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盲人のための約束

NO. 3139

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1909年4月8日、木曜日発行の説教

1855年4月3日、火曜夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ブラックフライアーズ通り、チャーチ街バプテスト会堂
《キリスト教盲人救済協会》のための説教


「見よ。わたしは彼らを北の国から連れ出し、地の果てから彼らを集める。その中にはめしいも足なえも、妊婦も産婦も共にいる。彼らは大集団をなして、ここに帰る。」。――エレ31:8


 あわれなイスラエルは、国家としては、その浮き沈みがあった。時としてそれは補囚の憂き目に遭い、別の折には解放を経験した。ある時には、患難か、迫害か、悲しみによってしぼまされ、衰えさせられた。そうでない時には、それは格別に増し加えられ、豊かにされた。こうした災難にあたる一時期からの解放こそ、エレミヤが任命を受けて告知したことであった。その約束によって主の民は、自らの故国に戻って来るのである。

 しばしの間、このイスラエル人たちの状況を考察してみよう。自分たちのものではない国に住み、自分たちに理解できない言葉を聞き、自分たちの敵である荒々しい住民や異教の神々への偶像礼拝を目にすることは、彼らにとって悲しいことであったに違いない。こうして私たちは、彼らの憂いに満ちた思いを察することができよう。また、彼らがいかなる感情を込めて、この悲哀に満ちた歌を口にしていたかを察することができよう。「バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。その柳の木々に私たちは立琴を掛けた。それは、私たちを捕え移した者たちが、そこで、私たちに歌を求め、私たちを苦しめる者たちが、興を求めて、『シオンの歌を一つ歌え。』と言ったからだ。私たちがどうして、異国の地にあって主の歌を歌えようか」[詩137:1-4]。しかし神は、彼らの間に預言者たちを遣わされ、彼らは民が回復されるだろうと告げた。そして、その約束の際立った栄光は、それが神の補囚の民全員を含んでおり、彼らの身分や地位には全く関わりないということであった。盲人も、びっこも、不具者も、みな戻ることになっていた。杖にすがる白髪の人も、若くて強壮な人と同様に、また、不具の人も牡鹿のように走ることができるであろう。全員が主の山に来ることになり、女たちでさえ置き去りにはされない。「その中にはめしいも足なえも、妊婦も産婦も共にいる。彼らは大集団をなして、ここに帰る」。もしも預言者がめしいや足なえがやって来ると云わなかったとしたら、また、彼らの顔が聖なる都に向けられると云わなかったとしたら、また、彼らが主の宮に入ると云わなかったとしたら、彼はこう思ったかもしれない。めしいの貧乏人である自分らは、決して聖なる山、シオンに行くことは許されないのだ、と。

 しかし、愛する方々。この聖句には、それ以上に預言的な意義がある。それは、終わりの時にユダヤ人たちが集め入れられることと関連しており、こちらの方がずっと私たちと具体的に関係している。私は、終わりの時代に、ユダヤ人たちがその故国に回復されると信じている。未来の一時点でユダヤ人たちが集め入れられることになると堅く信じている。イエス・キリストがこの地上に再臨される前に、ユダヤ人たちはその愛するパレスチナに行くことを許されるであろう。現在のところ、彼らは単にその門口にいるにすぎない。聞くところユダヤ人には、首席ラビによって封印された故国の土を英国に携えてくる習慣があるという。そして、死に臨むときには、この土のひとつまみとともに埋められることになると知っていることが彼らにとっては無上の喜びなのである。たといそれが六ペンス白銅貨を覆うにも足らないほどのものであっても関係ない。彼らには、別の考えもある。――もちろん、非常に愚かな考えだが、――異国で死んでいくあらゆるユダヤ人は、地下を旅して、まっすぐにパレスチナに向かうというのである。彼らは故国を愛していればこそ、このような偽りを信ずるのである。

 しかし、ユダヤ人と彼らの立場に関する私たちの意見がいかなるものであれ、このことを私は知っている。――たとい彼らが枷をかけられることも抑圧されることもなくなり、たとい議会で投票権を有することになり、たとい法律上の廃疾から自由にされたとしても、それでも決して彼らが他の民族と融合することはありえない。やがて来たるべき時に、彼らはその、パラダイスの富を確保するために利得を追求するという浅ましい考え方を捨て去ることになる。彼らは今は散らばっている民であり、終わりの時までそうあらざるをえない。だが、そのとき突如、彼らは立ち上がることになる。神の御霊の影響に触れられて、再び神の民となる。彼らの神殿には再び神を礼拝する声がこだまし、古のシオンが再建されるであろう。そのとき、私たちは真に終わりの日の栄光がやって来ると期待して良いであろう。確かに、もし私が自分の聖書を正しく読んでいるとしたら、私は信ぜざるをえない。この踏みにじられ、軽蔑されているユダヤ人が再び心喜ばせるようになることを。そして、あわれな古のユダヤ、人類の物笑いと嘲りの的であったユダヤが、再び掲げ上げられ、回復され、「月のように美しい、太陽のように明るい、旗を掲げた軍勢のように恐ろしいもの」[雅6:10]として輝く出すようになることを。

 もしそうだとしたら、よく聞くがいい。このめしいたユダヤ人、この足なえのユダヤ人は、その他のユダヤ人の誰かれと全く同じように確実にエルサレムに行くであろう。彼らはみな行くであろう。めしいも、足なえも、産婦もみなともに神の聖なる宮に集うことになるであろう。

 しかしながら私は、このユダヤ人たちがバビロンから上ってくること、また、イスラエルが最終的に集められるであろう一件については、これで口を切ることにする。私はそれらについてはごく僅かしか分かっていない。むしろ、本日の聖句を別の側面から語りたいと思う。知っての通り、神にはその所有とされた民[Iペテ2:9]がある。かつてのユダヤ人がそうであったのと同じほどに選ばれた国民である人々、召された選民、世の基が置かれる前から御父によって選ばれていた人々、イエスがその尊い血によって買い取った、贖われた人々、神によって他の人類から取り分けられたがゆえに聖なるものとされた人々である。よろしい。こうした人々の全員がキリストへと導き入れられ、キリストのもとに集められることになるのである。神が選び、贖い、聖められたあらゆる人は、シオンの山に来ることになる。神の麦はみな、神の倉に納められることになる。主に買い戻された者たちはみな、御座の回りの群れに加わることになる。永遠に――

   「主の御恵みの わざたたえ、
    み栄えたかく 告げ知らせん」。

本日の聖句は云う。めしいも足なえも、そこに集うと。

 さて、これから私が語ろうと思うのは、まず第一に、この聖句で名指されているいくつかの人格についてである。その後であなたに示したいのは、そのように、めしいや足なえと称され、語られている人々に対してキリスト者がなすべきいくつかの義務である。

 I. 第一に私が語ろうと思うのは、《この聖句で名指されているいくつかの人格》、すなわち、「めしいと足なえ」についてである。

 初めに、めしいについて語ろう。盲目の人々には三種類ある。肉体的に盲目の人、精神的に盲目の人、そして霊的に盲目の人である。その例証として、私はあなたをロンドン街道に連れて行こう。すると、あなたはそこに三種の盲目の人々を見いだすであろう。そこには盲学校があり、そこでは肉体的な盲人たちが見いだされるであろう。すぐ目の前にあるのはローマカトリックの大聖堂である。そこでは霊的な盲人たちが見いだされるであろう。さらに歩を進めると、ベスレヘム病院、俗にいうベドラムがある。そこでは精神的な盲人たちが見いだされるであろう。さて、これらが三区分である。生まれながらの、あるいは肉体的な盲人。精神的な盲人。そして、霊的な盲人という。

 よろしい。最初に私たちは、肉体的な盲人について述べたい。もし神に選ばれているとしたら、彼らは神を愛して、全員が天国へ行くであろう。あゝ、あわれなアダムよ。あなたの1つの罪によっていかに多くの疾患があなたの子孫に受け継がされてしまったことか! おゝ、母なるエバよ。あなたのそむきの行為によって、いかなる災厄の連々が私たちにもたらされたことか! びっこ、めくら、つんぼ、他のあらゆる悲しい麻痺性の病気、おし、奇形! しかし、第二のアダムにすべての誉れあれ、この方はこうした弱さに打ち勝たれる。この方は、「めしいも足なえも」お救いになる。その主権的な恵みによって、多くのあわれで、暗愚な人の子らを愛してくださる。盲人たちは、神の軍隊以外の軍で兵士に選ばれることはない。だが、その軍隊には、神は多くの盲目の戦士たちを入隊させ、その最上の兵士たちとされる。しかり。盲目の聖徒たち。神はあなたを愛しており、あなたを天国から閉め出されはしない。この世での旅路の間中、松葉杖にすがって歩かなくてはならない人も、その松葉杖ゆえに天国の扉ではねつけられはしない。あなたがた、世間を手探りして歩く盲人たち。あなたは、天国の門に着いたときには、あなたの目が欠けているがゆえに閉め出されるだろうか? 否。むしろ、彼らがその門口に来るや否や、神はことばを発してくださり、萎えた肢体はその力を取り戻し、かすんだ目はその輝きを取り戻すであろう。このようにして、「めしいも足なえも」御座の回りの輝く大群衆に加わるのにふさわしくなるのである。

 知っての通り私たちは、たとい年老いて死んだとしても、天国ではもはや年老いてはいない。栄化された者たちの額に皺は寄っていない。彼らの目は全くかすんでいない。肉体の病とは無縁である。死すべきものは不死のものと取り替えられるからである。私たちはこの世では病弱かもしれない。虚弱で、病み衰えたからだをしているかもしれない。だが、天国ではキリストの栄光のからだ[ピリ3:21]と同じ霊的なからだ、光と威光を着せられたからだを有することになるのである。そのとき私たちは天国の至福にあずかる者となり、天空の星々のように代々とこしえに輝くことになる。さあ、あなたがた、肉体的な盲人たち。あなたがた、太陽の輝かしい日差しを見ていない人たち。意気消沈してはならない。むしろ、同じ不幸を忍んだ多くの華々しい聖徒たちがいたことを思い出すがいい。その最たる主要な者として、かの天界の盲目の吟遊詩人、自らの目が暗くなったときも、他の人々が思い描きもしなったものを見てとっていた人を思い出すがいい。私が云っているのは、ミルトンのことである。あなたは、現世における視力は奪われていても、神の深い事がらの中は遠くまで見通すことができる。他の人々もあなたと同じように盲目であった。多くの盲人たちは偉大な人々であった。あなたがた、肉体的な盲人たち。喜ぶがいい。あなたは盲目ではあっても、もし信仰によってキリストを仰ぎ見るならば、「天に登録されている長子たちの教会」[ヘブ12:23]に加わるであろう。

 しかし、それから二番目に、精神的な盲人が回復されるであろう。先に私は、例証としてベドラムに言及した。それによって私は、その理性を完全に喪失してしまった人々について言及するつもりはない。果たして生まれながらに天性の理性を用いることができない人が、天来の恵みの対象となりうるかどうかを論じるというのは、非常に疑わしい問題であろう。それは非常に多くの議論をもたらしはしても、実際的な結果は何もないであろう。それで私はそのことは取り上げない。しかし、世には、実質上の精神的盲目というものがある。世には傑出した知性と、雄渾な着想と、実り豊かな想像力とをもって、他の人々を導き、支配する力を有する巨大な知性の持ち主がいるが、そこには一片の精神的な盲目があるかもしれない。私たちはみなどこかしら盲目である。私たちは、みな告白しなくてはならないが、不完全な視界しか有していない。自分は不可謬だと主張するのは教皇だけで、それゆえ彼が、私たち残りの者たち以上の盲人であることを証明している。私たちの中のある者らは、判断における自分の間違いやすさを感じており、自分の無知と、明晰な精神的知覚力の欠けとを認めざるをえない。

 しかし、愛する方々。精神的な盲人の中のある人々は天国に入ることになる。私がいま言及しているのは、その精神の諸力が非常に弱い人々のことである。時として私は、こうした精神的に盲目な人々と出会うことがある。彼らは、自分の話している言葉の大部分を分かっておらず、ことによると一生の間、人前では五、六語ほどしか言葉を綴り合わせることがないかもしれない。私は一度、こうした人々のひとりである老女について、こう聞いたことがある。彼女は、形而上学に関する、退屈きわまりない講話を聞いた後で、それを「とってもいい説教でした」、と云ったのである。「なぜって、あの先生が、あたしたちに全部話してくださったんだもの。《救い主》にもちゃんと『形状がある』ってね」。これは、見事な聞き間違いだと思う。彼女は、多くの精神的な盲人の例に漏れず、わが国の説教者たちの何人かが用いる言葉の半分も理解することができなかった。彼女は、教えや訓練の恩恵に浴していない、どこかしら精神的に盲目な人々に属していた。よろしい。神はほむべきかな。彼らが天国への道を見つけ出す必要はない。「旅する者は、愚か者であっても、ここで迷うことはない」[イザ35:8 <英欽定訳>]。

 よろしい。こうした精神的な盲人たちはみなやって来ることになる。《天国》には、一生の間、一言も文字を読んだことのない人々がいるであろう。私は、神の恵みがどこまで低く下ることができるか見当もつかない。あるあわれな人々は、地上の事がらについて何も知らないが、そんな人々でさえ福音を理解することはできよう。福音は、それほど平易なのである。その種々の教理を把握するために巨大な知性は必要ない。その本質的な要素は、「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」[マコ16:16]、ということに尽きる。信仰者よ。あなたは無知かもしれないが、人の贖いというこの大計画を了解できる。だから、自分は貧しくて無知だから、天国に入れないだろう、などと云ってはならない。

 しかし、それから三番目に、霊的な盲人がいる。あなたが霊的に盲目な人を見かけたときには常に、その人に対する、あるいは、その人に関する口のきき方に非常に気を遣うべきである。これは、私たちがしばしば失敗する問題だと痛感する。カトリック教徒とプロテスタント教徒とのこれまでの議論は、そうあってしかるべきものとはほど遠かった。私たちは、無理にでも一気に彼らを自分たちの見解に服従させようとすることに急であったように思える。だが、これは私たちの間違いである。誤った原理を非難するのはかまないが、そうした原理を信奉している人々のことは常に優しく語るようにしよう。彼らは霊的に盲目なのであり、私たちは彼らに親切に接し、これまであまりにもしばしば表立ってきた苦々しい精神を避けるべきである。病んだ人々は、酢と一緒に飲まされるような薬を服用しようとはすまい。だが甘いものと一緒に与えてやれば、服用するであろう。では、霊的な盲人には親切で愛に満ちた態度を取るがいい。そうすれば、彼らがあなたに注意を払う見込みもあるであろう。

 ローマ教会や、ピュージー主義者や、アルミニウス主義者たちについては何も云わず、また、この場にいる会衆だけに限定して語ることにするが、ここには数多くの霊的盲人たちがいる。おゝ、方々。あなたは自分が生まれながらに失われた、堕落した状態にあることを見てとっているだろうか? 否。あなたはこれまで、十字架の上につけられたキリストを人の贖いとして、信仰によって見てとったことがあるだろうか? 否。見てとったことはなかった! キリストの仲保的ないけにえが十全であることを理解したことがあるだろうか? 否。理解したことはなかった! 人とキリストとの生きた結び合いがいかなることを意味しているか悟ったことはあるだろうか? 否! 聖霊はこれまであなたの心の中でお語りになったことがあるだろうか? あなたは、御霊のきよめ給う影響については何も知らないと告白せざるをえない。あゝ、ならば、あなたは盲目である。霊的に盲目である! 会堂に通いながら、教会に通いながら、見えるところは信心深そうでも、その実がない人たち。あなたは、夜しか飛べない蝙蝠のように、あるいは、梟のように、盲目である! 日光がやって来ると、あなたは自分の道が分からない。目からうろこが取り除かれない限り、あなたは神の審きにさらされているであろう。だが、もし聖霊があなたに光を与えてくださるとしたら、今は盲目でも、他の選ばれた種族とともにシオンにやって来ることができる。

 しかし、本日の聖句は、足なえについても言及している。こうした人々について、今晩の私たちはそれほど深く考察しようと思っていない。それゆえ、手短に通り過ぎて良いであろう。しかし、足なえたちの多くは天国に行き着くはずである。これは誰のことだろうか? よろしい。兄弟たち。神の民の中には、信仰が弱いために、足なえとなっている人々がいる。私たちは、ある人々からは、自分が神の子どもであるとの完全な確信についてふんだんに聞かされる。だが、そうでない他の人々の場合、自分の救いについて疑いを有しているか、ほんの小さな希望しかいだいていない。善良なジョウゼフ・アイアンズがよく云っていたように、「彼らは、頻繁に希望し続ける。――ぴょんぴょんと跳び続ける。――それも一生の間。なぜなら、彼らには歩くことができないからである」。僅かな信仰は常に足なえである。それでも、あなたがたの中のある人々は、たとい決して自分が神の民であると確信をもって云うことはできなくとも、真摯にこう云うことができる。――

   「弱く、咎あり、甲斐なき虫けら、
    われは優しき 御腕に身を投ぐ。
    われの力と 義となり給え、
    わが主イエスよ、わがすべてよ」。

あなたがた、足なえの人たち。恐れてはならない。あなたが捨て去られることはない。二匹の蝸牛も箱舟には入ったのである。彼らがどのようにしてそこに至ったのか、私には分からない。それには長い時間がかかったに違いない。ノアが途中で運んでやらなかったとしたら、彼らは朝早くに出発したに違いない。そのように、あなたがたの中のある人々は蝸牛である。あなたは正しい路の上にいるが、どこかのほむべきノアの助けがない限り、箱舟の中に入るまでには長いことかかるであろう。

 さらに、信仰後退者たちは足なえである。一部のキリスト者たちは、恵みの状態から落ちることがありえると信じているようである。ここで私は用心深く語ることにしよう。神の民が最終的に堕落することはありえない。だが、彼らは長い道のりの間、倒れていることがありえる。キリスト者が倒れるとき、それは軽い問題ではない。私はある人々が、倒れては立ち上がることを何でもないことのように語っているのを聞くことがある。だが、そうした人々はヘブル書6:4-6に目を向けるがいい[『ニューパーク街講壇』第七十五号参照]。しかし、私たちはこう喜ぶであろう。――

   「恵みは始めし もの全(また)くして、
    憂(う)しと罪より 救い給わん」。

私は、キリスト者が倒れないとも、手足を折ることがないとも云わない。だが、神の子どもが霊的に転落して、その首を折るとは決して云わない。その人は、倒れればひどい怪我を負わずにはいられない。その結果は、その人の経験においては、不幸と悲惨になるに違いない。あのあわれなダビデを見るがいい。あの大罪に陥った後の彼の生涯は、反抗的な息子たちや敵たちによって被らされる苦難の連続でしかなかった。あなたがた、ほむべき神の生きた、愛に満ちた子どもたち。私はあなたが、罪に陥ることについて軽々しく語らないだろうと知っている。信仰後退者たち、倒れた者たち。もしあなたが真に悔悟しているとしたら、神はあなたをあわれんでくださるであろう。悲しんでいる信仰後退者が置き去りにされないのは、栄光に富む事実である。信仰後退者たちも、神の回復された子どもたちとして、神が常に愛しておられた者たちとして、天上で歌うことになる。めしいも足なえも、主を信ずるがいい。そうすれば、最後には《小羊》に従う者たちの間に見いだされるであろう。

 II. さて、第二に、またごく手短に、《こうした盲目の人々に対する私たちの義務はいかなるものだろうか?》

 答えよう。初めに、霊的な盲人に対する私たちの義務は、彼らのために祈ることである。しかり。私は、このことなしには何も行なうことができないと信ずる。いかにあなたが彼らを愛していると告白しようと、もし彼らのために祈らないとしたら、私にはあなたの言葉が信じられない。あるとき、ひとりの不信心者が、とあるキリスト者に出会って、こう云ったという。「あんたは聖書など信じてないし、福音など信じてないのさ」。「信じてますよ」、とキリスト者は答えた。「よおし。なら、何でまたあんたは、私が毎日仕事に出かけに、あんたの前を通り過ぎるとき、私の魂について一度も私に話しかけなかったんだい? あんたは聖書なんか信じてないのさ」。「信じてますってば」。「信じられないね」、と彼は云った。「それでもあんたが信じてるとしたら、あんたはえらく鈍感なのさ」。

 さて、キリスト者たち。もしあなたが、自分の回りに霊的に盲目な人々がいると信じているとしたら、何が彼らに対するあなたの義務だろうか? 方々。もしあなたが彼らの状態について深い懸念を有していないとしたら、残念ながら、天の《医者》はあなたの目から霊的な白内障をまだ取り除いておられないのではないかと思う。もし私たちが、彼らは危険きわまりない立場の1つにあると信じており、導きの光を欠いているがために滅びつつあるのだと信じているとしたら、いかにして私たちは彼らのために奮励努力すべきであろうか。教役者たちは、この退廃した時代にあって十分に魂を思いやっておらず、むしろ、のんべんだらりと説教し続けている。あるいは、愚にもつかない説教原稿を、のんべんだらりと読み続けている。だがしかし、彼らの教会には人が全く増えはしない。教役者はここの、この講壇上に立っており、民衆はその下の会衆席にいる。彼らの間には共感という黄金の絆が全くない。だが私たちには、その共感がより必要である。魂に対する――不敬虔な者たちの魂に対する――より強固な愛が必要である。より先へ進むことが必要である。神の御座へと赴き、あなたのために、そして、それからあなたとともに嘆願することが必要である。神の使節として、私たちはパウロとともに云う。「私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい」[IIコリ5:20]。霊的に盲目であるとは決して些細なことではない。目を全く有していないとは決して軽々しい問題ではない。しかり。盲人は、霊的に盲目なまま死んだとしたら、確実に天国には入れない。彼らは、天上で見いだされたければ、神によって目に光を与えられなくてはならない。願わくは常にほむべき、栄光に富む神が、霊的な盲人たちをみな目覚めさせてくださるように! 願わくは教役者である私たち、また、機会を有するあらゆる者たちが、神の祝福のもとでその機会を用いて、そうした人々の暗い重いに光を投ずることができるように! あなたの隣人たちを、努めて神の家に連れて来るがいい。だが、彼らを招く先が、福音を伝えている牧会者のところであるように気をつけるがいい。あなたの有している福音の価値を、あなた自身の裏表のない実践によって証明するように気をつけるがいい。彼らのために祈るがいい。そうすれば、神が彼らに、いのちに至る悔い改めを授けてくださるかもしれない。

 それから次に、精神的な盲人に対する私たちの義務は、豊かな愛に富む者となり、彼らを教えようと努めることである。私たちは、彼らに対する取扱いのすべてにおいて、親切な心持ちを明らかにしなくてはならない。決して自分が正しいと信ずるところへ彼らを鞭で追い立ててはならない。私は頑固一点張りの威嚇が有用であるとは信じない。私は時として、自分のキリスト者である兄弟たちと意見を異にすることがある。だが、そのことで彼らと云い争いはしない。私に云えることはせいぜい、「よろしい。兄弟。もしあなたがそれを見てとれないというのであれば、私にはどうしようもありません。それは聖書の中に書かれているのです。そして、私にはそれが、ごく平易に見てとれるのです」、ということである。カルヴァン主義者として私たちは、人々に真理を見てとらせたければ、神によってそれが彼らに啓示されるほかないと信じている。それゆえ、他の誰が無知な者を非難しようとも、私たちは決してそうすべきではない。むしろ、全力を尽くして彼らを教え導き、その目を開かせようとすべきである。人に無理矢理信じさせようとしても何の役にも立たない。ことわざにも云うが、――

   「意志に反して うなずかさる
    人の意見は なおも変わらじ」。

それで、精神的に盲目な人と議論になったときには常にそれをローマ教徒と思うがいい。相手と十字に切り結んではならない。そんなことをすれば、自分の敵手を友とすることができないであろう。かりに他の人々が何らかの点、例えば幼児洗礼その他の点で、あなたと同じように物事を見てとっていないとしよう。――そして、私たちバプテスト派は、何かを討論するとき、短気さという点で非常に多くの過ちを犯してきたと思うが、――よろしい。同じ物の見方をするよう相手に無理強いしてはならない。兄弟たち。それは、私たちの信仰内容の正しさを彼らに示そうとするしかたではない。そうした行動を取る代わりに、自分の兄弟たちには、聖書のうちにある通りの真理を示そうとすべきである。そうした後になれば、彼らは自分たちの目をつぶるのでない限り、それを見てとるしかなくなる。「そこにありますよ」、とあなたは云うであろう。「そして、たといあなたにそれが見えないとしても、私はあなたに向かってむくれたり、短気を起こしたりはしませんよ」。精神的に盲目な人には、決して腹を立てないようにしよう。知っての通り警官は、夜に誰かに出会うと、自分の角灯をまっすぐにその人の目に射し込ませる。それと同じように私たちは、真理の光でこうした盲目の目を照らさなくてはならない。警棒を取り出して、一撃のもとに叩き伏せたりしてはならない。また私たちは、自分もまた何も知らなかった時期があったことを思い出すべきである。それゆえ私たちは、低学年の生徒には親切に接してやらなくてはならない。私たち自身も、ずっと最上級生だったわけではないからにはそうである。

 しかし、今しめくくりに当たって、私たちは肉体的に盲目な人に対する私たちの義務について語らなくてはならない。一部の善良な人々は、生活の糧をかせぐために喜んで働こうという気持ちはありながら、心身の苦悩のためにそうする力がない。こうした人々の中に、盲人がいる。私は、病人や貧者の間を巡るとき、あまりにも救済すべき人々が大勢いすぎて、自分にできる限りのものをみな与えても、なおもすべきことがあることに気がつく。よろしい。そこに彼らはいる。もし彼らに、何か永続的な善を施したければ、彼らにはある程度のものを毎週毎週与えなくてはならない。私は常々こう思う。かりに、もう1つ地球が創造されてこの世界に沿ってくるくる回っていたとしたら、また、この世界の誰かが病気になったり、盲目になったり、寝たきりになるたびに、彼らをもう1つの世界に送り込んで厄介払いできたとしたらどうだろうか、と。よろしい。かりにそんなことがありえたとしたら、兄弟たち。あなたはすぐに、彼らに帰ってきてもらいたがるであろう。「あそこには、誰それ姉妹がいる。彼女は、友人たちの愛に完全に頼って生きているが、とても豊かで深い経験をしてきた。私たちは彼女と一緒にいることで、とても慰めを得てきたのだから、彼女を呼び戻さなくては」、と。それから、もしこうしたあわれな苦しむ者らが別の世界にいたとしたら、あなたは彼らを救済することによって善を施すことが全くできず、あなたは主イエス・キリストのゆえに、彼らに何かをしてやりたいと願うようになるであろう。あなたはそのときこう愚痴を云わざるをえないであろう。「ここに一シリングある。私はこれで何をすれば良いか分からない。ここには、私が使うことのできない金子がある。なぜって、私には、その使い途となるような愛の対象がいないのだもの。私はイエス・キリストが地上にもう一度お戻りになったらどんなに良いかと思う。もし主がここにおられたら、私は主の様々な入り用にお仕えするではないだろうか? 左様。きっとそうするだろう。私は主に、どこで何が見つかろうともその最上のものをおささげするだろう。そのとき私は主の足元に座って、御足を私の涙で洗い、それを私の髪の毛で拭うだろう」。

 あなたはそう云うであろう。だが、もしこうしたあわれな盲目の人々が全員別の世界にいたとしたら、あなたが主のゆえに仕えることのできる人々が誰ひとりいなくなるであろう。それでイエス・キリストはこうした人々の中のある者らを私たちのもとに遣わし、私たちが彼らに善を施す機会を持てるようにされたのである。それは、やがて主が私たちにこう仰せになれるようにするためであった。「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」[マタ25:40]。主は、盲目の人々を故意に何人か《教会》にお与えになった。それは、彼らのために何かできるという大きな喜びを私たちに与えるためである。主は、「あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいる」[ヨハ12:8]、と云われた。主はあなたに、あなたの助けが必要な人々を救済することによって、主に対するあなたの愛を証明する機会を与えておられる。私は、ある教会が紳士だけから成っていると聞くとき、常に告別の挨拶をするものである。というのも、そこに何の貧者もいなければ、その船は早晩沈むことになるからである。もし彼らが真の福音の教会であるとしたら、たといそこに貧者が誰ひとりいなくとも、キリストはすぐに何人かをお与えになるであろう。

 さて、私たちが《盲人協会》を有している理由は、まさにここにある。そこにいる一部の善良な人々は、盲目であり、無力であるために、自活することができない。そこには、私の教会からひとり、別の諸教会から何人かがいる。これは、あまり大きな《協会》ではない。それだけに、なお良い。というのも、私の見いだすところ、多くの大規模な《協会》においては、あまりにも多くの影響力が必要とされ、あまりにも多くの評決が求められるために、最も助けを必要としている人々がそれを獲得できずに、それほど助けを必要としていなくとも、影響力を有している人々が、すべてを得ているのである。よろしい。この《キリスト教盲人救済協会》では、こうしたあわれな盲目の人々が、毎週僅かな金額を受け取っている。そして、私はあなたに保証するが、彼らはみな困窮しており、あなたの愛を受けるにふさわしい対象なのである。

 これが今晩あなたに私たちが支援を求めていることである。イエス・キリストは扉のところに立っていて、家路につこうとするあなたに仰せになるであろう。「何がしかを今晩ささげなさい。もしあなたがわたしを愛しているのなら」。

 私はあまりにもしばしば請願しなくてはならないし、私の教会の信徒たちの何人かがここまで私の後をついて来ているために、私は今晩あなたに何かを求める厚かましさを持ち合わせていない。そこで、キリストが代わりにお求めになるであろう。そして、私は次回求めることにしよう。

 貧しい人々を顧みるがいい![ガラ2:10] 盲人の世話をするがいい!

盲人のための約束[了]

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