警告と励まし
NO. 3111
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---- 1908年9月24日、木曜日発行の説教 説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1874年9月13日、主日夜
「エサウは父に言った。『お父さん。祝福は一つしかないのですか。お父さん。私を、私をも祝福してください。』エサウは声をあげて泣いた」。――創27:38
あなたはエサウとヤコブの物語を知っていよう。エサウはイサクとリベカに生まれた双子の兄息子であった。長子の権利は当然彼のものだったが、彼はそれを軽蔑した[創25:34]。彼は俗悪な者で[ヘブ12:16]、真実に自分のものであった世襲の特権を尊ばなかった。そして実際、それを得られる権利を、一椀の「レンズ豆の煮物」と引き替えに、弟ヤコブに売り渡したのである。それから時は流れて、寄る年波を感じたイサクは、エサウに、長子が受ける権利のある祝福を与えようと決意した。リベカは、その祝福が自分の弟息子に与えられることを望んだ。そこで一計を案じ、このあわれな盲目の父親にヤコブをエサウと思い込ませ、彼がその祝福をだまし取れるようにした。エサウがやって来て、祝福がヤコブに与えられたこと、また、それを無効にはできないことを見いだしたとき、彼は激しく泣き、「もう1つの祝福」を与えてくれるよう父に嘆願した。
この物語全体は、関わり合ったいかなる者にも名誉なものではない。これがイサクの誉れとならないことは確実である。彼は神を真に信じていたが、柔弱な精神の持ち主で、しかるべきしかたで自分の家を治めていなかった。そして、その晩年には、自分の食欲をそそるような美味な料理――彼が、エサウに調理してくれるよう求めたような「おいしい料理」[創27:4]――を渇望していたように思われる。それでイサクは、父として祝福を授ける件について、神のもとに行って導きを求めることをしなかった。むしろ、天来の目的と真っ向から反して、神がお選びにならなかった息子に祝福を与えようと決心した。このように、一家が2つに割れて、夫婦の意見が食い違うのは悪いことである。リベカは自分のお気に入りの息子に祝福を求めており、イサクはもっと荒々しく、もっと無骨な心持ちを好んでいた。私は、リベカをもヤコブをも弁護できない。彼らは、この上もなく悪辣に立ち回って、イサクの祝福を詐欺と虚偽によって得ようとした。私はエサウをも正しいとすることもできない。というのも、彼は、すでに弟に売り払っていたものを、自分のものにとどめておこうとしていたからである。それを、彼はかつては軽蔑して、「長子の権利など」[創25:32]と馬鹿にしたように呼んでいたのである。
1つのことだけは確かである。神の摂理は、彼らの罪にもかかわらず、神のご計画を成し遂げた。神の聖定を成就しようと努めることは、彼らの関知するところでは全くなかったし、私たちの関知するところでも全くない。神は、リベカがちょっかいを出さなかったとしても、事の一切をはるかにうまく取り計らっていたであろう。そして、この愚かな母親が自分の愛し子を家から送り出す必要も、その子が流人のように出て行き、あの貪欲なラバンによって忍ばされたすべてを耐えなくてはならない必要もなかったであろう。それでも神は悪をくつがえし、その意図は成し遂げられた。今も常にそうあり、これからもそうある通りである。
今回、私が特に目指しているのは、失意のエサウがあげた、この、悲痛きわまりない哀願を取り上げて、それを2つの目的のために用いることである。第一に、警告のために。そして、第二に、励ましとしてである。そのときには、それを直接的な文脈から引き離してそうするであろう。
I. 第一に、私はエサウの哀願を《警告として》用いようと思う。
私の愛する兄弟たち。まず、用心してほしいのは、少しでも肉的な何らかのもののために、霊的な恩恵を放棄することである。あるいは、永遠の祝福を現世的な何かと引き替えにしてしまうことである。エサウは狩りから飢え疲れて帰ってきた。ヤコブの一椀の赤い煮物は、彼の食欲を刺激する美味そうな香りをさせていた。そして腹ぺこの彼がそれを請い求めたとき、狡猾な弟はそれを、イサクの長子としての生得の権と引き替えに売った。エサウの罪は、契約の祝福をそのような値段で喜んで売り渡そうとしたことにあった。だが、近頃の多くの人々が自分の魂を売り渡している様子は、エサウが長子の権を売った安っぽさにそっくりである!
ある人々は、彼らのいわゆる「快楽」のために自分の魂を売る。彼らは救われることを願っていると云うが、ほんの束の間の歓楽の方が、あらゆる永遠の喜びや現在の神との交わりよりも、彼らの精神を大きく魅了している。来たるべき時には、彼らも自分たちの致命的な選択を悔やみ、自分のことを途方もない愚者と呼ぶであろう。だが今は、彼らは永遠の祝福のために自分を否定するようなことをすべてあざ笑い、彼らが賢いとみなすのは、最も面白可笑しく時を過ごす人、また、その時のはかない「快楽」に満足する人である。愚かな、その日暮らしの者たち。あなたがたが、ただの、一日のうちに生まれては死んで行く生き物だったなら、どんなに良いことか。夏の夜の虫のように! しかし、不滅の魂が永遠の幸福を現在の喜びと取り替えるというのは、愚の骨頂である。
私たちの知っているある人々は利得のために自分の魂を売る。彼らは不正直な、あるいは、いかがわしいしかたで金儲けをしている。彼らがキリスト者になるには、自分の仕事をやめなくてはならない。そして彼らは正直に、そのようなことをする余裕はないと云う。彼らの店は、日曜に閉じれば「引き合わない」し、彼らの商売は、キリスト教に立った原則で営めば、「上がったり」である! おそらく、それは悪い商売なのであり、その利得は人々の悪徳から出ているのであろう。世の中には、そうした商売がある。願わくは神が私たちすべてを、そうしたものと関わることから救ってくださるように! しかし、多くの人々の場合、銀貨三十枚の輝きの方が神のキリストよりも魅力的なのであり、ユダのように彼らはその銀貨をつかむと、故意に《救い主》を拒絶し、そのようにして霊的な自殺を遂げるのである。
私たちの知っている一部の人々は、自分の友人たちへの愛ゆえに自分の魂を売る。あなたの友たちは、あなたが礼拝所をしばしば訪れ、自分の永遠の永遠の幸福について多少とも懸念を示し、外的な生き方において多少の改善をするからといって、あなたを笑う。そして、その笑いのために、あなたは臆病者のように立ち戻ってしまう。あなたが天国に背を向け、地獄へ下って行こうとするのは、単にあなた自身と同じような罪人たちのからかいやあざけりを免れたいがためなのである! そのようなふるまいは、自分のことを人間と呼んでいるいかなる者にもふさわしくない。そして、そのようなふるまいは、確かに、そのように行動する罪を犯すいかなる者の上にも神の正しい断罪を下らせるであろう。だが、いかに多くの者が一椀の煮物をひっつかんでは、天的な祝福を自分から押しのけてきたことか。それは、どこかの誰かからメソジストだの清教徒だのと呼ばれたくない、また、人格の正しさゆえにあざけられたくない、という一心からなのである!
悲しいかな! ある人々は酔いどれの杯ゆえに自分の魂を売ることさえしてきた。人を酔わせる杯が、その人の得になることは、あるとしても、ごくまれである。たとい、いわゆる節度をもって飲まれても関係ない。その一滴にでも触れるなら、多くの人々は確実に断罪へと導かれる。それは、何千人もの人々を地獄の顎の中に誘い込んできた。彼らは、いったんその魅力に襲われると抵抗できなかった。悲しいかな! あまりにも多くの場合、かつては尊敬すべき、愛に満ちた夫であり父親であった人々が獣となり、怪物になってきた。否。私が見てきたような多くの人々を獣と比べては、獣を中傷することになる。そうした人々は、強い酒によって自らを受肉した悪鬼にしてしまったように思われた。「水晶のように光るいのちの水の川……は神と小羊との御座から出て」[黙22:1]いるが、この火の川は地獄の火焔をその水源としている。だがしかし、選択が人々にゆだねられた場合、彼らの多くはこの燃えたぎる液体の方を、自分のうちにあって「泉となり、永遠のいのちへの水がわき出」[ヨハ4:14]る水よりも好むのである。このように、飲酒ゆえに自分の魂を売る人々の中のある者らは、いま私たちとともにこの場にいる。おゝ、神が彼らに、神の御前における自分たちの本当の姿を見てとるだけの恵みを与えてくださるとしたら、どんなに良いことか。また、その上で彼らが、自分たちをキリスト・イエスにあって新しく造られた者とする恵みを願い求めるようになるとしたら、どんなに良いことか!
他の人々は、情欲ゆえに自分の魂を売ってきた。――どのような情欲か、ここで描写することはできない。慎みの頬が赤面させられるといけない。悲しいかな! 悲しいかな! 私たちの知っているある人々は、彼らの同胞たちからはきわめて高く評価されており、ある者らなど、目に見える《神の教会》に加入することさえしているが、その間ずっと、自分の「愛人」の方をメシヤよりも好んでいるのである。そして、そうし続ける限り確実に、来たるべき日にはそれを悔やむことになるであろう。おゝ、彼らがそれをいま悔やむことのできる恵み、また、彼らのデリラから逃れ出る恵みを有していればどんなに良いことか! この致命的な九頭の大蛇を振り落とすには、人間以上の力が必要である。それは彼らを冷酷に絞り上げ、あまりにも固く彼らを雁字搦めにしている。
次に用心すべきは、二義的な祝福で満足してしまうことである。エサウは、ヤコブが霊的な祝福を得ることに全く頓着しなかったように思われる。彼にそれが得られなかった以上、彼は現世的な祝福で喜んで満足していたように見受けられる。そして、多くの人々は云うのである。「私の商売が繁盛しさえするなら、また、山ほど飲み食いできるものがありさえするなら、また、私が楽しく暮らして、この世で思い通りの生き方ができさえするなら、そのときには、キリスト者たちが喋っているような喜びなど、小指の先ほどもほしくはない。下界で良いものが得られさえするなら、彼らがその素晴らしい国を星々の彼方で得ようが、私の知ったことではない」、と。しかり。愛する方々。私はあなたがそう語っていることを知っている。だが、私はこの場にいる、分別のある人々全員に向かって命ずるが、そのように語ったり、行なったりしてはならない。たといあなたが、自分の魂を売れば、物質的な、あるいは、精神的な楽しみを五十年間満喫できるとしても、その五十年が尽きたとき、あなたの魂はどうなるだろうか? そして、もしあなたがその五十年を七十年に、あるいは、百年に延ばすことができたとしても、その一世紀が終わったとき、あなたの魂はどうなるだろうか? そして、あなたの魂は永遠にどうなるだろうか? 人が好き勝手にどう云おうと、それは永遠である。「この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです」[マタ25:46]。この「刑罰」は、「いのち」と同じ持続期間――永久永劫――なのである。このような取引契約をする甲斐があるだろうか?――たった一椀の赤い煮物を買うために、あなたの不滅の魂という代価を払って良いだろうか? 私はあなたがた全員に命ずる。真理を買うがいい。それを売ってはならない[箴23:23]。自分の宝は、天にたくわえるがいい[マタ6:20]。キリストを得て、平安と赦罪を得て、神に受け入れられ、この《書》があなたに告げるしかたで天国に達するがいい。たといあなたが広々とした肥沃な田畑を手に入れることができたとしても、それはみな後に残して行かなくてはならない。たといあなたが金銀をしこたま蓄えたとしても、それはみなあなたの相続人たちに残して行かなくてはならないし、おそらく彼らは、自分たちが散財できるようにこれほど多くのものを蓄えた馬鹿者を思って大笑いするであろう。このように愚かな行動を取ってはならない。むしろ、主要な祝福を得るように努めるがいい。願わくは神が恵み深く、まさに今このとき、あなたにそれを得させてくださるように!
覚えておくがいい。もしあなたがこの祝福を得ることなしにこの世を去るとしたら、あなたは、エサウのように、涙を流して求めても、心を変えてもらう余地がない[ヘブ12:17]のである。イサクは、自分の云ったことを取り消すことができなかったし、神は決してご自分の仰せになったことを変更なさらない。この国には、また、他の国々にも、万人救済という考えが広まっている。そして、よく聞くがいい。その教理が広まる所ではどこででも、悪徳がその自然で避けがたい結果として広まらざるをえないし、実際に広まるであろう。人々が、究極的な万人の救済を信ずるよう教えられるとき、彼らがたちまち、そして正当に引き出す推論はこうである。「ならば、われわれは、自分の好きなように生きてかまわないのだ。そして、最後にはすべてが丸く収まるだろう」。そして、彼らは実際に自分の好きなように生き始める。だが、すべてが最後に丸く収まることはない! こうした嘘っぱちの教理を教える者どもは、悪魔の使節であり、彼らは神の審きの座でその責任を問われるであろう。私は、そのような偽りをあなたにもたらしはしない。私は、神の《真理の書》が私に告げることをあなたに告げる。すなわち、もしあなたが悔い改めなく、信仰なく、聖潔なく生き、かつ死ぬとしたら、正しい人々が天国で永遠に生きることになるのと同じくらい確実に、あなたは永遠に地獄で暮らすことになるであろう。私は懇願する。もしあなたが自分の不滅の魂を尊んでいるなら、その永遠の利益を危険にさらして、こうした夢のような作り話を頼ってはならない。まさに、これは作り話でしかないからである。死んだときに正しい人であった者は、永遠に正しくあるであろうし、死んだときに悪人であった者は、永遠に悪人であろう。それゆえ、もしあなたが、苦悶と、自らの愚かさ加減に対する怒りとの中で泣いたり、歯ぎしりしたりしたくなければ、私は切に願う。福音によってあなたの前に置かれている望み[ヘブ6:18]へと逃れ来るがいい。そして、ただひとりあなたを救うことのできるお方、イエスをつかむがいい。こうした厳粛な使信を口にしなくてはならないのは、私にとって何の喜びでもない。そして、あなたに警告を与えた以上、私はそれをあなたとともに置いておいて、私の主題の第二の部分に進むことにする。
II. さて、これからは、もっと心楽しい務めになるが、それは《励ましのために》本日の聖句を用いることである。
私が、今のこのとき願っているのは、多くの心から、このエサウの哀願が上がることである。それにより高貴な意味を持たせた上でのことであるが。「お父さん。祝福は一つしかないのですか。お父さん。私を、私をも祝福してください」。そして、最初に、まだ回心していない人たち。いいかげんに、あなたも神によって祝福されるべきではないだろうか? あなたがたはみな、自分に向かってこう云わないだろうか? 「いいかげんに、私も神に祝福されるべきではないだろうか? 私にとって愛しい者たちがあれほどたくさん祝福されてきたのだ。――私の母は天国に行って随分になる。私の妹は教会の一員だ。この会衆席に、私と隣り合って座っている何人かの人々は、すでにイエスを信じている。その祝福はいつ私のもとに来るのだろうか? その驟雨は私の回り中に降っている。私がいつまでも乾いたままであって良いだろうか? 恵みの大潮は私の足のすぐそこまで押し流そうとしているように思える。それは、その恵み深いしぶきを決して私にかけないのだろうか? 私は年をとりつつある。私はここに子どもの頃に連れて来られたのに、今は自分の子どもたちを連れて来ている。だが、私はまだ救われていない。私の友人たちの多くは、私が初めて福音を聞いたとき以来、死んできた。そして、私は彼らの葬式に参列してきた。私は、まずひとりの親戚を、それから別の親類を喪ってきた。もし私が取り去られる者だったとしたら、悲しいかな、悲しいかな。私の魂は、この瞬間、いかにみじめな状態にあるだろう! 私は非常に多くの、平易な福音の説教を聞いてきた。私たちの教役者は、雄弁をひけらかそうとはしない。彼は常に私たちの心に向かって説教することを目指している。私は知っている。彼が私をイエスのもとに導きたいと願っており、もし彼の言葉の、あるいは、他の人の言葉の何かによって私がキリストを自分の《救い主》として信頼することになるとしたら、彼が喜ぶだろうことを。福音が忠実に宣べ伝えられるのを聞くのは決して小さな特権ではない。そして、私は時々、その福音の力を感じることがあったし、悔い改めようと決意したこともあった。だが、その後で私は背を向けてきたのだ。そして、ここで私はまだ救われないままでいる。奇妙なことに、私よりも道徳的に劣っていた者たちの何人かが天国に入っているのに、私は外側にいるままであり、私よりも半分も長く福音を聞いていなかった何人かの人々がそれを受け入れているというのに、私はこれまでそれを拒絶してきたのだ」。私は、そうした調子であなたが自分に語りかけ続けてほしいと思う。この場でも、自宅でもそうしてほしい。ことによると、神はそれをあなたにとって祝福としてくださるかもしれない。特に、もしあなたがそれにこの祈りを加えるならそうである。「おゝ、主よ。いいかげんに私もあなたの祝福を受けて良いはずです。おゝ、父よ。私を、私をも祝福してください! おゝ、愛と恵みと赦しに満ちた神よ。私を通り過ぎず、私をあわれみ、お救いください!」
私があなたに発したい二番目の問いは、こうである。神の恵みの満ち満ちた豊かさは、あなたがいかなる人であろうと、あなたを励まして、神の祝福を求めさせるではないだろうか? エサウは、自分の父親に向かって、「祝福は一つしかないのですか?」、としか云えなかった。そして、まことに、彼の父親には受けるに値する祝福は1つしかなかった。だが、あなたはイサクに語りかけているのではない。エホバに語りかけているのである。そして、あなたがエホバにその祝福を求めて近づくとき、あなたは知るであろう。エホバが、ご自分の望むだけ多くの者たちを祝福することができ、もしエホバがその祝福を差し控えるとしても、決してその分だけ富んでいることにはならず、それをお与えになるとしても、決してその分だけ貧しくおなりにはならないということを。というのも、エホバは無限の神であり、ご自分のもとに来る者たちのために、いかなる必要をも満たすことがおできになるからである。神には無数の息子たち、娘たちがある。なぜあなたがその間にいてならないだろうか? 神は、彼らのひとりひとりに対する祝福をお持ちである。というのも、神の子どもたちについては、真実にこう云えるからである。「もし子どもであるなら、相続人でもあります」[ロマ8:17]。彼ら全員が相続人なのである。では、なぜあなたがその間にいてならないだろうか? たとい三人か四人しか救われないと知っているとしても、私は自分のそのひとりであると知るまでは、安心できないであろう。だが、神がこれほど大人数の家族をお持ちである以上、確かに私は神のもとに行く際に確かな希望をいだいて良いであろう。もし神が私に、こう云う恵みを与えてくださるとしたらそうである。「立って、父のところに行って、こう言おう。『おとうさん。私は……罪を犯しました』」[ルカ15:18]。
神の祝福をあなたに求めさせる励ましとなるのは、神の御子イエス・キリストのうちにある満ち満ちた豊かさについて考えるときである。キリストの功績は無限である。主がご自分のいのちを捨ててくださった羊は、空の星々や浜の砂のように数えきれない。主を信じている者はみな、また、これから主を信じることになる者はみな、そうした贖われた群れに属している。それなら、なぜあなたが彼らの間にいてならないだろうか? 「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。というのも、「キリストは……ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできにな」[ヘブ7:25]るからである。
やはりあなたが神の祝福を求めるよう励まされることができるのは、聖霊の満ち満ちた豊かさと御力によってである。御霊はいかにかたくなな心も柔らかくし、いかに頑固な意志も和らげることがおできになる。いかに罪深い習慣をも、御霊は打ち負かすこてがおできになる。御霊はあなたに、いかに強い誘惑にも抵抗し、いかに熾烈にからみつく罪をも征服できるようにする恵みを与えることがおできになる。永遠にほむべき御霊には全能の力があり、その新生し、聖化する働きにはいかなる限界もない。
よろしい。では、無限の御父と、無限の《贖い主》と、無限の御霊がおられる以上、あなたは、「祝福は一つしかないのですか?」、と云う必要はない。むしろ、あなたの口を大きく開くことができる。神にはそれを満たすことがおできになるからである[詩81:10]。その王家の宴会の糧食は、単にどこかの、われこそは主の選民だと考えている、微々たる小さな党派に属している少数の者たちだけのものではない。私は、信仰によって、巨大な卓子という卓子が、ほふられたばかりの雄牛や太った家畜[マタ22:4]を載せているのが見える。というのも、この大いなる《王》はその御子の結婚の披露宴[マタ22:2]を設けて、多くの者に来るよう命ぜられたからである。私は知っている。天国が少数の、選ばれた一団の聖徒たちのためのものではないことを。というのも、ヨハネは、「あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が」出て来るのを見たからである。彼らは、「白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。彼らは、大声で叫んで言った。『救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある』」[黙7:9-10]。では、なぜあなたが彼らの間にいてならないだろうか? 神の前で膝まずいて、そう自問するがいい。もし私が病気になり、ロンドン中にたったひとりしか医者がいなかったとしたら、私は彼を捜し出そうとするだろうが、彼によって癒されることにあまり希望は持たないであろう。しかし、恵みの病院には、そこにやって来るだろうあらゆる患者のための余地があり、雑役婦たちがその玄関を閉めて、「もうこれ以上、誰も入れません」、と云う必要はないのである。そのようなことは決してありえない。神は「いつくしみを喜ばれる」[ミカ7:18]。キリスト・イエスのうちにある恵みの豊かさは、主のもとに来るあらゆる者を主が決して投げ捨てないほどである[ヨハ6:37]。 ならば、このことは、あなたがたひとりひとりを励まして、イエス・キリストを信じさせ、永遠に生かすべきではないだろうか? というのも、「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」[ヨハ3:36]からである。
さらに、愛する方々。あなたが祝福されないでいる、何かもっともな理由があるだろうか? あなたは本当に神から祝福されたいのだろうか? ある人は云うであろう。「おゝ、私のもろもろの罪が赦されたなら! おゝ、私に新しい心とゆるがない霊があるなら! できるものなら、私は喜んで《救い主》を探したい」。あなたが救い主を探せない理由が何かあるだろうか? 「私は大罪人だったのです」。それは何の理由にもならない。というのも、多くの大罪人がキリストを見いだしてきたからである。では、なぜあなたが見いださないだろうか? 「しかし、私には非常にかたくなな心があるのです」。それは、あなたが救われてならない何の理由にもならない。というのも、多くの非常にかたくなな心が聖霊によって柔らかくされてきたからである。ならば、あなたが無限に価値ある贖いを有するとき、過去の罪の大きさも、現在の堕落性の深さも、無限のあわれみがあなたに対して示されてならない理由にはなりえない。あなたは、自分が救われることができないと書かれている句を1つでも聖書の中で私に示せるだろうか? 私は、悩める魂が時々こう云うのを聞いたことがある。「私は、自分が決して救われないのを知っています」。しかし、いかにしてあなたはそれを知っているのだろうか? 私は、そうではないと信じる。キリストご自身がこう云われた。「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます」[マタ12:31]。そして、古い経綸の下においてさえ、神は預言者イザヤの口を通してこう仰せになった。「さあ、来たれ。論じ合おう。……たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる」[イザ1:18]。あなたは、自分が失われることになると証明するような聖書箇所を、ただの1つも指させない。では、あなたが神ご自身の御口からそう云われるまで、そうなるに違いないなどと信じてはならない。決して想像してはならない。あなたが神の赦し給うあわれみから排除されるなどとは。神ご自身が、あなたがそうだと仰せにならない限り。そして、神はまだ一度もそう仰せにはなっていない。
誰があなたの前に立ちはだかるだろうか? 私は悪魔がそうすることを知っている。だが、そのときキリストは悪魔の《主人》であり、主はあなたが悪魔に打ち勝てるようにすることがおできになる。あなたは、ひとりでも知っているだろうか? あなたが《救い主》のもとに行こうとしているのを見るとき、あなたを押し戻そうとするような福音の教役者を。私はひとりの教役者を知っているが、彼はあなたに喜んで助けの手を差し出し、できるものならあなたをキリストに引き寄せようとするであろう。あなたの敬虔な母上は、あなたが回心したと聞いたら嘆き悲しむだろうか? あなたが救われないようにと祈っている者が(サタン以外に)いるだろうか? 私はそのような種類の祈りを一度も聞いたことがないし、これからも決して聞くことはあるまい。むしろ、日夜、主の選民は神に叫んでいる。「さまよう者を連れ戻し給え! イエスにそのいのちの激しい苦しみのあとを見させ、満足させ給え」、と。
あなたは一度でも私がこう説教するのを聞いたことがあるだろうか? あなたには永遠のいのちをつかむ何の権利もない、と。私は教役者たちによって、非常に心落胆させられる説教が行なわれるのを聞いたことがある。彼らは、あまりにも多くの人々が天国に行こうとするのを恐れているように見受けられた。――あたかも、それが、「レホボテ」だの「イルエ」だのといった、ごく小さな会衆の少数の特別なお気に入りのための「統制選挙区」であるかのようにである。そうしたことは死滅しつつあり、私は、それがこの場では一度も聞かれたことがないことで神をほめたたえる。私たちがあなたに宣べ伝えているのは1つの偉大な福音であり、無代価の福音である。そして、私たちの心は、あなたに親愛の情を寄せ、あなたが救われてほしいと強く願う。
あなたは、神の何らかの属性、あるいは、神の側の何らかの行動を指さして、それが自分に対する悪意に思われると云えるだろうか? あなたは私に、神がその摂理において自分に辛く当たられたと告げるだろうか? だとしたら、それは、神があなたを追い立てて、ご自分のもとに来させようとしておられるのである。神はあなたの種々の偶像を木っ端微塵にされただろうか? だとしたら、それはあなたが唯一、生けるまことの神を礼拝するようになるためである。あなたは極貧だろうか? ことによると、それはあなたに起こりえた最上のことかもしれない。いかに僅かな金持ちたちしか天の国に入ることがないことか! あなたはイエス・キリストのうちに、罪人たちがみもとに来るのを禁ずるようなものを見てとれるだろうか? その御傷を見るがいい。それらはこう云っているだろうか? 「罪人よ。わたしから遠ざかっていよ」、と。茨で冠された主の額を見るがいい。それはこう云っているだろうか? 「わたしは、あなたがわたしのもとに来るのを欲さない」、と。主の、十字架の上で大きく広げられた両腕を見るがいい。それはあなたを追い払っているだろうか? 否。むしろ、それはいかに大きな罪人たちであれ、ご自分の心に達し、平安と赦罪をそこで見いだせるように広げられたままになっていないだろうか? 聖霊について考え、御霊がなしてこられたことについて読むがいい。そして見てとるがいい。果たして、御霊のうちに、あなたがキリストのもとに行くのを望んでおられないことを示している何かがあるかどうかを。何と、御霊は罪人たちをキリストに引き寄せてくださるほむべき《霊》なのである。御霊は、彼らをキリストから追い払いはしない。もし御霊があなたに罪を確信させてくださるなら、それはあなたを絶望させるためではない。――ただ、あなたが自分で自分を救おうとすることを絶望させるだけである。そして、それは良いみわざである。というのも、そうしたことは、あなたに遠くキリストの方を眺めさせ、キリストのうちに永遠のいのちを見いださせるからである。あえて云うが、御父のうちにも、御子のうちにも、御霊のうちにも、真に悔い改めて、信仰を持っている罪人に、「あわれみは私のためのものではない」、と云わせるようなものは何1つない。逆に、《神聖な三位一体》のほむべき《位格》おひとりおひとりには、罪人たちをご自分へと引き寄せる大きな誘引力があるのである。
さて、ここで1つか2つ、あなたが神の道によってやって来るとしたら、あわれみを見いだすだろう理由を示唆させてほしい。そして、神の道とは、あなたがその御子イエス・キリストを信じることである。――あなたが自分の魂を主の永遠の守りに預けることである。もしあなたがそうするなら、あなたが主の御手にあわれみを見いだすことを期待すべき多くの理由がある。
最初に、それは神の民の祈りがかなえられることとなるであろう。確かに神は、ご自分の民の祈りを聞いてくださる。私は、あなたが救われることを多くの人々が祈っているのを知っている。それで、あなたの救いは彼らに、自分たちの祈りが聞かれたことを確証させるであろうし、確かにそれは神が喜んで行なうことであろう。あなたが救われようとして、他の人々の祈りにより頼むのは間違いだろうが、私はあなたに命ずるものである。あなたの救いを見ることで神の聖徒たちは元気づくのだ、という思いによって慰めを得るがいい、と。私たちが持つことのできる最も幸いな教会集会は、多くの回心者たちが前に進み出て、主が自分たちの魂のために何をしてくださったかを告げる際の集会である。さて、主イエス・キリストは、非常に深くご自分の《教会》を愛しておられる。教会は主の花嫁である。そして、良い夫が妻を喜ばせることを愛するように、イエスはご自分の《教会》を喜ばせることを愛される。そして、主の《教会》を何にもまして喜ばせるのは、罪人たちが救われるのを見ることである。ならばそれは、神があなたがたの中の多くの人々をお救いになるだろうと期待して良い、立派な理由の1つだと思う。
それに、もしあなたが救われるなら、あなたが大罪人であろうともっと小粒の罪人であろうと、キリストはひとりの新しいしもべを手に入れることになるであろう。そして、もしあなたが、大きなどす黒い罪人だったとしたら、キリストは、あなたの道の誤りからあなたを回心させるとき、特に役立つしもべを手に入れることになるであろう。あなたが何をしようと、あなたはそれを心から行なう。あなたは今は聖徒たちを力の限り迫害しているが、もしあなたが回心させられたなら、あなたはマグダラのマリヤがしたように、あるいは、タルソのサウロがしたようにキリストを愛するであろう。そして、私たちの《主人》は、あなたがやがてなるであろうようなしもべを有することを喜ばれるのである! それゆえ、あなたは、こう思うことによって励まされると思う。そうしたしもべを主が数多く欲しておられる以上、ことによると、主はあなたをそうした者のひとりとされるかもしれない、と。
またさらに、もしあなたが回心させられるとしたら、それは御使いたちを喜ばせるであろう。もしあなたが新しく生まれ、キリスト・イエスにあって新しく造られた者とされるとしたら、高き天の隅々まで、清新なハレルヤとホサナが鳴り響くであろう。彼らは、天界の鐘楽曲によって、鐘という鐘を鳴りわたらせるであろう。なぜなら、もうひとりの罪人が、かの穴に落ちていくところを救われたからである。神はそれを行なわれると思う。というのも、神は聖なる御使いたちと、全くされた正しい人々の霊との旋律を聞くのを愛されるからである。
それだけでなく、それは、天上においても、下界の人の子らの間においても、神ご自身の栄光のためになるであろう。おゝ、もし主が、ローマ教会の枢機卿や司祭の何人かを回心させ、不信心な大哲学者たちの何人かを回心させ、また、放蕩ないわゆる「貴族」たちの何人かを回心させてくださるとしたら、それだけでいかに高い誉れがイエス・キリストの御名にささげられることであろう! 私はあなたを長々と引き留めることはできないが、ただあなたをこう促さなくてはならない。もしあなたが本当に神の祝福を欲しているなら、――罪が赦され、キリストによって受け入れられることによって欲しているとしたら、――エサウがイサクの祝福を求めたの同じくらい真剣に、主に祝福を求めるがいい、と。エサウがいくら求めても無駄だったが、あなたが無駄に求めることはない。もしあなたがイエス・キリストを信じるなら、あなたは救われるであろう。あなたが何者で、これまで何をしてこようと関係ない。私たちには、そのための神のことばがある。――神のことばは偽ることがありえない。エサウは、悲嘆に暮れて父親に嘆願した。「私を、私をも祝福してください」。彼は、荒々しい粗野な男だったが、悲しげに老父イサクに哀訴してやまなかった。「私を祝福してください。あなたの長子を、あなたのエサウを、あなたのお気に入りの息子を」。それから、とうとう彼は涙に暮れて、自分の懇願に、涙ながらの訴えを添えた。「お父さん。私を、私をも祝福してください」。あなたは、真摯に、また、真剣に求めさえするなら、神の祝福を求めて無駄になることはないであろう。神の祝福がなければ、あなたは「すでにさばかれている」[ヨハ3:18]。神の祝福がなければ、あなたは永遠に審かれるであろう。神の祝福があれば、あなたのためには天国がある。なければ、地獄がある。神の祝福があれば、平安と喜びがある。なければ、陰惨な未来があり、それは暗さをいや濃く深めて行き、ついには永遠の真夜中となる。いま大声で神に向かってその祝福を叫び求めるがいい。そして、あなたが泣いている間、十字架の上のイエスを仰ぎ見るがいい。咎ある人々のためにご自分のいのちを流しておられるイエスを。信仰によって一目イエスを見るだけで魂は永遠に救われる。もう一度、あのピリピの看守に対するパウロの言葉を引用しよう。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも救われます」。私は、これ以上何と云えば良いか知らない。もし私の語りかけてきたのが分別ある人々で、自分の不滅の魂を尊んでおり、神が私の使信を祝福してくださるとしたら、私は十分に語ってきたであろう。もし私の語っている相手が、自分の罪に夢中になっており、霊的に自殺しようと決心しているとしたら、あなたの耳が聞こえなくなるまで、また、私の舌がもはや語れなくなるまで語っても十分には云えないであろう。《永遠の御霊》よ。今この時、神の選民をとらえ、彼らに自分自身の真の姿を見せてください。それから、彼らの《救い主》としてのキリストを見せて、彼らひとりひとりからこの哀願を絞り出してください。「父よ。私を、私をも祝福してください」、と。アーメン。
警告と励まし[了]
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