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王の刈り取り

NO. 3129

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1909年1月28日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1872年初頭


「王が刈り取った」。――アモ7:1


 ある種の土地は特別のしかたで王に属していたため、王が常に最初に草の刈り取りをし、その後のことはみな、その土地で働く者たちにまかせるのが常であった。さて、私たちの大いなる《王》も、その刈り取りを行なわれる。その《教会》こそは、この王が囲って祝福しておられる畑である。そして定めの季節に、《王》は草を刈られる。最近私は、これまでの生涯において思い出せる限り、かつてないほど、このことを思い起こさせられている。すなわち、《王》は、私を監督として立てた[使20:28]教会の内部と周囲でその草刈りをしておられる、と。この者は、このところ幾多の臨終の床のかたわらで何時間も過ごし、遺族を慰めようと努めてきた。私たちの損失は、――もしもそれを、あえて「損失」と呼んで良ければだが、――この年頭における、教会としての損失は、――きわめて重いものであった。《王》は私たちの間で刈り取りをしており、ここでひとり、あそこでひとりと切り倒してこられた。諸教会がその創設時に、ごく多くの若い教会員たちをかかえているとき、初めのうちはさほど多くの死を見ないのが普通であろう。だが、私たちがみなそろって年を取っていくにつれて、相当の割合の人々がこの世から天上の国へと移動せざるをえない。私は、その主題について少しばかり語るつもりでいるが、三重のしかたでそうしたいと思う。――第一に、慰藉としてである。それから、訓戒としてである。そして、期待としてである。

 I. 第一に、《慰藉》として。愛する兄弟姉妹が私たちのもとから取り去られるのは悲しいことである。悲しみを覚えないとしたら、それは、人としてよりすぐれた者となるのではなく、より人でなしに近づくことであろう。イエスは涙を流された[ヨハ11:35]。そして、そうすることで、私たちの涙を敬われるべきものとされた。世を去った人について、私たちが悲しみの涙をこぼすのは悪いことではない。女々しいことではない。ましてや罪深いことではない。だが、いくつかの神聖な慰藉という手巾で、そうした涙を拭い去る助けとしよう。

 最初に、「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のよう」[Iペテ1:24]である以上、あなたは《王》が草刈りをしておられることを嘆き悲しむだろうか? ならば、こう思って、たしなめられるがいい。《王》ご自身が、それをなさったのである! 抽象的な死などというものはない。鎖から解き放された一個の怪物が、思いのままに聖徒たちをむさぼり食らっているのではない。それが「人々(ひと)の血啜(すす)り 骨、鉄牙(きば)で砕(か)」んでいるのではない。それは詩人の大嘘である。いかなる滅びの御使いも、神のイスラエルを殺すために遣わされはしない。滅びの御使いがいることは確かである。だが、彼は血の印を帯びた者たちの近くにはやって来ない。病気や事故が神の子どもたちを殺すのは、その力によってではなく、それが天来の御手が用いる手段であるからにほかならない。ある聖徒が死ぬのは神業以外の何物でもない。それは常に《王》ご自身のみこころによるものである。《王》ご自身の行ないである。王の畑で熟したあらゆる穂は、王自身の手で集められ、王自身の黄金の鎌で切り倒される。他の何者のわざでもない。恵みの花が満開になるとき、それはみな王によって取り去られる。葉枯れ病に打たれることも、大嵐で切り倒されることも、悪い獣に食い殺されることもない。

   「定命(しす)べき人の 息(いき)引取(ひ)くは
    神が一打ち 命ずなり。
    いかに気ままに 見ゆるとも
    主こそ死の使者 送るなり。

    その鍵にぎる 天(あま)つ御手
    その御手、最初(さき)に 召還状(ふだ)署名(しる)し、
    死をば武装(よろ)わせ、羽根付けん、
    われらが心に 使信(たより)す矢に」。

いかなる場合も、主がそうされたのである。そして、それを知っている私たちは、不平を云おうと考えることさえしてはならない。《王》がなさることを、そのしもべたちは喜びとする。主という《王》は、そのみこころにかなう何をなさろうとも、私たちがなおもほめたたえるような《王》だからである。私たちは、このように云った人物と心を同じくしている。「神が私を殺しても、私は神を待ち望む」*[ヨブ13:15]。

 さらに、このように刈り取られ、取り去られた者たちは、この《王》と一緒にいるのである。彼らは《王》が刈り取った者たちであり、王の倉庫に集められている。彼らは煉獄にいるのではない。三途の河原にいるのではない。ましてや地獄になどいない。星々の真中の陰鬱な小道をさまよいながら、宿り場を探しているのでもない。イエスはこう祈られた。「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです」[ヨハ17:24]。そして、この祈りは聖徒たちの住まいを確定している。天国が何らかの場所なのか、また、それがどこにあるのか、それとも、それが単なる状態なのかといった問題については、今は全く立ち入るつもりはない。イエスがおられる所にその民がいるというだけで私たちには十分である。――人によって下座に着いていたり、下の間にいたり、外側に座っていたりするのではなく、全員がのおられる所にいるのである。それは確かに私を満足させるであろう。そして、もし栄光に何か程度の違いがあるとしたら、程度の高いものを欲する者はそれを得られるであろう。私が聖書から分かる最低の程度は、彼らを「わたしのいる所にわたしといっしょにおらせ……わたしの栄光を、彼らが見る」ということである。そして、その最低の程度は、私の最も生彩に富む想像の限界と云うべき高さにある。ここには私たちの魂をその極みまで満たすものがある。さて今あなたは、キリストのおられる所でキリストと一緒にいる人々のために悲しむだろうか? あなたの愛する人々が、これほど至福に富む場へと高められていることを知るとき、あなたは自分の涙をほとんど非難するではないだろうか? 何と、母親よ。あなたはかつて、わが子のためにイエスのおられる所より高い地位を願ったことが一度でもあるだろうか? 夫よ。あなたが妻に対していだく愛にかけて、あなたは彼女がいま入っている栄光を彼女に与え渋ることはできないであろう。妻よ。あなたから取り去られた男性に対するあなたの心からの献身的な愛情によって、あなたは、いま自らの主とともにあって勝ち誇っている彼の魂を包んでいる喜びから、一瞬でも彼を引き留めたいとは願えないはずであろう。もし彼がどこか未知の国に行ったのだとしたら、また、もしあなたが生命の瀬戸際にあって、すさまじく神秘的な大海の轟く怒濤が聞こえるとしたら、また、こう云うとしたらどうであろう。「私の愛する人は行ってしまった。どこへか分からない。向こうの大嵐の海上に浮かぶ漂流物か藻屑のようにただよっているのだ」。おゝ、そのときには、あなたも自分の涙をその大海の海水に混ぜ合わせて良いかもしれない。しかし、あなたは彼らがどこにいるか知っているのである。どなたと一緒にいるか知っているのである。ならば、あなたは、この地上におけるキリストの臨在について感ずる喜びによって、ある程度まで思い描けるであろう。天上における彼らの至福がいかなるものに違いないかを。

   「甘き調べの ひびきぞ聞こゆ、
    天民(みたみ)の立琴(ことね)、汝が音楽(うた)を!
    その旋律(ね)に鳴りぬ、天(あま)つ大円蓋(やね)、
    嬉しく聖徒(たみ)を 帰(かえ)せよ家へ」。

 これは甘やかな黙想でもある。確かに私たちの愛する友は、花々のように鎌で切り落とされたが、それでも、彼らの運命は私たちよりもまさっている。私たちが今日立っていて、花開いているとしても関係ない。生命は死よりもましに見える。生きている犬は死んだ獅子にまさる[伝9:4]。だが、永遠の状態を考え合わせてみるがいい。至福の状態が私たちのそれよりも劣っているなどと、誰があえて云うだろうか? いかなる人も、それこそ無限にまさっていると主張するではないだろうか? 私たちは今なお苦しんでいるが、彼らはもはや苦痛に疼くことはない。私たちは地上で弱く、よろめいている。だが、彼らは朝露のような若さ[詩110:3]を取り戻している。私たちは欠乏がいかなることかを知っており、労苦の汗を額から拭う。だが、彼らは満ち足りた中で永遠に憩っている。最悪なことに、私たちは今なお罪を犯し、疑いや恐れと激しく格闘しなくてはならない。サタンは今なお私たちを襲い、この世は私たちの回りにあり、種々の腐敗は私たちの内側で糜爛している。しかし、彼らは、苦難のさざ波1つによってさえ、その霊の静謐さを乱されない所にいる。地獄の犬どもの吠え声からも、地獄の矢筒の矢からも越えた所にいる。できるものなら自分たちの投げ矢を天国に打ち込みたがる射手はうようよいるが関係ない。そこに取り入れられた者たちは、無上に祝福されている。彼らは、喜びにおいても、知識においても、聖潔においても、私たちの境地をはるかに越えている。それゆえ、もし私たちが彼らを愛しているとしたら、いかにして彼らがより悪しき所からより良い所へ、また、より低い所からより高い所へ行ったことを嘆き悲しめるだろうか?

 そしてさらに、兄弟たち。確かにあなたがたの中のある人々は、神が一打ちで愛する者を取り去られたゆえに非常に痛切に悲しんでいるが、思い出すがいい。彼らについては、これよりも悪い悲しみをいだくことがありえたのだということを。あゝ、成人して道楽者になった息子について嘆いている母親の方が、乳児のわが子が墓場に連れて行かれるのを見る母親よりも一千倍も悲痛な傷心を味わうのである。自分の息子たち、あるいは、娘たちによって自分の名が汚されることになると知っている父親は、彼らがとうの昔に沈黙の墓場に横たえられるのを見れば良かったと思って当然であろう。また私は、かつて知っていた教会内のある人々について、やがて彼らのうちに見ることになったものを見るくらいなら、一千回も彼らを埋葬していた方がましであった。何年もの間、彼らは栄誉ある信仰告白者として過ごしていたが、生き長らえるうちに教会の栄誉を汚し、自分たちの主を冒涜し、滅びへ立ち戻っては、事の根幹が一度も自らの中になかったことを明らかにしたのである。おゝ、あなたがたは、天国にいる者たちのためには泣く必要がない。彼らのために泣いてはならない。嘆き悲しんでもならない。むしろ、霊的に死んでいる者たちのために泣くがいい。背教した者や、信仰後退者のために泣くがいい。にせ信仰告白者や、偽善者や、「さまよう星」のために泣くがいい。「まっ暗なやみが、彼らのために永遠に用意されて」[ユダ13]いるのである。もしも涙を流すなら、行ってそこで涙を流すがいい。だが、この戦いを戦い抜いて勝利を得た人々のため、また、この流れをせき止めて、無事に向こう岸に上がった人々のためには、全く涙しないようにしよう。否、この喪服を片づけて、喨々たる喇叭を取り出して、歓喜をこめて勝利の調べを吹き鳴らすがいい。彼らにとって、これは歓喜の記念日なのである。なぜ私たちにとって悲しみの時であるべきだろうか? 彼らは冠を戴き、棕櫚の枝を手に握っている。なにゆえ私たちは葬儀の喪章を着用しているのか? そこには、悲しむべきことよりも、喜ぶべきことの方が無限に多いのである。それゆえ、私たちの心を喜ばせようではないか。主は彼らに、「よくやった」[マタ25:21]、と云い、ご自分の恵みに従って彼らに報いをお与えになっているのである。そしてこのことは、彼らがよろけたり、老いぼれたりするほど長生きするより無限にまさったことである。

 「しかし、それは貧弱な慰めです」、とあなたは云うであろう。それゆえ、この聖句にもう一度目を向け、こう云わせてほしい。王が刈り取った、と。私たちは悲しみに沈んでいるかもしれないが、これは私たちが感じなくてはならない最悪の悲しみではない。だが、いずれにせよ私たちは、《王》が誰かを自分たちのもとから取り去ったからといって恨みに思ってはならない。私たちが有する友人たちはみな、私たちに貸し与えられているのである。古いことわざに云う。「借りたものなら笑って返せ」、と。すなわち、私たちは貸付金を返すことを決して渋るべきではなく、朗らかにそれを貸し主に返すべきなのである。私たちの愛する人々は、私たちに貸し与えられていたのであり、彼らは私たちにとって何たる祝福であったことか! 私たちの家のともしび、私たちの日の喜びであった! そこへ《主人》が云われる。「彼らを返してもらいたい」。では、私たちは彼らにしがみつき、「いいえ、《主人》よ。彼らをあなたに渡したりするものですか」、と云うだろうか? おゝ、そうであってはならない。私たちの愛する者たちは、キリストのものである半分ほども私たちのものではなかった。私たちが彼らを造ったのではなく、キリストが彼らを造られたのである。私たちは決して彼らを自分の血で買い取りはしなかったが、キリストはそうされたのである。私たちは一度も彼らのために血の汗を流しはしなかったし、彼らのため手足を刺し貫かれたこともなかったが、キリストはそうされたのである。彼らは私たちに貸し与えられていたが、彼らはキリストに属していた。あなたの祈りは、「父よ。彼らを私がいる所で私と一緒にいさせてください」、であったが、キリストの祈りはこうであった。「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください」[ヨハ17:24]。あなたの祈りはある一方に引っ張り、キリストの祈りは別の一方に引っ張った。キリストが勝訴したのをねたんではならない。もし私が主の《大法官裁判所》に出ることが一度でもあるとして、キリストが別の側にいるのを見いだすとしたら、私の主よ。私は抗弁いたしません。みこころの通りに行なってください。私とあなたは、また、あなたと私は1つだからです。そして、もしあなたが、私の愛する者すべてをあなたと一緒にいさせたいと訴えなさるとしたら、そうしてください。というのも、私もまた、じきにあなたと一緒にいることになるからです。それで、私はあなたの願いに異議を唱えません。《王》はこの教会を私たちにとって1つの牧草地のようにしておられた。そしてこう云っておられる。「わたしは、やがて刈り取りをしなくてはならない」、と。よろしい。王は私たちにふんだんに水を与えてこられ、主が祝福された野の香り[創27:27]を与えてこられた。それで、王がやって来て、その小作料をお取りになるとき、私たちは門の前に立って王を拒んではならない。むしろ、こう云って良い。「《いとも良き主人》よ。来て、お望みのものをお取りください。あなたの免役地代をお取りください。この畑はみなあなたの所有物なのですから。あなたはこれを高い代償を払って手にお入れになりました。そして、まことに勤勉にこれを耕されました。お望みのものをお取りになってください。これはあなたのものですから」、と。

 そして、私たちの慰めを増し加えるために、こう云い足させてほしい。《王》は正しい時にその刈り取りを行なわれた。王が私たちから取り去られた者たちについて、私たちはみな、こう告白するに違いないと思う。主は彼らを、取り去ってしかるべきときに取り去られた、と。ある場合には、年老いた姉妹である。彼女は、もう少しでも長らえたとしたら、弱さと苦痛の犠牲になっていたことであろう。彼女が眠りについたのは良いことであった。別の場合には、ある愛する若い友が、かの恐ろしい病気、肺病によってやせ衰えていた。彼女の喉はほとんど食物を受けつけなかった。彼女を最も愛していた人々は、彼女がとうとう眠りについたとき、安堵したに違いないと思う。二人の兄弟が私の心の目に浮かぶ。ひとりは一生の間葛藤し、しばしばさまよい出しては、これまでにないほど下落していった。というのも、彼は海に出る備えのない船のようで、一波ごとに呑み込まれる恐れがあったからである。彼があれほど長く生き延び、最後まで主に仕えたことは驚きである。そして、すべてが終わったとき、それは良いことであった。もうひとりの兄弟は、ひどい苦しみを伴う病気に取りつかれていて、非常に衰え果てていたが、恵みに満ち満ちた人生を送った。彼には、死の際の証言が何も必要なかった。かつては私たちとともに《学校》にいた、愛する兄弟たちもまた、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通した[IIテモ4:7]上で、眠りについた。

 こうも云い足せるであろう。《王》は、正しい時にその刈り取りを行なっただけでなく、いま私の念頭に浮かぶあらゆる場合において、最も寛大なしかたで彼らを取られた。王は、優しく彼らを取られた。ある者たちは、最後にはそのために激しい戦いを経たが、そうした場合、そこには数々の苦痛と死の相克があったものの、結局において彼らの魂は、彼らの名前をもって彼らを名づけた《お方》の愛しい唇による口づけによって取り去られた。彼らは眠りについた。その中のある者たちなど、あまりにも安らかに眠りについたため、見守っていた人々がそれが生きてある眠りか、それより深い永遠の眠りか、ほとんど分からないほどであった。彼らは過ぎ去った。たちまち彼らの主、彼らの神のもとに行った。こうした事がらすべてを合わせ、この《王》がしてこられたこと、また、この王が彼らを取り去ったのは王ご自身と一緒にいさせるためであったこと、また、彼らの現在の境遇が、月の下の何物よりも無限にまさっていることを思い巡らし、さらにまた、私たちが決して《王》があれほど高い代償を払って手にお入れになった財産を与え渋ってはならないこと、また、王がその刈り取りを正しい時に行ない、彼らを最も幸いなしかたで取られたことをも考察するとき、私たちはもはや不平をこぼすことなく、主をほめたたえるであろう。

 II. さて今、兄弟たち。ほんのしばし、この主題を《訓戒》として用いることを許してほしい。

 この項目の下に置いたものが、完全に訓戒的な思想だけかどうかは、いささか心許ないものがあるが、まず一番目のものは、非常に喜ばしい考えである。すなわち、私たちがこの《王》に属している以上、私たちの希望は、私たちもまた刈り取られるということにある。私たちはヨルダンの岸辺に座っている。特に相当に年輩になった人々はそうであるが、《永遠の王》の宮廷へのお召しを待っている。時として年老いたキリスト者たちについて不思議の念をかき立てられるのは、なぜ彼らが地上にこれほど長くとどまっているかということである。思うにジョン・ニュートンは、彼自身の年齢に驚嘆するのが常であったし、ロウランド・ヒルはこう云い云いしていた。半ば私は、彼らが私のことを忘れてしまったのだと思うよ、早く私のことを思い起こして、迎えを寄こしてくれれば良いのだが、と。よろしい。私たちはそこまでは行っていない。――私たち、まだ若い者らはそうである。――だが、それでも私たちは、こうした希望をいだいている。いつか、よく晴れた、穏やかで明るい夕べに、鎌を持った御使いの刈り取り手がやって来るであろう。そのとき、私たちは、雇い人のように自分の日を満たした後で、自分の仕事道具を下に置き、休息を取るのである。そのとき私たちは私たちの剣を下に置き、私たちの胸当てを外し、鉄と青銅の靴を脱ぐであろう。というのも、もはや戦うことがないからである。むしろ、棕櫚の葉を取り、御座の前で勝利を宣言するであろう。決してこのことを予期するとき恐怖しないようにしよう。そうするとしたら、不思議なことである。私たちの信仰がもっと強かったならば、そうすることはありえなかったであろう。神の民のために残っている安息日の休み[ヘブ4:9]を信仰が生き生きと悟っているとしたら、私たちは上げられて、世を去ることを待ち望みたい気持ちになるであろう。では、なぜ地上にいつまでも残ることを願うのだろうか? この古ぼけた、かび臭い、擦り切れた世界に何があるだろうか? この、虫に食われた、穴だらけの、その金銀にさえ錆の来る[ヤコ5:3]世界に、不滅の霊を満足させられるものがあるだろうか? はるか遠くの香辛料の山々に、また、乳香の山々に行こうではないか。そこには、麗しの《王》が立っており、「兜(かぶと)せし智天使(もの) 剣もつ熾天使(もの)」、そして、日夜ご自分に仕え、御顔を見、永遠にご自分をあがめている万軍を侍らせておられる。この《王》の刈り取りが私たちをも含めることになるときを朗らかに待ち受けようではないか。

 兄弟たち。これらすべての中から出てくる訓戒は、こうである。準備していよう。キリスト者であるあらゆる人は、この日のうちに死ぬことになっているかのような生き方をすべきではないだろうか? 私たちは常に、自分の最期の時が旦夕に迫っているかのように生きるべきではないだろうか? もしある人が、その正しい状態にあるときに、突如、「あなたは今晩死ぬ!」、と知らされたとしたら、その人は自分の生活様式をこれっぽっちも変える必要がないようにしておくべきである。自分の行き方を続ける以外に何も改めて行なうことがないように生きているべきである。かの偉大な批評学者ベンゲルについてこう述べられている。「彼が願ったのは、霊的な大見得を切って死ぬことではなく、むしろ、普通のしかたで死ぬことであった。仕事の最中に表の戸に呼び出された人のようにである。そういうわけで彼は、その死に臨んだときも、他の時と同じく、自分の校正刷りの束に没頭していた」。私にとって、働きの最中に死ぬことは、非常に高貴きわまりない種類の死だと思われる。奉仕を中断することなしに、人生をしめくくるのである。悲しいかな、多くの者は準備ができておらず、かの真夜中の叫びが突如聞こえるとしたら、悲しい混乱に陥らされるであろう。おゝ、すべてをきちんと整えておこう! 現世についても来世についても、最期の数時間に慌てて行なうべきことを何も残しておかないようにしよう。キリスト者である人よ。あなたの遺言状は作ってあるだろうか? あなたの商務は全く決済済みだろうか? そうしておくべきである。すべての事がらを、あなたにできる限り完璧に近く整えておき、いつ世を去ることになっても準備ができているべきである。ジョージ・ホイットフィールド氏は、死を予期しながら生きるのを常としており、こう云うほどであった。「私は、自分の手袋すら、しかるべき場所に置かれているとはっきり分かっていなければ、決して夜、寝床に入ることはない」、と。おゝ、私たちが習慣的に準備をし、事を整えておくとしたらどんなに良いことか。特に、より気高い事がらにおいてそのようにし、主の御前を歩み、主に会う用意をすることである!

 それから、愛する方々。私たちとともに働く人々の多くがこのように旅立っていくとき、それは私たちに、自分も旅立つ備えをするよう訓戒すると同時に、地上にいる間、私たちが二倍も多く行なうべきであると教えている。私たちの数がこれほど絶え間なくまばらになりつつあるからにはそうである。勇敢な兵士は、戦闘の日に、ある連隊が敵の銃弾や砲弾で一掃されてしまったと聞くなら、こう云うものである。「ならば、いまだ健在なわれわれは、その分だけ勇敢に戦わなくてはならない。戦争ごっこをしている暇はない。もし奴らがこれど多くを殺したなら、われわれは一層死に物狂いで勇猛にならなくてはならない」、と。そのように、今日も、もしそこここで誰かが世を去ったならば、――有能な働き手が《日曜学校》から、あるいは、路傍伝道から取り去られたなら、――今は私たちの破られた横列を補充すべき時である。おゝ、あなたがた、若い青年たち。ぜひ、そのぽっかり空いた穴を埋めてほしい。また、あなたがた、《救い主》を愛する若い婦人たち。もし《日曜学校》の教師がひとり世を去ったなら、そして、あなたも教師であるなら、より良く教えるようにし、もしあなたが教師でないなら、来て、その持ち場を埋めてほしい。愛する兄弟たち。私は補充兵を乞い求める。私は、自分の小さな軍隊の真中に立つ司令官のようである。そして私は、最上の兵がこちらでひとり、あちらでひとり殺されるのを見ている。私に何ができるだろうか? 私の《主人》がお命じになる通りに、私はあなたに迫り、こう云うしかない。「兄弟姉妹たち。彼らの持ち場に踏み入るがいい。横列に空いた穴を埋めるがいい」、と。死によって分断されてはならない。むしろ、ひとりがあの黄金の都に行く、まさにその時に、別の者がこう叫ぶがいい。「ここに私がおります。私にも、自分の報いに入るよう命じてください」、と。すでに働いている私たちについて云えば、これまで以上に熱心に労さなくてはならない。これまで以上に熱烈に祈らなくてはならない。私は若い頃、伝道牧会職にあったひとりの偉大な人が急死したとき、とある老説教者がこう云うのを聞いたことを思い出す。「何某氏が世を去ったからには、私はいやまして良い説教をしなくてはならない」。そして、あなたがた、キリスト者たち。ひとりの聖徒が取り去られたときには常に云うがいい。「私は、《教会》がこうむった損失を補うために、より良い生き方をしなくてはならない」、と。

 訓戒として、もう1つ考えるべきことはこうである。もし《王》がご自分の刈り取りを行なっておられるとしたら、《王》の目はその《教会》の上に注がれている。王はこの畑を忘れてはいない。その刈り取りをしているからである。私たちは最近、主が私たちを訪れてくださるようにと祈ってきた。だが主はすでに来られた。来られたのである! 必ずしも私たちの期待したのと同じしかたではないが、主はすでに来られた。来られたのである! おゝ、しかり。そして主は、この通路を歩き、この会衆を眺めながら、まずひとり、それからもうひとりと取り去られたのである。主はまだ私を取り去ってはおられない。私の準備がまだできていないからである。また、まだあなたを取り去ってはおられない。あなたがまだ熟し切っていないからである。だが、主は、すでに熟して準備のできていたある人々を取り去られた。そして彼らは主と一緒にいるために、主のおられる所へ行ってしまった。よろしい。ならば、主は私たちを忘れてはおられない。そして、このことは私たちを鼓舞して祈らせるべきである。主は私たちに耳を傾けてくださる。主の目は私たちに注がれている。このことは私たちを鼓舞して自分を吟味させるべきである。主を嘆かせるような一切のものを除去しよう。主は明らかに私たちを見つめておられる。主の御前にいるかのように生きることを求めよう。主の御霊を悩ませて、私たちのもとから退かせるようなものが何もないように。

 愛する方々。こうしたことが訓戒の言葉である。

 III. さて今、《期待》として、もう二言三言語りたい。そうした言葉は、どの項目の下にまとめれば良いか判然としてはいないが、この刈り取りの中からいかなる期待が生ずるだろうか?

 何と、次のような事がらである。そこには二番作ができる。《王》が刈り取った後には、新たに草が生じた。それは、賃借人たちに属していた。それで私たちは期待するのである。《王》が刈り取られた以上、私たちに清新な草が次々と生えてくることを。ここには約束がないだろうか? 「彼らは、流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽生える」[イザ44:4]。清新な回心者たちがやって来るであろう。では、それは誰だろうか? よろしい。私は周囲を見回す。そして、私はサムエルのように、桟敷席にいる若い男子を見てこう云いはすまい。「確かに、主は彼を選ばれたに違いない」[Iサム16:6参照]。あるいは、一階席を見下ろして、こう云いはすまい。「確かに、主は彼を選ばれたに違いない」。むしろ、神がある者を選んでおられると分かっていることについて、また、神がこの清新な草を生やして、《王》の刈り取りによってもたらされた荒涼たる広がりをふさごうとしておられることについて、神をほめたたえるであろう。

 もし自分の好む通りになるとしたら、どのような人々に私が来てほしいと思っているか、あなたに分かるだろうか? よろしい。娘が死んだところに父親、あるいは兄弟が来るとしたら、いかに私は喜ぶことであろう。また、父親が死んだところに息子がやって来るとしたら、いかに私は喜ばしく思うことであろう。また、ひとりの善良な婦人が取り去られたところで、その夫が持ち場を埋めるとしたら、いかに私は喜ぶことであろう! 彼らを最も愛していた者たちが、彼らの立場を占めて、彼らに代わって彼らの働きを果たすことを願うのが、当然であるかのように私には思われる。しかし、もしそれがかなわなくとも、私は今晩ここに募兵係軍曹として立っている。私の《王》は、その戦争において、兵の一部を失い、連隊は補充を必要としている。誰がやって来るだろうか? 私は今晩、自分の制帽に軍旗をつけている。だが、私はここに立って、軍務の容易さについて嘘を塗り固めてあなたを誘惑しようとは思わない。というのも、それは厳しい軍務だからである。だが、私はあなたに請け合おう。私たちには素晴らしい《指揮官》がおり、栄光に富む争闘があり、偉大な報奨があることを。誰がやって来るだろうか? 誰がやって来て、隊列の隙間をふさぐだろうか? 誰が死者に代わってバプテスマを受け、キリスト教の奉仕における彼らの持ち場に立ち、彼らの落とした松明を取り上げるだろうか? 私はこの問いを順送りにするであろう。そして、多くの心がこう云うだろうことを希望するものである。「おゝ、主が私を受け入れてくださればどんなに良いことか! おゝ、主が私のもろもろの罪を拭い去り、私を迎え入れてくださればどんなに良いことか!」 主は悔悟した心を喜ばれる。悔悟した霊をした者をお救いになる。主はお救いになった者を受け入れてくださるであろう。だが、入隊するための道は平易である。「おゝ!」、とあなたは云うであろう。「キリストの兵士となるには、何を与えなくてはならないのですか?」 女王陛下の兵士となるために、あなたは何も与えない。あなたが一シリングを受け取るのである。あなたは、女王陛下の兵士となるためには受け取るのである。キリストの兵士となるのもそれと同じである。あなたはキリストをあなたの《すべてのすべて》として受け取らなくてはならない。あなたの空っぽの手を差し出して、主の血と義とを、あなたの希望、あなたの救いとして受け入れなくてはならない。おゝ、主の良き御霊が甘やかにあなたの意志を傾け、ひとり、またひとりと、戦いの日に喜んで仕える[詩110:3]ようにしてくださるとしたら、どんなに良いことか。そのとき、私たちの心は大いに喜ぶであろう。

 本日の聖句が取られたアモス書の箇所を読んだとき、私は芋虫について、あることに気づいた。(欄外の訳は、彼らを「青虫」と呼んでいるのである。)こう云われている。《王》が刈り取った後で、そこには二番作を食い尽くす青虫がやって来た、と。おゝ、この芋虫たち! 東方のあわれな農夫は、芋虫たちを見ると胸がつぶれんばかりとなる。というのも、それが一切の青物を食い尽くしてしまうことを知っているからである。そして、私には今晩この場にも芋虫たちがいるのが見える。そこには、大きな青い芋虫がいて、自分の前にあるものをすべて食い尽くそうとしている。彼を踏みつぶすことができればどんなに良いことか。この芋虫の名を、「ぐずぐず引き延ばし」という。他の多くの多くの虫やいなごたちが食い尽くすものも大量ではあるが、この「ぐずぐず引き延ばし」という虫は最悪である。というのも、青葉が生え出たと思うが早いか、この芋虫は食べ始めるからである。私は彼がガリガリかじっている音が聞こえる。「待て、待て、待て。明日だ、明日だ。もう一眠り、もう一眠り、もう一眠り」。そして、そのようにしてこの芋虫は私たちの希望をむさぼり食らう。主よ。この芋虫を滅ぼしてください。そして、私たちにお与えください。父たちの代わりに子どもたちが――《王》が刈り取ったものの代わりに二番作が――そこに生じ、農夫にとって豊かな報いとなり、この土壌の《持ち主》に栄光が帰されますように!

 当然ながら私たちは主が、この後の草を生えさせる露と雨を送ってくださるように祈るものである。「彼は牧草地に降る雨のように、地を潤す夕立のように下って来る」[詩72:6]。さて、この会衆は刈り取られた草地のようである。神が刈り取られた。――その刈り草を、《王》はふんだんに私たちから取り去られた。さて、私の兄弟たち。私たちには約束がある。それを御座の前で申し立てようではないか。世界中の説教をすべて合わせても、魂1つ救うことはできない。人間がいかに努力してもそうである。だが、神の御霊はすべてを行なうことがおできになる。おゝ、御霊が雨のように、刈り取られたばかりの草地に降って来られたならどんなに良いことか! そのとき、地では、山々の頂に穀物が豊かにあり、その実りはレバノンのように豊かで、町の人々は地の青草のように栄えるであろう[詩72:16]。主よ、それをお送りください。今、それをお送りください!

 もし救われたいという人が誰かいるなら、ここに救いの道がある。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。信じるとは信頼することである。あなたが信頼しなくてはならないことは、このことである。――イエスが神であられること、人となられたこと、罪人の身代わりとして苦しみを受けられたこと、そして、神が信仰者たちの代わりにキリストを罰されたため、イエスを信ずる者は誰であれ赦されることである。キリストは、これまでに、また、これからご自分を信ずるあらゆる罪人の代わりに神の御怒りを負ってくださった。そして、もしあなたがキリストを信じているとしたら、あなたは人々の中から贖われた[黙14:4]のである。キリストの代償はあなたのためのものであったし、それがあなたを救うであろう。だが、もしあなたが信じないとしたら、あなたはこのことについては何の関係もないし、それにあずかることもできない[使8:21]。おゝ、あなたが自分の信頼をイエスにかけるよう導かれればどんなに良いことか! それは、今晩、そして永遠に、あなたの確実な救いの証しとなるであろう。神があなたを祝福し給わんことを。キリストのゆえに! アーメン。

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王の刈り取り[了]


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