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気絶寸前の勇士

NO. 3131

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1909年2月11日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「彼はひどく渇きを覚え、主に呼び求めて言った。『あなたは、しもべの手で、この大きな救いを与えられました。しかし、今、私はのどが渇いて死にそうで、無割礼の者どもの手に落ちようとしています』」。――士15:18


 あなたは、この言葉が語られた折のことを覚えているであろう。サムソンは、自らの同胞たちによって綱で縛られ、エタムの岩の裂け目から引き下ろされ、とりことして、ペリシテ人の手に引き渡された。しかし、彼がペリシテ人のもとに来るや否や、神の御霊の超自然的な力が彼に下り、彼はその綱を糸くずででもあるかのようにプツリと切った。そして、ほふられたばかりのろばのあご骨が手近に落ちているのを見つけるや、この奇妙な武器をつかむと、渾身の力を込めてペリシテ人の大軍に襲いかかった。そして、疑いもなく彼らが蜘蛛の子を散らすように逃げ去ったにもかかわらず、単身彼らを取りひしぎ、千人以上を打ち殺した。そして殺害された者らを山と積み上げては、自分の成し遂げた殺戮に対する残忍な満足感をこめて、こう叫んだ。「ろばのあご骨で、山と積み上げた。ろばのあご骨で、千人を打ち殺した」[士15:16]。ことによると、彼のふるまいには多少の自慢とうぬぼれがあったかもしれない。だが、一瞬のうちに、突如彼は気が遠くなった。彼はそれまで、この上もなく驚嘆すべきしかたで奮闘し、全神経、全筋力を振り絞っていた。だが今や、激しい喉の渇きのために、水の流れを求めて辺りを見回した。だが何も見当たらなかった。彼は、水がないため自分が死ぬ違いない、そしてペリシテ人が自分のことで喜ぶだろうと感じた。サムソンは、大きな子どものようでしかなかった彼一流の単純素朴な信仰によって、自分の天の御父に目を向け、こう叫んだ。「おゝ、エホバよ。あなたは、私にこの大きな救いを与えられました。だのに今、私は喉が渇いて死んで良いでしょうか? あなたが私のためにこれだけのことをしてくださった後で、私が水を飲めずに死んでしまい、無割礼の者どもが喜ぶことになって良いでしょうか?」 このような信頼を彼は有していた。神が彼のために介入してくださると信じていた。

 さて、私の意図するところは、神の聖徒たちを慰めることである。特に、彼らが自分の主の卓子に近づく際にそうすることである。あなたがたの中の多くの人々は、自分が不幸せで苦悩した心持ちのうちにあると感じていると思う。そこで私は、神がすでにあなたのためになしてくださったことに注目させることによって、あなたに、自分の現在の苦難を、まだ軽いものとみなさせ、こう論じられるようにするであろう。すでに過去、大きな救いを自分のために成し遂げてくださったお方は、将来、自分が欠乏することをお許しにならないであろう、と。

 I. 《私の兄弟姉妹。あなたはすでに大いなる救いを経験している》

 幸いなことにあなたは、一千もの人々を打ち殺すという残酷な務めを果たさなくてはならなかったことはない。だが、別の種類の山が「山と積み上げ」られており、それをあなたは、サムソンと同じくらい大きな満足をもって眺めることができるし、ことによると、打ち殺されたペリシテ人を眺めて彼が感じた気分よりも澄みきった気持ちでいられるかもしれない。

 愛する方々。そこにある、あなたのもろもろの罪という大きな山を見るがいい。そのすべては巨人であり、その1つでもあなたを地獄のどん底に引きずり込むのに十分であった。しかし、それらはみな打ち殺されている。あなたを非難できる罪は1つもない。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか」[ロマ8:33]。あなたのものならざる腕がそれを行なった。だが、その勝利は全く完全であった。キリストはボツラから深紅の衣を着てお戻りになった。神の御怒りの酒ぶねを踏んで来られた[イザ63:1、3]。そして、私はほとんどこう云えよう。主の衣服を汚している血はあなたのもろもろの罪の血である。主が永遠に全く滅ぼされたあなたの罪の血である、と。その数を見るがいい。あなたの人生のあらゆる年月を取り上げ、一年また一年と積み上げるがいい。良ければそれを区分けし、種別ごとに分けてみるがいい。十戒の項目ごとに並べてみるがいい。それは十個の巨大な堆積となる。だが、そのすべてが滅ぼされているのである。

 また、あなたのもろもろの疑いや恐れという山々を考えてみるがいい。あなたは、神が自分など決してあわれんでくださらないだろうと考えていた時のことを覚えていないだろうか? あなたに思い出させてほしい。あなたの魂が鉄の枷の中に入っていた、水もない深い地下牢のことを。私たちの中のある者らは、自分が罪の確信の下にあった時のことを決して忘れることができない。モーセは私たちを鉾槍に縛りつけ、律法の十叉の鞭を取ると、それを私たちの背中に滅茶苦茶に叩きつけ、それから私たちを塩水で洗うかのように思われた。私たちのもろもろの罪に伴う、それらをはなはだ極悪なものとする一切の事共を、良心が私たちに思い起こさせるときにそうであった。しかし、いかに私たちが自分は地獄にいるのではないかと恐れたにせよ、いかに、かの底知れぬ穴がその口を私たちの上で閉ざすに違いないと思ったにせよ、それでも、ここで私たちは生きており、今日しているように神をたたえており、私たちの恐れはことごとく消え去っているのである。私たちはキリスト・イエスを誇っている[ピリ3:3]。神は「私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない」[詩103:10]。恐れは「山と積み上げ」られている。私たちのもろもろの罪よりも大きな山である。だが、それらはそこに横たわっている。大勢の懐疑者たち。そこには彼らの骨々があり、頭蓋骨がある。バニヤンが、《人霊》の町の郊外にあると描き出したのと同じである。だが、それらはみな死んでいる。神が私たちを彼らから救い出してくださったからである。

 神が殺された別の一連の敵の中には、私たちのもろもろの誘惑がある。

 私たちの中のある者らは、この世のあらゆる方面、周囲のあらゆる点において誘惑されてきた。時として、それは高慢であった。別の時には、絶望であった。時には、この世を有しすぎることであり、他の時には、この世に欠けすぎることであった。時として、私たちはあまりにも強くなっては高ぶらされ、別のとき、あまりにも弱くなっては意気消沈した。時には信仰の欠けがあっただろうし、他のときには私たちの熱心さが肉によって燃やされていたであろう。最上の人々が悪魔の最悪の投げ矢を射られている。あなたはサタンに誘惑されてきた。この世に誘惑されてきた。あなたの最も近しく、最も愛しい友人たちが、ことによると、あなたの最悪の誘惑者だったかもしれない。「家族の者がその人の敵と」なるからである[マタ10:36]。薮という薮には敵が潜んでいた。カナンへ至る路のうち一吋たりとも、茨がはびこっていない部分はなかった。

 さて、あなたのもろもろの誘惑を振り返って見るがいい。それは今どこにあるだろうか? あなたの魂は、狩人のわなから逃れた鳥のように脱出し、今晩あなたはこう云うことができる。「彼らは蜂のように、私を取り囲んだ。しかり。蜂のように、私を取り囲んだ。だが、私は主の御名によって、彼らを断ち切った[詩118:12参照]。他の人々が滅びてきた所を安全に通ってきた。私は救いの城壁に沿って歩いてきた。その根元には、他の人々がその増上慢と自己信頼のため八つ裂きにされて横たわっているが関係ない。私のもろもろの誘惑は打ち殺されて、『山と積み上げ』られた。そして、おゝ、神よ。あなたは私のために大きな救いを成し遂げてくださいました!」

 次のこととして云わせてほしいが、あなたの悲しみのほとんどもそれと同じであった。あなたがた、患難の息子たち娘たちは、時として座り込んでこう云ってきた。「こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ」[創42:36]。あなたは子どもたちを喪ってきた。友人を亡くしてきた。職を失ってきた。富は溶け失せた。ほとんどあらゆる慰安が損なわれてしまった。ヨブへの使者たちのように、凶報が矢継ぎ早に舞い込んできた。そして、あなたは失意のどん底に陥った。しかし、キリスト・イエスにある愛する方々。あなたは救い出された。「正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される」[詩34:19]。あなたの場合もそれと同じであった。その悩みがいかなる形のものであれ、あわれみはそれに応じてふさわしい形を取ってきた。その矢が飛んできたとき、神があなたの《盾》であられた。その闇が集まったとき、神があなたの《太陽》であられた。あなたが戦わなくてはならなかったとき、神があなたの《剣》であられた。あなたが支えられる必要のあるとき、神があなたの《鞭》であり、あなたの《杖》であられた[詩23:4]。

   「かくまでわれら 堅固(かたき)を知れり、
    イェスの血をもて 批准(さだ)まる約束(ちかい)の。
    今も主、恵みて、賢く、正し、
    今も選民(みたみ)は 主にぞ頼れや」。

 私は、この会衆の中の誰ひとりをも、《いと高き方》に恩を着せるような立場につかせはしない。兄弟たち。私たちはみな負債のある者である。そして私は自分のことを、あらゆる負債者の中で最大の者とみなしている。私は、自分に誇るべきものが何もないことを誇る。私が願うのは、最低の者としてあること、最も卑しい立場につくことである。というのも、私は誰にもまして神の恵みに多くを負っているからである。自分の生まれを振り返るとき、また、主が私をどこへ導かれたかを見、私のために、また、私によって、何を行なわれたかを見るとき、私はこう云うしかない。「あなたは、しもべに、この大きな救いを与えられました」。

 そして、私が思うに、神の民全員がひとりひとりこの場で相会えるとしたら、めいめいが自分たちのあらゆる場合に独特のものがあると主張するであろう。めいめいが云うであろう。「神が私のために成し遂げられた救いには、私が特別に歌わなくてはならないものがあります」、と。それゆえ、「主がいつくしみ深い方であることを」すでに知っており、「味わっている」[Iペテ2:3]私たち全員は、揃って主への感謝と賛美をもって過去を振り返ろうではないか。

 II. 《だが、新たな苦難の数々があなたに襲いかかり、あなたを驚き慌てさせるであろう》

 こういうわけでサムソンは、ペリシテ人相手の戦いの後で喉の渇きを覚えた。これは彼にとって新しい種類の苦難であった。彼は喉が渇いたあまり、自分が死ぬのではないかと恐れた。この困難は、サムソンがそれまで出会ったことのあるいかなる困難とも全く異なっていた。あなたの力が存している、そのサムソン的な髪の房を一揺すりしてみるがいい。だが、それはあなたの口を湿らせる露の一滴もしたたらせはしない! 最強の者も、最弱の者と同じくらい渇きには弱いものである。そして、一千人のペリシテ人を打ち殺せるだろうその腕も、地上に泉を開いたり、天空からにわか雨を引き下ろしたり、渇きを癒す水一杯を生じさせることもできない。彼は新たな苦境にある。もちろん、それはこれまで彼が知ってきたものよりは、はるかに単純な試練とあなたには思われるし、それはその通りであった。ただの渇きを鎮めることは、一千人のペリシテ人から救い出されることほど大きなこととは比べものにならない。しかし、その渇きが彼の上に臨み、彼を圧迫したとき、おそらく、その小さな現在の困難は、彼にとって最も耐えがたく、苛酷なものと感じられたであろう。彼があれほど特別なしかたで救い出された過去の大きな困難にましてそう感じられたであろう。

 さて、愛する方々。あなたがたの中のある人々は、赦され、救われ、解放されてはいるが、それでも今晩、幸福には感じていないと思う。「主はあなたのために大いなることをなされ、あなたは喜んだ」*[詩126:3]。だが、あなたは喜べない。あなたの感謝の歌はもみ消されている。自分の会衆席に着席する際のちょっとした不具合や、門の外で誰かに云われた苛立たしげな言葉や、家にいる子どもについての考えなどといった、神があなたのために成し遂げてくださったこと一切に比べれば非常にちっぽけで、取るに足らない何かが、時として現在の喜びを取り去り、すでに受けている大きな――言葉に尽くすことのできないほど大きな――恩恵による慰めを取り去ってしまうのである。あなたは自分がキリストのうちにあることを確信しているかもしれない。だがしかし、何か小さな悩み事があなたの耳元でブンブンいっているため、今もあなたの気を散らしているかもしれない。そのあなたに、二言か三言云わせてほしい。

 神の民が何か大きな救いを受けたとき、耐えがたいような小さな苦難を受けることは、ごく頻繁にあることである。サムソンは一千人のペリシテ人を打ち殺し、彼らを山と積み上げる。それから彼は、ちょっとした水がないために死ななくてはならなくなる! ヤコブを見るがいい。彼はペヌエルで神と格闘し、全能者ご自身をも打ち負かす。だがしかし、その腿のためにびっこを引いている![創32:31] これは奇妙なことではないだろうか? あなたや私が勝利を得るときには必ず腰の筋肉が打たれるのである。それは、あたかも神が私たちに、私たちの小ささ、私たちの無価値さを教えて、私たちの分際を守らせなくてはならないかのようである。サムソンは、こう云ったとき、得意がって、意気揚々としていたように思われる。「ろばのあご骨で、山と積み上げた。ろばのあご骨で、千人を打ち殺した」。あゝ、サムソンよ。あなたの喉がしゃがれてしまうのは、あなたがそれほど声高に自慢できる時なのである! この強者はその膝をついて、こう叫ばなくてはならない。「おゝ、神よ。この渇きはあなたの勇士を打ち負かしてしまいました。どうかお願いです。一口の水をお送りください」。神は独特のしかたでご自分の民に触れ、彼らの精力がたちまち消滅するようにされる。「私が栄えたときに、私はこう言った。『私は決してゆるがされない。』……あなたが御顔を隠され、私はおじ惑っていました」[詩30:6-7]。さて、愛する神の子どもよ。もしあなたがそのような状態にあるとしたら、私は云うが、それは珍しいことではない。何か強く興奮させられることがあるとき、普通は反動がある。疑いもなく、ペリシテ人を打ち殺したという興奮の後には、自然と、サムソンの内側で精神の抑鬱が続いた。ダビデがユダの王位に就いたとき、1つの反動がやって来て、彼はこう云った。「この私は油そそがれた王であるが、今はまだ力が足りない」[IIサム3:39]。あなたも、最大の勝利を享受するまさにそのときに、最も力弱く感じることを予期しなくてはならない。

 すでに云ってしまったが、こうしたすべての効用は、人に自分の弱さを感じさせることにある。私は、それによってあなたが自分の弱さを感じさせられてほしいと願う。私たちは何という馬鹿者であろう。兄弟たち。だがしかし、誰か他の人から馬鹿と云われることを私たちは好まない。誰からそう呼ばれようと、私たちはそう名指されて当然であると確信しているが関係ない。というのも、天国のすべてをもってしても、頭痛がしているとき、私たちは喜べないからである。そして、御使いたちの立琴すべてや、私たちが「やがて現われる栄光」[Iペテ5:1]にあずかっているという知識をもってしても、何か小さな事でも自分の意に添わないと、私たちは幸せになれないのである。ここに来る途中に、誰かがあなたの高慢な鼻柱を踏みつけにしたとする。すると、たとい御使いがあなたに説教しても、あなたはそれを楽しめないであろう。胸が煮えくり返っているからである。おゝ、私たちは何たる愚者であろう! 食卓には珍味佳肴が並び、天のマナが私たちの手近にあるというのに、服にちょっとしたほころびがあるからといって、あるいは、指に小さなとげが刺さっているからといって、私たちは座り込んでは最悪の不幸が降りかかりでもしたかのように泣き叫ぶのである。天国があなたのものだというのに、あなたは泣き叫んでいる。なぜなら、あなたの小さな部屋にほとんど家具がないからである。神はあなたの《父》であり、キリストはあなたの《兄》であられる。だがしかし、あなたはさめざめと泣いている。なぜなら、赤ん坊があなたのもとから天空へ連れ去られたからである! あなたの罪はことごとく赦されているが、あなたは嘆いている。あなたの衣服がみすぼらしいからである。あなたは神の子どもであり、天国の相続人である。だがしかし、あなたは心が張り裂けでもしたかのように悲しんでいる。なぜなら、どこかの馬鹿者があなたの悪口を云ったからである! これは奇妙なことであり、馬鹿らしいことである。だが、これが人間というものである。人は奇妙にも馬鹿げた者であって、賢くなるには神によってそうされるしかない。

 III. 私の兄弟たち。もしあなたが今、現在の何らかの苦難によっていたく圧迫されていると感じ、自分の救いを喜べる力を全く奪い去られているとしたら、ぜひ思い出してほしいと思う。あなたは、《なおも安全である》。神が、この現在の小さな苦難からあなたを抜け出させてくださることは、過去の大きな苦難の数々からあなたを抜け出させてくださったのと同じくらい確実である。

 神がそうしてくださる理由は2つあるが、双方ともこの聖句の中に見いだされる。最初は、もし神があなたを救い出されないとしたら、あなたの敵があなたについて喜ぶだろうからである。「何と」、とサムソンは云った。「私が喉の渇きのために死に、無割礼の者どもの手に落ちて良いだろうか? 気絶し、倦み疲れ、喉の渇いたまま、奴らのえじきになって良いだろうか?――かつては奴らの恐怖の的であった私、ガテやアシュケロンの娘たちを踊らせる代わりに泣かせてきた私が、この私が打ち殺されて良いだろうか?」 そして、あなたは何と云うだろうか? しかし、あなたの不吉な予感は黙らせるがいい。もしあなたが滅びるとしたら、キリストの栄誉が汚され、地獄の哄笑がかき立てられるであろう。イェスの血によって買い取られたのに、地獄にいる者、――かの底知れぬ所は何というお祭り騒ぎになることか! キリストの義によって義と認められたのに、失われた者、――悪鬼どもにとって何たる嘲りの的であろう! 神の御霊によって聖められたのに、罪に定められた者、――おゝ! 何という凱歌がアポルオンとその手下どもの住みかから上がることか! 何と、神の子どものひとりが、その御父から捨てられる? イエスの王冠から宝石が一個引き抜かれる? イエスのからだから一器官が引き裂かれる? そのようなことは決して、決して、決してない! 神は決して闇の力が光の力に打ち勝つことをお許しにならない。神は、その偉大な御名が常に敬意を払われるようにされる。そして、いかに卑しい信仰者が滅びようと、それは神にとって不名誉となり、軽蔑の種となるであろう。それゆえ、あなたは安全なのである。おゝ! あなたが隠れ場を求めて神の陰に駆け込めるとき、それは非常に幸いなことである。町通りの少年のひとりが、仲間を怒らせて一発くらわされそうになる。だが、そこに彼の父親がやって来ると、彼は父親の陰に隠れて、もう自分には何も恐れることはないと感じる。そのように、私たちも私たちの神の陰に身を隠そうではないか。青銅の城壁よりも、城塞よりも、高い塔よりもまさるお方が、私たちにとってのエホバであられる。そして、そのとき私たちは自分の敵どもすべてを眺めて、主がセナケリブに云われたように云えるのである。「処女であるシオンの娘はあなたをさげすみ、あなたをあざける。エルサレムの娘はあなたのうしろで、頭を振る」[II列19:21]。無割礼の者どもが喜ぶことはない。ペリシテの娘たちは勝ち誇らない。私たちは、私たちの神のものであり、神はご自分のものを、その掌中の珠として明らかに示す日までお守りになる。

 それが自信を持つべき最初の理由である。だが、もう1つの理由は、次の事実のうちに見いだされる。神はすでにあなたを救い出してくださった。私は先ほどあなたに、あなたの人生の戦場を歩き回るように頼んだ。そして、打ち殺されたもろもろの罪、また、恐れ、不安、誘惑、そして苦難といった数々の山を眺めるように頼んだ。あなたは、神が、あなたのために行なわれたこうしたすべてのことを、やがてあなたを見放すつもりだったとしたら、行なったと思うだろうか? これまで、これほど恵み深くあなたを救い出してきた神は、今も変わっておられない。神は今もなお、これまでと同じであられる。私は太陽が明日の朝も昇ることについて何の疑いも持っていない。太陽は私が彼を見られるようになってからこのかた、常にそうしてきた。なぜ私は私の神を疑うべきだろうか? 神は太陽よりもずっと確かなお方である。ナイルはエジプトを豊穣さで笑わせるのをやめることなく、人々はナイルに信頼している。では、なぜ私は私の神に信頼すべきでないのだろうか? 神は水量豊かで、いつくしみ深さで満ち満ちておられる。もし私たちが、そうする原因が出てくるまで神を決して疑わないようにするとしたら、不信は私たちの心から永遠に追放されるであろう。私たちは、人々についてなら、相手がそう示す通りの姿に従ってものを語る。神についても同じようにしようではないか。これまで神はあなたにとって荒野だっただろうか? いつ神はあなたを捨てただろうか? いつ神に対するあなたの叫び声が梨の礫となっただろうか? これまで神がこう仰せになったことがあるだろうか? 「わたしはあなたをわたしの書から抹消した。もうあなたのことは思い出さない」、と。あなたは神を疑ったことがある。よこしまにも、気ままにも、そうしたことがある。だが、疑念や疑惑を正当なものとする理由をあなたは決して有したことがない。さて、神が「きのうもきょうも、いつまでも、同じ」[ヘブ13:8]であられる以上、あなたを獅子の顎から、また熊の爪から救い出してくださった[Iサム17:37]神は、これからもあなたを、あなたの現在の困難から救い出してくださるであろう。

 思い出すがいい。愛する方々。もし神がそうしなければ、神はあなたのために行なった一切のことを失われるのである。陶芸家がある器を作っているのを見るとき、もし彼が、何らかの繊細な粘土を用いているとして、また、その下ごしらえのために途方もなく多くの労働を費やし、それをしかるべき精妙なものにしようとしてきたとしたら、また、もし彼がその器を何度も何度も何度も形作ろうとしているのを見るとしたら、――さらに、もしその形が次第に浮かび上がり出しているのを見るとしたら、――もし彼がすでにそれを竈の中に入れたこと、また、その色がくっきりと現われ始めていることを知っているとしたら、――かりにそれが何の変哲もない彩色陶器であれば、そこに大した価値がない以上、彼が自分の作品を叩き割ろうと私には理解できるが、それが何箇月もの労働を費やした、見事で稀少な陶磁器である以上、彼が、「もうこれを作るのはやめた」、などと云うのを私は理解できないであろう。なぜなら、彼はすでに費やしてきた多くのものを失うことになるだろうからである。ベルナール・ド・パリシーの鮮やかな陶器のいくつかを見るがいい。それには同じ重さの黄金だけの値打ちがある。そのときあなたは、ベルナールがほとんど完成した所で手を止め、こう云うことなどまず想像もできまい。「私はこれに六箇月かかりきりだったが、決してこれを完成させるための苦労はしないことにしよう」。

 さて、神はご自分の愛する御子の血を費やしてあなたを救おうとしておられる。聖霊の力を費やしても、あなたをみこころの通りの者にしようとしておられる。ならば神は、そのみわざがなされるまで決してご自分の力強い御手をお止めにならないはずである。神が口にして行なわれないことがあるだろうか? 神が始めて、完成なさらないことがあるだろうか? 神は決して物事を中途半端にはされない。エホバの御旗が畳まれ、その剣が鞘に収められるときには、こう声を上げられるはずである。――

   「事、なれり、
    そは世の国々
    我子(わこ)の国々なれば」。

その日、神が栄光のために用意されたあらゆる器は、それに完璧に応ずるものとさせられた栄光となるはずである。ならば、あなたの現在の苦難ゆえに絶望してはならない。

 疑いもなくあなたがたの中のある人々は、こう云っているであろう。先生がそのようなことを語っているのは、私の独特の苦悩がいかなるものかを、また、その苦々しさを知らないからです、と。愛する方々。私はそれを知りたいとは思わない。私にとっては、このことだけ分かっていれば十分である。すなわち、もし神がそのしもべたちのために、これまでなされたほど偉大な救いを成し遂げておられるとしたら、現在の困難は、単にサムソンの喉の渇きのようなものにすぎず、確かに神はあなたを気絶させて死なせるようなことも、無割礼の者どもの娘にあなたのことで勝ち誇らせることもなさらないであろう。「あゝ!」、とある人は云うであろう。「それは口先では非常に結構なことですが、私の場合は非常に、非常に、非常に独特なのです」。よろしい。ならば、愛する兄弟。そこには、神があなたを救う特別な理由があるのである。なぜなら、もしサタンがあなたをその独特の場合に打ち負かすことができたとしたら、そのときサタンはこう云うだろうからである。俺様はあらゆる聖徒を同じ立場に押し込めることができさえしたなら、彼らに打ち勝つことができただろう、と。そして、彼は全員が滅びでもしたかのように声高に自慢するであろう。しかし、私はあなたの場合がそれほど独特だとは思わない。それはあなたにはそう見えるというだけのことである。悲しみへの路は良く踏み固められている。それは天国への通常の羊道であり、神の群れはみなそれに沿って行かなくてはならない。それで私は願う。サムソンの言葉によってあなたの心を元気づけ、神があなたをじき救ってくださると確信するがいい。

 そして今、私がこのように語っている間に、こうした思いがもう一度私の脳裡に浮かんだ。私の話に耳を傾けている人々の多くはキリスト者ではないはずだ、と。愛する方々。私が不思議でならないのは、あなたがたの中のある人々がどうして神なしにやって行けるのかということである。私は、富者がいかにして神なしに少しでも慰めを得られるのかほとんど理解できない。というのも、その人は貧者と同じように死別や肉体的な苦痛を忍ばなくてはならないからである。あの流行を追う愚かな蝶々たち、時間のすべてを花から花へと飛び回ることに費やしている者たちは、あまりにも心なく、思慮がないため、私も、ある程度までは彼らが神なしでやって行けることを了解できる。空っぽの頭と愚かな心をしている男女たちなら、何でも神々にできるであろう。彼ら自身の綺麗なからだが、全く十分に彼らの偶像礼拝的な崇拝の対象となりえるであろう。しかし、真っ直ぐに立っている、分別と思慮のある人、――こう云って良ければ労働している人、――その人が、その頭脳の乾いた熱で働いているか、その顔のじっとりとした汗で働いているかはどうでも良いが、――そのような人がいかにして、思索する器官と、理性的な魂を有していながら、神なしでやって行けるのか私には理解できない。あなたがたの中のある人々は、神を必要とするような窮地に陥ることがあるに違いない。私は、もし私の神がおられなかったとしたら、何度となく精神病院入りしていたはずである。私の足が完全に絶望の部屋に踏み入ることがなく、私がこの命を絶たずにいられたのは、ただご自分の民を守り、保ってくださる神の忠実な約束の数々があったからにほかならない。私の人生はみじめではあったが、幸いなものであった。だがしかし、私は云うが、そこには、私の神がおられなければ到底やって行けなかっただろうような時が無数にあった。それで私は理解できないのである。あなたがたの中のある人々が、これほど常に危地にありながら、いかにして神なしにやって行けるのかが。この場にはそうした人々が大勢いる。あなたは貧しい。病がちでない時はほとんどない。あなたの人生を悲惨なものとする数々の病気を生まれながらに受け継いでいる。あなたの子どもたちは、あなたの回りで病弱にしている。土曜日の夜になって家計の帳尻を合わせるので精一杯である。あなたはしばしば借金を負う。絶えず困難をかかえている。おゝ! 私は、どうやってあなたが神なしにやって行けるのか分からない。何と、あなたは地上に何も有しておらず、死後の希望は何もない! あわれな魂たち。私はあなたが神なしにいることを思うとき、あなたのために泣ける!

 そして、あなたはすぐに死ななくてはならない。死の渇きがあなたの喉の中にあるとき、あなたは神なしにどうしようと考えているのだろうか? 神の御前で死ぬことは、単に人生を越えたものへと開花することにほかならない。だが、神なしに死ぬことは、ぞっとするほど恐ろしいことに違いない! そのときには、あなたは自分の愉快な仲間たちを欲さないであろう。そのときには、強い酒もあなたを和らげないであろう。そのときには、音楽にあなたは何の魅力も感じないであろう。そのときには、優しくしとやかな細君の愛も、悲しい慰めしか生み出さないであろう。あなたの金入れをあなたの傍らに置いても、そのときには、それがあなたの動悸する心臓を静めることはないであろう。あなたは、永遠という大海の波涛の轟きを聞くであろう。自分の足が恐ろしい流砂に滑り落ちつつあるのを感じるであろう。助けを求めて回りにしがみつこうとするが、そこには何もないであろう! その代わりに、見えない手という手があなたを下へ下へと引きずり込むであろう。その暗い海を通って、あなたはさらに暗い深みへと落ちて行き、そこでは、すさまじい絶望があなたの永遠の相続財産となるであろう!

 しかし、まだ希望はある。主イエス・キリストを信ずる者は誰でも救われるのである。あなたの目をキリストに向けるがいい。あわれな罪人よ。そこで主は人間に代わって苦しんでおり、人間の咎をわが身に負い、それがあたかもご自身のものででもあるかのように罰を受けておられる。イエスに信頼するがいい。罪人よ。そうすれば、イエスのうちに安らうとき、あなたは救われる!

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気絶寸前の勇士[了]


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