王を愚弄する
NO. 3138
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---- 1909年4月1日、木曜日発行の説教 説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1873年6月1日、主日夜
「そして、イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。『ユダヤ人の王さま。ばんざい。』 また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた」。――マタ27:28-30
このような聖句にふさわしい説教を行なおうと試みれば、失敗するに決まっているであろう。そのような試みはすまい。だが、今晩の話のために使える数分の間、私たちの主であり《主人》であるイエス・キリストがこのように苦しめられている姿について述べたいと思う。――
「罪人あざみ 主に冠(かむり)せり」。
私は、聖霊の力添えを祈るものである。さもなければ、私の言葉は何の役にも立たないだろうからである。
キリストにある兄弟姉妹。私たちが前にしているのは、ひとりの《王》である。このような王は、いまだかつて知られたことがなかった。その血統は、単なる地上的な王侯のそれを越えた栄光に富んでいる。その統治権に議論の余地はない。すべてを自らに従わせるその力は、それを用いようとするとしないとに関わりなく無限である。その人格は、それ以前のいかなる王にも決して属していないほどのものであり、力において至高であるのと同じくらい、いつくしみ深さにおいても卓越していた。「いと高き方の子」[ルカ1:32]、「万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神」[ロマ9:5]、それでいながら、私たちのために人の《子》となられた。これこそ、いま私たちが前にしている《王》である。
しかし、いかなる即位式がこの方に与えられたことか! あの緋色の上着を見るがいい。それは、王が着用する紫衣を、軽蔑して模したものである。兵士たちがこの方を押し込んだ、あの古椅子を見るがいい。それは、まがいものの玉座に座らせようとしてのことであった。何にもまして、この方の額の上の冠を見るがいい。それには紅玉がついていたが、その紅玉はこの方自身の血によってできていた。無慈悲な茨によって、そのほむべきこめかみから無理矢理流された血である。見るがいい。彼らはこの方に敬意を表している。だが、その敬意とは、この方の頬を流れ落ちる、彼ら自身のけがらわしい唾であった。彼らは、この方の前に膝まずいたが、それは真似事でしかない。彼らは、この方に礼をしては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」、と叫んでいる。だが、それは嘲ってのことである。この方が味わったような悲嘆がいまだかつてあっただろうか? 驚嘆すべきは、このような至高のいつくしみ深さが、これほど残酷な悪意を浴びせられ、このようなあわれみがこれほどの悲惨に陥り、このような威光がこれほどの侮りを受けたことである。まことに、この方は、「さげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた」[イザ53:3]。そして、人々がこの方を悲しみの《皇帝》、また、王位に就いた、悲惨さの《君主》として語るのも誇張ではない。この方を眺めるがいい。そして、できるものなら涙をこらえてみるがいい。この方を見つめるがいい。あなたがた、この方を愛する人たち。また、この方の栄光に富む顔立ちが、そこなわれて人のようでなくなる[イザ52:14]前に、いかに麗しいものであったかを知っていて、それがご自分の血でよごれきってしまったのを見ている人たち。その上で、できるものならあなたの心を楽しませてみるがいい。否。むしろ、こう云わせてほしい。あなたの悲嘆にふけり、あなたの悲しみを滔々と流れさせるがいい。というのも、人間の目で目撃されたありとあらゆる光景の中でも、確かにこれこそ最も痛ましいものだからである。
3つの事がらについて私は語りたいと思う。悲惨の中にあるこの威光という、こうした異様な眺めには、他にも見るべきものは多くあるが、今回私たちの思いを占めるものとしては、この3つの事がらで十分であろう。
I. 第一のことはこうである。このように愚弄され、辱められている私たちの《救い主》のうちには、《私たちの罪が何を行なったかという象徴》が見てとれる。
思い出。イエス・キリストは罪人の立場に立たれたのである。これは、あなたの耳に馴染みきった古い真理である。だが、このことに聞き飽きることは決してないであろう。「人間と同じようになられ……人としての性質をもって現われ」[ピリ2:7-8]、罪人たちの身代わりとして、彼らに成り代わり、あたかもご自分が一個の罪人であるかのように立つことに合意されたイエス・キリスト、この方のうちに、あなたが見てとるのは、罪の完全な結果を示す縮図である。人間は王になること、あるいは、王以上の者になることを欲した。「あなたがたは神のようになるのです」*[創3:5]、とエデンの園で蛇はエバに云った。かの偉大な神は人間をねたみ、人間が自分の競敵となるほど偉大になるのを恐れているのですよ、とほのめかした。このように誘惑された人は、自分の手を伸ばして、食べることを禁じられていた果実に触れた。それ以前の彼は幸福な臣下であったが、それ以上に幸福な王になりたいと思ったのである。主のみこころを行なうことは彼の楽しみであったが、今や、自分は自分の意志を行なえるのだ、神と肩を並べて、あるいは、神に取って代わって統治できるのだ、と考えた。
あゝ、愚かな人間よ。見るがいい。罪がいかなる種類の王権をお前にもたらすことができたかを! ここに来て、罪が人にもたらした戴冠式の影像を鏡映しのように見るがいい。それが、いかにまがいものの威厳と誉れを人に授けているか見るがいい。それは人を王のような様子にするが、それは単に安ピカの輝き、見かけ倒しのごまかしでしかない。それは、どのみち何の王の地位も、王権の象徴も与えない。確かに人間の頭上には冠が載っているが、それは茨の冠であり、罪があわれな人間性に与えることのできる冠は、これしかないのである。人は地上の主君になることを欲したし、ある意味ではそうなった。だが、彼の主君としての最初の行為は、楽園に毒気と葉枯れ病を引き起こし、土地に茨と薊[創3:18]を蒔くことであった。このため、それ以後の人は、パンを食べる際にさえ、自らの額の汗そのものによって、おのれの罪を思い出さないわけには決して行かなくなってしまった。おゝ、しかり。人よ。あなたは王である! 私には、あなたの冠が見える。それで鼻高々としていられるとしたら、それを後生大事にするがいい。愚かな君主よ! あなたは、かの宇宙の大いなる《支配者》の一臣下であることを馬鹿にし、今やあなたは自ら君主となっている! あなたの王たる正装を眺めるがいい! 特にあなたの冠に注意するがいい。――茨の冠に! これこそ罪が、私たちに冠を授けるやり口である。私たちは同じものを私たちの《救い主》のうちに見てとる。主が私たちの立場に立ち、愚弄され、蔑まれ、のけ者にされ、茨を冠されているときがそうである。そして、これこそ罪のため成り下がった私たちの姿である。「罪が熟すると死を生みます」[ヤコ1:15]。十字架上のキリストは、罪がほしいままにふるまわされたとき、人がどうなってしまったかを、さらに完全に象徴している。それは人類を絶えず低く低く引き下ろし、ついには彼のいのちそのものをもぎ取っては、谷の土くれ[ヨブ21:33]の下に横たわらせる。罪の唯一の王座は、まがいものである。その唯一の冠は悲痛なものである。そして、その唯一の報いは悲しみと恥辱である。この兵士たちによって愚弄されているイエスのうちに、私たちは、罪が私たちの種族をいかなるものとしてしまったか、また、罪が私たちになしえた一切のものを見てとるのである。
しかし、恥辱の見世物としての私たちの主は、私たちが罪からいかなる仕打ちを受けたかについて、別の意味でも、私たち全員の代表者であられた。その恥辱のときに、誰もイエスを褒めはしなかった。その弟子たちは全員、主を見捨てて逃げてしまったし、主は他のあらゆる人から置き去りにされ、愚弄の種になるがままにされた。それこそ、まさにキリストから離れている私たちの状態であろう。また、よく聞くがいい。これこそまさに、キリストの代償的犠牲にあずかっていない、あらゆる罪人の状態となるであろう。自分の領域[ユダ6]を守っていた御使いたちは、人間たちを恥と思ったに違いない。また、贖われた人々自身、永遠を通じて、不敬虔な人々を恥と思うであろう。ダニエルが私たちに告げるところ、人々が復活の後で、赦されも、救われもしないまま目を覚ますとき、彼らは「そしりと永遠の忌みに」[ダニ12:2]目を覚ますという。来たるべき世の苦痛と悲惨の中でも、不敬虔な者にとって最も圧倒的なものの1つは、ことによると、全宇宙が彼らに対する嘲りで鳴り響くことかもしれない。考えることができる存在の中で、そのとき罪人たちを称賛するものは1つもないであろう。彼らはみな、いかにして罪人たちがしてきたように行動できたものか驚き呆れるであろう。思うに、ある御使いは彼らに向かってこう云うであろう。「お前たちは、神によって創造され、その仁愛によって養われていながら、自分の息を用いて《いと高き方》に逆らうことしか語らなかった。お前たちは、日々口にしていた食べ物の一片一片を神の慈愛に負っていた。また、お前たちが裸とならないためにまとっていた衣服さえ神の愛の賜物であった。にもかかわらず、お前たちは恩知らずにも神に向かってかかとを上げたのだ。お前たちはこの満ち満ちた《恩恵者》から絶えず数々の恩顧を受けていたが、しかし決してそれらについて感謝していなかった。恥を知るがいい。この恩知らずな男ども女ども」、と。それから、その御使いはこう云うかもしれない。「そして、お前たちがこれほど汚らわしいしかたで罪を犯した後で、福音がお前たちのもとにもたらされ、お前たちはイエスを信ずるよう命じられた。十字架につけられたキリストは、お前たちの前に示された。だが、その驚嘆すべき光景さえ決してお前たちの心を感動させなかった。あるいは、少しは感動させた場合でさえ、その印象はたちまち薄れ去った。というのも、お前たちは、その驚嘆すべき光景に背を向けて、言葉によってでなくとも、自らの行動によってこう云ったからだ。イエスが死ぬことなど、自分にとってはどうでも良いことだと!」 キリストを拒絶した罪人を見下ろしている御使いは、彼を自然界の何か七重のおぞましい代物とみなすであろうと思われる。
話をお聞きの愛する方々。あなたは私があまりにも強烈な話し方をしていると思うだろうか? 私はそうは思わない。というのも、福音を宣べ伝えられた罪人が主イエス・キリストを拒絶することに匹敵するような罪悪はありえないからである。この世においてでなくとも、来たるべき世においては、それが証明されるであろう。そして、私の信ずるところ、あなたがた、悔悟していない罪人たちも、そのときには自らを恥じて、山々や岩々に向かって呼ばわることであろう。どうか自分に倒れかかってくれ、そして御座に着いておられる方の御顔からかくまってくれ、と[黙6:16]。なぜなら、あなたは、比類なき愛に満ちた十字架上のイエス・キリストに、自分が全く魅力を感じなかったことを思い出すとき、自分でも下劣で、みじめで、蔑まれるべき者だと感じるだろうからである。あなたはそのときには、今のあなたには見てとれないと思われるものを見てとるであろう。主の御腕のもとにすぐさま飛んで行き、その御足に口づけし、その場で、次のように云わなかったとは、自分はかつて存在した中で最低に卑しむべき生き物であったに違いない、と。「このような《救い主》ゆえに神はほむべきかな! 私はこの方を愛します。そして、生ける限り、この方のために財を費やし、自分自身をさえ使い尽くします」。
ということは、そこで恥辱と蔑みの的となっていたイエス・キリストは、あらゆる罪人がいかなる者であるか、また、あらゆる罪人が恵みによって更新されない限りいかなる者となるかを描き出し、象徴していたにすぎない。――罪人は永遠の恥辱と軽蔑の的になるであろう。地獄の悪霊どもでさえ、永遠にわたりいかに彼を愚弄するであろう! 彼は自分のまがいものの冠をかぶることであろう。それは、茨の冠でさえあるまい。燃える火焔でできた飾り環であろう。しかし、かの底知れぬ所で、彼の回りに集まってきた悪鬼どもの哄笑と叫びはいかにすさまじいものであろう。「お前は、お前自身の主人となろうとしたんじゃねえのか。王様になりたかったんじゃねえのか。お前は御子に口づけしようとしなかった。御子のご支配に服そうとしなかった。自分のやりたい放題にしたかった。そのあげく、今のざまを見やがれ。――絶対に消えねえ火の冠ときた! お前は、自分で自分を救えると云ってたな。なんでそうしなかったのかよ? お前は、《救い主》なぞいなくとも、いつか自分で自分を天国にふさわしいもんにできると云ってたな。なんでそうしなかったのかよ?」 こうした愚弄が、その人自身からも、悲惨をともにする仲間たちからも出てきては、その人に悟らせることであろう。罪の果実が恥辱であること、また、それが名状しがたいほど、あるいは、想像も越えて苦いものであることを。
II. さて、第二に、私たちの《救い主》がこのように愚弄され、蔑まれ、人々からのけ者にされていることによって、《この世が主をいかに評価しているかが描き出されている》。
神の御子イエス・キリストは、神から遣わされた《救い主》としてこの世にやって来られた。「世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである」[ヨハ3:17]。この世は主をどう考えているだろうか? 主は三十三年間地上で生活し、その間ずっと、ご自分の出会うすべての人々に対して、親切なわざのほか何もなされなかった。そして今、この世は主に関してその判決を下そうとしている。この大いなる、人類を《愛するお方》に対して、世はいかなる賛辞を下そうというのだろうか? あらゆる博愛主義者の中でも最大のこのお方に対して何と云うだろうか? それがこの方を気高いものにしようとして与える報奨は何だろうか? さあ、それがここにある! ここにある! 近衛兵たちの控の間における、下卑た笑い声と、残酷な嘲弄である! それこそ、この世がキリストについて考えていることである。それはキリストを物の数とも思わない。キリストをあざけり、蔑む。
「しかし」、とあなたがたの中のある人々は云うであろう。「私たちはキリストを一度もそのように扱かったことがありませんよ」。聞くがいい。方々。この場にいるあなたがたの中のある人々は、主イエス・キリストに対して全く無関心である。あなたは、キリスト教の礼拝には、表向き、それなりの敬意を払うが、自分の心をキリストにささげたことは一度もない。あなたは一生の間、一時間たりとも、キリストのほむべきご人格や、栄光に富むそのみわざについて真剣に瞑想して過ごしたことがない。あなたは、主を賛美し、主に栄光を帰す言葉を語るという正しい心の状態にない。主の大目的と御国を地上で進展させるために何かを行なうこともできない。確かにあなたは主を冒涜しはしない。公然と主に反抗することもない。むしろ、全く無関心である。だが、主イエス・キリストに対する無関心ほど悪辣なものがありえるだろうか? 主はあまりにも愛に満ち、柔和で、あまりにも心優しいお方であるため、その主に対する無関心は、主を骨髄まで切り裂くことなのである。おゝ、主が私たちに対して無関心であられたとしたら、私たちを憐れむ目が他に全くなく、私たちを救う腕が他に全くないとき、――もし主が私たちに対して無関心であられたとしたら、その場合、私たちは今晩この場所に集まって主について話を聞いている代わりに、みな地獄にいたはずである。しかし、主は私たちに対して無関心ではあられなかった。それで、私たちの中の誰ひとり、主に対して無関心になるほど冷酷にはならないようにしようではないか。
ある人々は無関心ではない。というのも、そうした人々はキリストに反抗しているからである。――自分たちの想像してきたキリストにではなく、カルバリの、真のキリストに反抗しているのである。そうした人々は、聖書の中に見いだす通りの福音が単純に説教されるのを聞くと烈火のごとく怒る。人々がこしらえあげた、いかなるにせの福音をも称賛できるが、聖書の福音は性に合わない。それを耳にすると、そうした人々は憤怒と激怒にかられる。例えば、代償という偉大な中心的教理――罪人に成り代わって苦しまれるキリスト――である。いかに多くの人々が、この平明に啓示された真理を軽蔑してそっぽを向くことか! それから、信仰による義認の教理――キリストの福音の精髄そのもの――である。いかに多くの人々がそれに激昂し、反対の叫びを上げることか! 真実のキリスト、真のキリスト、そのキリストに言及するたびに彼らは怒る。ことによると、あなたがたの中のある人々は、自分の子どもたちを迫害してきたかもしれない。その子たちが《救い主》について語っていたからである。私が話しかけている中のある人は、自分の細君のキリスト教信仰ゆえに、彼女に対して非常に苦々しい言葉を発してきたではないだろうか? あるいは、自分の妹がキリスト者だからといって彼女を迫害してきたではないだろうか? あるいは、自分の敬虔なしもべをあざ笑ったり、あざけってきたではないだろうか? あなたは、そうしたふるまいをすることによって、自分がキリストご自身をあざけっていることが分からないのだろうか? というのも、もしこの人々が本当にキリストに従っているとしたら、主はその人々に対してなされることを何であれご自分に対するものとみなされるからである。主はタルソのサウロに云われた。「なぜわたしを迫害するのか」[使9:4]。サウロは主を迫害しているなど考えたこともなかった。自分が引きずり出して獄や死に渡しているのは、単に何人かの、あわれな、惑わされた男女だと思っていた。だが、サウロが迫害していたのは、ご自分に従う者という形をとったキリストご自身だったのである。あなたがた、このように神のキリストを迫害している人たち。私は切に願う。自分のしていることに用心してほしい。というのも、キリストがこのようにして、この世から無関心と軽蔑、あるいは、現実の反対や迫害を受けることは非常によく見受けられるからである。
そして、悲しいかな! こう云わなくてはならないのは嘆かわしいことだが、残念ながら、キリストに茨をかぶらせ、愚弄している非常に多くの人々は、自分がそうしているとはほとんど考えもしていないのではないかと思う。どういうことかと云うと、例えば、多くの国々で《救い主》の像が偶像のように掲げられ、礼拝されているのは、主を愚弄することだとあなたは感じないだろうか? わが国においてさえ、何万もの人々がキリストの像だと考えているものの前で、あるいは、その十字架の絵の前で拝礼しているのをあなたは見いだすであろう。私は、誰かから私の像を掲げられ、それを「神」にされたりするくらいなら、千度も死んだ方が――そんなことができればだが――ましだと思う。それでも、私は一個のあわれな、弱く、罪深い人間にすぎない。それゆえ、そのように私をおとしめることは、それほど大した問題にはなるまい。だが、きよく完璧な神の御子イエス・キリストを取り上げて、それを偶像にするということ、――嫌悪すべき忌まわしいこと、偶像とはそうしたものだからだが、――それは主を骨髄まで切り裂き、もう一度主を十字架にかけて、恥辱を与える[ヘブ6:6]ことに違いない。偶像を作りたいというなら、悪霊どもを取り上げて、彼らを偶像にするがいい。だが、神の御子を取り上げて、偶像にするのは忌まわしいことである。あわれな異教徒が木や石でできた自分たちの醜い偶像の前に拝礼するとき、その木や石はこのように邪悪な用いられ方をすることによっておとしめられる。だが、無垢の神の御子がその像を、偶像礼拝の手段の一部というような下劣な目的に供されるとき、それは身の毛もよだつほど極悪なことである。今こそ主はまさに愚弄されているのである。
しかし、他の人々は、別のしかたでキリストを愚弄しようと決意しているように思われる。主は信仰者のバプテスマという儀式を、教会の交わりへの入会式として制定された。だが、愚弄する者たちは、この儀式の対象も、様式も、意味も変えて、それを一個の魔術としてしまった。彼らによると、これは自意識のない赤子を新生させ、キリストの器官、神の子ども、天国の相続人にするのだという。キリストはまた、パンと葡萄酒による簡素な晩餐を制定して、ご自分の死の記念とされた。だが、愚弄する者たちは、その儀式を弥撒の犠牲に変えてしまった。それは、「司祭たち」の魔法の道具となり、これにより彼らは、そのパンと葡萄酒をイエス・キリストの肉と血にするのだと云う。おゝ、これらは、ぞっとするほど忌まわしいことである! 私は時として驚嘆することがある。なぜ地は口を開いて、こうした愚弄する者たちを飲み込まず、《全能の神》はなおもこうした忌むべき所行が続けられることを許しておられるのか、と。確かに近衛兵たちによるキリストの愚弄も、これほどの罪悪ではなかった。それから、他の人々はキリストを別のしかたで愚弄している。彼らはキリストを宣べ伝えるが、キリストはただの人間でしかなかったと云う。彼らは主の人間性を称揚するが、主の《神性》は否定する。これは、あの兵士たちが文字通りに行なったことを霊的に行なうことではないだろうか? このような説教者たちは、キリストに緋色の上着を着せる。だが、主の《神性》を否定している以上、それは単なるまがいものの衣でしかない。全能と全知という真の紫衣ではない。だが、その全能と全知こそ、主に属するものとして詩篇作者が語ったものなのである。「主は、王であられ、みいつをまとっておられます」[詩93:1]。彼らは主に人間性という冠をかぶらせる。だが、それは茨の冠でしかない。彼らは主の手に王笏を握らせる。だが、それは葦でしかない。彼らの「キリスト」は、一個の人でしかなく、神と同等にして等しく永遠である御子――私たちの愛する主なる《救い主》キリスト・イエス――ではない。彼らはこの《王》の王権の象徴も、その真の王笏も、その真の冠も取り去り、このようにして彼を自分たちと同じ水準に引きずり下ろしている。あるいは、むしろ、できるものならそうしようとしている、と云うべきである。このようにして、イエスは今なお愚弄され、恥ずべき仕打ちを受けておられる。哲学的な随想からなる説教を行なう一部の者らによってそうされている。その随想では、キリストの尊い血が全く言及されず、贖罪を始めとする、キリスト教のあらゆる壮大な古の諸教理が全く無視されている。これは単に、あの兵士たちがキリストを古椅子に座らせ、茶化した王者の象徴だの何だのを持たせながら、王としての権威や威光となる一切のものを主から取り上げていたことの猿真似にすぎない。
何よりも悪いことに、一部の信仰告白者たちは、ある意味で真理をいだいてはいるが、不義をもってその真理をはばんでいる[ロマ1:18]。ある人々は主イエス・キリストを愛していると云っており、おそらく、主を愛しているふりをしながら今晩、私たちとともに聖餐卓のもとにやって来るであろう。私は、あなたがたの中のある人々に唖然とする。あなたは、平然と酩酊によって身を落とし、それよりも悪いもろもろの罪によって身を汚す。あるいは、平然と商売において不正直の罪を犯したり、全く恵みに欠けた生活をしている。だのに、大胆にも、自分がキリストの尊い血や義に信頼しているかのような口をきいているのである。おゝ、そのようにすることで、いかにあなたは主を愚弄し、主を侮辱することか! あの恥辱のとき、主のほむべき頬を流れ落ちた、兵士たちの唾をはるかに越えて主に恥辱を与えるのは、この場であなたが主への賛美を歌いながら、明日には好色な歌を放歌高吟するか、罪の巣窟から出て来るなり主の聖餐卓のもとにあえて来ようとする場合である。願わくは神があなたをあわれみ、あなたの悪の道から立ち返らせてくださるように。というのも、もし神がそうしてくださらないとしたら、神の最愛の御子に対するあなたのはなはだしい侮辱を神がいかに感じておられるかは、いかに厳酷な刑罰をもってしても示せないからである。私は、いと聖なるエホバの御名によってあなたに命ずる。もしあなたが罪のうちに生きているとしたら、聖徒であるふりをやめるがいい。もしあなたが主イエス・キリストのそばにとどまることができないとしたら、――もしあなたが聖潔を追求したくないというなら、――私はあなたに願う。神を騙し、自分に嘘をつこうとして、キリストがあなたの《王》だなどと云ってはならない。悪魔があなたの王である。それであなたは、主の杯を愛せない一方で、酔いどれの杯を愛しているのである。ならば、不潔な行為にふけっていながら、聖徒たちとともに宴を張るための席に着いてはならない。いかにしてあなたは、この世の快楽を満喫していながら、キリスト教信仰の楽しみを享受できるだろうか? あなたは私が厳しいことを語っていると思っている。そして事実、私はそうしている。というのも、時として、ある人たちのことで心が張り裂けそうになるのを感じるからである。彼らの裏表ある生き方は、悲しいことに教会を散々に打ち壊している。「私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです」[ピリ3:18]。ローマ人の兵士たちがイエスを愚弄していることについて語りながら、この場に、ふしだらな信仰告白者たちがおり、不正直な信仰告白者がおり、赦しの心のない、みだらな信仰告白者がおり、そうした者らがあえて主の聖餐卓にやって来るようなことがあってはならない。願わくは神が、私たちすべてを、このようなしかたでキリストを愚弄することがないよう常に守ってくださるように!
III. 時間は尽きかけている。あるいは、この主題について思う存分に語っていれば尽きてしまう。それゆえ、私の最後の点に移る。このように愚弄され、侮られている主イエスは、《私たちがいかなるふるまいをすべきかという、私たちの模範》であられる。
おゝ、いかに主が私たちを愛されたことか! おゝ、いかに主が私たちを愛されたことか! 主を眺めるとき、私は、同じこの言葉を三度繰り返す以外に、他のいかなる言葉もこの舌にやって来ないのを感じる。おゝ、いかに主が私たちを愛されたことか! このお方は、「その目は、乳で洗われ、池のほとりで休み、水の流れのほとりにいる鳩のよう」、その「くちびるは没薬の液をしたたらせるゆりの花」、「その頭は純金……髪の毛はなつめやしの枝で、烏のように黒く」あられた主である[雅5:12-13、11]。主は、すべてが愛しい[雅5:16]《お方》である。だが、主はこの上もなく恥ずべき扱いを受け、喜んでそれを忍ばれた。私たちのためにである。ある有名な絵がある。それが描き出す《救い主》は茨の冠を戴き、その下にはドイツ語でこの言葉が書き記されている。「われは汝がため、かく苦しめり。汝れはわがため何をなせるや」。当時は陽気でこの世的であったツィンツェンドルフ伯爵は、その絵画館に足を踏み入れ、この言葉を読んだ。しばらくそこにとどまってから、外へ出て来た彼は、キリストにある新しい人となっており、その後一生の間、何人にもまさって献身的な主のしもべとなった。私は、いま私の言葉によってその絵を描き出せれば良いのにと思う。キリストがまざまざとあなたの前に示され、あなたが主のこう云われるおことばを聞けるようにである。「わたしはあなたのため、このように苦しんだのだ。あなたはわたしのために何をしてきただろうか?」 いかなる行動をもってすれば、これほど自己犠牲的な愛に報いるに足るだろうか? いかなる贈り物をもってすれば、これほど比類ない愛情に匹敵できるだろうか? いかに高貴で熱烈な思念をもってすれば、これほど偉大な議論の高みに上れるだろうか? いかなる献身をもってすれば、主にふさわしいだろうか? いかにすべてを焼き尽くし、主を思うあまりに私たちを食い尽くす熱心[ヨハ2:17]をもってすれば、私たちに対する主の愛の熱烈さに到達するだろうか? 主を愛しているというあなたに願いたい。あなたのために自ら進んで嘲りの場に入られたこの方に対して、いかなることを行なうべきか、自分で判断してほしい、と。
一、二のことは完璧に明らかである。最初に、私たちの中の誰ひとりとして、今後は、安逸さや、見栄えや、虚飾を得ようと努めるべきではない。十字軍がエルサレムを奪取し、ボードワンが王と宣言されたとき、彼は自分の頭に王冠が戴かされることを拒否した。というのも、彼はこう云ったからである。「私の《主人》が茨の冠を戴かれた場所で、いかにして私が黄金の冠を戴くことなどできようか?」 私は時々、信仰を告白するキリスト者たちが、なぜ彼らの中のある人々のように、きらびやかに着飾っていられるのか不思議に思うことがある。そうした人々には、自分たちの主が緋色の上着をまとい、茨を冠され、兵士たちの残虐な愚弄の的とされている姿をはっきり自分の目の前に置いておいてほしいと思う。そうすれば、彼らも、今ほどはそうした小綺麗さに気を遣わなくなるであろう。そうしたものは、結局、真の審美眼を有する者にとっては、しばしば醜さでしかないのである。イエス・キリストがご自分にならう者たちとして選び出すのは、決して華美な服装を見せびらかす人々ではないであろう。主はその貧しさと、その辱めで目立っておられた。だが、信仰を告白する一部のキリスト者たちは、虚飾で目立たない限り決して幸せにならない。私たちは、そうした種類のことをみな、私たちの主イエス・キリストへの愛ゆえに捨て去ろうではないか。
それから、やはり全く明らかなこととして、私たちは蔑みを気にかけるべきではない。蔑み! 蔑みを蔑もう。この世は私たちを笑い飛ばすだろうか? この世の笑いを笑い飛ばし、こう云おう。「お前は私たちを軽蔑するのか? それは、私たちがお前を軽蔑する半分にも満たない。おゝ、世よ。私たちの父祖たちはお前の剣を軽蔑した。お前の地下牢、お前の拷問台、お前の絞首台、お前の火刑柱を軽蔑した。では、お前は私たちがお前のあざけりや、冷やかしなどに震え上がると思うのか?」 ある不信心な者たちは、キリスト者である人々や、《教会》全体を戯画化するとき、自分が小利口なことを行なったと考える。だが、すべてはいかにつまらぬ、取るに足らないこと、言及する価値もほとんどないことであろう! 私たちの主があれほどの蔑みを受けられた以上、私たちが忍ばなくてはならないだろう嫌みなどみな、主が耐えられたものにくらべればお世辞も同然である。そして、今日の嘲笑や蔑みが、主の飲み干されたような杯を調合することは全くありえない。人々は手始めに主をあまりにも猛烈に扱ったため、それほど悪いことを何1つ私たちに対して行なうことができない。人は《家長》をベルゼブルと呼んだ[マタ10:25]ため、そのしもべたちのことは、それよりも悪く呼べないのである。人は主を愚弄し、主を殺した。その最も鋭利な武器を最初に持ち出した。それで、彼らが今キリスト者たちに対して持ち出すちゃちな笑いや蔑みなど、実際、一瞬も考える値打ちのないものなのである。それでも、私の知っているある人々は、それらによって非常に悩まされている。
「あゝ!」、とある人は云う。「私はキリスト者だと思います。ですが、私は、本当の私がどういう人間か知っているはずの人々から偽りの噂を流されているのです」。よろしい。だが、それは目新しいことだろうか? 驚く必要はない。というのも、それこそまさに彼らがイエスに行なったことだからである。彼らがイエスに対して用いたのと同じ汚名をあなたに着せないとしたら、あなたは自分が真にキリストのしもべかどうか疑った方が良いであろう。
「あゝ! ですが、彼らはひどく残酷なことを私について云い、私をひどくあざけるので、私はとても苦しめられているのです」。まさにそうであろう。だが、もし彼らが茨の冠をあなたにかぶらせるとしても、確かに、その茨から突き出た刺はあらかじめ折られているに違いない。というのも、キリストがすでにそれをご自分の頭にかぶり、その茨の切っ先の鋭さを取り去っておられるからである。そして、もし不敬虔な人々があなたを愚弄するとしたら、それは決してあの兵士たちが主を愚弄して、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」、と云ったときほど、手の込んだ当てこすりにはなりえないであろう。誰がキリスト者であることを恥と思うだろうか? 左様。誰が非国教徒のキリスト者であることを恥と思うだろうか? 誰が自分の属する教会の名前で呼ばれることを恥と思うだろうか? もしこの場にそのような人がいるとしたら、裏口からそっと抜け出すがいい。というのも、神の軍隊に臆病者は不要だからである。しかし、もしあなたがたが自分はキリストに従う者であると知っているとしたら、そのほむべき事実を誇りとするがいい。そして、そのために辱められることに決して赤面してはならない。否、むしろ、「キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と」[ヘブ11:26]みなすがいい。
しめくくりの前に、このことだけ云っておきたい。このような聖句は、私たちの中の、主を愛する者ら全員をかき立てて、自己否定を必要とするような何かをキリストのために行なわせるべきだと思う。このような箇所を読むことによってこそ、私たちの兄弟姉妹の何人かは、行って、わが国の最も下層の人々の間、不潔と悪徳が蔓延する場所で働くことになったに違いないと思う。私は、蝶よ花よと育てられた令嬢が、そのような働きに身を捧げていることも、最高の教養を有する紳士が、ロンドン最悪の貧民街に住む人々の間で英雄的に労苦していることも理解できる。キリストが茨の冠を戴いている姿を見た後でならそうである。私は、ひとりの宣教師がキリストのために、十倍も不潔な支那の真中で暮らし、労苦し、自らを支那人の間にあるキリスト者として、彼らを《救い主》にかちとろうとしていることを理解できる。私は、キリストの御国の進展のために人々を献身させ、巡り歩いてはみことばを宣べ伝えさせるか、貧者や病者に奉仕させている精神の何がしかを理解できる。私は、いかにして、ある人々が疫病のはびこる町々にさえ出かけて行き、病人や死にかけた人々の間で生き、そして死んでいったかを理解できる。私たちがひとたびキリストと、その茨の冠を見たとき、そこに生ずべき熱狂主義は、いかに大胆不敵な行為をもキリストのためなら行なわせることができるものなのである。私の《主人》の頭に茨が巻きついているのを眺めれば、《救い主》を愛するいかなる人も、その光景によって英雄的になるに違いないと私は感じる。神の御霊がそうした人々を助けて、真に見るべきしかたで見させてくださるならそうである。そして、キリストにある私の兄弟姉妹たち。あなたが何をすべきか示唆するのは、私のすべきことではない。むしろ、あなたがたひとりひとりが、自ら示唆すべきである。だが、私はあなたがたひとりひとりに問いたい。果たしてあなたは、これまで一度もしてこなかったようなことを何かイエスのためにできないだろうか? イエスのために、何らかの犠牲を払い、ある茨の冠を――霊的な意味で――かぶり、今までして来たことを一歩踏み越えて、聖別の川の中により深くもぐり、今晩から先はキリストのためもっと完全に自分を献身できないだろうか? あなたがそうなることを私は祈る。神の御霊があなたにそうできる力を与えてくださるよう祈る。そして、主イエスに、その恥辱に対する報いとして、誉れと栄光が帰されるように。確かに主は、そうした報いを受けるに豊かに値しておられる。願わくは主が今それをお受けになるように。その愛しい御名のゆえに! アーメン。
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王を愚弄する[了]
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