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ある説教と追憶

NO. 3112

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1908年10月8日、木曜日発行の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1873年前半の説教


「したがって、信じているあなたがたには尊いものです」。――Iペテ2:7 <英欽定訳>


 風邪をひいて頭痛がする時には、考えをまとめることが実に困難になる。何をしようと、また、いかなる主題を選ぼうと、どういうわけか、精神から弾力性が失われているのである。率直に告白するが、この理由によってこそ私はこの聖句を本日の講話のために選んだ。ことによると、頭は働かなくとも、心は働くかもしれないと考えたからである。この箇所によって目覚めさせられる種々の記憶によって、様々な情緒が、聞く者においてはそうでなくとも、説教者の内側ではかき立てられることもあろう。というのも、私はよく覚えているからである。二十二年も前に、私が行なおうとした最初の説教は、この聖句に基づいていた。私は、自分の住んでいたケンブリッジの町から少し離れた所にあるテヴァーシャムの村まで歩いて行くように頼まれていた。その夕べの説教者だと私が思っていた青年の付き添いということであった。そして、道の途中で私は彼に、神がその働きにおいて彼を祝福してくださるものと信頼していますよ、と告げた。「おゝ、何てこった!」、と彼は云った。「ぼくは生まれてこのかた説教なんかしたことないんだよ。ぼくは君と一緒に歩いてくように頼まれたんだ。そして、ぼくは心から希望するよ。神が君の説教において祝福してくださるようにね」。「うーん」、と私は云った。「ですが、ぼくは一度も説教したことがありませんよ。そして、そうした種類のことが何かできるなんて分かりませんよ」。私たちは一緒に歩いて行くうちに、その場所に着いた。私の魂の奥底は、これから何が起こることになるかとひどくおののいていた。だが会衆が集まっているのを見てとり、他の誰もイエスについて語る者がいないのを見いだしたとき私は、ほんの十六歳でしかなかったが、自分が説教するものと期待されていると分かったので、思いきって説教した。そして、これがその聖句であった。もしも新兵が何かについて語ることができるとしたら、確かにこの主題は彼に似つかわしいものであろう。もし誰かが死にかけているとしたら、これがその聖句であろう。もし誰かが一千もの思い煩いに心散らされているとしたら、これがその聖句であろう。その教えは経験的だからである。――その意味は、内なる意識から湧き出ており、明瞭な頭脳や雄弁な舌を必要としてはいないからである。信仰者にとって、これは誰か他の人から教えてもらったことではない。それは、彼が自分自身の魂の内側で知っている事実問題である。キリストは彼にとって尊いお方であり、彼はそのことについて証言できる。必ずしも自分で願えるほど大胆な証しではないかもしれないが関係ない。私は、満ちあふれる杯から出た水のように私の心に流し出させようと思った。思いは、この心に浮かんで来るにつれて、注ぎ出されるであろう。では、即座に本日の聖句に向かい、少しばかり語っていこう。第一に、信仰者たちについて。それから、彼らのキリストに対する高い評価について。それから、彼らがいかにそれを表わすかについて

 I. 《信仰者たちについて》。「信じているあなたがたには」。

 信じている者らは、最近ではどちらかという数が少なくなりつつあり、疑う者らが幅をきかせている。彼らは時代のあらゆる知恵を所有していると主張する。いかなる歴史的事実といえども、いま疑われていないものはほとんどない。ある人々は、人類の存在そのものが疑問の種とされなくてはならないという奇想をいだいている。私の信ずるところ、一部の人々は、彼ら自身が現実には存在していないのだと想像している。自分たちの特定の観念は存在しているが、自分たちは存在していないというのである! 人間の知性がこの方向へどこまで進むものか私たちには見当もつかないが、確かに疑いには限度があるに違いない。信仰の受容力は不思議なものだが、その百倍も不思議なのは不信仰の受容力である。この世で最も軽々しく事を信じがちなのは不信者たちである。聖書の中にある困難というぶよを呑み込むことを拒否する者は、普通は、その他のありとあらゆる種類の膨大な量の困難というらくだを呑み込んでいるのである[マタ23:24]。この聖句は、信じている人々について語っている。そして、私としては、ある人がいかなる種類であれ信仰者のひとりであるとみなされていると分かる方が、疑う者たちの仲間であると知らされるよりも嬉しいことである。

 しかし、ここで言及されている信仰者たちは、ただの信仰者ではなく、霊的な信仰者、キリスト教の信仰者であって、彼らはキリスト・イエスを信じている。そうした者にとってのみ、キリストは尊いものである。神のことばの中には、キリストを信じることについて多くの云い回しがある。キリストに信頼すること、キリストを信じること、そして、信じることと記されている。さて、もし私がみことばを正しく理解しているとしたら、キリストに信頼することとはこういう意味である。主が自ら主張された通りのお方であること信じること。例えば、主が《神から遣わされた者》、メシヤであられること、イスラエルの《王》であられること、神の御子であられること、神であった《ことば》であられ、初めに神とともに《おられた》こと、私たちの罪のために贖いをなす《偉大な大祭司》であられること、《教会のかしら》であられること等々である。それが主に信頼し、主を、神のことばがそれと告げる通りのお方であると受け入れ、御子に関する神の証言を信じるということである。

 しかし、キリストを信じることは、それをも越えて進む。というのも、ある人がイエスを信じるとき、その人はイエスに信を置き、イエスに頼って身を安んじるからである。自分の罪の赦しのため、その人は《救い主》の贖罪の犠牲により頼む。永遠のいのちのため、《救い主》の不死性により頼む。自分の復活のため、《救い主》の御力により頼む。あらゆることについて自分の《贖い主》に期待する。その人は主によりかかり、主を信じる。そして、よく聞くがいい。これこそ救いに不可欠なことなのである。というのも、私たちはキリストを神であると信じても、なおも滅びることがありえるからである。キリストがご自分の贖罪の犠牲によって罪を取り除く《偉大な大祭司》であると信じていても、なおも滅びることはありえる。魂を救う信仰は、より頼む信仰、依存する信仰、主イエス・キリストに対する神聖な安臥であり、信頼であり、よりかかることなのである。話をお聞きの愛する方々。あなたはそれを有しているだろうか? 聖霊はあなたを、神が罪のためのなだめの供え物として示されたお方にただ一度限り決定的に身を投げかけるようにしてくださっただろうか?

 もしあなたがそうしているとしたら、確かにあなたは、恵みによって、信仰の第三のかたちに進むであろう。あなたは信ずる者となる。――主のご人格をも、主のことばをも同じように信ずる者となる。あなたは、主が何と仰せになって信ずる。主が何をなさっても信ずる。主ご自身が、自らの宣言に従って、絶対的な真理であられることを確信している。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」[ヨハ14:6]。そのときあなたはパウロがこう云ったとき意味していたことを知るようになる。「私は、自分の信じて来た方」――「信頼を置いてきた方」ではなく、「信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを……守ってくださることができると確信しているからです」[IIテモ1:12]。もしあなたが、キリストの時代の真の信仰者に、「何があなたの信条ですか?」、と聞くことができたとしたら、その人は自分の《主人》を指さしたであろう。その人は特定の信仰箇条を暗唱することはしなかっただろうが、こう云ったであろう。「私は、あの栄光に富む《人》を信じます。私の信頼はあの方に置かれています。私はあの方を信じます」。私たちは、多くの本の背表紙に、「神学体系」という名称がつけられているのを見ている。だが、実のところ、イエスだけが唯一まことの「神学体系」なのである。もしあなたが神学を欲しているとしたら、イエスこそ真の Theologos[神学者]であり、絶対的な神のことばであられる。人がイエスを、イエスであられるお方――罪からの《救い主》――であると信ずること、また、キリストがキリストであられるお方――主に油注がれたお方――であると信ずること、そして、自分のアルファでありオメガであるお方――自分のすべての救い、また、自分のすべての願い――とすることは大きなことである。

 この件について自分自身を類別してみるがいい。あなたはどこまで信じる者となっているだろうか? というのも私たちは、あなたが信ずる者になっていない限り、キリストがあなたにとって尊いものであるとは主張できないからである。あなたに何の信仰もなければ、主はあなたの心の《君主》とはなられないことを私たちは知っている。だが、もしあなたがキリストに信頼し、キリストを信じているとしたら、キリストはたとえようもないほどあなたにとって尊いお方となるであろう。

 II. さて、次に考察したいのは、《信仰者が自分の主人に与える高い評価》である。そして、まず注目してほしいのは、あらゆる信仰者はキリストご自身を高く評価する、――主のご人格そのものを高く評価する――ということである。「主は信じているあなたがたには尊いものです」*。ある人々は、自分たちが聖礼典と呼ぶ種々の儀式を非常に尊いものと考える。確かにそれらは尊い。だが、それは主のゆえのみである。他の人々は種々の教理を非常に尊いものと考え、常に教理を前面に押し立てる。私たちもあらゆる教理が尊いものであることを否定しはしないが、教理はその価値を、キリストがその中におられるという事実に負っているのである。無味乾燥な教理は、死んだキリストが葬られるべき墓所に何らまさっていない。だが、主のご人格との関わりにおいて宣べ伝えられる教理は、主が高く上げられる御座となる。ひどく残念なことは、キリスト者であるあなたがたの中のある人が、自分には生きた《救い主》がおられることを忘れ、キリストの人格性を見過ごしにしてしまうことである。思い出すがいい。主はまことの人であり、まことの人としてカルバリの上であなたのために死なれ、また、まことの人として天に入っておられるのである。主は決して観念上の人物ではなく、現実の人物であられる。そして、キリスト者体験の真髄は、この《救い主》の人格性を実感することに存している。「主は信じているあなたがたには尊いものです」*。もしあなたが教理を主体とするなら、あなたは十中八九、心の狭い人間となるであろう。自分自身の経験を主体とするなら、陰気になり、他人のあら探しをしたがる人間になるであろう。種々の儀式を主体とするなら、ただ形式的なだけの人間となりがちであろう。だが、生けるキリスト・イエスを重んずるとき、そこにやりすぎということは決してありえない。覚えておくがいい。他の一切のものは主のためにあるのである。種々の教理や儀式は惑星だが、キリストは《太陽》である。教理という星々は、その偉大な原初の光としての主の周囲を回っている。万物にまして主を愛するようにするがいい。しかり。あなたが真に主を信じているなら、そうしていることを私は知っている。あなたは諸教理を愛しており、その1つたりとも手放したがらないであろう。だが、それでも受肉した神こそはあなたの信頼の要諦である。キリスト・イエスご自身があなたにとって尊いものなのである。

 さて、この高い評価がキリストに関わるものである以上、このことがここで思い出されるであろう。すなわち、あらゆる信仰者の場合、これは個人的に高く評価するということである。私たちは、キリストのご人格を高く評価するように、それぞれの人格においてキリストを高く評価するのである。私たちは、他の人々がキリストを高く評価すると云うからといって、自分もそうしているふりをしているのではない。付和雷同しているのでもない。自分自身でそう判断しているのである。キリストを信じている者たちにとってキリストは、自分たち自身の考えで、自分たち自身が個人的にキリストを知ったことによって、尊いものなのである。他人の考えを拝借しているのではない。彼らが、「そうです、主は尊いお方です」、と叫ぶのは、今は天国にいる彼らの愛する母親が常々そう云っていたからではない。彼女の記憶は彼らの助けとなるが、彼らにはそれよりもすぐれた理由がある。主は彼らにとって尊いお方なのである。愛する方々。個人的なキリスト教信仰にまさるものは何1つない。あなたが受け継いだキリスト教信仰は、それと同時に個人的にあなたのものになっていないとしたら、一文の値打ちもない。あなたは遺伝による敬虔さで救われることはない。もし誰かが、「私は、先祖代々これこれのことを信じてきたので、私も信じます」、と云うとしたら、それは私たちがドルイド教徒になるべき理由となろう。私たちの先祖はそうした者であったからである。もし私たちのキリスト教信仰が、教会の家族席や、家紋のついた食器のような法定相続動産として私たちのもとにやって来たとしたら、また、私たちがそれを間接的に受け取っただけだとしたら、それはほとんど、あるいは、全く重要な意味をなさない。あなたがキリストを尊ぶのは、あなたがキリストを試し、自らキリストを知ったがためでなくてはならない。というのも、個人的に主イエスを高く評価し、個人的に主を、信仰によって自分に当てはめて、自分自身の心の中で、自分のものとすることに達さないような何物も、あなたを天国に至らせないからである。個人的な敬虔さに達さないいかなるものも、永遠のいのちのためには不十分である。覚えておくがいい。誰もあなたに代わって新しく生まれることはできない。あなたがた自身が新生されなくてはならない。誰もあなたに代わって「この世の虚飾と空虚さを」拒絶することはできない。キリスト教信仰における名親制ほど、見え透いた欺瞞はない。誰もあなたに代わってキリストを愛することはできない。あなた自身の心が主の愛しい御名を聞いて高鳴らなくてはならない。個人的なキリスト教信仰でない限り、あなたにとっては何の価値もない。

 私たち自身によって主イエスのご人格を高く評価しなくてはならないのと同じく、こうつけ足させてほしい。私たちの経験が、そうした評価の基盤となっていなくてはならない。この日、キリストが私たちにとって尊いお方であるのは、私たちがキリストは尊いお方であると実地に経験してきたからである。主は私たちのために何をされただろうか? まず主は私たちを、私たちの過去のもろもろの罪の咎から解放してくださった。あなたは、忘れてはいないであろう。あなたが――

   「咎負いて、恐れ満ちつつ」――

十字架の根元に這い寄っては、主を仰ぎ見た日、また、主がそこであなたに代わって苦しんでおられる姿を見た日のことを。また、あなたが主を信じて、その重荷があなたの肩から落ちて、あなたが以前は知らなかった自由を受け取った日のことを。キリストは、かつて自分の良心に律法の文字を感じていた人にとって、非常に尊いお方である。私は、主を軽んずる一部の人たちが、かつての私たちが横たわっていた所に投げ入れられてほしいと願う。霊的な悲惨さと、霊の深甚な抑鬱との中に。おゝ、責め苦を味わう良心の悲惨さよ! 私たちは地獄の火焔を予期し、自分のもろもろの罪に真っ向から睨みつけられては震え上がっていた。だが一瞬にして、その尊い血潮を塗られたおかげで、恐れは去り、咎は消え失せ、私たちはキリスト・イエスによって神と和解させられた。それが本当だとしたら、主は尊くあられないだろうか?

 それに加えて、主は私たちを罪の鎖から解放してくださった。以前は、種々の情動が私たちの主人となり、肉が舵を取っては自分の好きな方角へと針路を定めていた。時には猛烈な我意が、別の時にはそれよりも卑しい肉の情動の数々が私たちを支配していた。私たちは自分自身に打ち勝てなかった。サタンと肉は私たちを治める暴君であった。だが、かつてはあれほど愛しかった種々の悪徳は憎悪すべきものとなり、罪の鎖は砕かれ、私たちは主の自由人となっている。そして、確かに罪は私たちに勝利しようと躍起になっており、私たちには嘆くべきことが多々あるが、それでも、いくつかの罪をすでに殺したのと同じ剣は、別のもろもろの罪の喉仏の近くにあり、天来の恵みによって、私たちはそれらすべてを間もなく殺すことになるだろうと分かっている。この場にいる何人かの人々は、私の知る限りその性格が一変してしまったために、キリストは――この大いなる《変容者》は――、彼らにとって尊いお方であるに違いない。以前は罪人たちのたむろする居酒屋にいた者、以前は名もない悪徳の巣窟に入り浸っていた者、以前は悪態をつく者、以前は激情にかられていた者、以前は不正直だった者、以前は嘘をついていた者、以前は悪という悪の塊であった者であったが、今や洗われ、聖なる者とされているのである。あなたは、あなたの《解放者》を尊ばずにはいられないであろう。おゝ、私が生活を改善された酔いどれに出会うとき、また、今や涙で《救い主》の御足を洗うことを喜ぶマグダラのマリヤの顔を見つめるとき、そうした人々にとって主が尊いお方であることが私には分かる。赦された罪に常に伴う更新された性格は、《救い主》を魂にとって愛しいお方とするのである。

 そして、おゝ、愛する方々。それだけでなく、主が私たちにとって尊いお方であるのは、主が私たちの考えの一切の傾向と流れを変えてくださったからである。私たちは以前は利己的で、他の誰のことをも思いやらなかったが、主イエス・キリストが私たちを救ってくださった時以来、自我にではなくキリストに仕えてきた。今や私たちは金銭を貯め込むために生きているのではない。あるいは、自分の栄誉を獲得したり、自分自身の魂を救うためにさえ生きているのではない。というのも、それは完了しているからである。今の私たちは、卑劣な自己愛を越えて生きており、私たちの存在全体はイエスにささげられている。主は一切の代価を越えて尊い。というのも、主は私たちに、神の栄光のため、また私たちの同胞の人々のため生きることを教えてくださったからである。

 主が私たちにとって、経験的に尊いお方であるのは、主が多くの暗い暗黒の折に私たちを助けてくださったからである。私は今晩いかにしばしば主が私を勇気づけてくださったかを告げようとは思わない。もしこの場にいる霊のいずれかが、並はずれて意気消沈しがちな性質をしているとしたら、ことによると、それは私の霊かもしれない。だが、あゝ、キリストの臨在の支え給う影響の数々よ! 私は、主の尊い御名を信じる単純な信仰に全く立ち返りさえすれば、恍惚の第七の天にさえも上ることができる。私たちの中のある者らは、イエス・キリスト抜きには生きることができない。キリストが私たちとともにおられなければ、地上が地獄となる。――そこまで至っているのである。私はかつて自分の信条の錨鎖を放し、疑惑の猛風を前にして海に押しやられた時のことを思い出す。最初、私は燃え盛る不信仰の海を横切ってひた走る、迅速な航海を大いに楽しんでいた。だが、あゝ、自分がどこに向かいつつあるかを見てとり出したとき、また、その船首に立って自分の前に広がる陰鬱な雲界に目を留め、いかなる岩礁が行く手にあるか分からなくなったとき、私は大きな暗黒の恐怖を感じ、即座の救いを求めて叫び声を上げた。そして、錨が再び固定し、私のすさまじい巡航が終わったときには嬉しく思った。キリストを私の魂は、溺れかけた人が死に物狂いでしがみつくようにつかんであり、その永遠の愛、私のあわれな魂に対するその個人的な愛、また、私の代理としてのその代償的な犠牲という功績に全力をこめてすがりついている。嘘ではない。主は、その停泊地に心の思いを投錨させたすべての人々にとって尊いお方である。自分の種々の精神機能が、いかに引き絞られ、いかに突きつめられても、このお方を越えて行くことはありえない、この方はすべてのすべてなのだから、と感じているすべての人々にとって尊いお方である。しかり。この聖句は云う。「主は信じているあなたがたには尊いものです」*。

 ことによると、あなたは、あたかもイエスがかつては尊いお方だったかのように、私が過去のことだけを語っていると想像しているかもしれない。それも私は意味しているが、主は今も尊いお方であられる。「主は信じているあなたがたには尊いものです」*。あの聖人めいた殉教者たちのひとりが迫害者たちから責め苛まれていたとき、彼らは彼に云った。「いまキリストがお前のために何ができるというのだ?」 そこで彼は答えた。「主は私を助けて、忍耐をもって耐え忍ばせてくださいます。あなたがたが私に加えている苦しみを」。殺された盟約者の生首が、夫を喪ったあわれな妻のもとに竜騎兵によって運ばれてきたとき、また、今の亭主の顔をどう思うと彼から尋ねられたとき、彼女は云った。生きてる頃に見たどんな時より美しい顔をしてますとも、今のこの人は自分のいのちをキリスト様におささげしたんですから、と。まことに、あなたは、きょう、こう云えるであろう。キリストは、私たちのために殺されたことを私たちが考える今晩ほど美しく見えたことはない、と。私たちは喜んでこの賛美歌を歌う。

   「かくまで主を愛するは きょう初めの心地して」。

ある人々は、間近に接するときに、その麗しさが減じてしまうが、キリストを愛するすべての者は証言する。主の美しさは、いかに近くから仔細に眺めても衰えはしない。主の御胸に最も長いこと横たわっていた者こそ、最も主を愛する者であり、主に七十年お仕えしてきた者たちこそ、主への賛美を歌うことにおいて最も流暢で、また、最も真摯な者である。おゝ、主はいま最も尊い《救い主》であられる! 青年よ。あなたは今晩キリストに信頼しているだろうか? そうだとしたら、主はあなたにとって尊いお方である。また、もし主があなたにとって尊くないとしたら、あなたはまだ主を信じていないのである。願わくはあなたが主の御霊の御力によって、そうするよう導かれるように。そうすれば、キリストは真実あなたにとって尊いお方となるであろう!

 しかし私はこう云い足さなくてはならない。確かにキリストは、過去の経験と現在の愉悦のために今の私たちにとって尊いお方ではあるが、主は私たちにとって、ある期待のために尊いお方であられる。私たちはじきに死の冷たい影に入ることを予期している。そして、そのとき自分とともに《救い主》がおられることは尊いこととなるであろう。次の問いは、思慮あるあらゆる精神に時として浮かぶものである。「私たちは結局、死ぬときには死ぬのだろうか? 私たちは乾酪にうじゃうじゃとたかる壁蝨のように、たちまち押しつぶされては、いなくなるのだろうか?」 おゝ、暗く陰鬱な思いよ! しかし、そのとき、私たちはイエス・キリストが死者の中からよみがえられたことを思い出す。そして、もし何か確実な歴史的事実が1つあるとしたら、これこそそれである。カエサルがブルトゥスによって殺されたかどうかには疑いがあり、アルフレッドが果たして英国の王だったかどうかには疑問があるかもしれない。というのも、こうした点についての明確な証拠は、《救い主》の復活をはっきりと証明する証拠の半分ほどもないからである。私は、カエサルの死の証人として誰かが死んだことは知らないが、十字架にかけられたキリストが現実に墓の中からよみがえったことを否定するくらいなら喜んで多くの人々が血を流したのである。その事実に、私たちの復活の希望が存している。ひとりの人が、ひとりの現実の人が、木にかけられて死んだ人が、死者の中からよみがえったのであり、私たちはこの栄光に富む人、また、神でもあられる人と1つなのである。そして、この方が生きるので、私たちも生きるのである[ヨハ14:19]。死ぬことを考えるとき、この方は私たちにとって尊いものとなる。そして、それは時たまのことであるべきではない。私たちはじきにその時に至る。いかに強く、いかに強壮な人々も、最期の時に近づきつつあり、病弱な人々はおそらくずっと近づいているであろう。おゝ、生きている間キリストとともにいることは甘やかである。というのも、その時には、死がいつ来ようと、それは私たちにとって喜ばしいこととなり、ひとたび御子によって私たちの《造り主》と和解させられているからには、私たちは何を恐れることがあろうか?

 III. 最後に、私たちが考えたいのは、《いかにして信じている者たちは、自分がキリストを高く評価していることを示すか》ということである。

 一部のキリスト者たちは、自分がキリスト者であることをめったに認めない。キリストを愛することは乞食のような務めで、片隅で行なわれる。キリストを自分のものとして認めることは恥ずべきことなのである。主は、ご自分を罪人たちの《友》として告白することを決して恥とされなかった。だが、主によって救われていると告白する罪人たちの中には、主に従う者であることを知られることを恥とする者らがいるのである。「おゝ」、とある人は云うであろう。「もし私が《十字架につけられた男》に従っているなどと云うとしたら、また、その《教会》や信徒たちに加わるとしたら、私は笑い者になる覚悟をしなくてはならない」。では、あなたは愚か者たちの笑いの的にされることを恐れるのだろうか? キリストはあなたのために笑われるのを恥とされただろうか? おゝ、臆病者よ。キリストのために嘲られるのを恥とするとは! 「おゝ、ですが、親族は私のことを家で囃し立てるでしょう」。だが、主を助けてしかるべきだった主の親族たちは、主を追い出し、主を拒絶したではなかっただろうか? それでも主はあなたのためにそれを忍ばれた。おゝ、臆病な霊たち。イエスに味方しようとしないとは。主が来臨されるとき、あなたの身に何が起こるか用心するがいい。というのも、人々の前で主を否定する者たちは、神と聖なる御使いたちとの前で自らが否定されるからである[マコ8:38]。この日、王家の長旗は軟風の中にはためている。キリストの手につく者はみな、その旗の下に集まるがいい。というのも、敵対する側の軍勢は数多く、大胆だからである。イエスの敵どもは面と向かって主を侮辱している。ある者は主の《神性》を否定し、別の者は人間の「司祭」を主の位置に押し込んでいる。

   「大丈夫(ますらお)ならば 主に仕え、
    無数(さわ)なす敵軍(あだ)に 立ち向かえ。
    危機には高めよ 汝が勇武、
    討てや、力を いや増して」。

もし主があなたにとって尊いお方だとしたら、あなたは決して主のために愚か者と呼ばれることに赤面しはしないであろう。

 真にイエスを尊いお方と判断している者たちは、イエスを有することを喜ぶ。私は、「キリストは私たちのものです」、と云いながら、人生の中で苛立ちや心配をかかえているキリスト者たちが理解できない。愛する兄弟。もしキリストがあなたのものなら、あなたには苛立つ原因が何もない。「何と、何もないですと?」、とある人は云うであろう。「私は非常に貧乏なのですよ」。あなたは貧乏ではない。キリストを自分のものと呼べる人が貧しくなることはありえない。「しかし、私には慰めがありません」。いかにしてそのようなことがありえようか。主イエス・キリストはあなたにひとりの《慰め主》を与えてくださっているというのに。「しかし、私は連れ合いを亡くしたのですよ」。それは確かにそうであろう。だが、あなたの主を失ってはいない。さあ、愛する兄弟。かりにある人が、二万ポンドをかくしに入れながらロンドンの町通りを歩いているとして、銀行に着いたときに、泥棒が彼の木綿の手巾を盗んでいたことに気づいたとしよう。そのとき彼の心に浮かぶのは、「感謝だ、私は自分の金は失わなかった」、という思いであろう。そして、彼の手巾をなくしたことそのものは、単に彼が自分の宝を失わなかったことをいやが上にも感謝させるだけであろう。あなたが地上で有している一切の物事を、イエスとくらべれば無とみなし、こう云うがいい。――

   「いかにてわれは 喪(うしな)いえんや、
    われの汝れより 離れざらずば」。

もしあなたがしかるべくキリストを評価しているとしたら、あなたは、いかなる代価を払おうともキリストを手放すことを拒むであろう。また、いかなる状況にあっても、自分が信じていることをつかみ続けるであろう。あなたは社会的身分を失い、仕事上では損失をこうむるかもしれない。よろしい。喜んでそれに耐え、ただ愛しい主のために、より多くを苦しめるようになることだけを願うがいい。人はほとんど殉教者たちを羨むことができよう。彼らは今では私たちの手の届かないところにある、あの紅玉の冠をかちとることができたからである。だが、いずれにせよ私たちは、キリストのゆえに受けかねない些細な叱責や肘鉄を喜んで受け取ろうではないか。もしあなたがイエス・キリストを愛しているとしたら、私の兄弟姉妹。あなたは主のために喜んで犠牲を払うであろう。私はこの精神が《教会》全体に広まってほしいと願う。キリストが本当に聖徒たちにとって尊いお方となり、彼らが主に自分たちと自分たちの財とを聖別するようになってほしいと思う。私たちには個人的な聖別が必要である。私はこういう言葉が宣言されるのを聞いたことがある。「財布とその他一切の聖別」。この上もなく卓越した宣言であることに間違いない。イエスを愛する者は、自分の持てるすべてをイエスのために聖別し、私たちのためご自分のいのちをお捨てになったお方の足元に何かを置けることを喜びと感じるのである。

 もう一言云おう。イエスをこのように本当に高く評価している者は、イエスのことを大いに考える。そして、思念は確実に口からあふれだすものである以上、その人はイエスについて大いに語る。あなたはそのように語っているだろうか? もしもイエスがあなたにとって尊いお方だとしたら、あなたは自分の良い知らせを自分ひとりのものとしておくことはできないであろう。あなたはそれをあなたの子どもの耳に囁くであろう。夫に告げるであろう。友人に熱心に吹き込むであろう。雄弁さの魅力はなくとも、あなたは単なる雄弁さを越えるであろう。主の甘やかな愛について語るときには、あなたの心が語り、あなたの目が輝くであろう。この場にいるあらゆるキリスト者は、宣教師か詐欺師である。思い起こすがいい。あなたはキリストの御国を伝播しようとしているか、さもなければ、キリストを全然愛していないかのいずれかなのである。イエスを高く評価していながら、イエスについて舌が完全に沈黙していることはありえない。もちろん、私が意味していることは決して、キリストのために洋筆を用いている人々は沈黙しているということではない。彼らは沈黙してはいない。また、他の人々が舌を用いるのを助ける人々、あるいは、他の人々が書いたものを広めている人々は、自分なりの役目を良く果たしている。だが、私はこのことを意味している。――「私はイエスを信じています」、と云いながら、イエスについて大して考えることなく、口によっても、洋筆によっても、小冊子によっても、他の人々にイエスのことを全く告げようとしない人は詐欺師である。あなたは善を施しているか、あなた自身が善ではないかである。もしあなたがキリストを知っているとしたら、あなたは蜜を見いだした人と同じで、他の人々を呼ばわってそれを味わうように云うであろう。あなたはアラム軍が投げ出していった食料を見つけたらい病人たち[II列7:8]のようであって、サマリヤに入っては、飢えた群衆に自分がイエスを見いだしたこと、彼らにもぜひイエスを見いだしてほしいと願っていることを告げるであろう。あなたの世代にあって賢くあるがいい。そして、イエスのことをふさわしいしかたで、ふさわしい時に語るがいい。そのようにして、あらゆる所で、イエスが自分の魂にとって尊いお方である事実を宣言するがいい。

ある説教と追憶[了]

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