、天国の狭間胸壁から、あなたを差し招き、こう叫んではいないだろうか? 「私の腰から出た子どもたち。私についておいで。私がキリストに従ったように」。私たちの中のある者らには、そこに誉れある祖父がいる。そこに誉れある祖母がいる。あなたがたの中の多くの人々は、そこに小さな幼子たちがいる。神がしばしの間あなたにお貸しくださった幼い天使たちである。それから神は、彼らを天へ連れ帰り、あなたにその道を示してくださった。あなたも上へ向かうよう誘ってくださった。あなたがたはみな、何人かはそこに愛しい友人たちがいる。神の家に群れといっしょに歩いて行った[詩55:14]友人たちがいる。彼らは行ってしまったが、私は生ける神によってあなたに命じる。彼らの後について行くがいい。あなたの家族を断ち折ってはならない。家庭の中に、いかなる厳粛な割れ目や裂け目も生じさせてはならない。むしろ、彼らが自分たちの安息に入ったように、あなたも同じ通り道によって進み、永遠に安らぐことになるように。イエス・キリストは喜んで罪人たちを受け入れようとしておられる。喜んであなたを受け入れようとしておられる。そして、もしあなたがキリストを信頼するなら、今あなたの友人たちがあずかっている喜びと至福はあなたのものにもなるのである。敬虔な両親を持った娘たち、先に永遠の栄光に入った人々の子どもたち。私はイエスを仰ぎ見るようあなたに乞い求める。行って、あなたの訴えをいまイエスに提示するがいい。それは確実に成功する。たといその問題が一度は疑わしかったとしても、今やそれは「さばきのおきて」[民35:29]となっている。主がそれを命じておられる。願わくは神がこうした助言と勧告をあなたにとって祝福とし給わんことを。キリストのゆえに! アーメン。

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女たちの権利――たとえ話[了]


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