私たちの力の光栄
NO. 3140
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---- 1909年4月15日、木曜日発行の説教 説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1873年2月13日、木曜日夜
「あなたが彼らの力の光栄であるからです」*。――詩89:17
詩篇作者エタンがここで語っているのは、契約の民のことである。神の民、恵みの契約の喜びの叫びを知る民、それゆえ、神の御顔の光の中を歩んでいる[15節]民である。こうした人々について、神は彼らの力の光栄であると云われているのである。あらゆる種類の力はみな神からやって来る。神は万物の《創始者》である以上、神こそあらゆる形の実在に力を与えるお方である。ヨブ記をしめくくっている尋常ならざる数章を読んで、そこで神がいかに主張しておられるか見るがいい。神こそ、目もくらむような鷲の飛翔に力を与え、谷で前掻きをする馬に力を与え、レビヤタンや河馬という海陸の強大な被造物に力を与えておられるのである。神は、こうした下等な被造世界に属するものすべてにおいて、存在する一切の力を与えていると主張しておられる。そして、私たちの確信するところ、神が人間のうちにある一切の力をもご自分のものであると主張なさるとき、それは等しく正しい。腕力も、足の疾さも、知性の鋭敏さも、これらすべては《いと高き方》から出ている。この方こそ、人間のからだの形成においてこれほどの驚異を成し遂げたお方である! その中にいかなる活力や能力があろうと、すべてを遡れば、神の全能の御手に行き着くに違いない。人間の物理的な力の光栄でさえ、人が知ると知らずとにかかわらず、神に属している。神は若者を元気溌剌とし、成人の力を成熟させ、ご自分の創造された力によってご自分への奉仕がなされるようにしておられる。
それと等しく真実なのが、精神のすべての力である。職人は、その技芸を神から学ぶ。ベツァルエルとオホリアブは、《いと高き方》から教えを受けて、「金や銀や青銅の細工を巧みに設計」[出31:4]することができた。それは、モーセが律法を書くことにおいて神から教えらたのと同じくらい真実である。詩人は、幾多の壮大な構想を巡らす力を神から受ける。神は、人間のあらゆる構想を越えたお方だからである。また、何か特定の科学において最も学識のある人――偉大な発見者――星々を測り、海原を地図に記す人――は、その一切の知力を《いと高き方》から受けている。このことが常に覚えられているとしたら良いであろう。というのも、往々にして知恵に秀でている人々は、自分の偉大さを自分のおかげであるとし、その上で、自らの生来の才質および獲得された知識を、自分の野心的な目当てのために悪用するか、何か下等で卑しい目的のために供するということが起こってきたからである。おゝ、すべての人々がその才質を神のために費やすならばどんなに良いことか。神こそは、そのしもべたちのひとりには一タラント、ひとりには二タラント、そして、もうひとりには五タラントを与えた大いなる《家の主人》であられ、お戻りになる時には、彼らがそれで何をしたか報告をお求めになるからである! おゝ、高い知能を有するすべての人々が、自分の力の光栄を神に帰すならばどんなに良いことか!
しかし、物理的な力や精神的な力のいずれよりも高く気高い形の力がある。私たちが別の領域の中に上るのは、霊的な事がらについて語り始めるときである。ある人々を神は霊的な死からよみがえらせてくださっている。彼らが「まだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました」[ロマ5:6]。そのようにして神は、彼らを罪のうちにあるその死から救ってくださった。また、彼らは神により、その御子の有効な働きを通して霊的に強くされた。恵みによって彼らは全能の神の子どもたちであり、彼ら自身、神を通して力強い者となっている。それで、彼らの力の光栄はことごとく神に帰されるべきなのである。詩篇作者のこの宣告、「あなたが彼らの力の光栄であるからです」、は、この霊的な子孫――契約の民――の全体について真実である。彼らは霊的な事がらにおいて神の恵みによって強くされているからである。
I. さて、あなたの思念をこの聖句の意味へと導こうとするに当たり、まず第一に、しばしの時を費やして、本日の聖句とは正反対のことを考察してもらいたいと思う。神は私たちの力の光栄であられる。だが、いま私があなたに考えてほしいのは、《私たちの弱さの恥》のことである。
これは、非常に屈辱的な主題であるが、決して私たちの思念からはるか遠くにあるべきではないことである。というのも、私たちが神から来る力の光栄をそのきわみまで悟りたければ、《堕落》と私たち自身の罪の結果、私たちの天性の中にある弱さの恥について深く意識する以外にないからである。私たちは、何とあわれな弱い生き物であろう! 私たちに象や獅子の力がないことは何の恥でもない。鷲や御使いの翼がないことは何の恥でもない。私たちがしばしば自然力に翻弄され、寒気には震え、太陽の下では日膨れになることは何の恥でもない。嵐が海を走り抜けるとき、その前で私たちの海軍が底の浅い軽舟のように吹き散らされることは、私たちにとって何の恥でもない。この世に、人間のように弱々しい被造物よりも遥かに強力な数多くの物事があることは、私たちにとって何の恥でもない。私たちが有するようにと神が意図されたような弱さは、決して恥じるべき理由にはならない。しかり。そうした弱さを重々自覚した上で、私たちは神に目を向け、私たちがいのちを吹き込まれたちりでしかないこと、また、神が私たちを今のように弱く造り、今のように弱い者と意図されたことを思い出していただくのである。それは、恥が存するところではない。恥は、堕落した状態における私たちにとって天性のものである道徳的な弱さのうちに存している。
どういうことかというと、ひとり放置されておくと、私たちは、弱さのあまり、自分のより下劣な精神が自分の主人となることを許してしまう。私たちの最も卑しい種々の能力が、私たちの全性質を牛耳ることを許してしまう。神は、地を私たちの足の下に置かれたが、しばしば私たちは自分を地の下に置いて、地上的なものが自分を支配するにまかせてしまう。私たちのうちにある性質は、その起源においては、天来のものに近かった。だが、いかにしばしば私たちは、自分の堕落した性質による種々の情動が、私たちの全存在を支配するのを許してしまうことであろう! 私たちは、自分の性質の中でも最悪の部分が、最上の部分に対して主権を振るうがままにしておくが、そうしたことは決してあってはならないはずである。これまで女から生まれた中でも最強の人物の弱さを見てみるがいい。見よ。いかに彼がデリラの膝枕で無力に眠り、自殺しつつあるかを。というのも、自分の力の秘密を明かし、自らをペリシテ人の手に引き渡す。――これをそれ以外の名で呼ぶことはできないからである。この世にこれまで生を受けた中で最も賢い人物の弱さを見てみるがいい。いかにソロモンの心が神からそらされてしまったことか。これまで生を受けた中で最上の人物のひとりの弱さを見てみるがいい。聖徒としても詩人としても同じくらい偉大であった、イスラエルの甘やかな歌い手、ダビデは、自分ひとりで放置されると、水のように弱かった。他の事例を挙げる必要はない。願わくは、私たち自身がそうした弱さの実例となることがないように! しかし、疑いもなく私たちは、何らかのしかたでひどく愚かな者となり、自分の下劣な情動を罪に同意させたことがあったに違いない。その間、私たちの高貴で霊的な性質が悪しきことを憎み、それと戦っていたにもかかわらずそうである。
私たちの弱さは、他のしかたでも見ることができよう。私たちは、種々の出来事によって、あまりにもたやすく押し流されがちである。私たちは、自分が非常に堅固に立っていると考えるが、自分の立場か状況がほんの少しでも変化すると、非常に深刻な影響を被ってしまう。これは実に異常なことだが、聖なる人、真に神と交わりを有していた人が、ごく些細な出来事によっていかに簡単に癇癪を起こしてしまうことか。それは、全く取るに足らないようなことであるため、それで影響されたなどと人に知られれば恥ずかしくなるほどである。あなたがたの中のある人々は、神との親密な交わりがいかなるものかを知ったことがあるに違いないと思う。だがしかし、その後で、ほんのちょっとしたことが家で起こると、あなたがそれまで得ていた良いものすべてが奪われてしまうのである。たぶん、神が、この礼拝式において、ご自分の臨在を非常に特別なしかたであなたに現わしてくださるとしたら、あなたが自宅で非常に大きな試練に出会うことになっても、あなたは沈着にそれを忍ぶことができるであろう。だが、何か小さな、どうでもよいことで、――私は憶測しないのが良いであろう。何があなたに癇癪を起こさせるかを、あるいは、何がそれ以外の何らかの点であなたを油断させるかを、あるいは、何があなたを、最高で最上の事がらにまして他の事がらにかかずらわせ、実質的にあなたを主イエス・キリストに従う者という、その特権ある立場から、並みの水準へと引き下ろしてしまうかを。――私は、平凡なこの世の子らについて語らんばかりであった。おゝ、そのような場合の私たちが何と弱いことか、何と弱いことか!
やはり思えば不思議なことは、いかに善良な人々が、ごく小さな敵によって罪に至らされ、打ち負かされてきたかである。例えば、ペテロを見るがいい。大胆で、獅子心をしたペテロである。誰が、彼にその《主人》を否ませることになったのだろうか? かりにどこかの巨大なローマの軍団兵が抜き身の剣を下げて彼のもとに来て、こう云ったとしよう。「このガリラヤ人め。お前が一言でも、『私はイエスを知っています』、と云ったら、この剣で脳天をぶった斬るぞ」。おそらくペテロは、この急場を耐え抜くことができたのではないかと思う。また、あのマルコスの耳を切り落としたのと同じ剣を手に持っていたら、少なくとも身を守れるのにと思っただろうと思う。かりに大祭司がペテロを指さして、こう云ったとしよう。「わしが思うに、向こうに立っているあの者は、ガリラヤのイエスと一緒にいた者どものひとりじゃ」。その場合には、彼も、自分の主を告白すに足るだけ大胆であったかもしれない。しかし、大祭司の女中たちのひとりであったはしためこそ、火で暖まっていた彼を見て、こう云った者であった。「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね」[マタ26:29]。すると、彼はそれを否定して、このようにしてこの強者は打ち負かされてしまったのである。このように、しばしば小さな敵が、大敵にはできないような場面で私たちを征服してきた。確かドレーク提督だったと思うが、彼はノア川で嵐に遭ったとき、自分の水夫たちにこう云った。「外の大海原で、何度も平気で大時化を乗り切ってきた俺たちだ。こんなどぶ川で溺れるはずがあるものかよ」。だが、えてしてそうなるものなのである。大海洋で務めを行ない、巨大な大西洋のごとき誘惑の荒波に立ち向かってきた者たちが、それにもかかわらず、全くちっぽけな誘惑にそそのかされて罪に陥ってきた。そして、ことによると、それは彼らにはちっぽけに思われたがために、肉的に安心してしまい、彼らにとって二重に危険なものとなってしまったのかもしれない。しかし、おゝ、私たちは何と弱い生き物に違いないことか。取るに足らない出来事によって脇へそらされ、小さな物事だけで負かされてしまうとは!
私たち全員が自分の小ささを漏らしてしまう1つのことは、私たちがいかに易々と偶像礼拝というはなはだしい罪に陥ってしまうかである。私たちは誰ひとりとして、異教徒たちがしているように、木や石の塊の前にひれ伏そうとするとは思われない。また、この国の多くの人々が「神」としている、パンでできた「神」を礼拝しようとするとも思われない。だが、私たちはみな、あまりにも自分たちのための神々を作ってしまいがちである。それは実は偶像にほかならない。ある場合には、自分の可愛がっている子どもがそのように礼拝されている。「私の子ほど可愛い子どもはいないわ。まるで人間というより天使のようだわ」、と盲愛する愚かな母親は云う。その心は自分の幼子に夢中になっている。そこへ神の大鉄槌が下り、一切の偶像を打ち砕くと、死んだ子どもは沈黙せる墓場へと運ばれて行く。そのように痛ましい経験の後でも、その母親は別の子どもを偶像とするのである! しかり。ある者らは、何度も何度もそうしたことを行なっては錯乱してきた。このように偶像とされるのが小さな子どもでなかった場合、それは自分の生涯の伴侶だったかもしれない。ことによると、それは何らかの愛好する考え方だったかもしれない。その考え方をあまりにも強い熱意とともに追求してきたために、私たちにとってはそれが偶像となってしまっているのである。あなたの信頼を肉の腕に置くことは、非常に非常に容易である。それがあなた自身の腕であれ、誰か他の人の腕であれ関係ない。だが、あなたがそうするや否や、あなたは自分をかの古の呪いの下に置いているのである。「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ」[エレ17:5]。というのも、被造物へのいかなる信頼も、巧妙な形の偶像礼拝だからである。私たちがひとたび、あるいは再び、あるいは二十度も、被造物に信頼を置いては裏切られた後で、またもや私たちはそうしようとするだろうか? しかり。というのも、私たちの弱さはそれほど恥ずべきものであって、なおも私たちは、自分を決して失望させることがありえない永遠の御腕から離れ去っては、しばしば弱いばかりか偽りのものでもある人間のあわれな弱々しい腕にすがりつくのである。なおも私たちは神でも何でもないものを神とするのである。というのも、イスラエル人のように、私たちはこの点においても水のように弱いからである。
私たちの弱さの恥を示すことがもう1つある。すなわち、私たちの不信仰である。あなたはこれまで一度も、思わず知らずこう云ったことはないだろうか? 「こんなことの後では、私は二度と決して疑いをいだかないでしょうよ」、と。私はしばしばそのような表現が自分の口に上ってくるのに気づいたことがある。というのも、私はきわめて異様な救出や、非常に目覚ましい神の恵みといつくしみ深さの証拠を経験したため、それを受けたときには、こう云ったからである。「おゝ、何とほむべき神であろう! おゝ、何と真実な神であろう! おゝ、何と祈りに答え給う神であろう!」 そうするとき、こうした考えがやって来る。「次に苦難に陥ったときには、私はそれほど臆病になったり、それほど不信仰になったりしないはずだ!」 だが、残念ながら、あなたがたの中の多くの人々は、私とともに、深い恥辱と面目のなさをこめて、こう告白しなくてはならないのではないかと思う。別の試練が自分のもとにやって来るだけで、私たちが力と考えたものが全くの弱さでしかなかったことが分かってしまった、と。あなたも、そのことを分かってきたではないだろうか? 何と、私たちは子どもたちよりも弱い。というのも、私たちの子どもたちは父親を信頼することができるし、実際に信頼するのに、時として私たちは、――天で愛されている者たちは、――決して私たちを欺いたことのない私たちの御父を信頼することができず、実際に信頼しないからである。私たちは、この弱さの恥を嘆き悲しんで当然である。
もし私が、本日の題目のこの部分について語り続けて良ければ、私はあなたに、私たちがあらゆる面で弱く、あらゆるしかたで弱いことを示せるであろう。――あらゆる善について弱く、もし神が私たちからひとたび身を引かれたなら、あらゆる悪を前にして弱いことを。あなたがた、最も力強く祈っている人たち。あなたは時として、膝まずいているときに弱くならないだろうか? あなたがた、しばしば大きな勇気をもってキリストの証言をしている人たち。あなたは時として聖なる大胆さにおいて弱くならないだろうか? あなたがた、通常は主を喜ぶことができている人たち。あなたは時として意気消沈してきわめて弱く、もろくならないだろうか? 神から離れるとき、私たちの頭はことごとく病み、私たちの心は全く微弱となり、私たちは悲惨さの塊となり、弱さの堆積となる。
II. さて、このように逆の云い方で語ってきた後で、それを良い準備として、第二の点をしばらくの間、詳しく語りたいと思う。それは、この聖句に従えば、《私たちの力の光栄》である。真の信仰者たちは、非常にか弱い者らではあるが、神が彼らとともにおられるときには非常に強くなる。あまりにも強くなるため、彼らの力には非常な光栄が伴っている。そのことについて、今から語ることにしよう。真のキリスト者の力は、あまりにも大きなものであるため、何物も彼に打ち勝つことができない。また、彼は自分の取り組むあらゆることにおいて圧倒的な勝利者[ロマ8:37]となる。
いかなる力を神は私たちにお与えになることであろう。キリストにある愛する兄弟姉妹。そもそもの最初に、私たちが自分の霊的な死という墓の中からよみがえるときは、どうだろうか。そこに私たちは、手足を縛られ、暗い墓所の中に横たわっていた。また大きな石がその口の上に転がされていた。だが、主が私たちに向かって、「出て来なさい」、と仰せになった瞬間に、私たちは目を開き、自分の横たわっている陰鬱な墓場を悟り始める。その場で神は私たちに、自分の屍衣をほどき、その石を取り除き、自由の中へと出てくる力を与えてくださる。すなわち、天来の恵みによって生きた者とされた人々は、数々の悪癖から、また、鉄の帯のように自分を縛っていた習慣から、また、網のように自分をとりこにしていた根深い罪から、自らを解き放つという意味である。彼らは、こうした一切の事がらから、聖霊の力によって自由になる。御霊が彼らを新生させ、その霊的な奴隷状態から引き出してくださるときにそうなる。新しく生まれた魂が、その種々の古い罪を相手に最初に行なう争闘で成し遂げることは、まさに驚異としか云いようがない。キリスト者生活には数多くの驚嘆があるが、私の信ずるところ、彼が生まれたばかりのとき、それゆえ、弱いときに振るう最初の一撃には、驚嘆すべき程度の力がこもっている。多くの者らは悪態をついていた。多くの者らは酔いどれだった。多くの者らはありとあらゆる種類の悪を犯していた。だが、そうした古い罪は、永遠にほむべき御霊が力をこめて叩き込んだ一撃により、死んで彼らの足元に横たわった。まことに、新しく生まれた、神の子どもの力の光栄は、その神のうちにあるに違いない。
天来の力で生きた者となったその人は、続いて正しいことのために戦うことになる。だが、いつ戦おうと彼は勝つ。この世は彼に渋面を見せるが彼はそれを笑い飛ばす。次にこの世は彼に媚びへつらうが、彼はそのおべんちゃらを軽蔑する。まがいものの信仰は、すぐさま敵に屈服するが、本物の信仰はこの世に対する勝利をかちとる。たとい全世界が真の信仰者を攻撃しようと、その信仰者は世に打ち勝ち、その一切の激しい労苦を切り抜ける。信仰は、また、肉に打ち勝つ。それも小さな勝利ではない。キリストを信じる信仰を真に神から与えられた人は、生まれながらの腐敗、強固な情動、人間の心の内側に深く染み込んだ陰険さと戦う。神のいのちが心の中にあるとき、そこには肉に打ち勝つ力が与えられている。その人は、回心前には官能的で悪魔的だったかもしれないが、恵みに肉は太刀打ちできず、恵みが勝利を得る。世に打ち勝つことができるのは大きなことである。外側にある大きな世と、内側にある小さな世とに。だが、サタンがその戦場にやって来ては、信仰者に立ち向かう敵陣の間に身を置く。それでも、神はほむべきかな。悪魔はその戦いで手痛い敗北を喫する。というのも、何度となくこの恐ろしいアポルオンは、立ちはだかって道をふさぎ、聖徒を殺してやると息巻いたが、自らが御霊の剣で刺し貫かれ、手負いのまま逃げ出して行ったからである。信仰者のうちには何という力があることであろう。彼は、かの呪うべき敵手の三位一体である、世と肉と悪魔とに打ち勝つことができるのである!
神がうちにおられるとき、キリスト者は自分が何でもできることに気づく。「あなたによって」、とダビデは云う。「私は軍勢に襲いかかり、私の神によって私は城壁を飛び越えます」[詩18:29]。そして、神は云われた。「恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。――主の御告げ。――あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。見よ。わたしはあなたを鋭い、新しいもろ刃の打穀機とする。あなたは、山々を踏みつけて粉々に砕く」[イザ41:14-15]。私たちは弱くはあっても、神の助けがあれば、何事も私たちにとって不可能なことはない。いかなる勇武の勲功を、一部の信仰者たちは成し遂げてきたことか! 古の時代の聖徒たちの歴史を読むがいい。そして、使徒たちや彼らの後に直接従った人々について考えてみるがいい。何という力を彼らは振るったことであろう。そして、ただ信仰だけが彼らを強くしたのである。ことによると、あなたは、フォックスの『殉教者伝』を読み、憤りで自分の血がたぎるのを覚えたことがあるかもしれない。そして、その本を閉じて、こう云ったかもしれない。「私はこの恐ろしい物語をもう読めない。夢でうなされるといけないから」、と。しかし、もしこうした聖徒たちが被った責め苦を考えることすら耐えられないとしたら、彼らが、あれほど英雄的にそうしたことを耐え忍んだことは、いかなることに違いなかっただろうか? 女たちや、子どもたちさえ、その拷問者たちを物ともしなかった。そして、ある聖徒たちは、その火の中で勇敢にも自分たちの迫害者に向かって聖書の節を引用し、炎の真中で聖なる喜びとともに詩篇を歌ったのである。そうした聖徒たちが、いかにネロや、ドミティアヌスや、他の残酷な暴君どもをまごつかせたことであろう! かの《宗教裁判》は、その陰惨な地下室において、苦痛と責め苦の点ではほとんど地獄に匹敵していたが、それは、神の忠実なしもべたちの気高い霊を消すことはできなかった。迫害者たちは好き勝手なことを行なうであろう。だが、神の御霊をうちに有する一団の人々がいさえすれば、その敵どもが彼らの手足を八つ裂きにしようと、彼らに打ち勝つことはない。神の真の聖徒たちが打ち負かされることはありえない。彼らには、何物も滅ぼすことのできない力の光栄があるからである。
迫害も、艱難も、裸も、苦悩も、飢饉も、危険も、剣も、否、死そのものでさえも、聖徒たちにその《主人》を否ませることはできなかった。そして私たちは、同じ力が彼らを今なお支えているのを見ている。私は今、自分の心の目で、ひとりの愛する姉妹を見ている。数日前に私は、この教会の会員である彼女によって、いかに比類ないしかたで聖徒たちが死に打ち勝てるものかを目にした。彼らは、病気と絶え間ない苦痛のためにほとんど擦り切れそうになっているとき、また、眠りがその目から払いのけられてしまっているとき、また、その全身が苦痛の通り道でしかなくなってしまっているとき、そうした時でさえ、決して苛立つことがなかった。そして、旅立ちを見越して喜んでいた。単に苦痛から自由になりたいと願っていたからばかりでなく、キリストの臨在がすでに彼らをあまりにも幸福にしていたため、今からも自分を喜ばせている、そうした甘やかな流れの源に達することを切に望んでいたからであった。聖徒たちの墓所はいずれも、信仰の勝利を示すもう1つの記念碑である。「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました」[ヘブ11:13]、という銘が、信仰者たちの広大な霊廟の上に刻み込まれて良い。というのも、信仰によって死に行く彼らは、ひとり残らず、勝利を成し遂げたからである。
さらに云い足させてほしい。神のしもべたちが有する1つの力の光栄は、それを言及するだけでも私が大きなへりくだりを心に覚えざるをえないものである。神の民は、神の恵みによって、あまりにも強くされているため、単に世と肉と悪魔に打ち勝つばかりでなく、神ご自身にさえ打ち勝つ。おゝ、たぐいもない神秘よ! 《全能者》が信仰者の力に屈服するとは! あなたは、「どうしてそのようなことがありましょう」、と云うだろうか? あのヤボク川と、そこで行なわれた記憶すべき格闘のことを思い出させてほしい。そのとき、かの天来の《格闘者》はヤコブに云った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから」。だが、この信仰の勇者は答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」[創32:26]。そこで彼は祝福をかちとり、それとともに非常に含蓄に富む新しい名前を得た。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ」[創32:28]。いみじくもジョウゼフ・ハートは、神に与えられた信仰についてこう書いている。――
「そは世も地獄(よみ)も 踏みしだき、
死をも絶望(なげき)も 克服(うちま)かさん。
さらに語るに 異様(あやし)くは
そは天国(あめ)征服(す)べん、祈りにて」。確かにキリスト者の力には大きな光栄がある。天でさえ、真の信仰者の訴える声によって動かされるからにはそうである。
III. さて、第三のこととして注意したいのは、――そして、願わくは神の御霊が、ご自身の注ぎの油と力とをこの思想に与えてくださるように!――このように神に与えられた力を有する信仰者たちは、《彼らの力の光栄すべてが神のうちに存している》ことを知っているということである。
すでにこのことは、ここまで語ってきた中でも理解されたものと思う。というのも、確かにキリスト者には、神から来たもの以外に何の力もないからである。それは、個々のあらゆるキリスト者についてそうである。彼が有するいかなる力の光栄も神に帰されなくてはならない。なぜなら、神がその力を彼に与えてくださったからである。あなたがたはみな、すでにこの教訓を学びとっているだろうか? それとも、あなたがたの中には誰か、自分の今のあり方や、これまで自分が行なってきた何かについて高ぶっている人がいるだろうか? あなたは、すでにこの聖句の真理を学びとっているだろうか? 「あなたが彼らの力の光栄であるからです」。あなたは、愚かにもこう云ったことがあるだろうか? 「私はうまく説教した」、あるいは、「私は見事な働きをした」、あるいは、「私は苦しみをよく忍んだ」、あるいは、「私は恵みにおいて成長している。われながらまんざらでもないわい」、と。愛する兄弟よ。もしあなたがそのように語っているとしたら、主があなたをそうした一切の迷妄から解放してくださるように! 主こそ私たちの力の光栄である。そのことを手離さず、決してそこから離れないようにしよう。というのも、私たちの神、主はねたむ神であり、特にご自分の栄光についてはねたみ深くあられるからである。そして、もし私たちがその光栄を自分自身に――あるいは、主以外の何者かに――帰しているのを見たとしたら、主は一度与えた力を私たちから取り上げ、私たちを自分の弱さゆえにもう一度叫ばせなさるであろう。だから、あなた自身の力を損なわないように、その光栄をあなた自身に帰さないようにするがいい。おゝ、いかに多くの人々が、自分の講壇という狭間胸壁から飛び降りて来たことか! それは、彼らがそれを自分が行なったのだ、また、自分にはそれなりの力があるのだと感じ始めることによってであった。いかに多くの信仰告白者が、ある暗黒の時に、その裏表のない生き方を傷つけて来たことか! その理由は、自己満足と肉的な安心感がその人の胸中に匿われ、ついにはその人を裏切ったからである。あなたが強いとき、あなたは弱い。だが、あなたが弱さを意識しているとき、そのとき、あなたは真に強い。あなたに力を与えて栄冠をかちとらせてくださったお方の足元に、その冠を置いている間は、あなたは常に強くされているであろう。だが、その冠を自分の頭の上に戴き始めるや否や、あなたの力は取り去られるであろう。そして、もしあなたがサムソンのように、前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろうとするなら[士16:20]、あなたは主があなたから離れ去っており、あなたの高慢ゆえにあなたを懲らしめなさることに気づくであろう。
さらに、個々のキリスト者たちに当てはまることは、1つの教会にも当てはまる。そして、私はこの真理をこの教会の、また、他のあらゆる教会の会員たちに印象づけたいと思う。神がある教会を強くされるとき、それは非常にほむべき、栄光に富むことである。だが、あらゆる教会の栄光と力は常に神のうちに存していなくてはならない。それは決して、多くの富裕な人々がその教会に属しているという事実に存してはいない。もしも御民が金の子牛を礼拝しているのを一度でも神が見るとしたら、神は彼らのもとに疫病を送り、その偶像礼拝ゆえに彼らを罰されるであろう。ある教会の栄光は決して、そこに特定の知性ある人々が結びついているという事実に存してはいない。私の信ずるところ、それは多くの教会をむしばんでいる根食い虫であり、それによってそうした教会は朽ち果てることになるであろう。あらゆることが、非常に知性があると思われている二、三名の人々を喜ばせることを目的に行なわれている。だが、そうした当の人々が主の民だとしたら、彼らは全く「知的な説教」を欲しはしない。彼らは、一週間の他の六日間に、自分たちの知性にとって十分なだけの働きを有している。そして、彼らが安息日に欲するのは単純な福音であり、自分の魂の養いとなるような素朴な霊的食物である。非常に多くの教役者たちは、自分たちの話を聞く人々に第四戒を破らせている。というのも、彼らの説教を聞くことには、実際、すさまじい労苦が伴うからである。それは、魂を休ませる代わりに拷問する。私は、《主日の安息協会》といったものが設立されるのを見たいと思う。それは、ありとあらゆる種類の屁理屈や難問で人々に責め苦を与える代わりに、人々の精神を安らがせることを目的とした団体である。人々はイエス・キリストに関する話を聞く必要がある。というのも、キリストこそ魂にとって真の安息だからである。そして、そこにこそ、あなた自身の働きを離れて、キリストのうちに安らげという天来の命令の真髄があるのである。それこそ、安息日を聖なるものとして守るしかたであり、そうしていない人は、真の安息日の安息が分かっていないに違いない。それは、主イエス・キリストのうちに安らいでいる人々だけの割り当て分だからである。
こういうわけで、私たちの力の光栄を、富裕な人々や知的な人々のうちに存させることは役に立たないであろう。また、私たちの力の光栄を見事な雄弁術のうちに存させることも役に立たないであろう。「ことばの知恵」[Iコリ1:17]は、その中に力を有しているように見える。だが、それがキリストの十字架をむなしくするとき、それは純然たる弱さである。キリストの《教会》の上にかつて臨んだことのある最悪の時代の1つは、教会が弁論術を洗練し始め、「説得力のある知恵のことば」[Iコリ2:4]という脇道にそれて行った時代であった。しかし、神が自分たちのために行なってくださったことについて、人々が満ちあふれる魂の中から語るとき、それこそ神の御霊が彼らに与えてくださる力であり、それを聞く人々にとって御霊が祝福してくださるだろう力である。そのときには、人々は風変わりな言葉だの、見事に洗練された文章だのを用いたり、大げさな口舌を積み重ねたりしようと努めはしなくなる。というのも、これは説教者を誇張することであって、神の口から出たみことばの栄誉を汚すことだからである。
私たちの力の光栄は決して、こうした事がらのいずれにも存してはならない。それは、神にだけ存していなくてはならない。もしそれがそのように存しているとしたら、私たちは福音を誇りとするはずである。福音こそ、私たちの力の大きな支えの1つだからである。私たちはキリストの十字架を誇りとするはずである。それは、福音の主たる力だからである。そして、私たちは聖霊を誇りとするはずである。この方だけが霊的に死んだ者をよみがえせ、この方だけが十字架上のキリストを仰ぎ見る目を与えることができ、この方だけが心にその《贖い主》を慕い求めさせることがおできになるからである。おゝ、キリストにある兄弟姉妹。私たちは、聖霊が私たちの間で力強く働いてくださるように神に祈る必要がある。私たちの内側には今も聖霊がおられる。だから御霊が天から下ってくださるよう祈る必要はない。御霊はペンテコステにおいて下ってくださった。そして、決して天にお戻りになってはいない。だから、御霊は今もここにおられる。その御民全員のうちにおられる。今この集会の中におられる。私たちの間に宿っておられる。ただし、それを私たちは忘れがちである。私たちは、自分の力の光栄が私たちの教役者たちに、あるいは、私たちの種々の組織に、あるいは、私たちの信条に存するとみなしている。私たちの力の光栄が霊的なものであること、聖霊ご自身に存していることを忘れている。その聖霊は、もし私たちが真に主のものだとしたら、私たちのうちにおられ、永遠に私たちのうちにおられるはずである。祈りによって大きく叫ぶがいい。愛する方々。私たちの力のこの真の光栄が、絶えず教会としての私たちの真中で明らかに示されるようにと。というのも、あまりにもしばしば私たちは御霊を抑えつけ、悲しませ、綱で縛りつけるかのようにしているからである。御霊が多くの力強い働きを私たちの間で行なうことができないのは、私たちの不信仰のためである。御霊がその最も豊かな祝福を差し控えておられるのは、私たちの罪深さのためである。もう一度御霊に立ち返ろうではないか。おゝ、主よ。私たちを帰らせてください。私たちは帰りたいのです[哀5:21]。そのとき、私たちは自分たちの間に私たちの力の光栄を見るはずである。そして、私たちのすべての力を与えてくださるお方に、一切の光栄を帰すはずである。
私は今晩、1つの祈りをささげた。(そして、信仰によって祈った)。主がそのあわれみによって、今夜、何人かの魂を救ってくださるように、と。そして、私は主がすでにそうしてくださったと聞くことを期待している。私は、自分たちが天国に行き着くまで、そのほむべき事実が隠されたままであると期待してはいない。むしろ、私の話を聞いていた方々の中で、その人々は行ってイエスのうちに安息を見いだしたことを、今夜知りたいと期待している。
ある人がこう云っているのが聞こえるような気がする。「私は喜んで救われたいと思いますが、あまりにも弱いのです」。しかし、全能の《救い主》が来られたのは、弱い罪人たちを救うためなのである。「おゝ、ですが、私はあまりにも弱いのです。私は何の悔い改めも感じていないのです」。しかし、キリストが高く上げられたのは、悔い改めを与えるためだったのである[使5:31]。おゝ、あわれな弱い者たち。まさにあなたのような者たちに向かってこそイエスは云っておられるのである。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」[イザ45:22]。必要なのは一目見ることだけであり、それさえ聖霊があなたに与えてくださるのである。御霊はそれをいまあなたに与えてくださる。いまあなたがイエスを、かの偉大な贖罪のいけにえを、仰ぎ見られるようにしてくださる。そして、あなたが仰ぎ見るとき、一瞬にしてあなたは救われる。そのようにイエスを単純に一目見ることにより、恵みのゆえに救われる。おゝ、死からいのちへと躍り出て、漆黒の闇から言葉に尽くせない栄光に富む光の中へと一瞬にして至ることの素晴らしさよ! 私は祈る。聖霊がこの場にいる多くの魂に、私がいま口にしている言葉を通してこう語りかけてくださるようにと。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる」[エペ5:14]。願わくは、主がそうしてくださるように。そして、主にその栄光が帰されるように。主こそ私たちの力の光栄だからである。アーメン!
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私たちの力の光栄[了]
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