イエスとの真の接触
NO. 3124
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---- 1908年12月24日、木曜日発行の説教 説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
「しかし、イエスは、『だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから。』と言われた」。――ルカ8:46
私たちの主は、ごく頻繁に群衆のただ中におられた。主の説教は、非常に平易、かつ、非常に力強いものであったため、主は常におびただしい数の聴衆を引きつけられた。さらにまた、あのパンと魚の噂は、疑いもなく、主の聴衆が膨れ上がったことと関係していたに違いない。その一方で、奇蹟が見られるとの期待は、確実に主につきまとう者たちの数を増やしたはずである。私たちの主イエス・キリストは、しばしば町通りを歩くことにさえ困難を感じられた。大衆があまりにも主に押し迫っていたからである。これは、説教者としての主にとって心励まされることであったが、しかし、主の肉体を伴っての伝道活動を取り巻いていた、こうした一切の興奮の中から出て来た真の善は、何と小さな残りかすでしかなかったことか! 主はこの大群衆を眺めて、こう仰せになって良かったかもしれない。「もみ殻と穀物が比べものになろうか?」[エレ23:28 <新共同訳>]、と。というのも、それはこの脱穀場の床に、山また山と積み上げられてはいたが、主が世を去られた後で、その弟子たちは、ほんの数十人しかいなかったと云って良いからである。霊的に主を受け入れていた人々はごく少数だった。召される者は多かったが、選ばれる者は少なかった[マタ22:14]。だが、ひとりの人が祝福された所ではどこででも、私たちの《救い主》は、それに注目された。それは主の魂の琴線に触れた。主は決して、ご自分の中から力が出て行き、病んだ者を癒したとき、あるいは、力がご自分の伝道活動とともに出て行って罪深い者を救ったとき、それを自覚しないでいることはありえなかった。本日の聖句が語っている日に《救い主》の回りに集まっていた群衆については、どのひとりについても全く何も云われていない。だが、主にさわった、この、たったひとりの「だれか」は例外であった。群衆はやって来ては去って行った。だが、そのすべてについてはほとんど記録されていない。さながら海洋が満々に差しては、再びその深みへと退いて行くとき、後にほとんど何も残して行かないのと同じように、《救い主》の回りの膨大な群衆の後に残されたのも、この1つの貴重な沈殿物だけであった。――主にさわり、主から力を受け取っていた、ひとりの「だれか」だけであった。
あゝ、私の《主人》よ。今晩もそれと同じことが起こりますように! 打ち続く安息日の朝、また、打ち続く安息日の晩、群衆は、大海原のように流れ込み、この建物を満たしては、ことごとく退いて行く。ただ、まばらに「だれか」が残されて罪ゆえに泣いているだけである。「だれか」が残されてキリストにあって喜んでいるだけである。「だれか」がこう云えるだけである。「私は、主の着物のふさにさわりました。すると私は健やかにされました」、と。私の話を聞いた他の全員は、こうした「だれか」たちほどの値打ちもない。あなたがたの中の多くの人々は、この少数の者ほどの価値もない。というのも、多くの者は玉砂利であり、この少数の者たちは金剛石だからである。多くの者は豆かすの山だが、この少数の者たちは尊い穀物だからである。願わくは神が、今のこの時、こうした人々を見いだしてくださり、すべての栄光が神のものとならんことを!
イエスは云われた。「だれかが、わたしにさわったのです」。ここから私たちが注目したいのは、種々の手段や儀式を用いることにおいて、私たちは決してキリストとの個人的な接触に至るまで満足すべきではない、ということである。私たちは、この女が主の着物にさわったように主にさわるまで安んじてはならない。第二に、もし私たちがそのような個人的な接触に至るとしたら、私たちには1つの祝福があることになる。「わたしから力が出て行くのを感じた」。そして、第三に、もし私たちが祝福を得るなら、キリストはそれを知ってくださる。私たちの問題がいかに人目につかないものであろうと、主はそれを知ってくださる。そして主は、私たちに、それを他の人々に知らさせてくださるであろう。主はお語りになり、問いを発される。そうした問いによって私たちは表に引き出され、世に明らかに示されるであろう。
I. 第一に、《あらゆる手段や儀式を用いることにおいて、私たちの主たる目当てと目的は、主イエス・キリストとの個人的な接触に至るこであるべきである》。
ペテロは云った。「この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです」[ルカ8:45]。そして、それは今日に至るまで、群衆については真実なことである。だが、キリストがおられる聖徒たちの集会にやって来る者たちのうち、大部分は、単にそれが自分たちの習慣だからというのでやって来るにすぎない。ことによると、彼らはなぜ自分が礼拝所に行くのかほとんど分かっていないかもしれない。彼らがやって来るのは、いつもそうしてきたからであり、そうしないでいるのは間違いだと思うからである。彼らは、まるで蝶番で回転する戸のようである。何が起こっているかには、少なくとも礼拝の外的な部分を越えては何の関心も持たない。ここで行なわれていることの心と魂には、入ることがなく、入れもしない。彼らは、説教が短めだと喜ぶ。その場合、彼らにとっては、その分だけ退屈な時間が少なくなるのである。彼らは、あたりを見回して会衆をじろじろ眺めることができれば喜ぶ。そうすることに何かしら面白みを感じる。だが、主イエスに近づくことには、まるで興味を感じない。彼らはそうした見方で事を眺めない。彼らはやって来ては去って行く。やって来ては去って行く。そして、それは、やがて彼らが最後にやって来る時まで続き、それから彼らは来世で見いだすのである。恵みの手段が設けられたのは習慣の問題とされるためではないこと、また、イエス・キリストが宣べ伝えられるのをずっと聞いていながらキリストを拒絶してきたことは、決して取るに足らないことではなく、厳粛な問題だということを。そうしたことについて彼らは、全地の偉大な《審き主》の前で責任を取らなくてはならない。
他の人々は、祈りの家に来て、その奉仕に携わろうとし、それなりに行ないはする。だが、それは単に自分を義とするようにしてか、お勤め的に行なうにすぎない。彼らはそのようにして聖餐卓のもとに来るであろう。ことによると、バプテスマの儀式に服すかもしれない。教会に加入することさえあるであろう。彼らはバプテスマを受けるが、聖霊によってではない。主の晩餐にあずかるが、主ご自身を受け取りはしない。パンを食べるが、決して主の肉を食べはしない。葡萄酒を飲むが、決して主の血を飲みはしない。水槽に沈められはしたが、決してバプテスマにおいてキリストとともに葬られたわけでも、いのちにあって新しい歩み[ロマ6:4]をするためにキリストとともによみがえったわけでもない。彼らにとっては、聖書を読み、賛美歌を歌い、祈るために膝まずき、説教を聞く等々のことで十分なのである。彼らは殻で満足しているが、ほむべき霊的な実の方は――真の脂肪と髄の方は――全く何も知らない。あなたの好むいかなる教会、あるいは、集会所に入ろうと、こうした人々が多数派である。彼らはイエスの回りにひしめき合っているが、主にさわることがない。やっては来るが、イエスと接触することがない。彼らは外側の、外面的な聴き手でしかなく、内側でキリストのほむべき人格にさわることが全くない。この永遠にほむべき《救い主》と神秘的に接触することが全くない。主から彼らに対していのちと愛とが流れることは全くない。すべては機械的な宗教である。生きた敬虔さについて、彼らは何も知らない。
しかし、キリストは、「だれかが、わたしにさわったのです」、と云われた。そして、それこそ肝腎なことである。おゝ、話をお聞きの方々。ひとり祈っているときには、決して祈りをしたということで満足してはならない。祈りにおいてキリストにさわるまで、やめてはならない。あるいは、たとい主に達することがなくとも、少なくとも、そうするまでは吐息をつき、叫び求めるがいい! 祈り終えたとは考えずに、もう一度試みるがいい。公の礼拝に来るときには、私は切に願うが、説教に耳を傾けることだの何だので満足してはならない。――あなたがたがみな、十分な注意を払っていることを私は証言できる。――だが、《主人》なるキリストに達して、この方にさわるまで安んじてはならない。聖餐式の卓子のもとに来るときには常に、幕の内側に真っ直ぐに入り、キリストご自身の御腕に飛び込むまで、あるいは、少なくとも主の着物にさわるまで、決して恵みの儀式を行なったとみなしてはならない。常にこう感じているがいい。恵みの手段の第一の目的、また、そのいのちと魂は、イエス・キリストご自身にさわることであり、「だれか」が主にさわるのでなくては、すべては、いのちも力もない、死んだ芝居でしかない、と。
本日の聖句の女は、単に群衆の中にいたひとりというだけでなく、イエスにさわった。それゆえ、愛する方々。いくつかの点で彼女をあなたの模範として掲げ上げさせてほしい。とはいえ私は、他の点ではあなたが彼女にまさっていてほしいと願うものである。
最初に注意したいこととして、彼女は群衆の中にいるだけでは何にもならないと感じていた。キリストと同じ町通りにいること、あるいは、キリストがおられる場所の近くにいることは役に立たず、主に手を届かせなくてはならない。主にさわらなくてはならない。注意すると分かるように、彼女が主にさわったのは、多くの困難の下においてであった。そこには大群衆がいた。彼女は女であった。さらに、病気によって弱まっていた女であった。その病気によって彼女は、長いこと体力を消耗させられてきた。また、雑踏の中で押し合いへし合いされるよりは、寝床に伏している方がふさわしい状態にあった。だが、それにもかかわらず、彼女は非常に強い願いをいだいており、遮二無二前へ進んだ。疑いもなく多くの擦り傷を作りながらも、また、何度も心なく押しのけられながらも、とうとう彼女は、あわれな震えおののく者ではあっても、主のそばに達したに違いない。愛する方々。イエスに手を届かせるのは必ずしも常に容易ではない。祈るために膝をかがめることはごくたやすいが、祈りによってキリストに達することはさほど易しくない。そこで子どもが泣いている。あなたの子である。そして、その泣き声はしばしばあなたがイエスに至ろうと努めているとき、あなたを妨げてきた。あるいは、あなたが最もひとり静まっていたいと願うときに、扉が叩かれる。神の家に座っているとき、あなたの前の席に座っている隣人が、それとは知らずにあなたの気を散らすかもしれない。キリストに近づくのは容易でない。特に、あなたがたの中のある人々のように、会計事務所や作業場から真っ直ぐにやって来て、一千もの雑念や思い煩いをまとわりつかせている場合はそうである。あなたは、常に自分の重荷を外で降ろして、福音を受け入れる備えのできた心をもって、ここに入って来ることができるわけではない。あゝ! 時としてそれは恐ろしい戦いである。悪や、誘惑や、その他の有象無象との白兵戦である。しかし、愛する方々。最後まで戦い抜くがいい。戦い抜くがいい。あなたの祈りの時を無駄にしてはならない。説教を聞く時間を棒に振ってはならない。むしろ、この女のように、いかに弱々しくはあっても、キリストをつかもうと決意するがいい。そして、おゝ! もしあなたがそのことについて決意を固めるなら、たといあなたが主に到達できなくとも、主があなたのもとに来てくださるであろう。そして、時として、あなたが不信仰な思念と葛藤しているとき、主は振り向いて仰せになるであろう。「その、あわれな弱い者のために隙間を作ってやるがいい。彼女がわたしのもとに来られるようにしてやるがいい。わたしは自分の手で造ったものを慕っている[ヨブ14:15]。彼女をわたしのもとに来させるがいい。そして、彼女の願いがかなえられるようにしてやるがいい」。
さらに注目すべきことに、この女はごく秘めやかにイエスにさわった。ことによると、この場にいるひとりの愛する姉妹は、今この瞬間にキリストに近づきつつあるかもしれない。だがしかし、彼女の顔はそのことを全く表わしていない。彼女がキリストと得た接触は、あまりにも僅かすぎて、私たちが神の子どものうちにしばしば見るような喜ばしい紅潮や、目の輝きは、まだ彼女を訪れていない。彼女は向こうの人目につかない片隅に座っているか、この通路に立っている。だが、その一触れは、かすかなものではあっても、真実である。彼女はそのことについて他人に告げることはできないが、事は成し遂げられている。彼女はイエスにさわったのだ。愛する方々。キリストとの最も親密な交わりは、必ずしも私たちが人に触れ回るようなものではない。深海は乱れることがない。しかり。私たちは、時として自分がキリストから遠く離れていると思っているときの方が、キリストの近くにいると想像しているときよりも間近にいることがあるかも分からない。私たちは、自分自身の霊的状態について最上の判定者ではないからである。そして、私たちは《主人》の間近にいながら、それにもかかわらず、より近くに行きたいと切望するあまり、すでに受けた程度の恵みには満足できないと感じることもありえる。自己に満足することは決して恵みのしるしではない。だが、より大きな恵みを慕い求めることは、しばしば魂の健全な状態をはるかに良く示す証拠である。愛する方々。もしあなたが今晩、公にこの卓子のもとに来ないとしても、ひそかに《主人》のもとに行くがいい。もしあなたがあなたの妻に、あるいは、子どもに、あるいは、父親に、自分はイエスの方に向きつつあるとあえて告げられないとしたら、それを告げる必要はまだない。あなたは、それを秘かに行なって良い。そうする人に向かってイエスはこう云われた。「わたしは、……あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです」[ヨハ1:48]。ナタナエルは、誰からも見えない物陰に引きこもっていたが、イエスは彼をご覧になり、彼の祈りに注意された。そして、群衆や、暗闇の中にいるあなたをもご覧になり、その祝福を差し止めようとはなさらないであろう。
この女がキリストと接触したのは、自分のふさわしくなさを深く感じながらでもあった。たぶん彼女はこう考えていたであろう。「もし私があの《大預言者》にさわったなら、彼が私を何か突然の審きで打つとしても何の不思議もないでしょう」、と。というのも、彼女は、儀式律法によると汚れた女だったからである。彼女には、人込みの中にいる何の権利もなかった。レビ記律法を厳密に適用すれば、彼女は自宅に閉じ込められていたはずだと思う。だが、そこで彼女はうろうろしており、行ってこの聖なる《救い主》に是が非でもさわろうとしていた。あゝ、あわれな心よ! あなたは、《主人》の衣の裾をさわるにはふさわしくないと感じている。自分が、あまりにも無価値な者だからである。あなたは、この瞬間ほど価値のない者だと感じたことは今まで一度もなかった。この一週間のことを、また、その数々の弱さを思い出すとき、また、あなたの心の現在の状態と、それがいかに神から離れてふらついているかを思い起こすとき、あなたは、あたかもこれまで神の家の中に入ったことのある、いかなる罪人にもまして価値のない者だと感じる。「恵みは私のためのものだろうか?」、とあなたは問う。「キリストは私のためのお方だろうか?」 おゝ、しかり。価値なき者よ! それを受けずに出て行ってはならない。キリストは価値ある者ではなく、無価値な者をお救いになる。あなたの嘆願は義ではなく、咎でなくてはならない。そして、また、あなたがた、神の子どもたち。あなたは自分を恥じているが、イエスはあなたのことを恥じてはおられない。そして、確かにあなたはここに来るにふさわしくないと感じているが、ふさわしくないからこそ、いやまさる熱心さをもって願うがいい。必要を感じていればこそ、さらに熱烈に主に近づこうとするがいい。主はあなたの必要を満たすことがおできになるのである。
このようにして、見ての通り、この女は種々の困難の下にあってやって来た。こっそりやって来た。ふさわしくない者としてやって来た。だが、それでも祝福を獲得した。
私の知っている多くの人々は、パウロのこの言葉に動揺させられる。「ふさわしくなく飲み食いするならば、その飲み食いによって自分を地獄に落とすことになります」[Iコリ11:29 <英欽定訳>]。さて、理解してほしいのは、この箇所は聖餐卓のもとにやって来る人々のふさわしさについて言及してはいないということである。というのも、これは、「ふさわしくない者が飲み食いするならば」、とは云っていないからである。これは形容詞ではない。副詞である。「ふさわしくなく飲み食いするならば」。すなわち、キリストの臨在を外的に、また、目に見えるしかたで示すしるしのもとに来る者のうち、自分を偽善者であると知りながら、教会の会員になることによって金儲けをするためにパンを食べるような者、あるいは、それを冗談めかして、この儀式をもて遊ぶようなしかたでそうする者、そうした人はふさわしくなく飲み食いするのであり、審かれることになるのである。この箇所の意味は、 英欽定訳聖書に記されているように「地獄に落とす」ということではなく、「罪に定める」ということである。疑いもなく教会の会員の中で、聖餐卓のもとにふさわしくないしかたでやって来る者たちは、罪に定められるに違いない。彼らはそうすることで罪に定められ、主は悲しまされる。もし彼らに少しでも良心があるなら、自分の罪を感じるべきである。さもなければ、神の懲らしめが彼らを訪れると予期して良い。しかし、おゝ、罪人よ。キリストのもとに行くことについては、――それは聖餐卓のもとに行くこととは全く違う。――キリストのもとに行くことについては、あなたが自分をふさわしくないと感じれば感じるほど良い! 来るがいい。あなたがた、不潔な人たち。キリストはあなたを洗いきよめることがおできになる。来るがいい。あなたがた、忌み嫌うべき人たち。キリストはあなたを美しくすることがおできになる。来るがいい。全く破滅した、手の施しようもない人たち。イエス・キリストのうちには、あなたの状況が必要とする強さと救いがある。
さらにまた注意するがいい。この女が《主人》にさわったとき、それは非常な震えおののきを伴った、そそくさとしたものでしかなかったが、それでも、信仰のあかしであった。おゝ、愛する方々。キリストをつかむことの幸いさよ! もしほんの数分でもキリストの近くに行けたなら感謝するがいい。「私のところにとどまっていてください」。これがあなたの祈りであるべきである。だが、おゝ、もしも主が、ご自分を一瞥することだけでも許してくださったとしたら、感謝するがいい! ほんの一触れでこの女が癒されたことを思い出すがいい。彼女はキリストを抱きしめて一時間もともにいたのではなかった。一度さわっただけであったが、癒された。そして、おゝ、愛する方々。願わくはあなたが、今イエスを一目でも見られるように! それがほんの一瞥であっても、それはあなたの魂を喜ばせ、元気づけるであろう。ことによると、あなたはキリストを待ち続けているかもしれない。お供することを願っていながら、そのことを頭の中でぐるぐる思い巡らしつつ、こう問うているかもしれない。「主が私を光で照らされることなどあるだろうか? 愛のこもったことばを私になどかけてくださるだろうか? 御足元に私などを座らせてくださるだろうか? 私の頭を御胸にもたせることを許してくださるだろうか?」 来て、試してみるがいい。たとい箱柳の葉のように震えながらではあっても、来るがいい。人は、時として最もおののきながらやって来るとき、最高のやって来かたをすることがある。というのも、被造物が最も低くなっているときこそ、《創造主》は最も高くされているからである。そして、私たち自身の評価において、私たちが無と空虚以上の何者でもないとき、そのときこそキリストは、私たちの目において最も美しく麗しいのである。天に昇る最高の方法の1つは、四つん這いで行くことである。いずれにせよ、そうした姿勢でいるとき、私たちが倒れる恐れはない。というのも、――
「伏したる者は 倒るを恐れじ」。
あなたが心へりくだらせ、自分を全くの無であると感じていることは、あなたを不適格にする代わりに、いやまさってキリストを受け取らせる甘やかな手段となるはずである。私が空しくなればなるほど、私の《主人》を迎え入れる余地は大きくなる。私が事欠けば欠くほど、主は多くをお与えになるであろう。私が自分の病を感じれば感じるほど、主が私を健やかにされるとき、私は主をあがめ、ほめたたえるであろう。
見ての通り、この女は本当にキリストにさわった。そして、そこに私はやはり立ち戻る。その一触れにいかなる弱さが伴っていようと、それは真に信仰の一触れであった。彼女はキリストご自身に手を届かせた。ペテロにさわったのではない。それは何の役にも立たなかったであろう。教区司祭からあなたは新生していますと告げられても、じきにあなたの生活によって、そうではないことが証明されるのとまるで変わらない。彼女はヨハネやヤコブにさわったのでもない。それは何の役にも立たなかったであろう。あなたが主教の手によってさわられて、あなたの信仰は確認されたと告げられても、あなたが信仰者ですらなく、それゆえ、確認されるべき何の信仰もなければ、それが何にもならないのと同じである。彼女は《主人》ご自身にさわった。そして、私は切に願う。あなたも同じことができるまで安んじてはならない。信仰の手を差し伸ばし、キリストにさわるがいい。キリストにより頼むがいい。その贖罪の犠牲により頼み、その死に給う愛、そのよみがえりの力、その昇天されての訴えにより頼むがいい。そして、あなたが主に信頼している場合、あなたの生きた一触れは、いかに弱々しくとも、確実にあなたに、あなたの魂が必要とする祝福をもたらすであろう。
ここから私は、この講話の第二の部分に至らされる。それを手短に語ることにしよう。
II. 《この群衆の中にいた女は実際にイエスにさわり、そうすることによって、イエスから力を受けた》。
この癒しの精力は、信仰の指を通して、たちまちこの女の中に流れ込んだ。キリストのうちには、あらゆる霊的病のための癒しがある。そこには、迅速な癒しがある。何箇月も何年もかかるような癒しではなく、一秒で完成する癒しがある。キリストのうちには、十分な癒しがある。あなたの病気は手のつけようもないほど増え広がっているが関係ない。キリストのうちには、すべてに打ち勝つ力があり、あらゆる病を追い散らす。この女のように、あなたは医者という医者に匙を投げられ、あなたの症状は他に例を見ないほど絶望的なものとみなされているが、それでも、キリストに一触れすれば癒されるであろう。何と尊く、栄光に富む福音を、私たちは罪人たちに宣べ伝えていることか! もし彼らがイエスにさわるなら、悪魔そのひとが彼らのうちにいようと、信仰のその一触れによって悪魔は彼らから追い払われるであろう。あなたが、悪霊どもの一軍団を宿している人のようであったとしても、イエスの一言で彼らは深みへと投げ込まれ、あなたは着物をまとい、正気に返って、主の御足元に座ることであろう。いかに荒れ狂う、いかに途方もない罪であれ、イエス・キリストの御力で打ち負かせないものはありえない。もしあなたが信じることができるなら、これまでのあなたが何をしてきたとしても、あなたは救われるであろう。もし信じることができるなら、たといこれまでのあなたが緋色の染料の中に横たわり、あなたの存在の縦糸と横糸にそれが深く染み込んでいたとしても、イエスの尊い血はあなたを雪のように白くするであろう。あなたが地獄そのもののように黒くとも、また、かの穴に投げ込まれるだけの価値しかなくとも、もしあなたがイエスを信頼するなら、その単純な信仰によってあなたの魂は癒され、あなたは天国の大通りを踏みしめるにふさわしくされるであろう。そしてあなたは、いやしを給う主[出15:26]の御顔の前に立ち、自分を癒してくださった主をあがめるであろう。
さて今、神の子どもよ。私は同じ教訓を学んでほしいと思う。まず間違いなく、あなたは、ここに来たときこう云ったであろう。「悲しいかな! 私は非常に鈍重な気分をしている。私の霊性は非常に衰えている。この場所は熱い。そして、私は話を聞く備えができていないのを感じる。霊は燃えているが、肉体は弱い。私は、きょうは聖なる喜びを受けないことであろう!」 なぜそうなるのだろうか? 何と、イエスの一触れは、あなたが死んでいても、あなたを生かすことができたのである。ならば、確かに、それはあなたのうちにあるいのちをかき起こすことであろう。たといそれが、あなたには息も絶え絶えに思われても関係ない! さて、愛する方々。イエスに達するために苦闘するがいい。願わくは《永遠の御霊》がやって来て、あなたを助けてくださるように。また、願わくはあなたが、自分の鈍重で、死んだ時間がじきに自分の最高の時となりうることを見いだせるように! おゝ、何たる祝福であろう。神が貧しい人を芥から引き上げ[Iサム2:8]てくださるとは! 神は、私たちがすでに立ち上がっているのを見るとき、私たちを立たせてはくださらない。だが、私たちが芥の山の上に伏しているのを見いだすとき、私たちを引き起こし、高貴な者とともに座らせるのを喜ばれる。あなた自身が知らないうちに、あなたは民の高貴な人の車に乗せられていよう[雅6:12]。物憂さのあまり死にそうな状態から、一瞬にして、陶酔するような礼拝の高みそのものへと上ることができる。十字架につけられたキリストにさわることができさえすれば、そうである。向こうで血を流している、また、茨の冠を頭にいだいておられる主を見上げるがいい。その悲惨さのすべての威光のうちに、あなたのために息絶えられる主の姿を!
「悲しいかな!」、とあなたは云うであろう。「私は今晩、一千もの疑いがあります」。あゝ! だが、あなたの疑いは、あなたがキリストに近づくとき、すぐさま消え失せるであろう。キリストから触れられるのを感じる人は決して疑わない。――少なくとも、その一触れが長続きしている間はそうである。というのも、この女に注目するがいい。彼女は、自分のからだの中が健やかにされたと感じた。あなたも、それと同じになるであろう。もしあなたが主と接触しさえすればそうである。種々の証拠を待っていてはならない。むしろ、証拠を求めてキリストのもとに行くがいい。もしあなたが自分自身のうちには何の良いものがあるとも夢にも見ることができないとしても、最初のときと同じように、イエス・キリストのもとに来るがいい。これまで一度もそうしたことがなかったかのように、主のもとに来るがいい。罪人としてイエスのもとに来るがいい。そうすれば、あなたの疑いは逃げ散るであろう。
「あゝ!」、と別の人は云うであろう。「ですが、私のもろもろの罪が、回心以来の私の罪が、思い出されてならないのです」。よろしい。ならば、イエスに立ち戻るがいい。あなたの咎が戻ってくるように思われるときには、そうするがいい。その泉は、今なお開かれており、その泉は、あなたも覚えている通り、罪人たちのためばかりでなく、聖徒たちのためにも開かれているのである。というのも、聖書は何と語っているだろうか? 「ダビデの家とエルサレムの住民のために…… 一つの泉が開かれる」[ゼカ13:1]。――すなわち、あなたがた、教会員たちのためである。あなたがた、イエスを信じる者たちのためである。その泉は今なお開かれている。来るがいい。愛する方々。イエスのもとに新たに来るがいい。そうすれば、あなたの罪、疑い、鈍重さがどのようなものであれ、それらはみな、あなたがあなたの主にさわれるなら、たちまち離れ去るであろう。
III. さて今、最後の点はこうである。――そして、私はそのことで長々とあなたを引き留めはすまい。――《もし誰かがイエスにさわるなら、主はそれをお知りになる》。
私はあなたの名前を知らない。あなたがたの中の大多数は、私にとって全くの他人である。それはどうでも良い。あなたの名前は、「だれか」であり、キリストはあなたをお知りになるであろう。あなたは、ことによると、この場所にいるいかなる人にとっても赤の他人かもしれない。だが、もしあなたが祝福を得たなら、それを知ることになる者が二人いるであろう。あなたと、キリストである。おゝ! もしあなたがきょうイエスを仰ぎ見るなら、それは私たちの教会文書には記録されないかもしれず、私たちはそのことについて耳にしないかもしれないが、それでも、それは天の裁判所で正式に記録されるであろう。そして、新しいエルサレムのあらゆる鐘を打ち鳴らすであろう。御使いたちのあらゆる立琴は、あなたが新しく生まれたと知るや否や、再び生き生きと音楽を奏で始めるであろう。
「喜びをもて 父は認めぬ、
永久(とわ)の愛より 結(いで)し実りを。
御子も喜び 見下ろせり、
御苦しみにて 贖(か)いし者らを。「御霊も楽しみ 眺め給わん、
その新しくせし 聖き魂(たま)をば。
聖徒ら、御使い、ともに歌えり、
その大君(おおきみ)の 帝国(くに)の増進(ませ)るを」。「だれか」よ! 私はその婦人の名前を知らない。その男の名前を知らない。だが、――「だれか」よ!――神の選びの愛は、あなたの上にとどまっている。キリストの贖いの血は、あなたのために流されたのである。御霊はあなたの中で有効な働きを行なっておられる。さもなければ、あなたがイエスにさわることはなかったであろう。そして、これらすべてをイエスはご存知なのである。
思えば慰められることに、キリストは単に家族の中の大きな子どもたちを知っているだけでなく、小さな者たちをも知っておられる。この真理は今も変わらない。「主はご自分に属する者を知っておられる」[IIテモ2:19]。そして、もし私がキリストのからだの一部分だとしたら、私はただの足でしかないかもしれないが、主はその足をご存知なのである。そして、天にあるかしらと心は、地上にある足が傷つくときにはその痛みを鋭く感じるのである。もしあなたがイエスをさわったことがあるなら、私はあなたに云うが、御使いたちの栄光の間において、また、御座の回りにいる、血で買われた魂全員の永遠のハレルヤの中でも、主は時間を割いてあなたの吐息を癒し、あなたの信仰を受け入れ、あなたに平安の答えを与えてくださる。天から地上へ至る道のすべてには、癒しの力が巨大な川となって轟々と流れている。キリストからあなたのもとに発している力である。あなたが主にさわったので、その癒しの力はあなたに触れているのである。
さて、イエスは、あなたの救いについて知っておられるが、他の人々にもそれを知らせたいと願われる。そして、それゆえにこそ主は私に、こう云おうする心をお与えになったのである。「誰かが、主にさわったのです」、と。その誰かは、どこにいるだろうか? 誰かよ、あなたはどこにいるのか? 誰かよ、どこにいるのか? あなたはキリストにさわった。弱々しい指ではあっても、さわった。それであなたは救われているのである。私たちにそれを知らせてほしい。私たちは、当然それを知らされるべきである。あなたには到底思いも及ばないことだろうが、病む者が私たちの《主人》によって癒されたと聞かされるとき、私たちは途方もない喜びを与えられるのである。あなたがたの中のある人々は、ことによると、主を知って何箇月にもなるかもしれない。だが、前に進み出て、そのことを公然と認めることはしていない。どうかぜひそうしてほしい。あなたは、この女のように震えながら進み出るかもしれない。ことによると、「私はあなたに何と云えば良いか分かりません」、と云うかもしれない。よろしい。あなたは私たちに、彼女が主に告げたことを告げなくてはならない。彼女は主に真実を洗いざらい打ち明けた。私たちは、それ以外の何も聞きたくない。何のまがいものの経験も欲してはいない。あなたが本で読んだことのある誰か他人の感情をでっちあげてなどほしくはない。来て、あなたが感じたことを私たちに告げるがいい。私たちがあなたに求めているのは、あなたが感じなかったことを告げることでも、あなたが知らないことを告げることでもない。しかし、もしあなたがキリストにさわったなら、また、癒されたなら、私は求めたい。また、それを求めることは、私たちに対する恩恵としてばかりでなく、あなたの義務としても当然だろうと思う。やって来て、主があなたの魂のために何をしてくださったかを私たちに告げるがいい。
そして、あなたがた、信仰者たち。あなたが聖餐卓に来るとき、キリストに近づき、甘やかな時を過ごすとしたら、それをあなたの兄弟たちに告げるがいい。さながらベニヤミンの兄たちが穀物を買うためエジプトに下って行った際に、ベニヤミンは家に置いていっても、ベニヤミンのための大袋は持っていったように、あなたも常に家にいる病んだ妻のため、あるいは、来ることができない子どものための言葉を持ち帰るべきである。来ることができないでいる家族の者たちのため、食料を持ち帰るがいい。願わくはあなたが常に何か甘やかなものを有することができ、尊い真理についてあなたが身をもって知ったことについて告げることができるように。というのも、説教は、それ自体が甘やかなものでもありえるが、あなたがこう云い足せるとき、二倍の力がそこにこもるからである。「そして、そこには私を楽しませる香りがあり、それによって私の心は喜び踊ったよ!」、と。
私の愛する方々。あなたがいかなる者であれ、また、あわれな「だれか」でしかないかもしれなくとも、もしあなたがキリストにさわったなら、それについて他の人々に告げるがいい。それは、彼らもまたやって来て、キリストにさわるようになるためである。そして、主があなたを祝福し給わんことを。キリストのゆえに! アーメン。
イエスとの真の接触[了]
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