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黄金の文章

NO. 3135

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1909年3月11日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「イエスは彼らに言われた。『わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です』」。――ヨハ4:34


 この聖句の中には、救われたいと願っている人々のための大きな慰藉が含まれている。救われている人々に対するさらに大きな模範が含まれている。何にもまして、その《語り手》たる私たちの主ご自身について賛美すべき内容が含まれている。

 I. まず最初に注意したいのは、《この聖句には、イエス・キリストを通してあわれみを見いだしたいと願っている、悩める人々にとって、大きな慰藉が含まれている》ということである。

 あなたがた、罪の感覚の下で震えている人たちは、魂を救うみわざが、キリストによって、「父のみこころ」と呼ばれていることを悟るであろう。あなたがこう想像しがちであることを私は知っている。キリストは憐憫に満ちておられるが、御父は厳格で、峻厳で、復讐する《審き主》であられる、と。そのように思いみなすのは、あなたの神をそしることである。「あわれみのみわざこそ、わたしを遣わしたお方のみこころである」、とキリストは云っておられる。「わたしの行なっている一切のこと、――この井戸の端で、ひとりのあわれな罪深いサマリヤの女の魂に善を施そうとして行なっている一切のこと、――それは、わたしの父のみこころに従ってのことなのである」。キリストは、いわば神が人から遠ざけておきたがっているようなあわれみへと人々を導いておられたのではない。むしろ、主が神との和解へ導こうとしておられた人々とは、神がその慈悲深いみこころによって救いたいと望んでおられた、当の人々なのである。それどころか、神はその有効的なみこころによって、その人々をご自分との契約関係にも導き入れ、永遠のいのちを享受させようとしておられたのである。

 罪人よ。もしあなたが主の恵みの庭園に入り込むとしたら、あなたはそこに侵入者としてやって来たのではない。その門は開かれている。神のみこころは、あなたが入ってくることである。もしあなたがキリストをあなたの心に受け入れるなら、その宝を盗み出したことにはならない。神のみこころは、あなたがキリストを受け入れることだったのである。もしあなたが打ち砕かれた心をもってやって来て、イエスの完成した犠牲により頼むなら、永遠の目的に違反したり、天来の聖定と衝突したりするのではないかと恐れる必要はない。神のみこころが、あなたを救いの状態に至らせたのである。人間にいだくことのできる最も空しい恐れの1つは、御父が赦しを渋るのではないかという脅えである。あるいは、和解させられたいと切望する自分が、神の聖定によって閉め出されるのではないかという、やはり同じくらい馬鹿げた恐れである。イエスのもとに行こうという意志を神がお与えになるとき、私たちは、永遠のみこころが先行していたと確信して良い。おゝ、覚醒させられた罪人よ。あなたの切なる願い、あなたの度重なる祈り、あなたの神を求める切望は、天来の意志があなた自身の意志に落としている影にほかならない! あわれみの競走において、あなたが神の機先を制していると想像してはならない。

   「罪人、汝れに 先立てじ、
    御恩寵(みめぐみ)全能(つよ)く、抑制(まも)りて、代価(かた)なし」。

もしあなたが欲するとしたら、神が遠い昔に欲しておられたのである。もしあなたが心の中で意図するなら、神も遠い昔に意図しておられたのである。あなたは決して天来の予定について思い悩む必要はない。私たちの宣べ伝える福音は、あなたが注意を傾けるべきものである。こう確信するがいい。神は決して地の暗い場所で語って、「わたしの顔を求めても無駄だ」、と仰せにはならなかった。神は決してご自分のあわれみという開かれた約束と矛盾するような、秘密の制令をその会議室で通過させてはおられない。「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」[ヨハ3:36]。もしあなたがキリストのもとに行き、キリストに自分をゆだねるなら、神のみこころに違反しているのではないかと疑念をいだく必要はない。というのも、救いは、イエス・キリストがやって来て果たそうとしておられる神のみこころだからである。

 もう1つの慰藉が、ここでは、あらゆる求める魂に与えられている。すなわち、イエス・キリストがこの世に遣わされているのは、救うためなのである。私は、もしも自分が病んでいると知っており、ある医者が治療を目的として町で開業していると知っているとしたら、彼を自宅に招くことに何の困難も感じない。もしも自分が貧しいこと、また、ひとりの気前の良い施し主がやって来ていて、何の物惜しみもなく貧者に物をばらまいていることを知っているとしたら、彼に求めることに何の困難もない。なぜ困難など感じるべきだろうか? 私が彼に行なってほしい当のそのことを行なうために、また、行なおうとして彼がやって来ていることが分かっているというのに。さて、空っぽの罪人がいるところ常に、満ち満ちたキリストがやって来られるのは、その空っぽの罪人を満たすためである。渇ける霊がいるところ常に、いのちの水が注ぎ出されるのは、その渇ける魂が飲むためである。もしあなたがキリストに飢え乾いているとしたら、こう確信するがいい。キリストはあなたと出会っておられ、あなたの中に、ご自分がやって来て召された者たちのひとりを見分けておられるのだと。主があなたを飢えさせたのは、あるいは、あなたを渇かせたのは、あるいは、あなたに自分の空しさを感じさせたのは、あなたの飢えを取り除き、あなたの渇きを静め、あなたの空しさを満たすためにほかならない。《救い主》のことは、その御父によって罪人たちを救うために任命されたお方とみなすがいい。決してこのように考えてはならない。主が来られたのは、あなたよりもましな者たちを救うためであるとか、あなたは主のあわれみの限界を全く越えてしまっているだとか。むしろ、そうする代わりに、あなたの罪深さ、あなたの無価値さ、あなたの自覚する弱さ、あなたの完全な破滅と、地獄が当然なあり方とによって、より確かな望みを吹き込まれるがいい。あなたのような罪人を救うためにこそ、イエス・キリストは来られたのだ、と。主は失われた人を捜して救うために来た[ルカ19:10]。あなた以上に失われた人がいるだろうか? ならば、主はあなたを捜して救うために来られたのだと信ずるがいい。そして、自分を主にゆだねるがいい。そうすれば、あなたはそれが本当であると知るであろう。

 ことによると、絶望する罪人に対してこの聖句が与える最大の慰藉はこのことかもしれない。イエス・キリストが、魂を救うみわざにおいて経験なさる喜びである。それは主の唯一の目的であった。古から主は、ご自分のためにからだが造られ[ヘブ10:5]、この世に来て、ご自分の民を贖うことになる日を待ち望んでおられた。定めの時が来たとき[ガラ4:4]、主は決して私たちの魂にとって不承不承の救い主になったのではない。「巻き物の書に私のことが書いてあります。わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします」[詩40:7-8]。天空の正面玄関から下って、《救い主》は喜ばしい機敏さをもって、進んで来られた。救うことを慕いあえぎつつ来られた。地上にいたとき、主は咎ある者を探し出すことを全く嫌わなかった。否、主をそしってこう主張されるほどであった。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする」[ルカ15:2]。主は、そうしようと思えば、離れて立ったまま、らい病人を癒すこともおできになった。だが、主がらい病人を癒すときには、相手に触れることをお選びになった。それは、主が人間性のいかに近くに来られたかを示すためであった。人間性を嫌がるどころか、私たちの堕落した種族の一切の災厄と苦しみに接触することが主の喜びであることを示すためであった。主は、お付きの者に回りを取り囲ませ、群衆を遠ざけようとはなさらなかった。むしろ、主が彼らの中に入られた。一般庶民の押し合いへし合いする中に飛び込まれた。多くの人々が主に群がり、主に触れたある者らは、信じて触れたことによって癒されることができた。主は誰から手招きされても、召されても、お出かけになった。主には食事する時間もほとんどなかった。また、倦み疲れて多少の休息をお求めになったときも、人々は徒歩で主に従い、その数々の懇願をしつこくせがんだ。それでも、主は決して怒ることなく、常に彼らに対する同情に満ちておられた。

 主は、乗り気のある《救い主》であり、魂をかちとることにご自分の魂の喜びを見いだされた。魂が有効に贖われることになるための苦しみと死という、あの最高のみわざは、決して渋々なされた奉仕ではなかった。主は、ご自分には受けるバプテスマがあると云い、それが成し遂げられるまで、どんなに苦しむことかと仰せになった[ルカ12:50]。その杯は地獄のように苦かったが、主はそれを飲むことを切望しておられた。主の死は、考案しうる限り、最も不名誉なものであると同時に、最も苦痛の激しいものであった。だがしかし、主はそれを渇望された。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか」[ルカ22:15]、とキリストはその弟子たちに云われた。主はご自分が捜索されていたとき、逃げ隠れせずにゲツセマネの園へ行った。また、ユダはその場所を知っていた。それで彼らが主を捜したとき、進んでご自分を引き渡された。いかなる縄目も主を縛ることなどできなかったはずだか、自分で自分を縛られた。人は主を十字架に引きずって行くことなどできなかったであろう。彼らのような者らが何人がかりでも、そうはできなかったであろう。だが、主はほふり場に向かう小羊のように行かれ、毛を刈る者の前の雌羊のように黙して、口をお開きにならなかった[イザ53:7]。あのカルバリの上の驚異に満ちた受難は、私たちのための自由意志によるささげ物であった。それは、可能な限り最大限に自発的な犠牲であった。その最も深い苦悶の中においてさえ、キリストには、1つの知られざる喜びがあったと云ったらどうであろう? 私たちは、十字架に向かう時でさえ《救い主》の心を満たしていたに違いない、この素晴らしい喜びのことをあまりにも忘れていると思う。愛する方々。もしもあなたに慈悲深い性質があり、他の人々に代わって苦しんだとしたら、彼らから苦しみを取り除いたという喜びを感じずにいることはできないであろう。そして、私たちも知る通り、「ご自分の前に置かれた喜びのゆえに」こそ、主は「はずかしめをものともせずに十字架を忍」[ヘブ12:2]ばれたのである。あの悲嘆の暗黒の波浪に飛び込まれたときの主には、何物にまさる価値があるとみなす高価な真珠が見えていたのであり、その眺めこそ、その時には閃かなかった――こう云って良ければ、潜在的な――喜びによって、主を支えたものなのである。その喜びは、主の魂が「悲しみのあまり死ぬほど」[マタ26:38]であったときでさえ、内側に眠っていた。そして、あわれな震えおののく罪人よ。今やキリストは高い所に上っておられ、その何にもまさる大きな喜びは、ご自分が、代価と力との双方によって、死と罪から贖い出した魂たちのうちに、ご自分のいのちの激しい苦しみのあとを見る[イザ53:11]ことなのである。イエスがエルサレムを見下ろして泣かれたのは、それが救われようとしなかったためであった[ルカ19:41-44]。だがイエスは、悔い改めた罪人たちのことを大いに喜んでおられる。これこそ主の喜びであり、主の誇りの冠[Iテサ2:19]である。すなわち、あなたがた、あわれな震える者たちが、やって来ては十字架上の主を仰ぎ見、その死においていのちを、その御傷において癒しを見いだすことである。

 私は、自分に願えるほどには、この聖句の慰めをあなたに対して持ち出すことができない。云うべき言葉が出てこない。だが、私はあなたがた、平安と信仰を見いだすことを願っている人々に促したい。努めてキリストについて非常に大いに考えるがいい。私たちは、単に信仰によって十字架をつかむだけではない。十字架こそ私たちの中に信仰を作り出すものなのである。もしあなたがよりしばしば神のあわれみについて、また、神のみこころについて、また、キリストの使命について、また、キリストのいつくしみ深さについて考えようとするなら、あなたの魂はおそらく御霊によって、そうした考えの流れによって、イエスを信じるよう導かれるであろう。もしあなたが、絶えず自分の罪について、また、自分の心のかたくなさについてくよくよ考えているとしたら、十中八九、絶望に追い立てられるであろう。あなたの心のかたくなさ、また、あなたの罪の大きさを知るのは良いことである。だが、人が単に自分は病んでいると知るだけでは癒されず、単に自分の病気について学ぶだけでは心持ちが慰められないだろうのと同じように、単に自分の堕落した性質の汚物を詮索したり、自分自身のありもしない――そして今後も決して生じることがないだろう――美点を探そうと努めたりすることによって信仰を見いだす見込みはない。あなたの最も賢明な方針は、イエスを高く評価し、イエスを仰ぎ見ることである。イエスのうちに探せば、すぐに希望を見いだすであろう。もしあなたがカルバリで啓示されている通りの神のみこころを尊重し、《救い主》の刺し貫かれたからだに書き記された深紅の行中にそれを読むなら、あなたはすぐに、神のみこころが愛であることを悟るであろう。かの古い蛇があなたに与えてきた数々の傷から顔を背けて、この青銅の蛇を仰ぎ見るがいい。あなた自身の死から目を離し、イエスの死を見るがいい。そして、思い起こすがいい。キリストを抜きにしたあなたの悔い改めは、単に、奴隷根性に満ちた、律法的な悔い改めでしかなく、あなたにとって何の役にも立たないことを。老ウィルコックスが云うように、「十字架の根元で泣くことのない悔い改めなど消え去ってしまえ」。もしあなたが悔い改めるときイエス・キリストを仰ぎ見ないとしたら、あなたの悔い改めは福音主義的な悔い改めではなく、悔い改めるべき悔い改めである。私は切に願う。今あなたの前に私が置いた真理を――あるいは、この聖句がこれほど平明にあなたに提示している真理を――ぜひ受け入れてほしい。罪人たちの救いは神のみこころであり、キリストのみわざであり、キリストの喜びなのである。これは良い知らせではないだろうか?

 II. しかし、私は先にこの聖句が、《信仰者たちに対する、さらに大きな模範》であると述べたし、事実そうである。

 この聖句の中でまず最初に注意したいのは、キリストの従属的なあり方である。主は云われる。「わたしを遣わした方のみこころを行なうことが、わたしの食物です」*、と。ご自身の意志については何も仰せにならない。これほど初めの頃から、主はこう云っておられたのである。「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」[マタ26:39]。この世の人はこう考える。もし自分が自分のやりたいようにできたとしたら、自分は完璧に幸福になるだろう。現世と来世の状態における幸福ということで自分が夢見るのは、云ってみれば、自分自身の種々の望みが満たされ、自分自身の種々の切望が成就し、自分自身の種々の願いがかなえられるというようなあり方なのだ、と。これは、みな間違いである。人はこのようなしかたでは決して幸福にならない。それは、自分自身の意志を安置して、「偉大なのはエペソ人のアルテミスだ」[使19:28]、と叫ぶことではない。むしろ、完璧な幸福は、それとは正反対の方角で探すべきである。すなわち、私たち自身の意志を全く投げ捨て、神のみこころが自分のうちに成就することを願うことである。「自分の意志を行なうことが、私の食物だ」、と罪人は云う。イエス・キリストは別の食卓を指さして、こう云われる。「わたしを遣わした方のみこころを行なうことが、わたしの食物である。私の最大の慰め、また、私の霊の最も充実した栄養分は、わたし自身の種々の願いを実行することではなく、わたしのあらゆる願望を神のみこころに服させることにある」、と。愛する方々。私たちの種々の悲しみは、私たちの我意という根から生えてくる。ある人の意志が完全に神のみこころに服させられているとき、その人が何か悲しみをいだくことなどありえるだろうか? そのような場合、一切のことがその人を喜ばせるではないだろうか? 痛みは、私たちがそれに反抗しなかったとしたら、素晴らしい甘やかさを有していたことであろう。種々の損失は、忍耐のための機会を供するものとして、真に喜ぶべき事がらとなるであろう。私たちは、自分の財産がだいなしになることさえ喜んで受け取るべきである。私たちは自分自身を征服したとき、すべてを征服したのである。私たち自身の種々の願望や嫌悪に対して勝利を収め、自分自身を主権の恵みによって神のみこころに服従させたとき、そのとき私たちは完璧に幸福になるに違いない。

 しかしながら、次のこととしてこの聖句の中で注意すべきは、単に従属的なあり方だけでなく、認められていた任務である。おゝ、キリスト者よ。天来のみこころに対して完全に従属するあり方を身につけ、かつ、高き所からあなたに与えられた任務を明確に見てとることをもあなたの願望とするがいい! それは神のみこころである。左様。だが、「わたしを遣わした方のみこころ」、と云い足すのも良いことである。もし私が兵士だとしたら、ある用務に派遣されるとき、自分が何をすれば良いかなど考えることはない。自分の指揮官の命令を受け取った以上、それに従うべきである。多くのキリスト者たちは、自分の任務を見てとっていないではないだろうか? キリスト教会の中で、ぞっとするほど普通に見受けられるようになっているのは、「召し」を受けている人だけが、自分の全時間を、いわゆる「伝道牧会活動」にささげる人であるという信念である。だが実は、あらゆるキリスト者の奉仕は伝道牧会活動なのであり、あらゆるキリスト者は、何らかの種類の伝道牧会活動に召されているのである。あらゆる人が「イスラエルの父」となるのではない。というのも、「あなたがたに……父は多くあるはずが」[Iコリ4:15]ないからである。あらゆる人が、教師や、勧告者にさえなることはできない。だが、あらゆる人は自分の受けた賜物に従って、その賜物を用いて仕えなくてはならない[Iペテ4:10]。あなたがたは、祭司の王国である。誰かひとりの人が祭司となるよう選ばれ、キリスト教会においても古の祭司制が保たれるようにする代わりに、私たちの主であり《かしら》であられるイエスは、そうした独占制を永遠に廃止された。主は、今も私たちの信仰の唯一の偉大な《使徒》また《大祭司》であられ、私たちは主にあって、その恵みを通して、王とされ、神のために祭司とされているのである[黙1:6]。あなたがたひとりひとりは、信仰者として、明確な任務を伴ってこの世に遣わされている。そして、その任務とは、あなたの《主人》に与えられた任務に酷似している。あなたの量りによって、主の御霊はあなたの上におられ、御霊はあなたを遣わされた。心の傷ついた者を癒し、捕われ人には解放を告げ、主の恵みの年を告げ知らせるために[イザ61:1-2; ルカ4:18-19]。贖罪にあなたが押し入ることはできない。キリストはひとりで酒ぶねを踏まれ、国々の民のうちに主と事を共にする者はいなかった[イザ63:3]。だが奉仕の場では、あなたは決して侵入者ではない。それがあなたの住みかである。あなたは、魂のためのあらゆる聖なる労働において、あなたの主キリストに従うよう召されている。「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」[ヨハ20:21]。これは、使徒たちに対してばかりでなく、あらゆる聖徒たちに対して、主が遺言された任務の一部ではないだろうか? このことを認めるよう努力しようではないか。キリストが神から遣わされたとき、キリストはご自分が遣わされたことをお忘れにならなかった。主がこの世にやって来たのは、御父のみこころを行なうよう遣わされた後で自分勝手な務めを行なうためではなかった。そのように、あなたや私は、あたかも私たちが地上で生きているのは金儲けをしたり、自分の家族を養ったり、自分自身のために物事を快適にしたりするためであるかのように行動してはならない。私たちは、もしキリスト者であるとしたら、天来の用務を伴ってこの世に遣わされているのであり、おゝ、この用務を認め、それを成し遂げることのできる恵みがあればどんなに良いことか!

 さらに注意すべきは、こうした2つの点に関する、私たちの主の所見の実際的な性格である。主は云われる。これこれが「わたしの食物です」、と。――何がだろうか? 考察することだろうか? 説明することだろうか? 計算することだろうか? 世界がいつ終わるかについて預言を研究することだろうか? そのうち何か大きなことを行なえるような計画を思い巡らすことだろうか? 全く違う。「わたしを遣わした方のみこころを行なうことが、わたしの食物です」*。ある人々の食物は、キリストのみここを行なう人々にけちをつけることである。彼らが自分たちの口をいついかなる時にもまして満たすように見受けられるのは、自分たちよりもはるかにすぐれている人々の不完全さについて言及している時である。これは、ある人の自我を腐肉で飽かせることに似ており、神の人にはふさわしくない。あなたは、神から祝福された人々のうち、何か風変わりな点や、特異な部分を持っていないような人をひとりでも知っているだろうか? そのような人を私はひとりも知らないと思う。神が私たちを祝福してくださる時は常に、そこには確実に何か人々にこう思い出させるものがあるに違いない。その宝をおさめている器は土の器なのだ、と。愚かな人々は、こう叫ぶことをことのほか好む。「あの器の卑しさを見ろよ」。あたかも、その中に何の宝も入れられていないかのようにである。彼らが賢ければ、これが天来の定めの一部であることを理解するであろう。私たちは「この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」[IIコリ4:7]。あなたなら神のわざをもっとうまくできると考えているのだろうか。ぜひ、やってみてほしいと思う! 一般に正しいことは、他人のあら探しをする人々は、用いられるような通り道を歩くことが全く不都合であることを見いだすということである。

 それよりもまともな性向をした他の人々は、種々の新しい方式を企画することを自分たちの食物と見いだしている。彼らは壮大な計画を考案する。神の民が中で礼拝すべき建物を建てるべきである。それで、彼らは常に、いかにしてそれを建てるべきか、何人の人々がどれだけ献金すべきか、その他多くのことを常に知っている。だが、その務めの実際的な部分は、彼らがどれだけ自分自身をささげるかにある。この点において、彼らは尋常ならざるほど言葉少なになる。彼らは常に何か壮大な構想について語っている。不可能なキリスト者連合だの、何らかの壮大な、だが非実際的なキリスト者の努力についてである。私たちの主は実際的であった。あなたは、主の生涯すべてにおける、その実際的な性格に打たれるであろう。主は決して夢想家でも狂信者でもなかった。主の聖なる魂は、これまで世に生を受けた、いかに狂信的な熱心党員にも負けないほど燃えてはいたが、主のご計画と方法のすべては、取り計らうことが可能な限りにおいて最も賢明なものであった。それで、もし人々が腰を下ろして、その最も冷静な思慮によって何らかの構想を考案するとしたら、彼らが正しく導かれた場合、彼らが考案していたのは、まさにこの暖かな心の、熱情的な《救い主》が実行に移した構想であったに違いない。主は理屈をこねずに実行された。私の愛する兄弟姉妹たち。私たちが同じ称賛をかちとることができたなら!

 多くのキリスト者たちは、あまりにも神秘主義や、奇想や、奇異や、有益なものとならない異様な質問を好みすぎている。私が心から願うのは、彼らが、昔ながらの聖書的なしかたで魂をイエスのために獲得しようと努めることである。時折、真理のある特定の側面が不意に持ち上がり、一部のキリスト者たちは完璧にそれにのぼせあがってしまう。たたまれていた葉っぱの間をのぞき込むか、啓示されていない秘密を探り出そうとするか、自分勝手に思いついた、肉体における完全といった、何らかの空想的な卓越性に達そうとする。失われるか、救われるかするべき、おびただしい数の罪人たちがいる間は、私たちは福音を宣べ伝えることに固執すべきだと思う。この世に、キリスト教の初歩的な真理さえ知らない何百万もの人々がいる限り、私たちは、まず最初に街道や垣根の所に出て行き[マタ14:23]、人々に私たちの死に給う《救い主》について告げ、彼らに十字架を指し示すのが良いではないだろうか? 千年期だの、秘密の掲挙だの、その他一切の微細な問題については、私たちがずっと切迫した種々の必要をこなし終えたときに、おいおい討議しようではないか。今は、この船がばらばらになろうとしているのである。誰が救命艇の部署に就くだろうか? この家が燃え上がっているのである。誰が非常階段を昇って窓まで行くだろうか? ここには知識を欠いているため滅びつつある人々がいるのである。では、誰が彼らに告げるだろうか? 十字架にかけられた《お方》を仰ぎ見ることにいのちがあるのだ、と。その人こそ、人々に食べるべき食物を与える人である。だが、他のすべての人々は、いかに高雅な陶磁器の皿を運んでいようと、おそらく何の食物も与えず、空っ風でじらすだけだとして人を怒らせているであろう。キリストの心の満足は、この上もなく実際的な種類のものであった。主は、任務を与えられたしもべとして神に従属しており、実際に神のみこころを行なうことで忙しくしていた。

 しかし、この聖句の要点はここにある。私たちの主イエス・キリストは、このように、魂をかちとることによって神のみこころを行なう中に、栄養物と喜びの双方を見いだしておられた。嘘ではない。兄弟たち。もしあなたが炎の中から燃えさしを取り出すことがいかなることかを一度も知っていないとしたら、あなたは、キリストご自身に次いで甘やかな、魂にとって養いとなる霊的な食物を一度も知ったことがないのである。他の人々に善を施すことは、あなた自身に善を施すための最も手早い方法の1つである。ホイットフィールドやウェスレーの日記を読むがいい。あなたは1つの事実に打たれるであろう。あなたが見いだす彼らは、決して自分が召されたことを絶えず疑っていたり、自分たちが選ばれたことを信用していなかったり、自分が主を愛しているかどうか疑問に感じたりしてはいない。野外で彼らの何千人に向かって説教している人々、また、自分の回りに起こる、「救われるためには、何をしなければなりませんか?」[使16:30]、との叫びを聞いている人々を見るがいい。私の兄弟たち。彼らには疑ったり恐れたりする暇がなかった。彼らの全心には、そうしたがらくたのための余地がなかった。彼らは、神が自分たちをこの世に遣わされたのは、キリストのため魂を獲得するためであると感じていた。それで彼らは、意気阻喪した、疑り深い人生を送る余裕などなかった。彼らは神のために生きていたし、聖霊は彼らのうちであまりにも力強く生きておられたため、彼らは自分がその驚嘆すべき力にあずかっていると完全に確信していた。あなたがたの中にいる一部の善良な人々が行なっているのは、ただちょっとしたブレズレン派の書物を読むこと、公の集会や、聖書を読む会や、預言の集会に出ること、また、他のかたちの霊的な気晴らしでしかない。もしあなたが、自分の回りにいる貧者や困窮している人々の世話をするとしたら、ずっと善良なキリスト者となるであろう。もしあなたが仕事のためにただ袖をまくり上げ、行って死にかけている人々に福音を告げるとしたら、あなたは自分の霊的健康が大いに回復することに気づくであろう。というのも、キリスト者たちの病の非常に多くは、手持ち無沙汰から生じているからである。養われるだけで全く働かなければ、霊的な消化不良を起こしてしまう。怠惰で、無頓着で、生きがいが何もなく、何の世話をすることもなく、何の罪人のためにも祈らず、何の信仰後退者をも十字架のもとに連れ戻さず、何の震える者をも励まさず、何の幼子にも《救い主》のことを告げず、何の白髪の人をも神のみこころのことについて啓発せず、事実、人生に何の目的もないという場合、あなたが呻き始め、つぶやき、内省し始め、ついには絶望のあまり死にそうになるとしても、何の不思議があるだろうか? しかし、もし《主人》があなたのもとに来て、その御手をあなたに突き出して、こう仰せになるとしたらどうだろうか? 「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたを遣わした。さあ、云ってわたしのこころを行なうがいい」。あなたは、主の命令を守れば報いは大きい[詩19:11]ことに気づくであろう。あなたは、今は全く知らない食べ物を見いだすであろう。

 実際的なキリスト教を持とうではないか。私の兄弟たち。決して教理的なキリスト教をも、体験的なキリスト教をもないがしろにしないようにしよう。だが、もし私たちが、私たちにとってキリストがそうあられたようなしかたで他の人々に対してあることによって、キリスト教を実践していないとしたら、私たちはじきに種々の教理が味気なくなり、体験が苦味を帯びてくることに気づくであろう。キリストは、サマリヤの女に善を施そうと努めることに喜びを見いだされた。彼女の、これまでは更新されていなかった心は、主がそれをご自分のもとにかちとられたとき、主に満足を与えた。おゝ、魂をかちとるという喜びよ! あなたが手段となってキリストに導いた人から、手をぐいと握りしめられるがいい。何と、その後では、地獄にいるすべての悪鬼によって攻撃されようと、あなたはそれらを歯牙にもかけまい。そして、世界中のあらゆる人があなたに対して猛り狂い、あなたが正当な動機から神に仕えていないとか、思慮あるしかたで神に仕えていないとか云おうと、神があなたの働きに証印を押してくださった以上、それらを笑い飛ばしてかまわない。愛する方々。ただ魂を聖霊の力によってかちとるがいい。そうすれば、あなたは、それがあなた自身の魂の中で尽きることのない喜びの泉であることに気づくであろう。

 しかし、神のみこころを行なうことがご自分の食物であることを見いだしていることに加えて、私たちの主がこう云っておられることに注意するがいい。すなわち、主はご自分のみわざを成し遂げることをも願っておられた。そしてこれは私たちの満足であるが、私たちの働きが完成するまで私たちは耐え抜くのである。あなたが、あなたの働きの完成までどれだけ近づいているか、あなたは知らない。あなたは、さほど多くの日数、働かなくとも良いかもしれない。永遠の戦車の車輪があなたの背後で聞こえている。急ぐがいい。キリスト者よ! 一瞬一瞬を熱心に用いるがいい。というのも、それは非常に貴重だからである。あなたは、蝋燭がもう一吋しかなくなった女工のようである。懸命に働くがいい! だれも働くことのできない夜がやって来る[ヨハ9:4]。「私は永遠のために絵を描くのだ」、とある絵描きは云った。そのように行なおうではないか。自分の働きが永続するだろう人々のように神のために働こうではないか。利己的な労働は、木や、草や、わらのように燃え上がり[Iコリ3:12-15]、最後のすさまじい火焔となる。主のみわざを完成すること! 主のみわざを完成すること! これを私たちの目当てとしよう。北米土人のもとへ行った大宣教師が死にかけていたとき、彼が行なった最後のことは、小さな子どもにその文字を教えることであった。そして、これほど偉大な人がそのような働きをしているのを見てある人が目を白黒させたとき、彼は自分は神に感謝していると云った。もはや説教できなくなっても、少なくとも、そのあわれな子どもを教えるだけの力が残されていたからである。そのようにして、彼は自分の生涯の働きを完成することを欲した。そして、最後の数刷毛で、その絵を仕上げることを欲した。進み続けることは私たちの食べ物、また、私たちの飲み物であるべきである。すでに行なったことに自分の食物を決して見つけてはならない。いま行ないつつあること、また、さらに行なわなくてはならないことに自分の食物を見つけることである。現在の時の、現在の働きに、絶えず自分を清新にするものを見いだすことである。神が、それを果たす力を私たちに与えておられる限り、神のために財を費やし、また自分自身をさえ使い尽くす[IIコリ12:15]ことである。決してこうは云わないようにしよう。「私は盛時を過ぎた。若い者と交代しよう」、と。かりに太陽がこう云ったらどうであろう。「私はあまりにも長く輝いてきた。明日は昇らないことにしよう」。美しく光る星々がこう云ったと想像してみるがいい。「私たちはあまりにも長いこと、暗闇をついて私たちの黄金の矢を放ってきました。私たちはもう永遠に引退しましょう」。もしも空気が私たちに息を与えることを拒んだり、水がもはやその水路でさざ波を立てなくなったり、自然のすべてが、いったん事を行なったからといって静止してしまうとしたら、どうなるであろう。――何という死と破滅がそこに起こることであろう! 否。キリスト者よ。あなたは決してのらくら過ごすべきではない。日々、あなたを遣わしたお方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることをあなたの食物とするがいい。

 III. そして今、最後に、私には力がなく、あなたがたには時間がないが、考察したいのは、主が真にこう仰せになることができたと私たちが知るとき、《私たちからイエス・キリストがお受けになるべき栄光》である。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です」。

 いかに主は私たちを愛するなどということがおできになったのだろうか? 神の御子がその情愛を、これほど無価値な存在に向けるなどというのは異様なことである。私の兄弟たち。私は主があなたがたを愛することには驚くべきでないが、イエスが私を愛されたことは、私にとって日ごとの驚異である。不思議中の不思議は、主が私たちを救うために来られたことである。私たちがこれほど失われ、破滅し、主の愛などかまいつけもせず、それについて聞けば、はねつけ、それがある程度の力をもって私たちの心にやって来たときでさえそれを軽蔑したというのに、そうしたすべてにもかかわらず、なおも主が私たちを愛してくださったことである。「これぞ奇妙、奇妙を通り越した奇妙、仰天すべき不思議」である。だが、そうなのである。私たちは主を賛美すべきではないだろうか? 私たちの心はその内側で云うではないだろうか? 「私は私の《救い主》を賛美するために何をすれば良いだろうか? 何によって私は主のみかしらに冠を戴かせれば良いだろうか? いかにして私は、私のために働くことをこれほど喜んでくださったお方に、私の感謝を表わせば良いだろうか?」 愛する方々。願わくは、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれるように![ロマ5:5] この日から、私たちを遣わしたお方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、私たちの食べ物となり、私たちの飲み物となるように!

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黄金の文章[了]

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