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魂の満足

NO. 3137

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1909年3月25日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「私のたましいに言ってください。『わたしがあなたの救いだ。』と」。――詩35:3


 この聖句は、当然、次のような願い事であると理解して良いであう。すなわち、魂が現世で種々の困難や、苦境や、困窮のうちにあるときも、神がご自分により頼むことを教えてくださるようにとの願い事である。私たちはみな、自分で自分を救い出そうと努めがちである。私たちはエジプトに戻るか、自分の右手にある山によじ上るか、できるものなら、左手に通り道を押し開こうとするであろう。だが、前方に葦の海がうねり、パロが後方にいるとき、また、右手にも左手にも険しい岩壁があるとき、この最も喜ばしい真理が学ばれる。――そして、おそらく、そうした折でなければ、私たちがそれを学ぶことはできないのであろう。――神が私たちの救いなのである! キリスト者よ。もしあなたが苦難の中にいるとしたら、誰があなたをそこに至らせたのか問うがいい。そのお方は、再びあなたを連れ出すことがおできになるからである。もしあなたがひどく悩み、深く悲しんでいるとしたら、なぜ人間の腕に援助を求めるべきだろうか? あるいは、なぜパロの馬や戦車に目を向けるべきだろうか? あなたの目を山に向かって上げるがいい。そこからあなたの助けはやって来る[詩121:1]。そうすれば、あなたは魂の厳粛な沈黙のうちに、柔らかな、心を鼓舞することばを聞く。「わたしはあなたの救いである。わたしは、六つの苦しみ[ヨブ5:19]においてあなたとともにいたし、いかなる災いもあなたに触れたことはない。今、わたしはあなたを別の苦しみに導き入れたが、わたしは、それらすべてからあなたを救い出すであろう。苦難の日には《わたしを》呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう[詩50:15]」。おゝ、信仰者よ。肉の腕のいかに強い腱といえども裂け、人間の力のいかに強大な一団といえどもくじける。だが、いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから[イザ26:4]。堅く立って、神の救いを見ることを学ぶがいい。神があなたにこうお語りになる通りに。「《全能》なるわたし、《遍在》なるわたし、至る所にしもべたちを有しているわたしが、あなたを救出するであろう。わたしはあなたの救いなのだから」。

 また、やはり私たちにとって非常に必要なことは、この節の、魂の問題に関する教えを学ぶことである。というのも、ある人が救われる――あるいは、救われうる――としたら、その人は、神が自分の救いであると知らなくてはならないからである。人間の魂の最大の敵は――こう云っても間違いないと思うが――自分を義とする精神である。そのため人々は、救いを求めて自分自身に目を向けるのである。

   「救いのきみの 死に給いける、
    高く上げらる 十字架より」、――

1つの御声がやって来る。力強いと同時に柔らかな声である。「わたしがあなたの救いだ」。しかし、罪人は自分の耳をふさぎ、ことによると、ローマの魔法に耳を傾けるかもしれない。あるいは、何らかのにせ預言者のぶつくさに、あるいは、それと同じくらい虚偽に満ちた自分自身の心に耳を傾けるかもしれない。それらはこう云う。「われわれこそ、あなたの救いだ」、と。兄弟たち。イエス・キリストの完了したみわざから私たちを引き離すような、あらゆる形の頼みの的から遠ざからなくてはならない。この件においては、最初から最後まで、この偉大な、「《わたしはある》」というお方が私たちの救いの全体を握っておられるのである。かの「《悲しみの人》で病を知っていた」[イザ53:3]イエスは、それにもかかわらず、《エホバ》であり、「《わたしはある》」というお方であり、「《わたしはある》」というお方として、今晩、救いの道を知りたいと欲しているあらゆる魂に向かって、「わたしがあなたの救いだ」、と語りかけておられる。罪人よ。他のどこにもあなたの希望はない。「だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできない」[Iコリ3:11]。あわれな罪人よ。あなたの数々の希望には根拠がなく、夢で紡いだ織物のようになるであろう。そうしたものにより頼まず、それらを捨てるがいい。それらに一度でもより頼んだ自分自身の愚劣さを憐れむがいい。イエスは今それらを捨てるよう命じておられる。これまであなたに慰めの微光、または、喜びの光明を生じさせてきた一切のものから離れて、罪人の身代わりとなって苦しんだお方の御傷に逃れ来るがいい。また、私たちが祝福されるために、私たちに代わって呪いとなられたお方の十字架に逃れ来るがいい。「わたしがあなたの救いだ」。あなたは、、より頼むべきである。あなたは、「いかにして私は救われることができようか?」、と云っているだろうか? イエスはお答えになる。「わたしがあなたの救い」。「あなたの救いになるだろう」ではなく、「救い」、と云われるのである。現在の救いが、キリストのうちには蓄えられている。

   「十字架(き)の上(え)を仰がば いのちあり、
    汝れにもこの瞬間(とき) いのちあり」。

「しかし」、とあなたは云うであろう。「私は何を行なうべきなのですか? どう感じるべきなのですか? 何をする者となるべきなのですか?」 答えはこうである。――

   「大きも小(ち)さきも、何もなし、
    罪人(ひと)のなすべき 何もなし。
    イエスは為(な)せり、一切(みな)なせり。
    はるか久しき 昔(いにしえ)に」。

「ええ。ですが、私を主にとってふさわしくするために求められていることが、確かに何かあるではないでしょうか?」 否。ありのままのあなたでやって来るがいい。主はこうは仰せにならない。「わたしは、あなたがこのこと、あるいは、あのことを行なって、自分をわたしにふさわしくするなら、あなたの救いとなるであろう」。否。むしろ、こう云っておられる。「わたしがあなたの救い」、と。もしあなたが真心から、また、心を尽くして主に信頼しさえするなら、主はこの瞬間にあなたを赦してくださる。この瞬間にあなたを恵みの家族に入れてくださる。あなたを新生させ、ご自分にあって「新しく造られた者」[IIコリ5:17]としてくださる。願わくは、私たちがみな霊的にこの教理を学ぶことができるように。「わたしがあなたの救いだ」。

 私はこの聖句をその意味でだけ用いるつもりはない。神が私たちの救いであられると感じることは、現世的な、また、霊的な苦境においてきわめて適切であると思うが、むしろ、ここではこう示させてほしい。すなわち、この聖句は、信仰の完全な確信を求める詩篇作者の祈りを明確に云い表わしているということである。詩篇作者は、神を信じていたが、その上で、永久的なしるしを得ることを求めるのである。それは、こうできる者となるためである。――

   「その称号(な)を さやかに読めり
    天空(そら)の邸宅(やかた)に」。

彼は、かすかな細い声[I列19:12]が自分の内側で、「わたしがあなたの救いだ」、と云うのを聞きたいと願っているのである。

 私がまず最初に行ないたいのは、この聖句で意図されている確信を説明することである。次に、その幸いさを示し、第三に、それに達する方法を述べたいと思う。

 I. 第一に、《この聖句で意図されている確信を説明したい》

 「私のたましいに言ってください。『わたしがあなたの救いだ。』と」。詩篇作者がこの祈りで求めている確信は、非常に厳粛な務めに関わっている。人は、自分の地所を購入することに関しては何の疑問の余地もないようにしたがるものである。ある土地が買われるときには常に、一切のことが綿密に調べられ、その所有権が正当で、有効で、破棄できないものであることが確かめられる。ある人々は、自分の肉体的健康について非常に几帳面であり、時折、すべての臓器が健全な状態にあると医者から太鼓判を押されることを好む。しかし、この詩篇においてダビデが思い悩んでいるのは、自分の地所についてでも、――それは一王国ではあったが、――自分の健康についてでも――それは彼にとって財産以上のものであったが、――なかった。むしろ、彼が気に病んでいたのは、ただ自分の魂についてであった。おゝ、私の兄弟たち。もし私たちが何事かについて確かであるべきだとしたら、それはこの点についてである。私たちは、ある人々が自分たちの債券や、抵当証書や、不動産権利証書について確かめる半分ほども勤勉に、私たちの「召されたことと選ばれたこととを確かなものと」[IIペテ1:10]しているとしたら、どんなに良いことか。天国について不確かであること、それは何とみじめな状態であろう! 自分の魂の永遠の幸福について疑念があること、――死につある定命の者で、いかなる瞬間にいのちの息が離れて行くか知れない者!――おゝ、これは実に悲惨である。私は自分の真の状態を知るべきである。もしそれが悪ければ、まだ時間のあるうちに改められるよう、最悪のことを知った方が良いであろう。また、もしそれが良いものであれば、確かにそうと知ることは私にとって甘やかなこととなり、そのとき、私の「しあわせは川のように」[イザ48:18]なり、私の喜びは清新さの間断なき波のように流れるであろう。おゝ、話をお聞きの愛する方々。永遠のために確実な働きを行なうがいい! たといあなたがどこかでぞんざいなことをしなくてはならないとしても、決してここでそうしてはならない! 魂のこの錨、この船首錨、この非常用大錨、それにしっかりとした大索が結びついているようにするがいい。そこである! 他の何がなくなっても良い。だが、すさまじい嵐がやって来つつある今、その錨が幕の内側[ヘブ6:19]で揺るがないようにするがいい。そして、それが信仰の、神の錨であること、聖霊なる神によってあなたの内に作られたものであるようにするがいい。私は切に願う。この話の冒頭に当たり、この祈りをそっとささげてほしい。「私のたましいに言ってください。『わたしがあなたの救いだ。』と」。

 また、あなたも注意するように、これは、非常に厳粛な務めであるのと同じく、これは、この件についてご存知の《お方》、また、権威をもって語ることのできる《お方》に対する訴えである。兄弟たち。もしあなたが教役者のもとに行くとして、それが誰であれ、こう云うとしたらどうなるだろうか。「先生。私は自分の証拠をあなたに申し上げます。私の経験をお話しします。それが神の子どもの目印かどうか、私に教えてください」。あなたは、自分の言明によって彼を欺くかもしれず、彼自身、その判断によってあなたを誤り導くかもしれない。ある魂が神の御前においていかなる状態にあるかについて、世界中の誰がいかなる意見をいだこうと、それに何の価値があるだろうか? 確かに、神の民が自分について心配しているとしたら、今の自分の状態は非常に疑わしく、心配すべき非常に大きな理由があるであろう。その場合、自らも不安に感じ始めるべきだからである。だが、たとい彼らが自分を受け入れているとしても、だからといって神がそうしておられると決め込まないようにしよう。たとい私が神の教会から好感を持たれ、神のしもべたちから愛されていても、そうしたすべてにもかかわらず、神は私が全くご自分のものでないことをご存知かもしれない。私は、他の一部の人々よりも分厚い金箔で覆われているかもしれないが、それでも本物の黄金ではないかもしれない。一部の人々よりも格好が良く、磨きがかけられているかもしれないが、それでも模造品であって、本物の木ではないかもしれない。話をお聞きの愛する方々。あなたがあえて神の御前に行き、自分の状況について調べ上げるのは良いことのように思われる。ある人が自分の地所の権利証書を、喜んで世界中のいかなる法廷の調査にも服させようとするとき、私はそうした証書が完全に正当なものだと考えるはずである。あなたが、「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください」[詩139:23]、と云えるとき、あるいは、この聖句のように、「私のたましいに言ってください。『わたしがあなたの救いだ。』と」、と祈ることさえできるとき、あなたには希望がある。

 しかし、注目すべきは、詩篇作者が欲している証拠が個人的な確信である、ということである。「私のたましいに言ってください。『わたしがあなたの救いだ。』と」。いかに口を酸っぱくして私たちは、キリスト教信仰において事を一般化するという悪習慣への反対を叫ばなくてはならないことか! 愛する方々。これまで一千回も云ってきたことを繰り返させてほしい。国民宗教などというものは全くの夢想であり、家の宗教という考えでさえ、素晴らしいものではあるが、しばしばただの幻想でしかない。有する価値のある唯一の敬虔さは、個人的な敬虔さであり、真に救いをもたらす唯一のキリスト教信仰は、生きた、ある人にとって個人的なものである。「あなたがたは新しく生まれなければならない」[ヨハ3:7]。さて、代理人によって新しく生まれることはできない。英国国教会は、その「代父」や「代母」を自分勝手にでっちあげるであろうが、神はそのようなものと何の関わりもお持ちにならない。私は切に願う。他の人間があなたの代わりになるなどという、魂を地獄に落とす虚偽が一瞬たりともあなたの魂に入り込むことを許さないでほしい! 他の人間はあなたに代わって何も約束できない。あるいは、約束しても、自分の約束したことを成し遂げられない。こうした働きは神の聖霊ご自身によってあなたの中で個人的になされなくてはならない。さもないと、あなたが救われることは決してありえない。私は、あなたが自分の子どもたちのために祈ることを非常に嬉しく思う。あわれな婦人よ。あなたが自分の夫君のために案じていることを私は喜んでいる。あなたがた、夫たちが自分の細君のために祈るのは良いことである。だが、おゝ、覚えておくがいい。いくら他の人が救われても、あなた自身が永遠の灼熱の中に投げ込まれるとしたら、それは情けない慰めにしかなるまい! あなたの祈りは、まずあなた自身のためのものとするがいい。それを主眼とするがいい。そうすれば、他の人々のためにもずっと有望な祈りをささげられるであろう。「私のたましいに云ってください。『わたしがあなたの救いだ』、と。私は、あわれみの雨が回り中にしたたっていると聞いています。それを私の上にもしたたらせてください。数多くの回心が起こっていると聞いています。おゝ、もし私が回心していないとしたら、私を回心させてください。あなたは大いなる不思議を行なうお方だと知っています。主よ。私を、あなたの救いの力の記念碑としてください」。個人的な確信をこそ詩篇作者は欲している。

 また、やはり注目すべきは、――というのも、それはこの聖句を眺めるなり、すぐ分かることだからだが、――これは、耳にではなく、心に送られる確信である、ということである。「私のたましいに言ってください。『わたしがあなたの救いだ。』と」。さて、神は実際、私たちの耳を通して私たちにお語りになる。みことばが読まれるか、説教されるかするとき、私たちはしばしばそれを聞くことを通して祝福を得る。だが、もしあなたの聞いていることばが単に耳にやって来るだけだとしたら、それは責任を生じさせはしても、祝福を請け合うものではない。ある人々は、神が自分たちの救いであると夢想している! 寝床に行って、もう一度夢を見るがいい。五十回でも夢を見るがいい。だが、たとい同じことを五十回夢に見たとしても、結局それは夢想以外の何物でもありえないし、夢想にしかならない。あなたがた、夢を土台に家を建てている人々は、自分のしていることに用心しなくてはならない。

 「よろしい」、と別の人は云うであろう。「ですが、私は空中で声を聞いたのですよ」。たわごとである! 「しかし、本当に聞いたのですよ」、とあなたは云う。迷信である! 「ですが、私は確かに聞いたのです」。よろしい。それが何になるだろうか? もしあなたがそれをあなたの外的な耳でしか聞かなかったとしたら、その声の出所などどうでも良い。もしも実際、誰かが語ったとしたら、それを語ったのは、他の誰彼と同じくらい悪魔だった見込みが高い。あなたは、この世にある何かと同じくらい、自分を欺いている見込みが高い。この聖句の祈りは、「私の耳に言ってください」、ではなく、「私のたましいに言ってください。『わたしがあなたの救いだ。』と」、である。あなたは、魂への語りかけがどういうものか理解しているだろうか? おゝ、大変だ。ほとんどの人々は、霊の世界に関わりのある何事も理解していない。他の物事と同様、キリスト教の中にも物質主義者たちがいる。彼らの考えによると、神を礼拝するとは、ある特定のしかたで歌い、膝を屈め、特定の言葉を云うことである。何と、そうしたすべてのことを行なっても、その中にひとかけらも礼拝が含まれていないことはありえる。また逆に、そうしたものが何もなくとも神を礼拝していることはありえる。人は口を全く開かなくとも神への賛美を歌っていることがありえる。一言も云わなくとも、神に向かって祈っていることがありえる。というのも、神が受け入れてくださるのは、魂が歌い、魂が祈ることだからである。そして、神に語りかけることを学んだ魂に神が語り返されるとき、神は、唇の言葉や、舌の言葉や、耳の言葉ではなく、魂の言葉をお語りになる。すでに云ったように、この魂の言葉は時として説教という形、あるいは、神のことばという形を取り、そのようにして、いわば、耳に訴えるものとなることがある。だが、そのときでさえ、文字は殺す[IIコリ3:6]。霊だけが生かすのである。ここで求められるのは、神の魂が人の魂に語ることである。そして、よく聞くがいい。愛する方々。もし神があなたの魂に語りかけてくださるとしたら、語っておられるのかどなたか尋ねる必要はないであろう。というのも、もし永遠の神が人間の心と直接接触を持つようなことがあるとしたら、取り違えることはありえないからである。あなたは、このことが理解できるだろうか? あなたがたの中のある人々は、私のことを狂信的だと思っているであろう。私は、あなたがたがみな同じくらい狂信的であってほしいと思う! 願わくは、あなたの魂に神が語りかけ、聖霊があなたの霊とともに[ロマ8:16]、あなたが神から生まれたことを証ししてくださるように! この祈りをささげるがいい。そして、神がそれをいま聞いてくださるように。「私のたましいに言ってください。『わたしがあなたの救いだ。』と」。

 それから、やはり私があなたに注意してほしいのは、ここでささげられている祈りが、現在のことである、ということである。それは、「私のたましいに、いま言ってください。『わたしがあなたの救いだ。』と」、という意味である。「そのうちに、そうしてください」、ではなく、「今、主よ、今」、である。ことによると、あなたがたの中のある人々は、過ぎ去った年月の間に、神の御声を聞いたことがあるであろう。だが、今のあなたは《懐疑城》に入り込んでしまっている。よろしい。あなたはここでこの祈りをささげて良い。そして、あなたが会衆席に座っている間に、あなた以外の誰にも聞こえなくとも、神の御霊はあなたに語りかけ、あなたは御霊が、「わたしがあなたの救いだ」、と云われるのを聞くであろう。そして、そのときあなたの心は歌うであろう。「私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの」[雅6:3]、と。その祈りを今ささげるがいい。そして、その答えを受けるには一瞬も必要ない。あなたがまだ語っている間から、あなたはそれを感じるはずだからである。あなたは圧倒的な感謝を感じて屈伏させられるとともに、それでいながら、「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜び」[Iペテ1:8]によって高く上げられるであろう。そのとき、あなたは、こう歌えるであろう。――

   「われ主のものと イェス囁(ささや)かば、
    わが愛す主は わがものならん」。

さあ、信仰者たち。みなこの祈りをささげようではないか。これまで、この御声を聞いたことがあるかないかは関係ない。おゝ、私の神よ。いま私たちを真の信仰者とし給え。そして、願わくは私たちがみなこう祈れるように。「私のたましいに言ってください。『わたしがあなたの救いだ。』と」。この説教者はしばしば、この祈りを自分自身、用いる必要がある。そして、自分の兄弟たちの多くが、まさにこのような叫びを用いざるをえなかったことを全く疑っていない。よろしい。今晩それを再び立ち上らせよう。「おゝ、神よ。私たちにお返しください。私たちの婚約時代の愛[エレ2:2]、私たちの初めの信仰、私たちの最初の喜びを。そして、あなたご自分の御声で、私たちの悩める心に語りかけ、私たちの魂に云ってください。『わたしがあなたの救いだ』と」。

 II. さて今、実際ごく手短に、第二の点に目を向けて良いだろうか? これは、《求められた確信の幸いさ》ということであった。

 このことについては、説教すべきだとは思わない。むしろ、あなたが自分でそれを見いだすままにするのが良いと思う。あなたがた、それを知っている人たちは、私が描写できないことを知っている。というのも、あなた自身もそれを描写できないからである。そして、あなたがた、それを知らない人たちは、それがいかなるものか告げたとしても、理解できないであろう。あなたに理解できるのはここまでである。すなわち、もしあなたが今晩、神ご自身によって魂に、「わたしがあなたの救いだ」、と語りかけられたと感じられるとしたら、あなたは今のあなたよりも無限に幸福になったのを感じるであろう。あなたがたの中のある人々は非常に朗らかだが、時として悩みを感じ、打ちひしがれることがある。私も知るように、見るからにあなたは、相当に多くの歓喜と陽気さをまとわりつかせている。だが、夜になると、あるいは、早朝になると、あるいは、葬式に出なくてはならなくなると、自分が感じたいと思うだけのものを感じない。どこかしら痛みにうずく空虚さがあり、それを満たすものが何か、まだ見いだしていない。さて、もし神ご自身があなたに向かって、「わたしがあなたの救いだ」、と云われるとしたら、それが満たされるではないだろうか? おゝ、そのとき、いかに異なる人生をあなたは送るようになるであろう! いかに幸いになるであろう。そして、救われた以上、あなたは、いかに聖くなろうと努めるであろう。そして、聖くなった以上、いかに神のそば近く生きようと努めるであろう! 「もし私が救われさえしたら」、とある人は云うであろう。「そのとき、私は実際、この世に存在する限り、主を賛美することでしょう」。よろしい。あわれな魂よ。私はあなたがそうなるように祈る。だが、その幸いさをあなたは味わい知らなくてはならない。「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ」[詩34:8]。それを理解するのに、これ以上の道はない。

 この小話は、以前あなたに告げたことがあると思うが、ある宣教所で、ひとりの少年が宣教師から砂糖のかけらを一個受け取ったという。その子は、家に帰ってから自分の父親に、とても甘いものをもらったよと告げた。父親は、それはこれこれの果物くらい甘かったのかいと尋ねた。おゝ、それよりずっと甘かったよ! 別のあれくらい甘かったかい? あゝ、それよりずっと甘かったよ。そして少年は、父親にそれがどのくらい甘かったか理解させられなかったので、宣教所に駆け戻って云った。「おゝ、先生。あの甘いものをもうひとかけらくれない? 父ちゃんが、どのくらいそれが甘かったか知りたいっていうの。そして、それを分からせたいんだけど、口じゃ云えないの」。それで彼は砂糖をもうひとかけらもらい、父親のところへ持って帰った。「ほら、父ちゃん。これでそれがどのくらい甘いか分かるだろ」。これは、私が引用したばかりの聖句の非常に良い例証である。「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ!」 あなた自身で味わうがいい。そうすれば、あなたは、それが自分で分かるであろう。

 III. さて、すみやかに第三の点に進もう。《いかにして私たちはこの確信を得られるだろうか? いかにして信仰者は自分が救われていると分かるだろうか?》

 確信への道は、単純な信仰という扉を通ることである。福音とは、こうである。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」[マコ16:16]。信じるとはキリストを信頼することである。さて、もし私が自分はキリストを信頼している、また、キリストの命令に従ってバプテスマを受けたと分かっているとしたら、そのとき、神は、私が救われていると云っておられる。そして、それで私には十分ではないだろうか? いずれにせよ、十分であるべきではないだろうか? もし神がそう云われるなら、それは真実に違いない。私は神の《書》が霊感されていると信じており、神はこのことをこう云い表わしておられる。「御子を信じる者はさばかれない」[ヨハ3:18]。よろしい。もし私が御子を本当に信じているとしたら、私はさばかれない。良心は云うであろう。「お前は、完璧からはほど遠い所にいるぞ」。私もそれは知っている。あゝ、良心よ! 私はそれを知っており、恥辱と悲しみを感じている。だが、みことばは、「御子を信じる者はさばかれない」、と云うのである。私は本当に御子を信じており、良心が好き勝手に何と云おうと、私はさばかれない。「よろしい。だが」、と悪魔は云うであろう。「それがどうして真実でありえようか?」 サタンよ。それは私の関知するところでも、お前の関知するところでもない。神がそう云っておられるのだ、それゆえ、そうなるのだ。それで私には十分である。私たちは人々の言葉を受け取る。なぜ神のことばを受け取るべきでないだろうか? イエス・キリストを単純に信じる人は、ある程度の確信を持っているに違いない。というのも、キリストによりかかり、もたれて安らぐという単純な行為は、真実に、また、真摯に行なわれた場合、それなりに心を確信させるからである。いずれにせよ、乳脂を作り出すのは牛乳である。信仰は牛乳であり、確信は乳脂である。あなたは、あなたの信仰からあなたの確信を得なくてはならない。そして、もしそれがイエス・キリストに全くより頼む単純な信仰だとしたら、それは、たとい直接的にではなくとも非常にすみやかに、あなたがキリストの恩恵にあずかっているとの確信を、ある程度まであなたにもたらすであろう。

 多くの善良な人々は云う。「私たちはキリストに信頼していますし、自分がキリストものであると希望しています」。彼らは、自分が救われていると分かっていますとは云いたがらない。こう云うことで、自分が非常に謙遜だと思っている。「私たちはそうだと信頼しています。そうだと希望しています」。だが、こうした種類の語り口すべての根底に、分厚い沈殿物のように沈んでいるのは、高慢以外の何物でもない。いかなる権利があって私は、あることをこうだと神が告げておられるとき、そうであると希望しますなどと云うのだろうか? もし私が何らかの目的のために十ポンドの寄付を約束するとして、私がそう約束した相手の人が、「よろしい。私はあなたがそうしてくれるのを希望しますよ」、などと云うとしたら、私は答えるであろう。「しかし、私はそうすると云ったのですよ」。「ええ。私はあなたがそうしてくださるのを希望しますよ」。「しかし、あなたは私を信じないのですか?」 「ええ。そうしたいのは山々ですが、しかし――」。何と、もしこのような語り口がこの世の人々の間で蔓延するとしたら、彼らは互いに人を追い返すことになるであろう。ある人を信じようとしないのは侮辱とみなされるであろう。では、なぜあなたは神に向かって、自分が同胞の人々から扱われたくないと思うような扱い方をしようとすべきだろうか? 神は、もし私がキリストを信頼するなら救われると云っておられる。私は本当にキリストを信じている。ならば私は救われているのである。そうでないとしたら、神のことばは真実ではない。そういうことになる。神のみことばが真実である以上、もし私が本当にキリストを信じているとしたら、そして、私は自分がそうしていると知っている以上、――もし、私が他に何をし残しているとしても、私の魂が本当に、何があろうとキリストにしがみついているとしたら、また、キリストの尊い血のほかどこにも希望の影さえ置いていないとしたら、また、もし私がそう云えるとしたら、私は自分が救われていると分かる。神がそうだと云っておられるからである。経験と良心は好き勝手なことを云うであろうが、「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです」[ロマ3:4]。

 しかしながら、私たちの確信の程度を増し加える道は、神のことばをより良く学ぶことに見いだされるべきである。ある人々が、持てるはずの確信を持てずにいるのは、真理を理解していないからである。私は本当にこう思っているが、ある形のアルミニウス主義は、キリスト者の信仰にとって有害なものである。例えば、そうした形の考え方は、神の選びも、霊による有効召命も、聖徒たちが確実に守られるがゆえの最終的堅忍も否定する。こうしたことが否定されるとしたら、ある人の足元から、よってもって立つべき一切のものが切り取られるように思われる。そして、そうした否定を信じている人に何の確信がなくとも全く不思議はない。もし私が、神の子どもたちは転落して滅びうると信じているとしたら、それは、いずれにせよ、完全な確信を不可能にすると思われる。というのも、もし彼らが転落しうるとしたら、なぜ私が転落しないことがあろうか? 他の人々が倒れる所で、私が立っていられるような、何が私のうちにあるというのだろうか? しかし、私がイエスの完了したみわざと義にだけより頼んでいるとき、また、それが完了していると信じているとき、私はこう歌える。「私を、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、栄光、尊厳、支配、権威が、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン」*[ユダ1:24-25]。愛するキリスト者の方々。みことばをもっと学ぶがいい。雑誌などどうでも良い。新聞などどうでも良い。それらがあなたの商売に必要となる分を越えて、そうしたものにやきもきする必要はない。私たちはみな、この1つの《書》から離れずにいるとしたら、今より大いに良い状態になるはずである。可能な限り広い知識を持とう。だが、私たちの知識という太陽系の太陽また中心としての聖書を保っていよう。そして、私たちの知る一切のことをその中心の回りで回転させよう。もし私たちが神についてより多く知るとしたら、人々について知ることが少なくなっても満足するであろう。

 これに次いで、もしも完全な確信を確立したければ、私たちは、今よりも祈りに励まなくてはならないと思う。あなたが祈らずに生活するとしたら、健全な状態ではなくなるであろう。キリスト者であれば、祈りなしに生きることはできない。だが、私が云いたいのは、祈りに励まずに生活するとしたら健全ではいられないということである。私は、私たちのうち誰ひとりとして、しかるべきほど祈っていないと確信している。私には、考えもなしに神の聖徒たちに非難を浴びせる趣味はない。だが、残念ながら現在は、祈りの時代ではないのではないかと思う。今は読書の時代、説教の時代、働きの時代であるが、祈りの時代ではない。清教徒たちの祈りについて読むと驚愕する。何と、彼らの公の祈りは、時として四十五分もの長さに及び、時計で一時間半を数えることもあったのである。私はそれを好まない。だが、彼らの密室における祈りは、それよりはるかに長かったし、断食と祈りの日は全くありふれたことであった。私たちは、今の家畜病について断食と祈りの日を設けることができれば良いのにと思う。だが、それは余談にすぎない。私が願うのは、私たちがみな、今の私たちよりも格段に祈りに励むようになることである。私たちは、忙しすぎるからといって、ほんの短い間しか祈らない。だが、それはこのことを忘れているのである。私たちは、祈れば祈るほど首尾良く働けるようになる。刈る者は、自分の鎌を研ぐために費やす時間を惜しまない。あるいは、写字生は自分の洋筆を修繕するための合間を惜しまない。マルチン・ルターは、通常より二倍もしなくてはならないことがあるときには、こう云った。「私はきょう、少なくとも三時間は祈らなくてはならない。さもなければ、決して私の仕事をやり通せないだろう」。仕事があればあるほど、それをやり通すために彼は祈ったのである。おゝ、私たちも同じようにすればどんなに良いことか! 私たちがもっと確信を得たければ、神とともにもっと山の上にとどまらなくてはならない。

 さらにあなたに助言したいのは、徳を建て上げるような牧会伝道がなされている教会に出席し、よく練られたキリスト者たちと近づきになることである。この場にいる若木たちの何本かは、外に移されれば、冷気によってひどい害を受けるであろう。ことによると、彼らは田舎から、疑いや恐れに満ちてやって来ているかもしれない。そこで、私の善良な兄弟姉妹たちが彼らを納得させ、彼らと語り合い、彼らを励まし、彼らを喜びに満たすのである。おゝ、あらゆる教会が心暖かで、思いやりがあり、情愛に満ちたものであればどんなに良いことか! 諸教会には、あまりにも多くの高慢さ、あまりに多くの、他者へのよそよそさがあるため、神のみこころのことに関する語り合いが全くありえないほどである。神の恵みによって、私たちはこうしたことを叩きつぶし、互いに対するちょっとした心の暖かさを持とうと努めるであろう。そして、そのようにして私たちは希望するであろう。完全な確信を得るために、御国に関する事がらを語り合い、そのようにして私たちの働きにおいて強め合うことを。

 しかし、愛する方々。もしあなたが完全な確信を得たければ、別のことをあなたに勧めることができよう。それはこのこと、キリストのための働きである。私たちは、行ないによって救われるのではないが、神のために働けば多くの祝福がもたらされる。請け合っても良いが、もしあなたがキリストのために財を費やし、また自分自身をさえ使い尽くす[IIコリ12:15]としたら、あなたは決して現金に事欠かないであろう。もしあなたが主のためにあなたの力を費やすとしたら、主はあなたに清新な力の蓄えを集めてくださるであろう。主が私たちに信仰を与えておられるのは、あの、自分のタラントを埋めた男[マタ25:18]のようにそれを埋めておくためではない。むしろ、もし私たちに五タラントの信仰があり、それを用いるとしたら、主はさらに五タラント与えてくださるであろう。そして、そのように自分の信仰を良く用いる者は確信を得るであろう。

 さらにまた、あなたの持っているものゆえに神を賛美するがいい。古の大家ブルックスは云う。「もしあなたに蝋燭の光しかないとしたら、それゆえに神をほめたたえるがいい。そうすれば、神は星明かりを与えてくださるであろう。あなたに星明かりがあるときには、それゆえに神をほめたたえるがいい。そうすれば、神は月の光を与えてくださるであろう。あなたに月の光があるときには、そのことを喜ぶがいい。そうすれば、神は日の光を与えてくださるであろう。そして、あなたが日の光を得たときには、いやまして神をほめたたえるがいい。そうすれば、神はあなたの日の光を七つの日の光[イザ30:26]のようにしてくださるであろう。というのも、主ご自身があなたの霊の光となられるからである」。神を賛美し、ほめたたえるがいい。そうすれば、あなたの確信は成長するであろう。

 何にもまして、種々の儀式と、手段と、祈りを通して、キリストご自身のもとへと進み続けるがいい。トマスは自分の指をキリストの御傷に差し込むことが、自分の不信仰の特効薬になることに気づいた。あなたもそうであろう。主にこう願うがいい。

   「汝が深紅(あか)き衣(きぬ) われに着せ、
    告げ給え、御名のすべてを」。

主に祈るがいい。その受難のうちにあり、その栄光のうちにある主ご自分をあなたに明らかに示してくださるように、と。主に願うがいい。あなたが主の御心を読みとれるようになり、主があなたに語りかけ、言葉に尽くすことのできない大きな愛をあなたに示してくださるように、と。その大いなる愛によって主はあなたを、世の基の置かれる前から愛してくださったのである。そのとき、キリストとのあなたの交わりは、鷲があなたを乗せて天国へと飛んで行くようなものとなるであろう。イエスとのあなたの交流は、燃え上がるあなたの愛の戦車を火の馬が《いと高き方》の御座へ引いて行くようなものとなるであろう。キリストと交わることを学んだあなたは、山頂を歩みながら神と語らうであろう。あなたの霊は、その巣を《いと高き方》の御座の間近にかけるであろう。あなたは、地上の思い煩いを乗り越え、この世の争闘という嵐や葛藤を越えて上り、今からでさえ、神の御座の前にある永遠の静謐という切れ目のない大海に魂を浴させるであろう。

 今晩、私たちひとりひとりの魂に対して、神がこう云ってくださるよう願おうではないか。「わたしがあなたの救いだ」、と。私たちの中のある者らは、これから聖餐卓へと出て来ることになる。ことによると、神はそこで私たちにこのことばを語ってくださるかもしれない。そして、もしそうされるとしたら、私たちは家に帰って祈るであろう。また、もしそのとき神が私たちにお語りにならないとしたら、ことによると、夜の寝つかれない時間の間に、お語りになるかもしれない。そして、私たちが目覚めるとき、私たちはなおも嘆願し続け、ついに、「光よ。あれ」[創1:3]、と仰せになると光ができた唇が、再び私たちに向かって、「光よ。あれ」、と仰せになるであろう。そのとき、私たちは、この方が私たちの救いであられることを知るであろう。

 願わくは神が、この祈りを聞くことによって、豊かに豊かにあなたを祝福し給わんことを。イエスのゆえに。

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魂の満足[了]


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