HOME | TOP | 目次

あなたのための質問

NO. 3132

----

----

1909年2月18日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1874年8月9日、主日夜


「あなたは神の子を信じますか」。――ヨハ9:35 <英欽定訳>


 キリストによって目を開かれたこの盲人は、非常に頭の回転が早く、素晴らしく率直、かつ断固たる男であった。彼が知ったことを、その頭から叩き出すことはできなかったし、彼が知ったことから、不公平な推論を引き出させることもできなかった。彼は、自分が事実であると明らかに見てとったことを、あくまで守り抜こうとした。彼はイエスを神から遣わされた預言者であると信じていたし、パリサイ人たちが何と云おうと自分の信念にしがみついた。さて、私の信ずるところ、このような種類の人物こそ、より多くを学ぶべき人である。何かを知っていながら、それを軽くあしらう人が、さらに神から教えを受ける見込みはない。神にとって何にもまして不快なことは、あなたがすでに学んだことを軽くあしらうこと、あなたが自分の良心に干渉し、すでに受けた光の導きに従わないことである。しかし、すでに持っている者、また、自分の持っているものを正しく用いる者には、より多くのものが与えられて豊かになる[マタ25:29]。正直な良い地[マタ13:8]こそは、イエスが御国の良い種を蒔くのを愛される種類の土であった。それで主は、パリサイ人たちが破門したこの男を見つけるべき価値があると考えられた。それは、さらに彼に天来の真理を教えるためである。おゝ、話をお聞きの愛する方々。光を受けているとしたら、受けた所まで、その光を実行し、与えられたその光のゆえに神をほめたたえるがいい。もしあなたが月光を尊んでいるなら、じきに神は日光を与えてくださるであろう。しかし、主の御前で廉直に立ち、真っ直ぐに生き、正直、かつ真摯であるがいい。というのも、主は真実で廉直な者に望みがあるとみなされるからである。こうした人々こそ、主が最も祝福される見込みの高い人々である。

 I. 私たちの《救い主》は、この男を見つけ出すと、本日の聖句にある質問を彼に発された。「あなたは神の子を信じますか?」<英欽定訳> この質問を私は、聖霊が私たちを助けてくださる限りにおいて、あなたとともに考察しようと思う。そして第一に私がここに見てとるのは、《賢明で、個人的な問いかけの実例》である。

 私たちの主イエス・キリストがこの男に個人的に語りかけたのは、彼に善を施そうとされたからであった。主は彼に説教を1つ聞くようお招きにはならなかった。それも彼に善を施したかもしれなかったが関係ない。むしろ、主は彼をひとりにして、この急所を突く個人的な質問を発された。「あなたは神の子を信じますか?」 キリスト者である人たち。こうした、キリストご自身がお用いになった働きかけを、あなたは今している以上に用いるべきである。人々に向かって個人的に、また急所を突いて語りかけるがいい。人々を容易には逃げられないような片隅に押し込めるがいい。説教が語られるときは必ず、聞く者たちにそれを適用するのが説教者の義務である。だが、それと同じくらい、その場にいる未回心の人々ひとりひとりにそれを適用し、こう尋ねることはキリスト者である聴衆の義務である。「あなたは神の子を信じますか?」 人の釦穴をつかんで、この個人的な質問をその人に発するまで、手を放してはならない。《日曜学校》の教師たちは、自分の組にいる子どもたちひとりひとりにこのことを行なうべきである。ことによると、彼らの働きが効果的なものとなるために必要なのは、ただこの仕上げの一刷毛だけかもしれない。特に子どもを持つ親である人々は、自分の家庭内のあらゆる男の子や女の子にこのことを行なうべきである。それは、ひとりひとりに対する親密で個人的な働きであるべきである。教えることは一般的であっても良いが、それは常に、教えられた者たちに対する個人的な問答によって後追いされるべきである。

 私たちの《救い主》がこの男にこの質問を発されたのは、ふたりきりのときであった。主が彼にこう問われたのは、回りにうじゃうじゃ人がいる際ではなかった。主がそうしておられたとしたら、それはこの男にとって非常にばつの悪いこととなっていたかもしれない。しかし、彼を全くひとりきりにしておいてキリストは彼に云われた。「あなたは神の子を信じますか?」 愛する方々。あなたもまた、このことが、キリストのため働くための非常に有益なしかたであることに気づくであろう。なぜなら、それはしばしば人々を運命の分かれ目へと至らせるからである。彼らはおそらく、どっちつかずによろめいているであろう。ことによると彼らは、自分自身の思いの中では、ある意味、イエスを本当に信じていると考えているかもしれないが、実はそうではないことがありえる。それで、彼らが、果たしてイエスを信じているかいないかを云うように、急所を突くしかたで要求するとき、それは彼らに自分の真の立場を理解させる助けとなり、ごくしばしば、彼らを間違った立場から正しい立場へと押しやることになる。キリストから目を開かれた男の場合、「あなたは神の子を信じますか?」、という質問は、彼の状態に非常に深刻な不備があると見いださせることにつながった。彼は霊的に無知であった。《救い主》が自分の間近に立ち、自分に語りかけておられたにもかかわらず、それを知らなかった。彼は云った。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように」。彼の側のこの悲しむべき無知を彼に見いださせるためには、この質問がこのように急所を突くしかたで、はっきり彼に向かって発されなくてはならなかった。「あなたは神の子を信じますか?」 この質問が彼の無知を取り除き、彼をより明白な光の中へと至らせたのである。彼に、「主よ。私は信じます」、と云わせ、ひれ伏して《救い主》を礼拝させ、直前までその《神性》について無知であったお方を礼拝させたのである。

 ならば、その点については特に長々と語ることなく、私のキリスト者である兄弟姉妹たちに熱心に促させてほしい。このように、それぞれの罪人を片隅に追いつめて、「あなたは信じますか?」、と問いかける働きかけは賢明なものなのである。私たちは、公に人々を教えているときには、大きなかがり火を焚いている人々のようであることが往々にしてある。私たちは樽だの、そだだの、石炭だの、何だかんだを持ち出してきて、山と積み上げ続けるが、そこには何のかがり火もない。私たちに必要なのは一本の燐寸でその山に点火することである。そして、非常にしばしば、この急所を突いた個人的な質問、「あなたは信じますか?」が、話を聞いている人々ひとりひとりの心に真っ直ぐに突き入れられるとき、それは火のついた燐寸が可燃物の中に突っ込まれたようになり、そのようにすでに与えられていた教えが有益で効果的なものとなるのである。あなたは、これまでこのような働きかけを用いたことがあるだろうか? 愛する方々。私の信ずるところ、多くの場合、親たちは家庭礼拝を行ない続け、自分の子どもたちに天来の事がらを教え続けているが、彼らの男の子がはっきりとしたキリスト者にならないのは、その子の父親が彼を書斎の中か、静かで小さな居間に連れ込んで、その子を腕で抱きしめながら、彼のために祈り、彼に向かってこう云わないからである。「私の愛する息子よ。お前は本当にイエス・キリストに自分をおささげしたかい?」 そして、母親がそのようにするとき、おゝ、いかに多くの男の子たち、女の子たちがイエスのもとに導かれることであろう! こうした熱心で個人的な問いかけを母親から受けるとき、その涙にあふれる目によって、その愛に満ちた懇願には、いかに大きな力がひときわ込められることか! 思うに、ほとんどの《日曜学校》教師たちは、あなたにこう告げることであろう。自分たちが真理で執拗に心に押し迫ったとき、――もちろん、他のすべての点も同じように注意を払った上でのことだが、――彼らが真理で執拗に個々の心に押し迫ったときには、自分たちのずっと一般的な教えから得られるよりもずっと大きな直接的結果を目にしました、と。私は神に祈るものである。私たち教役者たちが、私たちの説教においてもっと個人的になるように、と。私は時々、ある説教を聞いたとき、こう感じることがあった。この説教に関わっている人々は、月か土星にでも住んでいるに違いない。だが、彼らは確かに下界のこの地上に暮らしてはいないのだ、と。語りかけられていた会衆は、あたかもみな非常にご立派な人々であるかのようであった。そして、もし説教者が、私たちが実際している通りのことを行なっている者としての私たちに話をしたとしたら、確かに誰かがこう叫んでいたに違いないであろう。「私はこのような説教者など聞いていられない。彼はけしからんほど個人的だ!」 しかし、個人的であることは、私たちの話を聞く人々に対して忠実であるという意味で、キリスト教の教役者として敏腕である目印である。そして、このように個人的であるからといって罪に定められる代わりに、私たちは、しかるべきあり方をしているからといって褒められるべきである。私たちが神によって立てられているのは、個人的になるため、また、個人的な使信を伝えるためである。それは、ナタンが、「あなたがその男です」[IIサム12:7]、と云ってダビデに対してそうしたのと同じである。私が願うのは、それなりの知恵と思慮をもって、私たちがこれまでしてきたよりもずっと親密に個人的になることができ、そして、そのようにして、賢明で個人的な問いかけをするという、この男に対してこう云われた私たちの《救い主》の模範にならうことである。「あなたは神の子を信じますか?」

 II. さて第二に、良くものを考える人なら誰でも察知できる通り、私たちの《救い主》の質問の中には、《人格の死活に関わる点が示されている》

 イエス・キリストはこの男に、「あなたは神の子を信じますか?」、と云われた。彼は、パリサイ人のふるまいによって不当に扱われてきた

 彼らは彼を信じようとしなかった。彼に対して偏見をいだいていた。彼を会堂から追放していた。それでイエス・キリストは彼にこう云っていたように思われる。「しかり。わたしは、彼らがいかにあなたを不当な目に遭わせたか分かっている。また、あなたがいかに真実で勇敢であったか分かっている。だが、パリサイ人はわたしを信じていない。だからこそ彼らはわたしに偏見をいだいているのだ。だが、あなたはわたしを信じるだろうか?」 あなたは、懐疑主義者や福音の反対者たちの肩を持ちはしない。だがそれでも、結局、あなた自身がキリストを信じる者となっていないことは全くありえることである。それで、私はこの質問をもう一度あなたがたひとりひとりに対して発するものである。「あなたは神の子を信じますか?」 私は、この質問をあなたの心に突き入れたいと思う。あなたは、善良で、愛すべき、非の打ち所のない人である。一生のあいだ一度もイエス・キリストに反対したことがなく、そうしようと考えてもおらず、このようなことをするパリサイ人がひとりでもいれば非常に腹を立てる。それでも、あなたは自分自身、本当にイエス・キリストを信じているだろうか? それこそ死活に関わる点である。反対者でないだけでは十分でない。個人的に主イエス・キリストを信奉しなくてはならない。というのも、主はこう云われたからである。「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です」[マタ12:30]。

 この男は、イエス・キリストのために苦しまされてもいた。彼はパリサイ人から怒鳴りつけられ、罵られていた。そして今、会堂から追放されていた。しかし、イエスは彼にこう仰せになっているように思われる。「しかり。あなたが真理のため、また、私が預言者であると信じているため苦しんでいることは良い。だがそれだけで十分ではない。あなたは神の子を信じるだろうか?」 あなたがたの中のある人々は、ことによると、礼拝所に出席するからといって、非常に大きな苦しみを家庭内で受けなくてはならないかもしれないが、頑としてそうし続けている。また、人から笑い物にされても、聖書や他の信仰書を読み続けている。多くの人から馬鹿だと思われても、きちんと祈祷会や平日の諸集会にやって来ている。これらすべては良いことである。だが十分ではない。あなたはキリストのため、からだを焼かれるために引き渡すことまでしても、もしキリストを信じていないとしたら、それによって救われることはないであろう。肝心な点はここにある。「あなたは神の子を信じますか?」

 この男は、キリストの質問にこう答えることもできた。「私はあなたが預言者であると信じています」。しかし、イエスはなおも彼に向かってこう云わなくてはならなかったであろう。「あなたは神の子を信じますか?」 イエスが善人であるとか、偉大な預言者であるとか、神から遣わされた者だとか信ずるだけでは十分でない。救いに至る信仰は、キリストの人性とその《神性》の双方をつかむ。私たちはキリストを、マリヤの《子》としても、神の御子としても信じなくてはならない。真実に人の《子》であるが、全くそれと同じくらい真実に神の御子であるお方として信じなくてはならない。そこには《救い主》の《神性》に対する純粋な信仰がなくてはならない。さもなければ、私は神のことばの中に、魂のための希望を与えるものを、その微光すら見てとれない。それで、私はこの場にいるあらゆる人に、この質問を強く突き入れるものである。「あなたは神の子を信じますか?」 「よろしい」、とある人は云うであろう。「私は聖書を信じています。私はキリストに反対していません。それにキリストのため苦しみさえこうむっています」。そこまでは良いことである。だが、「あなたは神の子を信じますか?」 あなたは他の一切の希望の根拠を放棄しているだろうか? そして、あなたの魂の永遠の利益を、あの贖罪の犠牲にゆだねているだろうか? それだけがあなたを神に和解させることができ、神に、あなたへのいつくしみ深い目を注がせることができるのである。そう信じているとしたら、それは良い。だが、信じていなければ、あなたの魂はお世辞にも良い状態だとは云えない。

 この男は、こう云えたであろう。「私の目は開かれています。私は盲目でしたが、今は見えています」。だが、彼の目を開いたキリストは、彼にこう云われた。「あなたは神の子を信じますか?」 ことによると、この場にいるある人は云うであろう。「私は酩酊するのをやめました」。それを聞いて私は嬉しく思う。この盲人の目が開かれたと聞いて喜ぶのと全く同じである。「よろしい」、と別の人は云うであろう。「私は十二箇月前の私とは全く様変わりしています。恵みの手段に注意を払うことによって、私は立派な者になったと思います。以前の私は評判の良くない者であり、あらゆる悪事につかっていたのです」。私はそれを嬉しく思う。やはり云うが、この盲人の目が開かれたのを読んで喜ぶのと全く同じくらいそうである。しかし、愛する方よ。それが大切な点ではない。「あなたは神の子を信じますか?」 道徳はそれなりに素晴らしいものである。だが、聖くなければ、誰も主を見ることはできない[ヘブ12:14]。そして、聖さとは、道徳をはるかに越えたものである。聖さが生み出されるには、心が真に変えられるしかなく、心が真に変えられるには、聖霊の新生の力によるしかない。そして、その力はイエス・キリストに対する信仰を通して現われるのである。道徳的な変化は褒められて良いし、それに反対するつもりなど私たちには毛頭ない。だが、銀が金でないのと同じように、道徳は聖さではないし、私たちがやはり伝えなくてはならない使信はこうである。「あなたがたは新しく生まれなければならない」[ヨハ3:7]。それで、私たちはこの聖句の質問を、この場にいるあらゆる人の良心に強く突き入れるものである。なぜなら、それはキリストを信ずる信仰の死命を制する点に関係しているからである。私の確信するところ、この、「あなたは神の子を信じますか?」、という質問は、人が答えなくてはならない質問という質問の中で最も重要なものである。これは死活に関わる、圧倒的に重要なものである。「私は英国国教徒です」、とある人は云うであろう。「私は非国教徒です」、と別の人は云うであろう。「私はカルヴァン主義者です」、とある人は云い、「私はアルミニウス主義者です」、と別の人は云う。よろしい。さて、私はこうした点のいずれかについて、あなたが何を信じているか尋ねるつもりはない。そうしたすべてに関して、私が考えていることが正しい見解だと分かってはいるが関係ない。しかし、私はあなたにこう告げることができる。あなたは、国教徒であろうと、非国教徒であろうと、カルヴァン主義者であろうと、アルミニウス主義者であろうと、天国に行くことがありえるし、地獄に行くこともありえる。だが、もしあなたがイエス・キリストを信じているなら、あなたは決して滅びることがなく、何者かが主の御手からあなたを奪い去ることもない。主を信じることこそ、最も重要な点である。それで、やはり私はあなたがたの中のすべての人々に、この質問に答えるよう促すものである。「あなたは神の子を信じますか?」

 III. 第三に、この聖句は《イエス・キリストを信ずることが筋の通ったことであると指し示している》ように思われる。

 私たちの《救い主》はこの男に、ことばによってでないが、実際にはこう仰せになっていると思われる。「あなたはすでに目を開かれた。非常に大きなことがあなたのためになされた。さて、あなたは神の子を信じるだろうか? 盲目に生まれついた者の目を開けることから自然に引き出される推論は、それを開けた《者》に《神性》があるということである。あなたはその偉大な真理を悟っているだろうか? それをいま見てとっているだろうか?」 「何と」、とあなたがた全員が云うのが聞こえる気がする。「彼はそれを見てとるはずですよ。確かに、このような奇蹟の中には、彼をそう確信させるに十分なものがあるに違いありません。自分がそれまで一生のあいだ暗闇の中にいたのに、今や目が開かれているからには、自分の目を開けたお方は神の子である、と」。非常に結構。だが、あなた自身についてはどうだろうか? あなたは聖書を信じていると云う。ならば、あなたが神の御子を信じていないのはどういうわけだろうか? あなたは聖書における神の証しは真実であると云う。ならば、なぜあなたはそれを信じないのだろうか? あなたは信仰がいかなるものか知っている。ならば、なぜそれを実行しないのだろうか? あなたは、自分が信じるよう命じられていることが真実であると知っている。ならば、それをあなたが信じないのはどういうわけだろうか? あなたがたの中のある人々は、福音が説教されるのを何百回も聞いてきた。私は毎年、百数十回はあなたの心の戸を打ち叩こうと努めてきたし、時としてあなたは自分の聞いた真理に大きな感銘を受けてきた。あなたは家に帰ってから、その説教について祈ったことがある。あるいは、この場に座って、その説教の下で涙を流したことがある。あなたは心から、神が自分の間近に来られたと云ったことがある。ならば、あなたがまだ神を信じていないのはどういうわけだろうか? ことによると、あなたは自分の娘が救われるのを見たことがあるかもしれない。あなたの細君も主イエス・キリストを信じていることをあなたは知っている。あなたの姉妹がイエスに導かれるのをあなたは見てきた。神の恵みがあなたの老父にいかに驚くべきことを成し遂げてきたか、また、あなたの愛する母上がいかに堂々と天国へ凱旋していったかをあなたは覚えている。あなたは、こうしたすべてが真実であると信じている。さらにあなたは決して無神論者ではなく、決して懐疑主義者ではない。あなたはイエス・キリストがあなたを救うことができると信じている。また、自分がキリストに信頼するなら、キリストは自分を救ってくださるだろうとも信じている。ならば、あなたがキリストに信頼せずにいる理由が何かありえるだろうか? 時として私はある人が、「私には信じられません」、と云うのを聞くことがある。真理を信じられない? そのような嘘っぱちを云わないでほしい。あることが真実であるとしたら、一体誰がそれを信じられないなどと云うのか? あなたが信じられないと云うとき、それは卑しくも破廉恥なしかたで、自分は信じるつもりがないのです、と云っているのである。神は真実であり、神が仰せになるすべてのことは真実である。そして、神が真実であられる以上、神は信じられるべきであり、神が仰せになるすべてのことは信じられるべきであると私には思われる。もしも私があることをこれこれこうだと述べたとき、誰かが、「それは真実ではありません」、と私に云うとしたら、私はその人に怒りを発しはしない。なぜなら、明らかにその人は私という人間を知っていないからである。その人は私が嘘をつくことがありえると考えても良いし、私は、その人が私という人間を知るまで、その人から褒められるべき何の権利も有していない。しかし、その人が私のことを知り、私の友人となり、私の真の人格を知ったときに、「私はあなたを信じません」、と云うとしたら、私は傷つく。しかし、ある人が、神ご自身の宣言されたことについて、「私はそれを信じません」、と云うとき、それは神が嘘をついたと非難することであり、神が正当にもこう仰せになってしかるべき大罪である。「信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」[ヨハ3:18]――そして、それが当然の報いである。

 人々が、自分たちの造り主であられる当の神を信じようとしていないことを思うと、非常に悲しくなる。この場にいる、エジンバラ出身のひとりの友人が、本日の午後、私に見事な話をしてくれた。それをスコットランド語で話せればと思うが、それは概ね次のような話であった。ひとりのキリスト者の人が、ある晩、エジンバラの親王通りを歩いていたところ、彼の注意を引いた光景を見た。ひとりの老人とひとりの老女が明らかに誰かを探していた。それで彼は、誰を探しているのですかと二人に尋ねた。彼らは、自分たちのあわれな娘を探しているのだと云った。それは町角に立っては、恥ずべき生活を送っている娘であった。彼は何が起こるか見ようとして待っていた。じきに二人は彼女を見つけた。すると彼女の父親は両手で彼女をつかんでは、こう云った。「娘や。お前の父や母のいる家に帰ってこんか」。彼女は二人とともに家に帰ろうとはせず、自分の罪へと戻っていった。よろしい。さて、私には、神がこのように罪人たちをつかんで、彼らにこう仰せになっているように思われる。「お前は、天にいるわたしのもとに帰ってこないか? わたしの子、イエス・キリストのもとにやってこないか? 彼は、まさにお前のような罪人たちを救うために死んだのだ。お前は、罪人たちを喜んでイエスのもとに導こうとする、あの恵み深い御霊に従わないか?」 キリストは、この男に対してそれをこのように云い表わされたように私には思われる。「あなたの目は開かれた。あなたは神の子を信じないのか?」 そして、キリストはあなたにこう思い起こさせるよう私に命じておられる。あなたは数多くの警告と、懇願と、招きと、特権を受けていた。あなたは神の御手があなたのために差し伸ばされるのを見てきた。ならば、あなたはその御子を信じようとしないだろうか? 確かにあなたがそうしないとしたら、筋の通らないことをしているのである。

 IV. しかし、私は先へ急がなくてはならない。この聖句は、第四のこととして、《苦難の中にある人が得られる慰めの最上の根拠を提示している》ように思われる。

 キリストが目を開けてくださったこの男を見るがいい。パリサイ人は彼を会堂から追放していた。そして、その破門の結果、誰も彼を雇わないということになったであろう。「おゝ、お前さんは会堂から追放された男じゃないかね?」 「そうです」。「よろしい。なら、お前さんに頼める仕事はないね」。彼は古い友人のもとに行き、もてなしてくれるよう頼むが、その友人は云う。「すまんが、あんたをこの家の中に置いておくわけにはいかんのだ。あんたは会堂から追放されたのだ。もし、私がこの家にあんたを泊めれば、私も破門されてしまうだろう。あんたは今やイスラエルから断ち切られたのだ。だから私はあんたと何の関係も持てないのだ」。こういうわけで、このあわれな寄るべなき男は、山ほどの苦難をかかえてそこに立っている。イエス・キリストは彼のもとに行くと、彼を慰めようとしてこう仰せになる。「あなたは神の子を信じますか」。――あたかも、こう仰せになるかのようである。「それを信じているなら、後のことは全く心配ないのだよ」、と。

 イエスは、彼に、自分が正しいことを行なったのだと考えて自らを慰めるようお求めにはならなかった。自分は事を公明正大に行なったのだ。もし人々が自分を追放したとしても、自分はそれに耐えられるのだ。自分は正しいことをしたのだから。そう考えて慰めとするよう主はお求めにならなかった。そうした考えにも多少は慰めがあるが、もし私たちに、自分で行なったことから得られる慰めのほか何の慰めもないとしたら、それは全くみじめな慰めであろう。イエスはこの男にこうは仰せにならなかった。「よろしい。あなたは、あなたを会堂が追放した、あの偏見に満ちたパリサイ人たちのようではない」。ある人々は、他の人々の悪人ぶりからいつでも慰めを引き出せる。彼らは云う。「よろしい。嬉しいことに私たちは、老いぼれ何某のようでないのさ」。イエスは、この男が、そのようなしかたで慰めを得ることを願われなかった。そして彼にこのようにはお語りにならなかった。「よろしい。あわれな者よ。彼らはあなたを会堂から追放したが、あなたを吊し首にすることも、石打ちにすることもできない。彼らはあなたを傷つけるためにできるだけのことをしたのだ」。ある人々はこう云う。「よろしい。今や彼らはできることをすべて行なってしまった。彼らはこれ以上私に何もできない」。そして、彼らは、人間嫌いのティモンに変じてしまったかのように見え、自分の同族を憎み、自分以外の全人類を平然と無視することによって自分のための慰めを得るかのように思われる。それは、慰めを得る道ではない。

 もしあなたがひどい仕打ちを受けたとしたら、――もしあなたが家族の中で爪弾きにされているとしたら、――もしあらゆる人があなたを食い物にしようとしているとしたら、――もしあなたが中傷されているとしたら、――もしあなたの女主人が苛酷な取り扱いをし、無情だとしたら、――もしあなたの主人が暴君的だとしたら、――もしあなたの同僚があなたを嘲りの種にするとしたら、私が示唆したようないずれの源泉からも慰めを引き出そうとしてはならない。おびただしい数の人々がそうしているが関係ない。むしろ、この質問に答えるがいい。「あなたは神の子を信じますか?」 もし信じているとしたら、あなたは救われているのであり、その事実を喜んで良い。信仰者よ。あなたはキリストと1つになっている。そのことを喜ぶがいい。そして、このことをも喜ぶがいい。すなわち、キリストがあなたの苦しみの中であなたとともにおられるように、あなたはキリストの栄光の中でキリストとともにいるようになるのである。今でさえ、主は、あなたの低い境遇の中であなたと交わりを有しておられる。それで、それを喜ぶがいい。あなたが今晩帰って行かなくてはならない家にいるのは、あなたのキリスト教信仰をからかう人々、あなたに何の同情もいだいていない人々、その一言一言が嘲りである人々、そして、そのあらゆる目つきが軽蔑である人々である。ならば、家に着いたときには、自分ひとりで静かに腰を下ろして云うがいい。「私の名前は天に書き記されているのだ。私は神の子を信じているのだから。そして、世は私を知らなくとも、私は世が主を知らなかった[ヨハ1:10]ことを思い出す。私は、自分の主が受けた巡り合わせにあずかることで十分だ。というのも、弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさらないからだ[マタ10:24]。イエスを信じている私は我慢し、忍耐し、かの栄光が現われるのを待っていよう。イエスは決して私を裏切らず、捨てることもないからだ」。

 もしあなたがたの中の誰かが大きな苦難の中にあるとしたら、私はあなたにこの事実を思い出させたい。イエスを信じる信仰はあらゆる思い煩いのための最上の治療薬であり、あらゆる傷のための最上の香膏である。イエスのもとに逃れ行くがいい。主の十字架の根本には、嘆く者たちのための最上の場所がある。私たちの他の悲しみはみな、イエスの悲しみが明らかにされている所で死に絶えてしまう。キリストを信じる信仰こそ、他の何にもましてあなたが必要とするものである。

 V. 最後の点はこうである。私たちの《救い主》が目を開かれた男に、「あなたは神の子を信じますか?」、とお尋ねになったとき、それは、《この男にその主を告白させる励まし》であった。

 イエスは彼にこう云っておられるように思われる。「その大いなる真理を隠してはならない。その尊い宝をあなたひとりのものにしていてはならない」。そして、即座にこの男は云った。「主よ。私は信じます」[ヨハ9:38]。それから次に、彼は自分が本気でそう云ったことを実際的に証明するため、ひれ伏して、主を礼拝した。愛する同胞のキリスト者たち。あなたがたの中のある人々は、キリストに回心したばかりかもしれない。だが、あなたはこの良き知らせをあなたひとりのものにしている。さあ、嘘ではない。もしそれがキリストを信じる純粋な信仰だとしたら、あなたはそれを隠しておくことができない。人は一積みの干し草に火を突っ込んで、誰かが消そうとするかもしれないから、光を放つなと命じることはできよう。しかし、火はその性質上、隠れていることができないのである。それで、じきにそれは赤々と輝くことになる。火と、咳と、愛は、隠しておけないと云われる。そして確かに、それは愛という愛の中でも最も聖い種類の愛、イエスを愛する愛について云えることである。確かにそれは、何としても立ち現われるに違いない。

 私の知っていたある人は、自分ひとりで天国に行こうと考え、自分がキリスト者であることを他の誰にも決して告げまいとした。だが、彼の住んでいた村では、ある祈祷会が開かれており、彼は一度それにもぐり込み、それがあまりにも気に入ったため、再び出かけて行き、静かな片隅に腰を下ろした。そこなら誰からも姿を見られないだろうと思ったのである。だが、その集会を導いてた兄弟が云った。「その隅にいる方、どうか祈っていただけませんか?」 彼はかぶりを振った。彼は貝の中に閉じこもった蝸牛のようであった。そして、そのように表立ったしかたで姿を現わすつもりはなかった。だが、外に出たとき、彼は自分に向かって云った。「私は、ほとんど主イエスを拒んでしまったのではなかろうか。しようと思えばできたときに祈るのを拒んだりして。しかしながら」、と彼は思った。「もしもう一度頼まれたら(そんなことがないことを願うが)、私はちょっとは祈るだろう。だが、それほど多くは祈るまい」。彼は別の時にも頼まれたが、やはり彼は非常に小心で、祈らなかった。それで、その式の後で、司会者は彼に云った。「愛する友よ。私はあなたがここにおいでになるのを嬉しく思いますが、あなたは私たちと祈ろうとなさいませんな。ここに来るのが好きではないのですか?」 彼は答えた。「おゝ、好きですとも。私はここに来るのを非常に嬉しく思っています」。「ならば」、と相手は云った。「あなたは主についてある程度は知っていると思いますが」。すると彼は、ほとんど自分が何をしているかも気づかないうちに、自分の秘密を洗いざらい打ち明けてしまっていた。そうしないではいられなかったのである。そして、結局、私たちが隠したいと思うことなど何があるだろうか? もし私が本当に私の《救い主》を愛しているとしたら、誰かが私に、「あなたもあの人の弟子なのですね」、と云う場合、私は喜んで答えるべきである。「そうですとも、そうですとも、そうですとも。そして、あの方が私を弟子として認めることをお恥じにならない以上、私があの方を私の《主人》として認めることを恥じることはできません。おゝ、私が決してあの方に恥をかかせることがなければどんなに良いことでしょう! そして、確かにあのお方を私の《救い主》として告白することは、決して私を恥じ入らせることにはなりません」、と。

 なぜあなたがたの中のある人々は、イエスを本当に信じているのに、イエスに対する自分の信仰を告白することを、それほど尻込みするのだろうか? 信じていないとしたら、信じているなどと告白してはならない。だが、本当にイエスを信じているとしたら、もう一度聞くが、なぜあなたは自分の信仰を告白することをそれほど尻込みするのだろうか? イエス・キリストはその弟子たちに云われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」[マコ16:15]。それから、彼らにいかなる福音を宣べ伝えるべきかを告げられた。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」[マコ16:16]。あなたはそこに2つの部分があることを見てとるであろう。「あゝ!」、とある人は云う。「あなたがた、バプテスト派はバプテスマのことで大騒ぎしますな」。私たちバプテスト派は、主イエス・キリストがそうされた以上にバプテスマのことを重視してはいない。だが、私が語っているのはバプテスト派についてではない。新約聖書に記録されている通りの、主イエス・キリストのことばについてなのである。主は云っておられる。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」。これは平明ではないだろうか? ある人は問うであろう。「私たちは、バプテスマを受けなくとも救われることができるではないでしょうか?」 私はそうした質問に答えようとは思わない。私の務めは、イエス・キリストが云っておられることに耳を傾けるよう命ずることにある。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」。キリストが云われることによくよく注意を払い、それに何の異議も唱えないようにするがいい。私としては、何の危険を冒すつもりもない。それゆえ、私はこの箇所全体をあるがままに受け取る。私の《主人》だけが、この使信の2つの部分の本末について知っておられる。だが、私は主の使信を、私がまさに受けた通りに伝える義務がある。かりに私があるしもべに使信を持たせて私の表玄関に送るとして、その送り先の人物が彼女にこう云ったとしよう。「あなたの主人は、このすべてを本気で云ってはいなかったのですよ」。彼女は当然ながらこう云うであろう。「私は、ご主人様が何を本気で云っておられたのかには関わりがございません。ただ、ご主人様が仰ったことをあなた様にお伝えしなくてはならないだけでございます」。そのように私は、私の《主人》が仰せになったことについて云うのである。そして、主が云われたのは、「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」、であった。また、主はこのようにも云われた。「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら(すなわち、ここでは、主を認めないのと同じことである)、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らない(すなわち、認めない)と言います」[マタ10:32-33]。ならば、来るがいい。あなたがた、身を隠している人たち。前に出て来て、告白するがいい。イエス・キリストはあなたのものである、と。

----

----

あなたのための質問[了]


HOME | TOP | 目次