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旅立つ準備をする

NO. 3116

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1908年10月29日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1865年10月8日、主日夜


「こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現われ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った」。――II列2:11


 エリヤのこの世からの旅立ちは、もちろん彼が「死んだ」わけでは全くないにせよ、非常に良い種類の死の様子を示してくれているように思われる。すなわち、突然に取り去られたにもかかわらず、そのように取り除かれるだろうとの予告を、ある程度まで前々から行なっていた聖徒たちが死んでいく様子である。この場にも、そのような人々がいるかもしれない。そうした人々は、自分がある病気をかかえていて、それが、ほぼ確実に急死を招くだろうと知っているのである。私たちの中の他の者らには、今の所、突然の死と突然の栄光とが自分に備えられていることなど全く思いもよらない。私たちは、そのような死を遂げることが主のみこころだとしたら、それから尻込みしようとは思わない。否、私たちの中のある者らは、喜んで両手を差し出し、それほど幸いな旅立ちのしかたをつかみとろうとするであろう。私たちにとって常に、この世を去る望ましいしかたと思われてきたのは、長患いでからだがきかなくなり、介護してくれる人々を倦み疲れさせことなく、突然この地上で自分の目を閉ざし、それを天国の光輝のうちに開くことであった。そのように死ぬのは、自分の労苦をやめて、私たちの主の御前に入る幸いなしかたであろうと思う。

 I. エリヤの場合を指針として私たちは今晩、いくつかの言葉を語りたいと思う。願わくは神がそれらによって徳を建て上げてくださるように!――それは、《自分の旅立ちのための準備をする》ことについてである。実のところ、それは間近に迫っているため、いいかげんにそのことについて語り始めるべきなのである。

 それは、私たちが考えているよりも、ずっと間近に迫っている。あなたがたの中でも五十歳、六十歳、七十歳を越えてしまった人々にとっては、それは否応もなく非常に間近であるに違いない。私たちの中の、働き盛りにある他の者らにとっても、それははるか彼方にあるものではない。というのも、私たちはみな、今の自分にとって時間の流れが以前よりもずっと速くなっていることに気づいていると思うからである。若い頃の年月は、成人した今の私たちの年月よりも二倍も長かったように思われる。蕾がふくらみ始め、花をほころばせたのは、つい昨日のことだったのに、今や葉が落ち始めており、じきに私たちは、古馴染みの冬がいつもの足取りでやって来るのを予期するはずである。年月はあまりにも目まぐるしく旋回しているため、私たちは、いわば、その車輪の輻を成している月々を見てとることができない。一切があまりにも迅速に動いているため、その車軸はその速度によって赤熱している。私たちは、ある強大な鷲の翼に乗っているかのように、永遠に向かって飛んでいる。ならば、死ぬための準備について語ろうではないか。それは、私たちが行なう中で最も大きなことであり、いやでもじきにそうせざるをえなくなる。では、それについてある程度のことを語り、また、考えようではないか。

 では、死ぬための準備をしているときには、何をすべきだろうか? よろしい。私たちは、多少の時間を費やして、暇乞いを行なって良い。私たちには、自分にとって非常に愛しい者であった何人かの友人がいる。では、彼らに、「さようなら」、と告げ始めてもほとんどかまわない。死が本当にやって来つつあると感じるときには、多少の時期をとっておき、友人に向かってこう云って良い。「どうか今、私のもとから離れておくれ」、と。ある人々は、エリヤとともにいたエリシャのように、一生の間、私たちとともにいて、死の最後の瞬間まで離れようとしないであろう。だが、自分の旅立ちが予期される折には、いかなるものも堅く握りしめないでおくようにしなくてはならない。なぜ私たちは死が自分からもぎ取るに違いなく、実際にもぎ取って行くものを、それほどひしと握りしめておくべきだろうか? なぜ私は、自分の目の前で溶け去るだろう死に行くものに、それほど熱烈な愛情をかけるべきだろうか? 召されて出かけるときには、それを一緒に連れて行けないのである。確かに愛する者たちは、私たちから離れようとしないだろうし、私たちの心の中で生き続けるであろう。彼らも最後の時が来るまで、また、それよりもずっと長く、自分の心の中で私たちが生きることを許してくれるであろう。しかし、私たちは今からでさえ、自分の旅立ちの準備として、彼らにも自分自身にも、こう思い起こさせ始めなくてはならない。こうした友情は断たれなくてはならず、こうした結びつきは、断ち切られなくてはならないのだ、と。ヨルダンの向こう岸で、再びその友情を楽しむことになると希望するにしても、少なくともしばらくの間はそうである。

 次になすべきこと、また、それよりずっと重要なことと思われるのは、行って、自分の働きについて考えてみることである。もし私たちが故郷に帰ることになると少しでも感じているとしたら、身辺を整理しておこう。エリヤは何をしただろうか? 彼は、ベテルとエリコに自分が創設した2つの学校の所に行った。彼は、その二校の第一教官であり、その青年たちのもとから取り去られる前に、もう一度彼らに話をしたのである。私は、その学生のひとりとなって、この《教授》の最終講義に耳を傾けたかったと思う。請け合っても良いが、それは普通の講義ではなかった。そこには、全く無味乾燥なもの、錆びついたもの、活気のないもの、退屈なものがなかった。おゝ、愛する方々。私は、この預言者が神の御前であるかのように、また、神の聖なる御使いたちの前であるかのように、彼らに命じているのが聞こえる気がする。彼らの生きている時代の罪を叱責せよという命令である。「私は、カルメル山の頂上に向かった」、と彼は云った。「そして、バアルの預言者たちが私の回りに集まった。だが、私は彼らを笑ってあざけった。彼らの頭上に痛烈な皮肉を浴びせてやった。バアルについてこう云ってやったのだ。『もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから』。それから、彼らが剣や槍で自分たちの身を傷つけている間も、彼らをあざけって云ったものだ。『もしかすると、彼は狩りをしているのか、寝ているのかもしれない。もっと大声で起こす必要があるのだぞ』。私は、彼らが祭壇の上で獲得したものをあざけり笑った。それから、私が膝まずいて、天から火を降らせるよう叫ぶと、かつて私が信仰によって罪深いイスラエル人の土地に全く雨が降らせないように閉ざしたのと同じ空が、今度は私の言葉によって火を発したのだ。そこで、私はバアルの預言者たちを捕えた。ひとりも逃さなかった。彼らをキション川のほとりで殺し、その川を彼らの血糊で真っ赤に染めた。なぜなら、彼らは神の民を邪道に導き、《いと高き方》の御名を汚してきたからだ。さて、若者たち」、と彼は云った。「死に至るまで忠実であるがいい。行って、人々を教えるがいい。彼らが聞こうが我慢しようが関係ない。彼らの偶像を引き倒し、エホバを高く上げ、エホバによって遣わされた者らしく語るがいい」。

 あなたは、愛する方々。私のように学生を教えるよう召されてはいない。それで、私は熱心な共感をこめてこう語るものである。講壇の上で死ぬことの次に私が選びたいのは、そうした兄弟たちの間で死ぬことである、と。私は彼らをしばしばかき立てて、《主人》の御国の進展において忠実な者にしようとしているからである。しかし、あなたが旅立つ前に、あなたの様々な働きを見直すべきであることはもっともである。《日曜学校》の教師たち。あなたの生徒たちを呼び寄せるがいい。彼らに向かってする話は、死に行く人間からのものとするがいい。あなたがた、私たちの《聖書学級》を導くことができ、実際に導いている愛する兄弟姉妹たち。あなたには、多くの魂が絶えずゆだねられている。彼らの血の責任があなたに帰されないようにし、今晩――そして毎晩――自分の墓場に行くかのように寝床に就くがいい。そして、今の自分は、永眠の時が確実に来ると分かっていても悔いない者であるかのように眠りに就くのだと感じられるようにするがいい。私たちひとりひとりは、自分が手がけている様々な働きを気遣い、不適切なものを何1つ残して行かないようにしよう。とっくに話をすべきでありながら、まだ《主人》に代わって訴えかけていない魂が1つでもあるだろうか? それを今しようではないか。とっくに耕しておくべきであったのに、鋤の刃が畝の中で錆びついているような、あなたが用いられるべき畑はないだろうか? まさに今晩、行って耕し始めようではないか。あるいは、少なくとも、明日、日が上ったときにそうしよう。私たちの生きる時間はごく僅かである。死に行く者のように生きようではないか。ひとりの令夫人が、かの献身的な教役者セシル氏の教区に滞在していたとき、ある特定の働きを引き受けるよう彼から頼まれたという。彼女は彼に答えた。「愛する先生。ぜひ喜んで行ないたいところですけど、私は、この教区に三箇月以上いるかどうかはっきりしておりませんのよ」。「あゝ!」、と彼は云った。「私もこの教区に三時間以上いるかどうかはっきりしておりませんぞ。ですがしかし、私は自分の義務を続けています。ですから、奥様にお願いするのです。あなたの義務をお始めください、と」。自分の持ち時間がたっぷりあるとは考えず、ごく僅かしかないものと考えるがいい。ベザは、ヨハネの福音書を翻訳していたとき、自分の書記に向かってこう云った。「早く書くがいい。早く書くがいい。私は死につつあるのだから」。そして、最後の節に達したとき、彼は云った。「さあ、その本を閉じて、しばらく私をひとりにしてくれ」。そして、頭を後ろにそらすと、栄光に入ったのである。懸命に働くがいい。蝋燭はほとんど燃え尽きようとしているのに、あなたはまだその衣を縫い上げていないのである! 懸命に働くがいい。その一本がなくなれば、ともすべきもう一本の蝋燭はないのだから!

 エリヤがエリシャに別れを告げ、学生たちに話し終えたとき、次のことはヨルダンを渡ることであった。その外套で彼は水を打ち、その間を通って行った。それから、水は、いわば彼を、エリシャを除くと、一切の世界から閉め出してしまった。私も、もし自分の死亡日を通知されるようなことがあったとしたら、ひとりでこの世界から離れて行きたいと思う。死に行く人間が、仕事に何を望むだろうか? 死んで行かなくてはならない人間に必要なのは、会計台帳を閉じ、かのほむべき本を開いておくことである。その本が、神の鞭と杖[詩23:4]として、死の陰の谷でもその人の慰めとなるであろう。私の友人たちの中のある人々は、非常に幸いな環境にあり、ほとんどねたましく思われるほどである。こうした人々は、死ぬ前に、生涯の種々の活動を終えてしまい、今は、いわばヨルダンの瀬戸際に至った僅かな時期を迎えている。そして、主のわざをこつこつ行なう以外は安息を得ている。――この世からの安息を得て、栄光に入る準備をしているのである。バニヤンは、この状態をまざまざと描き出し、彼が「ベウラの国」と呼ぶものを私たちに告げている。「そこの空気は非常にかぐわしくて快く、道はその中を真直ぐに通っていたので、そこで暫く休んでみずからを慰めた。その上ここで絶えず鳥のさえずりを聞き、日毎にもろもろの花が地にあらわれるのを見、また山ばとの声をこの地で聞いた。この国では太陽は昼も夜も輝いていた。それは、死の陰の谷より彼方にあって、巨人絶望者も力及ばず、ここから疑惑城は望み見ることもできなかった。ここでは目指す都も視界のうちにあり、そこの住民たちにも何人か会った。この地は天国の国境であったから、輝ける者たちが常に歩いていたのである」*1。彼らは、まだ地上にある間から、上なる領域の旋律を聞いた。これは、私たちの地上の生涯の幸いな終点である。かの預言者は、こう云ったとき、このことをほのめかしていたのではないだろうか? 「夕暮れ時に、光がある」[ゼカ14:7]。仕事から遅く帰宅したとき、いかにあなたは私たちが有してきた素晴らしい夕べを楽しんできたことであろう。かくも美しく、かくも平穏で、かくも輝かしい夕べを! あなたは、その日が死ななくてはならないこと、夜露が涙のように落ちることを知っている。だが、おゝ! その死の時はきわめて心地よかった! そこには、あなたを焼く太陽の熱はなく、あなたを悩ませる埃も心配事の旋風もなかった。そして、私たちの中のある者らの頭には、ほんの僅かな白髪しかないが、ほとんどの人々よりも早めにこうした幸いな時を始めないとも分からない。私が云うのは、仕事を脇に置くという意味ではなく、不信仰を脇に置くという意味である。骨折り仕事をやめるというのではなく、煩わしい気苦労をやめるということである。なぜ私は、老年の時にまさって若年の時に、苛立ったり、気を揉んだりすべきだろうか? 私の父の神は私の神であり、私が死に臨むときに国をベウラのようにしてくださるお方は、今からでもそうすることがおできになる。私が、次のように歌う、子どものような信頼を持ちさえすればそうである。――

   「わが時すべて 御手にあり、
    出来事(おこりく)すべて 汝れ支配(す)べぬ」。

ルターの小鳥を見習うがいい。それは、木の上にとまっては、彼にそう歌うのを常にしていた。誰も、その調べを解釈したり、その意味を告げたりすることはできなかったが、ルターに対しては、こう歌ったのである。――

   「弱者(よわき)よ、やめよ、労し嘆くを
    神が明日に 備え給わば」。

 エリヤは私たちに別のことも教えている。それによって、私たちは、自分の旅立ちの準備ができるであろう。彼は、その友エリシャに云った。「私はあなたのために何をしようか。……求めなさい」[II列2:9]。ならば、急ぐがいい。兄弟よ。急ぐがいい。もし自分の友人たちのためにできることが何かあるとしたら、それをいま行なうがいい。「あなたの手もとにあるなすべきことはみな、自分の力でしなさい」[伝9:10]。たといあなたが、友人たちに対して自分が何をしたら良いか尋ねないとしても、彼らのために自分に何ができるかを考えるがいい。母親よ。あなたは、自分の愛しい子どもとともに祈りたいと思っている。では、すぐにそうするがいい。あなたの旅立ちの時が迫っているからである。愛する方よ。あなたは、あの苦闘している兄弟に親切な行動をしたいと思っている。ならば、すぐにそうするがいい。明日、あなたは世を去っているかもしれないからである。あなたは、キリストの御国の進展のために何かを行ないたいと考えている。ことによるとあなたは、どこかの貧窮した村に福音が宣べ伝えられれば良いと考え、そのために何がしかの備えをしておきたいと思っているかもしれない。ならば、すぐにそれを行なうがいい。すぐに行なうがいい。さもないと、その決意が行動という実を結ぶことは決してできないであろう。霊的な巨人へと育つこともできたであろう、いかに多くの幼児たちが、私たちの遅疑逡巡によって扼殺されてきたことか! あなたは、決意という小さな子どもに授乳しているが、めったにそれは、実際の行動へと成人しない。そのことに力を注ぐがいい。力を注ぐがいい。いま! いったん火の戦車に乗って上ってしまえば、あなたの友人を助けることはできない。だから、いま彼を助けてやるがいい。また、あなたが彼のために何をすれば良いか、彼に云わせるがいい。

 さらに注意すべきは、エリヤとエリシャが、進んで行きながら話をし、互いに交わりを保っていた、ということである。老ホール主教によると、彼らは何か非常に厳粛で、天的な主題について話し合っていたに違いない。さもなければ、話し合う代わりに、膝まずいて祈り続けようとしたはずだからである。だが、彼はまことにいみじくも、こう云い足している。「時には瞑想が最善であり、時には会話が最善なのである」、と。彼らの場合がそうであった。エリヤには、エリシャに向かって語るべきことがたくさんあった。彼は、危急存亡の折にある《国家》と《教会》を残して行こうとしていた。だから、その日の労苦と焼けるような暑さを辛抱する[マタ20:12]ことになる人間に向かって口早に話をし、ありとあらゆることを彼の耳に入れたのである。また、疑いもなくエリシャは彼に数多くの質問を発し、彼によって多くの難解な点について知識を受けたに違いない。そして、そのようにして、「彼らはなお進みながら話していた」*[II列2:11]。私たちの話を、常に彼らの話のようなものにしようではないか。そうすれば、話をしながら死ぬのも良いこととなるであろう。「主を恐れる者たちが、互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた」[マラ3:16]。兄弟たち。私は云うが、また、残念ながら、涙とともにそう云って良いのではないかと思うが、私たちの会話の多くは、神がお聞きになれないようなものであろう。また、確かにそれは、神が聞いてはいても、それについて記憶の書[マラ3:16]をお書きになるようなものではないであろう。というのも、それは抹消された方が、はるかに良いだろうからである。おゝ! 最後の厳粛な時がやって来るとき、私たちはこうありたいものである。――

   「高き瞑想(おもい)に 包まれて、
    わが大いなる 《創造主》(かみ)を賛美(たた)えて」――

いるか、地上にいる私たちの兄弟たちと会話し、そのようにして戦闘の《教会》との交わりから、勝利の《教会》の交わりへと移り行きたいものである。私たちの口を人間の耳から取り去り、星々のちりばめられた御座の前で、不滅の耳に語りかけ始めるようになりたいものである。

 こうした様々な方法によって、私たちは死ぬための準備ができよう。ある人々は、自分が死のうとしていると思い込むと、死のため自分たちに準備できる唯一のことは、牧師を呼びにやることだと考える。彼らのいわゆる、「秘跡を執り行なってくれ」、寝室に連れて行ってくれ、面会謝絶だ、帷を引いてくれ、である。だが、キリスト者が死を迎える最上のしかたは、仕事に就いていることである。もし私が兵士だとしたら、塹壕の中で仕事もなく何もしないでのらくらしているときに死ぬよりも、勝利の際に戦死する方をはるかに望むだろうと思う。勇猛邁進しようではないか。そして、私たちが世を去った時には、こう云われるようにしようではないか。

   「突撃(せめよ)せ倒る そのからだ、
    働き、労すを 即(すぐ)やめぬ」。

エリヤはそうであった。願わくは私たちもそれと同じであるように!

 II. 《エリヤのこの旅立ち》は、ある程度まで、《信仰者たちの死の象徴》であるように見受けられる。

 それは、予期されていたが、突然であった。彼らは話し合っていた。そして、ことによると、まさにある一言を云い終える間もなく、彼らは分かたれてしまったのかもしれない。そこには、何の物音もなかった。その戦車は地面の上をやって来たのではないからである。だが、その輝きは、彼らの回り中を照らした。後ろを振り向くと、見たこともないような軍馬たちがいた。その目玉は炎で閃き、その首には雷がまといつき、その後ろには、ローマ皇帝たちが乗り回した黄金の車よりも輝かしい戦車があった。そして、エリヤは、それが神の、幾千万と数知れない[詩68:17]いくさ車の一台だということを知った。神は、ご自分のお気に入りのしもべを、《王》自身が住んでいる象牙のやかた[詩45:8]へ連れ上るために、その戦車を遣わしたのである。突如、一瞬のうちに別れはやって来た。そして私は、死が通常は突然やって来るものだと思う。確かに人々は、世間で云うように長いことかけて死ぬことがありえるが、それでも、旅立ちの実際の瞬間は突然にやって来る。器は打ち砕かれ、銀の紐は切れる[伝12:6]。鎖は断ち切られ、鷲は太陽の中に住むために舞い上がる。

 何と恐ろしいことか!――の戦車と、の馬である。キリスト者にとってさえ、死は物柔らかで優美なものではない。死ぬことは、子どもの遊びではない。私たちはそれを眠りとして語る。だが、それは向こうにいる子どもが、ぽかぽか陽当たりの良い土手で横になっては再び目覚めるような眠りではない。そこには厳粛なものが伴っている。そこには馬たちがおり、戦車たちがあり、それだけなら慰めもある。だが、それらはみな火から成っているのであり、それを見る者にはエリヤの目が必要である。さもなければ、私たちの目はしばたたくであろう。エリヤは、以前にも火を見たことがあった。それを天から呼び下し、自分の敵たちの上に降らせたことがあった[II列1:10、12]。それを自分のいけにえの上に、天から降らせたことがあった[I列18:38]。ホレブでは、自分の上で火が閃くのを見たことがあった。そのときには、全天が、めらめら燃える炎の海で照り輝いた。だが、主はその火の中にも、この火の中にもおられなかった[I列19:12]。そうした、以前の火を眺めても恐れなかった者なればこそ、神がお遣わしになった火の馬と戦車を見ることに耐えられた。

 恐ろしいものではあったが、何と勝利に満ちていたことか! おゝ、何という光輝であろう。天国へと戦車で乗りつけるのである! ヨルダンの流れを徒歩で渡り、ぽたぽたと雫を垂らしながら向こう岸を上って行き、輝ける者たちの出迎えを受けるのではない。それは、輝かしく、栄光に富むことである。かのベッドフォード監獄の善良な夢見る人*2は、そう夢見たとき、正鵠を射た夢を見た。だが、これは、それよりもずっと勝利に満ちていた。――車に乗り込み、真っ直ぐに立ち、神の御座まで乗って行き、火の馬たちによってそこまで引かれていくのである! このような経験が与えられた者はほとんどいない。だがしかし、私は何を云っているのだろうか? 私たちはみな、そのような経験をするではないだろうか? 私たちはみな、キリスト・イエスのかたちを帯びて、キリストとともに自分の永遠の安息に上って行くとき、そうした経験をするはずではないだろうか? しかり。主は再びおいでになり、主の民全員が主とともにやって来るであろう。そして、もし《イエスが》勝利の白馬にお乗りになるとしたら、その聖徒たちもまた白馬にまたがり、鳴りどよめく歓呼の中、城門をくぐり抜けるであろう。しかり。死ぬことは、キリスト者にとっては勝利である。エリヤの側では、燃える戦車に乗り込むことは1つの信仰の行為であったと思われる。そして、私たちは彼について、エノクについて語られたことを云って良いであろう。「信仰によって、彼は死を見ることのないように移された。神が彼を取られたので、彼はいなくなった」*[ヘブ11:5; 創5:24]。

 しかり。火の馬と火の戦車は、祝された者たちの旅立ちを示す象徴として悪いものではない。そのようにして、彼らは、自分たちの主の喜びとをともに喜ぶようになるのである。私たちについて云えば、まだ天国に達してはいない。私たちの番は、まだ来ていない。とはいえ、私たちは喜んでこう云える。――

   「我ら、《案内人》(しるべ)を 今つかみ、
    いと悪しきもの 賜下(う)けまほし!
    万軍(みたみ)の主よ。来て、波浪(なみ)分けて、
    我らを天国(あめ)へ、みな着かしめよ!」

 III. しかし、私たちは、後に残る間にこう尋ねよう。《誰かがこのように死ぬのを見たとき、私たちは何をすべきだろうか?》

 もしも私たちが、このような突然のしかたで妻を、夫を、子どもを、あるいは、友人を失ったとしたら、何をすべきだろうか? エリシャが何をしたかは分かる。まず最初に、彼は自分の着物を引き裂いた。それが、東方における悲嘆を示すならわしであった。よろしい。あなたは涙を流して良い。「イエスは涙を流された」[ヨハ11:35]からである。私たちは、主が涙を流されたがゆえに、いやがうえにも主をイエスらしくみなすものである。そして、あなたも涙を流さない限り、イエスに似た者となることはできないであろう。福音は、私たちを禁欲主義者にはしない。キリスト者にする。それでも、悲嘆の中にも節度があることは思い起こさなくてはならない。あるクエーカー教徒は正しいことをした。彼は、ひとりの令夫人が、夫君の死後一年かそこらも長椅子の上で悩みながら過ごし、なおも諦めきれない様子で悲嘆をいだいているのを見て、彼女にこう云ったのである。「奥様。お見受けするに、あなたはまだ神を赦しておられないようですな」。時として、悲嘆は神聖な感情ではなく、単に、《いと高き方》に対する反逆心のつぶやきでしかないことがある。

 しかり。あなたは着物を引き裂いて良い。そして、もしそうしたければ、他のことも少し行なってかまわない。エリシャは自分の着物を引き裂いただけでなく、こう叫んだ。「わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち」[II列2:12]。そして、そうすることによって、世を去った自分の友への賛辞を述べた。彼は、こう云うかのようであった。「彼は、私にとって父であった。私が失った人は、私に非常に優しくしてくれた。父のように私を訓練し、監督し、養ってくれた」、と。おゝ、世を去った人のことを良く云うがいい! 死んだ友人たちについて、親切な言葉を差し控える必要はない。私たちは、生きている間は互いに褒め合うことが少なすぎる。時として私たちは、お世辞ではなく、称賛の言葉をもう少し口にすれば良いのにと思う。それは、抑鬱し、重荷を負った霊を励ますことになるかもしれない。だが、栄光に行ってしまった死者にへつらって、その人を害する恐れはない。その人はあなたが云うことによって全く損なわれないだろうからである。もし世を去った人々が、神の《教会》にとって価値ある人々だったとしたら、あなたはその人たちについてこう云って良い。「イスラエルの戦車と騎兵たち!」、と。今や誰が《教会》を導くのかと不思議がって良い。これから物事がどうなるのかと問うて良い。誰が車を引く馬となるのか、あるいは、今や倦み疲れた霊を載せることのできる《戦車》はどこにあることになるのか、と。

 しかり。あなたは嘆き悲しむことも、賛辞を述べることもして良い。良く涙を流し、良く語るがいい。だが、その次にはどうすべきだろうか? そこに立っていてはならない。時間を無駄にしてはならない。そこにとどまり、目に何も見えないままであってはならない。見るがいい。そこに落ちて来るものがある。何が空から落ちて来るのか。隕石ではない。エリシャの目は釘づけになった。見ればそれは、あの預言者が常々その肩にひっかけていた古い外套であった。そこで、彼は喜んでそれを拾い上げた。そのように、私たちのもとから去った私たちの友人たちも、彼らの外套を残していったのである。その外套とは何だろうか? 時として、善良な人々はその著書と説教集を後に残して行く*3。だが、キリスト者であるすべての人々は、自分たちの良い模範を残すものである。ならば、立って涙を流しながら、世を去った人々の善を忘れてはならない。むしろ、行って彼らの外套を取り上げるがいい。彼らは熱心だっただろうか? あなたも熱心になるがいい。彼らは謙遜だっただろうか? あなたも謙遜になるがいい。彼らは祈りに満ちていただろうか? あなたも祈りに満ちるがいい。そのように、いかなる面でも、彼らの外套を身にまとうがいい。彼らは、あなたが見習うように模範を残してくれたのである。彼らが世を去ったのは、あなたが迷信的に彼らを畏敬するためではない。むしろ、熱心に彼らに見習うためである。彼らがキリストに従った限りにおいて、彼らに従い、そのようにして彼らの外套を身にまとうがいい。

 そして、彼らの外套を手にしたときには、もはや彼らについて哀悼することで貴重な時間を無駄にしてはならない。自分の務めに取りかかるがいい。あなたの行く手には一本の川がある。では、どうすべきか? よろしい。預言者エリヤが行ったように、ヨルダン川のもとへ行き、それを渡ろうとするがいい。「エリヤは、どこにいるのですか?」、と云ってはならない。むしろ、「エリヤの神、主は、どこにおられるのですか?」、と云うがいい[II列2:14]。エリヤはいなくなったが、彼の神がいなくなったわけではない。エリヤは去ってしまったが、エホバはなおも現存しておられる。さて、キリスト者たち。あなたは世を去った者の働きを担わなくてはならない。彼らを力ある者たちとしたのと同じ神の強さによって、それを担い、彼らがしたのと同じ働きを行なうよう努めるがいい。もし彼らがヨルダン川を分けたなら、あなたもヨルダン川を分けるがいい。あなたには、それをどうすべきかという彼らの模範がある。また、彼らの神は、「きのうもきょうも、いつまでも、同じ」[ヘブ13:8]である。

 いま問うがいい。「エリシャは、ヨルダン川を分けた後どこへ行ったのか?」 彼はエリヤを探しに出かけただろうか?――

   「広き荒野に……
    人里離れし 果てなき封土」、――

死別した者たちのことや死の噂が絶えて届かない所に出かけて行っただろうか? 否である! 彼が真っ直ぐに向かって行ったのは、エリヤが学長をしていた場所であり、そこで彼はエリヤの働きを担った。もし私が兵士だったとしたら、――もし何らかの種類の武器を手に取る勇気と、自分の生涯を賭ける豪胆さを有しているとしたら、――もしもあの、自らのいのちを自らの手にかかえ、神の恵みを自らの心にいだいているとバクスターが描写したような種別の兵士だったとしたら、――ならば、確かに私は、すぐ目の前にいた人間が倒れるのを見たら一歩前に進み出て、彼の持ち場に着くはずである。それこそ、あなたのなすべきことである。もし、ひとりの善良な人が死んだとしたら、その穴を埋めるがいい。もし、ひとりの聖徒が世を去ったとしたら、あなたが、いわば、「死者のゆえにバプテスマを受ける」[Iコリ15:29]がいい。神の祝福があなたの上に臨み、彼の霊の二つの分け前[II列2:9]があなたのものとなることを求めるがいい。そして、彼が世を去ったために空いた部署を、あるいは、委員会の空席を引き受けることができるように求めるがいい。あなたは、悲嘆の部屋に閉じこもるのではなく、戦場で軍務に就くべきである。行なわなくてはならない働きはまだある。なされていない働きがまだある。立ち上がって、それを行なうがいい! リチャード・コブデン*4の生涯において勇敢だったのは、彼が精魂傾けて自由貿易の問題と、通商上の束縛を断ち切ることとに携わっていた時期、彼の友人ジョン・ブライトの若い妻が死んだ折のことである。彼はブライトのもとに行き、こう云った。「さあ、ブライト。君は奥さんを失った。ぼくたちは、君の悲しみを癒すために、国家の戦闘を戦うことにしよう」、と。そして、そのことは実際、見事に、また、勇敢に行なわれたのである。そのように、もしあなたが愛する友人を失ったとしたら、あなたの悲しみを癒すために、今まで以上に神の御国の進展へと、また、「イエスにある真理」*[エペ4:21]の伝播へと献身するがいい。この世の何にもまして活動ほど、また、手を一杯にしておくことほど、心を明るくし、魂を幸いに保つことはない。あなたがた、何もすることがない人たちは、間抜けである。あなたは自分の主のために戦う代わりに、苛立ったり、脹れっ面をしたりしている。だが、もしあなたが行って「勇士として主の手助けに来」[士5:23]ようとしさえするなら、また、主の重荷を担おうとしさえするなら、主があなたを助けて、あなたの重荷を担えるようにしてくださり、今あなたの骨々を切り裂く短刀のように思われる悲しみは、あなたの活動の拍車のようになるであろう。「私は誓った」、とある人は云った。「死が私に加えた一切の損害ゆえに、死への恨みを晴らそうと。それで私は、御霊の燃える剣、すなわち、神のことばによって、右へ左へ死をめった切りにした。私はキリスト・イエスにある不滅を宣べ伝えた。それで、私は死に恨みを晴らしたし、死を征服しきったことを感じた」。そのように、あなたも行なうがいい。行って、なおもあなたの《主人》に仕えるがいい。そして、エリヤは世を去ったかもしれなくとも、それでも彼の抜けた穴を埋めるがいい。そうすれば、神の騎兵たちや戦車たちに不足はないはずである。

 さて今、愛する方々。今晩の話を閉じるにあたっては、こう云うことがふさわしいと思う。「今晩は、これでお暇し、明日の朝、また会おう」、と。しかし、時として、この別れは非常に意義深いものとなることがある。それゆえ、私たちはこう云いたい。「さらばだ」、と。私たちの中のある者らは、決して二度と顔を合わせては会うことがないと思うからである。私は、私たちが心から、「おさらばだ!」、と云えたら良いと思う。そうするとき、私たちは、夜が明け、死の露がもはや降りることがない朝、また、真夜中の凍るような冷気がことごとく不滅という旭日に溶け去ってしまった朝に会えるはずである。しかり。私たちは会うであろう。再び会って、二度と別れることはないであろう。いま面会の予約をしておこう。私たちの心が、信仰によって、これまでもしばしば互いに相会ってきた場所、すなわち、私たちをご自分の血潮で洗って、白くしてくださったお方の御座において互いに会うことにしよう。そのように、――《朝が来るまで、さらば!》

 しかし、あなたがたの中のある人々については、どうだろうか? あなたは、そこで私たちと会える予約は決してできない。あなたの道はそこには向かっていないからである。――天国へ向かう火の馬ではなく、地獄へ下る炎の戦車によって、あなたは下へ、下へ、下へと向かっている。永遠の悲嘆の深みへと! 私たちは、そこであなたともう一度会うなどとは云えない。もしあなたがそこに行くとしたら、あなたはひとりで行かなくてはならない。もしあなたが滅びるとしたら、自分ひとりで滅びなくてはならない。もしあなたが《救い主》を持たずに生き、また、死ぬなら、あなたは自分の友人たちが、その陰鬱な災厄の世界まで付き添ってくれると期待することはできない。しかし、なぜそこに行くのか? なぜそこに行くのか? おゝ、孤独な旅人よ。それは、あなたの仲間たちが行こうともしない所である。あなたは、わが子が地獄に堕ちるのを見たいとは思っていない。――この言葉を、厳粛な畏怖とともに語らせてほしい。――あなたは、わが子が地獄に堕ちるのを見たいとは思っていない。そうではないだろうか。ならば、なぜあなたは、自ら地獄に堕ちようとするのか? 「ですが、それしかないのです!」、とあなたは云うであろう。否。罪人よ。その点では、「しか」ということは全くない。そこに私の《主人》が吊り下がっている。十字架につけられた贖い主である。そして、もしあなたがこの方を仰ぎ見るなら、そこには、あなたのための別の「しか」がある。すなわち、あなたは救われるしかなくなる。天国への路は、カルバリの十字架の脇を通っている。キリスト・イエスは、ご自分の刺し貫かれた手足から流れた真紅の血の雫で、栄光への道にしるしをつけてくださった。イエスを信頼するがいい。全く信頼するがいい。いま信頼するがいい。永遠に信頼するがいい。そうすれば、私たちは会えるであろう。再び朝に会えるであろう。そうとあらば、――《良い夜を!》

 


(訳注)

*1 ジョン・バニヤン、「天路歴程」p.270(池谷敏雄訳)、新教出版社、1976.[本文に戻る]

*2 ジョン・バニヤン。[本文に戻る]

*3 (原著注)1865年10月にこの講話が語られたとき、この説教者は、自分が1892年1月に「帰郷した」際に、あれほどおびただしい数の書物と説教集を残すことになるとは、ほとんど想像もできなかったであろう。また、彼には決して可能と思われなかっただろうが、彼自身が天国へと移されてから後も、ほぼ十七年間にわたって、『メトロポリタン・タバナクル講壇』の毎週刊行はなおも続けられつつあり、[1908年現在]さらにもう何年間もそれが継続される見込みがあるのである。[本文に戻る]

*4 リチャード・コブデン(1804-65)。英国の政治家・経済学者。ジョン・ブライト(1811-89)とともに反穀物法同盟を指導した。運動は成功し、1846年穀物法は廃止となった。[本文に戻る]

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旅立つ準備をする[了]



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