HOME | TOP | 目次

キリストの現存による激励

NO. 3128

----

----

1909年1月21日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた。それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。夕方になったころ、舟は湖の真中に出ており、イエスだけが陸地におられた。イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。』と言われた。そして舟に乗り込まれると、風がやんだ。彼らの心中の驚きは非常なものであった。というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである」。――マコ6:45-52


 ここには、1つの慰めのことばがある。それを与えられたのは、自分たちの主によって遣わされた場所にいた、小舟一隻分の信仰者たちであった。彼らは湖に乗り出したくはなかった。おそらく、その時の湖面は十分に凪いでいただろうが、彼らは主イエスから離れたくなかった。主は強いて彼らを行かせられた。こういうわけで、彼らの出帆は、単に主の賛成を得たものであったばかりでなく、主の明示された命令によるものであった。彼らは自分たちのいるべき場所にいた。だがしかし、すさまじい嵐に出逢った。彼らが乗り出したこの小さな内海は、深い盆地の底にあり、そうした岸からは突如として、途方もない突風が押し寄せることがある。予測することも不可能な下降気流である。そうした旋風の1つによって、湖全体は沸騰するかのように波立った。こうした小さな湖にだけありえる現象である。それで、それで彼らは、イエスが行けと命ぜられた所にいたにもかかわらず、絶望的な危険に陥っていた。そして、愛する方々。あなたも、困難な状態に陥るからといって、間違った場所にいると思ってはならない。種々の逆境を、路に迷った証拠だと考えてはならない。というのも、それは、あなたが昔ながらの良い道に立っている証拠でさえありえるからである。信仰者たちの通り道は、試練を伴わないことがめったにない。あなたが船に乗り込み、離岸したのは正しいことであった。だが、覚えておくがいい。確かにあなたの主はその舟の安全を引き受け、あなたが自分の港に着くことになると保証しておられるが、鏡のような海面を航海するとは約束しておられない。逆に、あなたにこう告げておられる。「あなたがたは、世にあっては患難があります」[ヨハ16:33]。それで、主の警告が本当だったと分かる以上、あなたはいやが上にも信頼をもって主を信じて良いであろう。

 彼らの主は、向こう岸へ行くようにご自分の弟子たちにお命じになった。それゆえ、彼らは全力を尽くし、一晩中舟を漕ぎ続けたが、全く先には進めなかった。風がまともに彼らに向かっていたからである。いかに苦労しても、彼らはその遅々たる進み方を守り、もと来た場所まで吹き戻されないだけで精一杯だった。おそらくあなたもこう云われるのを聞いたことがあるであろう。もしキリスト者である人が前進していないとしたら、その人は後退しているのだ、と。それは必ずしも常に正しいわけではない。時として、ある人が後退していなければ、実は前進していることになるというような霊的試練を受ける場合もあるからである。「堅く立て」という戒めは、しっかり守られるとき、「前へ進め」と同じくらいの徳を伴うことがある。蒸気船の船長は、その蒸気を最大限に高めて、暴風に真正面から飛び込んで行き、その勇敢な船が岸へ押し流されずにいられさえするなら、完璧に満足しているであろう。乗組員の使徒たちは、漕いで、漕いで、漕ぎ続けた。そして、彼らが全く先へ進まなかったのは、決して彼らのせいではなかった。というのも、彼らには「向かい風」が吹いていたからである。キリスト者である人は、ほとんど、あるいは、全く前進していないかもしれない。だがしかし、それがその人のせいではなく、向かい風のためであることもありえる。私たちの良き主は、意志をもって行為と受け取ってくださり、私たちの見かけ上の進み具合ではなく、私たちが力の限り櫂を引く一途な意図をもって、私たちの進歩とみなしてくださるであろう。

 往々にして、ある信仰者が祈りの中で呻き声を上げ、祈れないとき、その人は最上の祈りをささげているのである。そして、その人が人々の心をかちとろうと努めて、かちとれないとしても、その人の熱心は、一国を回心させたも同然に受け入れられるのである。また、その人が善をしたいと願っているのに、自らに悪が宿っていることを見いだすときも[ロマ7:21]、その願いの中に善があるのである。その人が櫂を投げ出し、風に吹き流されてしまったとしたら話は別である。だが、私たちの主は、その人が「漕ぎあぐねているのを」ご覧になるとしたら、全く前に進めていなくとも、決してご自分のしもべを責めるようなことばを口にされない。むしろ、こう仰せになるであろう。「しっかりしなさい」。

 この物語から、弟子たちが嵐のことを少しでも恐れていた様子はうかがわれない。せいぜいが、湖上ですさまじく揺さぶられるときには漁師たちでさえ自然と覚えるような恐れしかなかった。おそらく彼らはこう云い交わしていたであろう。「私たちの《主人》が強いて私たちをこの航海に乗り出させたではなかっただろうか? 私たちがこの嵐に遭うとしても、私たちが責められるべき理由はないのだ」、と。最近主を知るように導かれたばかりの、ある信仰者たちは、キリスト者になることによって、現世的な事がらでは大損失をこうむっている。だから何だろうか? そうした人々は、こうした事実をこわがってはならない。キリストの舟でさえ、大嵐に揺さぶられるのである。風に向かって漕ぐがいい。そして、たとい嵐の激越さが増すとしても、へこたれてはならない。この荒海を熟知していたひとりの人はこう叫んだ。「見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望もう」*[ヨブ13:15]。そして、そうすることにおいて、彼は神の栄光を現わし、まもなく彼自身が大凪ぎになるのを見いだした。イエスは岸の方へ進むよう命じておられるだろうか? ならば、漕ごうではないか。たとい前進することはできなくとも関係ない。イエスはそのすべてをご存知であり、すべての事がらを良く整えてくださるからである。ならば、なぜ私たちの《救い主》は、このように漕ぎあぐねていた、舟一隻分の使徒たちのもとにやって来たとき、「しっかりしなさい」、と仰せになったのだろうか? 彼らは大胆で、勇敢な人々であり、湖を全く恐れてはいなかった。では、何を恐れていたのだろうか? 主がこのように語られたからには、彼らは何かを恐れていたはずである。そして、この聖句を眺めるとき、私たちは驚愕すべきことを見てとるのである。彼らは、イエスご自身を恐れていた。彼らは風も嵐も波も大嵐も恐れてはいなかったが、彼らの最良の《友》を恐れた。それこそ、主がこう仰せになることによって目指された点であった。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」。

 私たちが第一に考えたいのは、彼らの恐れの原因である。そして第二に思い巡らしたいのは、イエスが彼らを激励した方法である。そして第三に考慮したいのは、いつ私たちは、このように素晴らしいことばを必要とするかということである。

 I. では第一に、愛する方々。《彼らの恐れの原因》について、私とともに考察してほしい。

 もし私たちが同じ湖上を航海したことがなかったとしたら、――つまり、同じ経験に苦しんだことがないとしたら、――彼らが自分たちの主を恐れたことに私たちは一驚していたかもしれない。主は彼らのために現われ、彼らを救助しに来られたのである。まさに、彼らのために、この大嵐を鎮静しようとする直前であった。それでも、彼らは主を恐れた。――彼らが愛し、信じていた《お方》を。彼らの目はあまりにもさえぎられ、彼らの心はあまりにもかたくなになっていたため、彼らは自分たちの主を恐れた。主を信頼していて良い最上の理由をいくつも与えられていたときに、主を恐れた。彼らの目の前で、主はご自分を万物の主として明らかに示しておられた。風浪の支配者として。だがしかし、彼らは主を恐れた。主の御力の偉大さは、彼らを慰めていて良いはずであった。彼らが真理を理解していさえしたならそうである。だが彼らはパンの奇蹟を考えておらず、それゆえ、困惑の状態にあり、いたく恐れた。

 その間イエスは、彼らに対する大きな優しさをもって行動しておられた。主はご自分の力をはっきり示しておられたが、それは目も眩むほどの圧倒的なしかたではなかった。賞賛するがいい。いかに神聖な優しさによって、主が、そのままそばを通り過ぎようとするかのように進まれたかを。もしも主が燦爛たる光に包まれてその舟の真中に現われたとしたら、彼らの肝を潰し、彼らを恐怖に陥れていたことであろう。もし、一瞬にして主が船尾近くに輝き出たとしたら、あるいは、中天から甲板に降り立ったとしたら、彼らは驚愕してすくみあがったであろう。だが、主は遠くの大波の波頭の上にぽつんと姿を現わすことからお始めになった。そして、ある者が仲間に叫んだ。「向こうの、あの変な光が見えるか?」 彼らが見守っているうちに、イエスは近づいて来られる! 彼らは姿の見分けがつくようになる。ひとりの人が波から波へと、威厳をもって歩を進めている。あわれみをもって主は、突如、彼らの前に閃き現われようとはなさらない。あけぼのが、ゆっくりと光の増し加わることによって明け初めていくように、イエスはご自分に従う小心な者たちのもとへ来てくださった。そのときでさえ、主は彼らを通り過ぎるかのように進まれた。それは彼らが、急迫する敵のような主の現われによって驚き恐れないようにするためであった。まさにそれと同じようにして主は、すぐれた知恵と思慮によって、その恵みの豊かさのうちに、ご自分を私たちに現わしてくださる。

 この震えおののく乗組員たちの恐れは、遠く主を見ることによってさえ、十分にかき立てられていた。怯えきった彼らは、幽霊を見ているのだと思って叫ぶほどであった。もしも主が、彼らの弱さに合わせた優しさによって、横からおぼろな光に照らされる中で次第に姿を現わしてくださらなかったとしたら、彼らが何をしたか知れたものではない。《主人》がどのような道を取ろうと、その弟子たちはそれでも恐れた。そして、私たちは彼らにまさって賢くも勇敢でもない。神のキリストがその栄光のきわみをもって私たちの前に現われるとしたら、私たちがこのからだにとどまっている限り、それは徐々になされなくてはならないであろう。ことによると、天においてさえ、最初は、その満ち満ちた喜びに私たちは耐えられないかもしれない。天においてさえ、主は、私たちが最初は発見できない水の泉に至らせ、かの最高の知識へ次第次第に導かなくてはならないであろう。その知識とは、日の光が星々を消してしまうように、いま私たちが主についていだいている一切の知識を全く覆い隠してしまうだろう最高の知識である。

 本日の主題に話を戻そう。弟子たちがイエスを恐れたのは、イエスが彼らを助けようとする御力を明らかに示しておられるときであった。イエスが考えうる限り最も優しいしかたで彼らのもとに向かって来つつあるとき、また、乳母がその子どもを相手にするように彼らを扱っておられるときであった。あゝ、私たちがイエスを恐れるとは!

 主は、結局のところ、主に可能であると彼らが知っていた以上のことを何もしておられなかった。ほんの二十四時間も経たない前に、彼らは主が創造のみわざを行なうのを目にしていた。というのも、主はパンと魚を取り上げると、それを増やし、五千人の男たちに女や子どもたちも加えた人々のために、饗宴を開かれたからである。そして、全員が食べ終わったときには、最初そのパンと魚が数えられたとき以上のものが残っていたのである。その奇蹟の後では、主が湖面を横切ってくることに驚くべきではなかった。水の上を歩くことは1つの法則を一時停止することだが、パンと魚を作り出すことは創造という至高の力――永遠に神ご自身のもとにとどまらざるをえない力――を行使することである。このことを知っていた以上、彼らは驚愕すべきではなかった。――ともあれ、これほどすぐにそうすべきではなかった。あの饗宴の記憶は、いかに忘れっぽい精神の者からも、これほどすみやかに消え失せるべきではなかった。だが、彼らが主を見て、主に可能であると分かっていたことだけを――主が行なうのを事としていた物事よりも、毛頭難しくないことだけを――なさっているのを見たとき、彼らは恐れて叫び声を上げた。

 その理由は、こうではなかっただろうか? 彼らは、霊的で、神秘的で、超自然的なものと接触することをひどく怖がったのである。私たちはいま彼らについて語っているし、半数の人々は、心の中でこう云っているかもしれない。「もし私たちがその場にいたとしたら、私たちはイエスのことを恐れたりしないし、叫んだりしないはずだ」、と。だが、私たちは自分が何を云っているか分かっていない。ほんの少しでも超自然的なことがあると、人はたちまち鳥肌が立つのである。それまでいかに大言壮語していようと関係ない。ベルシャツァルは、壁に手が文字を書くのを見たとき震え上がった[ダニ5:9]。それは、目に見えるからだに全くつながっていない、動き回る手にまつわる神秘のゆえであった。見えざるものこそ、恐れの誕生するところである。想像力は大袈裟に考え、良心は、何らかの大患が私たちに降りかかるのではと囁く。私たちは、神と霊たちが住んでいる神秘的な世界の国境に近づきつつある。そのため震えるのである。だが、愛する方々。霊の世界こそ、キリスト者たちが決して震えるべきではないものである。というのも、その超自然的な世界の中にある何物についても、ひどく恐れることはないからである。もし地上を歩く幽霊というようなものがあるとしたら、私としては、それに遭ってみたいと思う。それが草木も眠る丑三つ時であろうと、真っ昼間であろうと関係ない。

 私は、霊がさまよい歩くなどということを、ひとかけらも信じていない。天国にいる者たちは、このように朦朧とした領土の中をうろつきたいとは思わないであろう。また、地獄にいる者たちは、彼らのすさまじい住まいを離れることができない。それでは、彼らはどこから来るのだろうか? 彼らは悪霊だろうか? たといそうだとしても、だから何だろうか? 悪霊は何の新手でもない。私たちは何度となく悪霊たちと戦ったことがあるし、もう一度彼らに抵抗し、彼らを逃走させる覚悟がある。主は、かの邪悪な霊どもの親玉であるサタンを、すみやかに私たちの足で[ロマ16:20]踏みにじらせてくださる。ならば、なぜ私たちは彼の手下どもを恐れるべきだろうか? いかなる超自然現象についても、キリスト者である人は決して怯え恐れるべきではない。私たちは、異教徒たちが恐れるものを恐れることを明確に禁じられている。そして、彼らが最もぞっと恐怖するものの1つがこのこと、――妖術や、死者との交霊による呪術や、他の邪悪な霊の現われと考えられているものなどに対する彼らの恐れなのである。イエスを信じる私たちは、そうした迷信を恥じるべきである。さもないと、偽り事によって牛耳られることになる。

 たとい聖徒たちの霊や聖い御使いたちが人々の間に現われることがあるとしても、だから何だろうか? 彼らに会うことは1つの喜びであり1つの特権であろう。私たちは無数の御使いたちの大祝会に近づいており[ヘブ12:22]、彼らは、その手で、私たちを支え、私たちの足が石に打ち当たることのないようにしているのである[詩91:12]。

 兄弟たち。私は超自然的なものよりも、自然のものの方をずっと恐れているし、霊的なものよりも、肉的なもののの方をはるかに気遣っている。だが、この弟子たちがイエスを恐れたのは、超自然的なものを怖がったためであった。そして、人がこうした怯えに陥るとき、そうした人々はあらゆるものを恐れるようになる。私たちの知っているそうした人々は、牛や羊にもぎょっとし、猫にもひどく恐れさせられ、鴉の鳴き声にも悩まされる。ある愚か者たちは、古杭の中で昆虫がカチャリと立てた音を恐れて死にさえした。彼らはをそれを「死の時計」と呼ぶからである。そうした、子どもじみた愚かさをことごとく振り払おうではないか。いったんその中に陥ると、この使徒たちのように、私たちの《主人》ご自身を恐れるほどになるからである。

 II. 第二に考察したいのは、《私たちの主人が、ご自分に従う、超自然的なものを恐れていた者たちを、いかなる方法で激励したか》ということである。

 まず最初に、主は彼らに、ご自分が肉体から離れた霊ではないと保証された。「わたしだ」。そして、この「わたし」は、彼らとともに食べたり飲んだりした一個の人であった。血肉からなる人、彼らが目で見、耳で聞き、手で触れたことのある人であった。彼らが慰められたことに、彼らはそれが決して肉体から離れた霊ではなく、血肉を有する人であると分かった。

 愛する方々。どうか常に私たちの主イエス・キリストについては、このことを思い起こしてほしい。主を裸の霊とみなすべきではない。私たち自身と同じような肉体をまとっておられるからである。もしキリストが真に人間として存在しておられること、また主が真実復活されたことを疑うとしたら、私たちはの慰めは大いに減じられるであろう。私たちの主は、私たちの人性をそっくりそのまま天国に持ち込んでおられる。魂だけでなく肉体もそうであり、主は霊としてではなく、罪を除けば私たち自身と全く同じような人間として常に生きておられる。そして、主がそこで生きておられるるのは、私たちもまた、復活の喇叭が鳴り響き、私たちの人間としてのあり方が完成するとき、そこにいることになるという担保としてなのである。

 真の人間としてイエスは上で統治しておられる。主は何の幻影でも、何の幽霊でも、何の霊でもなく、よみがえった人であり、私たちの弱さに同情でき[ヘブ4:15]、私たちをあわれみ、愛し、私たちの心情を察してくださるお方である。そして、そうした資格で主は、天の栄光の中から私たちに語りかけ、こう云ってくださるのである。「わたしだ。恐れることはない」、と。

 もう1つの思想も、この箇所にはっきり浮かび上がっている。イエスが彼らを慰められたのは、それが本当にご自分であるという保証によってであった。彼らが眺めていたのは虚構ではなかった。キリストご自身であった。

 愛する方々。あなたが信頼しているキリストが現存しておられることを確信するがいい。イエスという名を用いることはごく容易だが、その人格を知ることはそれほど容易ではない。よく見受けられるのは、主が行なったことについては語っていながら、主が私たちと同じように真実に生きていると感じることなく、主が、私たち自身の兄弟や、父親や、友人のように愛され、信頼されるべきひとりの人であると感じることがないということである。私たちに必要なのは、現実の、生きた、肉体を有するキリストである! 幻影のキリストが嵐の中で私たちを激励することはない。むしろ、それは希望よりは恐れを引き起こすである。だが、現実のキリストは、現実の大嵐の中における現実の慰藉である。願わくは、話をお聞きの方々。あなたがたがみな、この、現身の《救い主》を真に知ることができるように。この《お方》にあなたは確実に語りかけることができるのである。まるでその御手に触れることができるかのように!

 千九百年前のキリストは、私たちの救いを作り上げてくださった。だが、今日のキリストがそれを適用してくださらなければ、私たちは失われてしまう。主は、いつも生きておられる以上、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになる[ヘブ7:25]。主が真に人間であられることを信じるがいい。決して、主に関するあなたの観念を薄っぺらな、実体のないものとしてはならない。実質のあるキリスト者たちとは、キリストを実体のあるお方として受け取っている者たちである。

 しかし、この慰めの肝心な点は、ここにある。主は、「わたしだ。恐れることはない」、と云われた。これを解釈すると、こういう意味である。イエスだ。恐れることはない。私たちの主がダマスコ途上でパウロと出会ったとき、主は彼に云われた。「わたしはイエスである」*[使9:5]。しかし、ご自分の声をよく知り、ご自分と親しくしている者たちに向かっては、御名を上げることなく、「わたしだ」、と仰せになった。彼らは、この《羊飼い》と十分長くともにいたため、その声を知っており、ただ語られるのを聞くだけで、名前を云われなくとも、それが主であることは分かったのである。この結論に、彼らは最初から達するべきであった。しかし、彼らがまごつき、「あれは幽霊だ」、と云っているうちに、愛に満ちた《主人》はこう云って彼らをたしなめられた。「わたしだ。――イエスだ」、と。この思念にいかに豊かな慰藉が存しているかは、到底伝えることができない。イエスはイエス、解釈すれば、一個の《救い主》であられる。この1つの人格と職務は人を激励するものだが、同じことは、主が帯びておられる一切の名について云える。主のこととして述べられている、栄光に富む称号と象徴のすべては、素晴らしい激励で豊かに満ちている。イエスこそ、あなたの苦難の湖上を歩いて、あなたのもとにやって来てくださるお方である。――神の御子イエス、アルファであり、オメガである方[黙1:8]、 一切のものの上に立つ《かしら》として、その教会に与えられた方[エペ1:22]、その民全員にとって《すべてのすべて》であるお方である。

 黙示録一章でイエスは、ヨハネを励まそうとして、このような慰めをお与えになった。「わたしは、最初であり、最後であ……る」[黙1:17]。主の民の慰めは、イエスのご人格とご性格に存している。ここに彼らの慰めとなるものがある。「《わたしだ》」。しかし、これは、いかに大きな「わたし」であろう。思い描きうる限りのいつくしみと、あわれみと、恵みと、真実さと、愛とを1つに混ぜ合わせ、それに完璧なへりくだりと、無限の《神格》と、《いと高き方》の有する一切の主権的な権利と権力と財産とを加えてみるがいい。こうしたすべては、イエスが、「わたしだ。恐れることはない」、と仰せになるときの、この小さな一言「わたし」に込められているのである。

 あなたは、まだ、底まで達してはいない。「わたしはある」。文字通りに訳せば、イエスが云われたことばは、「わたしだ」、ではなく、「わたしはある」、であった。主は、ご自分の古の民を激励しようとされたとき、こう云ってイスラエルを慰めるようモーセに命ぜられた。「わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた」、と[出3:14]。彼らの神の自存性は、この諸部族の喜びとなるべきであった。イエスが、ご自分を捕えにあの園にやって来た者たちに向かって、「わたしはある」<英欽定訳>、と仰せになったとき、彼らは仰向けに地に倒れた[ヨハ18:6]。それほどの威力がその言葉にはあったのである。だが、主がこうした、ご自分のすくみあがった弟子たちに向かって、「わたしはある」、と仰せになったとき、彼らは主のもとに引き寄せられた。だがしかし、彼らは、あの御名、伝えようのない御名、「《わたしはある》」に必ずや伴わざるをえない畏怖を失いはしなかった。

 信仰者よ。イエスはあなたに、「わたしはある」、と仰せになっている。あなたは妻を亡くしただろうか? あなたの子は葬られただろうか? あなたは財産をなくしただろうか? 健康を失いつつあるだろうか? あなたの喜びは衰えつつあるだろうか? 悲しいかな! この世は滅ぶべき無常の世界である。だが、ひとりの《お方》は常に同じであられる。というのも、イエスはあなたにこう仰せになるからである。「わたしはある。そして、わたしが生きるので、あなたがたも生きるのである」、と[ヨハ14:19参照]。慰められるがいい。他の何が去ろうと、他のどこで死の矢が飛び交おうと、あなたのイエスはなおも生きておられる。「わたしはある」。この豊かな慰めのこもった、ほむべきことばは、夜闇の中で意気消沈している疲れ切った船乗りたちの間で聞かれるべきである。

 その栄光のすべては、この事実によって明らかにされている。「イエスは舟に乗り込まれた」<英欽定訳>。そして、彼らの間に立たれた際の、回り中の静寂さによって、「わたしはある」という《お方》がそこにおられることを証明した。主は、かつて御霊がそうされたように、大いなる水の上を動いておられたではないだろうか? また、かの始めと同じように、この大嵐の混沌の中から秩序が生じたではないだろうか? この偉大な「《わたしはある》」というお方が存在されるところでは、風も波も自分たちの《支配者》に気づいて、従うのである。

 それから、弟子たちはイエスが単に、「《わたしはある》」というお方であるばかりでなく、「インマヌエル――私たちとともにおられる神」であられたことを知った。「《わたしはある》」というお方が、彼らの救助に来てくださり、彼らとともにその舟の中におられた。愛する方々。ここにこそ、あなたの、そして私の慰めがある。私たちは、超自然的なものをも、目に見えないものをも恐れないであろう。というのも、私たちはイエスを目にしており、イエスにあって、御父を目にしているからである。それゆえ、私たちは激励されるのである。

 III. 私たちが第三に考察したい点はこうである。《時として私たちは、このような慰めを、ずっと必要とすることがある》

 イエスはこの使信を、大嵐で揺さぶられている信仰者たちに語られた。すなわち、私たちがこの使信を必要とするのは、今の悪の時代の様々な状況によって苦悩するときである。商売不振や、大病や、すさまじい戦争や、大きな天災に陥るとき、霊にとって香膏となるのは、イエスが今も同じであると知ることである。罪はさらに増し加わり、福音の光は勢いが衰え、暗闇の君主はその滅びの王笏を思う存分に振り回すかもしれない。だが、それにもかかわらず、この真理は確かであり続けている。イエスは、「《わたしはある》」お方なのである。時期によっては、悪魔的な影響力が卓絶し、一見すると、国々の統治権が偉大な《統治者》の御手から取り上げられているように思われる。だがしかし、そうではない。その暗闇をよく調べてみると、あなたの主がその暴風の真中におられるのが見えるであろう。主は、政治政略という波浪の上を歩み、国々の激動を支配し、万物を統治し、威圧し、整え、人の憤りにさえご自分をほめたたえさせ[詩76:10]、それをご自分の知恵に従って抑制しておられる。唸り叫ぶ颶風を越えて、主の御声がこう宣告しているのが聞こえる。「わたしだ」、と。人々の心が恐れのため沈み込むとき、また、いかに力を込めて漕ごうと二進も三進も行かず、今にも櫂が折り砕けそうに感じるとき、妙なる調べの粋たるこのことばが聞こえる。「わたしだ。恐れることはない。わたしは万物を支配している。わたしは、わたしの《教会》という帆掛け船の救助に向かいつつある。それは、じきにさざ波1つ立たない湖面の上に浮かぶであろう。そして、望む港に着くことであろう」、と。

 別の必要な時期は、確かに、私たちが、あの増水したヨルダン川に達するときであろう。私たちが霊の世界に近づき、魂がその物質の衣を脱ぎ捨てて、新しい形のいのちに入り始めるとき、未知の世界に入りつつある私たちはどのように感じるだろうか? 私たちを迎えにやって来た最初の者が目にはいるとき、私たちは、「あれは幽霊だ!」、と叫び声を上げるだろうか? そうかもしれない。だが、そのとき1つの甘やかな声が死の恐怖を消失させ、私たちの一切の怯えに終止符を打つであろう。そして、これがその語りかけであろう。「わたしだ。恐れることはない」。この新しい世界は、イエスにとっては新しくない。私たちの苦痛や断末魔について、主は無知ではあられない! 霊がしばらくの間、衣を身につけずにとどまる、あの肉体から離れた状態のことを、主はことごとく知っておられる。というのも、主は死んで、その霊の国に入られたからである。そして主は、その途上の一歩一歩において私たちに同情することがおできになる。いかに甘やかな同行者とともに、私たちはあの死の陰の谷を通り抜けることであろう! 確かにその陰影は輝きに変わるであろう。暗黒に包まれていた洞穴が、百本の松明で照らし出され、無数の宝石が天井と壁から燦然ときらめくかのようにである。墓所を通り抜ける間に、そのじめついた暗闇は、思いがけない喜びと、驚異的な《永遠にほむべき方》の啓示とによって光を放ち、照り輝き出す。なぜなら、イエスが私たちとともにおられるからである。「小羊が……あかりだからである」[黙21:23]。たとい、その恐ろしい時に私たちが、全地の《審き主》としての私たちの主に対する震えおののきをほんのかすかにでも感じるとしても、その恐れは主がこう声を上げるときに失せ去るであろう。「わたしだ」、と。

 この慰めが私たちの役に立つのは、私たちが大きな患難に苦しむときでもある。愛する方々。もし神がそう望まれるのであれば、願わくはあなたがこうした試練を免れることができるように。だが、もしそれがやって来るとしたら、その分だけ私の云うことが良く理解できるであろう。「大海であきないする者」[詩107:23]は知っているはずである。時として、幾多の苦難が私たちに押し迫るため、人々は狼狽のあまり、自分の試練に対処できなくなることがあることを。凶事の予感が空気中を満たし、私たちは気が滅入って、いのちの髄まで冷えきってしまう。私たちは、気の狂った者のようになるか、ダビデ流に云えば、酔った人のようによろめき、ふらついて分別が乱れてしまう[詩107:27]。そのとき、あゝ、そのとき、同じ船に乗り込んだ仲間たちの声には、ほとんど何の価値もないし、かつて主から受けたことばの残響さえ大してありがたくない。役に立つものはただ1つ、その場で受ける主イエスからの確実な慰藉である。私たちは主が、「わたしだ」、と仰せになるのを聞かなくてはならない。さもないと、完全に気を失うであろう。そのとき、その魂は元気づけられ、波を冒して進むことになる。そして、「あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました」、と叫ぶ間も、なおもこう云い足すことができるのである。「昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります」、と[詩42:7-8]。イエスがある人とともにおられるとき、試練はその人を悩ませる力を失っているのである。

 私たちが、同じこの慰めのことばを必要とするようになるのは、いつであれ、主が恵み深くも私たちにご自分を明らかに示してくださるときである。主の栄光の輝きは、その大半が私たちには耐えられないほどのものである。その甘やかさものものが心を圧倒してしまう。代々の聖徒たちは、その強烈な歓喜を停止するよう願わざるをえなかった。それが、自分たちの天性の精神機能を押しつぶすかに思われたからである。こうした、心を恍惚とさせるような現われを享受してきた人々は、ヨハネが書いたことを完全に理解できるであろう。「私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった」[黙1:17]。恐ろしい歓喜――それとも、歓喜あふれる畏怖といった方が良いだろうか?――によって、人はうつぶせに倒されてしまうのである。ヨハネはイエスの胸にもたれかかったこともあった。だがしかし、自分の栄化された《救い主》の明確な現われを見たとき、彼はそれに耐えることができなかった。彼の優しき《友》が御手を彼の上に置き、「恐れるな」、と云ってくださるまではそうであった。それと同じことは、私たちひとりひとりが《愛する方》の訪れに恵まれるときに起こるであろう。私たちには、主からこう云っていただく必要が大いにある。「わたしだ。あなたの《兄弟》、あなたの《友》、あなたの《救い主》、あなたの《夫》だ。恐れることはない。わたしは大いなる者だが、わたしの前で震えおののいてはならない。というのも、わたしはイエスだからだ。あなたの魂を《愛する者》だからだ」、と。

 もう一言だけ云うが、来たるべき日には、人の子が天の雲に乗って明らかに現われることになる。それがいつになるかは分からないが、主は人々が予想もしていないときに、突如現われると厳粛に警告しておられる。おびただしい数の人にとって、主は夜中の盗人のようにおいでになる[Iテサ5:2]。だが、信仰者たちの場合、彼らは暗闇の中にはいないため、その日が盗人のように彼らを襲うことはない[Iテサ5:4]。彼らにとって主は待ちに待った友人のようにおいでになる。主が来られるとき、そこには数々の兆候があるであろう。――私たちに見分けのつく数々のしるしが天にも地にも見られるであろう。そのとき私たちは、ことによると、そうした超自然的な前触れによって苦悩させられ、おののき出すかもしれない。では、そうしたときに主がこう仰せになるのを聞くのは、私たちのいかなる喜びとなるであろう! 「わたしだ。恐れることはない」、と。頭を上に上げるがいい。あなたがた、聖徒たち。主が近づきつつあるからである[ルカ21:28]。そして、あなたにとって、それは闇ではなく真昼だからである。あなたにとって、それは審きでも断罪でもなく、誉れと報いである。御座に着いておられる私たちの主のかすかな姿を最初にとらえるのは、何という至福であろう! 罪人たちは、主のために手をもみしぼり、泣いて呻くであろう。だが、私たちは主の御声を知っており、主の現われを喜び迎えるであろう。最後の喇叭が喨々と大きく鳴りわたるとき、幸いなことよ。私たちはこの嬉しげな声音を聞くことになるのである。「わたしだ。恐れることはない」。地は鳴り轟き、山々は崩れ落ち、太陽は暗くなり、月も暗くなり、火焔が立ち上り、地震が衝撃を与え、御使いたちと神の戦車陣が集まってくるが、いずれも私たちを驚倒させることはない。イエスが私たちの魂にこう囁いておられる限りはそうである。わたしはある、と。そして、もう一度、《わたしだ。恐れることはない》、と。

----

キリストの現存による激励[了]



HOME | TOP | 目次