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信仰者たちのためのキリストの祈り

NO. 3133

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1855年8月29日、水曜夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ユニコーン広場会堂
《福音に仕える教役者の救済協会》のための説教


「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします」。――ヨハ17:20


 この主題の冒頭から、云い知れぬほどの喜びを感じさせられることに、ここには私たちの《救い主》が、いかにご自分の民に対して素晴らしい愛をいだいておられるかが示されている。ここで主は、御父の御座の前で彼ら全員のためにとりなそうと約束し、また、このとりなしが、いまだ召されておらず、回心しておらず、新生してもいない者たちのためにも立ち昇ると宣言しておられる。主の情愛の深さに注目するがいい。主は、寸暇を惜しんで、絶えず御民のためにとりなしをしておられる。私は、イエス・キリストのへりくだりに驚嘆する。御民のひとりひとりの名前が、常にキリストの唇の上にあるというのである。その彼らが、自分たちに対する主のこの上もない恵みと情愛のすべてにもかかわらず、そむきの罪を犯し、反抗する者であることを思うとき、主が彼らの名前を口になさること、あるいは、彼らの人格を思いやりになられることは、まさに驚異であると思われる。しかし、かの夜のない国で、日々御父の御座の前に立っておられる主は、彼らの名前が深々と彫り刻まれた宝石と宝玉の胸当てを常時帯びており、常に両手を差し伸ばして彼らのために嘆願しておられるのである。それを思い起こすとき私たちは、彼らに対する主の愛を賞賛せざるをえない。また、主をしてこう宣言させている恵みに対して、深い尊崇の念を感じざるをえない。「シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない。その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは」[イザ62:1]。

 また、やはりここで注目しなくてはならないのは、私たちの《救い主》イエス・キリストが、その民全員のために有しておられる格別な愛のみならず、彼らについて有しておられる格別な知識である。というのも、主は、まだ召されていない者たちのためにも願うと云っておられるからである。さて、神を信ずる信仰を有する私たち――イエスを信ずるように召され、導かれた者たち――のうちひとりとして、主に知られていない者はいない。主は、贖われた御民が、いかに異なる状態にあっても彼らを知っておられる。主は、ふたりの酔っぱらいのうち、どちらが立ち返ってご自分の家族のひとりになるかを知っておられる。いかに罪と邪悪さの中に深く沈み込んでいる者といえども、もし主の恵みの契約によって主のものとなっているとしたら、今からでさえ、主のとりなしにあずかっていない者はひとりもいない。主は、ご自分の愛する者を識別する目印が何もなくとも彼らを知っておられる。主は、ご自分の羊が、他の人々には狼や山羊のようにしか見えないときも、彼らを見分けてくださる。主は、ご自分の家族が、ケダルの天幕のように黒いときも、彼らを認識し、彼らがソロモンの幕のように美しくなることを知っておられる[雅1:5]。主は、ご自分の子どもたちが自分では主のものであるとわかっていないときも、彼らを知っておられる。彼らが、もはや自分は救いようもないほど失われていると思い込んでいたり、愚かにも自分で自分を救えると考えているときにも、彼らを知っておられる。しかり。彼らのあらゆる希望が絶たれ、主が彼らを知ってはいないのではないか、福音は彼らを知っていないないのではないかと見受けられるようなとき、――いかなるキリスト者も彼らを知らず、教役者も彼らに何の慰めも与えられないようなときも、キリストは、そうしたときでさえ彼らを知っておられる。というのも、それでもこう記されているからである。「わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々、まだ信じてはいないが、すでに召された者たちの言葉によって信じる人々のためにです」*[ヨハ17:6、9、20参照]。

 この主題に移る前に、もう1つだけ考えておこう。というのも、私たちは、この聖句に含まれている種々の思想の中のいくつかを、手始めに示唆しておきたいからである。その別の思想とは、このことである。――いかにイエスが、ご自分の民全員を同じ情愛で愛しておられるかに注目するがいい。主は、ご自分のご生涯の間に主を信じた少人数の人々のために祈り出すや否や、突如として(人間的な云い方をすれば)、彼らがほんの一握りでしかないことを思い起こさざるをえなかった。それゆえ、主は勢い込んで、こう云われたのである。「父よ。わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします」。それは、あたかもこう云うかのようであった。「この人々は、このように早々と回心したからといって、わたしが依怙贔屓する者らというわけではありません。わたしは、この者らを他の者らにまさって愛しているのではありません。わたしは、まだ召されていない人々のためにも祈ります。わたしの民のために、分けへだてなく祈ります」。いみじくも使徒パウロは、「何の差別もありません」、と云っている[ロマ3:22]。そして、愛する方々。まことに、神の子どもたちに対する神の情愛には何の差別もない。むろん賜物や地位については、また、この世で彼らが成し遂げるであろう務めについては、選民の中でも、えり抜きの者たちがいることは私も認めよう。だが、愛の浅さ深さということでは、選民の中には、いかなるえり抜きの者もいない。彼らはみな同じように愛されている。全員が、同じ永遠の愛といのちの書に記されている。全員が、《救い主》の同じ尊い血によって買い取られた。ある者は主の足によって買い取られ、別の者は主の手によって買い取られた、などということはなく、全員が主のまさに心血によって買い取られたのである。彼らはみな同じ義によって義と認められ、みな同じ御霊によって聖められ、みな同じ天国に入ることになる。彼らはみな同じ恵みによって救われ、同じ愛によって愛され、同じ財産の相続人である。そして、イエス・キリストは、彼らをみな1つに合わせて、こう云われるのである。「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします」。

 I. さて、この聖句の考察に移るが、ここで最初に学びたいのは、《神は、御民がご自分を信ずる前から彼らを愛しておられる》、ということである。

 イエス・キリストは、決してご自分が愛してもいない者たちのために祈ろうとはなさらなかったであろう。主は、その祈りにおいて決して偽善者ではなかった。だが、ある人々は偽善者である。多くの祈りは、まともに受け取る値打ちがない。実際それは、眉つばものである。それは祈りでも何でもない。私はある人々が、教職にある自分の兄弟たちのために祈っているのを聞いたことがあるが、それでいながら彼らは、そうした兄弟たちとともに労することも、そうした兄弟たちのために労することもしないのである。私たちは多くの人々が膝を屈めて、これこれの人のために祈るのを見てきた。だが、彼らが身を起こすとき、その膝はまっすぐになるが、彼らの手は、今まで祈っていた当の相手を打ち叩くために振り上げられるのである。世間には、何の役にも立たない偽善的な祈りがあまりにも多い。それを一括りにして道にころがしておいても、だれひとり拾い上げはすまい。それらは無価値よりも悪い。純然たる邪悪さである。ある人が膝を屈め、心でまるで感じてもいない情愛こもった偽善的な言葉を神の前で口に出すというのは、神を冒涜することとほとんどかわらない。よほど神を軽く考えているのでもなければ、このような祈りで神を欺こうなどとは決してしないに決まっている。だがイエス・キリストは、決して欺瞞的な祈りをなさらなかった。もしだれかのためにとりなすとしたら、主はその人を愛しておられるのである。だれかのために嘆願するとしたら、その人をお選びになっておられるのである。その人を祝福するよう御父に求めるとしたら、それを心の底から求めておられるのである。そう私たちは確信してよい。キリストの祈りはみな、その魂の内奥から出たものである。あなたは決して主が、本当は永遠の情愛で愛してもいないだれかの名前を御座の前で口にするのを聞くことはない。ならば、このようにイエス・キリストがご自分の民のために、彼らが召される前、彼らが信ずる前から祈っておられる以上――また、主のとりなしが愛をうちに含んでいる以上、主は、ご自分の民が主を信ずる前から、彼らを愛しておられたに違いない。

 聖書全体を考えてみれば、これが真実な教理であることはごく容易に見てとれるはずである。むろんある人々は、これを途方もなく邪悪な教理であると、悪し様にそしるであろう。どういう人々かというと、被造物の功績を信じ、人は自分で行なう何らかの行為によって「神の子どもとされる」のだ、と想像している人々のことである。しかし私の考えるところ、真摯に、また真剣に聖書を学ぶ人であればだれでも、神がご自分の民を愛し始めるのは、彼らが神を愛し始めるときである、などとは決して信じないと思う。そのような考えは、神のご性質とは全くちぐはぐなものであろう。あなたは知らないのだろうか? 神は永遠にして、自存の《存在》であり、神がいま愛しておられるということは、実際には、神が常に愛しておられたということなのである。神にはいかなる過去も、いかなる未来もありえないからである。私たちが過去、現在、未来と呼ぶものを、神は1つの永遠の《今》の中にくるみこんでおられる。そして、もしあなたが、神はあなたを愛しておられるというのなら、それによってあなたは、神はあなたを昨日愛しておられ、永遠の過去にもあなたを愛しておられ、あなたを永遠に限りなく愛してくださるであろうと云っているのである。神が、ご自分の民を愛し始めることについて語るような人々は、「自分の言っていることも、また強く主張していることについても」知っていないのである[Iテモ1:7]。彼らも、人間が愛し始めることについては語ってもよい。御使いたちが愛し始めることについても語ってよい。だが、神について私たちは決してそう語ることはできない。神に始まりはなく、その心の中には不滅の愛を有しておられるからである。神がお持ちの情愛は、神ご自身以外のいかなる源泉もなく、神が始めることのありえないものであった。というのも、神は、その齢の初めもなく、生涯の終わりもないからである。とこしえからとこしえまで神は神である。そして、永遠から永遠まで、神のあわれみは御民に差し伸ばされている。

 神が、ご自分のさまよえる民を愛されたのは、単にキリストが、まだ召されていない者らのためにとりなしておられるためばかりではない。神が彼らを少しでも愛されるとしたら、それは、神のご性質そのものにより、神が彼らを永遠に愛してこざるをえなかったからなのである。――これは、だれにも反駁不能な議論だと思う。しかし、神の民が信ずる前から、神が彼らを愛しておられたことは、このように証明されなくともわかることである。カルバリのもとに行くがいい。そのときあなたは、最大の証明を見てとるであろう。私の《救い主》は、私が主を信じたから私のために死なれたのだろうか? 否。私はそのとき存在してはいなかった。私は、まだ形づくられておらず、「地の深い所で仕組まれ」てもいなかった[詩139:15]。ならば《救い主》は、私自身がまだ存在しないときに、私が信仰を持っていたために死んだのだろうか? それが私に対する《救い主》の愛の源泉だったことがありえただろうか? おゝ、否! 私の《救い主》が私のために死んだのは、私が信ずるはるか前であった。

 「しかし」、とあなたは云う。「主は、あなたが信仰を持つだろうことを予知したのだ。それゆえ主はあなたを愛されたのだ」。主は、私の信仰について何を予知しただろうか? 主は、私が自分で自分の信仰を得ることを予知したのだろうか? 私が自力で主を信ずることになると予知したのだろうか? 否。愛する方々。キリストがそのようなことを予知なさったはずはない。なぜなら、いかなるキリスト者も、信仰が賜物なしに、また聖霊の助けなしに、ひとりでに生じたなどと云うことは決してないからである。私はおびただしい数の人々と出会ってきたし、この件について語り合ってきたが、ひとりとして、自分の胸に手を当てて、「私は聖霊の助けなしにイエスを信じました」、などと云うことのできた人をただのひとりも知らない。私は多くの死にかけた人々を見てきたし、彼らにこの問いをしてみたが、そのような人に会ったことは一度もない。神は、神があなたに信仰をお与えになることを予知なさったので、それゆえにあなたを愛されたのだ。――これは、どう考えても馬鹿げたことではないだろうか? それは、こう云うも同然である。私は、自分がここから出て行くときに、ひとりの乞食に1シリング与えることを予知しているので、それゆえに――私がその賜物を予知しているがゆえに――私は彼を愛するのだ、と。あるいは、こう云うも同然である。あなたは、自分が今晩何かを、《福音に仕える忠実な教役者たちを救済する協会》に寄付することを予知したので、それゆえに自分は、そのとき、神に仕える教役者たちを愛することになるだろう。それは、自分が彼らに何かを与えることになると予知したからだ、と。否。私の贈り物は、私の慈善心の原因ではなく、むしろ私の慈善心こそ私がそれを与える原因である。神がご自分の民を愛しておられるのは、彼らが信仰を有するからではない。神は彼らをはるかに前から愛しておられる。信仰は神の賜物である。私の人間的な父親は、彼が私に食事を与え、私に服を着せたからというので、私を愛しているのだろうか? 否、彼が私に服を着せ、食事を与えたのは、彼が私を愛していたからである。むしろ彼の愛は、彼の贈り物に先立っていたのである。彼の贈り物が私に対する彼の愛を引き出したのではない。なぜなら、彼は、それらを与える前から私を愛していたからである。そして、もしだれかが、「神が私を愛しているのは、私が神のためにあれをしたり、これをしたりすることができるからだ」、などと云うとしたら、その人はたわごとを口にしているのである。神が私を愛している理由が、神自ら私にお与えになったもののためであるはずがない。あなたは、「神が私を愛するのは、私が神を愛しているからだ」、と云うかもしれないが、神がその愛をあなたに与えてくださったのである。神があなたを愛しておられるのは、あなたがことのほか聖いからではない。むしろ、あなたが聖いのは、神があなたを愛しておられるからであり、あなたの聖さは神の賜物なのである。初めに、この偉大な宇宙は、神のみ思いの中に横たわっていた。さながら、団栗の中に、いまだ生まれざる森が横たわっているように。その孤独をこだまが覚醒させるはるか以前から、――山々が生まれる前から、――光が空にひらめくずっと前から、神は、ご自分の選ばれた被造物たちを愛しておられた。造られたものなど何もないうちから、――天界を御使いの翼が一度も羽ばたいたことがないとき、――神おひとりのほか何物もいなかったとき、――そのときでさえ、《神格》のその孤独において、また、その深い静謐さと深遠さの中において、神のあわれみの心は、ご自分の選びの民に対する愛に動かされていた。彼らの名前は、神の心に書きつけられ、そのとき、彼らは神の魂にとって愛しい者たちであった。イエスは、世界の基の置かれる前、すなわち永遠の昔からさえ、ご自分の民を愛しておられた。私が主を愛するようになるはるか前に、主は私をご自分の血で買い取り、ご自分の愛情を1つの深くぱっくりと開いた傷口から私に向けて流れ出させてくださった。しかり。主が最初に私のもとに来られたとき、私は主をはねつけたではなかったろうか? 主が戸を叩いて、入れてくれと頼んだとき、私は主を追い払い、それも主の恵みにもかかわらずそうしたではなかったろうか? あゝ! 私には思い出せる。私が思いきり何度となくそうしてきたことを。とうとう主が、その有効な恵みによって、「わたしは入ってみせる、わたしは入らなくてはならない」、と云われるまでそうしてきたことを。そして、そのとき主は私の心を変えて、主を愛するようになさったのである。しかし、主の恵みがなかったとしたら、今に至るまで私は主に逆らっていたであろう。よろしい。ならば、主が私を、私が罪の中に死んでいたときに買い取られた以上、必然的かつ論理的な帰結は、主がまず私を愛しておられたに違いない、ということにならないだろうか? そして、こういうわけで《救い主》は云われたのである。「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします」、と。

 II. この聖句から私たちが学ぶ第二のことは、《福音を宣べ伝える教役者の務めが何の役に立つか》ということである。

 揚げ足取りや、あら探しをしたがる人々は、こう反対するであろう。「あなたは、神がご自分の民を愛している、だから彼らは救われるのだ、と云う。ならば、あなたの説教が何の役に立つのか?」 あなたの説教が何の役に立つのか? 神はだれにも数えきれぬほどの大勢の群衆、無数の大群衆を愛しておられるのだ、と私が云うとき、あなたは私に、説教が何の役に立つのかと問うだろうか? 説教が何の役に立つというのか! こうした主の金剛石たちを堆肥の山から取ってくること、潜水夫がそうするように、深海に潜って、神の真珠たちを、それが横たわっているところから取ってくることである。説教が何の役に立つのか? 良い麦を刈り取って、それを倉に納めることである。説教が何の役に立つのか? 神の選民を堕落の廃墟から連れてきて、岩なるキリスト・イエスの上に立たせ、しっかり立つようにさせることである。あゝ、あなたがた、神がある人々を救いへと定めておられるからというので、説教が何の役に立つのかと問う人々たち。私はあなたに尋ねたい。やがて収穫は来るのだから、種蒔きが何の役に立つのだろうか、とか、やがて収穫は来るのだから、刈り入れが何の役に立つのだろうか、などと問うのは、途方もなく馬鹿げたことではないだろうか? 私たちが種を蒔き、刈り入れをする理由は、私たちが、収穫は来ると確信しているからである。そして、実際もし私が、救われる人はひとりもいないに違いないと信じたとしたら、私は二度と講壇に立てないであろう。ひとたび私が、だれも確実には救われないのだと考えたが最後、私は説教したいとは思わない。しかし、いま私は、無数の人々が救われるに違いないことを知っており、キリストが「末長く、子孫を見ることができる」*、と確信している[イザ53:10]。私は知っている。たとい私が牧会活動において心くじかれること多く、その成果をほとんど見ることができないとしても、それでもキリストは、御父から与えられた者たちをひとりとして失うことはない、と。それで私は説教できるのである。私は今晩この会堂に入って来たとき、こう確信していた。神はこの場所に、まだ召されてはいないものの、ご自分の子どもである人々を何人か有しておられるに違いない、と。そして私は、神が牧会活動を用いてだれかをお召しになることは確実だと感じている。では、なぜそれが私によってなされないわけがあろうか? 私は知っている。神が私の牧会活動を通して、少なからぬ魂を――ただに数百人というだけでなく、数千人もの魂を――私に与えておられることを。私は、パーク街やその他の場所における自分の説教によって、何百人もの人々が神のもとに導かれたのを見てきた。そして、その確信とともに私は進み続けざるをえない。私は、イエスが「子孫」を持つに違いないと知っている[イザ53:10]。その民は増加するに違いなく、彼らを探し出し、彼らを神の囲いの中に連れてくることこそ、まさに牧会活動の目的である。私たちの《救い主》は、私たちに告げておられる。牧会活動は、そうした人々が「彼らのことばによってわたしを信じる」役に立つ、と。

 このことに関しては、1つ特別な点がある。「その人々は、彼らのことばによってわたしを信じる」*、とキリストは云っておられる。あなたは今まで、人々がだれかを追いかけることについて、やかましくとがめだてするのを聞いたことがないだろうか? 彼らは云う。「君たちはみな、あのを追いかけているね」。だから何なのか。女を追いかけてほしいとでもいうのだろうか? あなたは云う。「人々は、ある特定の人を追い求めている」。他のだれを追い求めればよいというのか? ある人々は云う。「われわれが、これこれの場所に行ったら、そこの人々は自分たちの教役者を愛しすぎていたよ」。それは非常に恐ろしいことに思われるかもしれないが、実はそうではない。愛されすぎて教役者が破滅する危険について云えば、彼らがそういう羽目に陥ることはめったにない。ほぼ例外なく彼らは、他の何にも負けないほど多くの反対を受けているものである。そして、たとい彼らが、ある特定の場所で実際に愛されすぎているとしても、それ以外の場所ではそれと逆の反応を受けすぎているものである。たとい私たちが多少の甘味を受けるとしても、他のだれかが確実にたっぷりと苦味を加えるのである。キリストが、「その人々は、彼らのことばによってわたしを信じる」*、と云われたのは異様なことではないだろうか? さて、神の民は牧会活動の言葉を通してキリストを信ずるのだろうか? 私たちも知るように、私たちの信仰の土台は、人間の言葉ではなく、神のことばである。私たちは、いかなる人にも依存していない。それでも、それは「彼らの」言葉を通してなのである。それは、使徒たちの言葉を通して、また、あらゆる忠実な教役者の言葉を通してなのである。

 私はこれをこう解釈する。福音は、教役者が経験から語るとき、彼自身の言葉になる、と。聖書の中にあるのは神のことばである。だが、神が経験を通して私に語ってくださることは、神のことばであるだけでなく、私の言葉となる。そして、教役者が、自分の心にある神のことばを伴って講壇に立つとき、それは「彼らの」言葉なのである。私が思うに、教役者が召されて説教すべきなのは、自分が聖書の中に見いだすものだけではない。――単なる、むきだしの教理だけではなく、自分が自分の心で経験したこと、自ら味わい、感じ、扱ったことを説教すべきである。もしそうするなら、その人は自己中心主義者だと呼ばれる危険が大いにあるであろう。まず間違いなくその人は、「私は」「私は」と云いすぎることになるであろう。よろしい。その人は、ジョン・スミスの経験や、他のだれかの経験を説教することはできない。自分自身の経験を説教するしかない。ならば、そのときその人は、「私は」と云わざるをえないであろう。しかし、もしその人が経験的に自分で感じたことを説教しないとしたら、それは彼の言葉を通してではなくなるであろう。私たちが、自分の知っていることを語り、自分が見たこと感じたことを証しする場合に、自分は《救い主》が罪人たちをお赦しになるだろうことを知っている、なぜなら主は自分を許してくださったからだ、と云うならば、そのときそれは、単に神のことばというだけでなく、私たちの言葉となる。もし私が、ある神の子どもに向かって、「行って、あなたの重荷を主に投げかけるがいい。そうすれば、あなたは救いを見いだすであろう。というのも、私も同じようにしたからだ」、と云うならば、そのときそれは単に神のことばであるだけでなく、私の言葉にもなるのである。

 教役者が《救い主》のことばを自ら経験するとき、そのときそれは、その教役者の言葉となるが、それが聖霊によってその人に顕示されたときも同じである。ある人々は、こうした聖霊による顕示など、みなたわごとだと云う。私は多くの人々が適用された聖句に反対するのを聞いてきた。こうした人々は、敬虔の真の法則についてほとんど理解していないのである。さもなければ彼らは、以前は決して意味を悟れなかった聖句が、あるとき自分に顕示されるのを見てとるはずである。私も知る通り、教職にある私の兄弟たちの多くは、時としてある聖句を取り上げて、それを分解しようと苦心したことを、いま証言できるであろう。彼らはそれを鉄製の大槌で強打したが、ほんのひとかけらも割り砕くことができず、脇へ放り出すしかなかった。しかし、愛する方々。それとは別の折に、同じ聖句が示されると、以前に取り上げたときには花崗岩のように硬く思われたのに、今やそれは粉々に割り砕けていくのである。なぜ? 今は神の聖霊がそれを照らし出しているが、以前はそうなさらなかったからである。かつては自分の大槌の頭が壊れるまで打ち叩き続けても、一片もはがれ落ちなかったのに、聖霊が顕示されるとき、その聖句の意味は明かされる。ほとんどの聖句はそのようにして学ばれるのである。深い瞑想によって聖句の意味に達することは、あまり多くはない。すぐれて霊的な交わりがなされる、ある尊い時が来るまで、とりあえずそれを放っておくことである。そして、その時がきたとき私たちは、その聖句の意味が横たわる秘密の小部屋そのものに入るのである。何らかの厳粛な瞬間に私たちは、その聖句の意味が隠されている深みそのものの中に飛び込む。神が私たちにその意味を教えてくださり、そのときにそれは、私たちの言葉となる。それは適用によって私たちのものとなっており、私たちの信ずるところ、愛する方々。罪人たちが神に回心するのは、私たちが聖書の中に見いだす福音を説教することによってだけでなく、私たちが自分の心に見いだす「すべての人に知られ、また読まれている」福音を説教することによってなのである[IIコリ3:2]。

 では私たちは、この決意とともに自分の講壇に立とうではないか(私は、教職にある私の兄弟たちに語っている)。神の御助けにより、自分の経験したことを聴衆にまざまざと感じさせるようにしよう。私たちは、時として自分自身について話すであろう。そして、そのことを恥とは思わないであろう。というのも私たちは、主なる私たちの神が私たちに云われたことは――みことばにおいてのみならず、経験によっても、その御霊によっても云われたことは――何であれ、人々に語りたいからである。

 この2つの点を私は述べてきた。――第一に、神はご自分の民が信仰を持つ前から彼らを愛しておられる。また、第二に、牧会活動は、「彼らのことば」によって、人々を信仰に連れてくるのに役に立つ。

 III. さて、第三に、こうしたことにもかかわらず、《神は牧会活動の上に立っておられ、それを必要とはなさらない》。もしそうなさるつもりがあるなら、神は、ご自分に仕える教役者たちなしでも、やっていくことがおできになる。

 私がここまで語ってきたのは、現在の事のあり方においては、人々を主イエス・キリストのもとに導くためには、またキリストを信ずる信仰を彼らが持つためには、教役者が必要である、ということであった。しかし、彼らが必要であると私が云ったとき、それは人間的な云い方である。神にとっては、教役者たちは必要ではない。神は彼らがなくともやっていくことがおできになる。私は今日、道を歩きながら、「神は私なしでもやっていくことがおできになる」、と考えていた。私は、説教をしている多くの人々のことを考えた。「神は、彼らなしでもやっていくことがおできになる。彼らが全員取り去られても、彼らなしでやっていくことがおできになる」。私は、自分の教会の何人かの教会員のことを考えた。私にとって非常に大切な人々、教会の柱とも思える人々である。そして、「彼らがいなければ、私に何ができるだろう?」、と考えた。だがそのとき、この考えが私の脳裏に浮かんだのである。「神は、彼らなしでもやっていくことがおできになる」。神がお望みになりさえすれば、神の民は、彼らなしでも、それまでと全く同じように救われていくはずである。神は、ご自分の説教者たちをだれひとり助太刀につけなくとも、ご自分ひとりで十分である。神が御使いたちをお造りになったとき、それは彼らを必要とされたからではなかった。神は、燃える熾天使の翼なしでも、また、栄光に富む智天使の声なしでも、ご自分のみこころを成し遂げることがおできになったであろう。神が星々をお造りになったとき、それはそれらを必要とされたからではなかった。神は、太陽や、月や、星々の光がなくとも、ご自身が光であられた。神が人間をお造りになったとき、それは人間を必要とされたからではなかった。それは、神が人間を造ることをお望みになったからであり、それ以外何の理由からでもなかった。そうする必要など全くなかった。神は、そのすべての被造物が死んだとしても、同じ永遠の神であられるであろう。また、たとい神が宇宙に記された、こうしたあらゆる知恵と恵みの線を抹消なさるとしても、それまでと全く同じように栄光に富み、偉大なお方であられるであろう。そして神は、福音の牧会活動に携わっているしもべたちなしでも、やっていくことがおできになる。だが、今は手段の時代であるため、神は手段なしにお働きになる神ではないのである。

 神は、お望みになれば、彼らなしに事を行なうこともできるし、いかなる教役者の助けも必要とはしないが、そうはなさらない。神は、ご自分の民を教役者たちなしに贖われた。キリストがご自分の民を贖うのを、いかなる大神学者が助けることができただろうか? しかり。それだけでなく神は、そうお望みになれば、教役者たちなしにその民を召すこともおできになる。というのも、私たちはある人々が、みことばを読むだけで、牧会活動の助けを借りずに、恵みを受ける者となったことを知っているからである。また、日曜学校に集う中で永遠のいのちの言葉を受け取った人々もいる。これは、私たちの高慢をたちまちぺしゃんこにしてしかるべきである。私も知る通り、神が私たちを用いておられることは、非常な栄誉であり、それを知ることは、私たちにとって大きな励みとなる。だが神は、もしお望みになれば、私なしでも、あなたなしでも、その目当てと目的を十分成し遂げることがおできになるのである。たとい明日、私たちが棺桶に横たえられ、たとい私たちの教会員たちが自分の牧師が死んだといって泣きながら出ていくことになるとしても、神は他の人々を起こすことがおできになる。あるいは、もし他の人々を起こすことをなさらなかったとしても、私たちなしでも、その目当てを成し遂げることがおできになるであろう。また、もしかすると、そのうちに福音に仕える教役者たちが不要になる時代がやって来るかもしれない。そのときには、小さい者から大きい者に至るまで、みな主を知るようになるため、だれひとりその兄弟に、「主を知れ」、と云う必要はなくなるであろう[ヘブ8:11]。やがて来たるべき幸いな時代には、「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たす」[イザ11:9]。そのときには、山々の上にあって救いの良い知らせを告げ知らせる使者たちは、全く必要とされなくなり、主という太陽の輝きが、私たちのあわれで安っぽい灯心草ろうそくに取ってかわることになり、イエスが、「その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来る」[マタ25:31]。そして、私たちは、人々の真ん中におられるお方について、立って人々に説教したりしなくとも、立ってこの方を賞賛すべきあまりにも多くのことを有することになる。

 IV. しかし、さらに私たちの第四の点は、《神は、今の時代が続く限りは、決してご自分に仕える教役者たちなしでは事を行ないなさらない》、ということである。なぜなら、イエス・キリストはこう云っておられるからである。「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします」。ここから、当然、今の時代が続く限りは常に、集められるべき人々があり、彼らを集めるべき教役者たちがいることになるであろう。神の選民でありながら、まだ救われておらず、回心していない人々がいる限り、彼らに向かって説教すべき教役者が何人かはいるであろう。罪の確信のもとにある人がいる限り、その人は、赦しの使信を宣言するだれかを有するであろう。キリストはこの聖句で云っておられる。「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします」。

 ある人は反対して云うかもしれない。「ええ。しかし、『彼らのことば』というのは、使徒たちの言葉のことですよ」。また、別の人はこう尋ねるかもしれない。「あなたがたは使徒たちの継承者なのですか?」 近頃は、途方もなく膨大なたわごとが、「使徒たちの継承者」について流布している。世の中には、使徒たちの継承者であると触れ込む人々がいる。ローマカトリック教徒たちがいる。しかし、私が思うに、もしペテロやパウロが生き返り、自分の継承者であると称する人々を見たとしたら、彼らは、自分とそうした人々との間に非常に大きな隔たりがあると思ったであろう。たとえ話として、かりに処女マリヤと、ペテロと、パウロが、ある日曜日に地上に降りて、とある大聖堂に行ったとしよう。よろしい。彼らが中に入ると、処女マリヤは人々が自分をほめたたえ、賛美し、自分に栄光を帰すために一斉に歌っているのを耳にした。彼女はペテロを突っついてこう云った。「この人たちは何をしようというのかしら? この人たちは私を礼拝しているのよ。私の《息子》は私に、『あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方』[ヨハ2:4]、と云ったのに。彼は一度も私を礼拝しなかったわ。こんなところからは出て行きましょうよ」。彼らがもう少しとどまっていると、人々のひとりがこう云う言葉が耳に入った。使徒ペテロは教会のかしらであり、それゆえ彼の継承者たる教皇はかしらなのだ、と。ペテロは処女マリヤを突っついて、云ったことであった。「何という嘘っぱちだ! 私は一度も教会のかしらだったことなどありはしない。私は罪に陥ったではなかろうか? 私が教会のかしらだと! 何とご立派なかしらであったことか」。それからまもなくしてパウロは、彼らが行ないによる義認を説教しているのを耳にした。「出ていこう」、と彼は云った。「ここには何の福音もない。私は、行ないによらない信仰による義認を宣べ伝えていた。だのに、彼らは行ないによる義認を説教している」。それで、それを聞いて彼らは三人ともみな外へ出て行った。やがて彼らは、「御座にすわる小羊に、栄光と誉れと賛美と栄光と力があるように」、と人々が歌っているのが聞こえる場所にやって来た[黙5:13参照]。そして彼らは、人々が、「信仰により、神の御力によって守られており、救いをいただく」ことになる者らについて語るのを聞いた[Iペテ1:5]。「あゝ」、とペテロは云った。「これこそ正しい場所だ。ここに私はいよう」。

 使徒たちに似た人々こそ、使徒たちの継承者である。使徒たちの継承者とは、私たちから金銭をむしりとり、自分たちの宗教に用立てるような者たちだろうか? 使徒たちの継承者とは、だれそれ兄弟の家に行って、彼の卓子や、彼の匙や、彼の燭台を取り上げて、彼が信じてもいないような宗教への税を支払わせるような者たちだろうか? 私はコリントに教会維持税があったとか、使徒パウロがエルサレムの誰かの上にあったなどということは、一度も読んだことがない。そんな者らが使徒たちの継承者であると! 彼らは敬虔な人々かもしれない。というのも、聖い人々も、ひどい間違いを犯すことがあるからである。だが、もう一度云うが、使徒たちに似た人々こそ、彼らの継承者にほかならない。――自分の沽券にかかわるなどと考えて、他のだれとも話すことを恥じるような者たちではない。――平明な言葉で語ることのできないような者たちではない。私たちの中には、辞書持参で会堂に行かなければ全く理解できないようなことばかり語る教役者たちがいないだろうか? あなたは彼らを使徒たちの継承者と呼ぶだろうか? あなたの分別は、「否」、と答える。骨の髄まで正直で、人に理解できる言葉を語り、神の福音を宣言する、それも神が語らせたいと思われる通りに、手心を加えずに宣言する人、それこそ使徒たちの継承者である。そして、「彼らの」言葉(使徒たちの言葉、また使徒たちの継承者たちの言葉)によってこそ、人々は救われるのである。使徒たちの継承者! 私は、バース地区主教だの、ロンドン地区主教だの、その他いかなる場所の主教だのにも負けないくらい、ことによると、それ以上に、使徒たちの継承者である。私たちはみな、神によって召され、《いと高き方》によって叙任された監督たちである。私たちは、自分の叙任を《全能者》の御手までさかのぼって考える。このお方が、ご自分の御手を私たちの頭に置かれたのである。使徒たちの継承者は常にいるであろう。キリスト教の牧会活動は、時がその最後の時期に至るまで、決してやむことはないであろう。いかなる星々も照らさないほど暗い霊的な闇夜は、これまで一度もなかった。太陽の輝きが全く隠されるほど空が曇ったことは一度もなかった。そこには常に何らかの光があった。そして、最後の最後の時まで、《全能のお方》の力を身にまとい、全能の神エホバによって強くされた人々が常に何人かはいることであろう。彼らは、自分たちの言葉を、すなわち、結局のところは神のことばを証しし、それによって人々は救われるであろう。

 さて、私の愛する兄弟姉妹。これまで私があなたがたの注意を引いてきた事実は、神が確実に何らかの牧会活動を常に有され、常にそれをお用いになるということ、また、牧会活動は、それなしでも神は事を行なうことがおできになるにしても、神のもとにあって必要であるということであった。では、私たちは彼らのために何をすべきだろうか? 私は、ある人々が何と云っているかを教えよう。――奴らを飢えさせてやれ。私は、ここでそう云われているとは云わないし、私の教会員たちがそうだというわけでもない。だが、それは多くの田舎の村々でそうである。残念なことに、多くの農夫たちは、神の御国の進展のために多額のものをささげる余裕があるにもかかわらず、自分の下婢のベティが天井桟敷に座って、その会衆席代に1シリング四分の一を支払っている一方で、主人の方もやはり1シリング四分の一しか支払わっていないのである。しかし、キリストに仕える教役者たちは、説教しなくてはならないという、やむにやまれぬ思いにかられて、その務めに専心している。そして彼らは、沈黙しているよりは、乾いたパンをかじっても説教しようとするのである。

 さて、私たちがこの《協会》を結成したのは、まさにこうした人々を助けるためである。請け合ってもいいが、もし私たちの愛する友人たちのひとりが、私が一年間しか占めていなかったような立場に立った場合、その年間収入を合計する段になったときには――もし少しでも慈悲心を感じていたとしたら――、ほとんど無一文になっているであろう。実際、もしあなたが自分に向かってなされる催促にいちいち耳を傾けていたとしたら、全く何も残っていないであろう。

 さて、もう1つ考えておこう。もし神が教役者たちを世に遣わしてご自分の福音を宣べ伝えさせておられるとしたら、私たちが彼らを害するなどというのは、何とふさわしくないことであろう! 「あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ」[ゼカ2:8]。私は常に、神の子どもを傷つけないように細心の注意を払うようにしてきた。あなたも知る通り、人を何にもまして激怒させるのは、その人の子どもたちを傷つけることである。私の知っていたある父親は、温厚で、穏やかで、非常に優しい気立てをしている。――だが、だれかがその人の子どもたちを傷つけたとき、彼はたちまち相手の顔に殴りつけた。好きなように彼の持ち物を傷つけ、彼の家を傷つけてみるがいい。彼は苛立つであろう。だが、彼の子どもを傷つけるや、彼の怒りはたちまち爆発する。おゝ、愛する方々。こうしたことに照らして見るとき、ある人々には、神の民の中においてすら、重い責任が負わされている。神の民を傷つける! 神の選民を傷つける! 神のお気に入りの者らを傷つける! 神の愛し子たちを傷つける! おゝ、用心しよう! 私たちは、神の子どもであると公言しながら、実はそうではない者を見逃してやる方が、本当に神の者であるだれかを無慈悲に、あるいは不親切に扱うよりもましである。そして、私が思うに、もし福音の教役者たちに何か違いがあるとしたら、これこそ特別な理由になると思う。何にもまして私たちは、彼らの悪口を触れ回ることによって、彼らの人格を傷つけないようにすべきである。彼らは、よこしまなこの世から十分に悪口を云われるであろう。だが、私たちは彼らに優しくし、彼らの周りに垣根を巡らし、あらゆる方面から彼らを守ってやる必要がある。彼らはキリスト教界の旗手たちなのである。そして、もし旗手たちが倒れるとしたら、それは何という不名誉をすべてにもたらすであろう! 私たちは、彼らに味方し、彼らのため祈り、彼らのため神に懇願し、神が彼らの手を支えてくださるようにと願うべきである。

 私は福音の牧会活動について語ってきた。それは何をするためのものだろうか? 人々をキリストを信ずる信仰へと導くということではないだろうか? さて、私は、今晩もそうしようと努力してから、この場所を去ろうと思う。しかり。そして、神の助けがあれば、そうできるであろう。 

 さて、二、三種類の人々に、ほんの一言か二言語りかけてみよう。第一に、今晩ここに座っている中のある人は、自分は「他の人々とくらべて全然悪くはない」、と云っている。そして、他のどの人とも同じようにやがて自分は天国に入るだろう、と信じている。その人は云う。「私は、どうして私が他の人に遅れをとらなくてはならないのかわからない」。天から与えられた私の使命は、聖霊のもとにあって、あなたの行ないを打ち倒し、イエス・キリストを信ずる信仰にあなたを導くことである。思い出すがいい。聖書にはこう書かれているのである。「律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいない」[ガラ2:16]。あなたは、あなたの行ないによって天国に達することはできない。自分の行ないによって天国に行こうとするくらいなら、踏み車に乗って星々に登ろうとする方がましである。というのも、一段登るたびに、あなたはそれまでよりも低く落ちてしまうからである。もしあなたが完璧になれなければ、神はあなたを行ないによって救いはしないであろう。もしあなたが、「私は一生の間、一度も罪を犯したことがなく、一度も悪い考えを思い浮かべたことがなく、今後も決して思い浮かべることはありません」、と本当に云えるとしたら、もしかすると、あなたが行ないによって救われることもあるかもしれない。だが、それが不可能である以上、もしあなたが律法に信頼し、それにぶらさがろうとするならば、それがあなたの重みで砕けてしまうことを思い知るであろう。あなたは砂の土台の上に立っており、風が吹き、嵐が起こると、それが虚妄の隠れ家であることを見てとらざるをえないであろう。あなたの自信がもろい根拠の上に立っていたこと、あなたの行ないが結局において実は悪であったこと、たとい自分を義人だと思っていたとしても、あなたが自分をも他人をも欺いてきたのだということ、それで悪人の上に下る刑罰を受けなくてはならないことを見てとらざるをえないであろう。

 あなたがたの中のある人々は、こう云うかもしれない。「私は自分が非常な大罪人であることはわかっています。でも、私は心を改めるつもりです。キリストのもとに立ち返ります。そうすれば私は救われるはずです」。あなたは心を改めるつもりだというのか。いま地獄に堕ちている者たちも、一度はそうするつもりだったのである。あなたは心を改めるつもりだというが、ユダもそうだったに違いないのである。それで彼は神殿に行って、あの金を投げ込んだのである。だが、彼の改心が良いものであったにもかかわらず、彼は外に出て行って、首をつった[マタ27:3-5]。あなたは心を改めるつもりだというが、あなたのつもりは子どもがふくらませるあぶく玉のようなもので、たちまち空中で割れてしまう。あなたは心を改めるつもりだというが、あなたの改心は煙突の煙のようなもので、風が吹き散らしてしまう。あなたは、もしも自分が本当に心を改めて、本当に真人間になるならば、イエス・キリストが自分をお救いになると考える。そして、そのようにして、ふたりで協力して天国に達するだろうという。あなたは、「二兎を追う者一兎も得ず」という古い格言を聞いたことが一度もないのだろうか? まことに私はあなたに告げる。もし2つのことに信頼するとしたら、あなたは失われるであろう。行ないはあなたを助けることができない。髪の毛一筋でも自分の行ないに頼る者はみな、失われた魂である。ほんのひとかけらでも行ないに頼る人は、たといそれが自分で見分けのつなかいほど微小なものであっても、失われるであろう。云うべきことはこうである。――

   「わが手にもてる もの何もなし
    ただ汝が十字架に われはすがらん」。――

さもなければ、人は失われるしかない。というのも、人が部分的には行ないに頼り、部分的には《救い主》に頼るなどというのは何の役にも立たないからである。あなたは、「私からは何もかも、はぎとられている」、と感じなくてはならない。私は、自分には良いものの持ち合わせが何1つない、という人々がいると、ことのほか嬉しく思う。一部の説教者は、説教する前の人々に何か良いものがあるのを見いだすことを好んでいるが、私は、自分には何1つ良いものがないと考えている人々を前にして、彼らに対する神の主権的なあわれみを宣べ伝えたいと思う。自分自身の徳を何か有している者よ。それを投げ捨てるがいい。何も持っていない者よ。キリストのもとに来るがいい。自分が良い人間だと考えている人に私は忠告する。神の前にいるときには、そのように云わないようにするがいい。もしあなたが病院にいて、診療を受けたいとしたら、あなたは何をするだろうか? 自分の主治医に向かって、寝台の上から書き送るか、口頭で、結局のところ自分はそれほど具合が悪くはないのです、と云うだろうか? あなたはむしろ、実際以上に自分の具合が悪いような様子をしたがるであろう。自分のことを、本当の自分以上に悪い者であると云い表わせるかどうか、試してみるがいい。あなたは、「それはひどい助言だ」、と云うかもしれない。だが、そうではない。なぜなら、私の確信するところ、あなたがそうすることは不可能だからである。行って、今晩、あなた自身の悪い特徴を書き出してみるがいい。いま私が語りかけているのは、これが真実であると知っている人であって、自分の義で自分を欺いている人ではない。いま自分が《救い主》を必要としていると感じている者よ。できるものなら、その感じを神の前で誇張してみるがいい。自分が、あらゆる罪人の中でも最も重い咎があると感じている人は、こう云っている。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです」[Iテモ1:15]。今晩この場に、自分は「罪人のかしら」であると考えている人がだれかいるとしたら、私はその人を召しているのである。神がその人を召しているのである。その人には、かつて私が州裁判所に座っていたときに見かけた男のように行動してほしいと思う。その男は云っていた。「道をあけろ! 道をあけろ! 判事様が俺様をお呼びだぞ」。そして男は、肘で押し分けて進んでいった。判事が彼を呼んでいたからである。神はこう云われる。「『さあ、来たれ。論じ合おう。』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる』」[イザ1:18]。云うがいい。「下がっていろ。神が私をお召しなのだ。それで私は行くのだ」、と。罪人よ。イエスこそ、あなたが頼らなくてはならないお方である。あなた自身ではない。あなたが持っているもの、これから持てるものなど無価値である。あなたが行なっていること、これから行なえることなど無価値である。あなたは、ただイエス・キリストによってのみ救われることができる。キリストを信じ、この《救い主》に頼るがいい。あなたは自分に《救い主》が必要であると感じているだろうか? ならば来て、自分をこのお方にゆだねるがいい。それなりの者になろうとするのはやめて、キリストにすべてとなっていただくがいい。行なうことはやめて、キリストに行なっていただくがいい。云うがいい。――

   「咎あり、弱く、甲斐なき虫けら、
    われは優しき 御腕に身を投ぐ。
    主こそわが身の 力にして義、
    わがイエスにて わがすべて」。

もし今晩、だれかが私の言葉によって覚醒させられるとしたら、私がそれをしたのではない。その罪人がそれをしたのではない。そのことを語って、神をほめたたえるがいい。神の御名にこそ、すべての栄光を帰すがいい。

信仰者たちのためのキリストの祈り[了]

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